日記...マママ

 

 

えへらへら - 2007年09月30日(日)

家庭教師先の子のボルテージが上がってきていて、嬉しい限りです。
能力は決して低くないのに、これまでうまい勉強の仕方をしてこなかったばかりに花開くことなくきてしまった子なので、もったいないと思うのです。
中間テストで、ぐん!と得点を上げてあげたいと思いながら常日頃の指導に当たっていたので、この気持ちをぜひとも持続させてほしい、と願うばかりです。

上機嫌で帰宅し、第三のビール(サントリーの金麦)を飲みながらスカパーを見る。
至福のひととき。


「シンペイ」という卓上ゲームがおもしろい。
現物を買おうと思ってこないだトイザらスに行ったのだけど、売ってなかった。
今日アマゾンで注文しました。
すぐに届くといいんだけど、なにしろアマゾンだからねえ…(意味深な懸念)

WEB上で遊ぶこともできるので、暇な人はぜひ。
「ゲームやってみよう」で遊べます。
瞬間決着ゲームシンペイ


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お宅訪問 - 2007年09月29日(土)

誘われて、赤ちゃんが産まれた元同期のおうちへ遊びに行くことになった。
たのすみです。
彼女は、本当にいいお母さんになるだろうなぁと思っている。
細やかな気配りとか、思いやりとか、そういうものをよくわかっている。

おりしも別の元同期から
「昨夜、二人目の赤ちゃんが産まれました!」
とのメールも届き、なんだか知り合いの間でベビーブーム。

母に話したら
「まぁ、わたしとしてはそんなに『孫の顔が早く見たい!』とかいうのはないから、この際伝えておくわ」
と、なんともありがたいお言葉が。
わたしも正直、子どもはいらないと思っているので、よかった。

「子育てって、楽しみも多いけど、苦労もね…」
と言うので
「そうですね!」
と、いいとものギャラリーみたいに何も考えてないようなさわやかさで返してみたら
「ま、まぁ、楽しみのほうが多い、といえば多い、かな!?」
とか、あわててフォローを入れていた。
いや、いいんだけどね。
わたしが、育てるのに苦労の絶えない子どもであったことには、振り返ってみれば山ほど思い当たる節がある。

他人の子どもはかわいいんだけどね。


今日、教室の会場費を管理人さんに支払いに行く予定だったのだけど、うだうだしているうちに日が暮れてしまった。
こないだ、日が暮れてまもなく電話したときには
「今晩酌の最中で、もう領収書を書きたくないから今日はだめ」
という理由で断られたので(正直「お金受け取るだけなんだし、すぐ済むことじゃん…」とは思ったが、まぁ先方がそう言うなら仕方ない)、日が暮れる前に行かねばならぬ。

前の先生は教室中に抜けて支払いに行っていたらしいのだが、やっぱりそれが一番いいのかなぁ。
スタッフさんにお願いしたりとかしてもいいし。
時間を忘れそうなら、アラームをかけておけばいいんだし。

うん。
来月からそうしてみようかしら。
そのほうが楽チンだわ。


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いろいろ - 2007年09月23日(日)

某児童合唱団の定期演奏会へ。

母の教室の子がそこで合唱をやっている。
昨年と同じように、ある日突然「ずいっ」とチケットを手渡されたのだ。
んで、母とふたりで見に行ってきた。

今年は男の子が増えていて、それを演出でうまく使っていたのがよかった。
童謡「汽車ぽっぽ」のいきいきとしたリズムに子どもらしいみずみずしい感受性を見たりして、心が洗われるひとときでした。

ミュージカルはポカホンタス。
今年ヒロインをやった子が、本当にステキでした。
パンフレットの団員紹介で見て「えらくかわいい子がおるなぁ」と思い、始終その子ばかりを見ていた。
すると果たして彼女がポカホンタス役であった。
スタイルがよく、歌声もよく、何より踊りがうまかった。
作り笑いではなく、本当に楽しそうな、あふれそうな笑顔。その笑顔をたたえながらの踊りはダイナミックかつ陽気でキュート、知らない間に聴衆を引き込む力があるように思った。
主役にふさわしい華を持った子だった。

ちなみにディズニーのアニメには、終始主人公の傍らに控えて命運をともにする小動物が必ず出てきますが、今回その役をやっていた女の子もめちゃくちゃかわいかった。

はっ、教え子。
教え子も割と目立つ立ち位置に配置されて、がんばっていましたよ。
うん。

ああでも、去年見に来てから、もう1年たったんだなぁ。
なんだかんだでその子との付き合いも2年ぐらいにはなってるし。


夜は両親と近所の焼肉屋「ソウル」へ。

ソウル、やばいです。むっちゃおいしい。

熊本で焼肉といえば「彩炉」という高級志向のチェーン店がありますが、正直わたしは彩炉よりソウル。断然ソウル。
なにぶん近所なだけにずっと気になる店ではあったものの、こんなにおいしいならもっと早く行くんだった。
ううう。
また食べに行かなきゃ。




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雑記 - 2007年09月22日(土)

・この残暑は異常だと思う。
頭がおかしいんじゃないかと思う。
もしかしたら「夏」という季節は、7月と8月なのではなく、8月と9月なのではないだろうか。まだ夏は終わっていないのではないか。どこが「残」暑だ。まだ真っ盛りじゃないかよう。

・最近の慢性的な飢餓感は、食事のリズムの乱れによって生まれるのだということがわかった。
朝ごはんをしっかり食べたら、それだけでもうおなかはすかなくなった。

・本を読む元気がない。
テレビもあんまり見なくていい。
アンテナ、アンテナ。アンテナを張ろう。

・わたしは果たして、自分の人生を生きていると言えるのか。
自身の意思で、選択肢を掴み取ったと言えるのか。
たゆたう流れに身を任せてきた結果、今の私がいる。
今の生活に特に不満はない。
むしろ恵まれているほうだと自覚している。
わたしは今幸せだ。
けれど、それでいいのか、と思う。
わたしは果たして、自分の人生を生きているのか。
今、わたしは生きているのだろうか。
贅沢な、爛熟した悩みだというのはわかっている。
けれど悩まずにはいられない。

・服屋さんにて。
店頭に飾ってあるジャケットに一目惚れして、店に入った。
「服屋の店員は、どれほどいい靴を履いているかで客の経済力を推測する。」というが、そこの店員も露骨なまなざしでわたしの靴をチェックしていた。
その日わたしが履いていたのは、ニッセンのバーゲンセールで買った2足1000円のサンダル。(だって仕事に行く前だったからね!仕事用の靴はどうせすぐに履きつぶしちゃうから、安いのをガンガン容赦なく履きまわすことに決めてるんですから!)

わたしは店員に尋ねた。
「ショーウインドウのあのジャケットはいくらですか?」
「えーっと…、あれはパリのオートクチュールで、特注で作ってもらったもので…」
「あー。じゃけっこう高いですよね?」
「20万ぐらい…」
「…」
「…」

店員は微笑みをたたえたまま無言でさりげなく体を横にずらし、わたしもまた笑顔でそこを通り抜けてそのまま店の出口へと向かった。




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生まれて初めて言われました。 - 2007年09月18日(火)

親が書いた拙い文面のメールを読んだときのせつなさは周知のことと思いますが、わたしの聞いたのでピカイチなのは、知り合いの女性にお父さんから届いたメールです。

その女性の弟が、長年付き合っている彼女にもうすぐ正式に結婚を申し込む予定、ということで、一家して固唾を飲んで成り行きを見守っていた時期だったらしいのですが、そんなある日の仕事中に

「○○くんはもう☆▽ちやんにぷろぽすしたのかな」

というメールが突然、その同僚のほうに届いたそうです。

全部ひらがなだし、拗音にもなってないし、句読点もないし、伸ばす記号もないし、だいたいなぜ本人ではなく姉に聞くのか。
お父さん、かわいすぎます。



ぼんやりしています。
ぼんにゃり。

流れでそういう話になっただけなのだけど、昨日、陽一君とカフェでコーヒーを飲んでいたら真顔で
「もう、結婚しようか。」
と言われて、あぁ、そうか、今すぐにだってしようと思えばできなくはないんだ、と、28歳にしてほぼ初めて、自分にも婚姻届を出す権利があるのだということを実感した。

周辺環境にいろいろと解決すべき課題はあるのだけど、そういうのも「結婚」を一度決めてしまえば、「結婚」に合わせて調整を図ることだってできるのだ。さしたる根拠もなく単なる思い込みで「まずは外堀を埋めてから」と思っていたけれど、そうか、よく考えてみれば、順番は逆でもいいのかもしれない。
仮にわたしが「結婚」に向けて具体的に動き始めたとして、その原動力になるのは、結局、自分の気持ちひとつなのか。
こういうのが「決断」っていうものなんだね。たぶん。
主体的に自分の人生を動かすという体験を久しくしていなかったので、なんだか、はっとさせられたひとことだった。
今回のことに限った話ではないけれど、何にしても「したいしたい」と口で言ってるだけじゃ状況が変わらないのは当たり前だ。
自ら動かないとね。


そんなことを考えて、今とりあえず思いつくままにそれぞれの選択肢のメリット・デメリットを列挙して解決法を思索してみたりした。


ちなみにその後、隣のおじさんの好奇の目に耐えられなくなってカフェは出た。

でも、流れで言ったことばでも、うれしかったよ。
ほんとにほんとに、うれしかったです。


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ワールド - 2007年09月08日(土)

桃鉄にはまっています。
もっぱら携帯アプリでやってるのですが、ハドソンが9月から配信を始めた「桃太郎電鉄WORLD」には、キング・ボンビーに相当する「ハリケーン・ボンビー」というやつが出てきます。
その名のごとくハリケーンで宿主にさまざまな損害を与えるのですが、気になるのは彼の決めゼリフ。

「ドッドド ドドード ドドード ドドー!」
と言いながら出現したり、物件を吹き飛ばしたりするのですが、おまえ、それ…。
風の又三郎…。
オマージュですな。どう見ても。

風の又三郎は一度映画化されており、件の
「どっどど どどうど どどうど どどう」
もきちんとした定型のメロディをあてがわれているわけですが、たぶんあれは、幼い頃に宮沢賢治の世界に触れた経験のある大人が見て喜ぶ類のものだね。
当時小4のわたしには、何がおもしろいのか正直さっぱりさっぱりであった。
なんか原作にいない新キャラも登場してるし、そもそも誰が又三郎なのかを理解するのに一苦労だった。
いかにも大人好みな、ステロタイプなイメージの又三郎だった。

でも宮沢賢治の童話は、今でも意外とたくさん覚えてるなぁ。
のんのんのんのん、「オツベルと象」の象が大好きだ。それとグスコーブドリ。さういふ人にわたしはなりたい、そりゃ左寄りにもなるよね。わたしの思想。

あと、題名を忘れてしまったが、電柱の行進、鹿が手ぬぐいを取り囲んでくるくると踊りまわる話。
それから、えんぴつの削りかすを長靴の中に入れたらやたらと森の木が感心した話、どんぐりのせいくらべの裁判、山猫軒、があがあごうごうゴーシュ、陰険ないじめの横行する事務所。たぶんに宮沢賢治はネコスキーだったんだろうと思う。作中に占める猫率の高さときたら。



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ごはん納豆 - 2007年09月05日(水)

納豆ごはんではなく、ごはん納豆がおいしいと思うんです。

納豆をパックの中でよくかき混ぜて(別の器に移してからでもいいけど)、そこにごはんをのせるわけです。
ごはんに納豆をかけるのではありません。
かき混ぜた納豆にごはんをのせるのです。
だから「ごはん納豆」。
メインは納豆です。
いきおい、ごはんはやや少なめになります。
それでよいのです。
で、ごはんを納豆に和えながらいただきます。

う、う、うううううまーーーーいいい!!!

納豆ごはんより、断然こっちのほうがおいしいのです。
食感がぜんぜん違うのです。
納豆のねばねばがごはんにばっちり絡みます。

納豆ごはんは、所詮ごはんです。
ごはんに毛が生えたようなものです。
いや、ごはんはごはんで十分においしいんですが、こう、「納豆」と「ごはん」といううまいものどうしの奏で合う交響曲としては、いまひとつ完成度が足りないのではないかと思うのです。

個々の要素の持ち味を最大限に生かしてこそ、ハーモニーは躍動感にあふれたものになります。

納豆の持ち味とは、あのねばねばです。
しかし納豆ごはんでは、納豆をごはんにかけた段階で、相当量のねばねばがもとの容器の内壁に取り残されてしまっています。
これは致命的と言えましょう。
なにしろ納豆の持ち味が置いてきぼりになっているわけですから。

そこへきて、ごはん納豆です。
かき混ぜられた納豆が主であり、そこにごはんのほうが従として挿入される形になるわけです。
納豆のねばねばが活きてくるのはどちらの形態か、考えるまでもないでしょう。

「それでは逆に、ごはんの持ち味が活かされないのでは?」
その反論ももっともです。
しかし、ごはんは、あのごはんです。
遠く弥生時代より日本国民の食卓を支えてきた、あのごはんです。
他の作物とは一線を画し、とりわけ大切に保護管理されてきた、あのごはんです。
ごはんは、どんなおかずといっしょでも、しっかりと「ごはん」ではありませんか?
だからこそ、ごはんはこれほど長い間、日本国の主食であり続けたのです。

納豆を主役として引き立たせつつ自身の持ち味を保つことなど、ごはんにとっては造作もないこと、いや、むしろごはんにとってはそれが日常なのです。何も心配いりません。


「明太子ごはん」
「たまごごはん」
「梅干しごはん」
「バターごはん」
このようなものたちは確かに、両者の主従関係を覆すことは難しいでしょう。
しかし「納豆ごはん」は違うと、わたしは言いたい。
納豆とごはんは「納豆ごはん」ではなく「ごはん納豆」として食されるのが、両者にとってはるかに幸福な食され方なのではないか。
わたしはそう思ってやまないのであります。
日本の食卓に、「ごはん納豆」を!



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不具合 - 2007年09月03日(月)

マイプリンタの調子が悪い。
印刷をしてくれない。
プリントアウトができないプリンタなんて、まるで、まるで…

適切なたとえが出てこなかった。

とにかく、そんなんじゃダメよう、もっとしっかりしなきゃ、って声を大にして伝えたい。

家族共用の別のプリンタで事なきを得たのですが、はぁ、やっぱり修理に出さなんとかね。これ。
なんかものすごくちょっとしたことで直りそうな感じもするんだけど。


手紙、を出そうと思った。
会いに行くのがつらいなら、せめて、手紙で。

伝えたいことはたくさんある。
本当は本人の墓前で話さないといけないのだろうけれど、油断するとこの「墓前」ということばにも違和感がじわじわと湧いてくる。
なんで、死んでもいないのに「墓前」だなんて言うんだろう、とか。

事実を受け容れることを拒む気持ちというのがこんなに身にしみて理解できたのはまぁ初めてで、「死んだ」という事実の消化の仕方が、いまだにわからない。わたしがわからないんだからご家族はもっとわからないだろう。

どうしてこんな話かというと、9月9日が彼の誕生日だからだ。
昨年のこの日に、わたしは彼の実家を訪ねた。

生きているわたしは到底美しいとも言いがたい容貌で、毎日の過ごし方も張りがなく、自堕落で、思う。「食いつぶしてるな」って。
すわ変わらん、と意気込んでみても、ちょっとした生活の疲れ、そういうもので、またもとに戻る。

逃げてばっかりだ。

こんな人間の、どこがいいと?
ねえ。
こんなずるい人間の。


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