アナウンサー日記
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2003年10月28日(火) 映画「キル・ビル」を見た。

 国際的オタク監督として名高い(笑)タランティーノ監督の最新作である。タイトルは直訳すると「ビルを殺せ!」「ビルを殺して!」といったところか。すべてを喪った女の、一大復讐劇だ。


 
 この映画、賛否両論が激しい。


 とにかく人がバンバン切られるわ撃たれるわ殺されるわする(R15)し、登場人物紹介テロップがガンガン出てくるし、登場人物のひとりは子供時代がフルアニメーションで描かれるし・・・なんというか、これまでの既成概念が全く通用しない映画。
 また、物語の半分以上が日本国内で進行するが、その日本の描かれ方がハチャメチャ。「沖縄にこんな刀鍛冶いねえよ!」とか「日本刀抱えたまま飛行機に乗れないってば!」とか、突込みどころ満載。しかし「この映画は日本を誤解している」と決め付けるのはもちろんナンセンスで、つまりタランティーノ監督が「日本が本当にこういう国だったらいいのに!」という理想像を映画化した、ということなのだろう。


 これらを気持ちよいと感じるか、最後まで違和感がつきまとうかで、評価がまっぷたつに分かれるのだと思う。


 ワタシは・・・面白かったデス。


 

 特に女子高生殺し屋「ゴーゴー夕張(ゆうばり)」の美しさに痺れた。


 早く完結編が見たい。


2003年10月25日(土) 男子アナ研究所!

 この企画も、去年の「男子アナ天国」に続いて2年目。


 男子アナふたりの地味な舞台に集客が心配されたが(爆)、会場のチトセピアホールには、満員のお客様に来ていただいた。


 今さらですけど(この日記は11月23日に書いているデス)・・・来てくださった皆様、そして公演の機会を与えてくださった手羽屋の大将、本当にありがとうございました。


 大学時代は、演劇人を志す周囲の友人達の情熱に圧倒され、「俺にはとても役者は無理だなー」と思っていたのですが、ひさしぶりに舞台に立つと何だかとても楽しくて。
 大学時代に経験した舞台の世界が、確実に今の自分の仕事のベースになっているし、逆に今の仕事から舞台に活かせるコトが色々あるのだなあとも思いました。

 それはシアワセなことだ、とシミジミ思ったのです。


 来年、3回目があるかどうかは分かりませんが・・・もし機会があれば、もちょっと色々味わいながら準備を進めたいなあ。今年は忙しすぎました。


 ⇒ていうか・・・その忙しさ、継続中。超充実の日々デスヨ。トホホのホ。


2003年10月02日(木) 講演会「イスラムと現代の戦争」に行ってきた3

 アメリカはイラク戦争で使った劣化ウラン弾による「放射能汚染」を否定している。しかしこれまで常岡さんが歩いた他の紛争地域では、子供たちのガンや白血病が激増していたケースが目立つ。いずれも劣化ウラン弾が使用された地域だったということだ。
 そうした地域の人々に常岡さんが長崎出身であることを告げると、「原爆の長崎か!だから君はここに取材しに来たんだな」と皆一様に納得し、仲間として迎えてくれるのだそうだ。
 だが「現代の被爆地」の彼らは、「核兵器をこの世から無くそう!」とは決して言わない。「俺たちも核を持っていれば攻撃されずに済むのに」と考えている。
 常岡さんは紛争地域に取材に出かけるようになってから、自分が長崎出身であることを強く意識するようになったと言う。

 

 「注目されている戦争は早く終わる」というのが、常岡さんの考え方だ。

 常岡さんいわく、イラク戦争が早く終結したのは「石油の利権がからみ世界中が注目したから」だ。その一方で、ここ数年で350万人(!)が死んでいるコンゴや、悲惨な紛争が続いているチェチェンの現状はほとんど報じられないし、したがって戦争も終わらない。

 だから常岡さんは「誰も行かない紛争の地に自分が行って、報道するしかない」と思っている。




 今回、会場の長崎ブリックホール国際会議場には大勢の聴衆が訪れた。年齢層は高校生から年配の方まで様々。あらかじめ用意された300席では足りず、実行委員会の皆さんが追加の椅子を出す盛況ぶりであった。実を言うと集客には内心心配していたのだが、まったくの杞憂だった。「自分達とは直接関係のない他国の戦争」に関心を持つ人が長崎市に300人以上もいるのを見て、ホッとする思いだった。



 常岡さんは今年中に、紛争の続くチェチェンへ再び向かうそうだ。どうかまた、無事で帰ってきてほしい。


 NBCを卒業した常岡さんも頑張っている。自分も頑張らなければ・・・としみじみと考えさせられた秋の夜であった。
 
 
 


2003年10月01日(水) 講演会「イスラムと現代の戦争」に行ってきた2

 講演の内容は、意外性に満ちていた。


 この春、常岡さんが学生時代から10年ぶりに訪れたイラクは、道路などのインフラがきちんと整備された美しいたたずまい。「砂漠の中のまずしい街」だなんてとんでもない。教育費も医療費もタダで、バザールには新鮮な食材が並んで活気があり、準先進国と言っても良い豊かさを見せていた。
 もちろん、ひとたびフセインの悪口を口にすればどこからともなく秘密警察が飛んでくる恐怖心は市民の間にあるようだが・・・一般的なイメージである『フセインの圧政に苦しむ悲惨な市民生活』は、少なくとも表面上は全く見受けられなかった。

 フセイン政権下の治安は「極めて良好」。イラク戦争が始まってからも、すぐにモスク(寺院)が『略奪をやめよう』とお触れを出したこともあって、治安はおおむね保たれていた。略奪にあったのは、大半がフセイン政権の旧バース党の建物であった。それも、暴徒と化して集団で襲うような恐ろしい雰囲気ではなく、バース党員がいなくなったのを見計らって、残った事務用品や電気器具を「ご近所ともらいにいく」ような気軽な略奪(?)である。
 むしろ戦争後も、バグダットはニューヨークやロンドンよりはよっぽど安全で、「夜中でも市街地をひとりで歩けるくらい平穏」だったそうだ。
 戦争終結宣言以降もアメリカ兵の死傷者が増え続けている報道とはかけはなれている気がするが・・・要するに、イラクで危険なのは「軍服を着ているアメリカ人」だけで、それ以外の外国人に対しては、イラク人はとてもフレンドリーなのだそうである。

 イラク国民はひとりひとりが「自分のポリシー」を持っていて、一枚岩ではない。つまり「イラク国民の全員がフセイン政権を憎んでいた」わけではなく、実は応援していた人も少なからずいた。「誰もがフセインからアメリカに助けてもらいたかった」わけではないし、戦火に巻き込まれて家族を失った人もいる。だから戦争後にアメリカ兵をねらう連中が出てくるのも当然、ということらしい。
 もっとも、そもそもコーラン(聖典)は他者を支配したり傷つけることを禁じており、イラク国民の大半は「戦争反対」の平和思想の持ち主なのだ。


 一方で、イラク人には「計算高い一面」もある。

 今回の戦争では1万5000人が死んだが、それでもイラク国民は、「10年前の国連の経済措置で15万人の餓死者が出たのに比べれば、今回の方がはるかにマシ」と受け止めている。
 どうやら「アメリカは嫌いだけど確かにフセインはいなくなったし、長い目で見れば今回の戦争をきっかけに、イラクは発展するんじゃないか」と考えている節もある。このあたり、さすが『アラビアンナイトの民のしたたかさ』を感じさせる。西洋的なものさしでは図れない民族性というものがあるのだなあ、とつくづく感心させられた。(つづく)
 


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