アナウンサー日記
DiaryINDEXpastwill


2001年04月29日(日) オランダ村歌謡ショーのチェウニさん

 きょうは、長崎オランダ村・歌謡ショーの司会であった。


 ゲストは、デビュー曲「トーキョー・トワイライト」(メロディを聞けば、たいていの方がご存知だと思います・・・)がスマッシュヒットを飛ばした韓国出身、チェウニさんである。


 このチェウニさんが、とてもチャーミングな方なのだ。


 韓国での名声を捨て、3年前に日本に渡ってきたチェウニさんだが、ネックは「日本語を全然喋れない」ことであった。常に辞書片手に猛勉強のチェウニさんであったが、日本語特有の「同音異義語」や「微妙に発音が異なることば」に悩まされ続けたそうだ。


 ある日、東京の地下鉄のラッシュに巻き込まれたチェウニさん、降りたい駅で電車の出口に近づくことができず、「降ろして」と言おうとしたつもりが「コロシテ」と叫び、車内をシーンとさせたという・・・。


2001年04月22日(日) 英語の話・・・その11(父の話最終回)

 アメリカに渡って8ヶ月。航空管制官のアメリカ国家試験は、筆記と実技で行われた。



 筆記試験はもちろん英語で、アメリカ人と同じ問題。実技は、管制塔で無線マイクを握って実際に飛行機を誘導する。試験ではベテランが飛行するとは言え、誤った誘導はパイロットを危険にさらすことになる。失敗は許されない。


 まだコンピューターなどない、アナログの時代・・・。最終的に頼りになるのは、自分の「目」と「勘」だけだ。


 管制官は、まずパイロットからの無線連絡を頼りに飛行機の位置を推測。手元のメモにすばやく鉛筆を走らせ、正しい飛行ルートを計算。風速計や気圧計などで気象状況を調べてルートに修正を加え、近くに別の航空機はいないか、高い建物は無いか、再度安全性を確認した上でパイロットに伝える。計算に時間がかかればかかるほど、飛行機は現在の位置よりも進んでしまう。時間との戦いだ。そのプレッシャーと緊張感を楽しめなければ、とても管制官はつとまらない。


 父は、「飛んでくる飛行機は味方の飛行機で、こっちを撃たないんだから」と考えると、気が楽になったという。戦時中、鹿屋航空隊を襲ったアメリカ軍機は、父の隣りで小銃を構えていた友人の腕を、機銃掃射で引きちぎった。だが、もう戦争は終わった。あれからまだ10年しかたっていないのに、自分はかつての敵軍に航空管制技術の勉強をさせてもらっている・・・その運命の不思議。
 

 
 試験に平常心で取り組むことができた父は、航空管制官試験に合格した。筆記も実技も、ほぼパーフェクトだった。とくに実技は「まるでアメリカ人のように聞き取りやすいシャープな発声と、落ち着いた見事な誘導ぶりだった」と試験官をうならせた。



 この時期前後してアメリカ各地で管制官試験に臨んだ、日本人留学生20数名全員が、試験に合格したという。戦後間もない1950年代、留学生たちは決死の覚悟で太平洋を渡っていた。合格するまで日本に帰らない覚悟で、文字通り寝食を忘れて勉強したのだ。父は「それで受からないはずがない」と思い、自分を含めた仲間たちの合格を誇らしく感じた。そして「戦争では負けたが、個人の能力ではアメリカ人に絶対に負けたくない」とも考え・・・いまだ焼け野原にバラックが残る祖国日本に思いをはせた。



 残り数ヶ月のアメリカでの研修生活の中で、父は中古の赤いオープンカーを手にいれた。父にとって「オープンカー」は、自由と豊かさの国・アメリカの象徴だった。



 ・・・父はハイウエイを気ままに飛ばしながら、「いつか日本が復興して豊かな国になったら、俺はきっと赤いオープンカーを買おう」と、思った。

(この章終わり)
 


2001年04月16日(月) 英語の話・・・その10(父の話4)

 父がアメリカに渡って3ヶ月が過ぎた。



 映画漬けの父の耳が、ネイティブ・スピーカーの発音に馴染みはじめた。父は、英語では単語ひとつひとつの発音を正確にすること以上に、複数の単語が集まって一文になったときの、「文全体の抑揚」が大事だと気づいた。また、英語は日本語と違って、単語の組み合わせによって「省略されたり、混ざったりする音」があることにも気づいた。

 その観点から、あらためて映画を見、ラジオを聞いて発音をチェックし、アメリカ人のクラスメートに話し掛けた。するとだんだん以前よりも話が通じるようになった。映画で覚えたフレーズを使うと、映画談義に華が咲いた。話が弾んだ。


 それからは早かった。父の頭の中の「辞書一冊分の英語の知識」と「現実の英語社会」が、有機的に結びつき始めた。


 様々な現実が見え始めた。

 
 驚くべきことに1950年代当時、多くのアメリカ人が日本人に対し「畏敬の念」を抱いていた。曰く、「偉大な合衆国に対し極東の小国が互角に戦えたのは、日本人が優秀でガッツがある証拠だ」ということだった。英語が通じるようになると、父に話し掛けてくるアメリカ人のほとんどが友好的な態度だった。

 父は身長163センチと小柄だったが、ある日、「ジュードーを見せてほしい」という大柄な青年をあっさり投げ飛ばして周囲を驚かせた。父が「カミカゼ(特攻隊)」の生き残りで剣道の有段者であることが分かると、父を「サムライ」と呼び、尊敬の眼差しで見るアメリカ人もいた。
 

 一方、「日本は密かに逆襲の機会を狙っている。日本人にアメリカの技術を教えすぎると、今度こそアメリカは日本に戦争で負ける」と真面目な論調で書き立てる新聞もあり、父を苦笑させた。 



 8ヶ月がすぎた。


 いよいよ航空管制官、アメリカ国家試験の日が来たのだ。(つづく)


2001年04月12日(木) 父の話・番外編

 今回の「父の話」シリーズについて姉と電話で話していて、記憶が食い違うエピソードがあった。以下、姉と弟の会話である。


「あの映画ってさー、お父さんは実写映画って言ってなかったっけ?(姉)」
「いや、忍者マンガだって言ってたよ(弟)」
「確か化け猫モノで、猫の変身シーンをアメリカ人が怖がってたって(姉)」
「え?忍法でガマに化けるシーンが怖いんじゃなかったっけ?(弟)」
「そうだっけ(姉)」
「それに、マンガ映画だって絶対言ってたけどなあ(弟)」
「でもお父さんって、特撮もアニメも、全部マンガって言ってたじゃん(姉)」
「・・・確かに。お父さんにとっては、子供向けと思われるものは全部マンガだったよなあ・・・」


 というわけで、真相は闇の中・・・(笑)。

 まあ、何しろ「戦前の日本製子供向け映画」が、でっかいアメリカ人青年を震え上がらせたのは事実と言うことで、最大公約数的にはあってる!?

 
 「父の話」については、すべてワタシの聞き覚えなので、中には父が脚色して(かっこつけて)ワタシに話したエピソードもあるだろうし、ワタシの記憶違いや事実誤認もあるかもしれない。が、その辺りはご容赦いただきたい。本人ももう亡くなってることだし(爆)。


 ワタシとしては、ちょっとくらい父にかっこつけさせてもいいかなあと思っている。今年7回忌を迎える父が、今、インターネットの世界で生き生きと蘇るのは、息子として、なんだか痛快である(←自分で書いててよー言うわ)。


 「父の話」シリーズは、現代の口述筆記なのかもしれない。


2001年04月11日(水) 英語の話・・・その9(父の話3)

 航空管制官養成所で父を待っていたのは、またもや失望と落胆だった。


 アメリカ人講師が授業で何を話しているのか、父には全く聞き取ることができなかった。想像を超える現地アメリカ人の喋りの速さと、発音の不明瞭さだった。日本で出会った何人かのアメリカ人たちは、日本人向けに「ゆっくりやさしく」喋っていたのだと悟らされた。


 父は途方に暮れた。

 英和辞典を食べながら覚えた血のにじむような苦労の中で、確かに英語の知識は増えた。だが実際にアメリカに来てみると、相手が何を言っているのか聞き取れないし、こちらから話しかけても、発音が悪いらしく言いたいことが伝わらない。

 航空管制官は、無線を使ってパイロットと交信するのが仕事だ。交信はどこの国でも英語で行われる。目の前の人間が何を言ってるのかさえ分からないのに、無線で微妙なニュアンスを伝えられるはずがない・・・。


 授業はすべて、アメリカ人生徒のペースに合わせて行われる。ほんの数人の日本人留学生のために、そのペースを落とすことはあり得ない。父を始めとする日本人留学生たちは、講師が何を言っているのか分からない中、必死で黒板の文字を書き写す作業に没頭した。もっともその黒板の文字ですら、例外なく講師は悪筆で、何が書いてあるのか分からないこともしばしばだった。そんな日々が2・3ヶ月も続いた。


 一方、アメリカでの文化的生活は、日本人留学生たちにとって目くるめく毎日だった。父は、映画に夢中になった。アメリカ映画は、カラー時代に突入していた。役者のセリフは聞き取れないが、日本では見たこともない大画面に展開される総天然色の華やかな世界、そして美しい音楽に酔っているだけでも素晴らしかった。料金も安かったので、毎日映画館を2軒3軒とはしごして見た。そうするうちに、だんだん役者が何を言っているのか分かるようになってきた。


 ある日、ひとりのアメリカ人生徒が父を呼び止めた。
 「ミスタームラヤマは映画が好きみたいだけど・・・とても怖い映画があるんだ。外国製の映画なんだが、なんだか意味不明の内容で。よかったら一緒に見に行かないか」
 ふたりはさっそく映画館へと向かった。

 真っ暗闇のスクリーンに映し出された映像に、父は「あっ」と声をあげた。
 それは、戦前の日本で作られたアニメーションの無声映画だった。忍者が主人公のコミカルな短編映画である。なんだか遠く離れた異国で、昔なじみに出会ったような気がした。
 「な、ミスタームラヤマ、なんだかおそろしい映像だろ?」
 隣りを見ると、父を連れてきた巨体のアメリカ人が、うつむいてガタガタ震えていた。それがおかしくて父が声をあげて笑うと、
 「キミはなぜこんなわけの分からない怖い映像を見て笑ってられるんだ?」
 と憤然とした。
 アメリカ人には、日本製白黒アニメのドジな忍者映画が、恐ろしげな儀式が展開される、どこか呪術めいた映像に見えるらしかった。


 まだ、ニンジャが世界に知られていない時代のエピソードである。(つづく)

 
 


2001年04月10日(火) 英語の話・・・その8(父の話2)

 留学候補生たちは広島の江田島に集められ、およそ2ヶ月の間、英会話を初めとした、留学に向けての特訓が行われた。昭和20年代後半のことである。


 父はその授業にさっぱりついていくことが出来なかった。


 戦争で中学に通っていない父は、英文法の基礎がすっぽり欠け落ちている。戦後のどさくさに紛れ夜間高校に入学したときは、アルファベットの読み方がなんとか分かるくらいのものだったらしい。
 前述の夜間高校時代のアチーブメントでの好成績は、英語以外の教科で挽回することで達成していた。高校・短大の英語の定期試験については、教科書を丸暗記することで何とか乗り切った。それは、例えば「Smoking is not allowed on most international flights.」と言うような英文を、「文章」ではなく「ひとつの絵」として覚える、強引な暗記の仕方だった。文字の配列とか文法を理解していないので、まったく応用が利かない。

 だが、アメリカの航空管制官養成スクールで授業を受けるためには、英語が話せなければ、それこそ話にならない。父は、英和辞書を「A」から順に丸暗記する誓いを立て、覚えたページを1枚ずつ破って、忘れないようにそのページを食べた。


 あっという間に準備期間は終わり、父の留学先はシアトルに決まった。30人ほどの仲間と、練習船に乗って太平洋を渡った。行き先は同じアメリカだが、留学先は数箇所に分かれている。この航海の様子は、8ミリフィルムに収められており、6年前に父が亡くなった直後、私達家族もその映像をみることができた。ほんの一瞬フレームに映った甲板の父は、日焼けした引き締まった顔に笑顔を見せ、どこか誇らしげな表情に見えた。
 
 
 1950年代のアメリカ人の生活は、父にとってまるで夢の世界だった。


 アメリカはすでにモータリゼーションを迎えており、車は一家に1台。それどころか、各家庭には、テレビ、冷蔵庫、自動食器洗い機・・・と日本ではなかなかお目にかかれない電化製品が、当然のように置いてあった。また、その家の一軒一軒が、日本の長屋よりも大きい。だだっぴろい庭はきれいに刈られたグリーンの芝生で、大抵、大型犬を飼っていた。


 「日本は、こんな連中と戦争をしたのか・・・」


 アメリカの想像を絶する豊かさに、愕然とした瞬間だ。(つづく)


2001年04月09日(月) 英語の話・・・その7(父の話1)

 亡くなったワタシの父は、英語が堪能だった。


 昭和4年生まれの父は、終戦間際、数えの16才で特攻隊に志願し、鹿児島の鹿屋航空隊で飛行訓練をしながら「特攻の順番待ち」をしているうちに終戦を迎えた。

 戦後の混乱の中で、働いて妹たちの面倒を見ながら、なんとか地元の長崎外国語短期大学を卒業した父は、海上自衛隊に入隊した。


 当時発足したばかりの陸海空・各自衛隊では、まずもって「諸外国の航空管制システムに追いつくこと」が急務とされていた。新入隊員を中心に「英語が得意な者」を選抜してアメリカに留学させるプロジェクトが発足し、英文科出身の父もメンバーに選出された。


 留学命令を聞いたとき、父は愕然として頭を抱えた、と言う。


 実は・・・父は、英文科出身の割に英語が苦手であった。

 父はもともと、語学系ではなく法律系の4年制大学を志望していたのだが、入試直前に「医師の誤診」でただの風邪を伝染病扱いされ、隔離病棟に収容されてしまったのだ。働きながら夜間高校に通っていた父だが、長崎県のアチーブメントで1番になったこともあり、「試験を受けさえすればどんな大学でも受かる」自信はあったそうだ。
 だが、数日後に誤診と分かり、退院が許されたときには、もう大学入試シーズンは終わっていた。

 運良く父は、地元の長崎外国語短大に、推薦という形で入学することができた。父は「学問の場が与えられたこと」に素直に感謝し、熱心に勉強した。

 それでも、もともと好きではない英語にはやはり食指が動かず、もっぱら法律の研究に没頭したという。卒業する頃には「どんな大学を出た人間にも、法律の知識なら負けない」といえるほど、頑張ったそうである。かくして、英語が苦手な英文科卒業生が生まれた。(つづく)


2001年04月05日(木) 風邪をひいた

 のどに来た。
 黙っててもヒリヒリと痛い。
 月曜から始まり、なかなか治る気配はない。救いは、オンエア上はあまり影響が出ていないこと(よ!プロっ!!・・・むなしい)
 ワタシもアナウンサー歴10年目。「のどに良い」と言われる方法は、西洋医学から東洋医学、民間療法に到るまで古今東西これまでなんでも試してみた。
 で、一番いい薬は・・・「寝るに限る」ということ。
 「日和見感染」という言葉がある。弱り目に祟り目・・・体が疲れ、抵抗力がないときにヒトは病気になる。とにかく栄養だけは取って体を安静にし、ウイルスなどに対する抵抗力を蓄えるのが一番、という結論なのだ。
 ちなみに現在、4月6日の午前2時半・・・夜中にふと目が覚め、久しぶりの日記を書いている。
 ああ風呂に入りたい、髪洗いたい・・・もう3日も我慢している。トホホのホ。


メインページへ→ |HomePage

My追加