日記...マママ

 

 

雑感 - 2007年05月31日(木)

ドラえもん最終話。

えーと、ダメなんですかね。あれは。

実は持って…r…んだけd…

いわゆる文字通りの「リスペクト」に基づいた製作なのだし、一見して真似事だとわかるものだから、いいじゃない。

あまりにも出来がよかったから、今回のようなことになったのだろうと思う。

ちなみにお話のベースは、だいぶ前からネット上で遣り取りされていて、よく知られている例のテキストなんだと思う。

ほんとにこんなことをしないといけなかった立場なのは、誰なんだろ。


あと、もうブログ消されちゃったけど、ヤフーのトピックス。
JALの機内清掃員が忘れ物を着服してたってニュースから、今回の事件とは何ら関係ない個人のブログにリンクが張ってあった。

航空業界の人がそれを前面に出したブログで、「正規の手続きを経て届出・管理した機内の忘れ物のうち、持ち主が見つからず賞味期限も過ぎた食べ物については、従業員がみんなでこっそり食べることもある」というような内容だった。

ヤフーよ。
確かに関係なくはない…のかもしれないけれど、これは可哀相だろう。

もちろん書くほうも書くほう。
そういうのはおそらくあちこちでやってることだろうけれども、普通は書かずにおくものなの。表向きは「廃棄」ってことにしてるんだからさ。自分の身元に対するガードも甘々(「甘々」どころか、勤務先も本名もまるわかりだからね)のブログで、そういうことを軽々しくかくものじゃないよ。

だけれどもさ。

個人のブログだよ。個人のブログに、そんなアンタ…。
着服とは(ぱっと見似てるかもしれないけれども)まったく別の話なのに。
こわいなぁ。
結局、こうやってわずか半日の間にブログ閉鎖させられちゃって…。


ところで熊本市動植物園のCMがとてもかわいい。
ヤギの笑顔!笑顔ーーーー!!!!
がわいいよおおおおおお






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せいり - 2007年05月30日(水)

久々の休日、寝て過ごす。

寝てるときがいちばん幸せ。

わたしがかつて「同調圧力」を感じてつらかったのが、休日にこうして寝て過ごすという話をしたとき「それでは充実していない。時間がもったいない。もっといろいろなことに精力的に取り組み、体を動かすべきだ。若いんだから。」という反応が返ってくるとき。
「仕事をやめたい」という話をしたとき「石の上にも三年」という反応が返ってくるとき。
年配の人から言われるのならばまだしも、同年代の人、とりわけ同期の人々から言われるのが、本当につらかった。

「同調圧力」とは呼べない、かもしれない。
しかし背後に、多勢に無勢的な、いくらわたし一人が声を大にして叫んでも、決してその声は届かない、巨大な、無言の圧力に押しつぶされそうに感じて、とてもとてもこわかった。


今は同じことを言われても、きっと何とも思わない。
彼あるいは彼女の背後にある「日本人」という巨大な勢力を感じなくてもすむ。
あくまで彼あるいは彼女個人の意見として、等身大で受け容れることができるだろうと思う。

なぜかというと、今は、自分の生き方、ライフスタイル、とでも呼ぶべきものが、ある程度確立されているからだ。

当時は揺らいでいた。
不安定で、自分の中でよりどころとするものが見いだせなくて。
だから、その圧力に屈しそうになるのがとてもとても、こわかったのだ。
屈してしまうと、自分が自分じゃなくなっちゃう、そんな恐怖。


現状の差異、それを認識していなかったわたしの非であろう。
同じひとことが「彼あるいは彼女の個人的意見」にもなるし、「同調圧力」にもなる。
これを認識していなかった、わたしの非。

ごめんなさい。


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ううう - 2007年05月29日(火)

仕事中、「終わったら電話できるし」と考えて一瞬浮かれて、その後
「あぁ、そういえば喧嘩中なんだった…」
と我に返る。

忌憚なく話ができる人を求めていたのはわたしもまったく同じで、本当に数少ない縁だと思う。

すこし考え方を変えるべきだな、と思う。
そう、ほんの少しでよい。

それでわたしの葛藤は、雲散霧消してしまうだろう。
かき消して、払い飛ばして、また穏やかに、もとの状態に戻る。

はぁ。
しんどいなぁ…。


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死の報せ - 2007年05月28日(月)

熊本のドン松岡利勝氏が自殺。
直接どうこうというご縁はないけれどやっぱり、こういうニュースは胸が塞がる。
自殺を報じた熊日夕刊の写真は、いつもとは明らかにチョイスが違ってて、ものっそい善人面の穏やかな笑顔。
あーーー。
やだやだやだ。

自室に内側から鍵をかけ、首を吊って死んでいたという。
緑資源のことなんかも含めて、何がどこでどのようにこの人に絡んで「自殺」という選択肢しかないところまで追い込んだのか。
いったい、何を守ろうとしたのか。
日本という国家の軸を支えている部分に、命に代えてまで何か守るべきものがあったんだろうか。
あったんだろう。きっと。

なんにしても「自殺」ということばはつらい。

それに、今日はいったいどんな日なんだろう、ZARDのボーカルの人が脳挫傷で亡くなったとのことで。
がん治療のため入院していた病院内で階段から転落したんだとか。
「雨で滑りやすくなっていて」とか何とか関係者が話していたけれど、そんな、あんた…。変なの…。




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海辺の採点作業 - 2007年05月25日(金)

海に行く夢を見た。
わたしは例によってひとりで海に来ている。
なんかしらんが男性のエスコートがないと浜辺に出られないという、無意味にセレブな感じの決まりごとがある海だった。
しかたないのでわたしは着飾ってナンパを待つ。
SMAPの中居君似の茶髪の男が声をかけてきたので笑顔で応対し、ゲートを通過すると同時にさりげなくフェードアウトした。
浜辺に出ると同時に目に飛び込んできたのが、海の青、透明な群青。
穏やかに寄せる群青の波を見て、思わず「わぁ…」と声を上げた。
本当に感動したとき、人間っていうのはきっと言葉少なになるんじゃないかとわたしは思う。
「きれい」
とつぶやいて、わたしは地を蹴って宙に浮かぶ。

空を飛ぶ夢はよく見るけど、だいたい前に進めない。
今回もそうで、はやく波打ち際まで行きたいのに前に進めない。
もどかしい。
ラムちゃんの飛び方を思い出して一生懸命まねしてみたりするけれど、やっぱりだめ。

本当は、ああいう浜辺の海の色はエメラルドグリーンなのだけどね。

しかたないのでホテルに戻る。
ホテルの会議室では大規模な模試の採点作業の真っ只中だった。
わたしも本当はその人員としてここに来ていたのだが、すでに佳境に入っている作業に入り込む余地はなく、必死こいて丸を付けたりチェックをしたりしている人々のすきまを所作なくうろうろとさまよっていた。
本当にやることがないので、シャワーを浴びて、ゆかたに着替えて、寝る。


目が覚めたら朝だった。
あぁ、今日は出かけるんだったな。
いい天気。


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ゆるやか - 2007年05月23日(水)

今朝は早起きしましたよ。
着替えてごはんを食べて、銀行でヤフオクの振込み(やっすい中古CD)、バスで事務局へ。
研修はとても有意義なもので、どのぐらい有意義だったかというと、午前中の研修で毎回寝ずにはいられなかったこのわたしが初めて寝なかったという。
だから、よだれの痕とかついてませんからね。ね?陽一君。

お昼は隣の百貨店のシャネルのカウンターでフルメイクをしてもらう。
いかにもシャネル然とした、ゴールド&ベージュ基調のナチュラルかつくっきりはっきりな顔立ちに大満足。
汗をかいてもクズレナーイ。
店員さんと夢中になって化粧談義を続けるうちに午後からの別件の打ち合わせに遅れてしまい冷や汗。でも化粧はクズレナーイ。
大先輩の方々と少しだけお近づきになれ(たような気がし)て大満足。

打ち合わせのあとはまた百貨店でぶらぶら。
至福のひととき。
お金ないから何も買えないのですが。
さきほどマスカラだけは買ったものの、ほんとはアイブローパウダーもほしくって、シャネルのお店に行ってみたらお金が足りなくて買えなくて。店員さんは穏やかに「またお待ちしてますからね、いつでもおいでくださいね」と。
フルメイクしてもらったのに申し訳ないことよ。
きっと買いに行くよ。あのパウダーは気に入ったぞ!!(おっさん風に)

いかんいかんと思いつつもふらふらと2Fへ、ワンピースがかわいくてくらくらする。以前CLEAR IMPRESSIONで見かけた白地に紺のツタ柄ワンピースは絶対にわたしに着られるためにこの世に生を受けたのだと思う。まだあるかしら、とどきどきしながら見に行ってみたら、ありました。まだありましたよ陽一君!ブサイクな太ったおばちゃんにも買われてなかったよ!わたしのためにまだ健気にそこにいてくれたよ!!
彼女がわたしに呼びかける。
「オネガイ アタシヲ カッテ♪」
「アタシ アナタニ キラレルタメニ ココデコウシテ マッテルノ♪」
「コノ デコルテノ ミセグアイトカ ウエストノ タカサトカ イロミトカ ホントウニ オキャクサマニ ピッタリデスヨー♪」
なにセールストークしてきてんだよおおおうう。いや、最後のは店員さんの声だ。いかんいかん。

物欲を合理的に解消すべく1Fでモロゾフのプリンを1個買い、バスで帰宅。

しあわせな休日でした。
なんか、すべてがうまくいった感じ。




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夢のまにまに - 2007年05月20日(日)

ほんとはしっかりとリサーチをして、ターゲットを絞り込んで集客するのがいいんだと思う。
最近は結構、手当たりしだい、な感じ。


平和な日常と、悲しい非日常。
退屈な日常と、刺激的な非日常。
どっちがいい?


悲しい日常、刹那の非日常。



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タケノコ掘りをテレビで見る - 2007年05月17日(木)

ドォーモでタケノコ掘りをやっている。
なんておいしそう。
しゃっきり、みずみずしい掘りたてタケノコ。

そういえば今年はうちでも、知り合いからもらった掘りたてのタケノコをたくさん食べた。
掘りたてって、本当においしい。
スーパーで売ってる水煮とはもうなんていうか。格が違う。

しかしアポなしで繁忙期の農家を訪問して取材させてもらうって、なんだかハタ迷惑な番組だなぁ…。


ちょっと!またドォーモらしい企画だなコレ!
「チチコレ2007」!!!
うわーん!!!

ああ、でも、Bカップの人っていうのも結構多いんだな。
ちょっと安心…。


「watch with me」よさそうだなぁ。
こういう埃っぽい、泥臭い感じの青春ドラマは好きだ。


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スポーツに見る限界突破の可能性 - 2007年05月14日(月)

シンクロの原田早穂が気になる。
コーチが「努力する才能を持っている」と評する性格。そもそもの原動力は「わたしは、周りの人ができることがまったくできない」という焦り、不安、そういったものだったようだった。そこから、まるで「取り付かれたように」努力を続けたこそ、今の彼女があるのだという。
ふだんの感情表現は平板で、淡々としてる。

高橋尚子の有名な逸話として、突如「マラソンがしたいです」と周囲の困惑をよそに念願のチームの練習に入れてもらえたはよいものの、基礎体力も技術も、他の選手と比べようもないほど、てんでだめ。たまりかねた指導者が「あなたはマラソンに向かないから、やめなさい」と何度説得しても、翌日になるとケロッとしてグラウンドにやってきていた、というのがある。

こうして「できない」ところから「誰にも負けない」ところまで、登り詰めることができる。

インタビューのときのぼんやりした印象と、演技に入るときの、あのまなざし。
その瞬間の選手たちは、わたしたち観客とは、どこか違う世界を見ているような気がする。
どんな世界を見ているんだろう。



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イエスタディをうたって - 2007年05月13日(日)

昨日話してくれたことは、とてもよくわかる。
本当に、痛いほど、よくわかる。
安心させてあげたい、穏やかに過ごさせてあげたい、と思った。

「秘密。」
って、やけに話を早く切り上げたがっていたのも、だいたい想像ついちゃうよ。
ごめんね。
ありがとう。

もっと強くなりたいなぁ。
過去の失恋で傷ついたあなたを、やさしく包み込んで、いたわってあげられるぐらいには。
そのぐらいに強くなるには、もうちょっと、時間が必要やけん。
がんばってますから。ね。




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- 2007年05月12日(土)

笑いのセオリーを一生懸命勉強している。
苦手分野に挑戦することは結構楽しい、ということを思い出した。
得意分野を伸ばしているときには気づかないような小さな成長のひとつひとつから、ものすごく大きな喜びとか充実感のようなものを得ることができるから。

んー。
でも、やっぱりまだまだ難しいよ。
人心に訴えかける、というのはとても難しいことだ。




いつか、からだがもっと軽く、てきぱきといろんなことができるようになる時期は来るのかな?
仕事中のわたしはもうすごく守りに入っていて、とにかく「やり過ごす」こと、それだけ。
不甲斐ないなぁ、と思う。
ここから離れたほうがいいのかな。
インターネットという甘い世界から。

イヤホンで聴く音楽はいい。
密閉された、自分だけの空間。

運動をしなければ。
運動をしよう。



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カウントダウン - 2007年05月11日(金)

その日が来るのが怖い。

5月の空気がこんなに不快なのは、生まれて初めてだ。きっと。

今日はこの鬱屈した気分を何とかして吹き飛ばしたいと思い、映画でも見に行こうと思っていた。仕事帰りのレイトショー。結果から言うと普通に間に合わず、仕方ないのでイヤホンで携帯から音楽をシャカシャカと聞きながら教室が終わった後の残務を片付けていた。みんなから「いまどきでかすぎ」とバカにされる携帯だけど、高音質の音楽がこうして思う存分聞ける機種なんだからからいいの。ほぼまるまる貯まったポイントで買ったものだからお金もかかってないし。ELLEGARDENはすばらしい。重低音。So Sadの、耳元で這いずり回るように唸る重低音。あーーーーーーーー。
しーみーこーむー。ダウナーーーーーーーー。
別れや虚無を歌った歌ばかりなのに、いや、それだから、かな。
こんなに癒される。


だから。
だから。
あの出来事があったから。

だから、わたしは絶対に、もう、本当に、絶対に、大事な誰かを裏切りたくはない。




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いろいろ - 2007年05月10日(木)

家に帰ると弟が髪を切っている最中だった。
「坊主にする」
とのことだった。
傍らには数種類のはさみとバリカン。
今までいかにもギター少年な、アジカンの後藤みたいな髪型だったので、突然どうしたのだろう、と驚いた。
サイドは3ミリと6ミリ、頭頂部と後頭部は9ミリ、というふうに長さを変えて刈り込んでいた。
そんな芸当ができるのか、とわたしは驚きの眼差しで彼を見ていた。

不安げに、遠巻きに見守る家族をよそに、ばさばさと髪を削ぎ落としてゆく弟。
終わってみると、意外にいい感じに仕上がっていた。
動機はただひとこと
「ウザかったから」
とのことだった。
弟に何があって、どんな心境の変化が起こったのか、詳しくはわからない。
けれどなんにしても、変化があったことを喜びたい。
こうして顔面全体が白日の下にさらされてみるとやはりわたしと非常によく似た顔立ちをしていて(弟はふたりいるのだけど上の弟はどちらかと言えば母親似で、この下の弟は父親似。そしてわたしは父親似)、髪の生え際のラインもそっくりそのまま一緒で、おもしろかった。


恋愛論、わたしの恋愛論は、やっぱりタモリのことばを借りて言うならば
「同じところをぐるぐる回ってる。」
というところになるのだと思う。

恋愛において成長する部分とは、つまるところ単に技術的な部分で、もっと本質に近いところ―どんなときに恋に落ちてしまうか、どんな相手を求めているか―は、基本的に、ずーーーーっと変わっていない。

かつて犯した過ちへの反省と後悔を痛いほど反芻してみても、気がついてみれば、また新しい過ちを犯している。
そして、過去の過ちと新しい過ちは、根っこのところでがっちりとつながっている。

相手との関係論という話になると、ものすごく乱暴な言い方になってしまうけど、理論を打ち立てること自体が不可能のではないかと思う。



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アクセス解析の妙 - 2007年05月07日(月)

この日記にアクセス解析機能がついていることを今になって知った。
キーワード検索で引っかかったのをたまたまクリックしてみたような感じのが結構多いのね。人数が人数だし、「知り合い→知り合いの知り合い→知り合いの知り合いの…」という流れで見てる人しかおらんのやろうなぁ、と勝手に思っておりました。

しかし、今日のこのダークな検索ワードの数々はいったいなんなんだ。
昨日までの浮かれたアホみたいなことばの数々(たぶん連休のせいだろう)から今日は見事に一転していて(たぶん連休が終わったからだろう)、なんだかつくづくと悲しくなってしまった。
豊かな日本に転がる、たくさんの不幸せ。
ていうか、そういうキーワードにいちいちヒットしてしまうわたしの日記がなんなんだという話やけどね。そもそも。



本領発揮。
わたしの好きな人が、本領発揮しています。
そう。これです。
これがあなたの本領。

やっぱり、わたしはこの人の、何よりも文章が好き。
同じひらがな、同じ漢字、パーツとしてはひとつひとつ、それぞれ同じなのに、この人が書くと、もう、ちがうことばになってしまう。
叙情を描写するときのやわらかさが好き。
論説の展開の鮮やかさ、そこに漂う強い男性が好き。ものすごく好き。
くらくらするほど、好き。

ぞくぞくする。
変なのはわかってるけど、もう、本当にたまらない。
読んでいるだけで、まるで、組み敷かれたまま、いいようにされてるみたいな気持ちになる。
そのままおかしくなってしまいそうな、変な気持ちになるよピンクレンジャーーーーー!!!!!!!


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食いつぶすことと、とかげ 改3 - 2007年05月06日(日)

彼女との逢瀬ののち、バイバイして駅のホームを歩み去って行く後姿。
「世界が終わったようだった。」
ばなな本は実はあんまりよくわからなくて、わたしが好きなのは「キッチン」「満月」「つぐみ」と、それと短編の「とかげ」ぐらいしかない。昔のばっかり。最近の本は輪をかけてわからない。「とかげ」と聞くとまずはこの短編を思い出す。中でも印象的なのがこのフレーズで、「世界が終わったようだった。」唐突だなぁ。と思うけれど、その唐突さが身をもって迫ってくるからおもしろい。
今日は世界が終わる夢ばかりを見た。
ひとつめ、学園もの。たぶん最初は教師対生徒だったんだろうと思うけど、そのうち教師側・生徒側それぞれから造反組が現れ出して、混沌とした殺し合いへと話が進んでゆく。荒涼とした町並み、校舎に侵入するには地下通路を通らなければならない。ミイラ化した死体が累々と積み重なっている。いたるところにこびりついた血痕、瓦礫の山、ほこりにまみれた同志達。悲しい気持ちだった。

ふたつめ、書道のお話。わたしは何度やっても上手に字が書けなくて、夜中、延々と練習を続ける。書道の巧みさと化粧の上手さは比例する。師範に昇段を求めて自分の書を見せに来る者はみな、正装して顔に化粧を施している。とても美しい。今日も先輩がひとり昇段した。
その師範の下で特に長く書道を続けている女性がいて、名前が「静香」といった(なんかありきたり)。わたしは毛筆だけでなく硬筆でさえ上手に書けない。枠線も自分でひかなければならないらしかったのだが、その線がまっすぐにひけない。何度やっても斜めになったり重なり合ったりにじんだり。線の引き方を、何時間も、何日も、練習し続ける。
毛筆では「静」の字を何度も何度も、気が狂ったように練習する。
テレビ局が来ている。その「静香」という人と師範との絆の深さを取材している。すばらしいことだ、とわたしは感銘を受けながらその様子を見守っている。そこへひとりの弟子が、我流の書を師範に見せる。どこか挑戦的な態度。格好の題材だ、とテレビ局も食いついて、みなが師範の反応を固唾を呑んで見守る。師範はやわらかく微笑むが、やはり昇段は認められない、という返事。弟子は頭をかきながら明るく苦笑する。師範のことを敬愛しているのはみな一緒。ほっとする。その日の晩、宴のさなか、神殿の床下で、先ほどの我流の書を見せた弟子がひとり、何がいけなかったのか思索にふけっている。そこに静香がやってくる。あぁ静香さん、尊敬の眼差しで振り向いた瞬間、静香の張り手が飛んだ。いったい何を考えているの。静香の静かな怒り(シャレではない)。彼もかっとなって、静香に応戦する。いつの間にか、ふたりは蛇と虎へと姿を変えている。どろどろとした怨念。それはわたしにだけ見える。深手を負ったのは静香のほう。食いちぎられた下半身を引きずりながら、ずるずるとうごめいている。

新星が現れる。うら若き希望の星。
師範は彼に、教えのすべてを惜しみなく託してゆく。砂が水を吸い込むように、教えをぐんぐんと吸収してゆく。
「そうだ、この人に練習相手になってもらうがいい」
師範は、神殿の床下へと続く石の扉を開いた。
そこには下半身が食いちぎられたまま息も絶え絶えに這いずり回っている、痛々しい姿の静香。
師範は変わらず穏やかな表情で、愛弟子に「さぁ」と促す。
「できません」
おびえた表情でかぶりを振る。
「この人には、僕はそんなこと」

「そうかね」
やはり穏やかな表情のまま、師範はうなづいた。
「仕方ない」

こうして世界は終わってゆく。


過去の知識だけを食いつぶしている。
新しいことを吸収しようとしていない。
できない。
何か巨大な圧力や圧迫がないと、わたしは新しいことを吸収することができない。
圧力があったとしても、その効果は本当に微々たるもの。
死に向かっている。
まだ20代のくせに、と嘲笑されるのかもしれないけれど。
わたしは確実に死に向かっていると思う。嘘じゃない。事実だ。
年がいくつだろうと事実なんだ。それは。

背中を押されて「しなさい」と言われないと、何も、できない。
早く早く、さあ、早く。
そうやって早足で、死に向かう。

わたしが、気が狂ったように線をまっすぐに引く練習を続けていると、師範が通りかかった。
そうして、美しく字を書くコツをひとこと教えてくれた。
わたしは「してやったり」とほくそ笑んだ。
それをはなから狙って、わざわざ師範の目に付きやすいところで練習をしていたのだから。
努力している姿を見せさえすれば、あらゆる人心を動かすことができる。
なんて青臭く、世間知らずな発想なんだろう。

わたしの教室で前に先生をしていた人の記録からは、そんな価値観のもとで仕事をしていたんだなぁ、というのが見てとれる。わたしよりだいぶ年上の人なのに、それは真実ではない、ということに気がつくきっかけを得ることができなかったんだろうか。気の毒な人。
スタッフさんを自分の思うように動かすにあたり、自分がいかに苦労しているか、いかに大変か、を切々とアピールしている。やさしいスタッフ達はその気持ちを懸命に汲んで、先生の負担を減らすべく、それぞれに良識を働かせながら動く。しかしそれがうまく機能していない。肝心の指示やビジョンが不明確だからだ。先生はますます落胆し、スタッフは「まだ足りないのか」と無力感に浸る。不協和音。
お互いに漂う「わたしはこんなにがんばっているのに。」という不平。


「やりたいことが、何もなくてもいい。」
「生きてるだけで、すばらしい。」
魔法の言葉。

それでもわたしは、見捨てられませんか?

変なの。
2年前と同じ。

でも必死になることも、ときには大切。
追い立てられるように、やるべきだと思っていることを履行していくべきだ。
もっともっと、もっと自分を追い込んで。




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前から気になっていた「からくりオデット」を読んだ。

とりあえず気は散った。
よかった。

いや、よくない。

ほら、やって。
今やるべきこと、たくさん。
たくさんたくさん、やってしまって。
ほら。ほら。

いやだ。
やりたくない。

頭が痛い。ぐらぐらする。
吐き気がする。
めまい。
痛い。頭が痛い。

えーと。
名前忘れた。
今読んだばっかりで、もう忘れた。
直次郎?
健次郎?

久太郎。

あと10日。

誰も助けられない、わかっている。
でも、お願いだから。
助けて。




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改しまくり。

薬を減らすことだ、という結論に至った。

ごまかすことは簡単で、でもずっと、もやもやする。
だから、ごまかす一助となっている薬を減らす。
体調が維持できればよい。

ぼんにゃりした頭のままで、生き続けることは、確かに。
できるかもしれない。

でも、できないかもしれない。

現にわたしは、さっき、何をしようとした?

逆説的だけれども、でも、ごまかし続けることの苦しみと、直視して、―できるのかどうかはわからないけれども―乗り越えるための苦しみと。

どっちが楽?

もう、そんなの、考えるまでもない。
明日、病院で相談しようと考えている。




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もう「改」とか書かなくてもいい気もするんだけれど。

久太郎。ヒサタロウ。

わたしはこの話を読んで泣きもしないし、ほろ苦い感傷に浸ることもない。
そんなことは、わたしには許されていないからだ。
ただひとこと、そういう感情に襲われそうになった自分自身に
「ばっかじゃないの。」

それから何も、身動きが取れない。
僕を捨てるの?
捨てるの?


気まぐれで彼を家に持ち帰った主人公とわたしは、何も違わない。
気まぐれで持ち帰り、気まぐれで絆をつくってしまったこと。

ごめんなさい。
抱えきれない。
助けて。
お願い。
助けて。

誰にも助けを求めることなどできないけれど、お願いですから、本当に、お願いですから、せめて、せめて、一緒に悲しんでくれたら、それでいいから、それで十分だから、涙も出ない。わたしは泣いてはいけないからだ。わたしは悲しんではいけない。わたしは泣いてはいけない。わたしはいつでも幸せそうに笑っていなければならない。だから泣かない。わたしはいつでも笑っている。ほら。笑える。大丈夫。そんなふうにつくられた、別のロボット。死んだ猫を見て「わたし、猫大好き」とほほえむロボット。やっぱり同じ。なんか含蓄のあるまんがだなぁ。

あぁ。いかん。
これがごまかしだ。
こうして、スープに溶かし込むように、なかったことにしてしまおうとする。
感じないふりをする。

だいぶ考えたのだけれど、ごまかしたくない、というのが本日出た結論で、だから、ごまかさないよ。うん。

16日は、研修がある日だった。
お休みをもらうことは簡単なのだけれども、じゃぁお休みをもらって、それで、どうなるのかな?

お墓参り、お墓参りをして、それで。

そのまま、帰る。

けれど確かに思うのは、17日、きっと、まだ学は生きていた。
きっと。
確証はない。
けれど、そんな気がする。
17日まで、あの子はきっと、生きていた。

「まりさん」と呼んだ声が。

聞こえた。
確かに、聞こえた。

そして、腕を、ぱたり、と振り下ろした音が。

呼んでたんだ。
絶対。
呼んでた。
呼んでた。

だめ、逃げてはいけない。
考えて。
ほら、もっと。
考えて。
考えて。
もっともっと。

そのときのわたしの心情は?
逃げないで。
考えて。思い出して。

「まさか?」

「まさか。」

「気のせいだよ。きっと。」

「もう、行かなきゃ。」

「まさか。」

「また、来よう。」

逃げるな。考えろ。

可能性は、ちらりと脳裏をよぎった。

それを、放置した。
そう、放置した。

ポイント。
ここがわたしの人生を分かつポイント。

逃げないで。
ずっとずっとずっとずっと、ずっと、考え続けて。
そして、ずっとずっとずっと、苦しみ続けて。
もっと。もっと。


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せつない夢と欽ちゃんの仮装大賞 - 2007年05月05日(土)

もう口座には入っていると思っていたお金がまだ入金されていないという憂き目に遭い、しかしGWはギリギリまで散財、図らずも素寒貧。
現在、お財布には79円しか入っておりません。
仕方ないので、100均で買ったコインケースに収納していた余剰小銭でちまちまと食いつなぐ日々が数日続きそうです。苦学生のようだ。いいんだけどね。

今日は子どもの日で、だからというわけでもないのだけれど子どもにまつわる夢を見た。教えても教えても、言うことをきかない子ども。てんでばらばらにたくさんの子どもが好きなように振る舞い、走り回り、踊り、笑い合う。面白い光景なのだけれど、保護監督者のわたしは頭を悩ませている。

この世のすべての害悪が渦巻く泥水色の渦巻きを見た。
名前もきちんとしたものがあったのだけど、忘れてしまった。
あぁ、チェルノブイリにあった、ということだけは覚えている。
チェルノブイリ・○○○とかそういう名前だった。なんだっけ。チェルノブイリ・ラムダ、チェルノブイリ・オメガ、なんでアルファベットなんだろ。
ダムのような巨大な貯水池、そういうところで、汚泥がぐるぐると渦巻いている。どこに向かって流れているのか。世界中に害悪をもたらしている。あらゆる害悪。自然災害、戦争、疫病、人心の荒廃と無気力、絶望、わたしは何かの見学ツアーでそれを上の展望スペースから見ている。手すりから落ちて、あの渦の中に巻き込まれてしまったらどうなるのだろう、そう思ってぞっとした。
「土で埋めてしまえばいいのに。」
誰かがそう言った。
確かにそうだと思った。
けれども、誰も、それをしようとはしないのだった。
なぜだろう。
不可能ではない、とガイドは言っていた。
ならば、そうすればよいのに。
誰もそれをしようとはしない。
わたしもそれをしようとはしないのだった。
なぜだろう。
自分には「直接」関係のないことだから。
比較的恵まれた生活をしているから。
放っておいても、特に困ることはないから。
本当はそういう立場の人たちこそが、その汚泥の渦を土で埋めるべきなのだ。だって苦境にあえいでいる人は生きているだけで精一杯で、そんなことをする余裕などないのだから。やっぱりわたしの思想は左寄りなのかも。

それでね。
誰がこの現状を打開すべく立ち上がるのかというと、ドラえもんなのである。
ドラえもんはその巨大なダムみたいなやつのシステム内部にハッキングし、汚泥の流出を止めようと試みる。流れが止まったところで一気に埋めてしまおうと、こういうわけだ。
ところが。
ドラえもんが壊れてしまうのである。
順調に進むかに思えたハッキングは原因不明の障害により頓挫、煙を上げて白目をむくドラえもん。
「ドラえもーん!!」
ジャイアンがむせび泣く。しかしもはや後戻りは許されない。
危険を察知した汚泥が、勢いよくダムの外部に流れ出し始める。知能持ってんのかよ。ただの泥水のくせに。
世界は汚泥に飲み込まれ、あとには一面の廃墟。
残ったのはいくつかのガソリンスタンドと、山奥の体育館。

体育館に集まる子どもたちは大人の制止に耳を傾けることもなく、じつに伸び伸びと走り回り、歓声をあげ、踊り、笑い合う。
保護監督者であるわたしは頭を悩ませ、ほろほろと涙をこぼす。
体育館の床は汚泥の茶色にまみれていて、子どもたちの服もぼろぼろで。

ガソリンスタンドに、数人の知り合いと乗り合わせた車で辿り着く。
そこに大人の本拠地がある。
大人たちは、まだ、もとの世界が取り戻せると信じている。
そのための話し合い。
大人たちのほうが、よっぽどバカだ。

汚泥はすでに地底深くへ浸透し、新たな水流を形成し始めている。
終わりなんてない。



欽ちゃんの仮装大賞は、やっぱり子どもがやってこそだと思った。
大人だけでやるもんじゃない。
子どものころ「クラスみんなでがんばりました!」とかってやってるのが羨ましくてたまらなかった。本気で参加したかった。これぞ青春。何かの賞をもらうと、女の子なんて抱き合って泣いちゃったりして。もうだめ。これぞ青春。赤色、青色、緑色、色とりどりに塗られた顔面で、女の子たちがはらはらと涙を流す。
いい番組だ。



我慢するのが当たり前、のあなたに、せめて際限のない安らぎを与えられたらよいな、と今日思いました。

昨夜眠ってしまったことは、正直、申し訳ないと思っています。
せっかく残ってくれたのにね。
ごめんなさい。
望んでいたこともしてあげられなくて、申し訳なかったと思っています。

ごめんね。
こんなわたしで、ごめんなさい。
好き、と思うのと一緒に、申し訳なさ、この人と一緒にいられる自分はどんなに幸せか、と思うのと、それに応えられる存在であるのかという疑問と、いろんな気持ちが湧き上がってくる。
大好きだよ。
大好き。




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赤ちゃんポスト! - 2007年05月02日(水)

相談続々ですか…。

「捨て子の助長につながる」というが、捨てるか捨てないか、というラインまで困窮した状況の人が、その後我が子に満ち足りた幸せな人生を歩ませることはできるんだろうか、と思った。母親と離れて暮らしたほうが幸せになる子どもだっているやろうし。だから赤ちゃんポストの存在は、そこに託されたすべての子どもに、もし捨てられなければそのまま母親とともに歩んだであろう人生よりも現実の自分の人生のほうが幸福な人生であるようだ、と思わせることではじめて意義を持ってくる。のかも。

「捨て子を助長する」というのがそういうことではなく「避妊もまじめにせんで気軽に子どもを産むだけ産んであとは知らない」的な風潮が広がることを懸念する意味で言われているのだとしたら話は違うけど。どうなんですかね。「お母さん」ってそんなことができる生きもの?そうも思えないけどな。虐待する「お母さん」の中にも、執着とか支配欲とか、すごくすごく、ものすごーく広い意味での「愛」が子どもにあるから、ってのも少なくないと思う。すなわちそういう「お母さん」は、子どもを手離す、という発想にはならんのではないかと。本心から子どもが憎くて虐待する「お母さん」はしらんけど。




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雑感 - 2007年05月01日(火)

今日の教室は本当にくたびれました。

「しつけ」って大変だね。
小さい子どもだと、お母さんの生き様とか、価値観とか、そういうのが如実に現れてくるわけで、これはもう大変だ。
わたしは確かに「女」という生きものだけど、「お母さん」という生きものにはまだなったことがない。「お母さん」という生きものはときどき得体が知れない。「女」としてその人を見るときと「お母さん」として見るときの、このギャップの大きさ。反比例?「女であること」と「お母さんであること」は反比例するのかな。


わたしが今考えたいことはきわめて世俗的で、功利的なこと。
世の中には確かに「奇人」としか呼びようのない人がいて、彼らの考えることは、一見わかりやすそうで、ぜんぜんはちゃめちゃ。
まじめに根を詰めて、考えるものではないんだよ。
わたしが考えたいことは、とても私欲にまみれていて、自己愛にまみれていて、単純にサバイバルに関すること。
もしもあなたがわたしのそんなところに嫌気が差したとしても、きっとわたしは自分を否定はしないだろう。それが生きていくということ、たぶん。
食べ終わったチップスターの円筒が傍らにある。
口に当てて、中に向かって「あなたの中は空っぽですよ」と叫んだとしよう。
でも空っぽなんだから、そこでは何も起こらない。
それともビッグバンのように、エネルギーの収縮そして大膨張が起こる?
それはいつのことだろう。
空っぽという存在が、自分は実に空っぽであるということに気づくのは、いつのこと?


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