頭がジャングル - 2007年08月27日(月) そういう歌があったなぁ。 もうすぐ普通になれる、と思う。 根拠はない。 もうすぐ普通になれる。 薬を減らしても、大丈夫だと思う。 早めにお医者さんに相談しないといけない。 ずーーーーーーっと、 大事なことを考えようとしてもそれが何かがわからない、というような、もやがかかったような状態が続いているのだけど、それがいいことなのかどうなのかもよくわからないのだけど、これはたぶんお薬のせいで、とりあえず落ち込まないようにするにはきっとそうするしかないのだろう。 たまにもやが晴れると、大変なことになる。 ごめんね。 本当に。 だから、なんだかスッキリしないけれども、このもやはあったほうがいいのだ。たぶん。 考えるのをやめて日常の生活にわたしを押し出してくれるのが、そのもやだから。 うん。いいのいいの。 これでいいのだ。 - 働きマン4巻 - 2007年08月25日(土) 何はともあれ、新二との逢瀬がせつない。 確かに気持ちが残っているのに、言い出せないまま別れ別れになってしまうふたり。 …せ、せつないよぅ!! どの話でももれなく仕事でパッツンパッツンに張り詰めているヒロがそろそろ痛々しく見えてきた。 主婦の友人にあたるなよ…。 「魂がぶつかり合うような恋愛」というのは確かに真実味のあることばだが、でもそれが正解なのかと聞かれたら、たぶんわたしは違うと答えるだろう。魂のぶつかり合いとは、生き方のぶつかり合い、自我のぶつかり合い、その過程を経てもなお互いに惹かれあい、必要とするならそれは本物の恋愛なのだろう。けれども。 わたしの知りうる範囲内では、その「魂」をぶつけ合ってうまくいった恋愛というのはひとつもない。 すべてをさらけ出し、ぶつけ合い、その果てに許しあえるような、人間とはそんなに高尚な存在ではない。 だから人間は、ことばとか理性とかいうベールで、たくさんのことを包み込んで、くるみ込んで、互いにいっしょにいられるようにしてきたんじゃないか。 人間はサルとは違うのだから、と「魂」のままにまっすぐに自らの精神活動に忠実に突き進みながら生きるのか、 周囲との調和を第一に考えながら、ときに妥協し、ときに信念に反する言動を取りながら生きるのか、 どちらがより「人間らしい」生き方なのだろうかね。 - さみしい - 2007年08月19日(日) ばななはもういい、という話だが、この虚脱感、がっかり感、ぽっかりと魂が抜けたような、浮遊感。 かなしい。 さみしい。 もう何もしたくない、力が出ない、やる気も出ない。 さみしい。さみしい。 帰り道のJRの車内で、前の座席に座っていた親子がいい感じだった。 3歳ぐらいの男の子とお母さんがふたりで座っていて、男の子は、窓の外の景色を懸命に眺めていた。 壁とイスの隙間から見える後席のわたしの顔が気になるらしく、時折目が合う。 顔つきが陽一君に似ていた。 切れ長だけど大きい目、ほっぺのやわらかい輪郭、ふっくらしたまぶた、細い鼻筋、うすい唇、陽一君を3歳児にしたらこのようになるのではないか、と思った。 お母さんは、3歳の陽一君(仮名)がよその座席に歩いていかないよう彼のからだを抱きしめながら、窓の外に流れる風景を、しっかりしたボキャブラリーでひとつひとつていねいに彼と共有していた。ほら見てごらん、タンクローリーが走っているよ。ガソリンがはいってるの?そうね。ガソリンが入っているのよね。見てごらん、黄色い列車がお隣に停まっているよ。あっ!あそこにあるのは蒸気機関車じゃないかな?じょうききかんしゃ。ね、蒸気機関車じゃないかなぁ?そうばい、じょうききかんしゃばい。 男の子はそこまで話してから突如、鶴屋の歌を歌い始めた。 鶴屋とは熊本にある百貨店で、店内では 「鶴屋 ラララン 鶴屋 ラララン ランラ ララララ ランラン ハイ ハイ ハイセンス つ・る・や♪」 というような感じのテーマソングがエンドレスで流れている。 それを彼もまたエンドレスで歌っていた。 同郷だわ。 熊本駅に降り、第一環状線に揺られながら、体が熊本の街に自然となじんでゆくのを感じた。田舎っぺ丸出しのギャルの集団や、ごみごみとした統一感のない店構え、生々しい蒸し暑さ。全体的にゆるく、無頓着な、なんだかそういう感じの。そこにかっちりとはまり、風景の中に違和感なく溶け込んでいく。 熊本市に越してきてから10年以上が経ち、その歳月が、たぶん、この土地に適合した「身の丈」というようなものをつくりだしていたのだ、と気づいた。 昔、米作りでは誰もが一目を置くある善良な男が、土地の権力者に、半年かけ丹精こめて育て上げた自家製のとっておきのお米を振る舞った。 それはもう本当においしいお米で、殿様が果たしてどんな反応を示してくれるか、楽しみで仕方がなかった。 殿様はひとくちごはんを口に含んだ。 もぐもぐと咀嚼し、確かにこれはおいしい、というようなことを言おうとした。 すると中庭では、殿様の3歳になる寵児が蝶々を追いかけている。 愛らしいその姿に殿様はもぐもぐと咀嚼を続けたまま中座して、子どもを追った。 あとはもう、蝶々と戯れる子どもと殿様。 うららかな秋の空に、きゃっ、きゃっ、と歓声が響く。 お膳の前にかしこまって控えていた男は、その光景をただ見つめていただけだった。 なんだか自分でもよくわからないが、なんとなく頭に浮かんだお話。 - まんがを読む - 2007年08月18日(土) 陽一君が「おもしろい」と言うのをもう10回ぐらい聞いた「not simple」を読んだ。陽一宅にて。 深いところにしこりが残る作品だ。 「華麗なる一族」と「カリフォルニア物語」を合わせたような話。 ずっしりしたものをただそのまま押し付けられ、読後感というべきものは何も残らない。 読み進めながら、ただひたすら、淡々と「そういうものだろう」と思う。 それ以上でもそれ以下でも、ない。たぶん。 カリフォルニア物語のイーヴと同じくイアンも死んでしまった。 最後まで善人であり続け、他者のろくでもないエゴに殺される人たち。 そういう人たちを食いつぶしながら、世の中というのはうまく回っている。 べつに社会派なことを言いたいわけではなく、わたし自身をミクロな観点で振り返ってもそう思う。 印象に残ったのは、イアンと女性の 「楽しくなさそうだったわね」 「あなたが楽しくなさそうにしていたから」 「今は笑っているわね」 「あなたが楽しそうだから」 という意味の遣り取りが行われるシーンで、注目すべきは、その女性よりイアンのほうがはるかに過酷な状況に置かれているのに、イアンのほうがずっと大きなまなざしで女性を見ており、自身の気まぐれで家出してきただけの恵まれた立場の女性のほうが、不幸の塊のような境遇のイアンに精神的に寄りかかっているということだ。 この構図。 この構図は恐ろしい。 自動的にそういう立ち位置になってしまうことを嘆くことを知らない人がいる。 本当に純粋な人というのは、きっとそういう人のことを言う。 そういう人を踏みつぶしながら生きていないだろうか、と考えると恐ろしくなる。 生きていくのが恐くなる。 「幸せとは何か」ではなく「不幸とは何か」を考える。 不幸とは、たぶん、自分は不幸だと思ってしまう、あるいは、思わされてしまうこと、そのもの。 だから、イアンとイーヴにだって「不幸」ではない時期はあったはずだ。 「よつばと!」の人は絵がうまいなぁと思った。 それに観察力がすごい。 よつばのモデルがいるのなら見てみたい。 何気に父親もかなりの変人だというのがよい。 - よーいドン - 2007年08月15日(水) 「天国と地獄」の鳴り響く中、わたしの明日は始まります。 だってやるべきことを、何も、なんっにも、してないんだもん。まだ。 朝食を作り、その間に洗濯をし、食べたら洗濯物を干し、部屋を片付けている間にそろそろ家庭教師に出る時間になるだろう。 帰ってきたら来週の教室の準備をしよう。 3時間は固い。 それから帰宅して、旅行の準備をする。 服は決めたので、あとはそれを詰め込むだけ。 忘れ物がないように。 洗面具、シャンプーとリンス、替えの下着、歯ブラシ、練り歯磨き粉、整髪料、コンタクト、お薬。 微妙にサプライズな贈り物。 明日の頭はフル回転、休む暇はない。 夜行バスの中ではゆっくり眠れることだろう。 あぁ、そのために、家を出る前にお風呂に入っておかなければならない。 そしてアイマスクも。 バッグは決めた? - クレヨン - 2007年08月08日(水) まっすぐになれなかったわたしは、まっすぐに生きる人を見て、いいなぁ、と思う。 子どもたちが語る「将来の夢」はあまりに壮大で、そして純粋でまっすぐだ。 そして、時たまそういう子どもの頃からの夢をそのまま実現してしまう人というのがいる。 まばゆいほどの直立、しっかりと大地に根を張り、すくすくと栄養を吸収しながら立派な美しい若木へと育ってゆく。 わたしはちがう。 わたしは、途中でぽっきり折れたクレヨンのようだと思う。 折れたってまだ描けるし、折れた断面で絵を描くとそれなりに味があったりもして、悪いことばかりではない。量が減ったわけでもないし。 けれど、折れていないクレヨンは、折れたクレヨンより美しいとわたしは思うし、その感性もごく自然なものだろうと思う。 折れていないクレヨンはいつでも折れることは簡単だけれども、一度折れてしまったクレヨンは、もう二度と、折れていないクレヨンに戻ることはできない。 だから、折れていないクレヨンは、折れたクレヨンより美しい。 いつまでも折れないでいるクレヨンは、有難い。 わたしはその強さに憧れる。 折れない強さに憧れる。 折れた自分を否定も卑下もしない。それは愚かなことだ。 わたしは自分を気に入っているし、自分に満足している。 ただ、折れていないクレヨンは、折れているクレヨンより美しいな、と思う。それだけのことだ。 県庁に用があり、正門前の銀杏のプロムナードを歩いた。 権威を示すかのように壮麗なプロムナード。 その奥にそびえる近代的な二棟の庁舎。 わたしはここで働きたかったのだろうか。 そのことを考えた。 わたしは地元の大学の法学部で、なんとなく時代のムードに乗るかたちで公務員を志望していた。 けれど、試験当日、わたしは、県庁の試験を受けなかった。 クレヨンに入った小さなひびは少しずつ大きくなり、わたしはそのひび割れをはっきりと自覚し、その事実に内心傷つきつつも、何もできなかった。 常にわたしは、目の前に提示されたことをこなしてきただけだ。 それでも、今こうして、天職と呼んでも差し支えないほど楽しいと思える仕事に就くことができている。 人生とは、本当は、わたしが思っていたよりも、とてもとてもたくさんの部分で、「運」に支配されるものなのだろうか。 わたしは、「運」がよかっただけなのだろうと思う。 日本に生まれた幸運。 教育熱心な親のもとに生まれた幸運。 大学まで進学できた幸運。 母親が仕事をしていた幸運。 それを手伝う機会があった幸運。 同じ仕事を選ぶきっかけに出会った幸運。 採用面接に受かった幸運。 優良な教室を引き継がせてもらえた幸運。 まじめなスタッフさんにめぐり合えた幸運。 好きになった人が、自分を好きになってくれた幸運。 わたしは、ただ生かされているだけだ。 「将来の夢」を語る子どもたちを前にして、そのようなことがいっぺんに頭の中を駆け巡り、ふと思った。 わたしはなぜ、生きているのだろう。 以前さんざん繰り返してきた懐疑的な、虚無的な問いではなく、答えを見出そうとする意志が、あくまでポジティブにそう問いかけてきたのだと思った。 わたしの生命に、あらかじめ定義された社会的な使命はない。 そういうのはだいたい後付けでついてくるだけのものだ。 それでも。 クオリティオブライフ、人生の質、 これは「したほうがいい」もの、ではなく、「すべき」もの、かもしれないと思った。 追求すべきもの。 折れたクレヨンはもう折れていないクレヨンにはなれないけれども、せめて、その真似事でも、やってみたいと思う。 -
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