2002年12月24日(火) |
単純な思考、単純なタイトル |
俺は考えつづけることを自らに課す。そうしないと死んでいるのも同然だ。 人間であることの証明なんだ。でもそんな証明に何の意味がある?何かあると信じたい。つまり、ないのだろう。意味のないこと、価値のないこと、役に立たないこと、それをして、生きている。考えることを自分に強制しなくては、ただ一日が過ぎるだけ。それは生きている?死んでいる?でもそれはきっと、自然に考え、自然に生きている人から見れば、滑稽だろう。
活字にすれば、何かが失われる。僕が考えていることの輪郭のぎざぎざしたものを取り除き、デジタル化。削ぎ落とし、推敲、反復。それはきっと、もとのパルスからは変わってしまっている。純粋な思考をそのままこっちの世界に持ってくることは今のテクノロジィでは不可能だ。過程で、何かが失われ、もう拾えない。足元に広がるいろんな石に紛れてしまうから。運良く見つけられたとしても、それは昨日落とした石とは、きっと微妙に変わってしまっているだろう。そしてその石を掴む僕の手のひらも、きっと微妙に変わってしまっているだろう。僕は今まで、いくつの石を拾い、捨てたのか。いや数は問題ではない。どんな石を捨てただろう。もう拾えない。
さてさて。なんだか嫌だ。何が嫌かというと、なんだろうか。きっと上の文章だろう。オリジナルって何。俺はオリジナルを作ったことは多分ない。今までしてきたことといえば、誰かの足跡を辿ってきたことのみ。コピー、コピー、コピー!なんだか俺は、ものすごくつまらない人間になってしまったのではないだろうか?自分で考えている、と錯覚しているだけで、本当は既存の道のりを繰り返し繰り返し!しているんじゃないのかな?!ああ混乱する。どこかでみた言い回し、聞いたせりふ、慣れた考え方。今こうして書いているコトだってきっと誰かの真似だ。真似真似真似まね!だいたい、日本語だって俺が作ったものじゃない。与えられた、道具だ。いま俺が日本語を使って考えているのは、餓鬼がお母さんにはさみと紙を渡されてハイちょきちょきしてなにかつくりましょーねなにができるかなーなんていわれてちょきちょき紙切るのと同じだ。餓鬼か!自分で考えてるなんていってるやつの99%は言語の制約から抜けてない。というか、自分の思考が言語によって制限されていることに気づいていないだろう馬鹿どもが!気づけ!自覚しろ!俺がね!
自分はこういう人間だという規定、または錯覚、だから何。
転んだら起きる
転んだら起きる
転んだら起きる
ああいまは
転んでいるのか
起きているのか
正気なのか
狂気なのか
わからない
君なら気づく
矛盾
『ライオンは今日、明日生きるため、戦う
私は自分が愛した人を忘れよう』
きっと答えられないその疑問には
瞬間だけのアンサがある
優しい落ち葉、音、
オレンジ色の空間、少し深緑を含んで、
目を閉じ、でもまだ紅見て、セーター、
開けばそれはもう無い、また来る、
今は、窓に灰白い空、全天、
黒い木から伸びる腕、静止、
鳥も足早、羽だけど、
じっと寒い。
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