日記...マママ

 

 

よしなしごと3 - 2007年03月31日(土)

同じタイトルで何度か日記を書いた気がする。
3回目ぐらいのような気がするから「よしなしごと3」にした。

今朝の重苦しいテンションはなかなか抜けず、ついさっきまでわたしは疑いと卑屈でうずまく軽い人間不信のようなものに苛まれていた。
生徒に教えながら視線はあらぬ方向を漂い、自分の立ち位置がわからなくなる。急にうまく話せなくなる。

そこからわたしを浮上させてくれたのは、通りすがりにいつも満面の笑みで挨拶をしてくれる近所のお姉さん、と、かつての同期からの電話。
複数の世界が取り巻いてくれていると、こういうときに助かる。

とあれこれ理屈を考えたが、もうやめよう。
うん。
眠いから寝る。


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自己消化 - 2007年03月30日(金)

朝起きたら久々に来た。
あの絶望感、不安感。
ずーん、と胸に重くのしかかる重し。

あー。
なんでやろ。
なんでだろう、なんでだろう〜
なんでだ なんでだろう ジャンジャン

客観的に考えていくつか思い当たる節はある。
件の「初恋の人」の件。
それと、最近なにかと不調な弟の件。
漠然としたコンプレックス、自己否定。

それに、季節の変わり目は危ない。

からだがとてもだるい。
これも久々に来た。
足を一歩一歩動かすのにも、一苦労する。

二日連続で休んだから、勢いが削げ落ちてしまったのだろうか。
リズムが崩れた?

わざわざ不安材料を穿り返して凝視したりするのも、やめたい。
幸せなこと、楽しいことに目を向けていたい。
でも、それでいいの?と誰かがささやく。

吐き気がします。
うう。しんどい。

やるべきことをやってしまってから、ゆっくりと休みたい。
明日は家庭教師と、家賃の支払いと、それと、あぁ、知り合いの結婚式の二次会か。
なんか受付せなんくなった。
めんど…いや、めんどくさくなんかないよ。うん。
おめでたいことじゃないですか。ねえ。

頭も痛くなってきた。
あー。もう。もう。
話す言葉も脈絡がなく、相手の立場を慮る余裕もない。
あー。あれだ。わかった。生理だ。生理。
明日か明後日には来るな、これ。

もうホントめんどいなぁ。



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休日は - 2007年03月29日(木)

家で一日中寝ている。
珍しく、昨日と今日と2連休が取れた。
いつものように寝ていた。
すると父に起こされた。
「○×の家で竹が伸びて大変らしいから、切りに行かなければならん」
と、遠縁の親戚の名を挙げた。
その親戚とは高齢のために自力で生活ができない女性で、今は高齢者マンションに住んでいる。
認知症も進んでおり、わたしは葬式や法事で顔を合わせるたびに
「あのう、失礼ですがどちらさんでしたか?」
と尋ねられる。
父が成年後見人になっている。

ということで、今朝は早くからその親戚宅の裏手に密生している竹を切りに行ってきた。
非常に気が重かった。
なんでこんな天気がいいお昼寝日和の朝っぱらから、竹やぶの中で薮蚊や笹の葉と格闘しながら竹を切らなければならんのか。
三寸ばかりなる人がいとうつくしうてゐたるとでもいうのか。
それからはもう切る竹切る竹黄金ザクザクなのか。
そうだったらいいのに。
あぁやだ。やだ。
必要なことだとわかってはいるのだが、どうにも気が重かった。

父は知り合いからチェーンソーを借りてきていた。
そんなもん振り回して大丈夫なのか。
間違えて足とか腕とか切りはせんのか。
自身もまた老いてきた足腰でどこか頼りなくエンジンをかける後姿を見ていて、本気で心配になってきた。

そんなこんなで、チェーンソーで竹を切り倒してはナタで枝葉を払い落とし、一箇所に集めてゆくという作業が続いた。
小さな草木も道程でなぎ倒しながら、ざくざくと竹を切り続けた。
竹以外のなんかようわからんうっとうしい木の枝も、片っ端からのこぎりで切り落としていった。

チェーンソーのチェーンが外れてしまった。
父がそれを直している間、わたしはひたすら木々の枝を切り落とし続けた。
あるいは、すでに倒した竹の枝葉をナタで払い落としていた。
竹の葉の向こうに、路地を歩くおじいさんがこちらを見てニコニコとしているのが見えた。
「こんにちは」
わたしは笑顔をつくって挨拶した。
「あはは、こんにちは」
おじいさんは、なぜそんなにおもしろそうに笑っているのだろう、と思った。
「精が出ますね」
「いえいえ」
また愛想笑いをしながら、わたしはある感慨に浸っていた。
「精が出ますね」
ということばをかけられたのは、生まれて初めてかもしれない。
よく聞くことばだ。
NHKの朝ドラとかでよく聞く気がする。
小鳥の鳴き声もさわやかな早朝、まだ舗装されていない家の前の路地を竹ぼうきでせっせと掃く、うら若き主人公。
そこにねじりはちまきの魚屋が、かくかくと四角張ったデザインの自転車で通りかかる。
「いよう、ジュンちゃん」
「あら、源さん」
「こんな朝から精が出るねぇ」
「うふふ、源さんも」
「はは。そうそうジュンちゃん、今日もいいネタ入ってんぜ」
「まぁ。じゃ今夜はお魚にしようかしら」
「ジュンちゃんにはおまけしとくからさ、寄ってってよ」
「いつもありがと」
「いいってことよ。じゃな!」


ナタの使い方の要領を得て作業が波に乗ってきた頃、勢いよく振り下ろした拍子にナタの刃が柄からスポーンと抜けた。
焦った。
想定外の出来事であった。
さらにそれはわたしの足の甲に落ち、骨のところを鈍く直撃した。
案外痛くなかった。
刺さりもしなかった。
よかったと思う。

そういうことでナタの使用を取りやめ、のこぎりで木の枝を切り落とす作業に専念することにした。
木の枝というものは意外と切りやすい。
これも波に乗ってくると、止まらない。
時間を忘れて没頭していた。

気がついたら、見違えるように日の光がとおり、明るく風通しのよくなった竹林。
肉体はさわやかな疲労感に包まれている。

こういうのもたまにはいいかもな、いや、むしろ必要なのかもな、と思ったのだった。


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もう少し待って - 2007年03月28日(水)

もうあなたの占めるところのほうが大きくなってきてはいるけれども。

どうしてそんな話になったのか。
よく覚えていない。

別に待ってないから、いい。
今のままでいいと思っている。


わたしは不謹慎な妄想をする。
彼の初恋の人は結婚している。
お互いに連絡先は知っている。
年に何回か、挨拶がてらメールを交換するぐらいの関係はある。
旦那さんが、もしも、不慮の事故で亡くなってしまったら。
そして、その初恋の人が、もしも、ほかに頼れる人がいないのであれば。
わたしは「行っておいで」と言うだろう、というようなことを考える。


ずっと前、わたしがうつ病と診断されたときのこと。
当時の彼氏には、その直前に振られた。
しかし、わたしは朦朧とした意識で一度だけ彼の携帯に電話をしてしまったことがある。
何かあったら連絡しろ、と言ってくれていたので、それに甘えたのだ。
「うどんを作りに来てくれ」
というようなことを頼んでいた気がする。
彼は困っていた。
別れの理由は『ほかに好きな人ができたから』であった。
わたしはふと気づいて、尋ねてみた。
「もしかして、もう付き合ってる?」
彼は、しばし迷ったのちに、うん、とはっきり答えた。
日曜日の夜だった。
「あぁ、それじゃ無理やねえ」
「うん、でも…」
「うーん、いい、いい。ごめん。その新しい彼女にも悪いし、こういうのはよくないでしょう」
「いや、お前、そんな…」
「ほんとは大丈夫だから、何とかするから」
「ほんとか?」
「ほんと」
「ほんとだな?」
「ほんと。今はその彼女を大事にしてあげてよ」
「お前、そんな…」
わたしは半ば一方的に電話を切った。
いやー。今思うに、我ながらいいことを言ったなぁ。
しかし彼氏は泣いていた。
申し訳ないことをした。


わたしは損な役回りばかり選びたがるなぁ、と思う。
先の妄想のような状況が生まれたとき、わたしは、その通りにしてしまうのだろうか。

本当は、そうしたくないのだ。
本当は「彼女」の権限を最大限に行使して、同情はしつつも、彼がその人と近づきうるようなことは排除したいのだ。
たぶん。

しかし、わたしが学の自殺の直後、本当に切羽詰まって前後不覚になっていた頃、一緒にいてくれた人には彼女がいた。
この経験があるから、わたしは「言っておいで」と言うべきであろう、とも思うのだ。

そのときは
「気持ちの揺らぎは半端じゃなかった」
と言われた。
でもその人は結局今もその彼女と付き合い続けているし、わたしはその人との関係をそれ以上のものに発展させないように自制した。
そもそも割って入る隙などなかったのか、あるいはわたしの自制によって辛うじてそれが免れただけなのか。

彼とその人の場合も同じであるとは限らないのに。
結局は思いの強さによって決まることで、状況によっても左右されることで、すべての人々の性格にもよることで。

幼い頃から長年にわたって相互依存関係にあったというその二人の中にこそ、わたしが割って入る隙などないのではないか。


あー。
考えるのめんどい。
もういいや。


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ひさびさに小説を読む - 2007年03月25日(日)

ほんとうに久しぶりに、小説を読みきった。
有名な本なのかどうなのかよく知らないのだが、確か少し前に話題になったような気もする安達千夏「モルヒネ」。

昨日おととい、家庭教師先で使えそうな参考書を買い求めるために立ち寄ったツタヤで気まぐれを起こして「ちょっと本探してみるか…」とふらふらとさまよって入手した。

だいたい本屋というのはあまり好きではない。
特に平置きコーナーが好きではない。
食指が動く本が、びっくりするほどに、ないのだ。
世の人はこんな表紙で、こんなタイトルで、本を手にとって買っていくのか、と思うと、ただ不思議な感じがする。
時々がんばってそういうのも買ってみるのだが、読むと果たして、あまりおもしろくない。
たまにはおもしろいのもあるけど。「インストール」とかね。
たぶんわたしの感性がおかしいというだけの話なのだが、そのおかしさ、自分の精神がマイノリティであることを、求めるでもなく一方的に直視させられるということに不快感を感じているのだろうと思う。

彼氏がよく「良本」を「発掘する」ということばを使うのだが、確かにマイノリティにとって、おもしろそうな本を物色する作業というのは「発掘」に近いものがあるのかもしれんなぁ、と。

だいたいがこの日記のタイトルが「日記 食事 読書感想」のくせに読書感想もなにもない状態がだいぶ長きにわたって続いていたのも、こういう事情があったからなのであります。嘘だけど。


それで「モルヒネ」の感想なのだけど、これもやはり、読む人にとって必要なときに向こうから歩み寄ってきてくれた本であったのかもしれんなぁ、とは思う。悲惨な幼少時の体験から精神的に生と死の狭間をふらふらとさまよいながら生きてきた女性の再生の物語、みたいな。
感傷、うーん、そうね。感傷に浸っていたいだけなんだよ、結局。と言われることでだんだん主人公は目が覚めていくらしいのだが、感傷かぁ…。
確かになぁ。
今生きている人をないがしろにしてまで過去の傷を穿り返し、嘗め回すことは、あまり誉められた行為ではないよね。
それは、わかっているのでありますが。

周りの人をないがしろにはしていない、大切に、している。
たぶん、きっと。
今できる範囲では、きっと大切にしている。

それでも消えない苦しみがあるから、しんどいのであって。

モルヒネ溶液の静謐で透明なイメージをうっとりと思い浮かべる気持ちもよくわかりますが、それも、32歳の女にしてはあんまり幼いかなぁ…とか。

死んでしまった人のことを身近なものすべてに宿らせながら、生きていけばいいのだ、そういう感覚はいいと思う。
母と姉は、水に溶けているのだそうだ。
だから水に触れるたびに、彼女たちを感じることができる、と。

しんどいが、これしかないのかなぁ、という気がしている。
身近にあるものすべてに宿る彼の魂を、感じ続けることができる。
そういうふうに思うしか、ないのかな、と思うのだ。


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理想と現実 - 2007年03月24日(土)

地元の銀行の教育ローンかなんかのCMに、こういうのがある。
夕暮れ、住宅街を歩いて帰宅中の中年のサラリーマン。
そこに中学生か高校生の、ブレザーの制服を着たかわいくて清楚な娘が走って駆け寄り
「お父さん、いっしょに帰ろ」
と声をかける。
お父さんも
「おっ」
とか言って、ふたりは並んで歩き始める。
自分にやがて背丈が並ぼうかという娘を見やり、お父さんは、大きくなったなぁ、というような感慨にしみじみとふける。
それから教育ローンの紹介アナウンスが入るのだけど、その背後では娘が
「えへへ」
と笑いながらお父さんと腕を組んだりしている。
「おいおい」
と苦笑しながらもまんざらでもないお父さん。

エロい。
その年頃のお父さんの夢や憧れをそこはかとなく描き出したCMなのかもしれないが、こんなエロい理想があるであろうか。
娘と父親、というところがなんともエロい。

いやまぁ、額面どおりの意味での「エロい」ではないのだけどね。
なんつーか、あざとい、というか、それでいて露骨というか、そういう意味でエロい。

しかし実際に家計を管理しているのはだいたいにおいてお母さんのほうであろう。
父親が娘とのささやかな交流をこのように望んでいるのなら、母親もまた、息子とのこのような、ささやかだが心温まる交流を望んでいるのではないか。

そこでつくってみた。逆バージョン。

夕暮れの住宅街。パートの帰りに寄ったスーパーの袋を提げて家路を急ぐ中年のお母さん。
そこに中学生か高校生の、ブレザーの制服を着た童顔のさわやかな息子が走って駆け寄り
「母さん、一緒に帰ろう」
と声をかける。
お母さんも
「あら」
とか言って、ふたりは並んで歩き始める。
自分の背丈をやがて追い越すであろう息子をみやり、お母さんは、大きくなったなぁ、というような感慨にしみじみとふける。
それから教育ローンの紹介アナウンスが入るのだけど、その背後では息子が
「貸せよ」
と、ちょっと照れくさそうに母親の手からスーパーの袋を取る。
「重いわよ」
と苦笑しながらもまんざらでもないお母さん。
「…あんまり無理すんなよ」
ぽつんと、息子は誰にともなくつぶやく。
一瞬はっとしてから、息子の健やかな成長ぶりと不器用な思いやりに気づき、お母さんは目を細める。

エロい。
こんなん、普通に彼氏にしてほしいことやんな。


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外見にお金をかける - 2007年03月23日(金)

生徒から老けて見られるというのは、やはり、化粧とか髪とかの手抜きが如実に現れているのだろうと思う。
今日鏡で自分の姿をまじまじと見て思った。
ブッサイクやなぁ。

でも、きれいにしたところで、正直、あんまり張り合いがないのだ。
気持ちの持ちようは変わってくるときもあるけれど…。

いや、そんなことを言っていてはいかんね。
もうちょっときれいにしとこ。
そうしよ。

きれいを維持するにはお金がかかる。
それもぶっちゃけもったいない。

でも、やっぱり、きれいにしとこ、と今日思った。


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別れはいつ来るか - 2007年03月20日(火)

ちいさな幸せの話をこうして書き綴りながら思った。
この話を、しびれるようなじんじんとした辛さとともに思い出話として読み返すことになるのは、果たしていつのことになるのだろうか、と。

この幸せはずっと続く。
続けてみせる。
いつだってそのときは、そう思っている。
それなのに。
ひとつも、続いていないじゃない。

教室の帰り道、中学1年生の教え子が「雪見だいふくの生チョコ味が食べてみたい」とのたまうので、近所のローソンに寄っておごってあげた。
「せんせー」
「んー?」
「今日、お母さんと、けんかした…」
「んー…どんな?」
「なんか、わたしがね、学校に忘れ物しちゃって、それでお母さんに八つ当たりしちゃって…」
「そっか…」
気の利いたことばをかけることもできず、あいづちを打つばかりの自分。
ローソンでも、しきりに「おみやげ買って行こうかな…」「うちのお母さん、抹茶チョコが好きなんですよね…」と、抹茶チョコを手にしたり棚に戻したり、もやもやとしていた。

「中学生」という生き物は尊敬に値すると思っている。
少なからずの中学生にとって毎日の生活とは「何がなんだかわからない」ものなのではないかと思う。
少なくとも自分はそうだった。

「高校生」だって、「大学生」だって。
そこを生き抜いて大人になることは、いかに厳しく、しんどいことか。

「大人っていいね、せんせー」

本当にそうだと思う。


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老けている - 2007年03月19日(月)

どうも教え子から、わたしは20代に見られていないらしい。
高校生のお子さんがいるスタッフさんとわたしとを見比べて「こっちの先生が若く見える」とそのスタッフさんを指差されたときにはどうしたものかと本気で悩んだ。
スタッフさんも居心地が悪そうにしていた。


さて、教室だよりである。
もう、大学生がレポートをめんどくさがるのとまったく同じレベルで、ただめんどくさい。
書きたいこと、書かなければいけないことはたくさんあるのだが、おそろしく単純に、めんどくさい。

明日には配る予定であったのに。
どうしたものか。
ああ。めんどくさいよーー。

お茶のCMでモックンと宮沢りえがやっている、あんな夫婦っていいよね、という話をした。
職人気質の気難し屋の不器用な亭主、その亭主を誰より深く理解し一途に支える良妻。
「将来は、山奥で世俗から離れた隠遁生活をしたい」
「そこに女房子どもなんぞがおってはならんのだ」
とおっしゃるので、
「じゃぁわたしが宮沢りえになれば何とかなるんやないの」
と伝えた。
質の悪い茶葉を言葉巧みに売りつけようとしている行商人、それをただむっつりと黙り込むことでしか拒否することができないモックン、機嫌を損ねる行商人、そこへおもむろにモックンの淹れたお茶を客人に差し出し「あんな、人ですから」とひとこと言って微笑む。
ひとくち茶を口に含んだ行商人は、その味わいの奥深さにモックンの仕事への並々ならぬこだわりと腕の高さを一瞬にして思い知り、自らの浅慮を恥じ入るしかない。
これほど鮮やかで洗練されたフォローのしかたがあるだろうか。
「これでいくわ、これで」
「…できんの、そんなん?」

ホワイトプランにしてくれた。
スーパーボーナスで、対応機種を2年間の分割払いにしなくてはいけなくなったとのことだった。
「だから」
「うん」
「2年間は、付き合ってな」
なんでそんな、ちっちゃい声で言うの。
じわじわ来る。
「2年と言わず、それから先も、よろしくお願いします」
「…はぁ」

昨日、鉄平の死から思い起こした学のさまざまな話は、しないことにした。
それと同時に、彼のしんどい恋の話につながりそうな話題も、わたしは排除した。
思い出さなければ、つらくない。
思い出すからつらくなる。

やむを得ず話さなければならないときはきちんと話をしようと思う。
しかし、わざわざ掘り起こすことは、大変だ。
それはひとりのときにじっくりやればよろしい。


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鉄平の死に思う - 2007年03月18日(日)

題名にさくっとネタバレを書いてしまってよいものかとも思うが、鉄平の自殺に思うことをいくつか。

・これもさくっと書いてしまうが、わたしは自殺を実行しかけてやめたことがある。
高校の頃ぐらいから何度か思いつめてやろうとしたことはあったが、こわいのはいやだし痛いのもいやだし、なんだか中途半端な感じで終わっていた。(ちなみにいわゆるリストカットとかああいうのをやっていたわけではありません、念のため)
本格的に実行に移したのはうつ病が本格的に悪くなってきていた時期で、車に練炭とガムテープを積み込み、夜中、阿蘇の山中へと向かった。
目張りをして火をつけて、携帯のメモ欄に遺書のようなものを書き綴っているところで、わたしは自殺を思いとどまった。
車を急発進させ、練炭とガムテープを窓から投げ捨てながら、わたしは必死に自分のアパートへと戻った。
わたしに自殺を思いとどまらせたのは弟への愛情で、弟に迷惑をかけたり、つらい思いをさせたりしてはいけない、という気持ちがぎりぎりのところでわたしに歯止めをかけた。

鉄平が自殺へと追い込まれていく心情の描写はなかなかリアルなもので、実際にやったことのある人ならではのもののような気がした。
次第に言葉少なになり、周囲に悟られないように万全の気配りをし、自然なかたちで人を寄せ付けないようになっていく。
最後、猟銃を顎にあてがってからの間の描き方は圧巻。
これは万人共通ではないかもしれないが、わたしは、火をつける瞬間まで、そして火をつけてからも、ずっと逡巡していた。
その間の心情をことばにすることは難しい。
生きるべきか死ぬべきか、本当に死ぬべきなのか、死ぬのはこわい、しかしやはり死ぬことでしか解決できないという思いは確たるものとして自分の中にあり、そういった思いが交錯する中、わたしは真っ暗闇の森の中に停めた車内でじっとしていた。
鉄平が猟銃を顎にあてがってから、一瞬周囲の音が掻き消え、太陽の光が差し、その光にまばゆそうに視線をやり、周囲にはやがて音が戻り、そして目を閉じ、そしてまたたっぷりと間があったのちに、引き金が引かれる。
この間が、まさにわたしの経験したあの逡巡と非常によく重なっている。
そういう意味で、とても濃いリアリティを感じるものだった。


・鉄平の死に顔について。
父親と弟が霊安室に通されるところで「ああ、思い出すかもなぁ」と思っていたが、キムタク演じる鉄平のその死にメイク、やはり思い出した。
白い乾いた唇、青黒い肌。
思い出して、よかった、と思う。
学の死に顔。
マンションの部屋、301号室、わたしがヤフオクで買ってあげた低反発マットレスに横たわり(そのマットレスには無印で買ったカーキ色のシーツ一式をかぶせていた)、虚空を見つめていた学の死に顔。
5月16日は水曜日で、その日、わたしはどこにいようか、と思う。
301号室に行くべきだろうか。
そこにはもう、新しい住人は入っているのだろうか。

豊橋に行ってあげたほうがいいのだろうか。
豊橋に行って、学のお骨に会いに行く。
行こうかな、と思う。
水曜日だから、仕事もないのだ。よかった。うまくいく。

前の日、5月15日、わたしは301号室に行かなければ行けないだろうと思う。
夜。5月15日の夜。
その日は教室があるから、教室が終わってから。
わたしが、学にあのセリフを吐いた日だ。
出てって。
話す気がないなら、出てって。
時間帯も、そのくらいだね。きっと。


・鉄平の母親について。
取り乱し方がやはり、リアルに母親のそれだなぁ、と思った。
なりふり構わず、このまま壊れてしまうのではないか、というような、そんな取り乱し方。
学のお母さんは、元気にしているのかな。
「まーくん、ごめんね、ごめんね」
耳に焼き付いたままリフレインしていて、気がついたら、わたしも心の中で学のことを「まーくん」と呼んでいるときがある。


・弟について。
「兄さんを殺したのは、ぼくとお父さんです」
と言っている。
「殺した」
という気持ちを背負いながら、生きていけるのですか。
死に顔は無言で生きている者を痛めつけ続ける。
痛めつけ、責め立て、悲痛の底に叩き落とす。
その死に顔が安らかで、穏やかであれば、なおのこと。

自責の念、「じせきのねん」とひらがな六文字で片付けてしまえるほどあっさりさせてはいけないように思う。

本当は、わたしも死ななければならない。
ただ死ぬのではなく、同じ苦しみか、あるいはそれ以上の苦しみを味わって死んでいかなければならない。
こうして生きていくことが許されているのか。
しかし実際は、死ぬことも許されない。
ということで、苦しみを背負いながら生きていかなければいけない、というのが現実的な答えとなる。

殺した、という事実は消えることはない。
いくらわたしが清く正しく生きたところで、わたしが学を殺した、という事実は消えることがない。
もっと言えば、それで学が生き返って、幸せになってくれるわけではない。
だからきっと苦しい。

苦しくても、生きていっていいのだと思う。
苦しむことが日常で、それでいいんだと思う。
実際、言うほど苦しんでない気もするし。
毎日、楽しんでいる。
仕事も楽しいし、ネットも楽しいし、彼氏との電話も楽しい。
でも学に対する申し訳なさ、取り返しのつかないことをしたという重荷、は外れないけれども。

よくわからない。
学はいつ、報われるんだろう。
学の苦しみは、いつ、昇華されるのだろう。
天に昇っていくのだろう。
学はいつ報われるんだろう。

わたしにできることは?

学をひっくるめたわたしという人格を丸ごと幸せにしてあげること?

そうかもしれないね。

皇帝ペンギンを、やっと見られるかもしれない。


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答えは書かない - 2007年03月17日(土)

続き。

「まだ、引きずってます」
と彼は言っている。

対抗手段として、やっぱり、使っているのだろうか。
考えたくないことだけれども。

バランスを取りたい、と思っている。
それならば、学ではなくてもよいはずだ。

少し、楽になった。
バランスを取ろうと思う。

彼が別の人のことを常に心のどこかに宿しているなら、わたしも同じことをすればよいのだろう。

そうして、バランスを取っていこう。
そうすれば、わたしは、彼に対して、完璧にやさしく、受容的であれるはずだ。

卑怯だって?
いいや、違う。

何が一番大切なこと?
彼を裏切らないこと、彼の、気持ちを、裏切らないこと。
彼が求めるもの、受容、包容、やさしさ、思いやり、愛情を与えられること。
それが、いちばん、大切なこと。

わたしは完璧な存在でありたい。
彼の前では。

完璧でいなければならない。
途中で心変わりをしたり、気まぐれを起こしたり、めんどくさがられたり、してはいけない。
常にわたしは彼の上位にいなければならない。
彼の上位にいて、彼の甘えを受け止め、彼の期待に応えなければいけない。
そのためなら。

しんどい決意に思えても、慣れというものはおそろしく、そしてやさしい。
慣れるのだ。わたしはこういう生活に、きっとすぐに慣れる。
携帯を握り締めて、あの年上の人に連絡をする。
それでいい。
何も悪いことはない。
誰も傷つかないし、誰も悲しまない。
そうだね。

理想的な解決法だ。



雨に溶け、空気に乗って、どこにでもいる、という歌を聴く。
あー、そっか、どこにだって、いっしょにいるのか。
今もいっしょにいるの?

小さな恋のうた。
大山百合香のがいい。
カントリー調。のどかでやさしい。

どうしてこんなことになったのか、いまだによくわからない。
現実感はなく、ますますなく、浮遊し続けていて、わたしは幸せだ。
これが「幸せ」だ。




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昨日の続き - 2007年03月15日(木)

昨日の続きを書く前に、今日はちょっとした驚きがあった。

二人の弟がいるし、幼馴染といっしょにお風呂に入ったりもしていたし、小学1年生の男の子のジュニア君がだいたいどんなものか、わたしは知っている。
大人の親指とか、ウインナーとか、そのぐらいだよね。
でまぁ、ふよふよした感じで、やわこいわけですよ。

さて、うちの教室にいる小学1年生の男の子なのだけど、こいつがほんとに落ち着きがなくて、わんぱくでヤンチャで騒がしくて、まぁその子が今日は何を思ったか、おもむろに半ズボンの裾をずらして自らのジュニア君をチラ見せしていた。
あぁまたアホなことしよってから、ほら、やめなさ…
みたいな感じでズボンを直そうとした手が止まった。

ただ唖然として、わたしはジュニア君を凝視していた。
そこにある物体は、どうみても精通を迎えた男性のそれだった。

でかい。
でかいし、それに、かぶっていないわけです。
血管も浮いて、なんだかてらてらとしているわけです。
まるで勃起しているかのように。ていうか勃起してた。

なにこれ?
どうして?
どうしてこんなものが小学1年生の男の子の股間についているの??

最近はいろいろな要因が重なって、子どものからだが早熟しがちだと聞く。
女の子でも小学2年生で初潮を迎えたケースがあるとかね。

いや、でもね。
この子は男の子で、しかも小学1年生である。

わたしはそっと、ズボンの裾を戻した。
彼は何事もなかったかのように学習に戻り、「15+7=」を解き始めた。

「ねえ、これ21?」
「ううん、どうだろうね」
「あっ、22だった」

うん。
やっぱり小学1年生だよなぁ。
なんやろ。
なんだか、なんとなくね、ショック。




さて昨日の続きを書こうと思う。
昨日考えていたことがもう少し深められそうなので、きちんと向かい合うことを試みてみようと思う。

殺しておいて、自分はさっさと次の男に乗り換えかよ。
おめでたいね。

この声にわたしは一切の反応を禁じられている、という感触がある。
実際、その通りなのだから。
反応できないのだ。
罪悪感とか良心の呵責に苦しむことも、禁じられている。
そういったもので苦しむことができるというのは、まだ余裕がある状態なのだ。たぶん。
甘い感傷に浸り、物語の主人公を味わうことと、少し似ている。

それではわたしはどうすればよいのか。
昨日も書いたが、わたしは幸せを享受しなければならない。
後ろを向いて悩んだり、迷ったりすることは、彼氏に対してはもちろんのこと、それは誰よりも学に対しての冒涜となる。
わたしは迷いを昇華させなければならない。


ここで、彼氏との関係が学の存在ありきのものなのか、という点について。

そうかもしれない、と思う。
学のことがなければ、わたしは彼とここまで親しくなることはなかった。
学のことで負った傷が、わたしと彼を近づけた。
それは現実としてわたしの目の前に常に横たわっている。

恐ろしいことを考える。
学を利用して、わたしは彼に近づいた?

学と知り合う前からわたしと彼は知り合いだった。
だから?

わたしは、彼と仲良くなれたらいいな、とは思っていた。
しかし、仲良くなろう、と思ってあれこれ話をしていたわけではない。

学の自殺についてわたしが彼に話した理由は、ただ、単純に、切羽詰っていたからだった。
「自殺」というキーワードに難色を示さず、話を聞いてくれそうな人。

闇に吸い込まれそうだった。
毎晩毎晩、塾からの帰路、広いバイパスで車を走らせながら、わたしはそのまま夜の闇に吸い込まれるかもしれないと思っていた。
意識が茫漠としていて、視野がきゅーっと狭くなり、目の前の真っ暗闇しか見えない。
そしてそのまま、ぶつかって事故を起こして死んでしまうのではないか、と。
いつもすんでのところで障害物をかわして、わたしは死なないで家に辿り着いていた。

本当に、死んでしまうかもしれない、と思った。
形振り構っている場合ではない、と思った。
だからメールを打った。

果たしてわたしの期待通り、彼は、深刻な自殺願望を抱いた経験のある者ゆえの真摯さをもって心ある返信をくれた。
それでわたしはある程度救われた。

それだけは、真実だ。
わたしは、彼の気を引こうとしてそんな話をしたのではない。
本当に、本当に、切羽詰っていたからだった。

その先。
その先も、わたしは、彼の気を引こうとして、いろいろなことを書いたわけではなかった。
ほかに、そういう話を聞いてくれそうな人が見つけられなかったからだ。

これにも嘘はない。

あぁでも、少し、思うことがある。
状況はまったく異なるけれども、彼も、叶うことはないけれどもあきらめきれない恋を引きずっていて、お互いややこしいですね、みたいな話をしたことがあった。

「過去もひっくるめて受け止めてくれるなんて、そんな度量の大きな人との出会いなんてこの先あるんだろうか?」
ということを、お互いに言い合って
「いるわけないですよね」
と、またお互いに相槌を打って苦笑し合ったり、というようなことをしていた。

向こうはなんとも思わなかったと思うけれど、わたしは、このとき一瞬「あぁ、こんなふうに悩むポイントが似ているのならば、あるいは…」と思った。確かにそんな記憶がある。

これは書いた後でそう思った。

学と付き合っているときも、ずっと気になる存在ではあった。
が、そばにいる学のことを大切にしたかったし、はなから進展の可能性はなかった。

でも、もしその可能性があったなら?
そのときはどうしていただろう。
それを期待する気持ちは、ゼロだったか?
そんなこともない。
まったくなかった、ゼロだった、と言えば嘘になる。

眠くなってきました。
続きはまた明日。


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ワニと小鳥 - 2007年03月14日(水)

「食べた」というフレーズが印象的、聴けば聴くほどに沁み入ってきてしまう。
感傷に浸る、というのではなく、身を削るような、こころを切り取る作業を切々と続けるような、そういう痛い感覚がある。
しかしそれは必要なことなのだ。
わたしはもっと、痛くてつらい思いをしなければならない。
ワニは小鳥を食べてしまうのだ。
醜い、醜い、と自分を呪う声が聞こえる。
今は生かすことができるのか。
できるのだろうか。

なんかものすごい急ピッチでものごとが進展して彼氏ができたのだけど、この人もどちらかというと、弱い人なのだ。たぶん。
学と少し似ていて、ぜんぜん違うところもたくさんあるけれど、でもやはり、似ているように思うのだ。
前に一度、そのようなことを伝えた。
学とあなたはよく似ている。
だから、あなたには、死なないでほしい。
と、わたしは伝えた。
学は死んでしまったが、あなたには、死なないでほしい、ものすごく一方的で私的な願い事だとわかってはいるが、やはり、わたしはあなたに死なないでほしいと思っている、というようなことを伝えた。

学を生かしきれなかったから、わたしはその人のことが好きなのだろうか。
学のことを背負っているからこそ、わたしはその人と近づいたのか。

わたしのなかにある「決意」というものは、「この人と私はいろいろな偶然が重なって通常よりも深いところでつながっている感触がある。この人は私を信頼しようとしてくれている。だから、私はこの人を裏切ってはいけない。この人のこと『は』裏切りたくない。」というようなもので。

学の存在ありきの関係?
だとしたらとてつもなく失礼なことをしている。

わたしもその人のことを信頼したいと思っているし、信頼に値する人だと思っている。
大好き。
だからずっと仲良くしていたいし、今の関係を壊したくはない。

それがあれば、いいのだろう、と思う。
いいのだろう、とは思うのだが、だからと言って、ハイ次、とさくっと気持ちをシフトできるのならばその人はロボットか何かとたいして変わらないのだろうと思う。

学の声は、いつになったら聞こえるんだろう。
5月16日が、たぶん、学の命日。

誰が何と言おうと、何度「ちがう」と言われても、それでも、
わたしは学を殺した、殺した殺した殺した、
そういう声が脳裏から消えることはない。

殺しておいて、自分はさっさと次の男に乗り換えかよ。
おめでたいね。
死ねばいいのに。

同時にそういう声も聞こえるけれど、べつに苦しくとかならない。
わたしが苦しむ筋合のことではないのだから。
わたしには苦しむ権利もない。
開き直るのとも少し違う、けれども、確かにわたしはそうしている。
だから、苦しむ権利はない。
わたしは幸せそうに笑っていなければならないのだ。


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おやすみ - 2007年03月04日(日)

いろいろと雑用をこなしてしまおうと思ったのだけど、どうしても、どーーーしても、めんどくさくて。

もうやめ。今日はやめ。
だって日曜日やもん。
今日はお休み。

明日の午前中で
わーーーーーーーっ
とやってしまうのだ。
それがよいのだ。そうしよう。


暇な時間ができると考える。
いろんなことを考える。
とても、いろいろなこと。
生きていることとか、死ぬこととか、愛することとか、
友達って何だろう
夫婦って
親子って?
どうすることが「愛する」ということですか?
などなど、うっかり人に尋ねてしまうと赤面してしまいそうなことばかり、次から次へととめどなく頭の中を流れていく。
知識を増やすことも素敵だと思うけど、今日はひとりで物思いにふけってみたかった。



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夢、妄想の対価 - 2007年03月03日(土)

イメージとしてはマトリックス、なのかなぁ。

からだごと、妄想どおりの世界の中に放り込まれる。
しかもひとりではなく、たまたま一緒にいたふたり以上の人間が同時に放り込まれる。
賢い彼らは現実世界と妄想世界の行き来の接点をほどなくして理解し、自由に行き来する術を見つけ出す。
と言っても実は何のことはなく、携帯端末を持ってコンビニでポイントを購入すれば誰でも行き来できるものらしかった。お手軽やなぁ。
1ポイント50円。
滞在時間に応じてポイントが消費されてゆく。
妄想世界の中でポイントを消費しきってしまうと戻れなくなる。
だからあらかじめ買いだめしてから行かなければいけない。

「自分の気持ちに整理をつけるため」「これが最後」と暗黙の了解の中で、最愛の彼女との結婚を控え、ある青年が妄想世界に旅立ってゆく。
彼は早くに父親を亡くしており、小学3年生のときに親子二人で山間の湖へ釣りに出かけたさいのあたたかい記憶を心の支えにずっと生きてきた。
そのときの湖畔に、彼は赴いた。
父親から差し出された大きな手。
渇望し続けていた、父親からの愛。
これでやっと、前に進める。
万感の思いを込めてその手を握ろうとしたとき、ふっと辺りが暗転したかと思うと、地下室とおぼしき冷たい真っ暗な空間にひとり彼は立っていた。
と同時にサングラスをかけた黒スーツの男達が(こいつらが、もうものすごい勢いでミスタースミス)冷徹な面持ちでコンピュータから次々と彼宛の請求書を打ち出してゆく。
幼い頃から繰り返し繰り返し反芻してきた父との唯一のあたたかい思い出。
それらにはすべて対価がかかっていたということだった。
実際に行き来はしていない。ただ記憶の中で反芻していただけだ。
しかし妄想世界から出るには、その対価を支払ってしまう必要があるとスミス(←便宜上)は主張する。
わかった。彼はうなづいた。
現実世界では、彼の帰りを彼女が待っているのだ。

と言っても彼はそのような大金を手元に持っていない。
つまり、対価を支払うには一度現実世界へ戻らないといけないのだ。
そうスミスに伝えると、スミスは「うまいこと知恵を働かせやがって」みたいな感じでたいそう悔しがり(悔しがるも何も当たり前のことなんだけどさ)彼はめでたく現実世界へ戻ることができる。
その後スミスたちの猛追を振り切り、彼は確か平凡だけど幸せな日常を手に入れることに成功したのではないかと思う。
結末はよく覚えていない。

珍しく今回は芸能人の出演はなく、わたしはフェリーでその妄想世界と現実世界を行き来するルートを見つけた人の役だった。
女4人組で、各自ばらばらの目的があって妄想世界に入るのだが、わたしだけがいつも何をするにも遅れを取る。
なんか、行って帰ってくるだけ、みたいなことが何度かあったし、ポイントが切れる寸前にものすごいギリギリでフェリーに飛び乗って、みたいなヒヤヒヤした一幕もあったりして、まぁ普段の生活ぶりがよく現れてますな、という感じだった。


今日は日がな一日、YouTubeで空耳アワーの映像を見ていた。
とてもあたたかい日だった。
やっぱし昔のほうが断然おもしろいなぁ。
エッジがないよ。エッジが。
嫁ブサイクでした!!
はおもしろいけど(笑)



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春の陽気のうららかに - 2007年03月02日(金)

日に日にあたたかくなってゆく。

わたしのうつ気質は季節によるものが大きいらしく、ただの気分の浮き立ちとはまた別に、春になると急に調子が上向く。(そしてそわそわと落ち着きなく活動的になり、若干躁気味になるのだけれども。)

仕事中に爆弾メールを送りつけてきやがったのだが、それはちょうど夕方の生徒がはけた後の時間帯で、しっかりと笑わせたのち、それはもうさっと転回して退いていった。
100点満点やなぁ。


帰りの車の中でそのときのことを反芻し、わたしはもしかしたらものすごく幸せ者なのかもしれんと思った。
世界一幸せ者かもしれん、と思った。
だって今のところは、将来に向けての不安材料が見当たらない。
これ以上の幸せは、ないと思う。
いや、あるよ。あると思うけどね。
気持ちとして、これ以上はないな、という気持ち。

学の声はまだ聞こえない。
誇張でなく学の一番の理解者であったわたしは、学の考えていることがとてもよくわかる。
ふたつの本音がせめぎあい、その衝突を解消させるにはもう、死ぬしかなかったんだろう、と思う。
大切な人を死なせるような欠陥品であるわたしでも、こうして誰かの幸せに寄与することはできる。
だから、着地点を見つけなければ、と思う。
欠陥品は欠陥品なりに、がんばらないといけないのだ。


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けけけ - 2007年03月01日(木)

結婚!!!!

学生時代の某友人がこのたび結婚する運びとなったとのことで。

いやはや。
もう、ホント、みんな結婚してゆくんだねえ。
なんというかね、こうね。
おめでとう。ホントに。
がんばってね。
お幸せに。

何人目だろう。
人の結婚を祝うのは…。

べつに、べつに、けけけ結婚したいとか思ってないもん。
そんなん、考えてないもん。
考えてないもん…。(涙目で)



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