橋本裕の日記
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2006年05月31日(水) |
偶然に支配される人生 |
人生は「必然」と「偶然」という二本の糸によって紡がれた織物のようなものに例えられる。仏教にも「因縁果の法則」がある。内的な要素である「因」と、外的な要素である「縁」が働きあって「結果」が生み出されるわけだ。
もちろん仏教でいう「縁」はただちに「偶然」というわけではない。むしろ一見偶然と思われる出会いも、そこにはさまざまな「因縁」が働き合って生まれたものだ。偶然の中にも必然の要素が存在しないわけではない。
もうすこし言えば、一見「不運」と思われる出来事も、もっと高い視点からみれば、それは本人に課せられた「試練」であり、よりよき人生への入り口である場合がある。こう考えれば、人は逆境の中でも前向きに生きていくことができる。
こうした宗教的な人生の捉え方は、それはそれで大切なのだろう。また偶然の中に必然が潜んでいるというのも本当のことである。これは仏教のみならず、科学の因果の思想であり、むしろこの点で、仏教は科学的合理を先取りしているわけだ。
たしかに全知全能の神の視点にたてば、人生で生じることはすべて必然ということになる。しかし、人間は全能ではない。いかに科学が高度に発達しても、人間は全知全能になることはない。むしろ優れた科学者ほど、私たちがいかに無知であり、偶然に支配されているかを知り、謙虚になるのではないだろうか。
私も56年間生きてきて、自分の人生がいかに「偶然」に支配されていたか、このごろよく実感するようになった。そもそも私が20世紀の日本に生まれたというのが偶然である。そしてたまたまある夫婦の子として、何十億人のなかの一人となった。
私がこのように生まれついたのは、生物学的な必然かも知れないが、私自身の立場から見れば、まったくの偶然である。私はエチオピアの貧しい農民の子に生まれていたかも知れないし、あるいはもっと想像を逞しくすれば、未知の銀河系の未知の惑星の目玉が3個ある生命体であったかも知れないわけだ。
こうした話をすると、仏教者の多くは「前世」を持ち出してきて、「君が現在の境遇にあるのは、前世での行いの結果だ」という。そして「来世で幸福になりたかったら、現世で善行にはげみなさい」と「来世」を持ち出してくる。
私は「前世」も「来世」も信じないので、現在の境遇が前世の結果だとは思わない。また来世の幸せのために、現世でとくに善行に励もうとはおもわない。私が善人になりたいと願うのは、もう少し違った理由からである。
それはともかくとして、人生は多くの偶然の産物だと考えれば、これはこれで毎日が意外性に満ちていて、愉快で楽しいのではないか。人生は人間の意志や努力ではどうにもならないものがある。そう考えるだけでも、何だか心が軽くなり、解放された気分にならないだろうか。
近頃、能力主義だとか、成果主義だとか、やかましくいわれる。しかし、こうしたことを声高に主張している人は、自分の人生のほとんど99.99パーセントが「偶然」の産物であることを知らない。この人生の厳かな真実を知らず、すべては自分の努力の結果だと思っているのだろう。
先週の水曜日に、十数年ぶりに家庭裁判所に行った。受け持ちのT君の審判があったからだ。T君はすでに中学生時代から暴走行為などで鑑別所や少年院を経験している。そこを出て、保護観察中だった去年の11月に、今度は無免許のバイクで信号無視をし、パトカーに追いかけられたあげく捕まったのだという。
このことを個人面接の時にT君から聞いて、「過去のことはいいよ。現在の君をしっかり見ているからね」と言った。しかし、「今回はもうダメかも知れません。また、少年院だと思います」と、さすがT君も気弱になっていた。
審判の時、裁判長から「T君が過去に犯した事件についてはご存じですか」と聞かれたので、「面接をして、暴走族のリーダーだったことなどを聞いています。しかし、現在のT君を見てやりたいと思います」と同じ言葉を繰り返した。そしてT君の学校生活について報告した。
ほぼ毎日学校に来ていること。授業態度も良好で、私の数学の試験はクラスで上から3番目だったこと。そして、クラス委員に自ら立候補して、クラス運営にもたいへん協力的な姿勢を見せていることなど、彼に有利な発言をした。
審判の席には父親も母親も出席していたが、二人ともハンカチを取りだして泣いていた。本人も何度か指で目を拭っていた。その様子を見ながら、私も何とか軽い処分で終わるように祈りたい気持だった。
裁判長は、「本人の犯したことはとても悪質なものです」と言いながら、学校の現状にふれ、本人も新しい生活に踏み出したところでもあり、家族の援助も期待されるとして、ひきつづき「保護観察」にするという寛大なものだった。
法廷の外に出ると、T君のお兄さんも仕事を抜け出してきていた。私の見たところ、父親も母親も、お兄さんもごくふつうの善良な市民という感じである。そして本人も冗談を交えながら和気藹々と会話をしている。こういう家庭から暴走族のリーダーが生まれたことが不思議なくらいである。
家裁調査官を28年間務めた藤原正範さんは、「少年事件に取り組む」(岩波新書)のなかで、非行の起きるメカニズムをガンにたとえ、「性格(体質)」や「環境」だけではなく、「偶然的要因」も重要だと書いている。
<ガンはその人の持って生まれた先天的な要因と食生活や飲酒・喫煙など生活習慣、ストレスといった後天的な要因とが絡みあって発症すると説明されるが、そのメカニズムを百パーセント解き明かすことは不可能であろう。非行も同じであり、非行が起きた事情を説明し尽くすということには絶対ならない。
私が非行をガンに例えるのは、わが子の非行で悩む親に「子供が非行を起こすかどうかは、人がガンに罹るかどうかというようなものですよ」と話したところ、その親がなんとも言えないほどほっとした顔つきになったという体験があったからだ。・・・
どんなひどい犯罪を引き起こした者についても「偶然的要因」を加味して考察するということ、その寛容さこそ科学的な態度とは言えないだろうか。それは、たまたま家裁調査官という職に身を置くことができた「運の良さ」に謙虚になることと表裏の関係にあると思う>
私の場合を振り替えってみても、小学生のときは万引が発覚して何日も学校に行かなかった。高校時代は暴走族に入る一歩手前まで行った。こうして教師をしていられるのも、たまたま運がよかったからかも知れない。
そもそも人がどんな時代に、どんな国の、どんな両親のもとに、どんな資質を持って生まれてくるかということそのものが、「偶然の産物」だとは言えないだろうか。しかし、この出生の偶然によって、その人の人生は大きく違ってくる。
その上に、私たちは人生のさまざまな局面で、さまざまな偶然に出合う。こう考えてみると、いかに私たちの人生が偶然に支配され、その影響下にあるかがわかる。このことを認識すれば、青少年の非行や犯罪についても、私たちはまた少し違った感想を持ち、理解と同情を持つことができるのではないだろうか。
2006年05月29日(月) |
トヨタの借金は10兆円 |
もし、年収1400万円の人が、1億円借金をしていたら、おそらく健全な財政体質とは言わないだろう。しかし、日本の自治体や企業のなかには、こうした借金体質を抱えるものが多い。
たとえばトヨタといえば、年間の純利益が1兆3722億円もある世界的超優良大企業である。しかし、このトヨタが10兆円もの借金を抱えていることはあまり知られていない。
トヨタの場合、貸借対照表にある「有利子負債」の合計は、10.4兆円である。一方で資産が28.7兆円あるので、「有利子負債比率」は36.2パーセントということになる。
これはソニーの10.4パーセントや、松下の7.6パーセントと比べてもかなり高い値である。一般に10パーセント以下が、健全な財政体質だと言われている。
「貸借対照表」で見る限り、トヨタの財政体質はそれほど堅実とはいえない。借金しない企業として堅実財政が売りだったトヨタだけに、これはちょっと意外なことである。
ベストセラー「さおだけ屋はなぜ潰れないか」の著者で、公認会計士の山田真哉さんは、貸借対照表から浮かび上がってくるトヨタのイメージについて、「週刊現代」6/3号にこう書いている。
<トヨタの場合は、借金を重ねつつ、借りた資金で事業拡大に務めていると言っていいでしょう>
なぜ、借金をしてまで図体を大きくするのか。その答えは「買収されないため」であろう。この十数年間で企業をとりまく環境は劇的に変化した。小さな会社は簡単に大きな会社に呑み込まれてしまう。借金をしてでも、大きくならざるをえないわけだ。
山田さんはトヨタについて、会計士の立場から他にも意外なことを指摘している。それは、トヨタは世界企業だと言いながら、営業利益のほとんどは日本で出していることだ。つまり1.8兆円ある営業利益のうち、1兆円あまりを日本市場で稼ぎ出し、北米での利益は5千億円に満たない。
さらに興味深い事実がある。それはトヨタが金融事業部門でも1兆円もの売り上げ高を出していることだ。消費者金融大手三社(アコム、プロミス、武富士)の売り上げが1.2兆円だから、トヨタが金融業者としても屈指の存在であることがわかる。
もっとも企業が本業で赤字を出しながら、金融部門で儲けているのはアメリカのGMもそうだ。もはやほとんどの巨大企業が実質は金融産業化していると言ってもよい。
たとえばソニーはエレクトロニクスが売りだが、実はこの部門は300億円の赤字である。一方で金融事業は1900億円もの利益を出し、全体で1913億円の利益の大半は、ソニー生命の金融商品が稼ぎ出しているわけだ。
先日発表された郵政公社の決算をみると、売上高(経常収益)が23兆円で、純利益は1兆9千億円を越えている。これは第2位のトヨタ(1.37兆円)、第3位の三菱UFJ(1.18兆)よりもはるかに大きい。しかもその利益の大半を株式運用益(1.24兆円)が占めている。
ついでに今話題のソフトバンクを見ると、営業利益の稼ぎかしらは一応「ヤフー」からあがる広告収入を主な収入源としている「インターネット・カルチャー」の740億円だが、じつはこれとは別に株式投資でもっと大きな利益をあげている。「投資有価証券売却益」をみると、これが1700億円もある。つまりソフトバンクもまた、副業の投資事業で企業の利益の大半を稼ぎだしているわけだ。
なお、山田さんは企業の体質を測るのには、売上高ではなく、「儲ける力」を表す「収益性」をみなければならないという。トヨタの収益性は約10パーセントだが、住友金属工業はその2倍の20パーセントほどもある。
さて、もう一度、有利子負債比率に話を戻そう。トヨタの36.2パーセントという高い値は大丈夫だろうか。これについて、山田さんはこう書いている。
<企業にとって借金は身体を蝕む「ガン」ではありません。言うなれば、体に負担をかける「脂肪」みたいなもの。脂肪が多いと雪山で遭難したとき、長生きできるかも知れませんから、必ずしも悪いとは言えないのです>
トヨタは巨大借金企業だが、日本やアメリカもまた巨大借金大国である。山田さんなら、これらの借金大国の実力をどのように読み解くのだろうか。
政府は今年1月10日の閣議で、国民年金保険料の未納対策の強化を柱とする社会保険庁改革関連法案を決定した。これを受けて、衆院で法案の審議が始まった。おりしも国民年金の保険料を無断で免除していた社保庁の不正が連日報道されている。
法案では納付率を上げるために、未納者には国民健康保険(国保)を使えなくするなどの罰則規定を設けている。しかし、厳罰主義で問題が解決するとは思えない。アメリカなどでも起こっているいるように、医療難民が大量に発生しかねない。社会に混乱をもたらし、よけいに事態を悪くするだけだろう。
社会保険庁では、これまでも職員が国会議員や芸能人の年金加入記録を業務外で閲覧していたことが明らかになり、3千人以上が処分されている。こうしたことは許されないことだ。こんな役所が罰則規定で国民を脅そうというのだからたまらない。
一昨年の年金騒動のさなか、官房長官の諮問機関「社会保障の在り方に関する懇談会」が発足した。政府税制調査会長、連合会長、日本経団連副会長など、有力な布陣が注目を浴びた。
2004年7月の初会合で西室泰三・日本経団連副会長(当時)は、「全体を一元的、一体的に見渡した社会保障制度を構築するために、この懇談会は存在する」と発言し、大きな風を巻き起こすかに見えたが、最終報告書では年金改革について、「税ではなく保険料で維持することを基本に検討する」としている。結局これという成果を残せないまま尻つぼみで終わった。
石弘光・税調会長も、今年3月末の会合で「主要な制度改革の議論は外側で行われた。大きな目標をもって議論してきたが、外堀が埋まった中では大したことは言えない」と発言している。
年金を保険料で維持し、納付率をあげるために健康保険を脅しに使うというのはどうみても無理がある。結局、国民を置き去りにした政府主導、官僚主導の発想で、これからもみせかけの年金改革が行われるのだろう。政府案は改革案ではなく、改悪案である。
社保庁には1万7千人あまりの正規職員の他に、非常勤職員が1万1千人以上いる。あわせて2万8千人あまりの職員がいるわけだ。改革法案では、社会保険庁を解体し、保険料徴収部門は民営化し、本体はあらたに創設される「ねんきん事業機構」に委譲するそうだが、従来の年金体系や理念は温存するわけで、これはどうみても看板の掛け替えである。
こういう子供だましの小手先改革ではなく、「年金の国庫負担化」を実現して、国民に寄生する悪政のガンの存在そのものを除去して欲しい。国民にパラサイトして、その生き血すすり続ける機関を、これ以上のさばらしてはいけない。
年金は「見えない税金」だといわれている。これを「見える税金」にしようというのが、経済産業研究所のいう「年金の国庫負担化」ということだ。これによって、年金未納の問題はなくなる。複雑な年金行政を司る社会保険庁そのものがいらなくなり、無駄な出費がなくなる。
私たち国民の立場から言うと、これまで「年金」として取り立てられていたお金を、税金として収めるわけだが、同じ額を出したとしても、コストが小さくなった分だけ、その見返りが大きくなるわけだ。何も損をする話ではない。
損をするのは巨大な利権を失い、天下り先を失う厚生労働省や、その息のかかった議員や学者たちだろう。だから、彼らはこぞってこれにイチャモンをつけるわけだが、これはぜひ「国民の利益」という見地から断行して欲しい改革である。こうした方向に世論が高まれば、不可能な改革ではないと思う。
年金(老齢年金)は老後の生活を保障するものだ。公的年金は最低限度の生活を保障するものであればよいと思う。一つの案として、60歳以上の国民に一律5万円程度を支給するということでどうかと思っている。あとは個人責任にまかせるわけだ。
もちろん現在60歳以上の人に対しては、これまで現行の年金制度を維持することになる。現役世代でも、これまで税金を支払い続けていた分は、それなりの金利を設定して、すべて本人に返却する。その額は既存の制度が存在した場合と比べて、不利にならないように配慮すればよい。
年金未納の問題は国庫負担化で消滅するが、しかし、未納問題は何も年金に限ったことではない。税金の「未納問題」もまた存在する。年金の不公平感が解消されても、税金の不公平感が存在する以上、ことの本質が変わるわけではない。
年金の国庫負担化に乗り気になれない人たちの意識の底には、こうした税金にたいする不公平感や不信感があるのだろう。年金でも何でも税金にして取り立ててしまえということではいけない。公正な税金のありかたについて、もっと議論を深める必要がある。
私は「郵政の民営化」には反対である。その理由はこれが「国民の利益」にならない改革だと考えるからだ。しかし、年金の税金化にともなう社会保険庁の縮小ないし廃止は、おおいに「国民の利益」になると思っている。本来の改革はこういうものでなければならない。
今年3月、経済産業省の傘下にある経済産業研究所が国民年金の国庫負担化を骨子とするレポート「年金制度をより持続可能にするための原理・原則」を発表した。
このレポートによれば、国庫負担にすれば、保険料を2割安くしても、現行並の給付額が維持できるという。なぜかといえば、これによって年金業務や簡素化され、大幅なコストダウンが可能になるからだという。
年金の業務を行う社会保険庁は2万9千人もの職員を抱えている。これだけの公務員がいれば人件費も厖大になる。研究所の試算によれば、年金業務の簡素化で少なくとも年間3千億円の経費が削減できるという。また、厚生労働省からの天下りや、不要な施設も処分できる。
現在、公的年金の積立金は、国民年金10兆円、厚生年金137兆円、共済年金50兆円と合計で197兆円(2001年3月末)もある。これだけの豊富な積立金を持っている国はどこにもない。
日本の厚生年金の積立金は、給付額の5.55年分もあるが、米国が1.55年分、英国が1.2ヶ月分、ドイツは1ヶ月分しかない。経済産業省の案にしたがって日本も年金を国庫負担にすれば、まずこの巨大な積立金がいらなくなる。そうすると、これにむらがる利権も消滅する。
だから厚生労働省は社会保険庁の解体をもたし、その利権を根こそぎ奪うこうした案には、いろいろと専門家らしいむつかしい理屈をつけて反対するわけだ。
その社会保険庁で、納付率の数字を上げるために、本人に無断で国民年金の保険料を免除し、納付を猶予していたことがあきらかになった。とくに悪質なのが大阪の社会保険事務所で、16の事務所が合計で3万7千人分もの不正手続きを行っていたのだという。同様の不正は、東京、京都、長崎、三重などでもつぎつぎと発覚しており、現在の時点で5万人を越えている。調査が進めばこの数字はさらに大きくなるだろう。
現在、年金の納付率は6割台に低迷している。社会保険庁はこれを8割に引き上げることを目標にしていた。しかし、この目標を達成するために、とんでもない不正が組織的に行われていたわけだ。組織防衛しかない頭にない役所は、すみやかに消滅するがよかろう。年金の国庫負担を、いまひとたび声を大にして主張したい。
(なお、「何でも研究室」に「年金問題を考える」を加えました) http://hasimotohp.hp.infoseek.co.jp/nenkin.htm
アルツハイマーになると、いずれ身近な人がだれかわからなくなる。最後は自分自身さえ誰かわからなくなるわけだが、その「わからない」という意識もなくなるので、本人は少しも苦痛ではない。
やがて、「我」そのものが消滅し、あらゆる欲望から解放されるとすれば、考えてみればこれは仏教でいう「無」の境地に近いのではないか。とはいえ、私自身は死の瞬間まで明澄な意識を持っていたい。「我執」を手放したくないと思う。
私の身内にアルツハイマーを発症した人は見当たらないが、実家の隣りのおじさんが今から振り返るとアルツハイマーだったようだ。私が幼い頃から「おじさん」と呼んでいたこの人は、欄間の透かし彫りを彫る専門の職人だった。
幼い頃、私はこのおじさんの仕事場によく顔を出した。そうするとこのおじさんが彫刻刀でいろいろな物を彫るのを見せてくれた。その見事な鑿さばきに、子供ながら感心して、自分もおじさんのような木彫り職人の名人になりたいと思ったものだ。
このおじさんがぼけ始めたころ、おばさん(自分の奥さん)に向かって、「あなたはどなたですか」「もう、家に帰られたらどうですか」などと言うようになった。おばさんが私の家に来て、「長年つれそってきてこれだから、ほんとうに口惜しい」と愚痴をこぼしていた。
おばさんが悔しがるのは、おばさん以外の家人、つまり自分の息子や嫁はちゃんと識別しているようだからだ。嫁のことは認めているのに、妻のことはすっかり忘れて、他人行儀な口を利くのが許せなかったのだろう。最初は呆けだとは知らずに、わざと嫌がらせをしているのだと思って、腹も立ったという。
おばさんは、おじさんが呆ける前から、「うちの人は勤勉で腕がいいのに、仕事が丁寧すぎて、注文がさばけない。おまけに仕事を選ぶので、せっかくのお得意さんも逃げていってしまう」などと愚痴をこぼしていた。
職人気質が強く、納得のいく仕事をしたいおじさんにとって、何かというと生活の不満を述べるおばさんは、幾分鬱陶しい存在だったようだ。おじさんの意識のどこかに、「口やかましい妻などいなくなってくれればよい」という意識があって、こういう選択的な呆け方をしたのかもしれない。人間はだれでもいずれ多少は呆けるのだろうが、さて自分はどんな呆け方をするのだろう。
2006年05月24日(水) |
アルツハイマーのAさん |
妻の畑仕事仲間で、お師匠さん格のAさんが、アルツハイマーで1年ちょっと前に、施設に入所した。妻が入手した頃見舞いに行くと、「わしも、いっしょに帰る」と、そればかりだったそうだ。
それをふりきって部屋をあとにし、外に出てから振り返ると、鉄格子のはまった窓からじっと外をみていた。とても可哀想でみていられなかったという。家庭の事情もあったのだろうが、もうしばらく家においてあげればよかったのではないか。
Aさんは畑仕事をしていても、「いろいろやることがあって、いそがしい」というのが口癖だったが、施設に入っていても、「こうしていられない。いろいろ仕事がある」と言っていた。もちろんそんなに仕事があるわけではない。夫が生きていて、まだ子供や孫の世話をしていたころの自分と錯覚しているのだろう。
Aさんが入所したことは、妻がAさんの家に電話をしてわかった。Aさんが一週間以上畑に姿を見せないので、心配になって電話をすると、娘さんからAさんが施設に入ったことを知らされたという。
そのだいぶん前から、Aさんは記憶力が少しずつ減退していた。畑に種を蒔いたことも忘れて、また同じ種を買ってきて蒔こうとしたり、畑の地代を払ったことも忘れて、世話係をしている妻の所に何度も持ってきたという。
妻が畑を始めたころは、このAさんが畑の世話係をしていた。妻とは10年以上のつき合いなので、多少ボケても、妻の名前と顔だけは忘れなかったが、新しく入った人のことは忘れていて、「なんで、この人が私の畑にいるの」と妻にきいたそうだ。
「あなたが自分でこの人に畑をわけてあげたのよ。畑仕事を減らしたいって言っていたでしょう。それで、この人に半分やってもらうことにしたの」 「ああ、そうだったか」 「ええ、そうなのよ」
こんな会話をして、その日は納得するのだが、明くる日になると、また同じ質問を妻にする。入所する少し前には、他人の鋤や鎌まで自分の小屋にしまっていた。妻がAさんの小屋を覗くと、妻の分も入っていたという。
たしかに、こうした人と一緒に暮らしているのは大変かもしれない。家族にはAさんを施設に入れなければやっていけない事情があったのだろう。それでも、別れ際のAさんの辛そうな表情を思い出すと、妻は割り切れない思いだったという。
ところが最近妻が見舞いに行くと、もうすっかりAさんは落ち着いていた。妻の顔を見ても、「いろいろしなければならないことがあって・・・」と口にしたが、特別家に帰りたそうなそぶりも見せなかった。実のところ、妻のことをだれだか分かっていなかったのではないかという。
アルツハイマーは初期の段階が、いちばんつらいのではないだろうか。周囲ともいろいろトラブルが起こり、本人も不愉快にちがいない。Aさんの場合、かなり高齢だから、本人は単なる老人性の呆けだと思っていたようだが、アルツハイマーと知らされていたら、さらにつらい思いをしたかも知れない。
先日、妻と映画館で「明日の記憶」(堤幸彦監督)を見た。映画が終わったあと、いつものようにエンディング・タイトルが流れている最中に席を立とうとしたが、ほぼ満席の観客がだれも動かない。私もまた座りなおした。それだけ、人々に感銘を与える映画だった。
若年性アルツハイマーで、働き盛りの男が記憶をなくしていく不安や葛藤、その悲しみを乗り越えようとする夫婦の愛情がよく描かれていた。渡辺謙の入魂の演技もよかったし、思い出の陶芸をからませたストーリーもさわやかで秀逸だった。最後、妻を識別できなくなるシーンは、ちょっと悲しいが、しかし、これもなにかほっとした安らぎを感じた。
陰々滅々とした結末ではなく、爽やかな自然の風を感じさせるエンディングだ。昨日、書店で原作の小説を立ち読みしたが、原作のほうも同じシーンで余韻を残して終わっている。「明日の記憶」という題名の由来は分からないが、「明日」には未来志向の明るさが感じられる。
アルツハイマーになっても、すべての人間の能力が失われるわけではない。些末な記憶はどんどんなくなるかわり、自然の香りに敏感になり、木洩れ日の美しさに感動する心はより深くなるのではないだろうか。
末期の目という言葉がある。主人公が最後に目にする人生の姿もこれに近いものだ。アルツハイマーという病気が、ただの厄災ではなく、これまでの人生を写し出し、将来をも写し出す鮮やかな鏡になっている。
最後に記憶を失った主人公が、妻を初対面の女性だと思って、「夕焼けが美しいですね」と挨拶がわりに口にする。浮き世の記憶を忘れて、最後にこういうセリフを残して死んで行けたら、これはこれで幸せなことではないか。
なお、渡辺謙さんはこの映画について、糸井重里との交換メールにこう書いている。
<何だか、不思議な映画に育ってます。撮っている時よりも、仕上げをしている時よりも、そして今でも見るたびに受け取る感覚が違うんです。百回以上見ているのに・・・。育っていくんです。見終わった自分の心の中で。もしかしたら、そんな風にお客さんにも伝わってくれたらなあ、そんな風に思っています。
現在、アメリカ他、諸外国でも配給する為の準備をしています。習慣や価値観が違う外国で、何故見せたかったのか、この映画を作ろうと最初に思ったときの様に僕は無策でした。熟慮した上の行動ではありませんでした。「何か伝わるかも・・・」それだけでした。
こちらで字幕つきの試写会をしました。普通のお客様です。何故か、日本と同じリアクションでした。何か暖かいものを受け取ってくれていました。僕の漠然とした思いが、間違っていなかった。“生きる”ということに関しては、どの年代も、人種も、国境も越えられるのかもしれない・・・> http://www.1101.com/ashitanokioku/2006-04-04.html
2006年05月22日(月) |
強者の愛国、弱者の愛国 |
若い頃はだれしも愛国心の罠に落ちそうになるものだ。何故なら、思春期というのは自我が芽生え、劣等感や孤独感にゆれうごく、感受性の豊かな時代だからだ。
何かに拠り所を求めようとするわけだが、家族にも学校にも完全に適応できず居心地の悪さを感じたりする。そうしたとき、宗教や国家という、自分より大きな存在に救いを求めることになる。
これは子供に限らず、大人も同じだ。何らかの理由で社会的混乱が生じ、失業率が高まって経済的基盤を失ったりすると、人々は強者にすがりつこうとする。しかし、そうした人々の不安に乗じて、ヒトラーのような独裁者があらわれる。天皇を神とみて、これに絶対服従を誓うようなことがおこってくる。
これはいわば「弱者の愛国」である。自己の劣等感や弱さの裏返しとして、強い国家にあこがれ、この権力とと一体化することで自らの弱さを補償しようとするわけだ。
これとは別に「強者の愛国」がある。これは経済的権力や政治権力を持っている強者が、その権力を維持し、さらに強固なものにするために、下へと働きかけ、強制する愛国だ。
具体的に言えば、教育勅語のようなものを発行して、国民を洗脳するやりかたである。国旗の掲揚や国歌の斉唱を教育現場で強制し、これに消極的な校長や教師を処罰する。
こうした強者の愛国が行われる背景には、これを好んで受け入れる弱者の愛国の存在がある。こうして強者の愛国政策に、弱者の愛国心が呼応するとき、そこに強力な愛国主義のムーブメントが生み出されるわけだ。
グローバリズムが進み、格差がひろがってくると、中間層が没落する。社会不安がひろがり、ここから弱者の愛国が台頭してくる。これを見逃さず、上からの愛国政策が積極化する。さらにこれにジャーナリズムが便乗する。こうしてナショナリズムが復活する。
これが近未来の日本の姿だとしたら困りものである。しかし小泉構造改革が継承され、格差政策が押し進められるとき、健全な民主主義の基盤がさらに失われて、これからますます社会の右傾化が進むことになるだろう。
大江健三郎の初期の短編小説に、右翼に傾斜する少年の心理を描いた「セブンティーン」という短編小説がある。北さんに指摘されて、大江健三郎の小説に親しんでいたころの自分を思い出して、懐かしい気分になった。北さんが掲示板に投稿してくれた文章から引用しよう。
<自分も若い頃、自信がなく(自分が愛せなく)て神や国家を求めたことがあります。そんなころ、大江健三郎の「セブンティーン」を読んで、まさにそういう心理構造で右翼になっていく若者の心情がとてもよくわかったことがありました。
ドストエフスキー「カラマゾフの兄弟」の中の言葉が「愛国心」にも通じるものだということは、言われるまで気づきませんでした。確かに「人類愛」の心理と同じものがあります>
私も高校時代、やくざな私立高校に通い、劣等感に苛まれる毎日だった。「セブンティーン」を読み、主人公に反発と共感を寄せたものだ。
そのころ、親鸞やラッセルに出合い、宗教や哲学、自然科学に関心を寄せたのも、劣等感の裏返しだったのかもしれない。しかし、こうした豊饒な世界を通して、私は再び「隣人愛の世界」に戻ることができたように思う。
私が常用する仏教用語を使えば、「色即是空で理想の世界に行ったきりでなく、空即是色の現実回帰の力によって、豊饒な現世に戻る」ことができたわけだ。親鸞やカント、ラッセルの哲学、万葉集などの文学は、そうしたすぐれた情操と思想を若い人々のなかに育んむ力を持っている。まさに良書は心の栄養になる。
インチキな宗教や「愛国心」は、利己的な自己を肯定するために、他者や隣人の世界を否定する。こうした偏狭な思想は何も実りあるものをもたらさない。そこにあるのは、自己の劣等感や社会に対する不満をベースにした、他者に対する敵意や対抗心だけだからだ。
ドストエフスキーはイデオロギーや論理の空疎について、とてもよく理解していた作家だといえる。ラスコーリニコフはこの恐ろしい罠に陥り、殺人を犯すが、やがてソーニャとの出合い、隣人愛の世界に帰ってくる。大地に接吻する主人公の姿は彼と世界との和解を象徴していて印象的だ。
差別的な社会のなかで、劣等感に苦しみ人間不信に陥った青年が逃避するのは、右翼的な「国家権力」の世界だけではない。社会主義的な「人類愛」の世界も選択のひとつだ。しかし、こうした左翼的な世界も、ひとつの貧しい抽象の世界である。
人類愛と隣人愛は言葉は似ているが、まったく違ったものだ。抽象的で観念的な人類愛に対して、隣人愛は身近な人間から世界へと広がっている。それは空疎な観念ではなく、生き生きとした愛の力で、私たちの心を満たしてくれる。
今朝の起床は3時である。これは1時間ほど早すぎる。どうやら、妻がトイレを使う音で目が覚めたようだ。その直前まで、夢を見ていた。昨日のような悪夢ではない。温泉につかる夢である。
お金を払い、服を脱いで、さて温泉の湯に体を沈めようというところで目が覚めた。とても残念である。それにしても、何というタイミングの悪い醒め方だろう。これはこれで、ずいぶん意地の悪い夢だと言わなければならない。
それはそれとして、今日は昨日書くつもりだった「愛国心と依存心」について書こうと思う。実は私の書こうとしていたそっくりのことを、作家の雨宮処凛(あまみやかりん)さんが昨日の朝日新聞に書いていた。
昨日の日記にもしこの題で書いていたら、私が新聞を剽窃したと疑われるだろう。何しろ雨宮処凛さんの論文の題は「国家依存心利用しないで」である。昨日の寝坊と悪夢で書くのが一日延びたおかげで、このバツの悪さが避けられたわけだ。悪夢に感謝しないといけない。
以前、トルストイの「不幸な人たちが戦場に赴く」という「戦争と平和」のなかの言葉を引用したが、国などという抽象的な存在を愛するという人も、おそらく身の回りの肉親や隣人を愛することができない「不幸な人たち」ではないかというのが私のいいたいことである。
愛国心については、「愛する祖国を守るため」とか、「家族や恋人を守るため」とか、そうした美しい側面が映画などで強調されている。しかし、どうもそのようなきれいごとで「愛国心」をくくることはできない。むしろそれは愛国心の暗黒面を隠蔽するための巧みな自己欺瞞ではないのかと、意地悪な私などはつい考えてしまう。
ここで、ちょっと、ドストエフスキーさんにも登場して貰おう。友人の北さんの5月15日の日記より孫引きさせて貰う。実は今日の私の日記は、このドストエフスキーが「カラマゾフの兄弟」の中に書いた言葉がもとになっている。これを読んだとき、これは「人類愛」についてばかりにではなく、「愛国心」にも通じるのではないかと閃いたわけだ。
<私は人類を愛するけれども、自分で自分に驚くようなことがある。ほかでもない、一般人類を愛することが深ければ深いほど、個々の人間を、一人一人別なものとしてそれぞれに愛することが少のうなる。・・・だれかちょっとでも自分のそばへ寄って来ると、すぐその個性が自分の自尊心や自由を圧迫する。それゆえ、私はわずか一昼夜のうちに、すぐれた人格者すら憎みおおせることができる。ある者は食事が長いからというて、またある者は鼻風邪をひいて、ひっきりなしに鼻をかむからというて憎らしくなる。つまり、私は人がちょっとでも自分に接触すると、たちまちその人の敵となるのだ。その代わり個々の人間に対する憎悪が深くなるにつれて、人類全体に対する愛はいよいよ熱烈になってくる>
キリストは「自分を愛するように他人を愛しなさい」と説いた。自分を愛することを否定はしていない。そもそも自分を愛せない人間が他人を愛せるのか疑問である。自己憎悪や劣等感に悩む人間は、おそらく他人に対して嫉妬心や卑屈な感情を抱くに違いない。これで他人が愛せるわけはない。
こうした自己憎悪や劣等感に悩む人間は、けっして隣人を愛することはできない。しかし、彼らは自己や隣人は愛せなくても、「人類全体」や「国家」は愛することができる。いや、自己や隣人を愛せないないがゆえに、その代償として、異常なほど「人類全体」や「国家」などという空虚な作り物にのめりこんでいくわけだ。つまりそれらは、自己のどうしょうもなく悲惨な現実の裏返しなのである。
こうして劣等感の強い、個人として自立できない脆弱な人間が、最後の拠り所とするのが、「人類愛」であったり、「国家」であったりするわけだ。とくに自己の脆弱さを意識する者は、「強い国家」に憧れる。そして自ら「国家主義者」となって、他人の上に君臨し、支配しようとする。それは実は自らの劣等感や依存心の陰画でしかない。
こうして、脆弱な個人がその「依存心」のゆえにすがろうとする対象が「国家」である。昨日の朝日新聞の雨宮処凛さんの文章もこうした視点で書かれている。彼女の作家らしい達意の文章は、最近芽生えてきたネット右翼の心情を理解する上にも助けになるだろう。
<強い日本を求めるのは、弱い自分の裏返しだ。家庭や学校や職場に裏切られたが、国家は新しい居場所を提供してくれそうに見える。・・・フリーターやニートと呼ばれる自分も、強国の国民としての誇りとプライドを持てるかも知れない。生きづらい社会の中で、悲しい希望が愛国に向かっている>
<社会的に力を持つ人たちがその流れに乗り、自分たちに都合のよい教育制度を作り上げようとする動きは容認できない。学校現場の荒廃を食い止めるために愛国教育が必要だと主張する人がいるが、冗談ではない>
<先日、フリーターの待遇改善を求めるデモに参加した。国や企業にもの申す若い人の姿に、沿道の多くの人が共感してくれた。国に依存するのではなく、国を変えるために自ら動く。こうした若者が増えれば、少しは生きやすい世の中になるのではないか>
雨宮処凛さんが言うように、「社会的に力を持つ人たちがその流れに乗り、自分たちに都合のよい教育制度を作り上げようとする動き」が今勢いを持ち始めている。しかし、教育において大切なのは、国家に依存しない、むしろ政治にも主体的に係わる自由で闊達な個人をつくり出すことだ。
戦前の日本を振り返れば、「愛国心」がどこから起こってきたか、そしてその先に何があったか、その危険性は明らかだ。国家への依存心は、やがて国家の横暴につながる。歴史の教訓からこの真実を学ぶべきだ。
今朝は寝起きが悪かった。最近は11時に寝て、4時に起床というパターンができていたが、今朝は6時過ぎだった。いつもならとっくに日記を書き上げて散歩にでかけるか、昨夜の「クローズアップ現代」の録画でも見ている時間である。
寝起きが悪かったのは、夜中に2回もトイレに行ったせいだ。こんなに大量に尿が出るのは、血圧が高くて、体が充分休んでいないせいだ。つまりは心身の状態があまりよくないからだろう。とくに精神的な要因が大きいのかもしれない。
夜中に何度もイヤな夢を見た。最後に明け方に見た夢は、電車を乗り過ごして、とんでもない遠くまで行ってしまう夢である。いそいで電車を降りたが、そこはどうやら金沢よりさらに遠くの田舎町らしい。引き返そうとするのだが、次の電車が何時間もあとだという。
そこで一旦、駅の外に出た。そして気がつくと、バス乗ってさらに郊外にきている。帰りの電車の時間を思い出し、あわてて引き返そうとするのだが、こんどはバスがやってこない。そもそも自分がどこにいるのか見当がつかない。
人にきくと、何か答えるのだが、そのとき分かった積もりでも、すぐに忘れてしまう。これはもう、自分の頭がどうかなったのではないかと不安になる。そして途方に暮れていると、やっとバスが来るのだが、そのバスが今度は故障して動かなくなる。イライラが最高点に達したところで夢から覚めた。
どうしてこんな夢をみたのか、何か理由があるはずだが、専門家でないのでよくわからない。そもそも電車を乗り越して、北陸まで行くというのが荒唐無稽である。名古屋から直通でいけるのはせいぜい大垣くらいで、どれだけ遠くても米原だからだ。
夢の中ではときどきこんな訳の分からない理不尽なことが起こる。最近は、教育基本法の改正や、共謀罪の策定など、訳の分からぬ事がこの現実世界でも横行している。この理不尽さが夢の世界だけであればよいがと思う。
こんな訳の分からない夢のあとなので、寝起きの気分はさわやかとはいえない。日記も予定していた内容を変更した。しかし日記に嫌な気分を吐き出したせいか、すこし気分がよくなった。日記君、いつも私の愚痴を聞いてくれてありがとう。読者のみなさんも、ありがとう。
一昨年の10月28日の園遊会の席上で、日本将棋連盟会長で東京都教育委員の米長邦雄氏(62)が「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と天皇に話した。天皇はすかさず「やはり、強制になるということではないことが望ましい」とお答えになったが、これがテレビでも放映されて話題になった。
私は学生時代からの将棋愛好家で、NHK将棋の時間もよくみていたので、米長さんのことは少し注目し、著書なども何冊かよんでいたが、それにしてもプロの将棋差しが、「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事」と天皇の前で公言するのには驚いた。頭の構造を知りたいと思ったものだ。
先日、喫茶店で「週刊現代5/27」を読んでいたら、米長さんに一番近い存在だった桐谷広人七段(56)が、彼から受けた数々の仕打ちについて、怒りの告発をしている文章にであった。国旗と国歌がこよなく好きらしいこの「愛国者」の素顔が浮かんできたようで、私は「ああ、やはり」と納得した。
米長氏は19歳のとき、「千人斬り」を決意し、94年の段階ですでに582人まで到達していたという。そのなかには、桐谷さんの二人の婚約者もふくまれるというから驚きだ。つまり、桐谷さんが婚約すると、米長氏は「紹介しろ」と迫り、会わせると自分の愛人にして、重荷になると、また桐谷さんに「お前が結婚しろ」と押しつけてくる。
米長氏は他にもたくさんの愛人をつくり、次々と捨ててきたのだが、その縁切りの手紙も桐谷さんに代筆させた。「女が絶対にマスコミに手紙を持ち込まないように、彼女の息子のことも書き加えろ」と命じ、桐谷さんは「息子は夜道を気をつけたほうがよい」と書き加えたりしたという。
桐谷さんは最大の犠牲者は、かっての将棋女流名人の林葉直子さん(38)ではないかという。米長氏は自分の愛人にならなかった林葉さんに対してマスコミや将棋連盟を使って、陰湿な攻撃を加え続けた。その手口はあまりに汚いので、この日記に書く気がしない、興味のある人は週刊現代を読まれるとよい。
ただ、この事件についてはNHKの広瀬久美子アナが「週刊新潮」(98年5月27日)に書いているので、孫引きしておこう。
<林葉氏は、本来、一年間の休養だったが、千人切りを自負する元師匠の米長氏に、「彼女は近親相姦女だ」などと理事会に吹き込まれ、追放になってしまった由。何なの一体。この足の引っ張りようは>
米長氏が手紙を代筆させたのは、万が一手紙がマスコミに持ち込まれても、米長氏は「これは自分の筆跡ではない」と言い逃れができるからだ。それにもう一つの意図は、自分のダーティな部分を知り尽くしている桐谷さんを「共犯者」にしたてあげて、口を封じるためだったのだろう。
しかし、腹心で腰巾着だった桐谷さんも、最近の米長氏の独裁者ぶりには我慢できなくて、自分の過去の愚行の贖罪もかねて、米長氏の告発に踏み切ったようだ。桐谷さんは最後にこう書いている。
<これまで米長氏の女ぐせの悪さにさんざん泣かされてきた明子夫人でしたが、いよいよ精神的に参ってしまい、新興宗教に頼ったり、衝動的な行為に走ったりするようになりました。それでも米長氏が平然としていたのが印象的でした。
こんな男がいま、将棋連盟の会長として名人戦の移籍騒動を起こしています。米長氏の脳裏にあるのは、将棋連盟が弱体化しようが、いかにして独裁体制を築くかということだけなのです>
米長氏の将棋は華麗で、「さわやか流」とも喧伝されたが、一方で「泥沼流」ともいわれた。実力では中原永世名人に頭が上がらなかったが、その中原氏のあとを継いで将棋連盟の会長になった米長氏は、いよいよ「泥沼流」の本領を見せ始めたようだ。
(参考サイト) 米長邦雄は私の婚約者を寝取った最低の男、『朝日新聞』と共謀して「名人戦強奪」策す黒幕に桐谷七段が激怒 『週刊現代』2006年5月20日号 http://www.kit.hi-ho.ne.jp/msatou/ 06-05/060516yonenaga-gendai.htm
特集 暴露された米長邦雄元名人の「恥ずべき私生活」 「週刊新潮」1998年4月2日号 http://www.kit.hi-ho.ne.jp/msatou/05-06/ 050614yonenaga-shukanshinchou980402.htm
2006年05月17日(水) |
ロシアのストリート・チルドレン |
学校で毎週1時間、「総合」という授業がある。1年生は「私たちの福祉と健康」というテーマでビデオを中心に、身のまわりの健康や福祉の問題を1年間かけて考えることになっている。先週は数年前に民放で放送された「ロシアのストリート・チルドレン」というビデオを生徒たちに見せた。
ソ連が崩壊したあと、ロシアではエリティン政権のもと、大胆な民営化政策が行われた。石油、ガスといった国の基幹産業を次々と外資や国内の政商に売り渡し、その結果、大量の失業者が発生し、極端な格差社会になった。
一握りの富裕層が出現するなかで、人々の平均寿命が縮み、犯罪が横行し、家庭が崩壊して、街にストリート・チルドレンがあふれた。ビデオはそうした荒廃した社会の底辺で生きる子供たちの悲しみを生々しく写し出していた。
授業ではビデオを見た後、生徒たちに感想を書かせることにしている。私のクラスの生徒たちが書いた感想を、一部だけ紹介しよう。
<まだ幼い子供が自分ではたらき、食べていくなんて、日本では考えられないことだけど、もし自分がと考えたら、絶対無理だなあと思いました。しかも多いときで200円のお金しかもらえないなんてかわいそうです。3,4日で60円とか、考えられないです。みんな親になぐられたとか、追い出されたとか、親がいけないと思います。育てられないなら、最初から生まないでほしい。無責任だと思います>(女生徒)
<ロシアという寒い所で、家の事情によって帰る場所がなくなった。だけど必死に生きようとする子供たち。でも外で生きていくのには限界がある。どんな親だろうが、子供が立派になるまで育てるのが普通だと思う。さまざまな事もあるだろうが、もっと子供を真剣に育てる人がふえるといいと思う>(男子生徒)
<11歳の女の子は家を追い出されて、寝るところも食料もなくてかわいそうだった。マンホールに住んでいる男の子は家に帰れなくて、空ビンなどひろってかせいでいた。自分でかせがなきゃ生きていけないというのは、残酷すぎる>(男子生徒)
<実の親に家を追い出されて、帰りたくても帰れない。妹に会いたくても会えない。自分が生きていくのにせいいっぱいなのに、犬のめんどうを見たり、妹の心配をするストリート・チルドレン。シラミ取りにケシロン(ガソリン?)を使っているのにはビックリしました。このビデオを見て、私たち日本の子供は食べ物にも困らないし、雨風をしのげる家もある。わかっているつもりだったけど、あらためてそれがどれだけ幸せなことか実感しました>(女生徒)
<私には家族がいつも側にいて、学校という学ぶ場所があって、食べきれないほどの食料がある。この環境に自分は「感謝」というものを忘れていた。同じ地球に暮らしているのに、私たちの逆の生活をしていて、私たちよりもしっかりした考え方を持っていて、純粋な目をした子供たちに、大人はどのような目を向けているのだろう。真実ショックを受けた。そして彼らの親に対して怒りを感じた>(女生徒)
<自分より年下の子たちが、お金をかせいだりするのがすごいと思った。日本ではかんがえられないできごとが、ロシアだけでなくいろんな国でおきていると思うと、なんだかもうしわけない気がする。なんだか自分のなやみだとか、いやなことがちっぽけに思えてくる。日本でぎゃくたいをうけている子供は逃げたりして一人で暮らすなんてできないけど、それができるのがすごいと思った>
<とても寒さがひどく、夜になると−20度になる。とても寒い夜が過ぎていく。とても生活が苦しいのに、かせいだ金できちんと物を買い、犬に半分もあげていました。ナージャの夢は、妹と暮らしたいということ。アクセレイはロマとわかれて一人になった。とてもつらい。でも家にも帰りたくない。なぜなら、暴力がこわいから。みていて悲しい>(男子生徒)。
2006年05月16日(火) |
メートル法はいかに創られたか |
ある人から、<1キロが1000メートルと教えるのに、海岸で歩いて分からせることにしようと考えているのですが、学校の先生がたはどうやって教えるのでしょうか?>というメールをもらった。そこで、距離や時間の測定がどのように行われてきたか書いてみよう。
距離を測るのに、昔の人は歩いて測った。1フィートというのは、30.5センチメートルだが、これは歩幅である。日本の1尺は30.3センチメートルだが、これも歩幅からきている。人間が考えることは、どこでも同じだ。
西洋は昔は12進法だったので、1フィートの12分の1が1インチである。インチはラテン語で12分の1を意味する。インチももともとは、男性の親指の幅に由来する身体尺であったとされている。ちなみに1インチは2.54センチだ。
歩数にこの単位(1フィート)を掛けて、おおよその距離を出すことができる。100歩で行ける距離であれば、100フィート、あるいは100尺というぐあいだ。100フィートはおよそ30メートルである。
エジプトのシエナでは夏至の真昼には太陽の光が井戸の底まで届くが,その真北に位置するアレキサンドリアでは,太陽の光は井戸の真上から7.22度ずれている。B.C.230年頃,エラトステネス(B.C275〜B.C194)は、この事実から大地は球体だと仮定し、その半径や周の長さを計算した。
その際、彼は一人の男を雇い、シエナとアレクサンドリアを歩かせて距離をはかったという。その距離はおよそ925 kmだった。エラトステネスはこれらの測定値から、地球の円周を次のように計算した。これは現在知られている地球の円周である4万キロメートルにかなり近い値である。
地球の円周=925000×360/7.22 =46100(キロメートル)
このように、長さの単位というのは、もともとは人間の手足を基準にしていた。ギリシャの哲学者プロタゴラスは、「人間は万物の尺度なり」と言ったが、長さに関しては人間の身体が基準だったわけだ。
これに対して、時間は太陽や月の運行が基準になっていた。長さについても、人間中心ではなく、自然を基準にしたほうが合理的だという考えがでてくる。これを実行したのが、ナポレオンだった。
彼は地球の一周の1/4の1万分の1を1キロメートルと定義した。つまり地球の大きさを基準にして、長さを定義したわけだ。これだと、必然的に地球の一周は4万キロメートルということになる。しかし、地球の大きさを測るとき誤差がうまれる。そこで1799年6月22日にメートル原器なるものを作り、1メートルを定義したわけだ。
じつは、メートル原器と同時に、キログラム原器もつくられた。1kgとは「1000 cm3 の体積を占める密度最大の水の質量 」と定義された。地球を測って出したメートルと 1000 cm3 の水の重さであるキログラムは、フランスのメートル法としてやがてグローバルな標準になった。
しかし、メートル原器やキログラム原器は物質だから、変形や変質する。時間の単位も、地球の自転速度が変化すると変わる。これでは精密な測定はできない。そこで現在はメートルと秒については次のような定義を用いることにしている。
<1メートルは、1秒の299792458分の1の時間に光が真空中を伝わる行程の長さである>
<秒は、セシウム133の原子の基底状態の二つの超微細構造準位の間の遷移に対応する放射の周期の9192631770倍の継続時間である>
ただし、キログラムの方は、いまだに国際キログラム原器が現役で働いている。もっとも、これも塵などが付着して、重さが微妙に変化していることが予想される。質量の方もプランク定数を使ったもっと普遍的なものに変えるべきだという科学者の声がある。近いうちにキログラム原器もまた博物館入りをするだろう。
「週刊文春」5/18号に、重松清さんが「18歳のホンネ」という文章を書いている。18歳の高校3年生千人にアンケート調査をして、ホンネを聞いてみたのだという。もっとも関心のある出来事としてライブドア事件、第二位に9.11事件を上げているが、その他の結果をみると、意外に慎ましく、身の回りを重視し、現実を肯定的に捉えているように見える。
たとえば、「憧れやお手本になる人は誰か」という問に対する答えは、「家族」が一番多くて、188人、ついで「先生」が72人。「先輩」が23人である。第4位が堀江貴文(14人)、第5位がイチロー(11)人だが、6位が「親戚(10人)、7位が「友人」(7人)と身内が続く。
「あなたの両親は幸せに生きているように見えますか」という問に、67.8パーセントがyesと答えている。そして、「幸せに生きていくために必要なものは何か」という問いに、次のような回答を寄せている。
<すばらしい人間関係> <何ごとも楽しめる力> <感動する心の余裕と、感動に向かって動く行動力>
さらに、「豊かさとは何か、貧しさとは何か」という問には、こう答えている。
<豊かさとは、常に笑顔でいられること。貧しさとは、他人を思いやれないこと> <心にゆとりがあるのが豊かさで、ないことが貧しさ> <一日に何か一つは嬉しいことがあれば豊か。何かに追われるように過ごしていることが貧しさ>
「幸せになるために必要なものは何か」という問に、ある少女は<いろいろな意味で「愛」が必要なんだと思う>と答えている。18歳の本音にしては、たしかに少しきれい事のように思えるが、私も18歳の時に聞かれたら、ホンネでこう答えたかも知れない。
問題は彼らがやがて世間へ出て、働き盛りの世代になり、生活に追われる中年になっても、<貧しさとは他人を思いやれないことだ>と本音で語れるかどうかだ。この初心を忘れず、感動する心と笑顔を忘れずに、魅力的な人生を歩んで行ってほしいものだ。
昨日紹介した宮川さんは、中学時代はオール1で、学習意欲もなかった。九九さえできない落ちこぼれの彼が、一転して学問の面白さに目覚め、24歳で定時制高校に入学すると、やがて数学で愛知県のトップの成績をとり、27歳で名大の物理学科に入学した。
宮川さんがここまで変わったのは、「恋人に認めてもらって結婚したい」「アインシュタインのような物理学者になりたい」という強力な学習の動機付けを持ったことだ。このポジティブな動機付けが彼を駆り立てた。
人間はその気になれば、かなりのことが可能である。それだけの潜在能力を私たちは誰もが持っている。しかし、なかなか「その気」にならない。それはなぜだろう。一口でいえば、動機付けの方向性が間違っているからである。
たとえば英語や数学を学習する場合でも、「いい大学に合格するため」という動機付けでは、なかなか上達しない。「いい大学に合格したい」という欲望そのものが、ともすれば蜃気楼のように揺れ動くからだ。
セブの英語学校で一緒だったA子さんは、中学、高校と英語が大の苦手だったという。ところが4人クラスでも、8人クラスでも、彼女が一番英会話ができた。「苦手な英語がどうして得意になったの?」と聞くと、「カナダ人の彼氏がいた」ということだった。
彼氏とコミュニケーションを取るために、教会の英語スクールに通って英会話を勉強した。そうしているうちに、外国人と英語で語り合う楽しみに目覚めたのだという。彼女は受験のための英語には挫折したが、外国人と友達になり、もっと自由で素敵な人生を送りたいという動機付けをもつことで、ついに英語を上達させることができたわけだ。
学習について、最良の動機付けは「そのものが好きになる」ということだろう。私の場合は高校時代から数学や自然科学が好きで、大学、大学院でその勉強をし、いまでもその関係の本を読み、新しい知識を得たり、それをもとにあれこれ考えるのが楽しい。
何か事を為す上で必要なのは、本物の「やる気」である。ところが多くの人は、少し壁にぶち当たると、すぐに「やる気」をなくしてしまう。その理由は、その動機付けの方向が間違っているからだ。「試験にいい点数をとるため」という動機付けでは限界がある。そして限界にぶつかったとき、すっかりやる気がなくなり、勉強自身が嫌いになる。
人はだれも大きな潜在力をもっている。しかし、挫折を経験するうちに、多くの人たちは自分の能力を信じなくなる。自分は数学はできない。英語は苦手だ。自分にはコンピュータは向いていない。などなどネガティブな固定観念をもち、これに支配されるようになる。
巨象をおとなしくさせるには、小さな杭につなぐだけでよいという。これは子象のとき暴れて杭を抜こうとしたが無理だったという挫折体験があるからだ。そして成長して軽々と杭が抜ける力があっても、もはや最初からあきらめて、けっして自分の力を試そうとはしない。人も同じである。
私は基本的に他人にできて自分にできないことはないと思っている。ただ不器用でそのやり方がわからないだけである。時間をかければ、いずれそのやり方はわかる。たとえば、私がクロールに挑戦したのは小学生の4年生のときだったが、泳げるようになったのは、45歳のときである。
1メートルも泳げなかったクロールが、今は千メートルでも泳げる。同様なことが英会話の学習でも、他のことでも次々と起こり、私の人生を豊かで楽しいものにしてくれている。これは時間はかかるが、「やる気」をもって挑戦しつづければ、いずれ可能だと私が自分を信じて、挑戦し続けたからだ。
教職につくとき勉強した本の中で、「できない子供がいるのではない。できるのに時間がかかる子供がいるだけだ」という言葉に出合い、目が覚める思いをしたことがある。早くできることだけがすべてではない。じっくり時間をかけてできるようになることもいいものである。人生一生勉強できるということほど、楽しいことはない。
2006年05月13日(土) |
オール1でも高校教師 |
先日喫茶店で、妻に「読んでごらん」と、「女性自身5/23号」の「シリーズ人間」のページを見せられた。「オール1でも高校教師になれる」という表題に惹かれて、読み始めたが、これがなかなか痛快だった。
私立豊川高校で教鞭をとる数学教師の宮川延春(37)さんは、体が小さくて、学校でよくいじめられたという。足に画鋲を刺されたり、顔をパンパンになるまで殴られたりして、学校に行くのが苦痛だった。
その結果、とうとう九九も2の段までしか覚えることができず、中学1年の時の通知表はオール1だったという。中学3年生になっても、技術と音楽以外はすべて1だった。進学できる高校はなく、「技術」の2を生かして、職業訓練校の建築科に1年通った。
宮川さんの父親はラーメン屋をしていた。酒飲みの上に病気がちで、家業はもっぱら母親がやっていたが、母親も訓練校在学中に52歳で死んだ。やがて入院していた父も死んで、宮川さんは18歳で天涯孤独になってしまう。
訓練校を卒業した宮川さんは、大工見習いになるが、人間関係がうまくいかず、そこをやめる。そして音楽関係の仕事をしたりしたあと、ある建築会社に就職し、上司にも恵まれ、ようやく少し落ち着くことができた。そして好きだった少林寺拳法の道場に通い始めた。
そこで宮川さんは現在の妻である純子さんに出会う。しかし彼より一つ年上の純子さんは、国立大学の英文科を出ており、しかも美人だった。さっそく宮川さんはアプローチするが、九九もろくにできない宮川さんにとって純子さんは高嶺の花である。
しかし、純子さんは親切だった。九九のできない宮川さんに小学校3年生の数学ドリルからはじめて、算数の基礎を教えてくれた。純子さんという理想の家庭教師を得て、宮川さんははじめて勉強の楽しさに目覚めた。
そのころ、宮川さんは、NHKの番組のビデオでアインシュタインの特集をみて、自然科学の世界に心を動かされた。そして「オレもアインシュタインのような偉大な物理学者になりたい」と思った。まず、本屋に行って「やさしい物理学の本」を買って読み出した。
純子さんと知り合い、アインシュタインに出会うことで、宮川さんの人生が大きく変わった。彼は物理学者になりたいという夢を得た。そして名古屋大学の理学部に入学するために、まず私立豊川高校の定時制に入学した。
このとき、宮川さんはすでに24歳になっていた。毎朝5時に起きて、出勤前まで勉強し、会社のあと夜学で学び、帰宅してからも12時まで机に向かう毎日だった。彼は1年間の高校の教科書を1ヶ月でマスターしたという。こうして、高校2年生の秋には、全国模試の数学の得点で愛知県のトップをとれるまでになった。
宮川さんは27歳でみごとに名古屋大学に合格した。そして9年間、大学と大学院に通い、研究に没頭した。この間に純子さんともめでたく結婚し、長男と次男が生まれた。そして、宮川さんもいつか36歳になった。この間、純子さんが建設会社に勤務して、家計を支えてきたのだという。
彼は今年の春、母校の豊川高校で数学教師になる道を選んだ。物理学への愛情も夢も捨ててはいないが、高校教師として「子どもたちが目標を見つける手助けをしたい」と考え、教育者になることを決断したのだという。
「なんでも夢中になってしまう人だから、頑張りすぎないか心配です」と妻の純子さんは語っている。この言葉の通り、人間夢中になると集中力が生まれ、とてつもないことができるものだ。宮川さんの半生がこのことを示している。宮川さんは名古屋大学大学院の後輩である。私と同じく高校教師の道を選んだ彼に祝福のエールを送りたい。
私の勤務する定時制には九九ができない生徒がかなりいる。1年生の数学の授業は、まず算数のドリルを使って、九九や分数の計算からだ。しかし、中学時代オール1だった宮川さんも算数のドリルからはじまって、数年後には成績が県内でトップになり、大学院にまで進学している。この話を、教室で私の生徒たちにもしてやりたいと思う。
ちなみに中学時代の私の数学の成績は3だった。高校受験に失敗してやむなく行った私立高校でも、物理で赤点をとったし、数学の成績もせいぜい3だった。それでも国立大学の物理学科に現役で合格し、大学に入学してからの数学の試験の得点はクラスで1番だった。過去の成績などあてにならないものである。大切なのは現在のやる気だ。
2006年05月12日(金) |
コミュニケーションと英語 |
日本人は英会話が苦手だという。私も大いに苦手だった。中学、高校と6年間英語を習い、大学、大学院でも物理の教科書や論文はほとんどが英語だった。社会人になってからも英語の小説を読んだり、テレビやラジオの講座を聴いた。これだけ英語の学習をしていながら、英会話ができない。洋画の英語など、ほとんど聞き取れなかった。
ところが去年フイリピンのセブに行って、少し状況がかわった。一週間もすると、日本では決して話せないし、話したこともない英語が、無意識に口をついて出てくる。「英語が苦手です」というと、「ちゃんと話しているじゃないの」とフイリピン人の先生に言われ、「ああ、ほんとうだ」と苦笑いをした。相手の話す英語もほぼ理解できるから不思議だった。
先日も韓国人のPatrickから電話がかかってきたが、お互いに英会話で意志の疎通ができた。とっさにいろいろな英語が浮かび、笑いながら話している。こういうことが可能だとは、一年前までは想像することもできなかった。
これはもちろん、セブに語学留学していた2週間のうちに、英語力が格段に伸びたからではない。語彙力や文法力はそんな短期間で習得できるものではない。私の英語の基礎力は正直言って、高校時代とそれほどかわらない。また、今後もそう変わらないだろう。それが証拠に、私が口にする英語は、ほとんど中学レベルのやさしい単語と文章である。
短期間に飛躍的に伸びたのは、単語力ではなく、これを組み合わせて文章にするスキルではないだろうか。もともと単語も、英文法も知識として持っていたわけだから、あとはこれを「化学反応」させて口にすればよいわけだ。こうした「実践力」が短期間についたというわけだろう。
それでは、なぜこうした「実践力」が短期間についたのだろう。私はそれは「コミュニケーション」の力ではないかと思っている。セブの学校にいるとき、授業以外でも英語を使うことが多かった。たとえば食堂で食べたあと、プールのあるテラスに行って一休みすると、顔見知りの韓国人が声を掛けてくる。そこで必然的に英会話がはじまるわけだ。
母国語の習得の場合を考えても、子供は最初は母親とのコミュニケーションなかで言葉を覚える。コミュニケーションが語学の学習にとって出発点であり、その後も語学学習の重要な要因である。これによって、私たちは言語を感情のこもった生きたものとして体得できるわけだ。
こう考えれば、なぜ日本人が学校で6年以上外国語を学習しながら、片言の外国語も話せないのか理解できる。つまり、日本の語学学習は「言葉はコミュニケーションの手段」だという基本的な認識を欠いていて、教育法そのものが間違いだということだ。こうした教育法では何十年英語を学習しても、やはり英語はものにならない。
もちろん学校での学習が無駄だったというわけではない。そこで学んだ文法力や語彙力はとても大切なものだ。問題はいかに高度な文法を知り、単語を記憶していても、それを「活用」するスキルを知らなければ宝の持ち腐れだということだろう。
今年の夏は、7月23日から8月13日まで、3週間ほどセブに行こうかと思っている。セブでまた「英会でコミュニケーション」をたのしみたい。残念なことにこれは研修扱いにしてもらえない。年間20日間の有給休暇を、ここで15日間も使うので、私はほとんど学校が休めなくなる。自由に使える時間がないのはつらいことだ。
2006年05月11日(木) |
Be Kind First. |
最近は5時に起きて、まずこの日記を書き、6時ころから散歩に出る。散歩から帰り、7時ごろに「ごはんですよ」と妻の声がかかって朝食。もっとも朝食のメニューに御飯はなくて、トーストとコーヒー、ゆで卵、サラダなどである。
日記が6時までに書けないと、散歩は朝食後になる。そうすると7時を過ぎているから、散歩の途中でちらほらと人に出会い、「おはようございます」と声を掛けられることが多くなる。こちらも「おはようございます」と声を掛ける。昨日の場合だと、朝の挨拶を交わしたのはおよそ8人ほどだった。
その内訳は、こちらから先に声を掛けたのが3人、向こうから先に掛けてきたのが3人、同時に掛け合ったのが2人である。こんな数字を覚えているのは、散歩をしながら、「Be Kind First」という言葉を思い出したからだ。
昨日は散歩をしてすぐに、登校途中の二人の女子中学生とすれちがった。そのうちの一人が、「おはようございます」と大きな声で挨拶してくれた。私も「おはよう」と返し、もう一人の子も「おはようございます」と返してくれた。なんでもないことだが、これでとてもさわやかな気分になった。
小学生や中学生とすれ違うと、二人に一人くらいは、このように声をかけてくれる。これはとてもありがたい。子供たちの朝の挨拶はまさに清涼剤である。ほんとうはこちらから先に「おはよう」と声をかけてやるべきなのだろうが、私の場合は、どうも後手になってしまう。
相手が子供でない場合でも、私の方が出遅れて、先に声を掛けられることが多い。昨日は「「Be Kind First」ということを思いだし、こちらから声をかけようと意識したが、それでも成績は5分5分だった。
散歩をしていてわかったのだが、声を掛けやすい雰囲気の人と、そうでない人がいる。にこやかな表情ををしている人には、気軽に「おはようございます」と声が出るが、気むずかしそうに歩いてくる人には、こちらも声が出ない。
昨日は、そうしたタイプの人にも二人ほど先に声を掛けてみた。意外なことに、そうした人も声をかけられると相好を崩し、にこやかに「おはようございます」と挨拶を返してくれた。思い切って声をかけてよかったと思った。
「挨」も「拶」も「押す」という意味だそうである。つまり、「相手の心に迫る」という意味だ。禅宗には「一挨一拶」という言葉がある。問答を交わして、お互いの悟りの深さを確かめ合うことだそうである。ここから「挨拶」という言葉が生まれたらしい。
大切なのは、自ら先に心を開いて、相手に向かい合うことだろう。挨拶から「一期一会」の出会いがうまれる。また、ゆたかなコミュニケーションの世界が広がる。昨日はこのことを意識してやってみたが、これからもこの心がけを大切にしたいと思った。
(今朝は、5時に起きて、この日記を書き終えたのは5時45分である。まだ朝食までかなりあるので、これから散歩にでかけることにしよう。さいわい雨は上がっている)
2006年05月10日(水) |
人生を創るコミュニケーション |
昨日の日記で、堅実な生き方とは、「何か得意なことをつくり、専門性を伸ばす生き方」だと書いた。そして、「収入は大切だが、世の中には他に大切なものがたくさんある」とも書いた。生きていくのに収入の他に何が必要か。それは他人と対話し、意志を通じ合う能力、すなわち「コミュニケーション力」ではないかと思っている。
これはただ、必要だというだけではない。人生を楽しむために大切な技術でもある。いくら収入があっても、他者と交流がなく、心を許すことができる家族や友人がいなければ、その人の人生は灰色ではないだろうか。
専門性を磨き、これによって確実な収入を確保することはよいが、このとき心すべき事がある。それは「専門性の罠」に陥ってはならないということだ。この罠に陥ると、交際する人の範囲が狭められ、視野が狭くなる。いくら学歴があり、技術があっても、コミュニケーション力が欠如していては、人生は楽しめない。
しかし、専門性を高め、一つのことに秀でるということは、必ずしもコミュニケーションにマイナスになるということではない。むしろ道元禅師も「一法は万法に通ず」と書いているように、その道を極めた人の話は奥行きがあり、他人が聞いても参考になるものだ。
専門性をもつということは、コミュニケーションの障害になるわけではなく、むしろより個性的で内容のある対話を成立させる要件でもある。専門性を深めることと、豊かなコミュニケーション力を持つことは本来両立し、お互いを啓発し高めあう関係にあるわけだ。
また、コミュニケーション力は収入を得るためにも必要な技術だ。職場でも必要だし、商売をするとき、顧客を獲得するためにも必要である。有能なセールスマンや、実力のある実業家は例外なくこのコミュニケーションのスキルにすばらしいものを持っている。
したがって、コミュニケーション力を磨くと言うことは、専門性を磨くとこととならんで、あるいはそれ以上に重要なことである。それは収入を増やす道でもあり、物心両面で人生を豊かにする原動力だと言ってもよい。
したがって、子供たちに「勉強をして、よい点数をとり、よい大学に進学しなさい」としか教えられない親や教師は失格である。教育においては、コミュニケーション力を磨き、対話力や共感力を養成することこそもっとも大切なことである。そして、これが結局子供たちに豊かな人生をもたらすわけだ。
問題は親や教師が充分なコミュニケーション力を持たず、彼ら自身が自らの人生を充分に楽しんでいないことだろう。コミュニケーションを軽視して、知識や規律ばかりを重視することは、今日の学校教育の大きな欠点である。ひきこもりが発生するのも、社会や家庭のコミュニケーション力が衰弱しているからだ。
2006年05月09日(火) |
堅実パパのアドバイス |
大学4年生の次女が、公務員試験を受けるという。小論文を見て欲しいというので、何回か見て、批評した。娘にいろいろなアドバイスをしたが、ここにいくつか書いておこう。
「ただ独断的に自分の意見をいうのは小論文といえないよ。いくつかの意見を紹介し、それと対照する中で自分の考え方を呈示するといい。また、自分の見解を述べるにあたっては、その根拠をはっきりさせなければならない」
「大上段にものを言うのではなしに、あくまで相手に自分の主張を理解してもらおうという配慮や工夫も大切だ。抽象的な観念論ではなく、実例や自分の体験したエピソードを添えると、説得力がでてくるよ。また、客観的なデーターなども示すとよい」
「公務員は縁の下の力持ちなんだよ。人々が快適に市民生活を営み、また経済活動ができるように、地道にこれをサポートするんだ。決して主役じゃないんだ。たとえてみれば、風車の心棒みたいなものだね。目立つのは風車の美しい羽根の部分だが、それを支えているのは実は心棒なんだよ。公務員というのは社会の心棒なんだ。決して目立たない、下積みの仕事だけど、社会にとってはとても大切な仕事なんだ」
娘は何度も書き直しをして持ってきた。そのたびに内容がよくなっている。視野が広まり、考え方が見る見る深まってきた。「これまで、こんなに物を深く考えたこともなかった」という。就職試験を契機に新聞なども熱心に読むようになった。インターネットで資料を検索したりもしている。
私は娘たちに、「よい学校に入れ」とも、「よい会社に入れ」ともいわなかった。ただ、「何か得意なことをつくり、専門性を伸ばせ」と言ってきた。同じ言葉を、生徒たちにもくりかえしている。私自身は「教育」という分野でスキルを磨き、それなりの安定した収入を得て、人生を大いにエンジョイしている。
私は決して「お金持ちお父さん」ではないが、「貧乏お父さん」でもない。あえていえば、「堅実お父さん」というところだろうか。収入は大切だが、世の中には他に大切なものがたくさんある。生活に必要なお金は自分の力で稼ぎ、税金をしっかり収める。社会にもそれなりに貢献し、そのうえで余暇をたのしむ。私が理想とするのは、こうした「堅実な生き方」である。
連休最後の日曜日の昨日は、まる1日雨だった。朝食のあとしばらく雨の様子を窺っていたが、小降りになる気配はない。10時過ぎに家を出た。傘をさしていつものように木曽川まで散歩した。
雨に濡れた新緑が美しい。洞窟のような私の書斎から抜け出して外を歩いていると、魂が蘇ったような清々しさだ。散歩の楽しさは雨の日でも変わらない。道端の草むらに蝶がとまっていた。その小さな白い羽も雨に濡れている。毎日歩いている道だが、毎日新しい発見がある。何とはなし、山頭火の句を思い出した。
このみちや いくたりゆきし われはけふゆく
途中、よく肥えたカモが5羽、田んぼの中にいた。田んぼは雨のため一面の水に浸かっていて、池のようになっている。そのため普段はいないカモたちが、木曽川の方からやってきたのだろう。しばらく私の足が止まった。
隣の田んぼの中に、いそしぎの夫婦がいた。少し前まで私が近づくと、攻撃するような甲高い声をあげたのに、今は沈黙している。妻によると、ヒナがカラスに襲われて死んだのではないかという。たしかに少し前に確認したヒナの姿が、今はどこにも見当たらない。去年は二羽のヒナが若鳥になって飛び立ったが、今年は残念なことになったようだ。
木曽川堤の駅の近くの田んぼに、シラサギのシロちゃんがいた。最近まで妻が小魚をやっていたが、5月になってシロちゃんの姿がなくなり、餌をやるのをやめた。田んぼに蛙の声が聞かれるようになり、餌も豊富になったのだろう。久しぶりに見るシロちゃんは元気そうだった。これで一安心である。
その少し先に、名鉄電車の架線下のトンネルがある。そこでベートーベンの「喜びの歌」と滝廉太郎の「花」を歌った。トンネルの中はエコーがきいて、声が美しく響く。いっぱしの声楽家なったようで、歌っていて気持がよい。ここでボイス・トレーニングをするのも、毎日の日課になっている。声は教師の商売道具だから、日頃からトレーニングを怠ってはならない。
1時間近く横殴りの雨の中を散歩して帰ってくると、上着やジーパンがびしょぬれだった。さっそく着替えていると、「そろそろ、でかけますよ」という妻の声。連休最終日のお昼は、一家4人で豪勢に外食ということになった。コスモに行って、千円もする「しゃぶしゃぶランチ」である。一家そろっての外食は久しぶりだった。
連休4日目の昨日は、午後から妻と長女と私で江南市の曼陀羅寺へ藤を見に行ってきた。やや盛りは過ぎていたが、「藤祭り」の最中で、白やピンク、紫の藤が美しかった。屋台が並び、人があふれていた。
曼陀羅寺へは何度もきている。最初に訪れたのは、16年前の平成二年のことだ。福井から父や母、弟の一家が泊まりがけで遊びに来た。そのとき、曼陀羅寺の藤祭りの最中だということを新聞で知り、みんなを案内した。
噴水のある池の前で、私が記念写真を撮った。私は写っていないが、妻や二人の娘、父母、弟、弟の嫁さん、そして弟の長男、次男が勢揃いしている。とてもなつかしい思い出の写真である。ちなみに、父は翌年の5月に死んでいる。
http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/n137.jpg
私たちは藤を眺めたあと、田楽を食べた。イカの串焼きをたべた。そして、最後に、大福餅を食べた。とくに大福餅はヨモギ入りでうまかった。お寺の坊さんが売っていたから、これは曼陀羅寺の特製かもしれない。来年もこの大福を食べにこようと思ったくらいである。
夕方、次女が帰ってきた。一家4人がそろうのは久しぶりである。今日は連休最後の日曜日だ。4時半頃雨の音で目が覚めた。好天続きの連休だったが、とうとう雨になった。畑にとっては恵みの雨である。私も落ち着いて読書をしたり、小説が書ける。雨の日曜日も悪くはない。
昨日の子供の日も、すばらしいお天気だった。午前中は散歩や小説の執筆。そして午後から、小さな一人旅をした。行き先は、名古屋市星ヶ丘である。もう少し正確に言うと、そこから歩いて20分ほどの西里町の界隈である。17年ほど前に一宮に引っ越しするまで、7年間ほど住んでいたところだ。
昔住んでいた借家は、少し外装が変わっていたが、そのまま残っていた。庭に見覚えのある躑躅が咲いていた。夜間高校の教師だった私は、朝食を食べた後、散歩がてら近くの神丘公園のでっちょ池の横を通り、少し離れた喫茶店へ通っていた。
同じコースを17年振りに歩いた。でっちょ池の浮き御堂から池を覗いていると、大きな鯉が寄ってきた。むかし鯉に餌をやったものだ。鯉は私たち一家のことを覚えているだろうか。葦や水草が茂り、赤や白の睡蓮がちらほら咲いていた。昔のままの景色である。デジタルカメラで撮ったので、これを来月のHPの表紙写真に使おう。
さらに公園の横の坂を下り、大通りに出る。信号のある交差点を渡ると、その角が当時毎日通っていた「亀」という喫茶店だ。17年振りだったが、そのままの姿で健在だった。
店に入り、ママと顔があった。「あら、ひさしぶり」とママは驚いたように私を見て、「すこし痩せたようね」となつかしそうだった。「ダイエットしたんだよ」と私。「マスターは?」と聞くと、「最近調子が悪くて、でも私は病気一つしないのよ」と元気そうだった。
私はカウンターの近くの、ママの顔が見えるところに席を取り、よもやま話をしながら、持参した本をゆっくり読んだ。昔もそうだった。この喫茶店でコーヒーを飲みながら、たっぷり時間をかけて本を読んだものだ。トルストイの「アンナカレーニナ」やハイデガーの「存在と時間」などもこの喫茶店で読破した。
暑かったので、アイスコーヒーを注文した。そして、昔とおなじように1時間ほど本の世界に没頭した。帰りがけに、「またきてくださいね」とママが見送ってくれた。一宮の自宅からだと、JRと地下鉄を乗り継いで、1時間半はかかる。しかしまた、来たいと思った。こうして私の、ぜいたくな、満ち足りた休日の旅が終わった。
朝の散歩をしながら、鯉のぼりを見る。青空を泳ぐ鯉のぼりはさわやかで美しい。しかし、少子化の影響か、鯉のぼりの数も最近はめっきり少なくなったようだ。今日はこどもの日である。鯉のぼりもそろそろ見納めだ。
妻の実家では毎年こどもの日にちまきを食べる。今年も妻は実家に帰り、義母が買ってきたちまきを食べるつもりのようだ。妻の他に義兄の一家もやってくる。私は先日、潮干狩りのときに顔を出しているから、今日はパスをしようと思う。二人の娘たちも、それぞれ忙しいようで、わが家からは妻だけが参加することになった。
わが家でも毎年、こどもの日にはちまきを食べる。今日もたぶん妻が実家からもらったきたのを夕食代わりに食べることになるのだろう。娘たちは来るかどうかわからない。最近は妻と二人で食べることが多い。
ところで、ちまきはもともと武士が戦をする時のための携帯食だったそうだ。竹には抗菌作用があるので、その笹の皮でオニギリを包み、腰にぶら下げて戦場に赴いたのだという。平和時になっても、保存食としてこれが残った。こどもの日にこれを食べるのは、戦国時代の武将にあやかり、立派な男子に育ってほしいという願いからだろう。
鯉のぼりといい、ちまきといい、こういう風習はこれからも残ってほしいものだ。これを見たり、食べたりすると、子供の頃を思い出して、なつかしい気分になる。幼稚園で鯉のぼりを作り、小さなちゃぶ台を囲んで、父や母や弟と一緒にちまき食べた、セピア色の記憶がほのぼのと蘇ってくる。
待望の5連休である。連休でもいつもと変わらず、起床は5時ごろである。日記を書いてからトーストとコーヒーの朝食。午前中は散歩と小説の執筆で、昨日は「俊介の青春」を4枚ほど書いた。時計を見ると、もう11時近くだった。
それから妻と羽島までウナギを食べに行った。私の家から木曽川の堤防道路を30分も走ると、その料亭に着く。料亭といっても私たちが食べた並の鰻丼は800円で、これがなかなかボリュームがあって旨い。
鰻丼のランクは「並」の他に「上」がある。「上」だと尻尾や頭に近い部分は入っていない。私たちが食べた「並」の鰻丼は、尻尾と頭に近い部分が入っていて、そのかわり真ん中の部分が抜いてある。しかし、味はそう変わるわけではないので、私たちはこれで満足した。
途中、木曽川の景色がよかった。木曽川橋を渡るとき、丁度正面に御岳が見えた。帰り道も正面に、御岳が見えた。御岳はまだ雪を被っていて白かった。さすが伊吹山にはほとんど雪が残っていなかったが、これもよく見えた。ここ数日黄砂の影響で、空が白く霞んでいたが、昨日はかなりきれいに晴れ上がった。
河原の新緑が美しかった。河原はかなり整備されていたが、それでもまだ鬱蒼とした樹木がところどころ残っていて、生き物たちの楽園になっている。車の窓を開けると、爽やかな風が吹き込んできた。何だか夏の高原に来たような気分である。妻と「一年中こんな気候だったらすばらしいだろうね」と語り合った。
途中、洋菓子屋に寄って、ショートケーキを二つとシュークリームを二つ買った。家について、妻が入れたコヒーを飲みながら、それを食べた。少しカロリーが気になったが、その分、夜は軽く、カップヌードルですませた。ほんとうは1日2食のつもりだったが、つい余計なものを食べてしまった。それでも入浴の時、体重を見ると58キロで、一年前より10キロ以上減っている。理想体重は60キロだから、これ以上減るのも問題だ。
夕方、次女が帰ってきた。連日、馬術部の試合だという。4年生になって部長は後輩に譲ったが、まだまだ現役で試合が続く。6月に大きな大会があり、それで優勝して全国大会に行くというのが彼女の夢らしい。(去年は惜しくも4位で補欠だった)5月には公務員試験もあるはずだが、次女の頭の中はまだ馬のことでいっぱいのようだ。
風呂から上がって一休みしていると、韓国のPatrickから国際電話がかかってきた。彼からの電話はこれが二回目である。セブの英語学校で一緒のクラスだったあずみから電話があり、彼女が韓国に遊びに来るという。東京のあずみからの電話で、私のことを思いだし、なつかしくなったらしい。英語で10分ほどの会話だったが、たのしいひとときだった。
最後、「日本語でグッドバイは何というのか」と聞くので、「さようなら」という日本語を教えたが、韓国語も教えて貰えばよかった。そして彼の「さようなら」に、韓国語で「さようなら」を返せば彼も嬉しかっただろう。今度電話があったときには、そうしようと思った。
今日から5連休である。1年生の担任になって、目の回る忙しさだった。4月中は結局1時間も年休がとれなかった。休もうにも休めない日々が続いた。また、そうした心のゆとりを持てない1ケ月だった。
この5連休、とくに予定はない。妻と「木下サーカス」でも見に行こうかと相談しているくらいである。その他、日帰りで近場の山に登ってみたい。新緑の美しい季節だから、自然に親しんでリフレッシュしたい。
それから友人が貸してくれたDVDを見たり、本も読んでみたい。小説も書いてみたい。現在書いているのは「俊介の青春」という小説である。哲学的で人生論的な味のあるさわやかな青春小説に仕上げたいと思っている。すでに20枚ほど書いてあるが、連休中に20枚は書き足したいと思っている。
それにしても、5連休はありがたい。前任校でテニス部の顧問をしていた頃は、練習や試合でほとんど連休はつぶれていた。昔の日記を読んでみると、連休中に1日しか休めないこともあったようだ。これでは欲求不満にもなろう。
もっとも、生徒たちと一緒にラケットを握り、汗を流すのも悪くはない。テニス部の顧問をやめて、この2年間、とうとう一度もテニスをしなかった。この連休中、一度くらいはテニスをしてみたいが、残念ながら相手がいない。
私と妻はテニススクールで知り合った仲だが、妻はもうラケットを握ろうともしない。二人の娘もそれぞれ中学と高校時代にテニス部に籍を置いていたが、最近はテニスに関心がないようだ。というわけで、やはりテニスはあきらめて、山登りで汗を流すことにしよう。
妻が畑の一角に果樹園をつくるのだといって張り切っている。すでにイチジクや柿やリンゴなどが植えられている。今年はスイカも何種類か作るそうで、たのしみである。妻は絵画教室にかよったり、切り絵や書道もしていたが長続きしない。しかし農園をやりだしてからもう10年ほどだ。これは好きだから続くのだろう。
私も毎日この日記を書いている。これも好きだから続く。おかげで、HPの「何でも研究室」がちょっとした「知の森」のようになった。先日そこに57本目の木を植えた。「定時制高校日誌」である。
これはまだ苗木のようなもので、これからどんどん大きくなっていくだろう。「知の森」にはすでにかなり年輪を刻み、大きくなった木もある。たとえば「共生論入門」には2001年7月21日の日記から始まり、いちばん新しい文章は2006年4月11日の日記である。これもまだまだ成長するだろう。
「知の森」に私は時々足を運ぶ。私が過去に書いた日記が、それぞれの木の葉っぱの一枚一枚になって繁っている。その葉っぱの一つを手に取り、そこに書かれた文章や思想を、もういちど吟味したり、味わったりする。このひとときがまたこよなく楽しい。
知の森には苗木も含めて57本の木があるが、その一本一本の木はお互いに支え合い、励まし合って生きている。そして全体として、ひとつの有機的な「共生の世界」を形成している。あえて「知の森」と呼ぶ所以だ。
森に小鳥が訪れるように、「知の森」にもときどき人が訪れてくれる。そして森の感想をメールで報せてくれる。これもうれしいことだ。「知の森」が人生の旅人たちを慰めるささやかなオアシスとなり、人々がそこに集って楽しめる「知の楽園」になれば、これは望外の喜びである。
「何でも研究室」 http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/kennkyu.htm
昨日は、妻と私と義父で南知多へ潮干狩りに行ってきた。これまで海と言えば若狭や越前海岸だった。知多の海は久しぶりである。連休と言うこともあって、人でいっぱいだった。しかし、貝もたくさんとれた。
妻によれば、私の成績が一番悪いらしい。たしかに私は折り畳み式のレジャー用椅子に坐ったまま、海を眺めたり、潮干狩りをする人たちを眺めている時間の方が多かった。妻の言葉によれば、「あなたはいつもぼんやり椅子に坐っていた」ということになる。
そもそも椅子は義父のために用意したものだが、義父はとりつかれたようにアサリ取りに熱中した。妻もそうである。せっかく海に来たのだから、潮風を吸い込んで、もっとのんびりすればよいのにと思う。
潮干狩りをしていると、いろいろな生き物が目に付く。ヤドカリやカニ、ヒトデ、それからドジョウのような小魚もいる。つい、それらを手にとって眺めていたりする。そんなわけで、私の場合はなははだ効率がわるいわけだ。
「あんたたち、すこしまじめに貝を捕りなさい。ひとり1100円も払っていいるのよ。カニなんかと遊んでいる場合じゃないでしょう。しっかりアサリをとりなさい」
私が叱られたのかと思ってどきりとしたが、近くで、男の子が母親に叱られていた。なんともほほえましい光景である。たしかに1100円分アサリをとろうと思えばたいへんだ。しかし、これは遊びである。パチンコに行ってもこのくらいはすぐになくなってしまうだろう。
名古屋に帰ってきて、義父に「満月」というところでおいしいお蕎麦をおごってもらった。潮干狩の入漁料、高速料金、すべて義父の支払いである。歳をとってたいへんケチになってきたと聞いていただけに、この気前の良さは意外だった。妻が言う通り、私たちと潮干狩ができて、よほど嬉しかったのだろう。
妻の実家では、義母が一人で留守番をしていた。義母は潮干狩はきらいだという。娘時代に大病をして、毎日さしみや貝を食べた。おかげで命を救われた。それ以来、殺生をすることを極端に嫌うようになった。潮干狩など論外ということらしい。この気持、私には少しわかる。
おもしろうてやがて淋しき貝拾い 裕
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