重苦しい - 2002年02月25日(月) 昨日の流れがぜんぜん抜けない。 相変わらず憂鬱で、妙な被害者意識に苛まれ続けていて、一度嫌いになった人のことを徹底的に嫌いすぎて周囲から白い目で見られていることにはやはり敏感な私がいる。 自分はつくづく世間知らずの温室育ちだなあ、と思った。 まる二日ゲームをし続けることは、こんなに心理的に悪影響を及ぼすことなのだろうか。 いや、ていうか本当にゲームのせいなのだろうか。 頭が芯からずきずきと痛く、熱っぽく、悪寒がして、でも風邪ではない。 花粉症の症状かと思うけど、でも鼻水とかはそれと比例するほどには出てない。 いや、まあでも体調が悪いのは花粉症のせいだよ。きっと。 そういうことにしとこう。 泣く元気すらない。 「やばいよ、ほんとやばいよ」と、自分の中で何かが絶えず警告を発している。 ・・ちょっと出川を思い出した。 それはさておき。 「流れ」だと思いたい。 しばらくしたら回復すると思いたい。 「早くこの流れがいい方向に向かってくれないかなあ」と思うとき、「・・ほんとにいつかは回復するのかな?ずっとこのままじゃないかな?」と不安になる。 そんなことはないと言ってほしい。 いつもと違う。 なんとなく。 いつもは怒りとか不満とかの矛先を、ひたすら外の世界に求めて自分を守っていた。 今は、自分に向かっている。 私はこんなときの耐性がない。 精神的にひ弱なのだ。こんなときに自分の脆弱さを思い知る。 怒りが自分に向かっているからなのか、救いを求めるのは自分以外の何かに対してだ。これもいつもと逆だ。 でも、結局誰も手出しのできない領域なのはわかっているので、余計に苦しい。 何に追い詰められているのだろうか。 何に焦っているのだろうか。 もうあんまり体がきつくて、頭がぜんぜん働かないのに、それでも私は働かなくちゃいけないと思ってるのだろうか。 仕事をしているとき、ふだんは感謝とサービス精神を忘れないように接しているつもりのお客さんたちが、敵に思える。 実際、それは間違いではないのだけれどね。 あー。 もういいや。知らん。 寝よう。 - ピサロです - 2002年02月24日(日) 週末を、朝から晩までゲームだけして過ごした。 すごい精神的にすさんでるのを感じる。 やっぱり天気のいい週末には体が少々きつくても外に出て日光を浴びたほうが気持ちがすっきり明るくなれるのだなあ、と逆に思った。 ところで、実際の症状を経験された方から見れば苦笑ものなのだろうけど、私は中学校の後半ごろからずーっと、自分にうつの傾向があるのではないかと感じていた。 うつ病になりやすい気質であることは、自分でわかってた。 でもいろいろな人の話を聞いてみると、自分は病気ではなく、「健常」の範疇に収まっていることは認めざるを得なかった。 どうして週末になると、私はいくら眠ってもベッドから体が離れないのだろうか。 キャパシティを超えている。 これが中学校のころから感じてきた感触。 毎日が、私のキャパシティを超えている。 「私って、ほんとは生きてるだけで精一杯なんよね」 と言うと、彼氏は 「あー。そういう感じするね」 と言って笑って、そこで会話は終わった。 こんなことを書くと、「何を甘ちゃんなことを考えてるのかねえ」と思う人だってたくさんいるんだろう。 実際、自分でも、なんて甘えてるんだろう、と思う。 少し前に、ある知り合いから「期待に応えようとして頑張るタイプだもんねー」と言われたとき、なんだか不愉快な気分になった。 確かに以前の私はそういう面が大きかった。 でも今は、私はわがままなくらいに自分を中心に置いて物事を進めている。 見かけがあたふたしているせいで、私は周囲に不安感を与えることが多い。 なので、実際きちんとこなしていることでも「ほんとにできるの??」と思われることがときどきある。 実際、周りの人はわかりやすい面で私という人間を判断するしかないわけで、そんなときにいちいち周囲の評価を気にすることが馬鹿らしく思えてきたのだ。 私は今は、自分のために頑張っている。 他の誰のためでもない。 誰かの期待に応えるために頑張ることは、やめたつもりなのだ。 たぶん。 私は自分の置かれている状況を持て余して、よくいらいらする。 その状況を引き寄せたのはしばしば自分自身であるのだが、だからと言っていらいらが収まるわけでもなく、とにかくいらいらしている。 ・・もしかしたら単なるカルシウム不足なのかもしれない。 社会人は大変だ。 無意識に突っ張っている自分を感じる。 「社会人」になった自分がかわいそうで、私は最近よく泣くのかもしれないと思う。 そんな理由で泣くことなんて理解できない人もいるであろう。 社会人になった自分がかわいそうだと感じている時点で、私は何かずれているのかもしれない。 学生とか専業主婦よりは、社会人がいいと思う。 誰かの力に守られて生きるより、自分の力で生きたほうが、めんどくさいこともたくさんあるけど、すっきりしてるのだ。なんか。 泣くときは自意識がすごく過敏になっている。 「愛し」と書いて「かなし」と昔の人は読んでいたらしいが、たぶん自分に対してそんな感じだ。私の場合はね。 中学校のころから私はなんかいつも疲れていたが、すこーしずつ、疲れがとれてきたかもしれない。 実際一番忙しいのは今なのだが、素朴に何かを「いい」と思える気持ちが戻ってきたような気がする。 よく言われるように現代は情報過多時代で、とにかく何でもかんでも無節操に「いい、いい」と薦められることに私はすごく、ものすごくうんざりしていて、自分が本当に好きなものでさえも本当に好きなのかどうかわからなくなってしまっていて、だから私は自信を持って好きだと言えるものは少ししかない。もうお願いだから、何でも「いい」と言うのはやめてほしいと思った。 そういう膨大な情報に惑わされない自分を取り戻しつつあるのかな、と思うと少し嬉しくなった。 そして今夜も泣いてしまうのだろう。 天気の良い週末に外出することを、だるいと思わなくなったら私の勝ちだ。 それまで私の気持ちが伸びやかになることを邪魔するものは、自分自身を含めて山ほど思い当たるのだけれども。 自分に勝ちたいけれど、それはすごく難しいことだと思った。 そのために、私はたくさん泣いて自分を見なくてはいけない。 でも自分の内側だけで満足していてもあんまり意味がなくて、大切な人を当たり前に大切にできることが、本当は答えなのだ。 そのことを考えると、私にできるのかどうか、不安で不安で仕方ない。 むきだしの自分がいかに醜くて価値の低いものであるか、私が一番良くわかっている。「原因」は、いろいろあるだろう。そこで立ち止まっている私自身もまた大きな「原因」のひとつだ。 だから、結局一人で引き受けなくてはいけない問題なのだろう。 - 歩き方 - 2002年02月04日(月) 会社の帰り、自分の歩き方が以前と少し変わっていることに気がついた。 ずっと前にどこかで聞いた話だが、 常に目標とか夢を意識しながら生活している人と、 毎日をただ無為に食いつぶして生活している人とでは、 靴の裏の擦れ方が違うらしい。 前者は、しっかり足を踏みしめながら一歩一歩歩くので、 指と土踏まずの間の、足の裏の腹、とでもいうべきか、そこから擦れていく。 後者はかかとを引きずりながらだらだらと歩くため、かかとから擦れていく。 今まで履きつぶしてきた私の靴は、例外なくかかとから痛んでいた。 つまり今まで私は、ずっとかかとを引きずって歩いていた。 でも、今日、私はかかとを引きずっていないことに気がついた。 一歩一歩、しっかりと地面を蹴って歩いていた。 へぇー、と自分で思った。 誕生日にもらったばかりの新しい靴が、これからどう擦れていくのか。 ちょっとだけ見ものかもしれない。 -
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