ラヂオの時間ふたたび - 2006年08月26日(土) 前にも書いたような気がするけれど、やっぱりいいなぁ。この映画は。 ビバスカパー。 実際、唐沢寿明が謀反を企てたときに、いくら人望があってその場に漂うモヤモヤした違和感をスカッと吹っ飛ばせる唯一の人物だったとしても、あんなにたくさんの人はついてこないと思うがね。 でも映画を観てる人はとてもスカッとするので、あれでいいわけです。 最近ドラクエ7をやっていて、お恥ずかしい限りなのだけれども、いろいろと考え込んでしまう。 からくり人形に死んだ女性の名前をつけて、思いを投影させている偏屈科学者の話とか。 からくり人形は科学者が死んだ後もその事実を理解できず、身辺の世話を続けている。あたたかくておいしいスープを飲ませれば元気になる、とかなんとか言いながらスープをつくって主のなきがらのもとに運び続ける、という描写がある。学がそこをプレイしていたときに「泣ける」とメールを送ってきて、さらに、そのからくりの話で出てくる全自動掃除機をネタにして、お腹が痛くなるまで私を笑わせるメールを続けて送ってきたのだった。あの子と私は本当に興味関心ごとのベクトルがすごく似ていて、だから笑えるツボは本当にいっしょなのだ。 他の人には説明し得ない、この絶妙なツボ。 たとえばラスボスに挑むメンバーは「そうじき」「そうじき」「そうじき」で必殺技が「たたみ」とか。 ほら、何がおもしろいのかわかんないでしょ。(なぜか自慢気) またべつの国では、気を引くためにわざと傷つけるような言葉をぶつけて、それで関係が壊れてしまった人たちの話とか。 本当は気を引きたかっただけなのに、愛してほしかっただけなのに、彼を傷つけてしまっただけだった、と後に女性のほうが述懐する。 そういうのを期待せずにぼーっと見ているウィンドウに唐突に、人の心の機微を簡潔に表現することばが浮かんでくると、意表を突かれる。 そして、あぁ、そうか、と思うのだ。 そうか、そういう意図で相手を傷つけるようなことを言ってはいけないんだ、と。 こんな、影響受けまくりでお恥ずかしい限りですが。 - 智子 - 2006年08月16日(水) 一週間ぐらいから毎日来てるのだけど、出会い系サイトの「智子」からのメールが、ここ数日で一段と増えた。 一日十件ぐらい入ってくる。 どうもストーリー仕立てになっているようで、件名でそれを追うことができる。 「智子」は最近、会えないならもう死ぬ、みたいなことを書いている。 よほど貧困な感受性しか持たない人でないと、そういう内容を不特定多数に送ることなんてできないだろうね。 文面をつくることはできるだろう。 でも、出会い系サイトの宣伝にすぎなくても、少しでも考えることのできる頭を持ってるんならこんなの送れない。 傷ついたとか鬱陶しいとかそういう気持ちはないけれど、ただ、このメールを送ってるやつは相当なアホなんだろうなぁと思う。 久しぶりに、水10→ふたりのラヴソングの流れでテレビをボーっと見ていた。 ふたりのラヴソングには本当に魔力がある。 いつ見ても、あぁ、素敵だなぁ、と思うのだ。 友人の結婚式に出てるときのような感覚。 何を今更な感もありますが、私はもしかしたら、一生独身なのかもしれない。 それでもいいんじゃないかなぁと思ったりもするのですけどね。 根がめんどくさがりやなので。 - 熊工の試合と辛すぎるたらこパスタ - 2006年08月14日(月) いろいろな用事を片付けるために街を歩いていたら街頭テレビに人垣ができていて、何かと思ったら甲子園、熊本代表の熊本工業高校と天理高校との対戦で、9回表で熊工攻撃で、点数は3−3で、これはがぜん私も立ち見したくなった。 見始めてからすぐに熊工に立て続けに2点入り、裏で天理がもうちょっと、もうちょっとで返しそうになるのをがんばって食い止めて、5−3で勝ちました。熊工。 ギャラリーみんなで拍手喝采。 県大会での今年の熊工はすごかった。すべてコールド勝ち。 そんで天理にも勝っちゃったよ。すごいよやっぱり。 で、自分が夕飯の食材を買い物している最中だったことをはたと思い出して、慌てて家に帰ったわけですが。 両親がハワイ旅行中なので弟の食事を私がつくっている。 数年前に還暦を迎えた父と、お盆休みで教室が休みの母と、二人でハワイ旅行!! なんて平和なんだろう。 すばらしい。 テロとかストライキとか大停電とか起こらずに無事に帰ってきてほしいものだ。 下の弟と学が同い年で、弟を呼ぼうとして、ときどき「ま」の形に口が開いてしまう。 こうしてごはんをつくって「おいしい?」って尋ねてたりするとね。 ありあわせの材料でつくったたらこパスタはコチュジャンを入れすぎて(ホントにありあわせだな)ものすごい辛かったけれども、弟は普通に「おいしい」と言って食べてしまった。 ごめんなさい。 と今日謝る声が聞こえてきた。 昨日、家にひとりでいたときに、階段を昇り降りする足音が確かに聞こえたのだ。 冷房の冷気が廊下に逃げないよう、うちの階段と部屋の境目には天井からロール式のカーテンをぶらさげていて、クーラーをつけるときには閉めるようにしてるのだけど、そのすみについているプラスチックの止め具と壁とが人がカーテンをめくって出入りするときなどにときどきぶつかって「コッ」と小さな音を立てる。 階段の昇り降りの足音には必ずこの「コッ」がセットでついてくるのだけど、そこまでちゃんと聞こえたのだ。 あとで帰ってきた弟に、少し前に一度帰ってきたかどうかを尋ねたら「いや?なんで?」と尋ね返されたので上記のことを話すと「うちもとうとう出るようになったかー」と冗談を言われて、なんとなく、むっとしている自分を発見した。 学かもしれないのに。 そんな言い方はないだろう。かわいそうに。 今日、初めて学とおぼしき声が私に謝るのを聞いた。 また夕食の買い物中であることを忘れて洋服の品定めをしているときだった。 ボンバーマンで勝負して勝った方が好きなものを買ってもらえる、という賭けをして、私が勝ったので、その服屋でカットソーを買ってもらった。 「今度ふたりで出かけるときに着る」と言ったのに、最初に着たのは仕事に行くときだったと思う。 いやな女。 傷ついたかもしれない。 ごめんなさい。 つらい思いをさせてしまって。 本当だよ。つらいっすよ。正直。 学は死んでまで私に謝っている。 どこまで優しい子なんだろう。 そう思うとまたつらくなって、でもそしたらまた学は謝るだろうし、わけがわからなくなってきた。 本を読んだり、こういうことに通じている人の話を聞きに行ったり、荒行をしたり、なんかね、そういうことですすぐことはでき…ないのだろうかね。やっぱり。 うさんくさいなーと思いながら見ていた最近やたらテレビに出てる霊媒師?みたいな人とかにすがりたくなる気持ちが、ものすごくよくわかる。 言ってもらって楽になれるなら、本当かどうかは、二の次なのだ。 そう思う部分が、そうでない部分よりはるかに大きい。 五木寛之が「人生のヒント」で、恐山のイタコがなぜ必要なのかということについて触れていたけれども、同じようなことが確か書かれていたと思う。 あぁ。寺島しのぶが「さしのみ」に出てる…。 - 火の国まつりのこと - 2006年08月11日(金) そういえば昨年は、あの「おてもやん総踊り」を学に見せたのだった。 ほら、すごいでしょ、すごいでしょ、と笑いながら見せていたら、困惑しながらも「すごいです」と素直に驚いて、笑っていた。 アンパンマンの着ぐるみをふたりで一生懸命追いかけて写メを撮った。 でも昨年は花火の日を一日間違えていて、お城に見に行ったらもぬけの殻だった。 今年は2000発しか上がらないらしい。 打ち上げ花火を見せてあげたかったと思う。 この火の国まつりの花火を見ていると、なぜか、何かの節目のような感じがする。 夏はもう終わる、っていう合図なのだろうか。 遊覧飛行機がぐるぐると上空を飛んでいる。 花火の中を、プロペラ音とともに飛行機の赤いランプが突き抜ける。 その飛行機の中には、たくさんの興奮と感動と幸福が詰まっているんだろうと思う。素敵だ。 あ、やばい、泣きそうだ、と思った瞬間にはもう涙は止まっていた。 泣いてスッキリするのなら、泣きたいのだ。 けど最近、涙が出ない。 あまりにもふがいなくてしょうもなかった数ヶ月前の自分とか、そこから変わったと思いたい、でも本当に変わったの?変われているの?と疑いを拭い去ることのできない自分とか、 かわいそうな学のこと。 知らないですんだことなのかもしれないけれど、知ってしまえば目をそらすことはできなくて、そして、それはあまりにも重たくて、辛い。 そういう不幸が、たくさん、どれだけたくさん、日本にはあるんだろう。 こういう話ができる人はどこにいるのかな。 花火を見ながら、日本に転がるたくさんの不幸せに思いをめぐらせる、ことが、決して悪いことだとは思わない。けど。 こういうことをこういうタイミングで話して、不思議がられるのは、もうめんどうで、うんざりする。 だから、話さない。 花火はどうしてこんなに物悲しいのだろう。 学の携帯に写メを送ろうとして、やめた。 そうすることで、どうなるというのだろう。 学の家族は、私にはもう会いたくないだろうと思う。 辛い記憶が呼び起こされて、きっと、たまらなくなるだろう。 私ひとりが殺したわけでは、ないと思う。 けれど、私は学の背中を押した。 どん、と突き落としたのは私だ。 どうすればいいんですか。 生きる、一片の後悔も迷いも曇りもなく、まっすぐに生き通すことができればいいのに。 まるで人間じゃないみたいに、神様のように、聖人君子のように。 私はいつも迷っているし、悩んでいるし、後ろばかり見ている。 それではよくないと思う、けれど、後ろを見ないことなんて、できると思う? 自分がよく生きること、にはあまり関心が持てなくて、どうすれば罪を償うことができるのか、許されることなのか、どうすれば許されるのか、 どうすれば、彼はゆっくり安心して休めるのか、 花火が終わったみたいだ。 終わり際の花火はどうしてあんなに大きなのがたくさん打ち上げられるんだろう。盛大で、華やかで、それはもうすぐ終わるから、クライマックスだから、終わらないで。終わりは悲しい。ずっと続いていればいいのに。 涙は出そうになって出てこない。 紹介したい教室がひとつある、と今日本部から連絡があった。 母の教室のほかにもうひとつ教室を持ちたいという意向を前々から伝えていたのだが、それをこうしてちゃんと汲み上げてくれていたんだな。 公文っていい会社だな。うん。 前を向いて歩いていくことが答えなのかどうかは、わからない。 多分そんなに簡単にわかることじゃない。 本当は迷う。生きることを続けるべきか、やめるべきか。 それは「自殺する」ということでなくて、自分をあきらめるか、あきらめないか、の違いのことで、外見には多分大きな違いはないんだろうけど、私の中では大違いで、あきらめるべき、のような気もする。お前には、「生きる」価値なんてないんだ、「生きる」資格なんてないんだ、 ひとりの人を殺しておいて、それだけのことをしてまで、「生きる」なんて。 って、変なの。 わかってるけれども。 正論じゃなくてさぁ。 - 水曜はレディースデー - 2006年08月09日(水) ゲド戦記を見た。 正直、あんまりおもしろくはなかったっていうか… 駿ファンにはたまらない小細工がいくつかあったのは嬉しかったけれども、あと、「これってそのまま『シュナの旅』やん…」って思ってたらエンドロールで「原案 『シュナの旅』」って出てきて、そうだろうねえ。うん。あまりにもそのままだったし…。 ところで、「シュナの旅」はお父さんの出した本ですよね。 もう何がなんだか。 決してつまらなくもないのだけど、父親が偉大すぎるために普通のアニメにしか見えなかったのだろうか。 最近ではなんだか定番になってしまった感のある、なんの説明もない意味深な場面の謎解きはたぶん合ってると思うのだけど。 この映画を観るにあたって、「いのち」の尊さをどういうふうに訴えてくれるのだろう、というところにとても関心があった。 宮崎駿氏は「風の谷のナウシカ」の原作本で、ナウシカに「命は闇の中でまたたく光だ」と言わせているけれども、吾朗氏も基本はそのスタンスで、ただ伝え方がより卑近というかなんというか、普通の日本人でも共感しやすい伝え方をしてるような気はした。だから「そうか、なるほど」とは思った。 少し、心が軽くなった。 少し、納得してくれたような気がする。 私は彼を生かしたのだけれど、結局、生かし続けることができなかった。 映画の中でも、他者によって生かされた彼女が、あのまま目の前で死んでしまえばよかったのに、そうすれば、私はもっと救われたのに、と、彼女が再び立ち上がった瞬間はなんだかちょっと悲しい気持ちになった。 実際、目の前で必死にもがくのだけれど、すんでのところで彼女を救えなかった、しかしそれでも前を向いて生きていくのだ、という結末なのであれば、私は、もっと、救われたような気がする。 その姿勢は、私が生きていく支えにもなりうるだろうから。 それとも本当は、あそこで彼女は死んでしまったのだろうか。 そして彼は彼女から命を受け継ぎ、生きていくのだろうか。 そうだったらいいのに、と思うのだ。 - 韓流ドラマ - 2006年08月08日(火) どうしてこんなに悲しい運命を背負う人々が苦しみもがくドラマが人気なんだろうか。 確かにこれはこれで面白いのだけれど、私は、もっとカラッとしていて、明るくて、皆が幸せなドラマがずっと好きだ。 昼のホームドラマなんかかなり最高だ。5つ子ちゃんのやつとか。 ベタなのがいいの。ベタなのが。 これは、現実では私が不幸体質で韓流ドラマが好きな人はその逆だということだろうか。 とか思ったが、まぁいいや。 大陸系の顔だとよく言われるが、確かに私みたいな骨格の顔の女の人がたくさんいるなぁ。 てことは私も韓国に行けば女優デビューの可能性が!? そうか。 腎臓か。 なるほど。 あぁ、こんなふうにごちゃごちゃに絡まった感情が交錯するからハラハラしてやめられなくなるんだったっけ。そうだそうだ。 だから最初から絡め合うものじゃないんだ。人の気持ちなんて。 最後に待ってるのは混線と誤解と行き違い。 運がよければハッピーエンド。 - ユダ - 2006年08月06日(日) ユダの裏切りは裏切りではなく信仰に基づいた使命であり、イエスもそれを理解していた、という福音書があると。 それがユダヤ人弾圧の流れとあいまって捻じ曲げられ、現在の私たちが知る「裏切り者ユダ」の姿になったんだと。 それで、ドイツの研究者の間では、ナチスの歴史から、ユダを聖人化しようとする流れが盛んなんだと。 4つの福音書とは別のものらしいので、まぁどうとでも言えるのかもしれんが… 結局は「何が正しいかとするのは各々の信仰の問題」で終わってしまっているのでなんとも歯切れは悪いけれども、信仰というものの本質に迫ろうとしている感じがぞくぞくして、おもしろかったです。 ナショナルジオグラフィックのドキュメンタリー番組。 - 昨日の出来事 - 2006年08月05日(土) 頭からどばどばと血が流れたのだ。 うちの車庫は、屋根は平らなのに地面が斜めになっている。 すなわち地面が高くなっているところを歩いていると、屋根に頭をぶつける。 昨日もぶつけたのだ。 リッキー(飼い犬)と早く遊ぼうと思ってリッキーのほうばっかり見て歩いていたのがよくなかった。 あぁ、またやってしまった。 と思って、たんこぶの大きさを確かめるためにぶつけたところに右手を当てると、ぬめっとしていて、ん?と思って手の平を見ると真紅に染まっていて、 なんじゃぁこりゃぁぁぁ!!! いや、実際そこまで驚いてなくて、あぁ、血が出ちゃったのね、頭だから結構どばどば出るだろうなぁ、本格的に流れ出す前に部屋に上がってティッシュを…とか冷静に考えながら戸口に急いでいたらもう本格的に流れ出てきて、額から眉間へ、眉間から両目頭を伝って鼻の横をすーっと、ふた筋の血がたらりと、やがてどばーっと。 服を汚さないように前かがみになって、庭の芝生にぼたぼたと血を垂らしながら歩いていた。 でも前かがみになってるから前が見えないわけですよね。 だから両腕が前方に伸びているわけです。 もうこれは、ちょっとしたホラーです。 二足歩行をしている貞子です。 痛いとかより、このおかしな光景を誰かに見せたくて見せたくて。 見た人は到底笑えないんだろうけど。 動脈血ですよあの色は。 なんなんだ。頭ってこんな皮膚の近くに動脈血が流れてるもんなのか。 とりあえず母にティッシュを持ってきてもらって部屋に上がり、顔の血を拭き、マキロンで消毒しようと思って救急箱まで歩いて移動する間に血の出がひどくなった。 すげー。 頭って本当に血の流れが激しいんだね。 傷口には軟膏を塗っているが、そんなわけで昨日は頭を洗っていない。 今日もなんかまだ怖くて洗ってない。 - 気を引くために匂わせる - 2006年08月03日(木) 最近、例のサイトがあんまり面白くない。 昨年ズギューンと胸を射抜かれたあの日記が、最近、なんかおもしろくないのだ。 好きな人に自分のサイトのことをちらっとほのめかしてみたとか、そういうことを全部書くのは日記なんだからいいとして、後になって「ばれるかも、やばい」とか言うくらいならさぁ、 そんならアップしなきゃいいじゃん、日記…。 つまらん。 以前、自分も同じようなことをしていたような気もするけれども。 一家3人が焼き殺されたあの事件、狂った父親をときに母親は止めなければいけないときがある、と言うけれども、自分は身体を張って止めたんだから、と言うけれども、まぁ…。そんな誇らしげに言うほどのことか? ていうか、私のときにはしなかったくせに。 ママンのバカバカ。 もちろん何も知らない塾の子が、こんな事件があったんだねとなにげなく話してくれたのが26歳の女性と19歳の少年の話で、 もちろんまったく状況は違うんだし、亡くなった女性に何か非があるとかそういうことが言いたいわけでもないんけれども。 さっき歩いて30秒ほどの近所に救急車が来て、20分ぐらいしてから出て行った。 救急車の音は住宅街だとすごくよく響く。 塾も家庭教師もうまくいかない。 公文も。 はぁ。 なんとなく、気が塞がる。 - 排水口 - 2006年08月01日(火) どんなに怖かっただろう。どんなに苦しかっただろう。 と思うと涙が出てくる。 数年置きにこういう事故が起こる。 「慣れ」ちゃってたのかなぁ、と思った。 今までずっと、何もなかったのだから。 今日もきっと何もないはず。 「惰性」とか「慣れ」ということばは麻痺と似ている。 私も、麻痺していたのだと思う。 今までずっと、何もなかったのだから。 今日もきっと何もないはず。 少しぐらい手を抜いてもいいこととそうでないことの二種類が世の中にはあり、その判断を下すために頭を働かすことには、手を抜いてはいけない。 -
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