アナウンサー日記
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2001年05月31日(木) 生きることと、死ぬこと 5 似顔絵

 友人の妹、亮子さんの生前の写真を、彼女の佐世保西高時代の教え子からメールで送ってもらった。それがとてもステキな笑顔だったので、もっとたくさん写真が集まってから描くつもりだった似顔絵を、勢いで描いた。


 午前3時から描き始め・・・おかげさまで、いま朝の5時である。今日のオンエアが思いやられるのであった(^_^;)

 なにしろ勢いだけで描いたので、ちょっぴりタッチが雑だ。写真はアップじゃなかったので、顔は記憶を頼りに描いたし、ポーズも少し変えた。ちょっとデッサンも怪しい気がする。

 でも、描いてる間はとても楽しかった。なんだか、故人がすぐ隣にいるような感覚も、時折あった。おしゃべりを楽しみながら描いてるような。実を言うと、今もその感覚は続いている。彼女はしきりに、自分の教え子たちの自慢をしているようだ。


 ヒトは死んでも、やっぱり意思は残るのだ、とふと思った。


 もうちょっと亮子ちゃんと話をしたいので、また描こうと思う。でも、今日はもう寝よう(笑)。


2001年05月24日(木) 英語の話・・・その12(英検準1級を受ける?)

 題名に「?」が付いてるのは・・・来月の「英検準1級試験」を受けられなくなってしまったからだ。


 その理由は、ズバリ「受験願書を申し込むのを忘れてた」から(←バカ)。申し込みの締め切りが23日だったことに、今日24日に初めて気づいたワタシです・・・。

 思えば、いかにもワタシらしいミスというか。これまで、英検の受験申し込みはいつもギリギリに行い、「速達」がワタシの相棒であった。本来、試験と名の付くものは大嫌いなので、受験を嫌がる気持ちがワタシの行動を鈍らせていたわけだが、今回はついに申し込みそのものを忘れていた。というか、締切日を25日だと勘違いしていた。正確には、受験料の納付期限が23日までで、受験願書の送付締め切りが25日必着であった。


 ともあれ、いかに優秀な郵便局員でも、過去に向けて速達を送ることは不可能である。


 今回、村山仁志は、戦わずして「英検準1級」に敗れてしまったのだ。あらためて英検準1級の手ごわさを実感させられた(←?)、初夏の夜であった。



 村山君の快進撃を期待していた一部のファン(?)の皆さん、ごめんなさい。決戦は秋まで持越しであります。うーん、受ければ受かってたかも知れないのに(笑)。おお、何とでも言えるぞ!!


 ええい英検、首を洗って待っていやがれ! 今度は忘れないからな!・・・トホホ。


2001年05月20日(日) 生きることと、死ぬこと 4 宿題

 私の友人の妹・亮子さんは、自分が最後に顧問を務めた高校の放送部に、宿題を遺した。



 「私の死を題材にテレビ番組を作り、6月の放送コンクールに出品しなさい」



 亮子さんは、今時の高校生たちがあまりにも命を粗末にしていること、命を簡単に考えていることに心を痛めていた。自分と言う教師の死を真正面から見つめることで、生徒たちに命の大切さを考えてほしいという思いだったのだ。


 
 きょう、私にとっても母校であるその高校を訪ねた。実は私も(幽霊部員ではあったが)放送部OBである。私が「亮子先生」を小学生の頃から知っている話をすると、20人ばかりの現役部員たちは皆一様に驚いた。早速、ビデオ製作の相談を受ける。

 「単なる追悼番組にしたくないんです。先生の死を通して、私たちが伝えたいことを表現するには、どうしたらいいんでしょうか」

 「追悼番組にするのは嫌だというけれど・・・先生がいつ発病し、病気をどう受け止め、どう戦い、戦いの中で教師をつづけながら君たちになにを教え、そしてどのように死んでいったのか・・・まずそれをきちんと描かなければ、逆に君たちが本当に言いたいことも伝えられないと思う」

 質問をした女生徒は、頷くとテキパキと機材をかつぎ何処かへ立ち去った。ビデオの制作期間は、わずか一ヶ月。高校生にとっては、ハードスケジュールだろう。だが、きっと素晴らしい作品を作ってくれると思う。



 放送部の部室の壁に、亮子さんのスナップ写真が一枚飾られていた。「かぶっている茶色の帽子は、先生が自分で編んだそうです」と部員が教えてくれた。「料理とか編物とか好きだったもんなあ」と私が言うと、「先生は、コンクールの時期になると、ひとりひとりに巾着のお守り袋を作ってくれたんです。中にはメッセージと、ノド飴が一個入ってました・・・」と、指先で巾着袋の形をつくって見せた。



 病床で、最後まで放送部の生徒たちを気にしていた亮子さんは、亡くなってなお、生徒たちを指導しているのだ。


2001年05月19日(土) 生きることと、死ぬこと 3 佐賀招待ラグビーから

 毎年恒例の佐賀招待ラグビーが、今夜佐賀市の総合運動公園で行われ、観戦してきた。



 高校の部は、昨年度の冬の花園大会優勝、あのスクールウォーズで有名な京都・伏見工業と、花園準優勝の佐賀工業の試合。


 社会人の部は、九州電力と佐賀工業OBチームが対戦。佐賀工業OBチームはメンバー26人中、実に17人が日本代表経験者というドリームチーム。

 そのメンバーの中に、Y君の名前があった。

 Y君は、佐賀工業全国準優勝の立役者のひとりだ。佐賀工業では、一昨年10月、練習中にレギュラーメンバーが体調を崩して亡くなる不幸があった。それまでなかなか全国ベスト8の壁を破れなかった佐賀工業だったが、その翌冬ベスト4入り。そして後輩のY君たちが「僕たちが先輩を1月7日の決勝戦に連れて行くんだ」と奮起し、今年の冬、それは実現した。

 だが、この春の卒業を前に高校日本代表に選ばれたY君は、代表メンバーが集まった練習で首に大怪我をし、指一本動かせない体になってしまった。彼は現在も病院のベッドに横たわり、人口呼吸器をつけている。とても試合に出場できる状況ではない。


 試合は、高校生は伏見、社会人はY君を欠いた佐賀工OBが勝った。


 試合後、佐賀工の小城監督は「この試合のビデオを、病院のあいつに見せるんです」と言った。「病院の先生が、なにか刺激を与えれば・・・って、おっしゃったんです。なにか刺激を・・・」そう言いながら、両目からポロポロこぼれる涙を不器用に指でぬぐった。

 私が「先生、奇跡は起こります。実際に再起した話だって聞くじゃないですか」と言うと、小城監督は頷きながら「もし奇跡が起こらなくても、あと5年か10年経てば、医学の進歩で治るかもしれない。10年経ったって、まだ彼は28才ですよ。まだラグビーができるんです!だから・・・」あとは言葉にならなかった。


 当日、観客に配られたパンフレットの表紙は、楕円球を抱えたY君のバスト・ショットだ。多分、全国大会のひとコマだろう。大会宣伝用ポスターにも、彼の写真が使われた。佐賀市総合運動公園のバックスタンドには「Y君ガンバレ」と書かれた横断幕が張られ、大型液晶スクリーンにも、何度もY君を励ます言葉が踊った。



 頑張れ、Y君。みんなが、君がフィールドで再びプレイする日を待っている。

 


2001年05月16日(水) 生きることと、死ぬこと 2 前夜式

 友人の妹、亮子さんの「前夜式」・・・仏教でいうところの「通夜」に参列してきた。



 会場となったのは、長崎市の繁華街にあるプロテスタントの教会だ。教会の外観から見ても、カトリックに比べプロテスタントは質素なイメージだが、会場内には、色とりどりの花が華やかに飾り付けられ、花々の清々しい香で満たされていた。
 
 午後7時からの前夜式には、彼女の親戚、友人、同僚の教師、教え子たちなど、およそ350人もの弔問客が訪れ、会場の中に全員が入ることが出来なかった。もちろん、弔問客の数だけで故人の遺徳を推し量ることなど出来はしない。だが教会内では、故人の早過ぎる死を惜しんですすり泣く声があちこちで聞こえた。あらためて彼女が多くの人々に愛されていることを知った。



 式では、弔問客に「前夜式次第」が配られ、全員で牧師とともに祈りのことばを捧げ、オルガンの調べにのせて賛美歌を歌った。


 牧師は説教の中で、今月初めに彼女の病室を訪れたときの話をした。牧師が「あなたの思いを神様にぶつけなさい。それは、恨みのことばでもいい」と言うと、彼女は「神様に恨みなどありません」と応えたこと、「あなたのために祈りましょう」と言うと、「祈るなら、私の家族の為に祈ってください」と微笑んだことを、「どちらが牧師だか分かりません」と、時折声を詰まらせながら話した。


 50分あまりの式の最後に、遺族を代表してお父さんが挨拶をされた。彼女は、14日の午後8時20分に病院で息を引き取ったこと。彼女の「がん」は、24才のときに見つかったこと。外科医である自分の診断では、手術をしても、もって2・3年だったこと。それなのに娘は6年以上も病気と戦い、生きてくれたこと。

 そしてお父さんは、娘の自慢をした。娘は・・・おっとりとした、人を傷つけることのできない優しい性格で、周りの人々を勇気付けてあげられる、そんなおだやかな、私たち夫婦には出来すぎた娘だったこと。娘は自分の病気のことを知っても「神様の計画だから」と静かに受け止めていたし、私たちも、娘は神様の御許へ帰るのだということを信じたこと・・・。お父さんの手もとは震え、涙もこぼれたが、力強いしっかりとした声だった。父親らしい愛情に溢れた、立派な挨拶だった。


 
 式の後、彼女とお別れをした。


 棺の中で花に囲まれていた彼女は、うっすらと微笑んでいた。話しかけると目を開きそうな安らかさだ。不謹慎かも知れないが、やっぱり美人だと思った。私が長く佐賀にいたこともあり、会うのは5年ぶりくらいだ。棺の中の彼女は少女時代とは違い、髪をキャリアウーマンらしく肩に届かないくらいに揃えている。

 彼女の兄は、「この髪の毛は、本物なんだ」と言った。「抗がん剤で全部ぬけちゃったんだけど、もう効果が無くなって、半年前から止めたんだ。そうしたら、これだけ伸びた」


 私が「よかったじゃないか、髪の毛」と言うと、彼は一瞬ことばを失い、「そうだな」と短く言った。




 実のところ・・・私はまだ、彼女が、「亮子ちゃん」が亡くなったという実感が湧かない。



 過ぎていく日々の中でいつか私の記憶も薄れ、彼女の死をうつろに受け止めていくようになるのだろうか。
 


 だが今は、初めてあった時からずっとまぶしい存在だった彼女の思い出を、いつまでも鮮烈な記憶として留めておきたいと心から願う。亮子ちゃん、君は確かに、まだ生きている。


2001年05月15日(火) 生きることと、死ぬこと 1 連絡

 今朝7時頃、中学時代からの友人から「妹が死んだ」と連絡があった。


 彼は淡々とした口調で、友引が絡むので一日置かなければ葬儀屋が動いてくれないこと、仏教で言う所の通夜と告別式は、それぞれ明日の午後7時と明後日の午後1時から、長崎市内のプロテスタント教会で執り行うこと・・・そして教会の電話番号や住所、教会には駐車場が無いことなどを、事務的に私に告げた。私が「悪いが告別式は仕事で行けない」と言うと、彼は「誰だって平日は仕事だから仕方がないさ」と軽く答え、お互いに簡単な別れの挨拶をして電話を切った。


 彼女が、ひどく重い病気におかされていることが分かったのは、もう5年前、いや6年前のことだったか。以来、外科医である彼女のお父さんが主治医となり、精神科医である彼女の兄をはじめ、ご家族の皆さん全員で彼女の心を支えた。

 大切な人が毎日「死」と向かいあっているのを間近に見守ることが、どんなにつらいことか・・・やはり、経験したことがあるひとにしか分からないと思う。しかも、病気の進行を一番把握している主治医は、彼女のお父さん自身だったのだ。

 「たった一日でも長く、一緒にいたい」という祈りの日々が、何年も続き・・・だが、私の知る限り、私の友人はほとんど弱音を吐かなかった。いつもいつも妹のために出来ることを前向きに考え、実行し、そればかりかこれまで以上に仕事やボランティア活動、趣味の児童合唱団指導に力を注いだ。そうした場所での彼はまさに快活そのもので、誰も彼の妹が毎日死と戦っているとは気づかなかっただろう。私は友人として、彼の態度と、彼を支えた奥さんを誇りに思う。



 彼の妹は、親友の妹だからという贔屓目がなくとも、素晴らしい女性だった。


 初めて会ったのは、私と彼が中学1年生のときだ。彼の家に初めて遊びに行ったときに、まだ小学生の彼女がいた。肩までのストレートヘアに目鼻立ちがハーフのように整っていて、「長崎にこんな綺麗なコがいるんだ」とびっくりした。もの怖じせずによく笑うことと、東京出身のお母さんの影響か、標準語で話をしたこと、友人のことを「おにいちゃま」と呼んでいたこと。まるで、つい最近のことのようだ。
 

 やがて大人の女性になった彼女は、すらっとした長身で、文句無く美人で、しかも合唱団でソロが張れる美声で、それでいて料理とか裁縫も好きで、実はちょっぴり気が強いけど、一歩下がって気配りができるひと・・・と、完璧そのものだった。さぞかし彼女に片思いをしていた男や、恐れ多くて思いを打ち明けられなかった男がたくさんいたことだろうと思う。

 医師の家系にあって彼女自身も、精神科医の兄や、やはり医学部に進んだ弟君に劣らず明晰な頭脳の持ち主だったが、結局彼女は地元長崎で教育者の道を選んだ。高校教諭として、放送部の指導に熱心に取り組み、教え子たちは全国大会で大活躍した。
 


 美しく、利発で、それを鼻にかけないおだやかさ。誰からも好かれ尊敬される彼女が、何故二十代半ばにして、病魔に襲われなければならなかったのか・・・。


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