思考過多の記録
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2001年04月28日(土) チーズはどこへ消えた!?〜思考停止のすすめ〜

 以前この日記で「忙しい日常は深い思考を妨げる」という趣旨の文章を書いたが、そのいい見本とも言うべき書物に出会った。今ベストセラーとなっている「チーズはどこに消えた」がそれである。この本がビジネス書として広く読まれているというのも頷ける。何故ならこの本は、読者に「思考」を強要しない。むしろ読者を「思考停止」状態に陥らせる。そう、これは「何も考えさせない」書物なのだ。
 物語の構造自体は、酷く単純である。迷路の中にある‘チーズステーション’なる場所でチーズを食べて暮らす2匹のネズミと2人の小人。チーズが少なくなり、かつ古くなってきたことに気付いたネズミ達はそこを離れて、嗅覚を頼りに試行錯誤を繰り返しながらついに全く新しいチーズステーションを探し当てる。一方、チーズの量が減っていることに気付かなかった小人達は、ある日そこが空っぽになったのを見て愕然とする。しかし、すぐに行動を起こそうとはせず、嘆いたり事態を分析したりして何日も過ごすが、現状は変わらない。そんなある日、1人の小人はついに意を決してその場所を離れ、新しいチーズステーションを探すために迷路へと旅立つ。そして、途中何度も恐怖に負けそうになったり、挫けそうになりながらも、「自分が新しいチーズを手にいれたところを思い浮かべる」といったイメージトレーニングをするなどして勇気を取り戻して前進し(その途中途中で、彼は迷路の壁に思いついた一言、例えば「恐怖を乗り越えれば楽な気持ちになる」といったフレーズを書き付けていく)、ついにネズミ達のいる新しいチーズステーションに辿り着くのだった。−「変化を恐れず、積極的にそれを受け入れて、《チーズとともに前進しよう》」これがこの物語のメッセージの全てだ。また、ご丁寧にもこの物語を語る人物と、それを聞いた彼の学生時代の同級生達との‘ディスカッション’のシーンが、本編の前後に挿入されている。ここでは様々な境遇の人達、例えば事業に失敗したり、ビジネスがうまくいかなかったり、家庭に問題があったりする人達が、それぞれこの物語から何を学び、どういう態度を取るべきだったのかを語っている。奇妙なことにといおうか当然のようにといおうか、この物語に異を唱える人物は1人もいない。誰もが「この物語を早く知っておけばよかった」と言う。そしてまた、誰もが「自分は変化を恐れて空になったチーズステーションに留まった小人のようだったから失敗したのだ」と気付かされる。そして、これまた全員が「ネズミ達や行動した小人のように、いち早く変化に対応して、行動を起こさなければならない」という結論に達し、生き生きとした気分で分かれる。最後の最後に、この物語の語り手の人物は、「ぜひ、他の人にも話してあげてほしいな」とさえ言うのだ。
 この本に書かれている考え方の全てを僕は否定しない。こんなことはもう言い古されており、あまりのひねりのなさに思わず笑ってしまう。だが、笑えないと思うのは、ここでは「事態を分析したり、嘆いたり、異議を唱えること=変化を受け入れないこと=悪」という図式が貫かれていることだ。この物語で最も賞賛されているのはネズミなのである。何も余計なことは考えず、事態(時代)の変化を感じ取ったら、いち早くそれに適応し、(この本で小人が壁に書いたいくつかのキーフレーズに則って)行動することによってしか成功は約束されないと説くこの本の思想を敷衍すれば、現状を追認し、大勢に順応する生き方こそベストということになる。そこには、何故自分達は迷路の中に閉じこめられているのかとか、自分達からチーズを奪ったものは何かといった問いは存在しない。また、チーズ以外の物を求めてこの迷路から抜け出すとか、迷路という「世界」そのものを変革しようといった思想も排除される。まさに‘考える葦’としての人間性を捨てたネズミのような生き方が推奨されている。言うまでもないことだが、これは為政者・経営者(=支配者)にとってまことに都合のいい人間像である。この本は僕達被支配者・労働者にとっての「愚民の薦め」なのである。
 変化を恐れてはいけない。だが、変化の中身を見極め、時には異を唱えたり別の道を探ったりすることも必要なのではないか。そのためには、立ち止まって考えることも大切である。脚力だけでは生き抜くことができないし、スピードばかり重視していると、物事の表面しか見ることができず、深層や裏の構造をとらえることができない。それが後になって致命傷になることもあるのだ。
 良書といわれるものは、読者がその本の枠を越えて想像や思考を発展させることができる。しかしこの本は、徹頭徹尾思考の機会を奪い、読者を本の枠の中に閉じこめる。何しろ、「迷路」「チーズ」とは何の隠喩なのかを最初に解説してしまったりするのだ。「真理は単純なもので、深く考えるとかえってそれを見失う」とこの本は言いたいのだろう。よしんばそうだとしても、考えることは決して不毛でもマイナスでもない。その意味でも、人々の思考力を衰弱させるようなこの本の思想を、僕は受け入れることはできない。そして、この本が世界の多くの国で(勿論この国でも)ベストセラーになっているという事実に、思考過多の僕は暗澹たる思いがするのだ。おそらくこの本は、変化に怯える多くの人達に安心を与える「麻薬」として受け入れられている。だが、その安心は所詮幻覚である。幻覚に現実を変える力がないのは、今更言うまでもないだろう。


2001年04月18日(水) 「命の大切さ」について

 僕の誕生日だった先週末、1人の小学6年生が母親を刺し殺すという事件があった。詳しいことはまだ分かっていない。メディアに流されている断片的な情報によれば、彼は6年生になった今年、それまで通っていた小学校から転校した。そのことで悩み、包丁で自殺を図ったところ、それを母親に見とがめられ、父親に知られることへの恐れもあってカッとなり、母親と包丁を持ってもみ合ううちに、弾みで刺してしまったということである。所謂「キレる」子供という図式ではない、何と評論していいのかも分からない出来事である。
 この事件の後初めての登校日に、少年の通う筈だった小学校で全校集会が開かれた。取材に応じた校長は、全校生徒の前では事件にはふれずに「命の大切さ」についての話をしたと語っていた。僕は内心「またか」と思った。生徒がキレて誰かを殺傷したり自殺をしたりすると、その学校の校長は判で押したように全校集会で「命の他切さ」について話をする。まるで見えないマニュアルが教育現場に存在しているかのようだ。果たして校長をはじめとする教師達は、この手の話で何の効果を狙っているのだろうか。こんな抽象的テーマでな話をされて、一体そこから何を学べというのだろうか。子供達を動揺させまいとする大人側の配慮(深謀遠慮?)だというのだろうが、僕には「命の大切さ」なるものを本気で信じ込んでいて、それを子供に伝えることで「事件」を未然に防げるという無邪気な信仰によるものか、さもなければ、新たな事件をその学校の生徒が起こした時に、「私達教師は教育的指導をきちんとやっていますよ」ということを示すためのアリバイ作りおよび自己保身のためにしているか、このいずれか以外に考えられない。第一、いくら大人達が隠そうとしても、多分子供達はメディアを通じて事件を知っている。「命の大切さ」などという一般論でお茶を濁すのではなく、具体的な「彼」固有の事例として話し、子供達に考えさせる方が、教育者として余程適切な対応ではないかと思う。もう一つ言えば、「命の大切さ」という文脈でこの事件を取り上げようとすると、自分の命を捨てようとしたばかりか、それを止めようとした母親の命を奪った彼は、必然的に悪者にならざるを得ない。だが、そういう一般論や「道徳的」な価値観で彼及び彼の行動を評価していいのだろうか。そうは思えない。前にも書いたことだが、こういう事件の場合、メディアから発信される情報とは別の隠された事情や背景があることが多い。今回の場合、たとえば家族関係等がそれにあたるだろう。全ての背景が分からない以上、あまり性急に彼を断罪するのは避けるべきである。が「命の大切さ」という価値観で表面的に彼の行動を測り、それに基づいて彼に審判を下してしまいたがっているのは、壊れかかっている道徳律を守ろうとする社会(共同体)側(その代弁者の一人が教師だ)の焦りの現れである。「命の大切さ」などという白々しい話をすればするほど、教師や親と子供達との距離は広がっていくことに大人達は早く気付いた方がいい。
 僕が心配なのは、またぞろ「道徳」や「正義」の仮面を被った無頼のメディア(別名「おじさんジャーナリズム」)が、彼を「親殺し」と責め立てるのではないかということだ。曰く「我が儘」「我慢が足りない」「親不孝」「精神的にひ弱」…。彼を誹謗・中傷するのみならず、その家族の過去までも暴き立て、ついには顔写真を公開し、彼を社会から永久に抹殺しようとするだろう。あまつさえ、この事例を利用して、「非行・犯罪の低年齢化に対応して、刑法や少年法の改正を」「たとえ未成年者でも、凶悪犯罪には厳罰・極刑を」などと主張し出す可能性も高い。社会の秩序を守るためなら、一人の人間がどんなに傷付き、追い詰められ、そして壊れていってもいいのだろうか。一般化することで僕達が見失うことはあまりにも多い。特に今度の場合、「母殺し」をしてしまった彼が、これから長い人生を生きていくことは想像を絶する困難さがあるだろう。彼が一人前の人間になって、自分のしたことを背負って生きていけるようになるまで様々な形で支援していくことが、大人達の本当の役割ではないのだろうか。
 などと偉そうなことを書きながら、もし自分に子供がいたら、僕はこの事件をどう伝え、何を語るのだろうと考えてみた。結論はそう簡単には出そうにもない。


2001年04月17日(火) 裸の王様達

 かの保守系政権政党の総裁にして悪名高きあの総理大臣が辞める運びとなり、総裁選挙が始まっている。数年前に選挙に負けて総理大臣を辞めた筈の人も含めて4人が立候補している。選挙権を持っているわけではないのだが、これで事実上総理大臣が決まってしまう(前から思っているのだが、この仕組み自体何とかならないものだろうか)ので、注目しないわけにはいかない。メディアも連日大きく取り上げていて、各候補がテレビで自分の信条(心情?)や政策らしきものを語っている。さながらその政党のキャンペーンのようだ。
 政策の中身についてはここではふれないことにする。ブラウン管越しに彼等を見ていて感じるのは、その品性のなさである。その姿は、およそ国のリーダーの風格というものからは程遠い。それを一番端的に現しているのが、彼等に概ね共通する、人を見下したような横柄な態度である。ニュース番組にゲスト出演して、まるで人を諭すように自分自身の意見を蕩々と述べ、それに対してキャスターや解説者が少しでも意地の悪い質問でもしようものなら(それはジャーナリストとして当然の態度なのだが)、もう大変である。「私達に対して無礼だ」と言い、「政治のプロでもない者が、分かったような口を利くな」というあからさまな蔑みの態度を見せるかと思えば、居丈高に怒鳴り散らし、「プロデューサーは誰だ!」などというとんでもない発言をオンエアーでしてしまう無神経な候補者もいた。総じて、彼等の発言や態度からは「俺たちはお前達なんかとは違う人間なんだ」という優越感のようなものが滲み出ていた。
 彼等にこういう態度と意識を植え付けたのは何だろうか。言うまでもなく、それは彼等の「国会議員」という特権的な地位である。しかも、彼等の多くは政権政党の派閥のボスクラスだ。現政権で閣僚を務めている人もいるし、党の役員を務めている人もいる。その意味で、彼等は紛れもなく権力者である。吹けば飛ぶような存在である一般国民の僕とは、当たり前だがとても比べものにならない。だが、彼等は一つ重大かつ根本的な勘違いをしている。それは、彼等の権力は天から授かったわけでも何でもなく、一人一人は吹けば飛ぶような存在である一般国民の付託によっているということだ。代議士のことを「選良」ともいう。これは国民(有権者)によって選ばれた人間という意味だ。国民が自分たちの代表を選び、その代表が集まって議会を構成する。当然その議会は国民の意思を代表し、国民の幸福の実現のために行動する。法案を審議し、政策を決め、異なる様々な利害を調整する。そういったことを円滑に行うために、彼等には大きな権力が与えられているのだ。あの政党の総裁候補者をはじめとして、メディアに登場する国会議員を見ていると、どうもこういった議会制民主主義のイロハが分かっていないのではないかと思われる輩が多いように僕には思える。‘選ばれた’ということの意味を完全にはき違えた、まさに勘違い野郎だ。‘一般の人達’と違う特別な地位にいる自分は、何も知らない‘一般の人達’の上に立って国家を支え、発展させるために先頭に立たなければならない。‘一般の人達’は、黙って‘選ばれた’自分達に従っていればいい。何故なら、‘一般の人達’は「何も知らず、何もできない」存在なのだから。こうした意識を持っているように見える。だから彼等は、批判されることを極度に嫌う。また、彼等は‘一般の人達’が自分たちを通さずに直接意思表示をすること(住民投票など)に対して、強い拒否反応を示す。何しろ、‘選ばれた’自分達はいつでも正しいのである。時には自分に与えられ権力を使って、批判者の口を塞ごうとする(「プロデューサーは誰だ!」)。政治家のこうしたメンタリティは、官僚や教師のそれと似ている。彼等が地元の有権者から「先生」と呼ばれていることが、図らずもそれを物語っているようだ。
 自分達こそが「選ばれし者」であると思い込んでいる輩は、本当に質が悪い。だが、「選ばれた」という特権意識と権力をかさに威張り腐っている彼等は、もはや裸の王様だ。何故なら、‘何も知らない’筈の‘一般の人々’は、とっくの昔にカラクリを見抜いている。ニュース番組でキャスターに暴言を吐いたりすることは、国民に向かって自分の醜さを喧伝することと同じだと分かっていないのは、彼等自身だけだ。自分の選挙区の人間だけにいい顔をして、自分の派閥の面倒を見ていれば政治家が務まった時代は、もはや過去のものだ。‘何も知らない一般の人達’には、彼等を「選ばない」という選択肢が残されている。いつか、裸の王様達から有権者は王冠を奪うだろう。政治家に自分達は「王様」などではないと気付かせるには、もはやそれしか手がないようである。


2001年04月13日(金) 形而上の「思考」、形而下の「思考」

 新社会人達が街にデビューしてから10日以上が経過した。そろそろ彼等も各自の仕事の内容や職場の雰囲気をつかみ、各々の日常のリズムを形成しつつあるところであろう。それでも、ラッシュの電車に乗り込む姿などは、まだぎこちなさが残っている。世間のリズムに乗りきれない体が各々に独自のリズムとのずれを感じ取って、ささやかな抵抗を試みているようだ。が、それもあと数週間の話である。間もなく彼等も、何も考えずに人の流れに乗って電車の所定の位置に納まったり、複雑に入り組んだ地下道をこともなげに通り抜けて目的の路線に乗り換え、また最適の出口を選んで地上に出るという芸当をやってのけるようになるだろう。世間に生きるための毎日のリズムを、体は確実に覚え込んでいく。
 こうした日常の繰り返しは、その中に生きる人間から「思考」を奪っていく。決められた時間に会社に行き、一日の活動可能な時間のうちの大部分を仕事のために拘束され、仕事に関することのみを行い、話し、考えることを強要される。所定の時間を経てやっと解放される頃には、体力も気力も大きく減退している状態だ。当然心も体も、リラックスやリフレッシュを欲する。「思考」することは、精神的にも肉体的にもエネルギーを消耗する行為だ。避けたいと思うのが人情である。たとえ思考する意思はあっても、体が拒否することもしばしばだ。
 仕事中心の毎日はまた、その人間の興味・関心をも仕事関係中心にさせる作用がある。働く者一人一人のスキルの高さが求められる昨今のシビアな労働環境がこれを助長する。人々は業務時間が過ぎても、あるいは休日でさえも仕事のことが頭から離れず、関連の本を読んだり、関係する場所に出かけていったりして、情報収集に余念がない。こうして一日の大部分、いやもっといえば1年の大部分を仕事に関してのあれやこれやに費やすことになる。自然と仕事に関すること以外のことは次第に頭から離れていく。歌番組をチェックしなくなり、ドラマを見なくなり、映画や芝居・コンサートに足を運ぶ機会も減る(自分の仕事と関係のある情報が得られそうなものに関しては、話は別だ)。趣味に割く時間と労力の割合は減り、いつしかハウツーものや所謂ビジネス書の類以外の本、例えば小説や詩集を手に取る回数は減る。かくして人は、仕事と生活に流される毎日の中で、根本的なことについて論議したり、深く考えることをだんだんとしなくなっていく。株価の先行きに関する予想や、好きなタレントが誰と週刊誌に載ったか、今晩のおかずは何にすればいいのか、ヒット商品を生む企画は如何に立てるべきか、職場のあの子を食事に誘うにはどうすればいいのか等々、所謂形而下の問題が頭の中で主役の座を占める思考である。
 僕はこうした思考を否定するつもりはない。ただ、「存在するとはどういうことか」といった哲学上の各種の命題をはじめ、およそ日常生活やビジネスには無関係な(そう思われる)形而上的な問題についての「思考」は、決して浮世離れした学者の戯れ言(思考実験)などではないと思うのだ。そういった形而上の思考は、僕達人間の存在を支える、いってみれば不可視の基盤のようなものである。確かにエルマーの最終定理が証明されなくても夕餉の買い物には困らないし、時間とは何かが分からなくても時計は読める。ただ人間は、そういった目に見える世界とは別の次元(形而上)にある問題を発見し、それをつきつめて答えを発見したり、新たな次元への問いを見いだしたりする力を持っている。また、それをもって日常を照射することで、普段当たり前のようにやったり考えたりしていたことの背景にある仕組みを理解することができるのだ。時間とは何かを問うことは、何故僕達が「時間」を必要とする生活を送らなければならないのかについて深く理解することにつながっていく。ひいては、僕達自身のあり方も見えてくる。ただし、それは日常生活に目に見えて役に立つ「情報」ではない。
 仕事や日常生活の中での形而下の思考と哲学的大命題等の形而上の思考は、相補的な関係にあると思う。どちらも人間には必要である。両方をバランスよく持てるようになると、その人は人間としての深みを持つ。それは生きていくことに直接役には立たないかもしれないが、確実に人生を豊かにしてくれる。
 僕は不真面目な社会人なので、できるだけ仕事のことは考えたくない。それなのに、ご多分に漏れず僕の時間も「思考」も圧倒的に仕事にとられてしまっている。できることならもっと深く「思考」する時間がほしい。「下手の考え休むに似たり」という言葉もあるにはあるのだが…。となかなかうまく「思考」がまとまらないのは、仕事で疲れているせいだ、と言っておこう。


2001年04月07日(土) 「真っ白な」私

 入学式、入社式のシーズンである。桜の花が最後の見せ場を作る花吹雪の下、まだ真新しいランドセルや制服、スーツに身を包んだ1年生やフレッシャーズ達がまぶしそうに歩いている。こういう光景を見るたびに、自分にもそういう時代があったのだと思い出し、少しは新たな気持ちに立ち返ったつもりになれる時期でもある。そうした新人達に対する言葉としてよく言われることが、「真っ白な画用紙に絵を描くように、」新しい環境で頑張ってほしいとか、自分の可能性をのばしてほしいとかいうことだ。確かに、小希望に満ちあふれたフレーズである。説明するまでもないが、「真っ白な画用紙」はまだ何ものにも染まらない真っ新な状態を表し、そこから始めるということはまさにゼロからのスタートである。これには何でもできそうなイメージがある。それまでに嫌なことがあったり挫折を経験したりしていても、そういうことはなかったことになって、恰も生まれ変わった新しい自分が誕生したかのようだ。しかし、人間は本当に「真っ白」な状態になることができるのだろうか。
 ある大学の発達心理学の先生の研究によれば、こどもがある内容を学習する場合、その知識に対して「白紙」の状態でいることはまずないという。例えば小学校の1年生は、算数の一番最初の段階で数を数えることや数の構成や、順序数などを習う。こうしたことに対して子供は全く知識を持っていないという前提で、教科書やカリキュラムは作られている。当然教師もその前提で授業をする。しかし実際はどうだろう。小学校入学間もない子供の殆どが、学校に入学する以前から既に日常生活や家庭での教育の中で、これらのことに対して何らかの知識を持っている状態であろう。他の教科についても同じことが言える。つまり、子供は「白紙」の状態で授業を受けるわけではない。故に、既存に知識量やその子の理解力や情報処理能力、問題解決能力の特性等の因子によって、授業で与えられる知識の吸収力、理解度は違ってくる。
 この現象は何も学校に限った話ではない。人生のどんな段階に置いても、人間は決して「白紙」にはなれないのである。この世に生まれた時点で、誰もが「真っ白な」状態ではない。喩えて言えば、人は皆全く違った材質の紙を持っているといったところだろうか。ある人は和紙、ある人はコート紙といった具合である。薄い青色の紙もあれば、予め模様が入った紙もあるだろう。ある紙はインクの乗りが悪いかも知れないし、別の紙は鉛筆で書くのに適しているだろう。その上に同じ絵を描いたとしても、当然結果は変わってくる。その人が生まれながらに持っていたり、育ってきた環境等で形成された能力や特性は、どこまでも付いてまわる。自分の望んだ方向には、必ずしも適正はないかも知れない。自分の希望で選んだ道では、うまく自分という紙に絵が描けないかも知れないのだ。
 しかし、絶望することはない。ある病気を発症する原因となる遺伝子を持っている人間が100パーセントその病気を発症するとは限らないのは、その人の生活習慣や環境等の外的要因による。つまり、人はいつでも持っているものやそこまでに獲得したものを土台にしなければならないとしても、それが全てとはいえないのである。環境が変わるということは、その人に働きかける因子が変化するということで、そうなるとそれまで全く知らなかった自分の特性が発見されたり、潜在的な能力が引き出されたりする可能性が出てくるのだ。新しいことに挑戦することで、それが結果的に失敗しても、能力のキャパシティを増やすことができるかも知れない。たとえ「真っ白」な状態ではなくても、全く別の色に染めたり、材質を変化させられるのだ。実際にはそれもその人の持っている能力の範囲内のことかも知れないけれど、それまで目一杯だと思いこんでいたことが、実は能力の半分も発揮していなかったと分かることは、その人がさらにキャパシティを広げるきっかけとなるだろう。
 「真っ白」になれない自分を嘆く必要はない。自分の紙の色や材質の特性をよく知り、どんな絵を描けくのが自分にとって最適なのかを見極める目を持てればよい。なおかつ、それにとどまらずに、自分のまだ知らない能力や適正を発見するために新しいことへのチャレンジも忘れないようにしたいものである。放っておくと、年齢とともにその力は失われてくるものだ。最近の僕は、ともすれば自分の能力の限界に失望させられ、そこで立ち止まることが多い。まだまだ自分にも発揮されていない能力がある筈だと思いたい。が、そういうことを強調し始めるのは年を取った証拠だということも、僕はよく知っている。


2001年04月06日(金) 子育ては誰のため

 働きながら子育てをするというライフスタイルは、今や特別なものでも何でもなく、少なくとも都市部に限って言えば専業主婦に変わってスタンダードの地位を獲得しているといっていい。では、そうしたワーキングマザーが働きやすいような環境は十分に整備されているのかと言えば、全体としてはまだまだお寒い状況である。勿論、一昔、ふた昔前に比べれば育児休業法の制定や、託児施設を備えた企業も登場する等、格段に改善されてはいる。しかし、企業ごとの格差は大きいし、制度があっても職場の雰囲気等から利用できなかったりする場合もある。この国のワーキングマザーは苦労を強いられているのだ。
 僕の勤める会社には、産前産後休暇、育児休暇と育児時短の制度がある。経営側が「進んでいる」と胸を張る制度であり、どこの部署でも比較的取得しやすい雰囲気なので、在職中に妊娠・出産した人の殆どが利用している。だが、この制度にも不備がある。それは、期間の問題だ。会社が定めた期間が終わると、子供の病気や定期検診や保護者会といった子供絡みの事で早退や遅刻・欠勤をした場合、それは自分の有給休暇を使わなければならなくなるのだ。1年間にもらえる有休の日数には限りがあり、それを越えた場合は普通の欠勤扱いになってしまう。当然、その分は月々の給料とボーナスから差し引かれることになる。僕の身近にもそういう人がいる。「その分仕事をしていないんだから当然だ」という考え方もあるだろう。しかし、彼女は何も自分個人の都合で仕事をしていないわけではないのだ。育児関係と自己都合とが同じ扱いというのはちょっと酷だと思う。
 ワーキングマザーを巡るこのような問題は、「子育て」という活動を企業や社会がどう考えているのかをよく表している。その昔、僕の母親が進歩的な思想の本を出版することで有名なある出版社で、当時としては珍しいワーキングマザーをしていた頃、子供絡みで仕事を休んだりすると「自分の子供のために仕事に穴をあけた」という目で見られていたという。勿論、育児休暇や育児時短はなく、自分の有休を使ったり月給から差し引かれたりするのは当然だと思われていたのだ。時代は移ってもこうした考え方は根強い。子育ては「個人」、もしくはその「夫婦」固有の問題だと思われているのである。そうなると、いきおい女性にしわよせが来る。育児に協力的な夫も増えつつあるけれども、例えば子供絡みの事情で仕事を休むことに対して、本人も周囲も抵抗感がより強くなるのは男性の方である。女性(母親)個人が家事や育児に悩み、苦しみ、時には実家の母親までも巻き込んだ形で負担を強いられるのだ。そのあげくに、仕事に十分に専念できないからという理由で職場では疎まれ、賃金までカットされる。それがまた精神的な負担になってのしかかる。これでは、働きながら子供を育てることは女性にとってはただの「負担」でしかない。子育てと仕事の両方をぎりぎりの状態でこなし、自分が体調を崩して仕事を休んだりしている僕の職場のワーキングマザー達を見ていると、一体誰のためにそこまで苦労して「子育て」をしているのだろうと思ってしまう。仕事をまともに続けたいと思う女性が、シングルでいることや、結婚しても子供を産まないという選択をするのも無理はないのである。だからといって、女性が仕事をしながら子育てをするのは不自然なあり方だという考え方にはまったく賛成できないし、おそらくそれは実情とはかけ離れている。
 確かに子供は夫婦の間に生まれた存在で、その人達「個人」のものかも知れない。だが、庭の花を育てるのと違って、子供は将来この社会を(そして世界を)担う存在だ。その意味で、子供はまさに「社会」の子供でもある。だとすれば、「子育て」は社会的な行為でもあるわけで、それを行いやすいように手厚い支援をすることは、社会に課せられた義務であるともいえる。そこで仕事を持った人間とそうでない人間を差別することがあってはならない。子育てをしてる個人の善意に頼っている現状は間違いであり、社会全体(具体的には行政や企業)の怠慢である。少子化を嘆く暇があったら、こういうところにもっとお金と知恵を注ぎ込むべきだ。
 僕の職場のワーキングマザーの方が子供絡みで休めば、周囲(勿論僕も含めて)の人間がその穴埋めをしなければならず、負担になるのは事実だ。だが、それはやむを得ないことである。彼女達の育てた子供に、いつか僕達は支えられる時が来るのだから。彼女達の努力には頭が下がる。と同時に、それをおそらく陰で支える夫達の努力と苦労はいかばかりかとも思ってしまう。それが特別なことに見えるあたりが、この国はまだまだ子育てする者に優しくないなと思われる。そういう僕は、きっと子育てを支援する能力に欠けている。してみると、僕が独身なのは理に適っていると寂しく納得するしかない。


2001年04月01日(日) 「文化」を売る

 出版不況だそうである。平たくいえば、本が売れない。確かにベストセラーは出ているが、1年間に出版される書籍の総点数を考えればそれはほんの一握りにすぎない。何故本が売れないのかについては色々な分析がある。ネットの普及やコミックやゲームの隆盛等がその要因に挙げられている。が、より根本的なことは、読むに値するような本が作られていないということであろう。端的に言えばコンテンツ(中身)の問題である。もちろん、中身のない本が作られ続けていることにも理由はあるわけで、そこを改善できないと問題の解決にはならない。
 その昔(といってもそれ程前のことではないと思うが)、本がまだ人々への思想や知識の伝達の主要な手段だった時代、当然本によって得られる思想や知識や情報が社会の主流を占めていたし、文化の主役の一つでもあった。その帰結として、書籍は出せば息長く売れていた。例えば文豪といわれる小説家の作品や偉大な思想家の著書で述べられていることは、時代を経てもその価値は不変であり、長く読み継がれていくものであった。時代の流れのスピードは今よりずっと遅かったし、何よりも書かれている文章が時代の移ろいに耐えうる内容だったのだ。それは、時代の表層の流れとは全く無関係に、いつの世にも変わらない普遍性を持った事柄についてかかれていたものもあろう。また、一見その時代を活写しているが故に古びてしまうかに思われても、実はその底流に不変のものを含んでいて、時代を超えて読むものに響く文章もある。こういった本は長く読まれ、その結果長期間にわたって出版社に利益をもたらす。出版社の側にすれば、次の本の企画を考えるための期間が比較的長く与えられるということで、それだけ洗練された企画の本ができる可能性が高くなるということだ。こうして内容を充実させればまたその本は長く読まれることになるという具合に、「読む価値のある本」が市場に出回る仕組みができていたわけである。発行点数自体を多くする必要のないこのシステムの下では、出版社は企業としての規模を大きくする必要はなく、企業を維持するために必要とされる売り上げも現在に比べれば少額だったであろう。その意味でも、出版社は営利目的の企業というよりも、活字文化の担い手という側面の方が大きかったのだ。
 ところが、時代は移り、いつしか書籍というものの文化的な位置付けが変わってきた。本は「情報」を得るためのもの、またその時代の人間をターゲットにしたエンターテインメントのひとつということになった。それまで主に雑誌が担ってきた役割が、一般の書籍の主要な役割になったのである。その結果、いわゆるハードカバーはもとより新書、文庫の類に至るまで、中身の情報としての新鮮さ、読みやすさ(軽さ)が求められることになった。商品としても文化的な価値の上でも、一つ一つの本の寿命は確実に縮まり、広告費や流通経費の増大等もあって利益率は下落した。こうなると、多くの新刊書を短い間隔で発行し続けなければ商売が成り立たなくなる。多くの本を発行するために企業規模を拡大すれば、会社存続のためにはなおさら多くの利益が必要になる。発行点数はますます増える。中身の質が低下するのは当然の帰結である。企画を練る期間は短くなり、書き手は消耗させられ、消費される。ある本がブームになれば、二匹目のドジョウを狙っ本が次々と出版される。今や本は消費財としての側面をもった「商品」になってしまっているのだ。「すぐに売れる」本が求められ、「長く読まれる」ことは二の次にされている傾向が強い。
 こうしたことは何も本に限らず、「芸術作品」(=文化)が商業レベルと接する部分で多く見られる現象だ。例えばテレビドラマは主演の役者(タレント)の顔ぶれが真っ先に決まり、それに合わせて企画を立て、脚本を作るのが当たり前になっているという。「芸術作品」を作る手順としては全く逆転していることはいうまでもあるまい。そこにあるのはまず視聴率、すなわち「売れるか売れないか」という商品価値第一主義の考え方である。
 勿論、「芸術作品」といえども多くの人間の目に触れることは大切だし、何よりもその作者は霞を食って生きることはできない。「文化」を売るのは容易なことではない。しかし、「文化」を消耗品にしてしまったのは、受け手である僕たちの責任も大きいのだ。もう少し落ち着いて物事を考え、じっくりと「中身」を吟味する目を養いたいものである。「文化」は作り手と受け手が共に育てていくものなのだから。


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