日記...マママ

 

 

猫の日 - 2008年02月22日(金)

今日は猫の日です。

猫の日。


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甘いお菓子をあげる女と眉のこと - 2008年02月21日(木)

眉毛を切ることと、「甘いお菓子をあげましょう」の女になることは似ていると思った。
もやもやとした不安感と焦燥感に包まれる。

寝よう。



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思い出す反省 - 2008年02月20日(水)

前勤めていた職場のOさんの夢を見た。
わたしがかつて、危うく脳内変換しかけた相手だ。
その職場の男女比は95:5ぐらいで、なおかついかにも理系エンジニアな女っ気のない男性ばっかりだった。だからある日突然、派遣社員としてわたしたちがやってきたときには、なんというか、職場内にはある種の戦慄が走ったらしい。あとで聞いた話だけど。

そこでわたしたちは、実に多くの人から脳内変換された。
昼食時の話題はもっぱらそれで、最初に別の同僚の女性がそうなった話を聞いて「へー。大変だなあ。」とか思っていたらいつの間にか自分になっていた。
今でも彼らの、あの満面の笑み、わたしを見ているのに見ていない、付箋のいたずら書き、下着の話、スカートの中を覗かれる、

そんな中でOさんも、実はわたしを脳内変換していたようだった。

でもわたしは、Oさんは他の人と違うと思っていた。
Oさんとは普通に会話ができたのだ。
年も近かったし、笑いの感性も似ていたし、婚約者がいるという話は聞いていたけれど、別にそういうことはどうでもよくて、ただわたしはOさんとの会話を楽しみにしながら職場に通っていた。

ああ、もう出かけないと。


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つづき


そのへんから、わたしのほうもOさんを脳内変換し始めていたのだろう。
Oさんはわたしにとって、職場内のオアシスになった。
この人とだけは、わたしは普通にしゃべれる。
他愛もない冗談を言い合って、笑い合ったりすることができる。
それが本当に有難かった。
なにしろ、他にそれができる相手がいなかったのだ。
同僚の派遣社員の女性たちとは毎日昼食をいっしょに食べていたけれど、年代も一回り違うし、それまで生きてきた道のりもあまりに遠すぎて、結局辞めるときまで当たり障りのない世間話しかできなかった。

派遣開始から半年ほど経ち、Oさんと同じグループになって一日中行動をともにするようになってから、いろんなことがおかしくなり始めた。

ほどなくして、わたしはそのグループを抜けさせてもらった。
部署内におけるわたしの存在価値は、その一件で暴落した。

Oさんもまったく悪くないわけじゃないんだけど、今思うに、あれはやっぱりわたしの行動のほうが的確ではなかった。
もっと他に、穏便な解決策はあったはずだ。

今でも思い出すと申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
Oさんを勝手に「わたしを理解してくれている人」だと思い込んでいた自分の浅はかさを恥ずかしく思う。

内部にいると不満は尽きないものの、客観的に見るととてもいい企業だ。
そのままそこで働き続けることができていればいいと思う。
そしてそれなりのポストをもらい、両親に交際を反対されていたという彼女とも無事結婚して、子どもなんかも産まれて、幸せに暮らしてくれているといいと思う。
Oさんはもうわたしのことなんて忘れているだろうけれど。



陽一掲示板の書き込みを見るにつけ、耳が痛い。

声を聞くと思い出しそうだから、と言っているのを聞いて、ああ、あれかな、と思い当たる節があった。
うつが本格化してきたころ、どうすればいいのかわからなくて泣きながら両親と対面したとき、わたしは父から
「そんなに死にたいなら死んでしまえ!」
と怒鳴られた。
これが父の愛情表現であることは、わたしは理解できていた。
額面どおり受け取るものではない、ということも。

翌朝目が覚めた瞬間、あの感情が沸き起こった。
あの感情、とは、うまく言い表せないのだけど、「がんばるしかない」という、よく言えばアグレッシブな気持ち。
そうか、よし、がんばろう、と、本当にそのときは思ったのだ。
それからのことは覚えていない。
食事はしたのか、着替えたのか、欠勤の連絡を会社にちゃんとしたのかどうか。
次の記憶はもう夜で、一日何をして過ごしていたのか、そこの記憶がすっぽりと抜けてしまっている。
ただ頭の中で、父の怒鳴り声だけがぐるぐる回っていた。

もしかしたら、そんな感じ。

誰かを傷つけることは簡単なのに、それを癒すためにできることは、本当に限られているね。

わたしの中の黒い人は、今やこんなに、まるでたんこぶみたいに小さくなったというのに、それすら乗り越えられないわたしが、悔しくて、どうしようもない。



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- 2008年02月19日(火)

教室への車の中で、なぜだか急に「強く儚い者たち」を無性に歌いたくなった。CDを聴いてみて、納得した。今わたしが考えていることとほとんど同じ内容だったからだ。
Coccoの歌に出てくる女性たちに、わたしの恋愛観はすごくよく似ていることに気づいた。Coccoがあれだけ売れたことを考えると、実はわたしの恋愛観もそこまで特殊なものではないのかもしれない、と思った。なんとなく安心した。焼け野が原、あめふらし、星の生まれる日。あとはRaining。

眠れない。
眠いんだけど、寝付けない。
心配で。
日記が更新されるのを当てもなく待っていたりする。
体が内側から、ひんやり冷たい。
さむい。

メインページのほうを毎日律儀に更新しているのが、またなんというか…。




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「付き合うって何だ論争」 - 2008年02月18日(月)

「付き合うって何だ論争」というものがあるらしい。
大学生のころに聞いた。
でも決着なんてつかないんだろうな。
「本人同士がそうと納得していれば、それが付き合ってる状態だ」とか、中学2年生の放課後の雑談みたいなしょうもない結論にしかたどりつかないような気がする。

「結婚」とはその先のステップアップなのかどうなのか、こういうことを考えるたびにわたしはもうちょっと唯川恵とか読んで世間の年頃の女性がどういうことを考えてどういう人と結婚しているのか知ったほうがよいのだろうか、と思ったりもするのだが、たぶん「結婚」は一般的に考えるとまあひとつのステップアップなのだろう。けれどあくまで一般的に考えたときの話にすぎず、選択肢のひとつにすぎず、それを採るかどうかは当人にかかっている。誰か唯川恵のおすすめの本を教えてください。


さて本題を。
わたしのこの側面は、いつ消え去ってくれるのだろうか。責任転嫁ではなくて自己分析なのだけど、わたしは両親から、理不尽に怒鳴られ、罪を着せられながら育った。今現在、老いた二人は本当に温厚になった。酒が入ると父は時折以前のようにささいなことで激昂して暴れたりもするけれど、頻度は劇的に減った。きちんと人の話を聞けるし、会話が会話として成立する。たぶんこれが「普通の家庭」なのだ、と、わたしはこの年にして本当に初めて知った。わたしの精神がおかしくなりだしたのはどうやら思春期に入ったころからだろう、というのは今までかかってきた医者たちに共通する見立てで、わたしの自尊心とか自己肯定感といったものの芽生えは、どうやらうまくいかなかった。理不尽な扱いを受けるたびににわたしは「こんな人間にだけはなるまい。」と固く心に誓った。子どもを叱るということはとても大切なことだし、人前で怒りを露にすることがあってもいいと思う。ただし、目の前にいる人間に対して相応の筋を通す限りは。
育った環境が少なからず今のわたしに影響を与えていることは確かだと思う。わたしは親しい人、大切な人に愛情表現をすることを、すなわち「怒鳴りつけること」だとどこかで思い込んでいる。それはきっと、両親の愛情表現だったのだ、だから親しい人に対してはわたしも同じことをするべきなのだ、というふうに知らないところでからだに刻み込まれてしまっているような気がする。
こういうことを書くのは好きではない。「親のせいにして」という声が今にも聞こえてきそうだ。そう言われるのはしんどい。
でもちがうんだと思う。ここで立ち止まって不幸自慢を続けているだけでは、それは単なる責任転嫁だと思う。でもそうじゃないの。わたしはもっとよくなりたい。もう少し、もう少しだけでいいから、普通の人間になりたい。周りの大切な人たちを、当たり前に大切にできる人間になりたい。それだけ。ただそれだけなのです。変わりたいんだよ。変わりたいから、だから考えなければいけないことなのだ。
わたしが人間関係を長く保たせることができないひとつの原因にこの側面があると自覚してからは、自分で言うのもなんだけど、がんばったと思う。内側で暴れまわる自我を何としてもコントロールしたかった。以前に比べたら最近はずいぶんましになったのではないだろうか。


なんて思っていた昨日、わたしは同じことをした。どんどんどんどんあふれだすことば。ことばの波。大津波。こわい。おそろしい。わたしなのにわたしじゃないみたいな、ひどいことば。ひどすぎるよね。
筋は通した。けれど、だから何だというのだろう。たとえそれなりに筋が通っていたって、ひとつひとつのことばが刃になって相手をぐちゃぐちゃにしてしまうことに変わりはないのだ。変わらない。あのときの父と、母と、何も変わらない。変わらないよ。同じことをしてるだけだよ。わたしは何も、わかってなんかいなかったんだよ。大切なものを傷つけて、谷底に突き落とすだけなんだよ。
こんなことがあると、自分の殻の中に閉じこもりたくなる。もう誰とも話したくない。関わり合いたくない。いやだ。いやだ。いやだいやだいやだいやだ。


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- 2008年02月17日(日)

いろいろなことがぐちゃぐちゃになってしまった。
大切なものほどはかない。大切なものほど目に見えない。
昔の人たちは、さすがによく言ったものだ。

本当は、わかっている。
わたしの何気ない、小さな小さな言動でも彼を苦しめうるということは。
彼がそれだけ傷つきやすい人なのは、よくわかっている。

なのに、ごめんね。
ごめんね。
最悪だ。
あんなに傲慢に、さまざまなものを求めることなどできないのに。
なぜあんな勘違いをしていたのだろう。

全部とっぱらって、わーって横に全部のけてしまって、残っているのは
好き、好き、好き、好き、
好きで好きで
だいすきで
ずっといっしょにいたくて
本当に、それだけなんです。
ごめんなさい。



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ハッスルハッスル - 2008年02月04日(月)

遅刻して母に怒られる。
これは全面的に自分が悪い。再発防止のために気持ちを入れ替えておきたいところだ。しかし怒られておいてなんだけど、これまでとちがって言いたいことをすごくわかりやすいことばでストレートに言ってくれたので、なんというかこう、変な安心感のようなものををおぼえた。これまでは、なんだかものすごく遠まわしで婉曲的な表現で、しょうもない屁理屈をこねながら、ひとりでぷりぷり怒っているばかりだった。聞いているほうは何がなんだかさっぱりわからないのだ。よかった。これからも、怒りを表現するときはそのようにはっきりと伝えてほしいと思う。(怒られておいて何を言ってるんだ、とも思うがこれが偽らざる本音。歯に衣着せぬ物言い、というのがいかに後腐れを残さないものかを実感した。)

しかしひとつ、思い当たることがあった。
わたしも他の人に同じことをやっていたかもしれない。
反省しました。


くりぃむナントカを見ていて、日村はやっぱりおもしろくない、ということがわかった。
前は確かにおもしろいと思ってたんだけどなあ。


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自分の気持ちを自分で決める可能性について - 2008年02月03日(日)

「自我」が芽生えるのは小学5、6年ごろの思春期からだそうだが、それまでの子どもにも当然大人のそれとはちがっていても自我と呼ぶべきものはあるわけで、でも彼らは自分のするべきことを自分で決めることができない。小学生、中学生、高校生、年を取るにしたがって少しずつ自分で決める範囲は広くなってくるけれども、それも、本当に少しずつだと思う。
みんなは、どのぐらい、自分のことを自分で決めていますか?周囲の人々に問いかけてみたい。

目が覚めると夕方だった。
もんじゃを食べに行こうと思っていたのに。

ゆうごはんは焼きビーフンを食べた。
それと、ゆうべの肉じゃがの残り。
頭痛と吐き気と熱っぽさ、これは風邪ですか?


西表島のひとびとの暮らしを追うドキュメンタリーを見た。

ある南の島に、小さな集落がありました。
よそから人が入ってくることはなく、村人たちは温暖な気候と海の恵みに感謝しながら、ひっそりと、しかし幸せに暮らしていました。
若者たちは恋をして、子どもを産みました。
その子どもたちもまた恋をして、子どもを産みました。
村人たちはみな幸せに暮らしていました。
村人たちの幸せは、永遠に続きました。

「閉じられた社会」の安らぎとおそろしさ。


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