Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2004年01月31日(土) |
『an image / LEE KONITZ WITH STRINGS』・「現在のジャズ」 |
多忙。奔走150キロ。 仕事の途中でめっづらしくカップスターを食べてたら、そいえば初代CMは麻丘めぐみだったことを思い出して、疲れがとれた。なんでや。
午前5時40分、せんたくものを干して、と。
今朝のとっちらかった部屋を満たす『an image / LEE KONITZ WITH STRINGS』 は「Round Midnight」から始まっている。 真夜中の欲望をかわすように。
このCD、2枚組で、以下の作品も収録されている。 『FREE FORMS / RALPH BURNS』 『LEE KONITZ MEETS JIMMY GIUFFRE』 『PIECE FOR CLARINET AND STRINGS ORCHESTRA/MOBILES / jimmy giuffre』
子どもの頃は古い映画やイージーリスニングをよく耳にしていたものだから、20代のころに聴いたこのあたりの作品は、耳に馴染み過ぎて、どこがええねん?つまんねージャズー!という状態だった。 午前3時半すぎに銀座を通ってきた。 これを聴いていると、これらの作品が録音された50年代の音楽のモードといったものが、さっき通り過ぎた銀座の風景を着色しているようなカンジに聴こえてくる。夢見るように聴こえてくる。
(えんぴつランキング音楽部門、今月14位で今週18位なのですか?読んでくださってる方がいるというのはうれしいもんですねー。どやってアクセスと投票を増やそー!ミスチルで特集組もうかな、ECMの特集?わが子を迷わせるジャズ指南?それより、画像のアップの方法がわからん、田中麗奈の朝日新聞の500円クオカードを進呈するので誰かおしえてー)
(追記)
▼「現在のジャズ」 テザート・ムーンの『エクスピリエンシング・トスカ』を聴いていたら、来月のミュージック・マガジンの特集が「現代のジャズ」であることに気付いた。シカゴ・アンダーグラウンド・デュオ&トリオは、ちょっとわかんない、んだけど、注目のジョー・ヘンリー(!)の記事予告、は、すごい楽しみ。
だいたいマガジン2月号のカラーページで扱われたジャズ盤というのは“テザート・ムーン”と“渋さ知らず”と“藤井郷子”の新譜3枚だぜ。って、少なくとも5年前からトーゼンな奴等ではあるのに。
まずい。ジョンマクラフリン17枚組ライブ箱セットを一瞬ネットで買いそうになった。 (Frevoとかあって、ジスモンチ入ってるんじゃないかなあ) ■ジョンマクラフリン17枚組ライブ箱セット
2004年01月30日(金) |
『Universal Syncopation / Miroslav Vitous』(ECM 1863)はジャズではない |
午前2時50分の町屋斎場を過ごす。
深夜、車で、京島、向島、白鬚橋、泪橋、と、通って。 火葬場と葬儀会場がセットになった町屋斎場のような施設では、通夜の夜はろうそくと線香は消さなくてはならないしくみになっている。 昔なら、通夜といえば夜通し家族や親せき、近所のおばちゃんおじちゃんが線香を絶やさずにいたのだけれど。 だから町屋斎場は、毎晩10人のご遺体だけが明日の火葬を待ってひっそりと通夜を過ごしているのである。
そこで過ごすのは、なんと言うか、精神の無音状態が得られるので、葬儀屋に勤務して以来、ことあるごとに訪れる。
時おり、あまりにリアルな霊体が歩いているので、背中にいる霊が強くないひとはあまり行かないように。
いまだ、カミュのことばが残響する。
「真に豊かな〈音楽〉、われわれを感動させ、またわれわれが本当に味わうことができる唯一の音楽とは、どんな理性や分析も追放する〈夢〉の〈音楽〉であるだろう」――アルベール・カミュ
ましてや、理性もたりなく分析能力もないひとは、書いてはいけないのでしょうが、ねえ、カミュさま。 だけども。音楽を聴いて何かを書くことを、届かない無謀なラブレターとして、必死になって書くことを、やめたくはない。 だからカミュさま、おねがい。
▼ ユニバーサル・シンコペーション/ミロスラフ・ヴィトウス 『Universal Syncopation / Miroslav Vitous』(ECM 1863) 2003 Jan Garbarek : soprano and tenor saxophones / Chick Corea : piano / John McLaughlin : guitar / Miroslav Vitous : double-bass / Jack DeJohnette : drums
ヤン・ガルバレクの演奏10点。そのほかは採点不能。
それがぼくの結論だ。ぼくのジャズ耳の身体感覚で言えば、ウイントン・マルサリスの90年代以降の作品と並んでいるような作品だ。
ガルバレクのサックスが奏でている内容は、情緒に堕せず、高揚する旋律を抑制する(飼い慣らす)相反する力と力の緊張感が、どの微細な音のはじっこにまで行き渡っていて、ガルバレクのパートだけを取り出しても独立した作品としてまったく鑑賞に値するものとなっている。
しかし、このアンサンブルとしての演奏総体を、ぼくはさっぱりわからなかった。だから「ガルバレクはすごいけど、なんかよくわからない」としか言えなかった。あとからきくと、「ディジョネット、チック、ブラス・アンサンブル、マクラフリン、ガルバレク、の順にそれぞれ別に録音して、あとでビトウスがアルバムに編集したしたもの」だというではないか。おれ、そういうのジャズだとは思わない。そういうふうに録音する必然がある音楽、ポピュラー音楽とか映画音楽とか、は、当然アリなのだけど。
悪いけど、これはジャズの音楽として、ぼくは認めない。考え方が古いと言われようが、いくら聴いても感応しないものを、認めるわけにはいかない。このメンバーでここ10年ちゃんとジャズやっているひといる?ガルバレクの現ユニットはCDで聴く限り、ジャズじゃないし。 このCDに対してSJ誌のレヴューで村井康司さんは「ぼくにとっては、デジョネットが軽快に叩いていればECMのイメージなんだ」というような書き方をしていたけども、さすがにうまい指摘だと思った。ディジョネットが叩いてさえいれば、そこ相応のジャズになってはしまうんだ。
これは架空の音楽だったのだ。録音の経緯を聞いて、ぼくは「へー、そうなんだー」とだけ答えた。
たとえばエヴァン・パーカーのエレクトロアコースティックアンサンブルがスティーブ・レイクによって編集されて出てくる、というのはオッケーなわけ。だけど、これはリアルタイムの演奏というのを偽装しているわけでしょう? ・・・ふううむ。今夜の4回目を聴いているけど、やっぱり感想の変更はないです。
このCDを、どのように素晴らしいと感じるか、は、わかる。ヴィトウスのベース音のキャラの立ち方も、ボティを指でコトトトッと鳴らすのも含めて、決まっているし。しかし、コリアのピアノは、なんとも奇矯なキャラだね、主体のハッキリしないカメレオンみたいだし。マクラフリンは、やる気ないなら来なきゃいいじゃん。デジョネットは、ほんと、あんたはいつも元気にいい仕事をしています、ぼくもかくありたいです。
このCDを最初に聴いた時のことはよく憶えている。発売日を指折り数えるECM新譜なんて、何年ぶりだったろう。 午前10時過ぎに御茶の水のディスク・ユニオンでほかのジャズCD3枚と一緒に購入して、京葉道路を亀戸に向けて車を走らせた。早く静かなところで鳴らしたかった。水上バスが通る河川横に車をとめた。なんかやたら晴れた気持ちのいい正午で。泣きべそをかいたような気持ちになりながら、遅刻をした生徒のようにあわてて仕事に向かって車を出した。
2004年01月29日(木) |
アーチー・シェップ69年の『Black Gipsy』・IAIレーベル3種・現代音楽の11人・ヤンガルバレクに出会おう |
音楽には不意打ちのように出会う。 たぶんそのように音楽はひとの耳に忍び込むのだと思う。
まあ、ゆうべもね、NHKラジオで浪曲を聴いて、はやくもその味わい加減に耳定めなんぞをする、ことまで、しちゃってます。 朝になると、子ども番組で狂言の野村萬斎が(!)朗々と声と身振りを描いていて、彼、ホンモノだね。 これを見ていると、21世紀の子どもたちはほんとうに期待できると思う。
音楽には不意打ちのように出会う。 ・・・いや、出会おう!、これが鉄則だ。
ゆうべ、出かけたジャズ喫茶では、アーチー・シェップの69年の作品『Black Gipsy / Archie Shepp with Chicago Beau』 Archie Shepp (ts) Sonny Murray (ds) Clifford Thornton (tp) Chicago Beauchamp (vocals) Julio Finn ( harmonica) Noah Howard (as) Leroy Jenkins (viola) Dave Burrell (piano) Earl Freeman (b) が、かかった。 まるで火を吹くような、黒人の?エネルギーが、暴徒と化したかのようなジャズ、だった。スイングなんて生易しいものではなく、痙攣と罵倒と叫びがうねりをあげていた。
客は8人くらい、ふたりのオッサン、たぶん50代、が、酔いにまかせて“踊って!”いるし。たぶん学生運動していた、いい世代だー。 ぼくもスピーカーの音にあてられてボーッとして聴き呆けてしまっていた。 その刹那。 「ぐわおっ!」とマスターがカウンターの中で吠えたのだ。 あまりに音楽に同化したタイミングで怒声が聴こえたものだから、スピーカーの音がどこかから聴こえたのか?という反応になってしまった。 店内をびっくりして見上げるぼくに、マスターは舌を出すような表情で合図をした。
帰りしな、マスターは嬉しそうに言った。「ぼくが若い頃は、こういうのがジャズだったんだよ」
たとえば、平井玄の著書『引き裂かれた声―もうひとつの20世紀音楽史』(>1・25日記参照)で読むところの、 アメリカの公民権運動にあったところのジャズ、を、実感させるドキュメント盤だと思う。 そして、こういう音楽の果実(と言っていいのか?)との遭遇には、やはり不意打ちのようであるのがいい。
数年前なら、いまさらアーチーシェップかよー、とか、思っていたような気がする。
▼ 菊地雅章、ゲイリー・ピーコック、ポール・モチアンによるピアノトリオ“テザート・ムーン”の新譜『エクスピリエンシング・トスカ』がかかる。
ミュージックマガジンのレビュー、は、土佐有明さん。 「やはりジャズってのは感情をぐるんぐるんと揺さぶってナンボのもんだろう、とこれを聴くと思う。」 「レコ屋のジャズのコーナーでは相変わらずピアノ・トリオが売れ線らしい。最近は焼肉屋に入ったらビル・エヴァンスが流れてきたりもする。でも、たまにはこういうのを大音量で浴びよう。こういう、聴き流せない、とことんつきあわずにいられないヤツをさ。」 マガジンらしい、ジャズ専門誌的じゃないこういう書き方の突出はリスナーが増えそうでいい。 ビル・エヴァンスがかわいそう、ではあるし、ビル・エバンスはハーモニーにしか聴きどころを感じないし、そもそも嫌いだし、で、菊池雅章自身も「おれ、やっぱビル・エヴァンス、って、ダメなんだよ、体に入ってこないんだよ」と取材できいたとき、あ、いいんだ、それでも、と、思ったし。
この“トスカ”をギルやマイルスが聴いたらどう思うだろう、と、CDジャーナルでレビューした村井康司さん。行間から読み取れるところ、ぼくなりに聴いたところの「旋律はいただいた、どっぷりと耽溺するオレたちの老境を聴け!」と迫っている演奏なのだ。そして、それ以上であるのか、それに過ぎないものであるのか、は、聴き手に委ねられている、と、思う。
▼ ジャズ喫茶から帰って、耳のコンディションが良かったので、こないだ入手したフリージャズのCDを3枚聴く。
ポール・ブレイというピアニストについて(1・13日記に少し書いたけど)。 たとえば、ジャズのピアニストを聴くのに、キース・ジャレット→ポール・ブレイ、菊地雅章、という感覚のステップ(段階)があるように思う。 三次方程式→微分方程式、みたいな。難易度が高いことと芸術的なことは必ずしも一致しないけど。逆のルートは、ない、から。
彼が制作していたIAIレーベル(IMPROVISING ARTISTS INCORPORATED)のレア盤が今月の24日に3タイトル追加発売されていたのだ。 『SIDELINES / Steve Lacy – Michael Smith』(KMCJ-1004) 『DUET / Lester Bowie – Phillip Wilson』(KMCJ-1005) 『reeds’n vibes / Marion Brown – Gunter Hampel』(KMCJ-1006) ■株式会社Musik<ムジーク>
このムジークという会社は、ジャズ評論家の今井正弘さんの起こした会社のようだ。『無線と実験』誌における今井さんの選盤とレビュー文は、長年ぼくの愛読するものであったし、昨年のユニバーサル社「ザ・・・ミュージック・シリーズ ハードコア・ジャズ編」も今井さんの企画だった。
ムジークのサイトのリンクを見ると、『FM CLUB』というのがある。『FM fan』が休刊して、継承するメディアとしてこうなったものである。
▼ 『FMファン』というと、学生時代のエアチェック狂だった頃を思い出す。NHK-FMの「ベストオブクラシック」で、一週間ぶっ続けで現代音楽がかかることが3ヶ月に1度はあって、ほんとよく聴いた。 クリストバル・ハルフテル、ルー・ハリソンとか、六本木のWAVEに行ってCDを探したっけ。 ぼくたちがやっているサイト■musicircusに、現代音楽の11人をテーマとするテキストの掲載が準備されている。
現代音楽の11人。 湯浅譲二、ピエール・ブーレーズ、タン・ドゥン(譚盾)、オリヴィエ・メシアン、ジョン・ケージ、カールハインツ・シュトックハウゼン、アルヴォ・ペルト、ルイジ・ノーノ、イアニス・クセナキス、スティーヴ・ライヒ、武満徹。
名前を見るだけで、音楽が鳴り始める。
▼ 手前みそながら、わたし、きわめて偏ったガルバレク論を自分のサイトに書いています。 公にできないオタクが書くはしたないテキストですが、もしガルバレクに興味を持っていただけるキッカケのひとつになる可能性があればと思い、ご案内。 ■musicircus 「rarum」の「ガルバレクは二度死んでいた」です。 なんでこんなあほなこと書いてしまうんだろー、ごめんなさい、ガルバレクー。
ヤン・ガルバレクの音楽に遭遇したい!と思われた方は、 四谷のジャズ喫茶『いーぐる』(店主はジャズ評論家の後藤雅洋さん)で、今週土曜日(1月31日)午後3時30分からの、 『ヤン・ガルバレク・グループ来日記念特集!』を聴きに行きましょう。 ■いーぐる掲示板<ここに情報があります。 選曲と講演をされる須藤克治さんはご自身のサイト「■Spiral Quest」(ここの買い物リストを見るのが楽しみだったりする)の充実さからも、期待できるジャズ評論家のホープだと思います。
2004年01月28日(水) |
まだ「Feel Myself」・ミスチル『シフクノオト』4月7日発売・「マンフレッド・アイヒャーへの公開書簡 若林恵」・『FME』 |
・・・昨夜帰宅してから8時間は坂本真綾の「Feel Myself」ばかりを聴いています。 この曲は6分56秒です。とても7分もあると思えません。ちょうど5分のところで、空中に意識が完全に飛びます。
そこから聴こえてくる鐘の音はアルヴォペルトの『タブラ・ラサ』(ECM1275)、マンフレット・アイヒャーがニューシリーズを構想し数年かけた第一作である『タブラ・ラサ』の「ベンジャミン・ブリテンの追悼歌」に鳴り響いていた、オーケストラの残響音が消え去ったあとになっても響き続けたあの鐘の音でありますし、最後の最後に効果を聴かせるギターの音は、ケティル・ビョルンスタの『海』(ECM1545)で鳴り響いていたテリエ・リピダルのギターを想起するものです。 >以上、かなり重症な妄想聴取であることを予めご了承ください このギターを弾いているのは今堀恒雄、ティポグラフィカ(今堀恒雄・菊地成孔・水谷浩章・外山明ら)で知られる天才です。ミュージックマガジン2月号に今堀恒雄さんの記事(P76)がありますー。
坂本真綾97年のデビューアルバム『グレープフルーツ』の1曲目、です。 20日の日記に書きましたが、ほんと、菅野よう子のライジング、勃興、世界への告知を果たした、すばらしい楽曲・サウンド構成です。
ミュージックマガジン2月号、表2のカラー広告は菅野よう子が音楽を担当するアニメ『攻殻機動隊』、表3のカラー広告は今堀恒雄が音楽を担当するアニメ『ガングレイヴ』、です。 アニメの潤沢な資金が日本の天才を育てているという事実を認識しなければなりません。 いっぱい売れよう、とか、高い芸術性を示そう、とか、そういうあぶない欲望はかならず音楽に現れてしまうもので、アニメのサントラという、創造に限界のないシチュエーションがここにあるという事実。
ほんとねー、世界に冠たる日本、というコトバはぜったい使わんけど、日本のジャズ(この作品たち■「70年代日本のフリージャズを聴く!」全三期 30枚 Review )といい、日本語がかち得た表現形態としての浪曲といい、なんつうかねー、日本というコンセプトは要らんよ、仮に日本語が流通する文化圏といった場所、としての、「ここ」で日本語で脳みそを機動させているぼくは、とりあえず、日本語でこうして書いてみておりますがに(どこの方言だに?)。
▼ うああ。ミスチルのニューアルバムのニュースが!■ミスチルのサイト・シフクノオト 『シフクノオト』4月7日発売。 友だちと話していて、「至福の音」「至福ノート」とふたつの意味だね、とか。 「こないだ図書館でね、小学4年生くらいの男の子が端末の検索画面にひらがなで「みすたーちるどれん」と入力していたんだ、わたし、ねえねえどの曲が好きなの?って尋ねたかったけど、へんなおねーさんに思われてしまうからやめたの、横浜マリノスのジャージを着ていたのよ。」 ぼくは、それはほんとうに美しい光景に思える。 「ヒーローになりたい、って歌っているのに反応したのかなー」 「希望の数だけ失望は増える、に反応したとか(笑)」「あはは」
1.言わせてみてぇもんだ 2.PADDLE 3.掌 4.くるみ 5.花言葉 6.Pink~奇妙な夢 7.血の管 8.空風の帰り道 9.Any 10.天頂バス 11.タガタメ 12.HERO
タガタメ、HERO、というエンディング曲目・曲順を見ただけで、鼻のあたまがじーんとしてしまいます。
▼ 『エスクァイア日本版3月号』(1月24日発売)のユーロ・ジャズ特集。
48ページにフランスを代表するサックス奏者、いやマルチプレイヤー、ミシェル・ポルタルが!いでたちのカッコよさ。 「スペインのフランコ政権打倒、アメリカの公民権運動、そしてパリの五月革命。あの頃は、反体制的な政治行動とフリージャズの精神がピタリとリンクしていたんだ」と語る。じゃあ、今はどう思われていらっしゃるのでしょうか、ポルタル様。 ポルタルの70年代のライブアルバム、というのがあって(友だちに貸したまま行方不明だー)、ほんと入手困難気味なんだけど、これが、すげーのなんの、って、90年代初頭のルイ・スクラヴィスが持っていたライブでの“パッション的旋律の数珠つなぎ状態”が世代のバトンを継承したものだって、確信できるほどのライブなんだ。 >簡単に言えば、ミルコクロコップ状態、という感じです >余計にわからなくなるかも ぼくはこのライブのCD化にこそ、ポルタルの理解がかかっていると思う。あと、実際にライブに行くとかね。
49ページは、フランソワ・テュスク、アンリ・テクシエ、スティーヴ・ポッツのライブ写真だし!51ページにはスティーヴ・ポッツの紹介が!
▼ 「マンフレッド・アイヒャーへの公開書簡 若林恵」
80ページ目から始まる、このECMについてのテキスト、アイヒャーのインタビュー内容を織り交ぜながら、描かれる、 これほどの訴求力のある、読む体験。このテキストはECMの音楽を聴く時間のように、意識が旅をする。 ECMのジャケットに潜む「ノイズ」の指摘なぞ、ほとんどわたしはこうべをたれる気持ちでした。 アート・ディレクターの「バーバラ・ヴォユルシュに捧ぐ」と題されたコラムもコラージュも素晴らしいの一言に尽きます。
「私たちの音楽は、〈明晰さの探究〉と呼ぶことができます。ルシディティ(lucidity)、クラリティ(clarity)、トランスパランシー(transparency)、そしてミステリー(mystery)。それがECMの音楽なのです」―― Manfred Eicher 「真に豊かな〈音楽〉、われわれを感動させ、またわれわれが本当に味わうことができる唯一の音楽とは、どんな理性や分析も追放する〈夢〉の〈音楽〉であるだろう」――アルベール・カミュ
このカミュのテキストの引用は、若林恵さんによるものです。 ECMの音楽を紹介するというページに、鮮烈なイメージと、なんともかけがえのない存在感を与えています。
“どんな理性や分析も追放する〈夢〉の〈音楽〉”、武満徹もミシェル・ドネダもアストル・ピアソラもキップ・ハンラハンも、そしてECMも。
▼ ミュージシャンとリスナーのためのメディア構想委員会(仮称)として7人の集まりがあったので、わたしは自分にとっての昨年のジャズベスト1である『FME』のライブをトーストして持参した。みんなのけぞって輸入盤屋を徘徊し始めることだろう。花咲かじじいは今夜もてんぱっている。
『FME』 (ODL10007) OKKA DISK Limited Edition Series Features: Paal Nilssen-Love / Nate McBride / Ken Vandermark Limited release of 760 copies
(いまだ書きかけのレビューテキスト>ノルウェー大使館確認による発音確認により「ポール・ニルセン=ルーヴェ」と改訂しました) これはすごい演奏だ。ノルウェーで人気の高いジャズ・ユニットである“アトミック”でのプレイからは想像が難しかったものの、怪人ラウル・ビョーケンハイム(ギター)らとの“スコーチ・トリオ”、これは昨年のロヴァ耳ディスクアワードの6位に入れたが、ここではさらにすさまじいパーカッショニズムを見せるのがポール・ニルセン=ルーヴェ(Paal Nilssen-Love)!である。2年前の7月、ノルウェーのモルデ・ジャズ・フェスティヴァルではパット・メセニー、アリルド・アンデルセンとのトリオで出演して聴衆の喝采を浴びている(!)俊英、29歳。端的に言って、ヨン・クリステンセンが辺境にあって深化させたものを、ニルセン=ルーヴェはジャズの本流に持ち込んだ、と、断言する。 どの現代的ジャズの推進者たち、たとえばウイリアム・パーカー、ジョン・ゾーン、ブラッド・メルドー、ティム・バーンなど、彼らとのセッションまでもを想定したいレベルのドラマーだ。その真価が聴ける。 Okka Disk からの760枚限定生産盤。
Paal Nilssen-Loveポール・ニルセン=ルーヴェ
ノルウェーの俊英ドラマー、29歳、すでに40枚を越えるCDに参加している。 父親もプロのドラマーであり、両親はStavangerでジャズクラブを経営していたという。 そこで、トニー・オクスレイやビリー・バング、デヴィッド・マレイ、ロナルド・シャノン・ジャクソンの演奏に触れた。 彼にインスピレーションを与えたのは、トニー・オクスレイ、アート・ブレイキー、ジョン・スティーヴンス、ポール・ローフェンス、エルヴィン・ジョーンズ…、さらにアル・グリーン、さらにアル・ジャクソン、さらにさらにミーターズ(The Meters)、トゥーツ・アンド・ザ・メイタルズ(Toots And The Maytals)、リー・スクラッチ・ペリー(Lee Scratch Perry)。
元旦に届いた英『WIRE』誌2004年1月号では表紙にクレジットされて彼の特集ページがありました。
そしたら、委員のひとりから反対にニルセン=ルーヴェのこのCDを「これもいいよー」とハイコレされて、「おお同志よー」と、ちと感激。 Schlinger / Paal Nilssen-Love - Håkon Kornstad (2003; Smalltown Supersound; STS077CD)
ネットで検索したら・・・すでにこんなページまで作っておられる方もいて、ジャズはここにいきておろうぞー。 ■Paal Nilssen-Love
2004年01月27日(火) |
坂本真綾97年『Grapefruit』の「Feel Myself」を今月の月間MVP楽曲に認定しました |
えー。坂本真綾97年『Grapefruit』の「Feel Myself」を今月の月間MVP楽曲に認定しました。 え?今頃?ええ、今頃です。今日です。すんません。
「Feel Myself」 作詞:坂本真綾&岩里祐穂 作曲:菅野よう子
こわくない。こわれない。 この気持ちだけは。 そんなモンに負けない。 つよく、なーい。つよさじゃ、なーい。 ただ感じてるの、 時間も空間もないココロで。
■作詞家・岩里祐穂(いわさとゆうほ)さんのデータ
恋に落ちるように、その曲を好きになると、その曲ばかり、何度も、何十回も、たぶん百に近づくだけのリピートを、いつもしてしまいます。 吐き気がしてくるほど、聴きます。それはそれで、ぼくはきわめてフツーだと思っていたのですが・・・。
この曲を聴くと、空中に浮かび上がって瞳孔が開いたままに遠くの山河や草原や雲や風を見つめているような気がしてくるものです。
会社の同僚、部下、上司、食堂のおばちゃん、すれ違う犬、猫、布団カバー、風呂のふたにまで、 「さかもとまあやのふぃーるまいせるふってしってるかー!」と呼びかけたい気持ちです。
■坂本真綾公式サイト
2004年01月26日(月) |
小沢健二『刹那』再論・詩の朗読+ヤンガルバレク4(1977年タレントスタジオ、オスロ) |
(・・・いっきに2日分アップしたもんで、ひきつづき、きのうのもおねがいします・・・)
今日は、エドワード・ヴァン・ヘイレン(ギタリスト)の誕生日です。と、「ジャンプ」がかかります。ふむ、たしかに代表曲やし、ここの間奏のギター・ソロも完成された芸風の域に達しておりますが、ここはひとつ、ヴァン・ヘイレンが77年に、様式美化をひた走っていたハード・ロック界に小爆弾を落としたようなデビューシングル「ユー・リアリー・ガット・ミー」を聴きたかった。
▼小沢健二『刹那』再論(<12/27) おざけんの『刹那』を聴いていると、じわじわとやってくるんですよ(ま、実際『Eclectic』という作品も、ある意味そうなんですけどね)。 9曲42分しか収録されていないぞー、刹那2なんか作るなよー、てな声もあるにはあったが。それ、小沢健二を理解してないです。 ミュージックマガジン2月号では、岡村詩野さんが「選曲だけだと6だが、曲そのもののクオリティは当然――10」、と、書いている。 そうです、当然、10なのです。今でも10なのです。これは重要なことです。 時を経ることによる音楽の劣化をこれほど受けていない事実にぼくたちはもっと衝撃を受けなければなりません。 そして、この小沢自身が選曲リマスターした9曲42分の構成の妙を聴き取らなければなりません。岡村詩野さん、選曲も10なんです。
1.流星ビバップ 2.痛快ウキウキ通り 3.さよならなんて云えないよ(美しさ) 4.夢が夢なら 5.強い気持ち・強い愛 6.それはちょっと 7.夜と日時計 8.いちょう並木のセレナーデ(ライブ) 9.流星ビバップ(インスト・トラック)
ぼくは思うんだけど、『LIFE』を『LIFE』たらしめているのは「いちょう並木のセレナーデ」なんだ。 「きっと彼女は涙をこらえてぼくのことなど思うだろ」、と、そんなことあり得ないことをわかっていて。 「よびかわしあった名前など」・・・。「今は忘れてしまったたくさんの話をした」・・・。 ・・・よびかわしあったなまえなど・・・ これは、核心だと思います。 ひととひととが出会い、名前を呼びかわし、赤ん坊が生まれて名前をあたえて呼びかけて呼びかけられて、生きて、死んでゆく、すべて。
『LIFE』では、「いちょう並木のセレナーデ」のあとに「ぼくらが旅に出る理由」が配置されています。死と再生を思わせる構造です。そして最後にオルゴールで「いちょう並木のセレナーデ」の旋律が映画のエンドロールのように奏でられます。 この『LIFE』の閉じかたは、『LIFEパート2』を禁じていた、と、感じる。もし『LIFEパート2』が始まったら、『LIFE』の閉じかたは価値を損なう。
『ペットサウンズ』以降のブライアン・ウイルソン状態でもあっただろう小沢健二。
『刹那』の「いちょう並木のセレナーデ(ライブ)」~インスト・トラックは、『LIFE』の「いちょう並木のセレナーデ」~オルゴールを想起させる。 小沢健二のファンにとって瞬間と永遠は同義であることを知っている。 >すべからく、素晴らしい音楽とは、瞬間と永遠が同義であることを告げている、と、思う。 だから『刹那』とは、『LIFE』の別名であるくらいわかっていてもいいのである。
小沢健二はフリッパーズ時代から、一枚のアルバムを発表するごとに、その一枚の中に、ふつうのアーティストが生涯をかけて表現するだけの大きなものをぎゅっと詰め込んでしまって、そのあとはまた、まったく違うアルバムを制作してしまう、という、そういうアーティストだと思う。
グルーブ感への傾倒。 モータウンとの契約が噂されたり、マーヴィン・ゲイのトリビュートに参加したり、そうしてスクリッティポリッティばりのスタジオワークを施した『Eclectic』を一昨年に発表している。 『Eclectic』は、歌詞が読み取れないアルバムだった。聴いていて、歌詞の意味するところが即座にはわかりかねる音楽となっていた。 いわば“詩性のオザケン”からも跳躍した場所に鳴っている音楽である。女性との濃密な関係性を暗示するエロティックなものと聴かれた。 即効性はなかったものの、昨年秋口あたりから「寝かしてあった『Eclectic』がけっこうきてるんですよねー」と言いあうわたしたち。 いま、「麝香(じゃこう)」がまじでヒットしてます、わたし。 う、ここ、う、ここ、あなたのこころ。 『Eclectic』が、もしや、ポップミュージックの掟破り、である、音楽の時限爆弾、であったとか?
シングル集が当初のコンセプトであった『刹那』、は、小沢と東芝EMIとの契約上どうしても出さなければならない1枚だったのだろう、と、推察する。しかし小沢はその意図どおりには事を運ばなかった。そして時期を狙って『刹那』を仕掛けた。『Eclectic』の小沢健二と『LIFE』のおざけんは別人だという大半のリスナーが思うそのことにつっかかるように彼らしい必要最低限の補助線を引く。 そして結果は、理由はよくわからないが、デビューシングルの「天気読み」とか、渋谷毅・川端民生との『球体の奏でる音楽』も、同時に、耳にリアルに聴こえるかのごとくの事態だ。『刹那』は仕掛けられた、のか?
(脈絡なく・・・)おざけんは小説を書いている、そんな第6感もはたらいてしまっているのです。まじで。 そして、綿矢りさにインストールする・・・(をゐをゐ)
▼ 筒見京平フリークのSさんの『刹那』に対する証言。 「強い気持ち・強い愛」というのは素晴らしいナンバーですね。一句一句にオザケンワールドが凝縮しています。そして作曲しているのが筒見京平なんですが、クレジットを見なければ誰も筒見京平だと気付かないでしょう、それだけこれは小沢健二の音楽ということです。そして本当に驚くべきは、そういう小沢健二の音楽をカンペキに吸収してこれを作曲した筒見京平という作曲家の学習能力の凄さなんだと思います。
▼ JAN ERIK VOLD + JAN GARBAREK 4 『INGENTINGS BJELLER』(Polydor 2664 388)2LP 1977年9月、オスロ、タレント・スタジオでの録音。エンジニア、ヤン・エリック・コングスハウ。 オスロの中古レコード屋のショウウインドウに飾られていた逸品。 この時期のガルバレクのサックス音は、眼光鋭く頬がこけてヒゲがはえている。 ヤン・ガルバレク、ボボ・ステンソン、パレ・ダニエルソン、ヨン・クリステンセン。 詩の朗読はノルウェー語がわからんからわからん。やたら“ミシマ”と発語するが、日本語で書かれた『豊饒の海』を理解できたんか?
なんとも、すげー、すげー、すげーLP。松浦亜弥に聴かせてあげたい、ということで、自主CD化を完了。ふーっ。
ロヴァの耳■musicircus
2004年01月25日(日) |
くらきまいーなかしー・『ゆらゆら帝国のめまい』『ゆらゆら帝国のしびれ』・アントニオネグリ・平井玄 |
ありふれたー、きみのなまえー。み、あーげてーごらんーよるのおーほおーしおー。いけね、有線に毒されてます・・・。
不意にラジオで倉木麻衣の曲がかかって、あいかわらずどーでもいい曲歌ってんなあ、でも、倉木麻衣・・・、そのオリジナルな歌唱法、に、耳が奪われてしまう・・・。へたくそ、とは言い切れない。あの少ない声量、ごくわずかな肺活量、せまいはなのあな、けしてマラソンなんかできない病弱少女としか思えない声キャラ、そのくせキャラに合わない明るく健康な夏の少女みたいな歌ばかり歌っていて、どのフレーズにも息が続くのか心配になる、ちょっとした旋律の伸ばしに息が間に合わないスリルを感じる、その語尾の吐息感に、聴いているこちらも窒息しそうになってしまう。そんなふうに決死の覚悟で歌う倉木麻衣を、ぼくがついているからね・・・と一生懸命に聴いてしまう。そんなんでいいんでしょうか。
なかしー。生きているかみさん、・・・ぜんぜんちゃう、もとい、なかしーは生きている神様なのである。天才評論家・平岡正明は「山口百恵は菩薩である」と看破したが、なかしーの場合はどうだろう、もっとデモーニッシュに反転するような二重性を保持してはいないか。 はれぼったい目でダルそうにソファによりかかる化粧品の広告、ファーストツアーのDVDに見るあどけない笑顔、はだしで土俵入りスタイルで歌唱にインしていく動きのモメント、そして、外れそうな(実際外れている?)音程で、よくあるような歌詞を歌う。そう、よくあるような歌詞、であることが肝要だ。日常が聖性を帯びる。これはつんくが、たとえば藤本美貴「ロマンチック浮かれモード」でいつもの部屋の景色が変わって見えると歌わせた一例のみならず、つんくが一貫してJ-POPに放っていることがらだ。だからよ、インストール、なんてありえねー話書いてんじゃねーよ、な、綿矢りさ、・・・でも、かわいー。・・・うーむ、まあとにかくわたしは小説はきらいなのである。 よくあるようなラブソングを、あんなんなって歌うなかしー。 雪降る街をデートするだけの若者たちに2004年のいま立ち降りる聖性を、あんなガキどもに立ち降りるわきゃないやろ!と野暮を思う中年オジサン(わたし)に「聖性を与えているのだな・・・」と思わせるところの聖性を、ハーメルンの笛吹きシンガー森山直太朗が「あの聖なる夜に・・・」なんぞと歌い抜ける白痴ムードの対抗として呈示し得ているところがすばらしいと思うのだ。 あのひとみの一瞥で呈示し得ているところがすばらしいと思うのだ、中島美嘉。
あとのコたちは、 ペルセデス(島谷ひとみ)、アンドロメダ(aiko)、ジュピター(平原綾香)、と、宇宙時代を築いてください、でもってそのあとは宇宙企画へどーぞ。
▼ 今日になって『ゆらゆら帝国のめまい』『ゆらゆら帝国のしびれ』を聴いていますると、ナンバーガールの王位継承は彼らだな、と、思う。 あとは町田町蔵、江戸アケミ、浅井健一、吉井和哉のような巨星になるのかどうかは未知数なりや。 ゆらゆら帝国の『な・ま・し・び・れ・な・ま・め・ま・い』のほうはアルバム規模のボリュームでのライブ音源がたった1000円だったので、 hydeの初回限定DVD付き『666』と一緒にすでに買っていたものでしたが。
「たださんが聴いている、この、ゆらゆら帝国って、どういう意味なんですかね?」とたずねてくる同僚Fさん53さい。 息子さん(18さい)がバイク事故にあった話をしていた。 キャップを頭に載せるようにしたまま(あごひももかけてない)でスクーターに乗って交差点で一時停止無視をしたトラックと衝突。 先行きの見えない意識不明状態が1ヶ月続く。 Fさん「寝ても覚めても、息子の眼球がぐるぐる意識不明でさまよっている姿が離れなくて、生きている心地がしなかったですよー」。 微慢性脳軸策損傷。
Fさんは、新宿西口フォーク集会に集まっていた若者のひとりだった。 吉田拓郎も岡林信康も井上陽水もリアルタイムで聴いてきた。森山良子のファンでもあってLPも全部買ってコンサートもかなり通った。 同世代の若者たちのほとんどがそうであったようにフォークギターを練習した。 妹にフォークギターを教えた。妹は森山良子のように歌い、バスガイドとなって職場で人気者になった。 新宿のうたごえ喫茶「灯(ともしび)」にも、同伴喫茶にも、名画座3本立てにも行った。 「マーメイド」で弾き語りをしていた五輪真弓の才能を見抜いていた。 結婚して息子が生まれた。
「近所のかわいい女の子がキャップだけでスクーターに乗っていて、おじさんが買ってあげるからフルフェイスのヘルメットかぶりなさい、って言うんだけどね。」
「ゆらゆら帝国って、拓郎や陽水みたいなもんですよー」と言うと「へえー、そうなんですかねー」とFさんは目をきょろきょろさせている。 「ぜんぜん違いますけどねー」と言うと「ぜんぜん違いますよねー」と目を大きくさせて笑う。
▼ 去年の東京新聞における『ネグリ 生政治的(ビオポリティーク)自伝<帰還>』アントニオ・ネグリ著杉村昌昭訳(作品社)に対しての書評が秀逸だった。
アントニオ・ネグリについて。
『六十九歳の今もサッカーのACミランの大ファン。 バツイチらしいけど、映像作家の娘がいる。 なんだがイタリアンなおじさんである。 ただ、父親がひまし油を飲まされてファシストに殺されただけ。 父親がわりで、やがて姉の夫となった医学生の勇敢なパルチザンぶりを見て育っただけである。 そして六十年代に始まり、ジェノバや反イラク戦争の大デモにいたる新しい世界運動の渦の中を思いきり生き抜いていっただけ。 特別な人じゃない。イタリアでも世界中のどこにでも、数万人、数十万人、数百万人といる人間たちの中の一人にすぎない。 違うのは、自分が体験した可能性の最もやわらかな部分を新しい言葉にしたことである。』
このテキストを書いたのは平井玄さん。 ザッパ、パーカー、ウルマー、バルトーク、アイラー、エリントン、ハンラハン、モンク、ロリンズ、アイスラー、オーネット、西田佐知子、フランク永井・・・ ■『引き裂かれた声―もうひとつの20世紀音楽史』(毎日新聞社) この本を読むと・・・、いや、手にするだけで、音楽をテキトーに聴いて暮らしているだけの自分が恥ずかしくなる。 そして、音楽をもっと聴きたいと思う。
平井玄[ヒライゲン] 1952年東京生まれ。音楽、思想、社会等幅広い領域を、独自の視角で論じる。早稲田大学文学部抹籍。1980年、竹田賢一らと先鋭な音楽批評誌『同時代音楽』を創刊、ジャズを中心とする音楽のプロデュースや、様々な社会運動にも携わる。92年には、パレスチナから音楽グループを招聘し、コンサートを催した。現在、早大文学部講師
参考テキスト=■教科書が教えてくれない歴史たち あれ?飛ばないですね・・・ここのテキストなんですが・・・ http://www.shohyo.co.jp/punch/composite/composite23.html
ロヴァの耳■musicircus
2004年01月24日(土) |
フレディハバートの「ソンミ村の歌を歌ってよ」・アンドリューヒル・ナシートウエイツ・パールニルセンラヴ |
ブランキー好きのKくん21さいは、ぼくがブランキーのラスト・ギグに行ってた話をしてからとっても仲良くしてくれて、浜崎あゆみのDVDをこころゆくまで見せてくれます。はまさきの映像はおもろいよなー。 「ジャズってさー、カネもったもてないエロおやじが女の子をだますための音楽みたいじゃんー!」 って、・・・どーゆう教育を受けてきたんじゃ。カネのないもてるエロおやじが女の子と本気になる音楽じゃけん。 よっしゃ、浅井健一に対抗できるジャズCDをトーストしてきてやるけんな。 FMEのライブ、ブラッドメルドーの『ラーゴ』、ONJQ+OE、マシューシップの『nu bop』、ポールブレイの『Alone,Again』、の、5枚だな、まずは。 付録は白石ひとみの。白石みゆきで抜いてちゃいかんよ、いい若いもんが。
▼ コルトレーンの『インフィニティ』はねー、B級サントラとして聴くとよいかも。 この『インフィニティ』は、■嫌いなアルバムというページで「コルトレーンの中で唯一嫌いなアルバム」として扱われてます。このサイトの執筆者はドルフィーも嫌い、ハンコックの暗黒時代も嫌い、ハービー・ニコルスも嫌い、という、わたしがとっても好きなものがすべて嫌いという、親友になりうるお方です。一緒に中古盤屋に行っても、ぜったい奪い合いのケンカにはならないし。 と、ここにフレディ・ハバートの『Sing Me a Song of Songmy』というLPも掲載されてます。 ベトナム戦争の最中の1968年に米軍がソンミ村の村民109人を虐殺した、ソンミ事件を主題にした作品だという。 うえええ、こんなLP、はじめて見るぞ。「ソンミ村の歌を歌ってよ」、なんとも聴きたい作品だ。お持ちのかた、メールください。
▼ 今日はビル・エバンスの『トリオ64』とアンドリュー・ヒルの『A Beautiful Day』■を車に持ち込んで聴いてました。 『A Beautiful Day』のジャケット、これ、さかさまじゃないんですよ。これはもう傑作であることがジャケットからも聴こえてきそうな雰囲気です。 で、実際に、この作品は素晴らしい。ピアノ・トリオを主軸にラージ・アンサンブルがダイナミックに躍動しているもので、凶暴なエネルギーが制御されてうねっている、そのうねりかたがびしっと締まっていてスリリングさがたゆまないのがカッコいいです。
ここで叩いているナシート・ウエイツNasheet Waits。 サックス奏者のマーク・ターナー、ピアニストのボヤン・ズルフィカルパシチ、そしてこのアンドリュー・ヒル、に、起用されていることは要注意です。 この3つのそれぞれ離れたサーキットで開花している才能たちに認められている、このドラマー。 叩きはパワフルかつ切れがよく、リズムのスイッチも抜群に上手いです。
いまジャズですごいドラマーといえば、パール・ニルセン・ラヴ、ギレルモ・E・ブラウン、ナシート・ウエイツ、ジム・ブラックの4人でしょう。
▼ Paal Nilssen-Love パール・ニルセン・ラヴ
ノルウェーの俊英ドラマー、29歳、すでに40枚を越えるCDに参加している。 父親もプロのドラマーであり、両親はStavangerでジャズクラブを経営していたという。 そこで、トニー・オクスレイやビリー・バング、デヴィッド・マレイ、ロナルド・シャノン・ジャクソンの演奏に触れた。 彼にインスピレーションを与えたのは、トニー・オクスレイ、アート・ブレイキー、ジョン・スティーヴンス、ポール・ローフェンス、エルヴィン・ジョーンズ…、さらにアル・グリーン、さらにアル・ジャクソン、さらにさらにミーターズ(The Meters)、トゥーツ・アンド・ザ・メイタルズ(Toots And The Maytals)、リー・スクラッチ・ペリー(Lee Scratch Perry)。
読んでくださっているみなさん、ありがとうございます。えっちな表現はできるだけ避ける所存ゆえ、投票ボタンも押してあげてください。
2004年01月23日(金) |
『インフィニティ/ジョン・コルトレーン』 |
昨夜は中島美嘉のDVD『The First Tour 2003 Live & Document』なんぞにうっとりうつつをぬかしていても、 ついBoaちゃんの「Shine We Are !」の映像に挿入される表情のひとつひとつにドキドキしてしまって夜更かしになっても。 午前5時にはウイリーの声で「おはよう、まーや」と目覚めて。 気温マイナス4度の首都高を坂本真綾の『少年アリス』をかけて走るのがわたしです。
>ウイリー(『みつばちマーヤの冒険』)の声は野沢雅子さん(声優)のもので、『銀河鉄道999』の星野鉄郎「メーテルー!」と同じです。『ドラゴンボールZ』の孫悟空も。
▼ たばこを吸いに出かけた光が丘公園でサックスのエネルギッシュなだけの演奏が聴こえてきて、とっても欲求不満になってしまう。
サ・ッ・ク・ス・が・聴・き・て・え
部屋に帰ってコルトレーンを聴こう、と思い立ち、『インフィニティ』を皮切りに『アセンション』『ニュー・シング・アット・ニューポート』『オム』『メディテーションズ』『コズミック・ミュージック』『ウィナーズ・サークル』と、コルトレーンの65年作品ばかりをずっと聴いて一日が終わる。 音のシャワー、魂の浄化。
『インフィニティ』は、ジョン・コルトレーンの死後に、夫人のアリス・コルトレーンがハープやらオーケストラ・サウンドをダビングして完成させた作品である。 大仰なオーケストラに導かれて、アリスのハープ音が上下左右に回遊し、まるで東映怪獣映画のようにコルトレーンの咆哮が登場する。
LPジャケットは全面にわたってマンダラがデザインされており、わたしは『インフィニティ』を聴いた夜に、48階だての空中寺院のような場所で生まれる順番を待つ列にお経を唱えながら走り回る夢を見た。
この作品をジャズメディアで評価する声をわたしは一度として聞いたことがない。
▼ 四谷のジャズ喫茶「いーぐる」のBBS(■いーぐるnote2004)に以下のように書き込む。
「ジャズの本質は即興にあるというのは、そのように言われているからそうなのではなく、チャーリー・パーカーによって、即興的方法の途方もない可能性が極限的な形で提示されてしまったからだ。しかしながらこの可能性はその最初の場面で、パーカーという超人の出現によって、その先は無限の虚無が口をあけている究極点まで押し進められてしまったのかもしれないのだ。」(後藤雅洋)
後藤さんのおかげで私もジャズファンのとばぐちに入ったものです。やはり空海がそうであったように、いーぐるで後藤さんに会うことで、会話をすることで会得するということもあります。テキストだけでの理解よりもやはり音と言葉の近い理解ができるという点でいーぐるはすごいです。
本日発売のエスクワイア誌のことをサイトに掲示しました。 ECMのコーナーの横にECM HEAD LINEとあります。よろしくご高覧のほどをお願いします。 ■musicircus
2004年01月22日(木) |
ルーファス・ウェインライトRufus Wainwright・ドリームワークス・くるみ・男子十二楽坊(?) |
仕事は夕方からなのだけど朝から目が覚めてしまったので、お洗濯をしたり。書類を探して机の奥をひっぱり出したら、聴いていないジャズのCDが28枚雪崩のように落ちてきて、「おおお、こんなCDあったんだー!」と、購入したことすら忘れていたCDたちのパーソネルを眺めながら、「おおお」「うおお」とひとり輸入盤屋ごっこをしてしまう・・・。でもね、わたしの購入するジャズ・即興のCDたちは晴れた日中になんぞ聴く代物ではないのです。ひとびとが寝静まった深夜にこそ似つかわしいものばかり。今日は、昼間っからゆっくりうんこをしたりお風呂に入ったり部屋を暖かくしてのんびりのんびり、ステレオにはルーファス・ウェインライトの3作品をセットしてかけっぱなしで、コーヒーが切れたとコンビニまでコーヒーと牛乳を買いに走って、そのくせ帰るなりココアを温めて飲んでたりして。バナナを1本食べて、おやつはもずく、黒酢のパックのやつ。
こないだルーファス・ウェインライトのセカンド『POSES』を中古盤屋で48円(!)で手に入れたのだけど、そのあまりにものブライアンウィルソンやヴァンダイクパークスらの薫風を感じさせる音楽の妖気にすっかりまいってしまって、そのあたりに詳しい友だちにきいてみたら「はいはい、とうとういらっしゃいましたねえー」と、残り2枚を長期レンタルしてくらはいまひた。
『Want One ウォント・ワン』(Dreamworks 2003) 『POSES ポーゼス』(2001) 『RUFUS WAINWRIGHT ルーファス・ウェインライト』(1998)
ルーファス・ウェインライト■<こういうひとです。サラブレッドー。カミングアウトー。 彼についてのこんなすてきなテキストもありました>■17歳のジャンキーと愛しあった夜
サントラでもありビートルズ・トリビュートでもある『アイ・アム・サム』で「アクロスザユニヴァース」を歌ったり、 『オズの魔法使い』の音楽を手掛け、アメリカでは最も偉大なポピュラー・ミュージック作家として名高いHarold Arlenの生涯を綴った番組のサウンドトラック『Stormy Weather - The Music Of Harold Arlen』にも参加していたり。
スティーブン・スピルバーグ、ジェフリー・カッツェンバーグ(ディズニーのひと)、デビット・ゲフィン(ゲフィンレコードのひと)の3名によって作られた新会社、というのが、ドリームワークス。 スピルバーグ、ディズニー、ゲフィン、という組み合わせにのけぞりますなー。
このドリームワークスって会社、ジョージ・マイケルがソニーとの契約に関してもめたときに和解案を提示していて、マイケルはドリームワークスに移籍しアルバム制作をしているそうな。
▼ ミスチルの両A面シングル「掌・くるみ」の有線での戦略は、「掌」が年末で、このところすっかり「くるみ」ばかりかかるようになっています。 ポピュラーミュージックは流行っているその時に聴かないとだめなのかなー、とか、昨日ミスチルDVD観ながら思った。 1月も20日も過ぎると「くるみ」も色褪せる。残酷だ。 “さーあ、手をつないで、ぼくらのいまが、途切れないように~”なんでか「口笛」が復活しています、いまのわたし。
▼ 高校1年生の長女にわたしはミスチルの「くるみ」の価値を主張しようと苦心する。 「時間が何もかも洗い連れ去ってくれれば、生きることはじつにたやすい」 歌詞のこの部分はだなー、人間の持つ記憶というものがだなー、想い出といったものとなって、まー、このー・・・(>田中角栄か?)
「でも、おとーちゃん、動物には記憶はないけど、生きるのはたいへんだよー」 と、澄んだ目で言う。
▼ スタイリスティックスの「愛こそがすべて」にちなんで名付けられ、見た目がまっすぐに三上寛に向かう次男・恋一朗(小5)が! 「女子十二楽坊、いいよねー、とうちゃん!」と言った瞬間。 「お、お、おめー、今、何つった、え?じょ、じょ、じょしじゅうにがくぼー?・・・ゆるさん、ゆるさん、ゆるさんっ!」 とちゃぶ台をひっくり返して激怒したものだが、困った顔をしていた恋ちゃん、ごめんなー。
しかし・・・。こともあろうに・・・。これは父親としてどうしても許せない事態だ。 女子十二楽坊のDVDやCDをつぶさに観察するものの、わからん。どうしてそのようなプレイに演奏する快楽があるのか。中国の楽器を使って耳馴れた楽曲をなぞっているだけじゃないのか。映像で見えるキーボードを叩いている兄ちゃんの顔をのぞきこんで「おまえ、ほんとーに今楽しいのか?弾いていてそんなに嬉しいのか?」と声をかけたい。
ほんとうの音楽というものはだなー。
これはもう、 ジョーマネリ(サックス)、 エルメートパスコアール(キーボードおよび多楽器)、 ノエルアクショテ(ギターと効果)、 ジムブラック(タイコ)、 ヨンクリステンセン(タイコ)、 オーネットコールマン(サックス)、 ヤンガルバレク(サックス)、 エルンストライセハー(チェロとベース)、 ウイリアムパーカー(ベース)、 バールフィリップス(ベース)、 デヴィッドシルヴィアン(ヴォーカル)、 ハルラッセル(サックスおよび多楽器)を集めて
ずばり!「男子十二楽坊」を結成させなければならん。
ぬおおお、これは聴きてー。
え?・・・あ、ハルラッセル死んでたー!・・・それじゃ、ロバートワイアットに変更だわ。
2004年01月21日(水) |
「スターゲイザー/スピッツ」・DVD『CONCERT TOUR POP SAURUS 2001 / Mr.Children』 |
今日はスピッツのニューシングル「スターゲイザー」の発売日だった。 「水色の街」「ハネモノ」以来、1年5ヶ月14日ぶりのニューシングルである。 亀田誠治のアレンジを得て、も、やはりスピッツはスピッツのままである。
何度かリピートさせても、曲の全体が憶えられないでいる。いま何て歌っているのかさえ見失う。 曲の途中で、あちこちのフレーズ展開で、むかし聴いたスピッツのヒット曲の断片への展開を耳が連想してしまうのか、違う曲たちを脳が次々と聴いてしまっている。そして、あっと言う間にこの新曲自体が終わる。
こういった事態は、スピッツはワンパターンである、B級バンドの王様であった、クリエイティビティの欠如、行き止まり、を示すのだろうか。
スピッツを聴くと切なくてかなしくなってくる。かつてそうであったように、いつもそうであるように。でも、ほんとうに? なんとなく、2004年の1月、今の時代といったものにうまく居場所を見つけられないサウンドに聴こえている。 いつか不意に鮮やかな色彩を持ってぼくの耳に現れるのだろうスピッツのサウンドは、その本質たる「儚さ」をやはり維持している。
■スピッツの公式サイト デザイン文字がかわいい
▼ 『迷宮世界の入り口で ―― ECMレーベル案内 多田雅範+堀内宏公』 ■musicircus サイトへの公式掲載を完了。
▼ DVD『CONCERT TOUR POP SAURUS 2001 / Mr.Children』を観る。 ライブ盤『1/42』(2CD)における「I’ll Be」の完成度、が、いちばん出来がいいとぼくは思っていて、それの検証を兼ねて初めて観た。 うーん、やはり「I’ll Be」は『1/42』のものがいいかな。
1.OPENING 2.花 3.I'll Be 4.ラララ 5.君がいた夏 6.LOVE 7.星になれたら 8.車の中でかくれてキスをしよう 9.抱きしめたい 10.Printing 11.Dance Dance Dance 12.Round About -孤独の肖像- 13.Dive 14.シーラカンス 15.手紙 16.マシンガンをぶっ放せ 17.ニシエヒガシエ 18.光りの射す方へ 19.深海 20.Tomorrow never knows 21.Hallelujah 22.花 23.everybody goes -秩序のない現代にドロップキック- 24.innocent world 25.独り言 26.優しい歌
なんか「Hallelujah」の歌詞「いつの日か年老いていっても、この視力が衰えていっても、君だけは見える」の感情の質感がわかった気がした。
2004年01月20日(火) |
坂本真綾と菅野ようこ・『Scelsi Morning / Marc Ribot』(TZADIK : 2003) |
きのうの日記は正視に堪えない内容である・・・。イントロを「坂本真綾」で書き換えなければ・・・。 いい名だね、坂本真綾。まあや!、ってか。まあやのも、くちでして、ってか。・・・はいはい、いいかげんにします。
東京都小金井市の東京学芸大学の東門の向かい側の角にできた「えびみそラーメン」屋。お店の名前は忘れた。 「えびみそラーメン」なんだけど、みそ味・しょうゆ味・しお味、がある。わけわかんね。 だしは、えびとたい、が、メイン。えび、と、たい。想像できないー、と、食べたら最後、4時間たっても味わいの余韻が残る濃厚さ。 その後、何日も「あー、食べてー」と思いながら過ごしてしまう中毒性。かなりキケンなラーメンである。
坂本真綾と菅野よう子のようなラーメンである。
坂本真綾のデビュー作『グレープフルーツ』(Victor 1997)、この作品で、世界は菅野よう子の才能を知る、のである。 菅野ようこは、アニメのサントラの世界だけではなく、「アレンジする」濃厚さの世界水準を一変させてしまった。 まさに、基準の変更である。 そのサウンドは映像的でもありオペラチックでもある、それは従来の映像的・オペラチックの語義からもはみ出ている。 一般的にはアレンジのメインに据える楽器の音色および音楽フォームはだいたいがせいぜい2~3で収まっているものである。 たとえばアコーディオンのタンゴ調なラインにエンヤ的コーラスワークをかぶせて、いっちょあがり、とか。 ところが菅野よう子は、5つも6つも、必要なものはすべて投入してしまっている。 なぜなら、 最初に見せたいサウンドのヴィジョン、世界観があるのだ。 それは、いっちょあがり、というゴールに進むというアレンジ行為なのではない。 ほとんどジャングル大帝レオのオープニング画面のように、画面全体の細部にわたって描写が緩まないような。 どのはじっこの音、・・・、かすかなギターのつまびき、エコー効果のまどろみ具合、仕込まれた転調、にも必然を覚えて、それはまさに「ペットサウンズ的!」とさえ宣誓したくなるような世界だ。
■坂本真綾公式サイト
で、そんな菅野よう子ちっくな才能・作品にはなかなか出会えないものだ。
越境的なギタリストとして知られるマーク・リボーが昨年出したリーダー作、演奏家を10人ばかり集めて、かなりヴィジョンの明確な、それでいて異文化混交的かつアヴァンギャルドであり即興の次元にも踏み込んでおり現代音楽でもありオルタナティブロック風でさえある、かなりの作品。これが2003年を代表するCDたちのうちの1枚であることを、たぶんみんな言うだろうと思っていたけど、誰も言わない。なんでや。
『Scelsi Morning / Marc Ribot』(TZADIK : 2003) ■TZADIK ここのcomposer’s seriesにあります。 >ををを!ここのNewJapanのコーナーを見たら、なんと太田裕美と高橋鮎生によるコラボレーション作『Red Moon』なんてものが(!)。
いやー、マーク・リーボウ、ジョン・ゾーン主宰TZADIKであるからこそ、ここまで濃く深くもありながらクールでシリアスな芸術的でさえある“世界”を提出し得たのか。耳が、細部の微音にまで反応しまくる代物である。
ロヴァの耳■musicircus
2004年01月19日(月) |
綿矢りさ・Orchestral Manoeuvres In The Dark・ブレイ~ピーコック~モチアンNY公演(2/4~8) |
綿矢りさに、わたしの、インストール、おねがいします、なんて言われたらどうしようと思う。
なんでもカタカナで言やあいいと思いやがって、挿入、つえばいいんだよ、入れて、とかさ・・・(おい、オヤジ、違うって)。 スローフードなんて単なる自炊やないか、んならセンズリはスローセックスかい・・・(違う違う)
・・・中学一年んときよ、名詞が複数になるとSが付く、と、綿矢りさ似の教生におそわったわしは、よ、 授業が終わった出棺に、・・・成仏してどうする、もとい、・・・瞬間に、教壇に詰め寄って「せんせー、せっく、て、たんご、あるべよー!」 と迫ったんである。おっぱいがふくらんできているケイちゃんもしなをつくりはじめたチズちゃんも冷たい視線でぼくを見ていた。 綿矢りさ似の教生はほほえんで、「ただくん・・・ないわよ」と、すべてを知った目でぼくにそう言った。ちょっとハスキーな声でそう言った。 かすかにせんせいの呼吸の音が聴こえた。七重の海のはるか向こうに函館山が見えた。
▼ イラクに陸上自衛隊の先遣隊が着いて、あさってから国会で各党の代表質問とかが始まって、国民のイラク派兵反対は51.6%と。 さきっぽまで入れてしまっているのに、ラブレターの文面とか考えていて、でも本音はどちらかというとメンドーだな、という、そういう態度。 で、いいんすかね、川端康成せんせ、三島由紀夫せんせ。綿矢りさ似の教生のせんせ。
51.6%の意思表示、じつに巧妙かつ天才的な日本国民かもしれないのよ。
まじめなジャーナリズムは免罪符を執筆している。
ジャズとはやり場のない性急の代名詞である。
▼ Orchestral Manoeuvres In The Dark ■official OMD web site 「オーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダーク」。極秘の管弦楽的軍事機動演習、を名乗るこのグループは、クラフトワークの影響を受けてポール・ハンフリーズとアンディ・マクラスキーが中心となって70年代末から活動したエレクトリック・ポップ・バンド(あ、今も現役?)。 >そういえば、ラジオでは「ゴッド・オブ・テクノ!クラフトワーク来日公演」と・・・。クラフトワークはテクノの神だったのかー。 もはやCNNデイウォッチのテーマとなった「エノラ・ゲイの悲劇」だけしかポップシーンに残らないかもしれない。わたし、危惧します。
「Souvenir」「Joan Of Arc」「Joan Of Arc(Maid of Orleans)」というヒット曲を得た静謐な傑作『ARCHITECTURE & MORALITY』(Virgin 1981)。■
ここに聴かれるエレクトロな詩情と、少年のような実験性は、リバプールの工業団地の郊外に漂った「彼方への想い」といったものを映している。彼らの、実験的なポップの創造に戯れていた時期から、よりダンサブルに能動的にヒット曲を意図する時期への、立ち止まれない過渡期に結実してしまったトータルアルバムとなっている。
単純なミディアムテンポの一瞬ごとに、“恋に落ちるあの感覚”をサウンド化させている「Souvenir」。
たとえば小沢健二の「ラブリー」。恋に落ちるあの瞬間、というのは、きっと生涯に何度もは訪れない。完全に純粋。「強い気持ち・強い愛」で歌われる「いまのこの気持ちほんとだよね」とほんとうに思うような。完全な純粋。
「Souvenir」では”It’s my direction, It’s my proposal”と宣言するように歌い始められる。 この単純なミディアムテンポはダンスを、永遠に終わりたくないダンスが始まったことを告知する。
▼ ニューヨークのバードランド(マンハッタンのミッドタウンにあるかなり大きいジャズクラブ)に ポール・ブレイ、ゲイリー・ピーコック、ポール・モチアンのトリオが4日間(2/4~7)出演するというニュースが。
■BIRD LAND ここのscheduleを参照のこと
モチアンは、心臓動脈のバイパス手術を受けて以来はじめての演奏ではないか、との情報も。 ポール・ブレイは音楽大学の同僚のジョーマネリをステージに上げたりしないのだろうか・・・(バードランドじゃ、無理かー)。
■ECM 1670 このトリオが35年振りに復活した1998年録音作品『Not Two, Not One』
▼ 山川方夫の「夏の葬列」を読んで眠る。
なんだか後になるほどネタの芸術性が高まってきている今日の日記である。
2004年01月18日(日) |
『エスクワイア(日本版)』誌の3月号(1/23発売)ではユーロジャズ特集・ECM『:rarum』<IX~XX>(第2集) |
駅伝を見る(第9回全国都道府県対抗男子駅伝競走大会)。 逃げ切った長野のアンカーにガッツポーズをして、思わず近所のコンビニまで駆ける。50メートルだけ。たばこを買いに。
ECMというレーベル■は、音楽リスナーにとって、おおかた「はしか」のようなものである。 と、いちお、おやくそくのように書いておきますが、 『鋼の錬金術師』とか『陰陽師』とか『モンスター』とか『浦安鉄筋家族』とか『幕張』のようでも、やっぱりないです。
以下、いちおう試作段階のテキスト
『HEAD LINES for ECM listeners 2004/01/19 no.1 @musicircus』
▼ 『エスクワイア(日本版)』誌の3月号(1/23発売)ではユーロ・ジャズ特集。書店へ急げ!
特集のユーロ・ジャズとして、レーベルとしてECMおよびJAZZLANDがフューチャーされています。 記事は、マンフレット・アイヒャー、ヤン・エリック・コングスハウ(ECM専属エンジニア)への取材、オスロでのブッゲ・ヴァッセルトフトのライブ・レポートなど。また、昨年8月にECMのマンフレット・アイヒャーと再会した稲岡邦彌氏による、ECMスタジオ点描、ユーロジャズの10枚、も必見。
また同誌の電車中吊り広告はヤン・ガルバレクが表紙になって広告されるとのこと。
▼ ECM自選ベスト・シリーズ『:rarum』<IX~XX>(第2集)が発表されました。
24bit/96khzでのリマスター仕様による、レーベルを担ってきた演奏家による自選集のボックス企画『:rarum』の<IX~XX>(第2集)が発表されました。当初予告されていた10人から、デヴィッド・ダーリングが抜け、ジャック・ディジョネット、ジョン・アバークロンビー、ヨン・クリステンセンが加わり12人による12枚の仕様。それぞれ単独でも発売されます。 ECMのサウンドを特徴付けているハウス・ドラマーとも言うべきクリステンセンの選曲が加わったのは正しいとしか言いようがありません。しかし、ラルフ・タウナーが抜けていることが非常に残念でなりません。 <IX~XX> パット・メセニー、デイブ・ホランド、エグベルト・ジスモンチ、ジャック・ディジョネット、ジョン・サーマン、ジョン・アバークロンビー、カーラ・ブレイ、ポール・モチアン、トーマス・スタンコ、エバーハルト・ウエーバー、アリルド・アンデルセン、ヨン・クリステンセン
ちなみに『:rarum』(第1集)は以下のとおり。 <I~VIII> キース・ジャレット、ヤン・ガルバレク、チック・コリア、ゲイリー・バートン、ビル・フリゼール、アート・アンサンブル・オブ・シカゴ、テリエ・リピダル、ボボ・ステンソン
▼ ヤン・ガルバレク・グループ来日公演 (ヤン・ガルバレク、ライナー・ブルーニングハウス、エバーハルト・ウェーバー、マリリン・マズール) ■2004年2月25日
クリストフ・ポッペンとヒリヤード・アンサンブル来日公演 CD=■ECM1765 ■2004年2月25日、26日
2004年01月17日(土) |
尾崎豊トリビュート・岡林信康の音源(URC)はCD化されていない・平井堅の「見上げてごらん夜の星を」カヴァー問題 |
夜半から雪が積もるという天気予報にわしはよろこび都内を駆け回っていたのだけど風邪をひいた、年とると治りがおそくてまいる。
尾崎豊トリビュート。 「ねえ、ねえ、Jポップのツートップがオザキをカヴァーするんですって!」 だれじゃい、ツートップって。岡林信康と桜井和寿か?
おっと。
地雷踏んでおらんよな。 今回のURCレーベルの復刻にあたって、岡林信康は過去の自分の音源への許諾を一切出していない、のです。 時代の空気を読めば、岡林トリビュート、が、もっとも要請されるにふさわしい昨今でわないだろうか。 というよりも、いまわたしは、もうれつに岡林信康を聴きたい。『わたしを断罪せよ』のLPはわたしの宝物である。
もとに戻ろう。
尾崎豊をカヴァーするのは、Mr.Children、宇多田ヒカル、岡村靖幸、Cocco、槇原敬之、橘いずみ、竹内めぐみ、175Rほか。
ユーミンの楽曲をカヴァーした『QUEEN’S FELLOW』。椎名林檎の「翳りゆく部屋」は、もう、ほとんど耳に鳴った期待どおりの出来でした。 鬼束ちひろの「守ってあげたい」、本人のコメントがかわいくて(すごい顔して写ってますなあ)、ちと愛聴。 ■『QUEEN’S FELLOW』のサイト
▼ 平井堅のカヴァー問題。 「見上げてごらん夜の星を」、をカヴァーし、ありし日の坂本九の映像との共演までしてしまう平井堅のリスペクトだましい。 坂本九が何度も2004年の街なかに放映される。 昭和39年と平成15年の映像が繰り返し街なかに放映される。
坂本九と平井堅、は、その歌い方から背丈から顔つきから、血液型星座どうぶつ占いまでは知らんが、その対照こそがこの共演を可能にしたのではないだろうか。ぼくは坂本九の映像を観れるだけで、うれしい。
坂本九は1985年の日航機墜落事故で亡くなった。その頃は障害者のための行事とかに積極的に参加していた時期だったと思う。
ぶっちゃけ、柏木由紀子さんみたいな美人と結婚した九ちゃんに日本列島のおとこどもはうらやましくてうらやましくて。
となると、平井堅は、その対照性からして、ぶーちゃんをもらって長生きをしてしまう、という宿命を選んでまでのデュエットということになる。 平井堅、おぬし、おとこじゃの。
「見上げてごらん夜の星を」 作詞:永六輔、作曲:いずみたく。1960年、作曲者初めてのミュージカル「見上げてごらん夜の星を」の主題テーマとして、大阪で初公開。 生活が苦しい定時制高校生たちを主題にした映画もあったのか・・・。観てみたい。 ■「見上げてごらん夜の星を」(1963)
・・・あらためて、いい曲であることをおしえてもらった気がする。 (カヴァー問題、ぜんぜん問題視していないのですが、わたしが問題視しているハズだと、みなが申すもので・・・)
(おまけ) 平井堅って、Defsterなんだー。トミフェブと一緒なのね。 かの名作『Tommy february6』は永遠の名盤だと、my little loverの『evergreen』と同等に永遠の名盤であると、いちおう確認しておきます。 (これは超重要。試験に出します。) あ。 Tommy☆angels(トミー・エンジェルス)というユニットの「You'll be my boy」なんて出てるし。 来月にはTommy february6の新譜として「MaGic in youR Eyes」なんて出るらしいし。
川瀬智子のご成婚に、柏木由紀子さんご成婚のように、哀しみを感じたという40歳以上の男性のかたはお友だちになってください。
2004年01月16日(金) |
大友良英NJQは新宿ピットインで入場できないくらい人気が沸騰している・『モスラ・フライト/高木元輝』 |
きのう聴いた『フットルース/ポール・ブレイ』で叩いていたタイコ、ピート・ラロッカのリーダー作『Basra / Pete LaRoca』(BlueNote : 1965)。 サイドメンはジョー・ヘンダーソン、スティーヴ・キューン、スティーヴ・スワロウ。 ピート・ラロカ(1938.4.7~)はこの3年後、弁護士になるために一時的に引退している。 まあ、この時代にはロイ・ヘインズがいたんだから、B級どまりな感は否めないものの、もっと張り切るタイプのひとだったらジャズ史の中で面白かったかもしれない。
友だちと話していて、 そいえば大西純子というピアニストがいたなあ、大西純子のおかげで日本のジャズ維新とかにスポットがあたった時代があったよね、大西純子のピアノは別格だったから今弾いていないのは惜しいよね。 ミュージックマガジンの松尾史朗は林栄一と芳垣安洋に関しては徹底して否定的な姿勢なのは、どうしてだろうねー。 高木元輝の伝説的なLP『モスラ・フライト』が復刻されたんだよー。 って、自分のサイトで書いたけど・・・■「70年代日本のフリージャズを聴く!」 第2期 全10タイトル
『モスラ・フライト/高木元輝』■ フリー・ジャズの時代も70年安保も遠くに過ぎ去った1975年に、北九州のライブ・ハウスで、演奏者や聴衆、主催者の手が届かないちからによって、それは状況というしかない必然によって、何かが召喚されたのだ。いきなりインする演奏、1曲目数分でサックス・トリオ編成のジャズを聴いているということさえ忘れる。ジャケットの図像が、夜、であり、地方(といったもの)、であり、時間の停止(時計)、であり、時計の上に光臨する白。(そう我々は、この日の実況録音盤を聴いているのではない、交信と憑依をしているのだ)。現在において再現不可能な名演・名盤と言えるだろう。この奇妙に懐かしくもある音の匂い。この盤との遭遇の有無が、日本のジャズ・リスナーを分ける、と、思う。(この演奏がAECの「People in Sorrow」へと連なっている、ことは曲目でわかるよね)
▼ 大友良英のニュージャズクインテットは新宿ピットインで入場できないくらい人気が沸騰している。
『山下毅雄を斬る/大友良英プレイズ・ミュージック・オブ山下毅雄』(P-Vine : 1999) 大友がニュージャズクインテットを結成するきっかけとなった作品。 あまりに面白いのでずーっと聴いてしまう。
(以下、CDの紹介文をそのままコピペしました) 山下毅雄がテレビのドラマやアニメのために作った名曲を、大友良英が多くのミュージシャンを使ってリメイクしたアルバム。「プレイガール」、「ルパン三世」、「ジャイアントロボ」、「スーパージェッター」、「悪魔くん」、「時間ですよ」、「七人の刑事」、「ガンバ」、「冒険ガボテン島」、「佐武と市捕物控」、「大岡越前」、「煙の王様」の各番組で流れた曲全16曲と、最後に山下に捧げた大友とSachiko Mによるオリジナル演奏1曲を収録。参加バンド / ミュージシャンは大友良英ニュー・ジャズ・クインテット、Novo Tono、Hoahio、天鼓、遠藤賢司、山下透、チャーリー・コーセイ、伊集加代子、今掘恒夫、鬼怒無月、山本精一、その他大勢。 (以上)
■大友良英 ニュー・ジャズ・クインテットについて語る
ひきつづき『大友良英 New Jazz Quintet LIVE』(DIW : 2002)を聴く。 かつてのフリージャズが持っていた楽曲的な骨格を不穏な雰囲気を現代に蘇らせているライブ。 友だちはこれを5つ星と激賞していたが、ぼくにはまだ楽曲へのリスペクトが勝った演奏に感じられて、どこかまだ捏造感につきまとわれながら聴いてしまう。ここは変拍子多用系のドラマーに時間の主導権を渡して逸脱の瞬間を捉えてほしいと思う。なんとも従事してクールなのが狙いならばこれでオッケーかなあ。この素晴らしい演奏に、観客への教育的配慮といったものを聴いてしまうわたしは、やはり旧世代系オヤジなのだなあ。ジム・オルークの「Eureka」になごまされて夜は更けてゆくのであった。
『ONJQ + OE大友良英ニュー・ジャズ・クインテット+大江達也』(P-Vine : 2003) これの1曲目30分近くにもわたる「Double Density」、ほとんど5分くらいにしか感じない、息の詰まる感覚。これはもう凄い。菊地成孔のサックスの登場、大友良英のギターの登場、に、シビれる。
来月2月6日・7日と新宿ピットインでライブがある。 なんと、アルフレッド・ハルトがゲスト参加でのニュー・ジャズ・クインテットである。 これはもう昼の部から観て、開演前の彼らのリハーサルの音から聴くべきでしょう。
2004年01月15日(木) |
『ヌートピア宣言Mind Games/ジョン・レノン』・CDジャーナル:レーベル研究『ECMレーベル』2003年6月号 |
朝6時。 さぶい。 そばを食べようとお湯をわかして、気合いを込めて3たば360gを放りこみ、おー、あったけー、と軽快に長ばしでゆでる。 ゆでる、ゆでる。いてついた台所の空気を突き破って湯気をたててぐつぐつとゆでる。 ざーっと、ざるにあげる。だーっと冷たい水道水で締め付けるように、ざっ、ざっ、と気合いを入れて、水きり。 そばつゆで食べあげながら、ぶるぶるぶる…体の芯まで冷えてきて、あれ?おれ、あったかいかけそばにするつもりだった!ことに気付く。
少し、のこす。
『フットルース~完全版~Footlose!/ポール・ブレイ』(Savoy 1962) ジャズ・ピアニストとしてゴリッと登場したポール・ブレイ62年の初期名盤。ピート・ラロッカのタイコがまたいい。この時期のブレイのジャズ感は野良犬のように不良でカッコいい。ジャズ・コンポーザーズ・ギルドとかの活動前ですね。このあとブレイは、『Barrage』(ESP 1965)、『Closer』(ESP 1966)、『Touching』(Black Lion 1966)へと。
『ヌートピア宣言Mind Games/ジョン・レノン』(EMI 1973) 友だちとビートルズ解散後の4人についてだべっていて、それぞれのソロ!でまっさきに思い浮かぶ曲をそれぞれ、と、ポールなら「ラム・オン」「メイビーアイムアメイズド」、ジョージなら「イズントイットアピティ」「FAB」、リンゴなら「フォトグラフ」「バックオブブーガルー」、んで、ジョンなら「ブリングオンザルーシー」「グロウオールド(アロング)ウィズミー」と(後者が友だち)。選曲センスはわしが全敗かも。 「ブリングオンザルーシー」って、ほら「666はオマエの名前だ!」って歌うやつでさ、当時としては新しいレゲエのビートでポップな曲。「アウトザブルー」って曲もあったよ、「とつぜんきみは空から降ってきた」ってラブソングで、松浦亜弥がデビューシングルでUFOに乗って飛来したシーンはこのコンセプトでできているーわけないかー。6秒間の無音が録音されていて、各自が思った旋律が「ヌートピアインターナショナルアンセム」になる、なんてのもあったっけ。とか。 いまあらためて聴くと、スタジオ・ミュージシャン(デビッドスピノザ、ジムケルトナー、ゴードンエドワーズ、マイケルブレッカーなど)を集めて、EMIとの契約でのやっつけ仕事であることが理解できる。「マインドゲームス」のイントロの電子音は今で言うところの音響派? 「ブリングオンザルーシー」のイントロ、ジョンが「オーライ、フォーリッツ、ジスイズイ、オヴァーザヒル」(わはは、聴き取れねー)と曲のはじめに呼びかけるのがすごいカッコいい。レットイットビーのときも「ゲットバック」を歌い終わって「ぼくたちはオーディションに受かったでしょうかー?」とおどけて終わらせるカッコよさがあったし。LPでも「レットイットビー」に向かってジョンが「さあ、天使たちがやってくるという曲です!」と呼びかける「ディグイット」があったし。 ぼくはきっと、態度としてのジョン・レノンを、より愛していることに気付くのだ。
『ティファニーで朝食をBreakfast at Tiffany's(OST)/ヘンリー・マンシーニ』(BMG 1961) 耳やすめ。中古盤屋で48円(!)。「ムーン・リバー」、さいこー。
『Fibres / Stephane Rives』(Potlatch P303: 2003) さて、本日のハイライト、と、傾聴。サックスを共鳴させまくって電子音のようなハウリングを出し続ける(!)1曲目、紙コップの背中におしっこをずうっとしているだけの音が実はサックスとつばと空気の振動だった2曲目やら、世の中には技巧を駆使してこんなことまでやってます的ないじましさにあきれるやらおどろくやら。そのうち、なんだかお経を聴いているようなありがたい気持ちになってしまい、そのまま眠る。
▼ CDジャーナル・レーベル研究『ECMレーベル』2003年6月号。転載許可を得たので、ここにアップ。
『ECMレーベル』
hyde(ラルク・アン・シェル)のシングルを聴きながら、その耽美性にデヴィッド・シルヴィアンを連想し、そのシルヴィアンの作品に参加する「釣りびとが緩やかに凍死してゆくかのような演奏」と形容されるスティーヴ・ティベッツの恍惚ECMサウンドまでを耳の手ほどきしてしまう不良中年である、私は。 ECMはジャズのレーベルでもあり、古楽や現代音楽のレーベルでもある。4ビートのノリや熱いサックスに魅了されるジャズ・ファンからは否定され、録音に対しては「これはこの世のピアノの音ではない」とその虚構性を問題にされ、ジョン・ケージやヘルムート・ラッヘンマンまでを「美しく」録音してしまうことにクラシック・ファンからも口を歪められてしまうレーベルでもある。 ★マンフレット・アイヒャー 創立者はマンフレット・アイヒャーというコントラバス奏者としてジャズでもクラシックでもそれなりに腕の立つ、グラモフォンでの録音技師の経験もある青年。1943年ドイツの南部の町リンダウに生まれ、6才でヴァイオリンを手にし、14才でコントラバスに転向。クラシックの音楽大学を出るが、関心はクール・ジャズから前衛ジャズに向かい、マイルス・デイヴィスの『カインド・オブ・ブルー』、スコット・ラファロのビル・エヴァンス・トリオ、アルバート・アイラー『スピリチュアル・ユニティ』に耳を焦がされていた。彼はライブ三昧に明け暮れる中で、自分の音楽的素養と録音技術で「今日的」な音楽をドキュメントすべく自らのレーベルをECM(Edition of Contemporary Music)と名付け、1969年に立ち上げた。 北欧の4人(ヤン・ガルバレク、テリエ・リピダル、アリルド・アンデルセン、ヨン・クリステンセン)、フュージョン・ブームの口火を切ったチック・コリアの『リターン・トゥ・フォーエバー』、キース・ジャレット、チック・コリア、ポール・ブレイらのピアノ・ソロでの録音、これらが評判を得た。多くの新しいミュージシャンに焦点をあて、とりわけギタリストの登用(パット・メセニー、ジョン・アバークロンビー、ラルフ・タウナー、エグベルト・ジスモンチなど)が光った。専属ミュージシャンによるソロや様々な組み合わせによる小さなユニットでのアコースティックな表現を制作することで(名作多し)、強烈なECMのレーベル・イメージを確立した。同じくギターに重きを置きながら、ECMは電化サウンドを排除した(ベースが象徴的だろう)、クラシックの視点に軸足を置いた、もうひとつの“フュージョン”を試みていたと理解できる。 84年にはクラシックに流通させるための“ECM NEW SERIES”をアルヴォ・ぺルト『タブラ・ラサ』のリリースで開始し、広範な音楽ファンの支持を得ることに成功した。このニュー・シリーズはその後シュニトケ、カンチェリ、クルターク、ブライアーズといった作曲家を取り上げつつ、ハイナー・ゲッベルスの舞台音楽やエレニ・カラインドルーの映画音楽、ジャン=リュック・ゴダールのサントラなどもリリースしている。 ジャズとクラシックの素養を持つアイヒャーは、その耳の経歴を青年期から幼年期へ遡行するかのようである。 ★アイヒャー帝国の迷宮 ECMは創立してから34年、カタログは900を超えようとしている。各国のジャズやクラシックの権威ある音楽賞はすべからく手にしている。と同時に、ほとんど無名でありながら聴く者を美に痺れさせる隠しキャラ的名盤も多数存在する。“the most beautiful sound next to silence” この「沈黙に次いで最も美しい音」をサブ・テーマとするこのレーベルの統一感は、アイヒャーの「君たちは意のままに演奏して良い。だが服従せよ。」と言わんばかりの徹底さによる。作品にはそこにもうひとりのミュージシャンが参加していると評され、”produced by Manfred Eicher”のクレジットはもはや伝説化して語られている。 しかし問題はこの「美しさ」だ。ツェランやカフカ、ヘルダーリンを引用した解説文やアートワークを含めたドイツ人らしい徹底した仕事には、まさにヨーロッパの、ゲルマン民族のガイストを感じるが、醒めた知性に潜んで狂気に反転するような美しさが問題なのだ。見る者の内面に痕跡を残すかのようなジャケットやインナースリーブの選択もアイヒャーによるものだ。 私は読者に助言する、ECMの迷宮に手を伸ばしてはならない―――。
このレーベルを代表する10枚(2003年・暫時選定)
ヤン・ガルバレク 『オフィチウム』(1994) 古楽合唱団ヒリアード・アンサンブルとヤン・ガルバレクのサックスを組み合わせた世界的なベスト・セラー『オフィチウム』の天上の美しさは、あまたのヒーリング・ミュージックを駆逐さえした。16Cスペインの作曲家クリストバル・デ・モラレスの曲を聴いたアイヒャーは、その感激に即座にガルバレクの音を思い描いたという。
キース・ジャレット 『ケルン・コンサート』(1975) ピアノ・トリオ“スタンダーズ”の活動で、かつてのピアノの貴公子は今ではジャズ・ピアノの帝王の座に君臨している。ここでは彼の人気を決定付けたピアノ・ソロ作品群から、当時の若者に「ひとはここまで美しい音楽を作れるのか」と陶酔させ、70年代のジャズ喫茶ではリクエスト禁止指定まで受けた、“時代の名作”を。
ポール・ブレイ 『ノット・トゥー、ノット・ワン』(1998) 耽美で官能的な美しさを弾く不良ピアニスト(この点で対抗できるのはコンボ・ピアノの渡邉琢磨だけだろう)であるブレイだが、彼の“スタジオに駆けつけ、タクシーを外に待たせている間に弾き終える”という即興魂(深いぞ!)は、ゲイリー・ピーコック、ポール・モチアンとの35年ぶりの邂逅でも不変であった。新たな名盤。
ジョー・マネリ 『テイルズ・オブ・ローンリーフ』(1999) 第2のプロデューサーとして辣腕を奮うスティーヴ・レイク。ジミー・ジュフリーのリイッシュー、老怪人ハル・ラッセル、エヴァン・パーカーの音響ユニット、英国トラッドの伝説ロビン・ウイリアムソン…。そして、微分音による微細なソノリティの変化に、能や狂言の表現形態とも通ずる発見をもたらすこのジョー・マネリ。
ラルフ・タウナー 『ANA』(1997) バルトーク+ストラヴィンスキー+スパイク・ジョーンズ、タウナーの跳ね上がるようなギターのつまびく美しさの謎は彼の幼少期の耳にあったとのこと。「Joyful Departure」は地中海に囲まれたパレルモ(彼が住む)に降り注ぐ太陽の眩さを音像にしたかのよう。名作『Diary』(1974)を超えるギター・ソロ作品を作ったのだ。
ディノ・サルーシ 『Kultrum』(1983) このバンドネオン奏者の登場は衝撃だった。喪失した故郷への強烈な想いと生き残ってしまった者の夜の孤独を描く、アストラ・ピアソラ以降に(タンゴとも訣別して)出現するに相応しい音だ。抑え切れない生々しい演奏は安易な自然讃歌を突き崩す。初期の『Kultrum』『Andina』『Mojotoro』はいまだに胸を掻きむしるものだ。
アルヴォ・ペルト 『テ・デウム』(1993) エストニア出身の作曲家ペルトの作品を規定する全音階上の音と休符だけによるティンティナブリ(鈴鳴らし)様式とは、“祈り”の導入にほかならない。「私の音楽は、あらゆる色を含む白色光に喩えることができよう」という発言はあまりにも知的ではない気がするが、宗教的崇高を呈示できる才能とはそういうものなのかもしれない。
メレディス・モンク 『ヴォルケイノ・ソングス』(1996) モンクは演劇出身で、変幻自在のヴォーカリゼーションを駆使し即興的パフォーマンスを通して“声楽音響劇”というスタイルを築き上げた。ここでは声を純粋に楽器のように扱いながら、次第に自然描写への傾倒が明らかになった本作を挙げた。アカペラ・デュエットの「Walking Song」の突出した美しさにも注目。
ECMレコード社にはこれまで傘下に4つのレーベルを抱えているのでその紹介を。 「WATT」 歴史的作品チャーリー・ヘイデン『リベレーション・ミュージック・オーケストラ』でのもうひとりの主犯、カーラ・ブレイが主体のレーベル。最新作は彼女にとってのアメリカをテーマにした7年ぶりのビック・バンド(写真)。 「Japo」 ECMの前身である Jazz by Post から41枚がリリースされた(現在は休止)。ダラー・ブラント『アフリカン・ピアノ』やステファン・ミクスの緒作のほか、スティーブ・レイクがここで制作した加古隆のピアノ・トリオ(TOK)やAMM、エルトン・ディーンなどが秀逸。 「CARMO」 ギタリストでありながら、キース・ジャレットが嫉妬したであろうほどに美しいピアノを弾くエグベルト・ジスモンチのレーベル。彼のECMとは別顔な高品質プログレ作品が目白押し。躍動的で瑞々しくブラジルの太陽を思わせるピアノ・ソロ『Alma』は美しすぎて、ホントーに誰にも教えたくない1枚。 「Rune Grammofon」 80年代に活躍したポップ・ユニット「フラ・リッポ・リッピ」のベーシストが97年に創立したレーベル。これまでのノルウェー的音楽=ECMの呪縛を葬り去るかのような、同国の若き才能による「今日的」音響と即興をドキュメント。スーパー・サイレントの緒作に瞠目せよ。
昨年ECMは『:rarum』と題して、24bit/96khzでのリマスター仕様で、レーベルを担ってきた「今日的な音楽の景観を革新した」18組の演奏家による自選集を二つのボックス企画(それぞれ単独でも発売)を公表した。 <I~VIII>発売中:ボックス・セットは残部僅少 キース・ジャレット、ヤン・ガルバレク、チック・コリア、ゲイリー・バートン、ビル・フリゼール、アート・アンサンブル・オブ・シカゴ、テリエ・リピダル、ボボ・ステンソン <IX~XVIII>近日発売予定 パット・メセニー、デイヴ・ホランド、エグベルト・ジスモンチ、ポール・モチアン、カーラ・ブレイ、デヴィッド・ダーリング、ジョン・サーマン、トーマス・スタンコ、エバーハルト・ウエーバー、アリルド・アンデルセン
2004年01月14日(水) |
1969年歌謡曲特集(NHKラジオ)・「坊や大きくならないで」 |
わたしは昼間に眠って夜に働いている。そうでもなかったらやっていられない世界だと感じている。目を開けて見る夢のリアル、を、つぶやいてみせていたから中島美嘉は信じられる。はまあゆとかぼあちゃんとか、どうして「さあともに手を振ろう(ナオタロ)」的にステージで、スタジアムで、どうしてみんなで手を振れる世界だと言うのか、ぼくにはわからない。
▼ おとといの夜のNHKラジオ深夜便の特集は1969年歌謡曲特集。
△1.長崎は今日も雨だった/内山田洋とクール・ファイヴ ○2.夜明けのスキャット/由紀さおり △3.ひとり寝の子守唄/加藤登紀子 ◎4.フランシーヌの場合は/新谷のり子 ※5.坊や大きくならないで/マイケルズ ▲6.真夜中のギター/千賀かおる 7.別れのサンバ/長谷川きよし 8.どしゃぶりの雨の中で/和田アキ子 9.夜と朝のあいだに/ピーター 10.熱海の夜/箱崎晋一郎 11.港町ブルース/森進一 印付けちゃった、2-4が本線、鉄板(笑)。
「長崎は今日も雨だった」のオリジナルレコーディングは良くない。前川清が歌いきっていない。小学校2年生だったわたしが聴いた「長崎は今日も雨だった」は、ドリフの8時だよ全員集合で何度も聴いた、前川清の響きわたるようなちからの入った歌い上げだ。 昭和40年代の歌謡曲は、おしなべて、テレビでの実況録音こそが最も素晴らしいもの、である。
南沙織の「17歳」やアグネス・チャンの「草原の輝き」、天地真理の「ひとりじゃないの」沢田研二「時の過ぎゆくままに」…(以下、かなり続く・笑)…、といったものは、放送局を越えてコンプリートでライブ音源をまとめるべきである。 海外のロックやジャズではイギリスの放送局であるBBCの音源が続々CD化されているようだが、NHKや全員集合の音源もかくあるべし。 当時はPTAに眉を顰められていた全員集合、こそは、歌謡曲の黄金期を記録したものであったし、我が日本国の国策としても現在の中高年に活力を与えるものであるとわたしは確信してやまない(どういう言い回しか!、わしが元気になる、つうことじゃ)。
※印の「坊や大きくならないで」は、激化するベトナム戦争にあって歌われたチン・コン・ソン(trinh cong son■)の曲、だそう。
お前が大きくなると いくさに行くの いつかはきっと 血に染まるだろう 坊や大きくならないで そっと眠りなさい
この心情。親になって、親になって何年も経って、そうして、わかるものです。
▼ ずんどこ節について。 氷川きよしも歌っている「きよしのズンドコ節」。 ドリフターズ、小林旭、田端義夫、が、その先達であります。 田端義夫「ズンドコ節(街の伊達男)」は関西ブシによるズンドコ節であり、ほかのは関東ブシのもの。
2004年01月13日(火) |
ポール・ブレイを聴いた・「私」が「私」に影響を受け、より「私」になっていく(藤井郷子)、ということ |
「肉は悲しい、ああ、わたしはすべての書物を読んだ。 /逃れる!何処へ逃れるのだ!……」 from 「海の微風/ステファヌ・マラルメ」
ZYX(ジックス)や倖田來未(こうだくみ)の映像をデカい画面で見ながら徹夜して。 朝になったからポール・ブレイを聴く。キャロル・キングの「空が落ちてくる」でも良かったんだけど。
茶碗一杯分の冷えたごはんと生ラーメンがひと玉残っているから、たまごごはん(冷えたごはんヴァージョンが好きー)とラーメンを食べた。コンビニで水道料金を払って、友だちにヤン・ガルバレクのチケットを送るのに郵便局へ行った。
▼ 『アローン、アゲイン/ポール・ブレイ』(KMCJ-1002) Alone, Again solo piano / PAUL BLEY (Improvising Artists Inc)
ポール・ブレイのピアノは、ジャズ・ピアノに精通していないリスナーにこそ出会うと思う。
ECMを設立する直前のマンフレット・アイヒャーは、西ドイツから海を越えてニューヨークのポール・ブレイを訪ねていた。壁にかけてあったカセット・テープにアイヒャーは興味を示し、69年の暮れに創立したECMレーベルの初期作品には『Paul Bley with Gary Peacock』■や『Ballads』がカタログに収まることとなった。 ECMの初期のカタログ(■)を見ると、incus設立直前のディレク・ベイリーら(Music Improvisation Company)欧州即興から、ポール・ブレイ、チック・コリアのサークル、スタンリー・カウエル、マリオン・ブラウンらのニューヨーク・シーン、自国ドイツの前衛ウルフガング・ダウナー、ジョージ・ラッセルの許で研鑽をしていたヤン・ガルバレクらの北欧出身者まで、ECMの原義(Edition of Contemporary Music)の視野が伺えるラインナップとなっている。 72年にポール・ブレイは初めてのソロ・ピアノで『Open, To Love』■という異様に美しい作品をこのECMに録音する。この録音におけるピアノの音の“虚構”、に、世界中の耳が息をのんだ。官能的でさえある、と、およそジャズ評論にはない表現までが立ち現れた。プロデューサーのアイヒャーが持ったであろう“このように聴きたい”という欲望がオーラのように立ちこめている。 この『Open, To Love』は、ポール・ブレイの代表作と呼ばれ、ECMの名盤のひとつとしても世界的に認知されることになった。 『Open, To Love』は、アイヒャーによるポール・ブレイ、である。ブレイによるポール・ブレイ、という言い方は妥当ではないかもしれないが、この2年後、ブレイは自分で設立した自主レーベルIAI(IMPROVISING ARTISTS INCORPORATED)で、ふたたびピアノ・ソロを録音した。それが『Alone, Again solo piano』である。 この2作の甲乙を付けることはできない。しかし、『Alone, Again solo piano』のほうが明らかに演奏の生命といったものが持続している。明らかに、そこにポール・ブレイが時間を経過しながらピアノに向かっている、過酷な演奏の自由や闇や思索といったものを聴き取ることができる。 そして、それこそが、ジャズの本質的な体験だと言うこともできる。
ブレイはIAIレーベルを立ち上げてからはECMに録音を残さなくなった。 サイドメンとして83年に『This Earth! / Alfred Harth』(ECM1264:1983)、(これは、Alfred Harth、Paul Bley、Trilok Gurtu、Maggie Nichols、Barre Phillipsという、当時も、そして現在もあり得ないメンバーでの作品で、内容も他に類を見ない逸品、廃盤にしたままなのはいかがなものか)、で、ECMに復帰し、その後、『Fragments / Paul Bley』(ECM1320:1986)、『Paul Bley Quartet』(ECM1365:1987)で、ジョン・サーマン、ビル・フリーゼル、ポール・モチアンを従えたリーダー作で、いわゆる世界的なメディアに再登場している。
ポール・ブレイが制作していたIAI LABEL(IMPROVISING ARTISTS INCORPORATED)の音源は、輸入盤ショップでアナログのレア盤としてしか入手できないような状況が続いていたが、ここにきて国内盤として発売されるようになった。 ■株式会社Musik<ムジーク>
『Alone, Again solo piano』のライナーを書いているのは、ピアニストであり自己のオーケストラを率いる作曲家の藤井郷子さん。藤井さんはポール・ブレイに音楽を教わっている。音楽理論や演奏法を教わったのではなかったという。 ブレイは藤井に「レッスン代を払って先生に習うよりは録音代を払って自分の音楽を録音して聴く方がはるかに勉強になる」と助言している。 ほとんどの先生たちは、できないことを練習しろと言い、できないことを指摘した。 ブレイは藤井に、できることを指摘した。 そして、 「私」が「私」に影響を受け、より「私」になっていくというプロセスがはっきりと感じられた、と、藤井は書いている。
「私」が「私」に影響を受け、より「私」になっていくこと。
ぼくはこのフレーズにぐっときた。 そして何度となく『Alone, Again solo piano』を部屋のオーディオから響かせながら、 その音楽がぼくの意識を開いてゆくのを感じる。 そういうふうにぼくは『Alone, Again solo piano』にふたたび出会った。
▼ 株式会社Musik<ムジーク>のサイトで今井正弘さんが、この作品について書いている部分を引用しておきます。
孤独よ、再び
19世紀初頭のパリ、厭世感を漂わせた酒、 アブサンを愛飲した作家や詩人たちが横行し たという。その思考を奪う甘美な酒は、 自殺者まで出したために製造を禁止されたが、 それはやがて穏やかに解禁された。
そんな歴史の中のストーリーを思い起こさせるのが、 ポール・ブレイのピアノ・ソロ『アローン、アゲイン』だ。 この優れたタイトルの作品は、時に『オープン、トゥ・ラヴ』 と並び称されることがあるが、ブレイというピアニスト とじっくり付き合って人ならば、この2作に共通するのは、 共にソロ・アルバムだということぐらいだ ということに気付いているはず。 シングル・トーンが、メロディラインが、 というようなことを『アローン、アゲイン』の前に 出すのはナンセンスだ。 ここでのピアノの響きはリリックなのだ。 ひたすら彼にまつわる二人の女性ピアニスト/ コンポーザーの作品を使って“孤独を模索”しているのだ。 何度も何度も。 あの薬草たっぷりの個性的な酒、アブサンが人を 彼岸に誘うならば、この『アローン、アゲイン』も、また…。
懐には笑いと、衝動と、孤独を忍ばせて歩いていたい。と 書いたのは誰だったか? 二人からの孤独、再びの孤独、ピアニストは静かにだが、 一心不乱に弾いた。 あのアブサンにも通じる作品が再び世に解き放たれた。
2004年01月12日(月) |
阿部薫の初期三部作『アカシアの雨がやむとき』『風にふかれて』『暗い日曜日』CD化 |
▼ ポリスターからリリースされている『70年代日本のフリージャズを聴く!』第2期■
孤高の天才アルトサックス奏者として知られる阿部薫については、若松孝二監督が映画『エンドレス・ワルツ』(1995)で阿部薫役に町田町蔵(現・町田康=芥川賞作家)を抜擢して描いていた。
町田康(まちだこう)は芥川賞作家となり、昨年はSMAPの『MIJ』の1曲で作詞を手がけている。 「おまえは権力のINUかー!」
このサイト■のサウンドサンプルでは阿部薫の4つの音源を同時に鳴らして聴けてしまう、という。
▼
「彼は、バードよりもドルフィーよりも早い速度で、私たちの前から姿を消してしまった。」(小野好恵)
サックスは声に近づく、と、書くと語弊に掬われる。どの瞬間にも限界に、その場限りであれ何であれ限界に、次の瞬間に何が起ころうが知ったことか、と、阿部薫は吹いている。共演をするときには、勝つか負けるか、だけだ。阿部の演奏は、聴く者に対して、時間を過ごすことは腐敗してゆくこと、を、その宿命を意識させ続ける。阿部は、死してなお、遺された音源によって、そのことを聴き手に突き付けてやまない。 阿部は神聖化されている。影響や巧拙や役割でジャズ史に位置付けられない存在。聴く者が過剰に語るか沈黙する、のはそのせいだ。腐敗するすべてを憎む。 速度がすべてである『解体的交感』(1970)、技巧的頂点を記録した『彗星パルティータ』(1973)、壮絶な記録『なしくずしの死』(1975)、と、それでも、何の必要があって、残された録音を彼の代表作として分類するのか。それぞれの録音はどれも阿部の生き様の一断片に過ぎない。 今回リイッシューされた三部作、『アカシアの雨がやむとき』、『風に吹かれて』、『暗い日曜日』は、編集者・小野好恵(故人)が1971年に録音したテープを、晩年の阿部を支えたプロデューサー稲岡邦彌が、小野の遺志によりアルバム化したもの。こう言っていいのかどうか、この時期の阿部の、可能性を秘めた、と言うべきか、これらの演奏に、微塵にも悲壮感といったものが漂わないのは、「アカシアの雨がやむとき」、「チム・チム・チェリー」、「恋人よ我に帰れ」、「風に吹かれて」、「花嫁人形」、「暗い日曜日」といった旋律に手繰り寄せられる即興を歌っているからではない。 今年、この3枚を聴いて考えさせられたのは、阿部の可能性、といったものだ。恥ずかしい話だが、今回、阿部薫という固有名詞を排除して、改めて無名の新人として聴いてみた。やはり、そこに聴かれるのは腐敗を内に秘めた時の宿命である、が、しかし、彼の音楽が未来において孕んでいたものにも、また明確に気付かされた。“阿部はソロで(短い生涯を)吹き抜けた”という通念に、私は、知らず縛られてしまっていたようである。
小野はライナーをこう締めくくっている。 「確かに阿部は孤独を好んだ演奏家かもしれぬ、しかし彼のたぐい稀な才能に喰いつくジャズメンがいれば、彼はニヤッと笑って喜んで共演した男だった。阿部の元来は開かれた才能を閉じさせてしまったのは結局日本のジャズ界なのだ」
2004年01月11日(日) |
J-WAVEのモーリー・ロバートソン・Eryka Badu・Myriam Alter・「雪月花」・フリッパーズギターDVD・KANと桜井和寿 |
なかなかけさもさむいですな。なんとなく、のほほんな気分。
J-WAVEの日曜の朝、5時から6時。 モーリー・ロバートソンの放送は、きわめて面白い。 めちゃくちゃ早口、かつ、いやみのない博識、はっきりした見解、行き届いた発言の配慮。 明確に反グローバリズムな姿勢。 こういうラジオ番組なら毎日でも聴きたい。 ■J-WAVEのモーリー・ロバートソンのページ >彼の個人ページへ行き、メルマガ配信も申し込みましょう。
▼ bgm: 『Mama’s Gun / Eryka Badu』(motown:2000) 『IF / Myriam Alter』(enja:2002) どちらもデビュー作から3年以上経って発表されたセカンドという共通項。 エリカ・バドゥは柔らかくなってる。子どもを産んだからかな。 Myriam Alterはちょっと注目すべきコンポーザーで、バンドネオンのDino Saluzziが、Greg Cohen(b)とJoey Baron(ds)が、ピアノのKenny Wernerが、いい仕事していました。
▼ ストーブを移動したら、去年の春先に車で聴くのに作ったCDRが出てきた。 なんとも、な、選曲ながら、部屋で2回もかけてしまいました。どの曲も名曲やな。 1.I CAN HEAR MUSIC / QUEEN 2.会いたくて/岡本真夜 3.Palhaco / Egberto Gismonti (piano solo from “Alma”) 4.Dolphine Song / Flipper’s Guitar 5.風に吹かれて/ボブ・ディラン 6.雪月花/松任谷由実 7.好きだなんて言えない/Fayray 8.強い気持ち・強い愛/小沢健二 9.ガストロンジャー/エレファントカシマシ
「雪月花」はほとんどヒットしなかったみたいですが、心情の深さはサザンの「TSUNAMI」なみ。
▼ フリッパーズ・ギターの 『THE LOST PICTURES / それゆけフリッパーズ!! 名画危機一髪』 『ORIGINAL CLIPS & CMs』『TESTAMENT』 の3つの映像が、ひとつになったDVDが発売延期になっているのですか。
▼ KANの11枚目のオリジナルアルバム『TIGERSONGWRITER』の5曲目に収録されている「Oxanne -愛しのオクサーヌ-」には、当時バンドとしては充電中だった桜井和寿が、“衣笠”という名前でギター&コーラスで参加している、とか。未入手。 KAN、本名;木村和(きむらかん)1962年9月24日生まれ。41歳かあー。 名曲「永遠」。もちろん「愛は勝つ」が代表曲。
2004年01月10日(土) |
江戸ポルカ・ポトラッチ(Potlatch仏の即興レーベル)・森山直太朗現象への危惧 |
ててと、てと、てと、しゃん。 「江戸ポルカ/一青窈」 こう来ましたかー。見事な満塁ホームラン、て感じで。「もらい泣き」では反応できなかったわたしですが、少しずつ好きかも。
▼ おととい「このポトラッチこそは現在進行形の即興レーベルだと思う。」 Potlatch と書きましたが、国内盤として流通しているようです。ネットでも買えるようです。 これはもう解説文付きですから、わたしはすべてを買いなおさなければなりません(家計との格闘としての即興を経てです)。 もしもあなたがトランステクノにもレディオヘッドにもシガー・ロスにも寿司屋でかかっているようなジャズや手の見えるようなパンクにも飽きてしまって、死ぬべか、なんて思ってしまうことがあるのなら、なおさらここにある音に遭遇すべきです。ナニ書いてんだかな。 どれを買うのか迷うひとには、この3枚はマストでしょう。 ミシェル・ドネダの『クレフの解剖学』、デレク・ベイリーとスティーヴ・レイシーのデュオ『アウトカム』、エヴァン・パーカーとキース・ロウのデュオ『ダーク・ラグス』。
■"Bishop Records" distribution
と、ぼくは 『rouge gris bruit / Sophie Agnel, Lionel Marchetti, Jerome Noetinger』を聴きながら ナオタロ問題について書いてしまいましょう。
▼
森山直太朗。
TV画面を観ながら「こら、ナオタロ!こら、ナオタロ!」と野次を飛ばしてばかりもいられない。 (「夕暮れの代弁者」というのならECMレーベルのポール・モチアンを聴きたまえ。) (「起き抜けの革命家」というのならレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンを聴きたまえ。)
2003年は森山直太朗の「さくら」とスマップの「世界でひとつだけの花」の年だった。
「さくら」の詞性に軍国主義を視るのはたやすいし、単純にいい曲として歌われていることにはわたしは腹たたない。
スマップの「世界でひとつだけの花」でこういう箇所がある。 「バケツの中、誇らしげに、シャンと胸をはっている」、なるほどね、わたしは合点した。 シャンとしたいのである。 (バケツに並ぶまでに間引かれて選ばれて過酷な競争を生き抜くという事象にも気付けよな) 「さくら」にも共通して漂っているのは、“シャンとしたい”という欲望である。
当然に、欲望であるからには、いち早く効率よく達成したい。 できれば何もしないで歌だけ歌って“シャンとしたい”、という。
森山直太朗は観衆に呼びかける、「さあ、ともに歌おう」。 なんだそれ。個室にこもってひとりで歌っているんなら、それもアリだと思うけどさ。
森山直太朗の新曲『太陽』をユニバーサルのサイトで聴いた。 なんで日の丸をバックにしてんの?あんたソニンの真似か?しかも、なってないし。 これだけ手垢にまみれた空虚な歌詞を歌えるのももはや才能である。 ジャケットを見て、愕然とする。 「さあ、ともに歌おう」と呼びかけられているそろって希望にみちた同じ顔をした若者たち。
それって、どっかの国と同じ光景。
2004年01月09日(金) |
アグネス・チャンはおふろでおしっこしないか |
NHKラジオ「いとしのオールディーズ」にアグネス・チャンがゲスト出演。 さすがにもう「はあい、アグネスですう」とは言わない、のは、知ってますがに。
アグネスの選曲は、なんつうひねりもないあんばいですが、やっぱ聴くといいわあ。 メアリー・ホプキンス「悲しき天使」 ジョニ・ミッチェル「サークル・ゲーム」 ボブ・ディラン「風に吹かれて」 ハーマンズ・ハーミッツ「ワンダフル・ワールド」 ビートルズ「イエスタディ」 カーペンターズ「トップ・オブ・ザ・ワールド」 ブレッド「愛の別れ道」
視聴者から、アグネスが香港でデビューした「サークル・ゲーム」は、ジョニ・ミッチェルのヴァージョンじゃなくてバフィ・セント・メリーのヴァージョンのほうだわよ、という、ものすごい指摘。 それはもうジャズ好きには常識である、キース・ジャレットが弾いた「マイ・バック・ペイジ」は、ボブ・ディランのヴァージョンじゃなくてバーズのヴァージョンのほうだったわよ、という指摘に匹敵するもの。
ある日、アグネスがお茶の間の番組に出ていて「日本のお風呂は、おトイレするのにいったん外に出ないといけないでしょう、あれは、寒いわー、ねえ」と、すっかりおばさんモードで話していましたが、そのイントネーションの背景に、わたしは、「アグネスは、お風呂でお湯をかけながらうっとりおしっこしちゃってる!」という驚くべき確信を持ってしまいました。 で、生涯現役ファンであるわたしは、…、…。
(追記:誤解なきよう、わたしもまた、下腹部に、熱いお湯をかけながら、これがまた、とろとろになるくらいに、ぽわーん、と、ふるふるな、…、…)
アグネスのLPに『Agnes in Wonderland』という名盤があります。 ゴダイゴとの全面コラボレーションで、タケカワユキヒデ全曲提供、捨て曲なし、展開もカンペキ。 とりわけ「Who I am」の素晴らしさは、 原田真二『Feel Happy』における「黙示録」のアンサーソングのようでさえあるものです。
2004年01月08日(木) |
音場舎通信62号、ペーター・ニクラス・ウィルソン |
えれえ、お月様が、きれえ。 bgm : rain tree crow (virgin : 1991)
▼ 音場舎通信62号が届く。コピー誌20ページ。 入手しづらい世界各地の即興演奏や、声の力シリーズ、エレクトロニクス/ノイズのCDを通信販売している音場舎(東京都大田区蒲田3-12-18/tel.&fax.03-3731-8191)が発行。代表は北里義之さん。小爆弾のようなテキストが掲載され続けているメデイアと言っていいものだ。
掲載記事を紹介しておきます、というか読んだ感想。
岡島豊樹:東欧~スラヴのジャズ兄弟たち (小冊子「ジャズ・ブラード」を編集する岡島さんが、セルゲイ・クリョーヒン、ボヤンZ、ヴァギフ・ムスタフ=ザデ、ニコラス・シミオンをニュースを交えて紹介。ボヤンZの新譜のタイコって、ナシート・ウェイツなのですー!、お、ボヤンZのサイトも出来ていて、音が聴けます。) bojan z site
金野onnyk吉晃:後ろ向きになって未来に吹き飛ばされて行く (ローカルな領域で「生~生活~生命」としての即興演奏とグローバル経済。手の届く範囲で生活する、しかないんだろうなあ、と、じっと手を見る…。)
鈴木正美:ここは日本じゃない、ロシアだ (そうだ、北海道はすぐにロシア~ユーラシア大陸が見えてヨーロッパにつながっている大地なのだった。稚内で国際ジャズ・フェスをやる、というヴィジョンはすごい。わしもいずれ札幌に永住するはずだし。)
副島輝人:70年代と今日をフィードバックする (高柳昌行、大友良英、不破大輔、聴かれなければならないです。)
福島恵一:音響について①~音で視るということ (早朝午前5時過ぎに読んでいると、手にしたこの小冊子を持つ指が紙をかすかにずらす音や遠くの自転車がタイヤをこする音、朝の冷たい風の音までが耳に感知させられてくるようなテキスト。空気という水槽の中にいる魚のような存在になる。「暗闇のなかで眼玉を動かしながら聴くこと」、耳から世界を再構成すること、そしてミシェル・ドネダの『プラセ・ドン・レールPlaces dans l’air』(Potlatch)へ。) このポトラッチこそは現在進行形の即興レーベルだと思う。 Potlatch
山田衛子:即興演奏の持つ実験性について~「実験的即興演奏」の提言
横井一江:WARUM?とんでもない!~誤った日本特集の真実@ベルリンジャズ祭 (20数年ぶりに日本特集が組まれた伝統あるベルリン・ジャズ・フェス、帝王マイルスもここの出演に感涙したとか、そこで組まれたのは三宅純とエキゾティカ、コシミハル、菊地雅章のピアノ・ソロ、藤井郷子~吉田達也デュオ。「なぜベルリンジャズ祭で日本人がシャンソンを歌う」「なぜ彼のようなクズ・ロック・ミュージシャンを」と、メディアは三宅純に対して大ブーイングだったそうである。ひええ、こええ。さすが審美によってナニする欧州知性だし。これはもう、クレイジー・ケン・バンド、氣志團、三上寛+林栄一トリオを出さなければならないということでしょう。)
▼ ペーター・ニクラス・ウイルソン、ベース奏者でありジャーナリストであり即興理論家でもある氏が昨年10月26日に白血病で亡くなっていたとのこと。享年46歳。 彼のCDもあるけど、列車からの音をサウンドスケープのように録音したヘルベルト・ディステルの作品、場所から場所へ境界を越えること、を、考えさせる、 彼はこれを聴いて境界を越えていった。
Railnotes Herbert Distel hatOLOGY 2-594 Total time 99:25, AAD, Barcode: 752156059424
In Distel’s ”Railnotes”, we can never be sure where we cross the threshold between the ”real” sound world and the sonic realms of illusion and imagination. We can never be sure indeed, for this threshold is not defined, it’s undefinable and merely a matter of our own perception, our own imagination. If there is a lesson to be learned from these distinctly non-pedagogical two audio pieces, this might be it. — Peter Niklas Wilson
2004年01月07日(水) |
『OVER/オフコース』(1981) |
前日は阿部薫(サックス奏者)ばかり聴いていました。
▼ すっぽんぽんにエプロンつけた三枝夕夏そっくりの彼女が今朝 「あなた、Bird Cageが聴きたいわ」 「V6のとミスチルのとジョン・ケージのと、どれ聴く?」 てな。
▼ 燃料電池に「世界基準」。日米協定、年内締結へ。欧州とも調整。■ またー。日米構造協議んときみたいに、日本人が無料で配布するとしていたトロンを凍結させられて、マイクロソフト(有料にてゲイツさん大富豪)に世界制覇されちまったこと、みたいになるんじゃないのおー?
▼ 今日は20時間くらい仕事してしまって。心が弱くなってしまったのだろうか、中古盤屋で手にしてしまった 『over / off course』を聴いてばかりいました。 やはりこのB面の展開でしょう。「言葉にできない」はこのオリジナル・ヴァージョンじゃなきゃ。
オフコースは、もう、好きで好きで、でした。 『We Are』『Over』『I Love You』という黄金期の三部作、タイトルは並んでセンテンスになりますわな「ぼくたちはおしまいあいしてる」、解散に向かうことの暗示が無意識的にであれ選択されていたんでは。
「さよなら」「Yes-No」のブレイクでオフコースは小田和正のバンド化していったので、鈴木康博とのオフコースであった『ワインの匂い』『JUNKTION』時期のファンも多い。
「生まれ来る子供たちのために」「決して彼等のようではなく~I LOVE YOU」あたりの小田はどう考えても反戦(非戦)モードなひとだったと思うなあ。
で、オフコースでいちばん好きな曲はー、「緑の日々」。 いいよねー、このコーラスワーク、ハーモニー!
2004年01月06日(火) |
『甦れ!ユーミン-「シャングリラ」の悲劇とポップスの死/山下邦彦』(太田出版) |
初詣で。
生品神社■(群馬県新田郡新田町)で、初詣で。 夕方過ぎ、すっかり暗くなった境内。 新田義貞がここから鎌倉に向かって挙兵。 挙兵したルートがそのまま鎌倉街道となっている、のか、どうかはわからんが。 東京都国分寺市の黒鐘公園わきに、府中街道に平行して数百メートルだけ遺されている旧鎌倉街道の暗闇を連想する。 あちらで雪は降り、こちらで雪は降り。
▼ 昨年11月に出た『甦れ!ユーミン』山下邦彦著(太田出版)。
冒頭にちょこっとだけ言及される、 (赤組:拓郎・みゆき・サザン、青組:陽水・ユーミン・安全地帯、という85年時のサウンドに対する色分けに言及して)
”ほんとうの問題は、2003年の現在、 軍国の肯定と平和の祈りが『赤組』の圧倒的な優位でリフレインされ歌われ聴かされ共有されている という事実だ”、
という指摘にシビレてます(今なら青組にミスチルが入るはず)。
ジャズについては(P50~P51) ”「本物」と「偽物」を見分ける、聴き分けるのはほんとうは簡単なことだ。 テンションがわかるだけでは、コードの形が複雑になるだけだ、 とどこかで本能的に知っているジャズ・ミュージシャンだけが「本物」だ” と書き、次のページではこう書いている。
”音楽大学で学んだことを、そのまんま肯定して憶えたまんまのことを、 生きている間、ずっと反復して飽きない、なんて人間がアーティストであるはずがない”
山下さん、すごいわ。
ユーミン、パット・メセニーと共演したりするかなあ。してほしいなあ。 メセニーのピカソ・ギターが中心になったアクースティック・カルテットでもってユーミンが歌う、これはもうお経どころかアジアやらユーラシアがぐらんぐらん揺れるようなサウンドになるのでは。
ちなみに、山下邦彦さんの著作のタイトルだけちょっと並べると。 このアーティストのラインナップにちょっとしためまいを覚えることでしょう。 『Mr.Children Everything - 天才・桜井和寿 終わりなき音の冒険』 『坂本龍一・全仕事』『坂本龍一・音楽史』 『キース・ジャレット 音楽のすべてを語る』 『武満徹 音の河のゆくえ』(共著) 『ビートルズのつくり方』 『楕円とガイコツ「小室哲哉の自意識」×「坂本龍一の無意識」』
桜井くんがもっとも信頼している、桜井くんにもっとも影響を与えた、 そういう音楽ライターであることをミスチル好きは認識しておきませう。
山下さんの記譜の革命とは、このドレミ譜のことだったのかしらん。 ■9・11と山下邦彦
2004年01月05日(月) |
TLC、いいじゃん!・Eskelin~Parkins~Black |
▼ TLCのヴィデオを大音量で観て、しまい、「No Scrubs」の楽曲の良さを堪能しちまう。 街角で子どもたちが合唱して楽しんでいるシーンに、ちと、しっと。 「TLCは永遠よ」と語るシーンにじーん。
部屋に帰ってからはー、TLCのCDは持っていないのでー、うーんと、えーっと、という具合に、こないだ買ったアヴリル・ラヴィ-ンを大音量で聴きましたとさ。
▼ そしたら、ちょっと、ハードコアジャズ耳モードになってしまいました。
ラディカルジャズ界隈でのTLC的な存在として!と 聴いたわけぢゃあないんですが、この3人の演奏生命力は別格です。
エラリー・エスケリンのサックスは、これはもうちょっとした世界最前線的注目のオトコギと語りを持ったロック魂も当然パンクをリアルタイムしたぼくらの世代に相応しいヒーローでありますし。アンドレア・パーキンスのオシャレに切れたハモンドオルガンとピアノの応酬。越境しまくる変拍子ドラマーのジム・ブラックも、当然好調だし。 このトリオの最新作。
Arcanum Moderne Ellery Eskelin with Andrea Parkins & Jim Black hatOLOGY 588
ハットハット・レコードは、欧州ジャズ即興現代音楽の守護レーベルとして非常に重要なレーベルです。 ■
以前、ぼくが雑誌に書いた「ハットハットを救え!」も強力に参照してくださいー。 ■
2004年01月04日(日) |
桜井和寿×槇原敬之・CoccoのHITACHIのCM |
bridge誌2月号でふたりの対談全54ページを読む。 「Hero」の桜井と「世界に一つだけの花」の槇原だから
「槇原くんさー、あの曲が流行ってるときに、イラク戦争、イラク侵略かなあ、やっぱ、が、始まってさ、3月20日にさ、それって、目くらまし作用しかしてなかったんじゃないかなあ」 「ぼくは自分の目くらましにしたかったんだけど(笑)」 「なってる、なってる(笑)」 「桜井さんのHeroだってテロリズム賛美でしょ?」
てな会話を期待していましたが。 ■
桜井くん、Heroが出来たとき 「世界を取ったじゃないけど、わ、ウマいこと言っちゃったなあ、ていう、感じだった」と、なんとも正直な。 >谷川俊太郎(詩人)だって、自分の創作について、ハッキリ受け狙ってます、と、言ったくらい。 それに対し、槇原くんが「ははは、イヤだな、なんかそれ」と応じているのがいい。
槇原くんが提出した桜井くんへのオススメCDは、 英国のチビ・メガネ・ホモ・ブチャイク・ロッカーであるエルトン・ジョン(大好きー!)の新作『ソングス・フロム・ザ・ウエストコースト』だったりして。 わかりやすすぎー。
槇原くんは坂本龍一のライブにゲスト出演して歌ったりしているみたいだし。 おお、お仲間なのかー。 坂本が2001年に始めたArtist’s PowerはGRAYのTAKUROと始めた、というけれど。 なんでーグレイなのよ、ラルクじゃないのよ。
▼ こっこのひたちのCM、いいねえ。 ■
いよいよこっこのふっかつというか、 引退時には、いずれ林栄一のサックスをバックに復帰するだろう、てな 予言までしていたわたしですが。 さあ、今後が楽しみだ。
▼ BBしよ、って、Cして、Dしてんじゃん、ひろすえ。
2004年01月03日(土) |
小林武史と桜井和寿が始めた“銀行” |
早朝の冷たい空気の那須高原を見ながら国道4号を北上する。 赤信号で止まる。 ドアポケットのセーラーマキューリーのフィギュア人形を手にする。 GOING UNDER GROUND の音量をあげる。 窓を全開にして走り始める。 どんどんスピードをあげる。
▼ 小林武史と桜井和寿が始めた“銀行”(!)、「エー・ピー・バンク」の存在を知る。
普段生活する中で、環境問題に対する意識が徐々に芽生えた 櫻井和寿がArtists' Powerへの参加を経て 具体的に未来を想像する第一歩を踏み出してみるために ap bankを作りました。 ap bank
2004年01月02日(金) |
初夢・英『WIRE』誌1月号・レコ大 |
葬儀が行われている。 薄暗いお寺の講堂。 坊さんが大きな仏壇に向かって経を読んでおり、坊さんの横に白木の棺が置かれている。 見ると、棺の蓋が開いていて、中から赤外線のような光が広がっていてそこから熱が発せられている。 ぼくはいつも仕事で着ている黒革のコートの襟を合わせている。 横に、以前勤めていた会社の別の部署の上司が立っている。「祝(ほうり)さんじゃないですか」と声をかける。彼はちょっと照れ笑いをしている。(なるほど葬儀の仕事もしてるんだ…)と思いつつ「なんだ、祝さんの“ほうり”って、やっぱり“屠る(ほふる)”だったんですね」と言った瞬間、棺の中がガタッと動いた。 母方の祖父の葬儀にぼくは参加しており、遺体はまだ火葬されていないことがわかった(現実では十数年前に祖父は亡くなっている)。 棺の中の遺体が、酔いから醒めるようにガタガタと音をさせながら起き上がってくる。 い、生き返った?と見ると、髪の毛が長くベタベタになった若者が立ち上がった。胸毛が生えていて、白い肌で、筋肉質な体だった。 これは、若かった頃のおじいちゃん、なんだ。 「おう、まさのりか」と、その若者は言った。ぼくは、鼻のかたちや口元の輪郭を確認しながら、(おじいちゃん、ぜんぶ知っているの?)(ここに生きているひとたちの心の内面やしてきた行為のすべてを)と、問いたい気持ちになりながら、脳裏で(自分はどうだろ、悪い気持ちでは生きてこなかったよな)と思いながら、この怖い若者(これから彼は生きる者を断罪してゆくのだろう)に安心した無防備な気持ちになって目を閉じた。 すると、布団の中だった。
時々見る奇妙な霊的な夢が初夢だったし。
なべを火にかけて、郵便受をのぞくと4枚の年賀状と英『WIRE』誌1月号が届いていた。 特集は年間ベスト(「2003 Rewind」)。 1・2位は、ロバート・ワイアット『クックーランド』とデヴィッド・シルヴィアン『ブレミッシュ』。 順当。さすが信頼に足る音楽雑誌だなあ。
JAZZとIMPROVの分野の年間ベストをチェックすると。 …お!ジミー・ライオンズのボックスセット(5CD)、PI RECORDINGS の2枚(アンソニー・ブラクストン&ワダダ・レオ・スミス、アート・アンサンブル・オブ・シカゴ)、が!
…なんと、これらのCDは、ぼくが車に載せてまで愛聴している日々のジャズ盤なのだ! 「タワーやユニオンに行っていくら買っても聴いてもピンとこなくて、最近のシーンはさっぱりわからなくなってしまったなあ、最近はアート・ペッパーとかリー・コニッツとかやたら気持ちいいし、もう若くはないんだろう、こないだネット直販で入手したジミー・ライオンズにブラクストン、AECは、あいかわらずだけど、現在を生きている、って感じがするよなあ、とりわけトンがっていなくったっていいじゃん、電子音使ってなくたっていいじゃん、今日もこれ聴こー」という具合に。 ベテランの普遍性。内容はすごくいいけど凡庸な賛辞しか思いつかないこれらの盤、が、英『WIRE』誌では若手のアーティストを押しのけて評価されている。「なんだ、拾ってんじゃん、おれー」と友だちに自慢したくなった(と、ここで思いっきり自慢している)。やっぱ自分のジャズ耳を信じてあげよう。 IMPROVでは、キース・ロウ(AMM)が2枚もノミネートされている。日本のExias-Jや杉本拓も。
キース・ロウ(即興系ギター奏者・英国)といえば。 3年前のデヴィッド・シルヴィアン来日公演で、メンバー紹介されてて「ベース、キース・ロウ」のアナウンスに友だちが「ごえっ?(え+濁音、もしくは、え?+げ?+おえ?、の発音)、あのキース・ロウ?ベース?」と、驚いてたことがあった。同名別人のミュージシャン。 (でも今年のシルヴィアンはディレク・ベイリーと共演してるし)
レコード大賞が3年連続で浜崎あゆみだった。ありえねー。 断然今年は『世界でひとつだけの花/SMAP』の年だっただろー。 なんとスマップはNo.1にならなくていいという歌だからレコ大は辞退したというではないか(休みたいだけじゃん、槇原に作詞賞やれよー)。 94年のレコード大賞はMr.Childrenが受賞して(「innocent world」)、受賞して出場しなかった初のケース。歴史が象徴されている。 出演しなくても、賞の客観性(みたいなもの)は保つべきだと思うけど。 というわけで、レコ大にはほんとうに意味がないということの確認でした。
だからレコ大で泣くなよ、はまさきー。 はまさきの偉大さは、『Lost In Transition』(ソフィア・コッポラ監督映画のサントラ、ケヴィン・シールズが新曲を披露している)、冒頭の渋谷駅ホームの収録サウンドの背景にエコーして鳴っている“はまあゆサウンド“のリアリティが証明しているんだから。10年後、20年後、今は若いだけの”はまあゆリスナー“たちだけでなく、このぼくだって、きみの音楽を聴いて2000~2002年を強烈に思い出すだろうし、涙さえ浮かべるかもしれない。
2003年のJポップ。 スマップ、森山直太朗、平井堅、ミスチル、ひととよう、松浦亜弥、ソニン、はまあゆ、ケミストリー、矢井田瞳、といったところじゃなかったですかね、客観的に言って。aiko、ポルノグラフィティ、椎名林檎、は次点。はなわ、は、きみまろ賞。 HydeとスガシカオとBump of Chickenは、これはもう個人的には入れたいけど。
これで10年年賀状を書いてない。返事も出してない。それでも年賀状をくれる4人の友だち、ありがとう、そして、ごめんね。
2004年01月01日(木) |
J-WAVEは反グローバリズムであることを認識・ピーター・バラカンのサイト |
徹夜して。年越しそば、煮込みうどん、たまごごはん、で、これ書いて寝ます。うーん、寝正月。
朝まで生テレビ。あいかわらず姜尚中がステキ。日本共産党の穀田恵二が和服で出演していた佇まいにちょっと感慨。日本(語)的マルキシズム、とか、アジアの緩やかな連帯(アメリカとユーロに対抗する)、ネオ大東亜共栄圏、は、そんなにだめ? 韓国での日本語表現の放映についてさらに緩和されているニュースや、韓国語を勉強している綾戸智絵(ジャズ・ブルーズ・ゴスペルのシンガー)の姿、がリアルに想起される。
ずっと思っていることだけど、共産主義という名前、は、そろそろヴァージョン・アップして、新しいネーミングにならないものか。エコロジカルな要素を加えて、とかさ。マルクスの時代には環境問題なかったんだし。この”イズム”によって殺められたひとびと、殺めたひとびと、を思うと、いまいちどリセットとヴァージョン・アップされててしかるべき21世紀であってほしいと思う。
今年最初の音楽は、午前5時半過ぎのJ-WAVEでかかったポリスの「Every Breath You Take」でした。なぜにか大沢誉志幸の「そしてぼくは途方に暮れる」が耳に流れるし。20年前へタイムトリップ、の、この実感。
こないだ「デヴィッド・シルヴィアンはグローバリゼーションに加担する」なんてのを書きました。 これは思想家ジジェクの物言いにひっかけて、じつは逆のことを示唆したかった、というのがあります。
J-WAVEで、こないだの朝、グローバリズムについて、その問題点を提起するようなナレーションが語られていたけども、単にサウンドのセンスがいい放送局ではなさそうです。
元旦でもあり、このネタにもっとも相応しいCDを紹介しておきます。 ピーター・バラカンのサイト(peter barakan's BROKEN RECORDS)で購入したのですが、その紹介文を引用しておきます。
(以下、引用) このちょっと変わったタイトルが指すのはGovernments Accountable to Society and Citizens = Democracy、つまり「社会と個々の市民に対して責任がとれる政府こそ民主主義なり」といったことですが、馴染みの薄い名前が多いにもかかわらずかなり聴き応えがある面白い内容です。2枚組のコンピレーションで、出演者全員がタダ働きをしているようですが、売り上げは大企業によるグローバリゼーションの弊害についての意識向上のために活動を続ける人たちを支持するのに使われるとのことです。Ani Difranco, Bruce Cockburn, Gil Scott-Heron, Michael Franti など、活動家としての顔を持っている人たちに加え、Olu DaraやBill Frisellの名前を見つけて僕はこの作品に対する最初の好奇心が湧きました。特にフリゼルの未発表ライヴによるマーヴィン・ゲイの名曲What's Going Onのカヴァーは彼のファンなら聴きたくなるものでしょう。(ピーター・バラカン)
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