橋本裕の日記
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2006年04月30日(日) 楽しみな潮干狩

 昨夜、長女がアサリをもって遊びにきた。彼氏と知多半島の方に、潮干狩にいったそうだ。今日は私が妻や義父をつれて、潮干狩に行く予定である。やはり、知多半島の師崎あたりの海になりそうだ。

 長女の話だと、すごい人出だという。人混みが嫌いな私はこれを聞いて怖じ気づいたが、潮干狩は義父が楽しみにしているので、やめるわけにはいかない。とにかく行って、適当な海でまねごとだけでもしてみたいと思っている。

 義父はすでに80歳を越えているが、まだまだ元気で、自宅で「木彫り教室」を開いている。55歳で会社を退職し、もう30年近くやっているわけで、これはもう本当に好きだから続いているのだろう。

 義父は恵那の生まれで、自然が大好きである。私の家に泊まりがけで遊びにきて、木曽川で泳いだこともある。その頃、義父は木曽川の河原で大きなスッポンをみつけて生け捕りにした。甲羅の直径が50センチはありそうな大物で、きわめて凶暴だった。よくこんなものを捕まえたものだと思った。

 スッポンは義父が名古屋の家に持ち帰り、しばらく家で飼った後、やはり手に負えなくなり、一万円で料亭に売ったそうである。これには妻が不満で、「木曽川に逃がしてやればいいのに」と怒っていた。

 義父とは若狭の海に行って、泳いだこともある。そのときは小浜に一泊した。蘇洞門めぐりの舟に乗り、景勝を楽しんだり、お寺巡りをしたりもした。思い出してみると、この25年間、義父とはいろいろな旅をしている。ひるがえって、67歳で死んだ実父とは、ゆっくり旅をしたこともなかった。これは少し淋しいことである。

 潮干狩りは、子どもが小さい頃はよく行った。18年ほど前に「潮干狩」という小説を書いて同人誌「作家」に発表したことがある。そこにありし日の家族の様子が書かれている。昨日は久しぶりに、それを読み返し、思い出にふけった。同じ海に行くわけではないが、こうして書いているうちに、久しぶりの潮干狩がたのしみになってきた。


2006年04月29日(土) √2長方形の不思議

 現在私たちが使っている用紙にはさまざまな規格がある。たとえば、A3,A4、A5というA判や、B3,B4,B5というB判の規格がある。そしてこれらの規格の用紙には、ひとつの面白い特徴がある。

 それはそれらの長方形の縦と横の比がいずれも同じになっているということだ。つまり、それらは相似な長方形である。ここでA3を半分に折ればA4になる。B判についても同様である。半分に折っても、大きさは小さくなるが、形は変わらない。

 だから、コピー機で縮小したり、拡大して、B4をB5にしたりできる。A判とB判も大きさが違うだけで、形は同じだから、コピーで縮小・拡大して、たとえばB4をA4にしたりできる。これはとても都合がよいことだ。

 ところでこうした不思議な性質をもつ長方形ができるためには、縦と横の辺の長さの比がどのようになっている必要があるのだろうか。長方形の縦を1、横をxとおけば、これは高校で習う二次方程式の手頃な問題ということになる。

  1:x=1/2x:1 より、x^2(xの2乗)=2、 x=√2

 つまり、この長方形は、縦を1とすれば、横の長さは、2乗すれば2になる数、すなわちルート2になる。A判やB判といった紙は、すべてこの「√2長方形」になっているわけだ。

 √2という数は、ギリシャで発見された。2500年ほど前にピタゴラスが発見した「三平方の定理」によれば、√2は1辺が1の正方形の対角線の長さに等しい。このことを知っていると、A判やB判の紙が√2長方形になっていることを紙を使って示すことができる。

 昨日、二年生のあるクラスで授業プリントが早めに終わったので、「√2の不思議」について話をした。そしてB5の用紙を生徒に渡し、これを適当に折って、縦と横の辺の比が1対√2になっていることを確かめさせた。

 √2という数は、意外と身近に潜んでいる。それは私たちが毎日使っている紙にも使われている。二次方程式や、ルートという数が、このように私たちの身近で活躍していることを知れば、数学が苦手だった人も、いくらかは「数学も面白そうだな」と感じるのではないだろうか。


2006年04月28日(金) 多様な生徒たち

 定時制に来る生徒は、多様性に富んでいる。年齢構成だけではなく、生い立ちも、現在置かれている環境も様々である。私のクラスには両親がおらず、施設から通っている子もいるし、片親だけの子もたくさんいる。

 去年、留年した子も2人いる。それから、中学3年生の時、160日以上欠席していた子も6人いて、これは4人に1人の割合だ。今のところこの6人は元気に学校に来ている。

 多様性は学力にも及んでいる。昨日の数学の授業を例に取ろう。分数の計算ドリルのプリントを配ると、10分もしないでできてしまう生徒がいる。一方では30分たっても、まだ半分しかできない生徒がいる。

 一つのクラスにこれだけスキルの違う子がいるのだから、授業展開はよほど工夫がいる。全日制の進学校のような一斉授業は成立しない。黒板で解き方を説明したあと、できないでまごついている子や、半分切れかかっている生徒の傍らに行き、個別指導をするのだが、その間、他の生徒を遊ばせておくわけにはいかない。

 ドリルを解き終えた生徒には解答を与え、自己採点をさせる。間違った箇所を見直しさせ、終わったところで検印を押し、別に用意したプリントを与える。昨日与えたのは、「ルートにひそむ美」という、私が以前この日記に書いた数学エッセーである。さいわい私はこれまでたくさんの数学エッセーをこの日記に書いている。

 大半の生徒が解き終えたところで、このエッセープリントの解説に移る。ルート2という数がどうしてギリシャで発見され、その存在が人々に驚きを与えたか。そして、人々がいかにその神秘に魅了され、古今東西の建築家や芸術家たちはその数をいかに愛してきたか。さらに、現在でも紙のサイズなど、いかに身近に使われているか。こうした話題は私の得意分野なので、状況に合わせて内容をふくらますことができる。

 ドリルのプリントを終えた子たちは私のこの話に耳をかたむける。しかし、これはあくまで余談だから、成績には関係がない。中には私の余談につきあうゆとりがなくて、最後までドリルに頭を悩ませている生徒も数人いる。ほんとうはこうした生徒にもっと付き添ってやりたいのだが、私にはまだそこまでのゆとりはない。


2006年04月27日(木) 演劇部の顧問

 今年から演劇部の顧問になった。部員7名のうち、5人は私のクラスの女生徒である。あとは同じ1年生の女生徒と、4年生の男子生徒。じつは演劇部は去年までうちの学校にはなかった。今年私のクラスの生徒を中心に希望が出たので、新たに部を立ち上げたわけだ。

 毎日、授業後図書館で9時半まで練習している。私は演劇はまったくの素人だが、部長のM子は中学時代演劇をしており、いろいろなノウハウを知っている。彼女を中心に、まずは基礎的な発声の練習からはじめた。

 演劇には素人だが、興味があるし、秋の文化祭でどんな作品が発表できるか、少し楽しみである。夏休みには合宿をしようという話も起こっている。夏には3週間セブへいくつもりだが、合宿をするとなるとこの計画を縮小しなければならないかも知れない。

 私は教師生活をあと4年で引退しようと思っている。これまで部活の顧問といえば、テニス部か卓球部くらいだった。私の夢は文芸部をつくり、生徒と一緒に小説や詩を勉強することだったが、これはもう無理だろう。そのかわり神様は私に演劇部の顧問をお与え下さったわけだ。いずれにせよ、新しいことに挑戦するというのは、とてもうきうきしていいものだ。

 私のクラスはこの演劇部の生徒たちが核になってまとまりができつつある。毎日学級日誌を書くのも、授業の後の黒板を消すのも彼女たちだ。学習にも積極的で、数学を教えあっていたりする。元気がよくて、明るい彼女たちの弾んだ様子を眺めていると、こちらも元気が出てくる。

 演劇部でただ一人の男子部員の4年生の男子生徒は、彼女たちのそんな積極的な様子に惹かれて入部した。部長のM子にしごかれて、まじめに発声練習をしている。今後、いろいろな問題が起こってくるだろう。しかし、そうした困難を乗り越えることで、部員も顧問の私も成長することができるし、お互いの絆も深まっていくことだろう。

 ところで昨日は私の56歳の誕生日だった。妻と娘が別々に誕生祝いのケーキを買ってきてくれた。驚いたことに、演劇部の女生徒から誕生祝いをもらった。家に帰って包みの箱を開けてみると、靴下が二足入っていた。生徒から誕生祝いをもらうことは予期していなかったので、とてもうれしかった。


2006年04月26日(水) フイリピンの子供たち

 今年1月にセブに英語留学したFさんは、サッカーが大好きで、セブで向こうの子どもに教えていたという。「僕はいつもこの時間ここにくるから、教えててほしかったら、いらっしゃい」と言うと、その少年は毎日のようにやってきたという。

 この話を妻が台湾旅行中にFさんの奥さんから聞いた。私は妻から又聞きして、「ああ、良い話だな」と思った。そして、自分の体験を思い出した。

 セブからバスに乗って、田舎町へ行ったとき、帰りのバス停で、近所の少年と少し会話をした。英語の発音のきれいな、賢そうな少年だった。たいした会話はしなかったが、私は何となく彼に親しみを覚えて、こんな息子がいたらいいなと思ったものだ。

 セブのホテルの近くを歩いていたときも、子供たちが寄ってきた。私が旅行者だと知って、お金をねだった。私は今、この子供たちに、何か与えてやればよかったと後悔している。お金を与えないにしても、たとえば日本の話を聞かせてやるとか、動植物や宇宙の話を聞かせてやるとか。子供たちとジュースでも飲みながら、さりげなく彼らの心を好奇心を呼び覚ましてやることはできたはずである。

 ある人から「里親制度」に参加しないか誘われ、「あしながおじさん」を思い出して、少し食指がうごいたが、ただお金を出すだけでは物足りない。物質的な援助とともに、身近にいてサポートし、人格的な交流ができれば、おたがいに楽しいだろう。

 現在のフイリピンは貧富の差がはげしく、一部の裕福な階級によって、教育が独占されている。たしかに田舎には田舎のよさはあるが、この田舎の良さが、どんどん破壊されていることも現実だ。これに対抗するには、庶民がもっと知的にも目覚める必要がある。

 先日、「mo more war」のMLのオフ会で、フイリピンに滞在している広瀬さんという私と同年代の女性とお会いして、少しプイリピンのことを聞くことができた。彼女はクリスチャンだそうだが、たいへんフイリピンが好きで、もう十年以上住んでいるらしい。たまたま日本に帰っていたので、オフ会に参加したそうだ。

 彼女によれば、フイリピンは田舎がとくにいいという。そこに住む人々は日本人よりはるかに人がよく、親切だということだった。フイリピンというと私たち日本人は、スラムがあって治安が悪く、危険なところというイメージがあるが、フイリピンの人たちはむしろ日本のことをとても危険な国だと思っているそうだ。

 日本のヤクザのことはフイリピンでは有名だし、かって日本はフイリピンを軍事占領し、おおくのフイリピン人を殺害したこともある。そうした歴史を多くのフイリピンの人は忘れているわけではないようだ。

 フイリピンの人の多くはキリスト教を信じている。宗教心の厚いひとたちだ。今度フイリピンへ行ったら、小さな村の、小さな教会を訪れ、その椅子に体をゆだねて、しばらくいろいろな瞑想にふけっていたいと思っている。

 名所旧跡を訪れるだけが旅ではない。どんな小さなささやかな世界にも、そこに生きる人々の歴史と哀感がしみついていて、静かに心を澄ませれば、何かが心を満たしてくれる。旅の楽しみは、こんなところにある。


2006年04月25日(火) 貯金本で世界旅行

 以前、長女が妻と私に「貯金本」をプレゼントしてくれた。見かけは本だが、実は各ページには500円玉が20枚ずつ埋め込まれるようになっている。すべてのページが埋まれば、10万円たまる。妻は半年で10万円を貯めて、友人のFさんと台湾旅行に行った。

 去年、私は単独でセブへ行き、Fさんのご主人も単身で今年の1月にセブへ行っている。そこで今度は留守を預かったもの同士が一緒に海外旅行をしたというわけだ。私も快く妻を送り出した。なにしろ今年の夏に、私は再び単身でセブへ行くつもりだからだ。セブでは英語の勉強をしながら、ダイビングの免許も取りたいと思っている。

 ところで私の貯金本には「世界文学全集1」というタイトルがついている。最初のコインは東京である。そしてプサン、ソウルと続き、世界を一周して、最後はグアム、サイパン、そして「あなたの街」がゴールになっている。

 妻のように勤勉ではないので、私の貯金本にはまだほとんどお金がたまっていない。しかし、今日から、心を入れ替えて、貯金に励もうかと思う。来年の2月までに10万円を貯めて、妻とイタリア旅行をしようと思ったからだ。

 去年は一家4人でタイに行った。長女が大学を卒業し、看護婦になったお祝いだった。私たち一家にとって始めての海外旅行だった。来年は次女が大学を卒業する予定だ。それと私たちの結婚25周年記念の年でもある。

 来年次女が大学を卒業すれば、わが家の家計はずいぶん楽になる。多少倹約すれば、年に2回ぐらいは海外にも行けそうである。青春切符の旅も楽しいが、いずれは世界の鉄道の旅も楽しんでみたいとものだと思っている。


2006年04月24日(月) 韓国の友からの便り

 一昨日、散歩の途中畑に寄った。昨年12月17日に植えた富有柿の「うまがき君」の様子をみるためだ。近くの園芸店で苗木を買ってきて植えてから、もう4ケ月が過ぎたが、あいかわらず変化が見られなかった。

 やはり冬を越せなかったかと、半分あきらめかけていたが、一昨日、まじまじとうまがき君を観察すると、なんとほんのわずかだが木の芽のようなものがふくらみかけている。喜びのあまりおもわずその場に立ち上がって、「やったぜ、うまがき君」と叫んでいた。

 その日の午後、メールをチェックしていると、韓国のPatrickから久々のメールが来ていた。彼からのメールは3月14日に受け取ったきりだから、1ケ月以上間隔があいている。この間、私からのメールを出しても、返事がなかった。

 それまで毎週長文のメールをくれていた。WBCアジアラウンドを前にして、「イチロー選手は韓国でも人気ですよ」というメールももらった。ところが、2/21に福岡ドームで行われた公式記者会見で、イチローは「向こう30年間相手が手を出せないほどの勝ち方をする」と発言した。

 この発言はその後韓国でも報道され、イチローに対するブーイングになった。そうしたなかで、日本が韓国を破り、WBCの初代チャンピオンになった。パトリックからメールが来なくなったのは、こうしたことも背景にあるのかと思った。せっかくセブの英語学校で知り合い、その後、向こうからメールをくれたりして、かけがえのない友人だと思っていただけに残念だった。

 それだけに、パトリックからのメールを発見して、とてもうれしかった。うまがき君のことがあったので、二重の喜びである。久々に来たPatrickからのメールと、私の拙い英文のメールを記念に引用しておこう。

−−−−−−
Hi, shin
I am sorry, nowadays I was really really busy.
I usually go out for meeting our customers so I can't send e-mail to you. sorry^^
I saw your family picture, it's so cool. Is there Thailand?
I would like to go Thailand.
I think your family is very happy.
sorry Shin I have to go out right now...
I'll write e-mail soon
bye~~

−−−−−−
Hi, Patrick!
How are you?
I supposed you were very busy.

And I am very busy too.
That is because I became a HR teacher of the first -year students.
Some of my students are in trouble. so I have to help then in many ways.
What I have to teach them are not only academics.
I have to teach then how to live.
They are very demanded.

Thank you for your email.
I am grad to know you saw my family picture.
Yes, they were taken in Thailand.
And my family is very precious to me.

So much for today.
Please write when you have time.
I hope you will do good jobs and take care of yourself.

From Shin 4/23

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2006年04月23日(日) オカリナの楽しみ

 昨夜遅く、妻が台湾旅行から帰ってきた。名鉄の黒田駅まで迎えに行くと、荷物が倍以上にふくれあがっていた。おみやげをたくさん買ってきたようだ。「あなたにも、すばらしいのを買ってきたわよ」という。

 家について、お土産のお菓子を食べていると、「これがお土産。一番高かったのよ」と箱を渡してくれた。開けると、陶器製のきれいな水鳥だった。よく見るとそれはオカリナになっていた。

 妻は店員がオカリナを吹くのを聞いて、すっかりその音に魅了されたのだという。見た目も綺麗なので、ためらわず、それを私への土産にすることに決めたようだ。どんな音色が出るのだろうと、さっそくためしてみた。

 普通のオカリナと指を置く位置が違っているので吹きにくい。なかなか澄んだ音が出なかった。「ドレミファソラシド」の音だけ確かめて、書棚の中に飾った。吹きこなすには時間がかかりそうだが、それまでは置物として眺めているのもいい。

 私はオカリナをすでに二つもっていた。その一つを取りだして、久しぶりに吹いてみた。「荒城の月」「ドナドナドナ」「隅田川」など。ところが、どれひとつとしてまともに吹けない。やっと吹けたのがベートベンの「喜びの歌」だった。

 そういえば、この一年間、オカリナを一度も吹いていなかった。以前、車で通勤していた頃は、途中で木曽川の堤に車を停めて、毎日のように吹いていたものだ。そのころは10曲以上暗譜で吹くことができた。少し練習すれば、また指が記憶を取り戻すだろう。これからは散歩の伴侶に、オカリナを持っていこうかと思った。


2006年04月22日(土) 姿を消す用水

 妻と一緒に散歩をすると、十数匹もの雀がチュンチュク鳴きながら寄ってくる。その理由は妻が毎日米粒を路肩に蒔いているからだ。妻によると、この雀たちは妻がどこに住んでいるのかも知っているそうだ。

 最近は私が散歩に出ても寄ってくる雀がいる。妻と一緒に歩いていたからだろう。そういう訳で、妻の旅行中は、私が米粒を一握り持参して、いつも妻が蒔いているあたりの路肩にまいてやることにした。

 こうして私は、トビ、シラサギ、五位鷺にくわえて、雀とも顔見知りになった。他に、イソシギやカモやもいる。彼らの元気な姿を見るのも、散歩のたのしみだ。とくに今頃の季節、朝日を浴びながらの散歩は気分がよい。

 この土地に16年以上住んでいながら、私は彼らのことをあまり知らなかった。去年、定時制高校に転勤になって、朝の散歩をするようになって、この土地の魅力にはじめて目を開かれた。たしかにこうして毎日歩いていると、いろいろな発見があり、この土地がますます好きになり、愛郷心のようなものが湧いてくる。

 もっとも、腹の立つことや、悲しいことも目に見えてくる。これまで田んぼが埋め立てられ、用水路が次々と暗渠になっていくのを見ても、何とも思わなかったのに、最近は「あああそこに巣を作っていたイソシギは困るだろうな」とか、「あの用水でいつも餌を探していたシラサギはどうするのだろうか」と気になるのである。

 用水に蓋をして道路を拡張する工事を請け負っているのは、地元の業者らしい。市から工事を請け負い、この辺りの用水を次々と暗渠にしている。以前の私は、道が広くなり、地元の業者が潤うのはよいことだと思っていた。しかし、今はこの現実を辛い気持で眺めている。身の回りから次々と生き物が姿を消し、ゴミをあさるカラスばかりが目に付くのは、とても淋しいことだ。

 私たち夫婦が散歩道にしている用水も、工事が予定されている。先日、散歩をしていたら業者らしい人が測量をしていた。用水が暗渠になると、もちろんそこに生物は住めない。

 用水に日差しが差し込めば、そこに水草が茂り、無数の目に見えないバクテリアが水を浄化する。鯉やフナやザリガニが棲みつき、鳥たちもやってくる。学校の行き帰りに、子供たちはそれを眺め、いのちの美しさやかなしみについて理解をふかめるだろう。

 生活排水は、用水に生き物たちが住んでいれば、彼らによって浄化される。しかし、暗渠ではこれは不可能だ。排水はそのまま川に流れ込み、川に生きるものたちをも滅ぼしていく。そして、川は海に流れ込む。つまり、用水を潰すということは、川を汚染し、海を汚染するということだ。

 やがて、そのしっぺ返しは、人間にふりかかってくるだろう。自然を破壊するということは、自然の一部として生きてきた人間の生活ばかりではなく、その感性をも破壊する。いくら世の中が便利になっても、自然から疎外されて、その豊かな生命との共感を失った人間が、しあわせになれるわけはない。


2006年04月21日(金) 水槽の中の小世界

 妻が旅行中、私が餌をやるのは鳥たちばかりではない。居間の水槽や屋外の3つのバケツには、メダカやドジョウ、ヤマトヌマエビ、スジエビなどがいる。彼らにも餌をやらなければいけない。餌は二種類あって、顆粒状のメダカの餌と、赤虫である。

 ドジョウは4年ほど前、同僚の先生にもらったものだ。メダカは近くの田んぼで取ってきた。家の水槽やバケツでもう何代も代替わりをしている。ヤマトヌマエビもどこかで拾ってきたものが、代替わりをしている。他に名前の分からない小魚もいる。

 スジエビは今年琵琶湖に遊びに行ったとき、立ち寄ったスーパーでパックで売っていたものだ。パックの中でまだ動いていたので、なんだか哀れになり、ついでにポリ容器も買って、そこに琵琶湖の水を入れて放してやった。

 家に帰ってくると、バケツの底で大半は死んでいたので、それは天麩羅のかき揚げにして食べた。それでも数十匹は元気だったので、水槽とバケツに手分けして飼うことにしたのだ。最初は赤虫を食べず、水槽の中のマリモを食べたりしたので、急遽マリモを避難させ、養魚店でスジエビの食べそうな藻を買ってきたりしたが、その後赤虫を好んで食べるようになった。

 赤虫は冷凍してあるので、それを欠片に割って、水槽やバケツに入れてやる。さっそく飛びついてくるのが、ドジョウである。それからスジエビやヤマトヌマエビが動き出す。メダカや他の魚も赤虫が好きなようだ。

 それにしても、妻の動物好きにはおどろく。私は妻のようにこまめに世話を焼く気にはなれない。だだ、その様子を眺めたり監察したりするのは好きだ。ヤマトヌマエビをウイキペディアで調べてみると、こんなことが書いてあった。

<体長はオス3cm、メス4cmほどで、メスの方が大きい。スジエビにくらべると体型は紡錘形に近い。体色は半透明の薄緑色か褐色で、個体によっては背中の真ん中に黄色の細い線が尾まで走る。

 暖流が流れている海に面した、水がきれいな川に生息する。夜になると餌を探して動き出すが、昼間は石の下や積もった落ち葉の中などにひそむ。食性は雑食性で、藻類、小動物、生物の死骸やそれらが分解したデトリタスなど、いろいろなものを食べる。前の2対4本の歩脚の先に小さなハサミがあり、これを使って餌を小さくちぎり、忙しく口に運ぶ動作を繰り返す。また、小さなかたまり状の餌は顎脚と歩脚で抱きこんで食べる>

 ヤマトヌマエビと違って、スジエビは食として好まれるので、琵琶湖だけでも毎年約1,000トンもの漁獲がある。この地方の昔からのおかずの一種類で、今でもスーパーで売っている。スジエビは琵琶湖ばかりでなく、サハリン・エトロフ島・北海道から屋久島まで至るところの湖・池・河川にみられるという。

 なお、水槽の中にはタニシがいて、これが清掃係をつとめてくれている。エビたちも清掃係の一員である。以前はこの水槽のなかに、ヨシノボリもいた。これはインターネットで調べてみると、肉食で獰猛だと書いてあった。そこで、あわててもとの川に返してやったが、愛嬌のある面白い魚だった。

 ちなみに長女の彼氏を、彼の名前にちなんで、私はヨシノボリと呼んでいる。ヨシノボリは今年の春に広島大学を卒業してトヨタに就職した。「お前のヨシノボリは元気か」と訊くと、「ヨシちゃんは、元気だよ」と看護婦をしている24歳の長女が嬉しそうに答える。これは余談である。


2006年04月20日(木) 鳥たちのいる散歩道

 昨日から妻が4泊5日で台湾に遊びに出かけている。しばらくは独身気分である。と、言っても、とくに私の日常が変化するわけではない。同じ時間に起きて、この日記を書いた後は、朝食にトーストを焼き、NHKの朝の連続ドラマを見てから散歩にでかける。

 違うことといえば、散歩の時、鳥の餌を持って出ることだ。まず木曽川の河原に行って、トビに「かしわの皮」をやる。私が餌を水辺の浅いところにそれを投げ入れると、近くの鉄柱で餌を待っていたトビがやがてやってきた。

 このトビは翼の羽が傷んでいる。妻の話によると、カラスたちに襲われたのではないかという。昨日も私がトビに餌をやっていると、カラスたちがやってきた。そしてトビから餌を奪っていく。このあたりはカラスの天下だ。

 妻はこのトビがあわれで、いつもここ河原に来て餌をやっている。妻が旅行中は私がその代役をしなければならない。散歩は手ぶらが一番良いのだが、妻が大切にしているトビなので、餌をやらないわけにはいかない。

 トビに餌をやったあと、木曽川を後にして、用水路に沿った道を歩く。そこに少し前まで数十匹の鯉がいた。産卵のために登ってきたらしい。体長が40センチ以上ある大きな鯉である。ただし、近所の人の話によると、この鯉は食ってもうまくないらしい。この数日、鯉の数は減った。水嵩が少なくなると、酸欠になって大量死することになる。何となくあわれな鯉たちだ。

 用水の所々に鳥がいて、餌を待っている。まず目に付くのが、少し小さめのシラサギで、私たちはこのシラサギを「シロちゃん」と呼んでいる。用水にカナダ産のワカサギを投げ入れてやると、シロちゃんはそれを取りに用水に飛び込む。そのシロちゃんの近くに、カモが二羽いて、彼らもそのおこぼれにあずかる。

 さらに用水を下っていくと、また別のシラサギがじっと餌を待っている。このシラサギは名前がないが、シロちゃんよりは大きめで、引っ込み思案のシロちゃんにくらべると、あまり人をおそれない。妻のことを覚えていて、田んぼでみかけると、「ガァ」と声を上げて寄ってきたりするのだという。妻は嘴の色でこのシラサギがわかるらしい。

 さらに用水を下っていくと、橋の下に大きな五位鷺が一羽いる。そこで、残しておいたワカサギを用水の中にすべて落としてやる。五位鷺は用心深いので橋の下から出てこない。じっと待ちかまえていて、自分の近くに流れ着いた餌を素早く次々と呑み込む。

 その様子を見届けてから、私は用水を離れ、帰路につく。家を出てから1時間近くかかっている。妻は毎日これをやっているが、私にはこんな面倒なことはとてもできない。そもそも私は、魚の生臭い匂いが苦手である。しかし、妻の旅行中は、シロちゃんたちのためにがんばるしかない。

 それにしても、昨年愛犬のリリオとウズラのハルちゃんが死んで、扶養家族が少なくなったと思っていたら、またいつの間にか増えている。これ以上ふえると、なにかと大変である。彼らのための毎日の食費もばかにならない。


2006年04月19日(水) 数式が語る物語

 今週から授業が始まった。月曜日には1年生の自分のクラスの授業があった。プリントをくばり、まずは生徒に解かせてみる。プリントにはたとえばこんな問題が並んでいる。

 5−3=
 3−5=
(−3)+(−5)=
(−2)−(−4)=

 できる子は10分ほどで解いてしまう。非常勤の先生が1年生の他のクラスを受け持っているが、私のプリントを参考にして同じ様な授業をしたところ、一部の生徒が時間をもてあまして困ったという。

「先生、もっとむつかしい授業をしてください。僕たち二次関数とかも勉強したいんです」とまで言われたという。そうした「できる」生徒たちにとって、「5−3」などという小学生にでも解ける問題は自分たちが馬鹿にされたようで面白くないのだろう。

 さすがに「5−3」ができない生徒はいなかった。「3−5」もほとんどができる。3番目の問題は半分ほどの生徒ができる。4番目のタイプ問題になるとむつかしい。しかし、もちろん出来る生徒はいる。そしてやり方がわかれば、他の生徒にも解くのはそうむつかしくはない。

 そこで、問題が簡単だという生徒に質問してみた。
「どうして、3から5が引けるの。その結果が−2ということはどういうことかな。みんなに分かるように、例をあげて説明してくれるかな」

「だから、小さい数から大きい数を引くときはマイナスになるんだよ。そんなこと常識じゃないか。中学校でならったぜ」
「うん、そのとおりだね。でも−5って何だろうね。どういう場合にこんな式があらわれてくるのかな」

 たとえば、「5個のリンゴがあって、3個食べてしまった。残りは何個ですか」と問われたら、「5−3=2」 という式で答えが得られる。だったら、「3−5=−2」という計算が使われるのは、どんな問題の時だろうか。「さあ、わかる人はいるかな?」とクラスに問いかけてみた。

 数式にはかならず、その式で表される「現実」があるはずだ。その現実のことを、私は「数式のストーリー」と読んでいる。数式を見たら「ストーリー」が思い浮かぶようでなければならない。そうでないと、数式は無味乾燥な記号になってしまう。これでは数学は面白くない。

「3−5=−2」については、「アルバイトをして3万円もうかったけど、5万円つかってしまった。さあ、何万円の赤字かな」という風な物語が考えられる。この例を示してやると、生徒たちも次々と例を考え出してくれた。

 最後時間が足りなくなり、私は大急ぎで机の間をまわり、生徒たちのプリントに「検印」をおして歩いた。私の授業はこの検印がないと平常点がもらえないしくみになっている。だから手抜きはできない。「ああ、疲れた。ひさしぶりに頭をつかったよ」という生徒の声が、私の耳にとどいて、私はシメシメと思った。


2006年04月18日(火) 高校時代の読書

 高校に入学したとき、母方の祖父の手作りの机をもらった。それまで私は小さな座り机の下にミカン箱を置いて、腰掛け机として使っていたが、これはあまり見栄えのよいものではなかった。だから祖父から本格的な作りの机を貰ったときはうれしかった。

 この机とあわせるようにして、スチール製の本棚を買った。机と本棚がそろって、祖母と共用していた私の四畳半の部屋も少しアカデミックな雰囲気になった。机の前に坐っていると、何となく自分が偉くなったような気がしたものだった。

 高校時代の私は、学校から帰るとまずこの机の前に座った。そして学校の図書館で借りてきた本を読んだ。夕食を終えて、風呂に入ったあと、再び机の前に坐った。そしてまた、読書をする。学校の勉強はほとんどしなかったが、とにかく貪るように本を読んだ。

 小遣いはたいてい書物代になった。買うのは安い文庫本ばかりで、これが本棚に並び始めた。私は本棚に並べる前に、背表紙に購入順に番号を付けた。このため、40年あまりたった今も、私の書斎の本棚には、背中に番号が打たれた文庫本が見つかる。

   3.「学生に与う」 河合栄治郎
   8・「少年時代」 トルストイ
  10.「旅人」  湯川秀樹
  39.「創造的進化」 ベルグソン 
  47.「フランクリン自伝」 フランクリン
  50.「ジャン・クリストフ」 ロマン・ロラン
  61.「物理学はいかに創られたか」 アインシュタイン
  67.「車輪の下」 ヘルマン・ヘッセ
  69.「孤独な散歩者の夢想」 ルソー
  79.「人間にとって科学とは何か」 湯川秀樹・梅棹忠夫
  94.弁証法十講 柳田謙十郎
 
 この他、デカルトの「方法序説」や、ラッセルの「数理哲学入門」も探せばあるはずである。残念なのは、1番目と2番目の蔵書が欠けていることだ。これも探せばどこかにあるのかもしれない。

 背表紙に番号を付ける習慣は大学に入ってからもしばらく続いたから、いったい高校時代にどれだけの本が本棚に並んでいたか、実のところあきらかではない。おそらく200冊ほどではなかったろうか。

 ちなみにジイドの「一粒の麦もし死なずば」は246番だが、これは大学生になって読んだ記憶がある。269番の「科学と仮説」(ポアンカレ)もそうだ。いずれも福井の「品川書店」のカバーがかかっているので、大学1年生の時、福井に帰省して読んだ本だろう。これらの本も処分することになるが、その前にもう一度読み返してみたい。また、読み返すだけの価値のある本である。

 本棚を見ていて思うことは、青春時代になんという豊かな読書体験をしていたかということだ。そして現在でも、読書は私の最大の喜びである。私は本さえあれば人生に絶望しない。これも高校時代に「読書」という、よき習慣を身につけたたまものだ。そして、この習慣を私にプレゼントしてくれた、祖父の手作りの大机に感謝したい。


2006年04月17日(月) 蔵書の思い出

 毎月資源ゴミの日に、大量の書物を処分している。おかげで、この2年間で蔵書は3分の1になった。処分した蔵書の中には、私が宝物のようにしていた「ドストエフキー全集」などもある。後ろ髪を引かれる思いだったが、これを棄ててから、蔵書の整理がはかどった。

 先日、河出世界文学全集と岩波基礎数学講座を棄てる決心をした。大手の古本屋に電話を入れ、これを引きとってもらおうと思った。できれば他の書物も一緒に引き取ってもらえるとありがたい。これで一気に蔵書の処分がすむかも知れない。

 ところが寸前になって、妻からクレームがついた。河出世界文学全集は新婚の頃、何十万円というローンを組んで購入したものだ。苦しいなかで家計をやりくりして買ったものを、ただ同然に古本屋に渡すのは、やはりもったいないというわけだ。

 妻の反対で、私の一気に蔵書を0にするという計画はとん挫した。その後遺症で、4月はとうとう資源ゴミの日に本をださなかった。もっともこれは、新学年がはじまって、私にその心理的な余裕がなかったこともある。なにしろ愛着のある蔵書を棄てるということは、かなりの心理的エネルギーが必要である。

 現在残っている蔵書の中の大物は、岩波書店の「志賀直哉全集」だが、これは大学時代、母に頼んで近所の書店から注文購入したものだ。私は「夏目漱石全集」もおなじ方法で手に入れた。しかし、これらの代金は支払った覚えがない。正確に言うと、これは父の給料で買ったわけで、所有権は私にはない。

 私が大学生の頃、弟はまだ中学生だった。父は警察官をやめて、自動車学校の教員をしていた。父のサラリーで私を金沢に下宿させ、弟を大学の附属中学に通わせるのは大変だったにちがいない。そうした家計をやりくりして、母は高価な文学全集を私のために買ってくれたわけだ。

 夏目漱石全集は福井の実家においてあるが、志賀直哉全集はいま私の手元にある。これを処分するわけにはいかないので、福井の実家に返そうと思っている。父が死んで、弟の代になって、家も移転した。なじみのない家でも、夏目漱石と志賀直哉の全集が置いてあれば、なんとなくなつかしい気持もおこるかも知れない。


2006年04月16日(日) イソシギのいる散歩道

 最近、雨の日が多い。春雨であり、菜種梅雨ともいう。雨の中を傘をさして散歩する。散歩しながら唄をうたったり、俳句を捻ってみたりする。高血圧で悩む私には、こうして歩くことがお金のかからない贅沢な健康法である。

 歩きながらまわりの風景を眺め、思索をする。たとえば、去年は3羽のヒナがいた田んぼで、今年もイソシギのカップルがやかましく鳴いている。これは卵をかえそうとしているだろう。去年、このイソシギをテーマにして日記をかき、それを朝日新聞に投稿した。それは、こんな文章である。

 −−−−子育てに成功、イソシギ一家−−−−−

 毎朝、散歩をしている。田んぼに早苗がすくすくと育ち、民家の軒先にはアジサイが咲き始めた。木曽川が近いせいか、カモやシギの姿もみかける。

 畑の中にイソシギの巣があり、2カ月ほど前にヒナがかえった。私が近づくと、親鳥が「チッ、チッ、チッ」と警告し、ヒナたちが田んぼの方にはねるようにして、かけていく。

 やがてヒナ鳥も大きくなり、空も飛べるようになった。そして突然、畑からイソシギの親子の姿が消えた。そのかわり、近くにイソシギのものと思われる羽が落ちていて、草陰には黒猫がいた。

 私は胸騒ぎを覚えた。しかし、木曽川の河原に見覚えのあるイソシギの親子がいるのに、胸をなで下ろした。親子は舞い上がると、あいさつでもするように私の頭上をかすめていった。

 田んぼが埋められ、畑も姿を消す中で、イソシギや他の鳥たちも、安心して子育てできる環境ではなくなりつつある。それでも、人家のすぐ近くの小さな畑で、めげずに立派に子育てを成功させた彼らに、エールを送りたい。

−−−−−−−−−−−−

 この文章は昨年6月23日の朝日新聞の「声」の欄に掲載されている。2ケ月前というと4月の下旬だから、もうそろそろヒナが孵ってもよいころだ。まだヒナの姿見ていないが、その田んぼの近くを通るときは目を凝らす。そうすると、イソシギのカップルの声がひときわ高くなる。

 イソシギの親鳥たちは、巣に近づくものは人間であれ、犬であれ、甲高い声をあげて、果敢に攻撃してくる。私の愛犬も襲われたし、近所のドーベルマンのような黒い大きな犬にまで襲いかかってくる。親鳥たちは子を守るために必死である。

 イソシギの母性愛、父性愛の強さには脱帽だが、これは多くの動物がひとしく持っている本能だろう。この本能によって子供たちは保護され、成長することができる。子孫を残すためにこの本能は大切である。

 人間もこうした本能は持っているが、子育てはもう少し複雑なので、本能だけに頼ることはできない。私たちはそれを親やまわりの人々の子育ての姿を通して学習するわけだ。そうした学習を通して、まさに母性愛、父性愛と呼ぶにふさわしい感情を育てる。子育ては、つまり自分を父親として、母親として育てることでもあるわけだ。

 散歩をすると、いろいろなことを考える。そして、散歩の途中考えたことが核になって、それをさらに深めることで、日記の文章ができることが多い。こうして日記を書くためにも、散歩は毎日か欠かせないわけだ。


2006年04月15日(土) 日々是好日

 本格的に学校がはじまって一週間が過ぎた。といっても、この一週間は正規の授業はなかった。新入生歓迎会や、X線、心電図、聴力検査や教科書の購入、その他、教務部や指導部、保健部からの学校ガイダンス(オリエンテーション)が毎日続く。これはこれで担任にとって目の回る忙しさである。

 一昨日はとうとう血圧が160を越えた。ダイエットして10キロ体重を減らして、血圧も10以上落ちて降圧剤を控えていたが、やむなく昨日の朝からこれを復活した。とにかく薬にたよってでも、この急場をしのぐしかない。

 昨日給食をたべながら、クラスの女生徒2人に「始業前15分間読書をするぞ」と言ったら、二人とも「私、家から本を持ってくる」と乗り気だった。今年は私が図書がかりなので、北さんを見習って全校生徒向けに「図書館たより」を発行しようと思っている。

 さて、4月13日の日記を要約した文章を朝日新聞に投稿したところ、今日の「声」の欄にそれが掲載された。全文をそのまま引用しておこう。

 −−−−−愛国心教育は本当に必要か−−−−−

 教育基本法改正に関する与党検討会は、教育基本法の中で「愛国心」を「我が国と郷土を愛する」と表現することで合意した。たしかに利己主義がはびこり、社会が荒廃しているため、「愛国心教育」が必要だと考えられている。

 しかし、考えてももらいたい。社員をリストラする会社に愛社心を持てと言っても無理な話だ。これとは逆に会社が社員を大切にすれば、社員は自然と会社に感謝と愛着をもつはずだ。

 小泉政権は「痛みをともなう改革」を実行し、一握りの勝ち組をつくるために多くの負け組みをつくりだし、深刻な格差社会にした。低所得者が増え、経済的な不平等感が広がった。

 安全で住みよい社会にするためには、この勝者優遇政策を変えることだ。国民に「愛国心」を強要したり、近隣諸国を敵視したりして偏狭な愛国心を煽り立てることでもない。こうした精神主義は現状の改善にはならないし、かえって危険である。

 日本国民はかって「お国のために死ぬ」ことが美徳とされた。そして無謀な戦争に駆り出された。愛国心が叫ばれるとき、「誰が何のために」それを口にしているのか、冷静に考えるべきだろう。

−−−−−−−−−


2006年04月14日(金) 格差の実態

 ビル・トッテンさんがインターネットコラム「温故知新」4/13の中で、「格差社会に変ぼうする日本」と題して、小泉構造改革によって生まれた格差社会を憂えている。少し引用してみよう。

<小泉自民党政府が「改革」という響きのよい言葉を多用して進めている規制緩和と民営化によって、長い時間と税金を使って国民のために作られてきた社会基盤が少しずつ切り崩され、そのサービスを失う者、それによって利益を手にする者と、まさに小泉首相の目指す格差社会に日本は変ぼうしつつある。

 改革という言葉だけを聞くと、現状に満足している一部の既得権益者の持てる権利を、大多数の何も持たない人々の手に移すような印象を与える。しかし実際は、すでに権力とお金を持っている一部の人々の手に、さらにより多くの富を集める仕組みだということは、日本に先んじて民営化や規制緩和が行われてきた国の状況を見れば明白である>

 http://www.nnn.co.jp/dainichi/column/tisin/tisin0604.html#13

 小泉首相にほんとうの愛国心があれば、この国を住み良い平和で豊かな国にしようと考えるはずだ。靖国神社に参拝するのが愛国心だとしたら、これはとんでもない思い違いだ。これについては、昨日の日記に書いたとおりである。

 さて、昨日、妻とランチを食べに入った喫茶店で、週刊ポスト4/21号の「日本全国47都道府県格差の実態ランキング」という記事を読んだ。メモ魔の私が、これを見逃すはずはない。メモに基づいて、格差ランキングを一部紹介しよう。

 まずは有効求人倍率の格差ランキングである。愛知県に住んでいると、企業はどこも人手不足で、景気は回復しているように思えるが、その実態はどうか。

 1.愛知県 1.72
 2.群馬県 1.62
 3.東京都 1.61
 4.福井県 1.43
 5.三重県 1.43
  ・・・・・・・・・・・・・
 47.沖縄県 0.45

 統計を見ると、沖縄や青森、山形などは0.5に満たなくて、愛知県の1/3である。これは大変な格差だといわなければならない。こうした県では当然県民の所得も低く、貯蓄も少ないだろう。そこで、貯金額の県別ランキングを見てみよう。

 1.奈良県 1984万円
 2.香川県 1828万円
 3.三重県 1772万円
 4.福井県 1762万円
 5.東京都 1729万円
  ・・・・・・・・・・・・・・
 47.沖縄県  450万円

 貯蓄額の格差は奈良県と沖縄では実に4倍以上である。とてもこれは同じ日本だとは思えない。もっとも、これは貯蓄額の平均である。その地域の中でも格差が拡がっている。その実態を見るには、たとえば就学援助率を見ればよい。援助率の低い順にランキングを書いてみよう。

 1.静岡県 4.06パーセント
 2.山形県 4.78パーセント
 3.栃木県 4.92パーセント
 4.茨木県 5.11パーセント
 5.福井県 5.37パーセント
  ・・・・・・・・・・・・・・・
 47.大阪府 27.87パーセント

 これでみると、大阪府で就学援助を受けている割合は児童4人に一人以上であり、これは静岡県の6倍以上の高率だということがわかる。それだけ、大阪や東京のような都会では低所得者の割合が大きいということだ。これだけ所得格差が広がると、犯罪も多くなるのではないか。

 そこで、次に凶悪犯罪の発生率を見てみよう。人口1万人あたりの凶悪犯罪発生率が0.8と低いのは、島根県、福井県、徳島県、秋田県、山形県、鹿児島県である。これにたいして、最も発生率が高いのが大阪府で、これが2.8もある。大阪は島根や福井に比べて、4倍も治安が悪いわけだ。

 格差ランキングを見ていて気がついたことがある。私の故郷である福井県がいずれもランキングの優良トップグループに君臨していることだ。もし「暮らしやすさ総合ランキング」のようなものがあれば、福井県がまちがいなく全国一に選ばれるのではないだろうか。ついお国自慢をしてみたくなるが、福井県に原発が多いことは遺憾なことである。


2006年04月13日(木) 国を滅ぼす愛国心

 12日、自民、公明両党の教育基本法改正に関する与党検討会は、教育基本法の中に、「愛国心」について盛り込むことで合意した。その表現は、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」ということだそうだ。

 私は「愛国心」を法律で国民に押しつけるのは近代法の精神からしても、また憲法に保証された「思想・信条の自由」に照らしてみても、まちがっていると思っている。愛国心は法律で強要して身にそなわるような安易なものではないし、そもそも愛国心にもさまざまなものがあり、その定義も人によって違っている。

 その上、「愛国心」が大切だと我々にお説教する政治家や企業人に限って、汚職や脱税をしていたりしている。平気で伝統や文化を破壊し、わが国土を破壊している。いわば泥棒が「泥棒はいけません」と言っているようなもので、「愛国心」を口にする人間を見たら、まずその人間は「愛国者」でないと見るべきだろう。

 それでは今何故「愛国心」が問題にされているのだろう。それは世の中に利己主義がはびこり、社会が荒廃してきたからだろう。この自分本位な利己主義を克服するのに、「愛国心教育」が有効だと考えられている。

 しかしなぜ、世の中に我が儘勝手なエゴイズムがはびこり、犯罪や脱法行為が幅をきかせているのか。なぜ国民はモラルを喪失しつつあるのか。助け合いの心が稀薄になり、ひきこもりや自殺者が増えているのか。

 もちろんこれは私たちが愛国心を喪失したからではない。むしろアベコベで、こうした索漠とした社会の現実があるから、私たちはこの国や社会に愛着をかんじられなくなったのである。平気で社員をリストラする会社に愛社心を持てと言ってもむりだ。そんな会社の経営者が従業員に愛社心を強要したら、かえって反発するだろう。会社が社員を大切にすれば社員は自然と会社に感謝と愛着をもつはずである。

 政治家に要求されるのは、こうした社会や人心の荒廃がどこから生まれてきているかを正しく分析し、その原因をつきとめて、これを改善することだろう。「愛国心」などという身勝手な精神主義ではなく、社会の現実そのものに目を向けることだ。日本の政治家に一番必要なのは、この国をそのような住みやすい社会にしようという意味の「愛国心」ではないか。

 小泉政権は「痛みをともなう改革」を実行し、人々を生存競争に駆り立て、一握りの勝ち組をつくるために多くの負け組みをつくりだし、日本を深刻な格差社会にした。低所得者は増え、経済的な不平等感がひろがり、まさに今私たちの社会はその安定を失なおうとしている。そして、ここから自然の道理として人心の荒廃が起こってきた。

 したがって、日本を安全で住み良い社会にするために必要なことは、この自由競争の美名ももとに行われている弱肉強食の勝者優遇政策を変えることであって、国民に「愛国心」を強要することではない。また、このような欺瞞に満ちた愛国心へと人々を煽り立てるために、近隣諸国を敵視することでもない。

 このような間違った方策を続けていれば、この国の現実はますます貧しくなり、人々の心はますます荒廃して、好戦的で殺伐としたものになる。日本国民はかって「お国のために死ぬ」ことが美徳とされた。そして無謀な戦争に駆り出された。愛国心が叫ばれるとき、「誰が何のために」それを口にしているのか、冷静に考えるべきだろう。


2006年04月12日(水) 超初心株日誌(4)

 妻から100万円の資金を借りて始めたネット株も、4ケ月目に入ろうとしている。毎月1回は「超初心株日誌」と題して、その結果を報告するつもりだ。さて、4月11日、10時現在の持ち株の損益は次の通りである。

 SBIホールディングス  −2200円
 ヤマハ  23000円
 スターバックス  4300円
 豊田合成  50500円
 ヤクルト  34000円

 これに、すでに終了したライブドアの

 ライブドア  −55900円

 を加えると、現時点での損益は次のようになる。 

 損益合計  53700円 (利益率 5.37パーセント)

 SBIホールディングスの株は、2月7日に7万円で買った。私の戦略はこれを8万円で売り、1万円丸儲けするということである。しかし、どんどん値を下げて、一時は60000円にまでなった。ところが4月になって急騰した。

 72000円を記録したときには、おもわず売り払って2千円の利益を確保したいと思ったものだが、ここは当初の戦略を堅持することにした。株価はその後、また67800円に下げた。やはり投機模様の相場である。これからもアップダウンが続くと思うが、一喜一憂することなく、今後も「8万円で売り」という方針を堅持しようと思う。

 ある本を読むと、アマの投資家の利点は、短期的に利益を確定しなくてもよいところだと書いてあった。プロはそういうわけにはいかず、短期に成果を出さなければならない。そのため無理な取引もする。ゆとり資金で運用するアマチュアはこの点、大局的な投資が出来るので有利である。

 SBIホールディングスやライブドアは損益だが、豊田合成、ヤクルト、ヤマハは優良株だ。ちなみに豊田合成は1月31日に229500円(100株)で買った。これが4月11日現在、280000円になっている。この2ケ月半で20パーセント以上も上がっている。

 一部にアメリカ政府がイラン攻撃を計画しているという情報が流れた。アメリカの兵器産業は10年以内に戦争をしなければならない体質になっている。なぜなら近代兵器の賞味期限が10年だからだ。

 私はイラン攻撃はもう少し先ではないかと踏んでいる。また、戦争によって必ずしも株価が下がるとは限らない。アメリカにとって戦争は景気振興策であり、株価浮揚策でもあるからだ。しかし、言うまでもないことだが、景気を刺激し、株価を上げるために戦争をするのは間違っている。


2006年04月11日(火) 競争から共創へ

 去年の暮れの12月28日、「New Wave」という雑誌の編集をしているFさんから、突然、メールをもらった。ちなみにこの雑誌は全日本電設資材卸業協同組合連合会の会報誌で、毎月2720部を発行し、北海道から沖縄までの47都道府県の会員企業と関係メーカーが購読しているのだという。メールは執筆依頼だった。

<テーマを「棲み分け」もしくは「共生」と決め、ネット上でいろいろと検索をしました。そこで、先生の「共生論入門」を見つけ、面白く読ませていただきました。私どもの会員企業は同業者同士ですから競合する関係にあります。そこで、このような理論を知って貰いたいと思った次第です>

 「共生論入門」について12000文字前後、ホームページに載せている文章を編集したもので結構だというので、ありがたくお受けすることにした。執筆料も5万円くれるという。おもわぬお年玉をもらったような気分だった。

 お金はともかく、私の持論である「共生論」を一人でも多くの人に読んでもらえるのはうれしいことである。業界の会報誌だから企業の経営者の目にもとまるだろう。私の文章が今後の企業経営の参考になれば、ありがたいことである。

 こうして私の「豊かな共生社会をめざして」という文章が「New Wave」の3月号に掲載された。2月の末に送られてきた雑誌を見ると、巻頭近くに私の文章が12ページに渡って掲載されていた。そして「競争から共創への脱却」とサブタイトルが付けられている。これは編集者のFさんが考案してくれたもので、さすが専門家だけあって、「共創」という言葉が光っている。その文章はHPでも読むことができる。

http://hasimotohp.hp.infoseek.co.jp/kyouseisyakai.htm

 HPに文章を書いていると、いろいろな人からメールをもらう。その多くは「共生」という思想への共感である。私も適度な競争は必要だと思うが、そのためには社会に共生という基盤がなければならない。文明や文化というものは、本来こうした共生という大地の基盤の上に建設されるものである。こうした「共生哲学」を日本の経済学者や政治家、官僚にも大いに学んで欲しい。

 先日MLのオフ会でお会いした岡本三夫さんは、大学ではじめて「平和学」という講座を開いた人である。現在「平和学」の講座は日本の大学に40ほどあるという。そして彼が会長を務めた「日本平和学会」には、現在800人以上の研究者が入会し、春秋二回の研究大会で活発な討論を繰り広げているという。

 「平和学」とならんで、「共生学」もまた日本の大学で教えられるようになるといいと思う。日本共生学会ができて、そこに何百、何千という生物学者や教育学者、経済学者、政治学者たちが集うようになったら素晴らしいことではないだろうか。


2006年04月10日(月) 共生原理に基づく政治

 昨日は青春18切符で、ML「no more war」のオフ会に出席するために、長浜まで行ってきた。踏切事故などでダイヤが乱れて集合時間に30分以上遅れたが、主宰者の西羽さんが駅の改札口で待っていて、会場のロイヤルホテルまでタクシーで送ってくださった。

 出席者は私を含め12人だった。一番の年長者はシベリアに3年半ほど抑留されていた大正7年生まれの木村さんである。心臓で20日間ほど入院していらしたが、ご家族の反対を押し切ってこの会に参加してくださった。

 この会をお世話してくださった元校長先生の垣見さんもかなりの年輩だが、まだまだお元気で、海軍での実体験をいろいろ話してくださった。断末魔の部下が目の前で「おかあさん」と口にしながら息を引きとるのを何人も見たという。こうした話は本で読んでいたが、体験した人からじかに聞くととても心に響くものだ。

 海軍では英語が飛び交っていたというのも、意外なことだった。男ばかりの世界だから、軍港に帰ってきて岸壁に女性の姿を見ると、「ウがいる、ウがいる」と大騒ぎになったという。「ウ」というのは、「ウーマン」で女性の隠語だったらしい。

 男女共学ではないので、女性と交際する機会はほとんどなく、「愛する女性のために死ぬ」などということは映画の中だけの話ではないかということだった。そんなセリフが吐けるのは「不良青年」だけではないかという声があちこちからあがった。中でも長岡さんのうぶな体験談が面白かった。

 私の隣の席には「平和学」の泰斗でいられる岡本さん夫妻が坐っておられ、「平和の反対は戦争ではない。暴力だ」という「平和学」の基本からはじまって、戦争と経済の問題などいろいろと啓発的なお話を聞くことができた。会食をしながら、二時間あまり楽しく過ごした。

 オフ会の後、桜見物をかねて駅の方までゆっくり歩いた。残念ながら桜はまだ2分咲きである。その桜を眺め、戦争と平和についていろいろと考えた。小泉内閣になって、靖国参拝をめぐり近隣諸国との関係がギクシャクしている。

 あたらしく民主党の代表になった小沢さんは、NHKなどのテレビ番組に出演して、小泉首相の靖国神社参拝を批判し、A級戦犯の分祀(ぶんし)を求める意見を述べている。

<戦争を主導した大きな責任がある人たちは、靖国神社に本来祭られるべきではない。たまたま神社の形を取っているが、戦没者の慰霊のためのものだ。戦争で亡くなった人のみ霊を祭る本来の姿に戻して、天皇も首相も堂々と行ける靖国神社にすればいい>

http://news.goo.ne.jp/news/kyodo/seiji/20060409/
20060409a1790.html

 小沢さんのこの姿勢を評価したい。小沢さんは先日行われた代表選でも、こんな演説をしている。

<日本は今、でたらめな小泉政治の結果、屋台骨が崩れ、迷走を続けています。それを立て直すには、明確な理念と設計図が不可欠であります。

 その理念は、共生、共に生きるということであります。人間と人間との共生が平和の問題であり、人間と自然との共生が環境の問題であり、その両面で日本が世界のリーダー役を果たしていかなければならないと考えております。

 市場万能主義が世界全体を覆って、ともすれば地球環境や人の命よりもお金や利益が優先されがちな昨今の日本社会や世界の中で、私たち日本人は千年以上前から、共生の知恵として、「和」の文化を築いてまいりました。

 それだけに私は、共生の理念と政策を世界に発信できる能力と資格が、日本人には十分にあると考えております。特に人間と人間との共生、いわゆる平和の問題について言えば、日本国憲法の理念に基づいて国連を中心とする安全保障の原則を確立するとともに、日米関係を基軸にしながらも、中国・韓国をはじめとする近隣諸国との関係を改善して、アジア外交を強化しなければならないと思います>

http://eritokyo.jp/independent/nagano-pref/dpj-col00102.html

 小泉政権のもとで、何かと競争原理がのさばる世の中になった。しかし、競争原理だけでは人間はやっていけない。政治に大切なのはむしろこれに対抗する「共生原理」だというのが、私の一貫した持論だが、野党第一党の党首がこうした認識を公にしたことはとてもうれしいことだ。小沢民主党に期待したいと思う。


2006年04月09日(日) 敦賀の思い出

 昨日は敦賀に桜を見に行った。この春、青春切符18切符を使った旅は、小浜、高山、福井についで4回目である。今日は私が参加しているML「no more war」のオフ会で長浜に行くから、これで5回すべてを使い切ることになる。

 木曽川駅10時09の電車に乗ろうと家を出ようとしたら雨が降ってきた。黄砂混じりの雨だ。傘をさしながら駅まで20分ほど歩いた。毎日自転車で通勤している道である。考え事をしていたせか、駅の前を通りすぎて、自転車置き場にきていた。

 昨日は日記に「よき習慣が大切だ」と書いたが、習慣にしたがっているとこうした間違いをすることもある。それにしても、このうかつさに自分ながらあきれた。急いで駅に引き返したので、電車に間に合った。

 岐阜、米原、長浜で乗り換えて、敦賀に着いたのは12時23分だった。さいわい雨はあがっていた。傘を杖代わりにして、駅前から気比神宮の方にのんびり歩いた。土曜日だというのに街は閑散としている。

 腹が空いていたので、まずは神宮の近くのヨーロッパ軒に入って、好物のカツ丼を食べた。これが780円である。腹ごしらえが終わり、一息ついたところで、桜並木の道を海の方に歩いた。桜は見頃で美しかった。海まで、桜並木が続いている。

 ふるさとの海まで続く桜かな   裕

 敦賀の海は少し荒れていた。海を眺め、運河にそって咲いている桜や、そこに繋がれている漁船を眺めながら裏通りの道をまたしばらく歩いた。そうするといろいろな思い出が浮かんできた。

 小学校の頃、私たち一家は小浜に住んでいた。その頃、父の同僚の結婚式が敦賀であった。それが敦賀との最初の出会いだった。それから、教員になった年に、敦賀でお見合いをした。相手は敦賀の小学校の先生だった。もう27年前の思い出である。結婚してからは家族で海水浴に来たこともある。

 とくに私が好きなのは気比神宮で、境内の庭にくると気持が落ち着く。池に近づくと、大きな鯉が何匹も集まってきた。芭蕉の像や句碑のある境内を散歩し、いつか妻と二人で眺めた桜の下で、しばらく時間を潰した。


2006年04月08日(土) 前途多難な門出

 いつも出勤電車のなかで英語の文章を覚えるようにしている。そして学校につくやいなや、それを紙に書き下す。そしてスペルの違いがないかどうか点検する。まちがった単語は紙に何度も書き直す。さらに、時間をおいて帰りの電車のなかで再び文章を思い出す。こうしてとにかく丸ごと英文を暗記する。

 文章は全部で100ほどある。これをすべて覚えれば、まずは英語を話したり、書いたりするのに不自由はないはずである。しかし、私は記憶力が人並み以上に劣っている。覚えたと思っても、数日前の文章がもう思い浮かばない。

 こうした記憶障害にもめげず、去年一年間、これを根気強く続けた。現在は3周り目を学習中である。3回目になると、さすが文章は15分もあれば覚えてしまう。残りの時間は好きな読書をしている。現在読んでいるのは「湛山回想」(岩波文庫)だ。石橋湛山の自叙伝だが、これを読むと戦前の日本がわかって面白い

 昨日はこれらを中断して、クラスの23名の生徒の名前を覚えた。教室の座席を思い浮かべ、そこに坐っている人の名前を思い浮かべる。入学式のあとHRが一度あったきりなので、ほとんど顔は浮かばない。それでも名前だけは覚えた。

 昨日は5時15分から最初のSTがあった。教室に行くと、半分ほどの席しか埋まっていない。昨日あれほど「休むな」「遅刻するな」と言ったのにこの状態である。少し残念だが、それは顔に現さずに、黒板に「貴重品を持って食堂へ」と書いてから、出席している十数名の生徒たちを食堂に引率した。

 食堂の座席はクラスごとに別れている。私は去年は職員席でおかずだけを軽く食べていたが、昨日は自分のクラスの席に行って、生徒たちと時間をかけて食べた。女子は女子たちでもう仲良く食べ、賑やかにおしゃべりしている。男子はおしだまって食べている。その男子の中にはいり、周囲の何人かの男子と話をした。

「君の名前は、だしかK君だったね」
「そうだよ。もう覚えたの」
「いや、まぐれだ。適当に言ったらあたった」
「ほんとかよ」

 その生徒は二年前に中学を卒業している。いわゆる過年度卒の生徒だ。体が大柄で、性格も明るそうだ。「このクラスで誰が一番年上かな」と聞くので、生年月日を聞いて、「多分君かも知れないな。同い年の子が3人いるよ」と答えた。一応、そうしたデーターは頭に入っていた。ちなみに中学時代に登校拒否ぎみだった生徒が6名ほどいる。

 K君は最近までコンビニで働いていたという。時給を聞くと、「安いよ、760円くらい」と答えた。定時制高校に入学がきまって、勤務時間の関係で、コンビニを辞めたらしい。現在求職中だという。

 K君のとなりに坐っていたO君も負けずに体は大きかった。この子は柔道が好きらしい。無口だが性格はやさしそうで、私が話しかけると、はにかんだような微笑を浮かべていた。この子はガソリンスタンドのバイトが決まっているのだという。「時間は大丈夫か」と訊くと、「大丈夫です」という答えが返ってきた。

 このあと教室にもどり、再度出席を確認してから、貴重品を持って体育館へ行くように指示した。ところが、ひとりの女子が、「私の体育館シューズがありません」と言ってきた。昨日ロッカーに入れたのになくなっているのだという。

 そこで他のロッカーを全て空けて、そこに残っているシューズの名前をすべて確認した。そうしたら、先ほど食堂で話をしたK君のシューズがあった。出席番号がちょうど10番ちがっていたから、きっと間違って持っていったのだろう。

「今頃体育館でこまっているんじゃないかな」
「そうかな」
「そうに決まっている。K君にこれを渡して、君のを取り返してやろう」

 果たして、体育館ではK君が彼女の小さなシューズを手に持ったまま立ち往生をしていた。これで一件落着、ほっとした。再び体育館で出席を確認したが、人数が教室よりも少なくなっている。式が始まってからやってきた生徒が4,5人もいた。

 去年留年したT君とFさんも遅れてやってきた。そして傍若無人に周囲と話している。しかも式の後、教室には入らずにまたどこかへ姿を消してしまった。どうもあまり成長していないようだ。また今年も同じ事を繰り返すのだろうか。

「この4月と5月が勝負だぞ。遅刻や欠席をしないためには、お昼働くなりして、いいリズムをつくろう。いい習慣を作るのに最初は少し努力しなければならないが、それが出来てしまえば、あとは大丈夫だ」

 帰りのHRで、残っている生徒を相手にこんな話をした。人生を楽しく過ごす一番楽な方法は、「よき習慣をつくること」にある。このことをこれからも、子供たちに根気よく訴えかけていこうと思っている。

 昨日のわがクラスの出欠状況は「欠席2,遅刻8、早退2」だった。欠席した2名に電話したが、一人とは連絡がとれず、もう一人は母親に「欠席連絡をしたはずですが」と少し強く言われた。忙しさの余り失念していたらしい。


2006年04月07日(金) 私も携帯族

 友人の北さんが若者のケータイ漬けに警鐘をならす投書を朝日新聞にした。それをうけて、4月3日の朝日新聞の「社説」にその投書がとりあげられていた。

<本紙の名古屋本社版「声」欄で、岐阜県の高校教師がこう訴えていた。テレビ機能が加われば、若者の「ケータイ漬け」が加速し、思考力や忍耐力が低下する。読書や対話の時間を奪うな、と。同感する人も少なくあるまい>

 最近は若者ばかりではなく、おじさんやおばさんも電車の中や駅のホームでいじっている。あまり見栄えのよいものではない。なんでも現在日本には9千万台もの携帯があるそうだ。小学生でさえ持っている時代である。

 これが子どもの脳の発達に深刻な影響を与えるのではないかと心配である。いっとき、「ゲーム脳」という言葉が流行ったが、「ケータイ脳」というものが出現するかもしれない。そうでなくても、現代社会は携帯のおかげで大人も子どもも、すいぶん忙しくなったような気がする。その分、じっくり一人で深く考えることができなくなる。

 私は携帯を持ちたいとは思わない。電話でさえなければよいのにと思っているくらいだ。携帯に縛られる生活などまっぴら御免である。あんなもの一生持つものかと思っていたが、4月から1年生の担任をすることになって、生徒や保護者との連絡用に、やむをえず購入することになった。

 先日、長女につきそってもらって、妻と3人で近所のボーダーフォンの店に買いに行った。家族割引で2代目は基本料金が安くすむというので、妻も一緒に買うことになった。少し古い型を購入したので、携帯そのものの本体は0円だという。これはありがたいが、1分間で40円の通話料金には驚いた。ただし、メールは安いらしい。

 昨日、入学式の後、教室で生徒たちに携帯の電話番号とメールアドレスの書いてある名刺を配った。「無断で休むんじゃないよ。電話代が高いと思ったら、メールでいいから連絡するんだよ」と念を押した。名刺の裏側に、「1年3組、3つの約束」として、「休まない」「タバコを吸わない」「みんなで支え合おう」と印刷し、このことについても話した。

 そのあと保護者との懇談の席でおなじ名刺を配ると、一人のお母さんが携帯をとりだして、アドレス帳に登録していた。そのお母さん(じつはPTA会長さん)が、「先生、メールアドレスが違っていますよ」という。なるほどvodafoneがvodefoneになっていた。早速その場で訂正して貰った。

 嵐のような一日が終わって、仕事から解放されると、にわかに空腹を覚えた。お昼の12時前に食べた後、夜の8時過ぎまで何も食べていない。1日2食に馴れていても、さすがに腹が減った。さいわい同僚のS先生から食事に誘われていたので、一緒に食べに行くことにした。

 S先生は職場では貴重な40代の先生で、毎日、熱心に部活の指導をしている。「グランドにいますので、いつでも連絡下さい」と言われていたので、私はトイレに行ってやおら携帯を取り出した。実は携帯で電話をするのは、娘にレクチャーを受けて以来始めてである。

 いろいろと試行錯誤し、ようやく繋がったと思ったら、女性の声である。「ああ、あの、もしもし・・・」と言ったきり絶句していたら、「あなたなのね」と妻の含み笑いが聞こえた。どうやら間違って自分の家に電話したらしい。その後、ようやくグランドのS先生に繋がった。

 その夜はS先生と煮込みうどんを食べながら、彼から借りた「北の国から」のドラマを中心に、いろいろと話をした。S先生は国語科の先生である。「好きな作家を3人あげる誰ですか」と聞かれたので、「ドストエフスキーが一番です」というと、「僕もそうです」という。それからお互いのドストエフスキー体験で盛り上がった。

 S先生は指導部長の代理をしながら、3年生の担任をしている。彼は毎日「学級通信」を発行している。私はこうして毎日日記を書いているが、毎日学級通信を発行する自信はない。しかし少し落ち着いたら、私もこれに挑戦してみようと思った。

 食事の後、S先生に地下鉄の駅まで送ってもらった。S先生はこのあとグランドで野球部の部活を続けるのだという。定時制には、部活が楽しみで学校に来ている生徒もいる。学校を続けるためには、どこかに心の拠り所になる「居場所を」を持つことが必要だ。S先生は試合や練習で土日がつぶれることが多いようだが、こうした熱心な先生によって、定時制が支えられている。

 昨夜はいつもより遅く、11時をかなりすぎて帰宅した。妻が待ちかまえていた。「間違い電話をしたわね」と言うので、「うん、携帯はむつかしい」と照れ笑いをすると、「いったいどなたにお電話する予定だったのでしょうね」と言われてしまった。携帯電話は誤解のもとにもなるので、気を付けないといけない。こうして長い一日が終わった。


2006年04月06日(木) 今日は入学式

 今日は入学式。どんな生徒たちと巡り会えるのか、すこしどきどきしている。不安と期待のいりまじった複雑な気持だ。今年は3クラスある1年生の担任で、学年主任も兼任しているので、とくに緊張し、胸がときめく。

 定時制の担任は以前に8年間連続で経験した。1年生も2回ほど経験している。1年生から4年生まで学年主任として持ち上がったこともあるが、その頃とはずいぶん生徒も学校も変わっているし、私自身もかわっている。また、初心にもどり、がんばるしかない。

 私のクラスは男子14人、女子9人で、あわせて23人である。クラスとしてはこのくらいの人数がちょうどよい。定時制高校の生徒は、一人一人それぞれに問題を抱えている場合が多いし、家庭環境も十分でない場合がある。成績面だけではなく、生活面の指導や心のケアも大切になってくる。

 何事も初対面の印象が大切である。生徒にも親にも信頼してもらえる教師であるためには、こちらから心を開いていかなければならない。入学式の後のHRや、その後に予定されている保護者との懇談を充実させようと思っている。

 私が生徒や親たちに最も語りかけたいことは、「学校は教師と生徒がともに学び、ともに生活する場所だ」ということだ。とくに「ともに生きる」ということが大切ではないかと思っている。お互いがお互いを支え合う中で、人間は生きる勇気や元気をもらい、また与え合うことができる。そうしたことを、私自身の体験談などを交えながら語りたいと思っている。

 生徒たちにとって、学校や教室は公共の空間であり、「学びの場所」である。ただの「遊びの空間」やサロンではない。そのことをふまえた上で、教室はそこにくれば心が慰められ、あたためられるような「居場所」であってほしい。そして多くの生徒が学校に居場所を見つけ、人間的に成長して、進級し、卒業してほしい。

 私はそのための環境作りや援助をしたい。そして、できればこの学年を4年間もちあがりたいと思っている。4年間で何か心に残る学年にして、私自身も4年後に、この生徒たちと一緒に「学校」を卒業したいと思っている。

 今日はその大切なスタートの日だ。とはいえ、あまり力みすぎてもいけない。昨日は生徒用のロッカーを運んでいて、腰を痛めてしまった。そのときは何でもなかったのだが、帰りの電車の中で痛み出した。ゆっくり風呂に浸かり、はやく寝た。さいわい、今朝起きたらよくなっていた。体力は衰えたが、その分を知恵とハートで補いたい。


2006年04月05日(水) 桜の木がなくなった

 最近、午前中に学校に出勤するようになって、朝の散歩ができなかった。昨日も二次の入学試験があり、午前中出勤だったが、その前に時間をつくって散歩に出かけた。木曽川の桜を見たかったからだ。

 木曽川の堤は3月まで堤防拡張工事をしており、その関係で堤防の上を自由に散歩できなかったのだが、それも終わり、新たに舗装された道路に車が走っていた。道は拡張されたものの、歩道はなく、車の量がふえて、散歩にはありがたくない環境の変化である。

 それよりも私が淋しく思ったのは、拡張工事のために堤防や河原の樹木が大量に切られたことだ。堤防沿いの桜並木もかなり切られている。たとえば今月のHPの表紙に使ってある私の好きな桜の木も切られてしまった。昨日は散歩しながら、このことに気付いてがっかりした。

 さいわい、一部の桜並木は生き残っていたので、しばしその前にたたずみ、「お前たちは難をのがれてよかったね」と語りかけた。おりしも風が吹いてきて、桜の花々がゆれうごいた。なんだか私のつぶやきに答えてくれたようだった。

 少なくなったのは樹木だけではない。そこを塒にしていた鳥たちもめっきり今年は姿を見なくなった。シラサギもメジロもトビもことしは激減している。堤防ばかりでなく、河原の木も切られて、鳥たちは住処を奪われたようだ。

 私の家の庭に琵琶の木があるが、毎年そこにたくさんの鳥がきていた。しかし今年はメジロもウグイスもこなかった。かわりにカラスの姿ばかりが目に付くようになった。堤防を散歩していると、上空でトビがカラスの群におそわれている。

 田んぼでは私の好きなイソシギの巣がカラスに狙われていた。去年は3羽のヒナが孵り、2羽の若鳥が巣立った田んぼだったが、今年は絶望的な状況だ。いずれイソシギの姿も消えるのだろう。彼らの姿を眺めるのが散歩の大きな楽しみだったのに。

 鳥の姿が激減したのは堤防工事の影響に違いない。道や河原が綺麗に整備され、見晴らしはよくなったが、その分豊かな自然の息吹が失われた。鳥たちの歌声の聞こえない散歩道はつまらない。一体何のためにこんな愚かなことをするのだろう。


2006年04月04日(火) 満州国承認と湛山

 満州国承認をしぶる犬養内閣にしびれを切らして、海軍の青年士官が立ち上がった。これが5.15事件である。新聞は青年士官たちの行動は批判したが、その心情には理解を与えた。「承認しない政府も問題がある」ということだろう。

 これを軽薄と切り捨てる湛山のような意見は少数派で、当時の世論は決起した士官に同情し、一刻も早く満州国が承認されることを求めていた。たとえば毎日新聞は6月1日の社説「満州国への援助、承認が先決問題」でこう書いている。

<直ちに新国家援助の効果的実行手段として、まず新国家を承認し、相互の国家意志によって、事業の遂行に当たるべきことを主張するものである>

 朝日新聞も「満州国承認が必要でもあれば、また当面の急務でもある」と書いた。そして6月14日には、衆議院本会議で、「政府はすみやかに満州国を承認すべし」という満州国即時承認決議が「満場一致」で可決されている。

 それでも犬養内閣のあとを受けた斎藤実内閣は、満州国の承認をしぶっていた。これによって、日本が国際的に孤立し、列強と摩擦が起きることは避けられなくなるからである。しかし、7月6日に満鉄総裁の内田康哉が外相になってから雰囲気が変わってきた。内田外相は8月25日の衆議院本会議でこう発言した。

<万蒙の事件というものは、わが帝国にとっては、いわゆる自衛権の発動に基づくものであります。それゆえに天下にたいして何らはずるところがない、わが行動はまことに公明正大なものであるという自信をもっているのであります。・・・

 わが行動の公正にして適法であるということはこれは何人も争わないところであろうと思う。いわんやわが国民はただいまの森君のいわれました通りに、この問題のためにはいわゆる挙国一致、国を焦土にしてもこの主張を徹することにおいては一歩も譲らないという決心を持っているといわねばならない>

 すかさず翌日の朝日新聞はこの外相発言を擁護し、「いかなる結論も現実の事実を無視することを得ないのである」という現状認識を示し、「もはやその信念において動くほかはないのである」と、政府に満州国の「即刻承認」を求めている。

 こうした世論に押されて、ついに政府は9月15日、まだリットン調査団の報告が発表される前に、満州国承認に踏み切った。国民はこれを歓呼して迎え、翌日の朝日新聞は、「真に大成功といわねばならぬ」と書き、毎日新聞は「世界史上に輝く、日満議定書調印」と喜びを新たにしている。そして、中国の抗議に対しては、「身から出た錆、悟らぬ支那」と高みから一蹴してみせた。

 これに対して、湛山は9月24日、東洋経済新報に社説「満州国承認に際して我が官民に警告す」を載せて反論した。

<第一には我が国の国際的立場の悪化が起こり、第二には満州国国民の反日運動を激成し、第三には我が国自身の経済を損傷する危険が醸成される。なかんずく、我が国軍の駐屯のごときはこの弊害を最も強く醸し出す危険があり、記者の早くより絶対に反対し来ったところである>

 しかし、湛山のこの警告は、満州国承認でわきたつ世論にかき消された。その後の日本は湛山の警告通りに進んだ。そして、「国を焦土にしてもこの主張を徹する」という内田外相の発言が、荒唐無稽なものでなかったことを国民はやがて知ることになった。


2006年04月03日(月) 5.15事件と湛山

 満州国承認を先延ばしする政府に業を煮やして、海軍の青年士官が首相官邸を襲い、犬養首相を射殺した。軍部の肩を持ち、政府の弱腰に批判的だった新聞も、この暴挙にはこぞって反対した。16日の朝日新聞の社説を引こう。

<言語道断、その乱暴狂態は、わが固有の道徳律に照らしても、また軍律に照らしても、立憲治下における極悪行為と断じなければならぬ。・・・あるいは一図に今の世を慨し、今の政党に愛想をつかし、今の財閥に憤ったからだといっても、立憲政治の今日、これを革新すべきの途は合法的に存在する。短慮にも暴力革命を起こすべき直接行動に出ずることは、その手段において断じて許すべきではない>

 軍部の中枢部もこれを遺憾とした。しかしその論調は青年士官を弁護するものであり、同時に自己弁護的である。海軍大臣大角大将は「何が彼ら純情の青年をしてこの誤りを為すに至らしめたかを考えるとき、粛然として三思すべきである」と発言し、陸軍大臣荒木貞夫大将も次のような談話を発表している。

<これらの純真なる青年がかくの如き挙措に出たその心情について考えてみれば涙なきを得ない。名誉のためとか利欲のためとか、または売国的行為ではない。真にこれが皇国のためになると信じてやったことである>

 全体の論調は、青年士官たちの行いは間違っているが、その心情については同情すべきものがあり、こうした止むに止まれぬ行為を誘発した現下の社会状況については、政府にも責任があるということだろう。これに対して、湛山は「東洋経済新報」5月21日の社説にこう書いている。

<帝国の軍人が私に団を作り、白昼帝都の諸所を襲撃して爆弾を投じ、ピストルを放ち、あまつさえ首相官邸に乱入して、首相を射殺せりという事件は、ただに我が国において、未曾有のみならず、世界においてもまた、少なくとも近代の文明国家においては、未聞の変象である。そもそも何が彼らを駆ってかかる行動に出でしめたか、けだしその一つは、彼ら個々人の思想教養の浅薄なりしにあろう>

 それではなぜ、こうした思想教養の浅薄な行動があたかも英雄的行動としてもてはやされるのだろう。それは社会全般が浅薄・短慮になっているからではないだろうか。湛山の持論は社会が暴力的になりつつあるのは言論の自由がないからだということだ。

<記者はその第一の原因として、毎々説くごとく、我が国における言論の自由の欠如を挙げなければならぬ。けだし言論の自由は、一面において、しからずんば鬱積すべき社会不満を排泄せしめ、その暴発を防ぐ唯一の安全弁なるとともに、他面においてはまた社会の最も強力なる教育手段だ。・・・

 わが国においては外交についても、軍事についても、重要なこととしいえば、ほとんどことごとく言論の自由が封ぜられている。ために世の中にどれほど誤れる知識を撒布し、偏狭なる思想を養成し、また社会改造進歩を阻めるか計り難い。思慮浅き血気の青年が往々にして埒を外れた行動に出ずるゆえんあるといわねばならない>

 湛山は乱を起こした青年士官にいささかも心情的な同情をよせない。その行動のみならず、思想心情を浅薄幼稚だと批判している。しかし、彼の主張は顧みられなかった。青年士官の行動に同情した世論は、彼らの処罰を軽微なものにする圧力になった。

 犬養内閣が倒れた後、5月26日に、元海軍大将の斎藤実が内閣を組織した。そして日本はますます軍人の跋扈する、「言論の自由」のない全体主義国家になって行った。青年士官の思想はますます浅薄幼稚になり、これが2.26事件を誘発し、やがては軍国日本は太平洋戦争へと泥沼に落ちていった。


2006年04月02日(日) リットン調査団と湛山

 満州事変が起こると、国際連盟はこれが連盟規則・不戦条約違反ではないかと疑い、リットン調査団を日本、満州、中国に送ることにした。日本政府はこの調査団を受け入れた。調査団は2月29日に日本を訪れた。

 しかし、この調査団を迎える日本の世論は冷ややかだった。軍部の一部にはコレラ菌をつけた果物を差し入れて、一行を病死させようという計画があり、実行されたが、失敗したのだという。半藤一利さんは、「戦う石橋湛山」のなかでこう書いている。

<結果は失敗に終わったからよかったが、それが実現したら、ということを考えるとき、当時の軍部がいかに国際政治を無視して狂気に走っていたか、非文明的であったかが想像されて、背筋に冷たいものが走る>

 湛山は「日支衝突の世界的意味」という調査団宛の書簡を3月5日に「経済新報」に載せ、3月7日にはこれを英語に翻訳したものを調査団に手渡した。もとより湛山は「満州国不要論」を展開し、日本帝国主義の軍拡路線に批判的だった。書簡にもこう書いている。

<記者は、日本の経済が満蒙に特殊権益なくせば存立せずなどとは信じない。しかしいかに異論は存するも、国民多数の感情が大陸侵出を望める大勢は阻止し難い。・・・

 日本は。その国民主義的ないし帝国主義的感情から大陸に侵出せんとし、支那国民はまた同様の感情から、日本の侵出を阻止し排斥せんとする。衝突はここにいやでも起こらざるをえない>

 しかし、この書簡のなかで、湛山は日本のそうした行動もまた、列強の帝国主義的政策から生まれたものであると断じ、列強を強い調子で批判した。

<人類のためにあたえられたる地球の上を勝手に分割して、自己の所有なりと潜称するのみならず、他国の住民の労力が間接に彼らの領土内に働きかくることさえも拒絶している。・・・

 彼らはかようにして、日本の満蒙侵出どころの程度ではない。恐るべき侵略主義、帝国主義、国民主義により世界の平和を攪乱しつつあるのである。日本が世界のこの現状に刺激せられて、いわゆる自己防衛のために、せめては満蒙に経済的立場を作らんと急るも決して無理ではないではないか。

 列強は口を開けば支那の門戸開放をいう。これも誠に可笑しい話だ。もし、支那の門戸開放が世界人類のために善き事なれば、なぜ彼らはまたインドの、満州の、フイリピンの、南米の、その他彼らの本国とすべての領土の門戸開放をせぬのであるか。

 支那の門戸開放とは、つまり支那に対する列強の侵略に機会均等を与えるということに他ならなぬ。記者は、かかる馬鹿馬鹿しき帝国主義、見え透いた利己主義を、お互いに根本から棄てぬ限り、かりに当面の支那紛争は一時鎮定し得たとて、いつかまた必ず再燃するほかないと考える。しかして世界はさらに第二の大戦を繰り返すに至るであろう。

 記者は前にもいえるごとく、日本が従来支那に対してとれる政策を是認する者ではない。けれどもその理由は、ただ、日本が列強の尻馬に乗りて、自己もまた帝国主義政策をとることを不利益なりと信ずるが故である。支那調査委員は、願わくば世界の真の平和のため、これに着眼せんことを希望する>

 湛山はじつに堂々と西欧の帝国主義政策の非なることを批判している。そしてこれの尻馬にのって騒いでいる日本の現状にも触れ、これを放置すれば「第二の大戦を繰り返すに至るであろう」とまで予言している。

 リットン調査団は10日に及ぶ日本での調査を終えて、満州へ旅だった。そのあいだにも、満州では日本軍が地歩を固めていた。そして、昭和7年3月1日に満州国が建国されたわけだが、これを承認する国はなく、連盟規則・不戦条約違反だとする声がさらに高まった。

 日本政府は国際世論の悪化を恐れて、表向きは満州国の承認を保留していた。しかし、当時の犬養内閣は3月15日の閣議で、満州国に対する政策を極秘裏に決定していた。

<新国家にたいしては帝国として差し当たり国際公法上の承認を与えることなく、でき得べき範囲において適当なる方法をもって各般の援助を与え、もって漸次独立国家たるの実質要件を具備するよう誘導し、将来国家承認の気運を促すに務むることに決定したり>

 こうした事情を知らない軍部やジャーナリズムからは、政府が弱腰だという批判が起こった。たとえば毎日新聞は満州国承認に否定的な国際連盟から脱退せよと論陣を張った。3月30日の社説にはこう書いている。

<試みに増殖力旺盛にして、内に発展力充実せる民族があるとせよ。この民族が一方に広漠たる大領土を有して人口稀薄に苦しめる国家より抑えられ、狭小の地域に過群生活を強いられねばならぬとは、それが人類世界の真理といえるだろうか。・・・

 わが国が連盟参加国たるがゆえに、不当の決議をつきつけられ、よし空疎であるとしても、文字の上において規約違反国として指弾さるるがごとき形勢があるとすれば、わが国がこれより脱退することもまた止むを得ないのである>

 こうした連盟恐れるに足らずという世論が沸騰するなかで、犬養内閣はしだいに孤立して行った。国際世論に遠慮して満州国承認を宣言しない内閣の姿勢が国民には弱腰としか見えなかった。そして5月15日、事件は起こった。首相官邸で夕食中、犬養首相は海軍の青年士官らに襲われ、「問答無用」と射殺された。


2006年04月01日(土) 言論界に殉難者なし

 関東軍の謀略で柳条溝事件が起き、ここから満州事変が始まった。そしてわずか6ヶ月後の昭和7年3月1日には満州国が発足した。これは政府中枢の国務院253人のうち130人が日本人という傀儡政権だった。これをでっち上げるために国民の世論を盛り上げ、大いにハッスルしたのが新聞だった。とくに毎日、朝日は凄かった。

 毎日新聞は「守れ満蒙、帝国の生命線」の特集をして戦闘気分を盛り上げ、社内では「毎日新聞後援・関東軍主催・満州戦争」などと言われていたという。朝日はもまたこれに負けじとばかり、3月4日には「生命線へ花嫁、男子と手を携えて、満蒙の新天地へ」「一旗あげようと、目覚ましい満蒙景気、満鉄へ問い合わせ殺到」と書き立てた。半藤一利さんは「戦う石橋湛山」(東洋経済社)にこう書いている。

<近代戦はまさに大資本の絶好の活躍舞台であった。多くの飛行機、自動車、電送写真など特殊通信器材という機動力と最新機械力とをフルに動かせるのは朝日・毎日の両紙のみといっていい。ちなみに事変中の6ヶ月間に両者は臨時費をそれぞれ百万円消費した。当時の総理大臣の月給8百円と比較してほしい。

 朝日の発表では、飛行機の参加台数8機、航空回数189回、自社制作映画の公開場所1500、公開回数4024,観客約一千万人。写真号外の発行度数131回であったという。もちろん毎日も映画を製作し負けずに観客動員を書けている。新聞は、戦争とともに繁栄し、黄金時代を迎えるという法則があると聞くが、それがものの見事に実証されている>

 事変が起こるまで反軍の立場にあった朝日や毎日が、なぜ豹変したのか。なぜ軍部を応援し、事変の拡大に慎重な政府を叱責したのか、その答えがここにある。当時朝日新聞の主筆だった緒方竹虎は戦後、「五十人の新聞人」でこう回想している。

<今から考えて見て中央の大新聞が一緒にはっきりと話し合いが出来て、こういう動向を或る適当な時期に防げば防ぎ得たのではなか。実際朝日と毎日が本当に手を握って、こういう軍の政治的関与を抑えるということを満州事変の少し前から考えもし、手を着けておけば出来たのじゃないかということを考える。

 軍というものは、日本が崩壊した後に考えてみて、大して偉いものでも何でもない。一種の月給取りにしか過ぎない。サーベルをさげて団結しているということが一つの力のように見えておったが、軍の方から見ると新聞が一緒になって抵抗しないかということが、終始大きな脅威であった。従って各新聞社が本当に手を握ってやれば、出来たのじゃないかと多少残念に思うし、責任も感ぜざるを得ない>

 事変が始まると、朝日と毎日は手を握るどころか、販売部数を増やすために熾烈な報道合戦を繰り広げた。事変を望んだ軍人も一種の月給取りに過ぎなかったが、残念なことに新聞人もまた月給取りにしか過ぎなかったわけだ。いや安全地帯にいただけにもっとたちが悪かったというべきだろう。

 半藤さんは「言論界からは言論の自由を守っての殉難者はひとりもいない」と厳しいことを書いている。たしかに有力な言論人は抵抗しないどころか、お先棒をかついで回った。戦後彼らは口裏をあわせたように「軍部の圧力」を口にした。緒方竹虎は言論人の責任をしぶしぶ認めてるだけ良心的だと言えよう。

 もっとも、殉難こそしなかったが、軍国主義を批判し、大陸侵略を非として、平和主義、国際協調主義の意見を臆せず吐き続けた人はいた。石橋湛山は1月16日の「東洋経済新報」の社説「満州景気は期待できるか」で、国民の熱気に冷や水を浴びせている。

<日本および世界経済の悩みは過剰生産力を擁して捌け場に困っている点にあって、決して生産力の不足ではない。満州開発がスラスラと都合よく運んだところが、それはむしろ今日の日本および世界経済を一層困らすことを作用するとはいえようが、今日の資本主義を生かす足しには決して役立たないであろう>

 しかし湛山が主筆として社論を書いた「東洋経済新報」は経済専門誌であり、彼の言論人としての名声も多くの国民までは及んでいなかった。この点、「武士道」を書いた新渡戸稲造は国民的人気者の名士だった。

 稲造は国際連盟で事務総長につぐ次長を勤めたあと、日本にかえって当時貴族院議員をしていた。満州事変が始まり、軍事色が深まるなかでも、彼は一貫して国際連盟よる国際協調と平和主義を主張した。

「わが国を滅ぼす者は共産党か軍閥である。そのどちらがこわいかと問われたら、いまは軍閥と答えねばならない」

「国際連盟が認識不足だというが、だれも認識させようとしないではないか。上海事変に関する当局の声明は、三百代言と言うほかない。正当防衛とは申しかねる」

 こうした発言に対し、日本の新聞は「新渡戸博士の暴言を8千万国民は是認するのか」と一斉に攻撃した。たとえば昭和7年2月21日の日本新聞は大見出しで、「国論の統制を乱す新渡戸博士の暴論」と書き、時事新報は「新渡戸博士の講演に憤慨、関西、山陽の在郷軍人会、少壮将校ら立つ」と書いた。

 当時70歳だった新渡戸は4月にアメリカに立ち、フーバー大統領と懇談し、アメリカ各地で講演し、ラジオにも出て、日本の立場を説明した。しかし、この年に5.15事件が起こり、犬養首相が殺害された。もし新渡戸が日本にいたら、間違いなく狙われていたことだろう。

 翌8年3月、日本は国際連盟脱退。同年9月、71歳の新渡戸は腹痛を訴えアメリカで倒れた。そして10月16日、ビクトリアの病院で、アメリカ人の夫人に看取られて永眠。日本の行く末を案じていた新渡戸は「いま死にたくない」と漏らしていたという。


橋本裕 |MAILHomePage

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