橋本裕の日記
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2006年01月31日(火) |
がんばれ、うまがき君 |
散歩の途中、妻の農園に寄って、先月18日に植えた冨有柿の苗の様子を見ている。植えたときとほとんど変化はない。まだ値札までついたままだ。ちなみに、12月18日の日記にこう書いた。
<(散歩の)帰り道に「赤尾園芸店」に寄って、900円で冨有柿の苗を一本買った。それを妻と二人で畑に植えた。園芸店で言われたとおり、支柱を立ててしばりつけた。小さな苗木だから、実を着けるのは3,4年後になりそうだ。苗を植えていると、空が明るんできた。
柿の苗植える背中に冬日あり>
植えるのが時期的に遅かった上に、そのあと直ぐに記録的な寒波に襲われ、この地方も珍しく大雪になった。これでうまく根付くのか心配した。この心配は今も続いている。妻が次女の大学の馬術部へ行って馬糞をもらってきた。それが柿の苗の根本においてある。
それを見て、私はこの冨有柿に「うまがき君」という名前をつけた。さっそく、妻にそのことを報告した。
「これからは、うまがき君だからね」 「へんな名前ね」 「君がやった馬糞で育つわけだろう。馬のうまと、あとは・・・・」 「うまい柿に育ってほしいというわけね」 「そうだよ。どうだ、これこそうまいネーミングだろう」
一昨日の日曜日は快晴だった。散歩の後、いつものように妻の畑を訪れた私は、畑のはしにぽつんと日時計のように立っているうまがき君の前に腰を屈め、こんな風に話しかけた。
「寒いだろうけど、まけちゃいけないよ。そのうち、春が来るからね。君はきっと立派な冨有柿になれるよ。そのうち葉っぱがはえてくるさ。おしいい実もたくさんなるだろうな。そしたらみんなが君を尊敬し、感謝するよ。君の未来は明るいんだ。僕たちが応援しているから、大丈夫だからね。君もがんばるんだよ」
こうして話していると、何だか新しい子どもができたようでもあり、友達ができたようでもあって楽しい。耳を澄ませていると、うまがき君の、「まあ、みててごらんよ。そのうち、りっぱな柿をたくさんつけて、よろこばせてあげるよ」という声が、私の心の中に届いてきたようだった。
青空や柿の苗木も春を待つ 裕
2006年01月30日(月) |
中国留学をするSさんの話 |
土曜日にSさんから「会おうか」と電話がかかってきた。「明日、夕方の5時に近鉄名古屋駅前のナナちゃん人形の前で」とすぐに、話がまとまった。Sさんとは金沢大学時代の物理学科の同級生である。金沢で一緒にお寺に間借りをし、同じ釜の飯を食べた仲だ。
私が名古屋大学の大学院に進学した年に、彼も東京教育大学(現在の筑波大学)に進学している。そして私が教員になった年に、彼も愛知県の数学科の教員に採用された。しかし、その後、ほとんど会っていない。とくに会おうとも思わなかったのは、すでにお互いを知り尽くしているということもあったのだろう。
ところが今年の年賀状に「本年3月に高校教員を辞し、夏から美術の勉強のため中国で生活します」とあって驚いた。数年前の年賀状にすでに「自分のほんとうにしたいことをするつもりだ」とあったので、大学時代から好きだった絵画でも始めるのかと思っていたが、教員を辞めるとまでは思っていなかった。そこで、私は年賀状の返信に、「ぜひ、飯でも食おう」と書いた。
20年振りだが、お互いに直ぐにわかった。近くの「かに家」に行って食事をし、そのあと喫茶店で9時近くまで話した。「また、どうして中国まで絵画の勉強にいくの」という問いかけに、彼は次のように答えた。
「6、7年ほど前に、雪舟に出会って、衝撃を受けたんだ。それからあちこちの美術館へ行ったり、庭を見て回ったんだ。そしたら、ますます引かれてね。雪舟からさらに、宋の時代の美術に関心が移って、それから年に何回か台湾や中国に旅行するようになったんだ。そうすると、ますます魅力的な世界が開けてきてね、もう、片手間ではすまなくなったんだよ」
私は話を聞きながら、Sさんがゴーギャンが好きだったのを思い出した。ゴーギャンをモデルにしたモームの「月と6ペンス」という小説を、私は大学時代にSさんから薦められて読んだことがある。ゴーギャンは株の仲買人をしていたが、突然商売を辞めて、家族を捨てて画家になった。Sさんも同じ様な情熱に取り付かれたのだろうか。
それにしても定年まで4年を残してやめるなんて、うらやましい限りである。収入がなくてどうしてやっていくのと聞いたら、中国では大学の寮に住む予定だという。
「寝室とリビングがあってね、台所も付いているから自炊もできる。テレビも電話もついているんだよ。大学の食堂は安いけど米がまずくてね、日本から米や味噌を持っていこうと思っている。大学の近くに少し高級なスーパーがあって、そこで買い物をするんだが、それでも野菜や肉を両手に持ちきれないほど買っても300円ほどなんだよ。豚肉なんか日本よりよほどうまいよ」
寮の家賃が2万円ほどで、大学の授業料や、すべての生活費を多めに見ても、年間で80万円はかからないという。奥さんは教員だし、扶養家族はいない。自分一人が中国で生活するくらいの費用は、この日のためにもう何年も前から手掛けている株のキャピタル・ゲインで間にあうのだという。これもうらやましい話だ。
最初の一年間は中国語の勉強をしっかりして、次の年からは美術関係の講座を聴講する予定らしい。すでに日本で中国語の個人レッスンを受けているし、中国へも数え切れないほど行っているので、日常会話には困らないという。
私も去年の9月に行ったセブの語学留学の話をして、「何が楽しいといって、何かを学ぶことくらい面白いことはないね。歳を重ねるにつれて、この気持が強くなるよ」と言うと、「ほんとにそうだね」とSさんも大きくうなずいた。
Sさんはサッカーのワールドカップの時も中国にいたという。しかし、日本で報道されたような反日的な運動は中国国内では報道されなかったし、実際にサッカーを観戦していた日本人の知人も、現場にいて何も居心地の悪い思いはしなかったという。
「日本のテレビはどうかしているね。同じシーンを繰り返し見せているだろう。ほんの一部のことを全体のように印象づけているんだよ。何か政治的な意図を感じてしまうね。小泉さんの外交感覚のなさにはあきれるよ。中国の方がはるかに上手だと思うね」
中国の大学の先生から聞いた話では、中国共産党も極右から極左まで、とても幅が広くて、いろいろな派閥があり、いろいろな意見があるという。その一部の意見だけ取りだして、それを全体だと考えるのは、たしかに大きなまちがいだろう。
敵意や悪意は鏡のようなものである。Sさんのように中国の文化を尊敬し、積極的に学びたいという人には、中国の人々も温かく応援してくれて、限りなく寛容で、親切であるようだ。またそのような懐の大きな国だからこそ、Sさんも安定した収入を捨て、家族とも別れて、中国で生活することを決意したのだろう。
2006年01月29日(日) |
我が息子、ホリエモン |
昨年9月の衆議員総選挙で、小泉首相や自民党の幹部はホリエモン(堀江貴文)を応援した。小泉首相は昨年8月16日に、「新しい時代の息吹というかな、若い感覚をこれからの日本の経営に与えてくれるんじゃないか。何か新しい雰囲気をじますね」とホリエモンにラブコールを送っている。
武部勤幹事長は選挙カーの上でホリエモンと並び、「わが弟、わが息子」と連呼した。そして、「若い感覚をこれからの日本の経営に与えてくれる。反発もあるけど、時代の変革だ」ともちあげた。こうした映像や発言が茶の間に流れ、ホリエモンはこの選挙を通して、社会的な信用をも獲得した。
小泉改革の抵抗勢力のボスである亀井静香候補への刺客として、広島で立候補し、惜しくも敗れたが、これによってさらに彼の人気は高まり、ライブドアは株価を上げた。また、自民党はホリエモン人気にあやかり、若い世代や都市部でも支持を増やし、選挙では圧勝した。
選挙後も武部勤幹事長は「党の運営にアイデアを提供していただきたい」とホリエモンに要請し、その蜜月ぶりを世間に印象づけた。ところが、ホリエモンが逮捕されると、小泉首相も武部幹事長も、その蜜月ぶりは棚に上げて、「自民党は公認したわけではない」と掌を返したように冷たい。最近になって、ようやく二人とも反省の弁を口にするようになったが、これも自己保身の心が透けている。
ホリエモンが逮捕されたのは23日の夕方だったが、その日の朝、福岡県の警察署にホリエモンの父親(チチエモン、堀江奉文)が、「息子が死ぬかもしれない」と駆け込んできたという。ホリエモンから死をほのめかす電話があったらしい。
その数日前の19日にはホリエモンに近かった元ライブドア幹部の野口英昭氏が、沖縄のホテルで自殺している。この自殺には東京地検特捜部の検事も不審を持っているといわれるが、遺書もなく、手首の他に首や腹などを切り、血塗れになりながら自分で非常ベルを押すなど、不可解な部分がある。株の不正取引に使われた投資組合に、闇の勢力が係わっていたという情報もある。こうした勢力により、口をふさがれた可能性も否定できない。
チチエモンの脳裏にはこうした事件のことも浮かんだに違いない。東京地検が異例の速さでその日のうちにホリエモンを逮捕し、身柄を拘束した背景には、このチチエモンの行動もあるいは影響していたかもしれない。地検特捜部にとって一番恐れていることは、ホリエモンの身に何か起きて、真相がわからなくなることだからだ。
ホリエモンがいなくなり、捜査が行き詰まれば、これを歓迎する人は政界や財界にも多いのではないか。武部幹事長はかっての「息子」のことをどう思っているのだろうか。その身を案じたことがあるのだろうか。
ホリエモンは時代の寵児であり、マスコミが作りだしたあたらしい英雄だった。小泉首相も彼を持ち上げることで、自らの改革の成果をほこった。こうした世間の風潮が、ホリエモンという鬼子を生みだしたことを、私たちは忘れてはならない。
チチエモンは「無一物になれば、帰ってくればいい。一からやり直せばいいんだから」と語っているという。やはり実の親の子を思う気持は深いのだろう。ホリエモンはまだ若干33歳だ。チチエモンがいうように、人生をやり直すことは十分可能だ。
何も絶望することはない。これを機会に、静かな環境の中で自分を見つめてほしい。自己を深く掘り下げれば、そこに必ず希望の泉が見つかるはずだ。そして、この逆境から立ち上がって、今度は「株式価時価総額世界一」ではなく、もう少し別の美しい夢を、若い世代に語りかけてほしい。
昨日の日記について、ある人からメールをいただいた。
<「二人を繋いだ宮沢賢治」は実にいい話です。お二人を結びつけた書物がいまもそこにある。他人ごとながら、嬉しい気持ちになりました>
ありがたいことである。私も返事を書いた。今日の日記で、これを紹介しよう。
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Kさま、日記の感想、ありがとうございます。この話はいつか、日記に書いてみたいと思っていました。たまたま「たましい」のことを書いたので、その続きとして紹介し、読んでいただきました。
小学生だった妻が、名古屋の書店で宮沢賢治童話集2を買い、大学生の私が金沢の書店で童話集1を買った。それぞれに思い出のあるその2冊が、私たちが結ばれることで、ひとつに寄り添った。そしてそこから、また新たな思い出や物語が作られていく。
この二冊の本は私たちにとって「縁結びの神様」だったのですが、その後の私たちの人生をも見守り、励ましてくれました。それはもはやだだの本ではなく、まさに私たち夫婦の分身であり、「たましい」の入った特別の存在のように思われます。
私は二人の娘に、この本を一冊ずつ形見として残したいと思っています。そして、いつかこの本が孫の誰かに伝えられる。別々に住む二人の孫はそれを読み、その本の由来と私たち祖父母の物語を聞かされるでしょう。心やさしい孫であれば、いつかその二冊を持ち寄って、一晩くらいはそっと一緒にしてくれるのではないでしょうか。
こうして私たち夫婦は、死んだ後も、その分身である宮沢賢治の二冊の本によって、霊の世界で再会することができるのです。私は書棚で仲良く並んでいる二冊の本を眺めながら、ときどきこんな楽しい空想をしています。
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2006年01月27日(金) |
二人を繋いだ宮沢賢治 |
私たち夫婦にとって、宮沢賢治は実は、縁結びの神様である。今日はそのことを書いてみよう。話は昭和47年頃にさかのぼる。大学生だった私は、ある日、友人と二人で金沢の香林坊にある丸善書店を訪れた。
そのとき、私が何気なく宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を手にとって眺めていると、堀という文学好きの友人が、「可愛らしくてきれいな本だね。装丁も立派だし、これは夢のあるいい本だね」と誉めだした。岩波書店から出版されたそのハードカバーの本にはブックケースもついていた。愛蔵版らしい美しい本だった。
「欲しいのなら、譲ってやるよ」と私が差し出すと、「いや、僕はこちらを買うよ」と言って、彼が手にしていた本を見せてくれた。それも岩波の同じ装丁の宮沢賢治の本で、「風の又三郎」という題名がついていた。
私の手にした宮沢賢治は淡い青を基調とした装丁で、堀君の手にした宮沢賢治はほのかなピンクを基調にした装丁である。一見して姉妹本だとわかった。姉妹というより、兄と妹と言ったほうがようのだろうか。
奥付を読んでみると、両方とも初版は1963年で、愛蔵版と銘打ってあるだけに定価は少し高くて500円だった。「銀河鉄道の夜」の方は「宮沢賢治童話集1」になっていいて、「風の又三郎」の方が「宮沢賢治童話集2」になっている。やはり二冊でセットなわけだ。
そこで私がそのうち兄貴分の「銀河鉄道の夜」を買い、堀君が妹分の「風の又三郎」を買うことにした。私たちはやがて大学を卒業し、堀君とはもう30年近く会っていないが、私の書斎の本棚にはそのとき買った宮沢賢治がおいてある。おなじように、堀君の本棚にも宮沢賢治がおいてあるのではないだろうか。
しかし、私の本棚には「銀河鉄道の夜」のとなりに、堀君が買ったのと同じ「風の又三郎」も仲良く並んでいる。これは実は妻が小学校の頃に買った本である。まだ、結婚する前に、妻が私の部屋に遊びに来て、「銀河鉄道の夜」をみつけた。
「私もこれとそっくりの本を一冊持っているのよ」 「ひょっとして、風の又三郎じゃないのか」 「ええそうよ。今度もってきてあげるわね」
妻は次のデートの時、その本を私にプレゼントしてくれた。実はそのころ私には結婚を前提におつき合いをしていた女性がいた。しかし、妻がこのとき差し出した宮沢賢治の本は、私の心の琴線にふれた。そしてとうとう私たちの人生をかえる運命の一冊となったわけだ。宮沢賢治が私たち夫婦の縁結びの神様だといってもよいのではないだろうか。
奥付を読み返してみると、私の「銀河鉄道の夜」の方は1972年7月25日発行の第11刷であり、妻のくれた「風の又三郎」は1966年2月15日発行の第4刷である。そして妻の本には少し幼い字で、妻の旧姓の名前が可愛らしく書いてある。
「こころ」を手持ちの和英辞典でひくと、mind(知性や理性を主に考えた心)、heart(気持や感情を主に考えた心)、spirit(精神)とある。具体例をみてみよう。
I've made up my MIND to go to graduate school. (大学院進学を心に決めた)
She has a kind HEART. (彼女はやさしい心の持ち主だ)
It's not easy to grasp the SPIRIT of the tea ceremony. (茶の心を掴むのは容易ではない。
日本語には「たましい」という言葉がある。これを辞典で引くと、「soul」という英語が当てられ、次のような例文が紹介されていた。
The sword is the soul of the samurai. (刀は武士の魂である)
A man's body dies, but his soul exist for ever. (人の肉体は滅びるが、霊魂は永遠に存在する)
日本語の「こころ」は、おおかた人間の脳神経を中心にした意識現象で、理性や感情、意思、理念といった意味で用いられている。これに対して、「たましい」というのは、霊魂ともいわれるように、もう少し奥深くて宗教的なひびきを持っている。
古代の人々がこうした「たましいの世界」に住んでいたことは、現在に残る東西の文学遺産をみればあきらかだろう。日本の場合は「万葉集」の世界がまさにこの霊的なものに満ちている。
信濃なる千曲の川のさざれ石も 君し踏みてば玉と拾はむ (巻14−3400)
(別れ際にあなたが踏んでいった河原の小石も、あなたを思うわたしには、この世の貴重なたからものです。拾い上げて大切にします)
山吹の立ちよそおひたる山清水 汲みに行かめど道の知らなく (巻2−158)
(黄色い山吹の花が彩る山の清水を汲みに行こう、黄泉の国にあなたを訪ねて行こうと思うが、道が分からない)
時代が下がるにつれて、和歌から「たましい」の要素は薄れた。古今集、新古今集の歌になると、たましいの宗教性はほとんど感じられない。そのかわり微妙で優雅な「こころ」の世界が多く描かれるようになった。(源実朝などの一部の例外はある)
江戸時代になって、日本の文芸はもういちど「たましい」の次元にまで深められた。その立て役者は、松尾芭蕉だろう。そして万葉集と芭蕉に私淑した良寛によって、ふたたび日本の和歌は魂の世界に復活したというのが、私のおおよその近世文学史観である。
夏目漱石の「こころ」はその題名のとおり、人間の「こころ」を仔細に点検し、その根底にあるものをさぐろうとしている。彼は近代人の複雑怪奇なこころの世界に興味を持ち、これを犀利な知性を駆使して描いてみせた。
これに対して、「銀河鉄道の夜」など、宮沢賢治の童話は玲瓏とした「たましいの世界」を描いている。人間にかぎらず、あらゆる動物や植物、あるいは電信柱のような物質までいのちを帯び、たましいをもつ独特の霊的世界である。また、詩歌では金子みすずの童謡が「たましい」の世界を美しく描いている。さいごに彼女の詩を引用しておこう。
花のたましい
散ったお花のたましいは、 み仏さまの花ぞのに、 ひとつ残らず生まれるの。
だって、お花はやさしくて、 おてんとさまが呼ぶときに、 ぱっとひらいて、ほほえんで、 蝶々にあまい蜜をやり、 人にゃ匂いをみなくれて、
風がおいでとよぶときに、 やはりすなおについてゆき、
なきがらさえも、ままごとの 御飯になってくれるから。
2006年01月25日(水) |
女系天皇をどう考えるか |
週刊文春の1/26号で、編集部の「女性、女系天皇を私はこう考える」という特集に、14人の識者が答えている。これを読めば、それぞれの識者の天皇制についての考え方がよくわかる。少し、引用してみよう。
林真理子(皇室に改革はいらない) <皇室に改革なんて必要ないんです。天皇とは、日本だけしか存在しない、簡単には割り切れない神がかった摩訶不思議な存在なんです。だから有難味がある>
養老孟司(何も言いたくない) <現代人はなんでも言葉にできると信じています。昨今の「女帝」に関する議論でも、要するに「議論」で、それは言葉です。しかし、天皇とは日本の伝統そのものでもあり、伝統とは安易に言葉に表現しがたいものでもあります。天皇家のことについてまで「法律で決めりゃそれでいい」みたいなノリになっているのを危惧します>
徳岡孝夫さんは、「理屈じゃない。男でないとダメ」といい、櫻井よしこさんは、「女系天皇を認めてしまうと、天皇を天皇たらしめてきたアイデンティティとしての血筋が途絶えてしまう」と語っている。
これら錚々たる保守的な論客に対して、例えば漫画家の倉田真由美さんは「国会で話し合うよりは、むしろ国民投票すべきだと思います」と主張しているが、女系肯定派は全体に影が薄いようだ。
私の考えは、生まれによって人の上に人をつくる天皇制という封建的な制度があるかぎり、日本に民主主義は根付かないという考えである。昭和天皇や平成天皇は人間的に尊敬するし、好きだが、天皇だからといってもわれわれと同じ人間であり、その存在自体を格別ありがたいとも思わない。天皇を神かかり的な存在に祭り上げることには反対である
天皇家は当然あってもいいが、天皇制はいらない。だから、天皇家の跡継ぎは天皇家できめればよいことで、私としては、女性でも女系でもかまわない。少なくとも女系天皇を否定する必要はない。こんなことで国民投票をするのもどうかと思う。
2006年01月24日(火) |
フィンランド・メソッドのすすめ |
最近「図解フィンランド・メソッド入門」という本を、例の如く書店で得意の速読術を生かして、立ち読みした。著者の北川達夫さんは、もとフインランドの日本大使館に勤務していた外交官だという。
彼はフィンランドの教育のすばらしさを日本に紹介したいということで外務省を辞めて、現在は小中学生に英語や国語を教えるかたわら、教育研究家として執筆活動をしている。日本の教育に欠けているのは、グローバル・コミュニケーション力ではないかという。
<それは、相手がどこのだれであろうと、自分の言いたいことを理解させる能力。そして、相手がどこのだれであろうと、その言うことを理解する能力です>
このグローバル・コミュニケーション力を高めるためにフィンランドでは、以下の4つの「力」を小学生から養成している。
発想力 ・・・ 言いたいことは何か 論理力 ・・・ 筋は通っているか 表現力 ・・・ 相手に伝わる言い方か 批判的思考力 ・・・ 改善と見直し
<フィンランドの小学校教育では自分の「意見」に「理由」を説明することを求められます。「この本面白かったです」と言うと、すかさず「ミクシ?(どうして?)」と聞かれます。その「ミクシ?」に答えることで「論理の回路」が作られていきます>
フィンランドの教室で、先生や生徒がいつも口にする言葉は、「ミクシ? どうして、あなたはそう考えるのか」ということだそうだ。北川さんはこんな具体例をあげている。
A「携帯電話は絶対便利だよ」(意見の提示) B「どうして?」(根拠の問いかけ) A「だって、いつでも、どこからでも掛けられるからね」(根拠の提示) B「しかし、いつ、どこででも電話にでなければならないとなると、つらいこともあるね」(根拠に対する反論)
ここで大切なのは、頭ごなしに相手の意見を否定しないことだ。批判はその意見の根拠に対して行われる必要がある。これによって建設的な議論が可能になる。
フィンランド・メソッドでは必ず、意見を言う場合は根拠を示す。そうしないと、「ミクシ?」と問いかけられる。こうした訓練を小学生のことから積み重ねる。そして、フィンランド・メソッドでは、議論を実りあるものにするために、つぎの「禁止則」を設けている。
(1)怒ったり、泣いたり、感情的にならない。 (2)相手の発言を遮らない。 (3)根拠のはっきりしない主張をあいてに押しつけない。 (4)相手の主張を根拠を示さずに頭から否定しない。 (5)議論の腰をおるような発言をしない
などだが、基本は「自分本位にならず、相手の立場に立って考える」ことができるかどうかだ。グループ討論の場合は、班長がいてこの規則に外れると「違反です」と相手にはっきり告げるそうだ。
この他にも有益なフィンランド・メソッドが書いてある。しっかりとした理念に裏打ちされ、すぐにでも実践できるものばかりだ。教育ナンバーワン大国といわれるフィンランドの知恵を、教育に携わっている人ばかりではなく、一般の人も学んでみてはどうだろう。
2006年01月23日(月) |
病気をつくる医師たち |
毎年、この季節になると、職場で人間ドックの申し込みがある。私の知人は毎回のようにこれに応募して、そして毎回のように何か病気を発見する。私はこれに応募したことがない。
この歳になって精密検査をすれば、何か悪いところが発見されるのはもう間違いのないことだ。発見されれば、不安になって治療を受けるだろう。最悪の場合だと、手術をしなければならないかもしれない。これがいやなのである。
私の知人は高血圧の持病をもち、何度か脳ドックに入っている。私も何度かこれを薦められた。私はこれを無視していたが、去年、思わぬ視力障害に陥り、CTスキャンやMRIを体験するはめになった。視力障害の原因として、脳梗塞が疑われたからだ。
さいわい、検査の結果、大したことはなかったからよかったものの、動脈瘤でもみつかっていたら、「さあ、手術だ」ということになっていたかも知れない。「手術はしないでください」と懇願しても、「いつ、脳の血管が破裂して死ぬかわかりませんよ」と言われたら、不安で仕方がなくなり、結局手術台に横たわるのではないだろうか。
日本の医者は8ミリ以下の脳動脈瘤でも患者に手術をすすめる。統計によると、この手術で1パーセントの人が死亡し、5パーセントの人が重傷の後遺症が残って介護の必要な障害者になる。
ところで手術をしない場合はどうだろうか。外国の統計によると、8ミリ以下の脳動脈瘤が1年以内に破裂する確率は0.05パーセント(2千人に1人)だという。20年でもやっと1パーセントだ。結論として言えることは、手術をしない方が安全であり、これが外国の場合の医学常識である。
それではどうして日本は脳手術が多いのだろうか。それは脳外科医の数が5千人もいるからだ。人口が2倍以上あるアメリカでも脳外科医は3千2百人しかいない。単位人口あたりで見ると、日本の外科医の数はアメリカの3倍もいて、異常に多いわけだ。
これだけの医者を養うためには、それだけ多くの病気がなければならない。病院は高度な医学機器を買い入れ、これを無駄にしないために人間ドックを多くの人に奨める。これを受ければ病気が見つかり、手術が行われるわけだ。早期発見、早期治療といえば聞こえは良いが、実態はどうだろうか。
日本の医療の根本は病気を発見し治療することにあるが、これだと検査からはじまって、投薬、手術と、医療費はかさむ一方である。これで医療産業はもうかるのだろうが、国民がしあわせだと言えるのだろうか。
西欧の国々では、そもそも病気にならない「ヘルシーピープル政策」が中心である。フィンランドは煙草の値段を数倍にすることで喫煙率を76パーセントから25パーセントに下げ、肺ガンは半減、心臓疾患にいたっては1/3に減らしたという。これだと医者や病院は売り上げが減って困るだろうが、政府は税金の無駄使いがなくなってたすかるわけだ。
アメリカの場合でみると、厚生省が「ヘルシーピーフル政策」を打ち出した1979年には人口10万人あたりの心臓疾患493人だったのが、2002年には241人に半減している。脳血管患者は148人から56人とこれは1/3に減っている。フィンランドとほぼ同じ結果が出ている。
これらの国ではガン患者も減少しつつある。これに対して、日本はこの30年間でガンは2倍以上もふえ、心臓疾患も脳血管疾患も増え続けた。医療費も32兆円になり、さらにこれが天井知らずに上昇し、国民の健康ばかりでなく、国の財政や家計さえも脅かすようになってきた。
大切なのは病気を発見することではなく、病気をつくらないことだ。そして病気にならないためには、自ら生活習慣をあらため、健康をつくり出すことだ。「ヘルシーピープル政策」は自分で行えばよいのである。病気をつくり出す儲け本位の人間ドックにお金を使うより、毎日散歩をして英気を養っていたほうが、よほど健康にいいし、長生きができるのではないか。
(「小食のすすめ」を「何でも研究室」に掲載しました) http://hasimotohp.hp.infoseek.co.jp/syousyoku.htm
2006年01月22日(日) |
ライブドア・ショック |
先週の16日(月)に、堀江貴文が率いるライブドアとその関連企業が、証券取引法違反疑惑で強制捜査を受けた。おりしも17日には耐震偽装疑惑でヒューザーの小嶋社長が国会に証人喚問されることになっていて、世間やマスコミの目はこちらに鋭くそそがれていた。
しかし、ライブドアへの強制捜査で、マスコミも世間の目も一斉にこちらに向いた。衝撃から、株式市場は大荒れになった。売り注文が殺到し、18日(水)には、とうとう東証のシステムがダウンして、売買全面停止になった。世界の株式市場でもまれなことである。
堀江さんは10年ほど前に、資本金600万円で起業した。みるまに頭角をあらわし、ライブドアの株式時価総額は7000億円を越え、グループ企業全体をあわせると、1兆円をこえるのではないかといわれた。
ホリエモンはこの資金力にものを言わせて、プロ野球球団やニッポン放送を買収しようとした。また小泉首相や堀部自民党幹事長にも目をかけられて、9月に行われた衆議院選挙では、自民党の支援をうけて広島6区から出馬し、郵政造反組の亀井静香さんを相手に善戦した。
「金で買えないものはない」と言い放ち、「10年後には資本金をさらに100倍にして世界一の企業になる」と豪語する堀江さんに、「お金がすべてではない」と反発する人もいたが、マスコミは彼を「風雲児」としてもちあげた。マスコミに露出し続けた彼は、やがてホリエモンの愛称で親しまれるようになり、とくに若い世代を中心に人気が高かった。
ホリエモンが10年間で600万円の会社を1兆円にまで大きくしたのは、1990年頃からアメリカを中心に本格化したM&A(企業買収)という手法を、いち早く日本に取り入れ、自らの経営戦略としたからである。
英紙ファイナンシャル・タイムズは18日の社説で「日本の伝統的な商習慣に挑戦する手法を具体化した。日本にあらたな息吹をもたらした」と評価している。こうした評価は日本の市場関係者や経営者のなかにもあった。実際、彼は去年の暮れに経団連のメンバーに迎えられ、名実とも成功した日本の経営者として経済界トップのおすみつきまでもらっている。
ホリエモンもこうした政界、財界トップのあとおしを受けて、昨年度は絶好調だった。彼は自分の腹心で片腕である宮内亮治氏との最近の共著「世界一になるキャッシュフォロー経営」のなかでこう書いている。
<すべてはシンプルでスケールの大きな目標である『時価総額・世界一』を実現するためです。それ以外の、哲学も美学も欲も余計なモノは、経営者としての堀江貴文にはありません>
しかしホリエモンには成功した六本木ヒルズ族としての華々しい経歴の背後に、さまざまな黒いうわさがあった。株をしていた私の知人もすでに数ヶ月前から、インターネットの掲示板でホリエモンの犯罪行為を告発する文章を読んだと言っている。
また、私が最近読んだ公認会計士の人のプログでも、すでに1年以上も前にホリエモンの錬金術の秘密を暴露し、その詐術的で犯罪的な手法を克明に説明しているものがある。しかし、こうした情報はついにマスメディアに取り上げられることはなかった。
多くの人々は彼が自分の会社を大きくするために、決算を粉飾し、また偽りの情報を流して株価を操作していたとは気付かなかった。そして個人投資家の多くは株価の上昇を喜び、ホリエモンの成功に、自らの夢をかさねていたわけだ。
私もそうした個人投資家のはしくれだった。掲示板に掲載した「橋本裕超初心株日記(1)を自戒の意味も込めて、ここに引用しておこう。
−−−超初心株日記(1) 2006/01/18 −−−
ライブドアのホリエモン、大ピンチですね。まあ、あなんな奴、どうでもいいやと書きたいところですが、なんと、この橋本裕も大ピンチ、というのは少し大袈裟ですが、実は、ホリエモンのライブドアの株を持っているのです。(泣き)
知人にすすめられるまま、先週のある日、680円で100株購入してしまいました。
680円×100株=6万8千円
一昨日の月曜日、ライブドアの株は700円でした。 「すごいね。一週間もしないうちに2000円ももうけちゃったぜ」 というと、妻は「そんな株、はやく売りなさいよ」と、不安顔。 「いやいや、まだまだ上がるよ。もう100株ほど買おうかな」 と、思案しましたが、これはどうにか思いとどまりました。
以前、自分で書いた文章を思い出したのです。「利益だけではなく、社会的に有意義な投資をしたい」とたしか書いたはずです。それが株投資をしはじめた、第一号がよりにもよってあのホリエモンのライブドアの株を買うとは、しかも「もうかるから」という友人の一言がきっかけになったとは、まさしく魔がさしたとしかいえません。
いやいや、こんなことではいけないと、ここはかろうじて心理的にブレーキがかかりました。おかげで、火傷が大きくならなくてよかったわけです。
ちなみに、私はスターバックスの株も持っています。これは56400円で1株だけ購入しました。一昨日の段階で、これが1000円ほど値上がりしていまいした。ライブドアと合わせると12万4千円ほど投資して、3000円もうけたわけで、一週間で2.4パーセントの利益ということになります。しかし、その後、思わぬ展開がまっていました。これはたいへんいい勉強になりましたね。(痛い)
なお、株注文は松井証券を使いました。私はここに50万円入金しました。ところが松井証券の場合、手数料が無料なのは10万円までです。多くの企業の単元株が100株なので、投資の対象が限られます。スターバックを買ったのも単元が1株だったからです。
イートレードも去年の暮れに松井証券と同様に申し込んだのですが、こちらは私のミスがあったりして、いまだに使える状態になっていません。もたもたしている内に、思わぬ出来事になり、最近では私の株投資熱もほとんど冷却状態です。
しかし、これにこりず、これからもネット株をぼちぼち続けようと思っています。先輩方の貴重なアドバイスに、これからはよく耳をかたむけたいと、おもいきり反省している今日この頃です。 −−−−−−−−−−−−−−−−
今回のライブドア・ショックは日本経済の将来を考えると決してマイナスばかりではない。ここから大切な教訓をくみとることがでるからだ。それは世の中でもっとも大切なものは、「信用」だということだ。そしてこれはそう簡単にお金で買えるものではない。ライブドア・ショックをバネにして、私たちが今一度正気を取り戻すことができれば、日本の経済と社会は失墜した信用を回復することは可能だろう。
2006年01月21日(土) |
Patrickとの文通 |
このところPatrickから、よくメールをもらう。昨日はメールだけではなく、電話までかかってきた。もっとも私は不在で、妻が電話を受けた。妻はいきなり、英語の電話でとまどったらしい。その後、メールも届いた。
Patrickはセブの4人クラスの同級生で、同じクラスメイトだったあずみから、私のHPのことを聞いたらしい。そして、1月12日に私の掲示板にこんな書き込みをしてくれた。
Hi Shin.. How are you?? Here is your homepage right?? I can't read anything, because everything is Japanease. And every word is broken..^^ I wrote e-mail to you almost 3months ago, but your e-mail address was wrong... Now I came back to Korea, and I'm working in overseas trading company. Azumi told to me your homepage and e-mail address... She said your wrote about us and Philippines life.. I really want to read your homepage...hahaha I have to learn Japaneses...After studing English I will study japanese...take and I'll write e-mail... and my e-mail address is mismr76@naver.com Please greet to me...
Patrickの書き込みを見て、とてもうれしかった。彼とはセブでとても仲がよく、一緒に卓球をしたりした。メール・アドレスの交換もしていたが、私はそのメモを紛失してしまった。私の方からは連絡がとりようがなかった。私はさっそく掲示板に書き込んだ。
Hi Patrick I am really happy to read a comment from you in this bord. You said that you sent e-mail to me in Cebu, and I have been waiting for your letter. But I have never received a letter from you. I supposed you were very busy or "confused". But you make me recognize that I made a mistake. Now I know that you wrote e-mail to me almost 3months ago. I am very sorry for giving you a wrong e-mail address.
A few days ago, Azumi sent me e-mail And she wrote there that Patrick had been back to Korea. You are now working in overseas trading company. It's great for you. Your English skill may be better and better. Your comment reminded me of happy days in CPILS. You and me were learning English in the same class. And playing table tennis together. (Of course I won.) I remember your friendly smile. Thank you for your kindness and friendship to me. I'll write you again. Please keep in touch!
読み返して見ると、いかにも幼い英文である。Patrickの文章にはスペルの間違いがあるし、私の英文もなにやらあやしげである。しかし、これでお互いの気持が通じる。そして、そのことが一番大切なのだ。
私とPatrickはセブにいるときも、こうした幼い英語で充分楽しくコミュニケーションができていた。大切なのは相手に自分の気持ちを伝えたいという思いである。英語はそのための道具なのだ。こう割り切れば、英語は誰にでも話せるし、書くこともできる。セブへ語学留学してみて、このことがよくわかった。
15日からセブで学んでいるAさんからも、再びメールが来た。友人もできて楽しくやっているそうだ。この週末にはボホールへ遊びに行くのだという。Aさんが率先して有志をつのったらたちまち11人が集まったという。さすが、行動派のAさんである。ただ、韓国の学生たちと気持が通じにくいとあった。そこで、私はこう書いた。
<韓国の学生はこちらから声をかけると、親しく話しかけてくるようになります。ただ、多少英語力がないと、ながい会話は続かないかもしれません。そのうちにAさんも英会話力がぐんぐんついてくるでしょうから、韓国の人たちともきっと仲良くなれると思います。とくに、同じクラスになると、毎日のように顔をあわせるので、しだいに親しみがわいてきます>
私の場合はわずか2週間の滞在だった。Aさんは1ヶ月の滞在である。おそらくAさんもそのうちに韓国人の友人がいっぱいできるに違いない。Aさんも自分のHPを持っているので、いずれその体験記を書くだろう。それを読むのも楽しみである。
(Aさんには、私のHPは内緒にしてある。なまじっか、私の体験記を読むよりも、まず自分でじかに体験して欲しいからだ。自分で試行錯誤しながら道を発見していくことで、セブ滞在はさらに印象深いものになる。私自身がそうであったように)
今日は1月6日に届いいた、あずみさんのメールを紹介しよう。あずみさんもセイジさんと同様に、インターネットで「CPILS」を検索していて、たまたま私の「セブ島留学体験記」の存在を知ったという。
メールには9月に私がセブを離れたあと、クラスメイトたちの消息がくわしく書かれていてうれしかった。また、みんなで船をチャーターして出かけたアインランド・ホッピングの写真も貼付してあって、ありがたかった。全文を引用しよう。
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シンさん、お元気でいらっしゃいますか? 大晦日に、弟のコウジと共にセブから帰国しました。4ヶ月の長い滞在でしたが、終わってみればあっという間だったようにも思います。ずっと長いこと夏だったので、日本の寒さについていけず布団から出られない日が続いております…
シンさんはその後、お体の調子はどうですか。良好であることを願います。 昨日、インターネットでCPILSについて調べていたところ、シンさんのページに出会うことができ あまりにもうれしかったのでメールしてしまいました。シンさんの日記のおかげで改めて授業やセブの生活を思い出すことができ、時には思い出し笑いもさせていただきました。ありがとうございます。
シンさんが帰国されてから2週間後、ゆみさん、ともき、Jellyが帰国、その4週間後、TimとPatrick も帰国してしまいました。Patrick は1/2から仕事が始まり元気に働いてるとの報告をもらいました。Timは現在オーストラリアで勉強しています。ゆみさんは12月半ばにセブに戻って来られ、三月末まで滞在されるそうです。よしみさんも私と同時期に帰国されましたが、今月末にはまたセブに戻り、三月末まで滞在されるそうです。
私たちの先生Cleenは12月で退職されました。別の学校に移ったそうです。1:8のRebeccaも今ニュージーランドに一時帰国しています。(友人の結婚式があるそうで。)シロウさんは日本で新しい仕事先が見つかり、今月末に帰国されるそうです。なぞの多いセイジさんは相変わらずセブと日本を行ったり来たりしています。現在政治さんの髪の毛はなぜか金髪です・・・
大学生の智樹は留年の危機を免れるため日々学校へ行き悪戦苦闘しているそうです。本日彼に頼まれたお土産のタバコを渡すので会う予定です。電話で「 ぶ〜ちゃんやせたか?」と相変わらず憎まれ口をたたいていました。
私のほうはといいますと、今月の18日から1ヶ月ほどオーストラリアに旅行する予定です。CPILSの友人達にも会えるといいのですが。その後メキシコ、カナダと旅行して日本に帰国予定です。その後はきちんと就職する予定でいます。そろそろ両親も痺れを切らせているので・・・。(半分くらいはあきらめているようですが・・・)
新年のご挨拶には遅れてしまいましたが、シンさんとご家族の皆様のご多幸とご健康をお祈り申し上げます。 I HOPE SEE YOU AGAIN !!!
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2006年01月19日(木) |
セブのクラスメイトたち |
去年の9月にセブに英語留学したが、その様子は「セブ島留学体験記」にまとめてHPに載せてある。セブから帰った後、クラスメイトの一人で、ディプロマットホテルでは隣室だったゆみさんが、早速写真を同封した手紙をくれた。
そこで、「セブ島留学体験記」に彼女の写真を使わせてもらった。そのむねをゆみさんに伝え、あわせて文章も読んでもらった。ゆみさんからこんなメールをもらった。
<ホームページ見ました。シンさんは本当にいろいろな体験をしたんですね。充実してたんだなあと、読んでて楽しかったです。私の写真が役立ってよかったです。私のエピソードまで載せていただいて、ありがとうございました>
ゆみさんには私の文章の不適切な部分の指摘もいただいた。他人のプライバシーにもかかわることなので、こうした文章をインターネットで発信するときにはいろいろと気を使わなくてはならない。ゆみさんのアドバイスに従って、いそいで内容の一部を削除し、表現を変えた。
その少し前に、おなじくセブのクラスメイトの一人のセイジさんも、ネット検索で私の「セブ島留学体験記」を見つけて、メールをよこしてくれた。
<お久しぶりです。cpilsで、検索していたらシンさんのHPを見つけちゃいましたので、メールしてみました。お元気でやっておられますでしょうか? 私は、ちょくちょくセブまで足を運んでる次第です。今度は12月18日にcpilsに再入校する予定です。由美さんも再入校するそうです。とても深いHPで、びっくりしてしまいました。画像がアップされるのを楽しみに待つことにします。それでは、お体にお気をつけてください。失礼致します>。
それからしばらくして、あずみさんからもメールが届いた。セイジさんから私のHPの存在を知らされて、「セブ島留学体験記」を読んだのだという。彼女のメールを読むと、私がセブを去った後のクラスメイトたちの消息がよくわかる。彼女の了解を得たので、明日の日記で紹介しよう。
http://hasimotohp.hp.infoseek.co.jp/cebu.htm
今月の15日から、Aさんがセブに英語留学している。一昨日の夜にセブからメールが届いたので、私も「リラックスして、英語もセブの海も楽しんでください」とメールを返しておいた。Aさんとは出発直前にも、電話で話しており、そのときも、リラックスするようにアドバイスした。
Aさんは私より数歳年上で、海外旅行も数知れないほど体験している。だから私がアドバイスすることはないのだが、セブに関しては私が先輩なので、つい先輩面をしていろいろ言いたくなる。食事をしていても、妻を相手に、「Aさん、大丈夫かな。食事が口に合わなくて、お腹を壊しているのではないかな」と、余計な心配までしている。
去年の9月に2週間セブに行って、私はたいへん充実したひととを過ごした。その話がAさんに伝わって、すぐにセブ行きを決めたようだ。「英語はまったく初心者なので、心配です」と言うので、「それは大丈夫です。親切にマンツーマンで教えてくれるし、日本語がぺらぺらのフイリピン人の先生もいますから」と答えた。
一昨日のメールによると、オリエンテーリングの選別試験の結果は「1を免れて2でした」とあったので、「それはおめでとうございました」と返事をしておいた。ちなみに私は「3」だったが、日本人の場合、五段階評定で「1」の人がかなり多い。英語がほとんど話せないわけだ。
昨日、喫茶店で「週間ポスト」を読んでいたら、たまたま大前研一さんの連載エッセイ「ビジネス新大陸の歩き方」が眼にとまった。大前さんは35歳を過ぎてからドイツ語の勉強をはじめたそうだ。
週一回個人レッスンを受けたが、なかなか上達しなかった。そこで、一計を案じて、先生を別荘に招き、3日間ドイツ語しか話さない生活をしたのだという。そうしたら、それをさかいにかなりドイツ語が話せるようになった。こうした自分の体験をもとに、大前さんは語学学習では「集中的に勉強することが必要」だという。私も同じようなことを2週間セブに留学して体験しているのでよくわかった。
大前さんは英語の効果的な学習法についてもいろいろと書いている。彼によると語学の学習は「聞く、話す」ということが基本で、これができて「書く、読む」に進むのが自然だという。私たち日本人が日本語を身につけるのもそうだし、英語のネイティブたちもそうしている。大前さんの文章を引用しておこう。
<英語の雑誌を読んで、わからないところがあったら調べる、という勉強法はおすすめできない。なぜなら、それは「読む」ということを重視した昔ながらのやり方であり、そういう勉強をした人で英語がうまい人はみたことがないからだ。
コミュニケーションの第一歩としては、とりあえず通じればいい。そう割り切って前に進み、回数をこなしていくことが、35歳を過ぎても、英語が上達する早道なのである>
私のセブでの実感は、「中学生レベル」の英単語と文法をマスターしていれば、たいていのことは話せるし、話が通じるということだった。大切なことは、英語の知識の量ではなくて、その知識を「いかに活用するか」ということではないかと思っている。
そしてこれは、英語に限らず、日本語についてもいえるし、すべてのことについて言える。いくら財産を持っていても、それを活用することを知らなければ、宝の持ち腐れである。私たちはもう少し自分の能力やキャリアを信じて、自分を前向きに活用する生き方を学んではどうだろうか。そうすれば人生がもっと楽しくなるだろう。
2006年01月17日(火) |
文章術を身につけよう |
作家の清水義範さんが「週刊現代」に「サラリーマンのための実践的文章術」を連載している。私はこれを楽しみにして毎回読んでいる。これを読めば実践的な文章の書き方がよくわかる。
ただし、こうしたたぐいの文章はただ読んでいるだけでは意味がない。それはいくら水泳についての本を読んで、水泳についての知識をためこんでも、実際に水で訓練しなければおよげないのと同じである。
しかし、水の中に入り、いったん「泳ぎ方」を体で覚えてしまえば、それは一生使える。しばらく泳いでいなくても、水に入れば自然と体がうごくわけだ。文章を書くこともこれと似ている。このあたりのところを、清水さんは「自転車乗り」にたとえて、こう書いている。
<文章を書くことと、自転車に乗ることは少し似ている。自転車に一度乗れるようになったら、十年ぶりに乗ってみても自然にうまくこげるものだ。乗り方を体が覚えているのである。
文章を書くこともそれとよく似たところがあって、文章をある程度の量書いて、ある程度うまくなったとしたら、もうそれ以降はそこまでのレベルのものは難なく書けるのだ。書き方を体が覚えてしまうからだ。
おそれて何も書かないのは、スケートリンクにスケート靴をはいて立つこともしないで、私は滑れないと言っているのと同じだ>
自転車に乗れるようになると、新しい世界が拡がる。そのときの感動をだれしも覚えているだろう。どうように、文章が書けるようになると、自分の思考の世界が拡がる。そして自分の意見を持ち、それを社会に向けて発信することにより、他者ともっと深く交流することができる。そこに新しい人生が生まれるのだ。このあたりのことを、清水さんはこう書いている。
<人間は社会の中にその一員として存在するものであり、特殊なケースを除いては、それが生きやすくて、楽しいのである。そして、社会の中に存在するというのは、その中で自分はこう思うと発言してこそ成り立つのである。そうしてこそ人生の喜びもある。
だから下手かも知れないと尻込みしないで、どんどん書くのだ。そうすれば必ず書いた分だけうまくなり、仕事が楽しくなり、人生が充実したものになるのである>
<とにかく文章を書けば、絶対何かが伝達される。書いた人がどういう人間であるかがわかるのだ。うまくないからと尻込みして書かないのは、私のことは無視して下さいと言っているようなものである。だからこわがらずにどんどん書けというのがいちばん根本のアドバイスなのだ>
とにかく、日記でも何でも好きなことを書いてみる。そして、できればそれを親しい人に読んでもらう。あるいはインターネットで発信してみる。そうしてたくさん書いているうちに、しだいに書く技術が洗練される。書くことは自分の思考ばかりではなく、感性をもゆたかに広げ、人生をいっそう楽しくて意義のあるものにしてくれる。これはもう、間違いのないことだ。
2006年01月16日(月) |
ストア哲学とキリスト教 |
イエス・キリストが存在しなければ、キリスト教は存在しない。人類の歴史も大きく変わっていただろう。同様なことが、パウロにも言える。パウロがいなくても、キリスト教は存在したかもしれない。しかし、それは随分違ったものになっていただろう。
パウロによって、まさにユダヤ民族のキリスト教は人類のための世界宗教になった。パウロの歩いた2万キロの伝道の道は、そのための希望の道であった。その道は小アジアからギリシャを通り、ローマへと続いていた。
パウロは生まれながらにしてローマ市民権をもつユダヤ人だった。しかも、彼はタルソで生まれ育った。タルソはアテネ、アレキサンドリアとならぶギリシャ文化に彩られた商業都市である。パウロはギリシャ語に自在であるばかりでなく、爛熟したヘレニズム文化のかぐわしさを知った国際的教養人だった。
キリスト教が成立するあたり、ローマ帝国の存在は不可欠だといわれる。ローマ帝国という巨大な池があったので、キリスト教はそこに大輪の花を咲かせることができた。帝国という豪奢な池に咲いたその花は清浄で美しかった。それは泥中に咲く蓮の花を思わせる。
ローマ帝国については、多くの史書が残っている。この人類史に輝く巨大な帝国について書かれた書物は数知れないし、これからも書かれるだろう。とくに「帝国はなぜ滅びたのか」ということについて、いろいろな議論がある。これについて、森本哲朗さんは「神の旅人」にこう書いている。
<ローマ帝国がなぜ滅びたのかを問題とするより、この帝国がなぜこれほど長く存続し得たのかにおどろくべきだ、といったのは「ローマ帝国衰亡史」の著者ギボンである。それに倣っていうなら、かくまで悪業を重ねてきた人類が、なぜ滅亡せずに生きながらえているのか、それにおどろくべきだろう。
その理由はただひとつしか考えられない。人間のなかに立派な人がいたからである。そして人間の魂に一片の良心が消えることなく生きつづけてきたからだ。立派な人とは神の声に耳を傾ける人、良心とは神の命に従おうとする魂、正しく生きたいと願う希求である。その希求があればこそ、人類は生きながらえることができた。想像を越える悪業にかかわらず。
ローマ史に登場する三人の人物、キケロ、セネカ、そして皇帝アウレリウスは、いすれもストア派の哲学を修めていた。その哲学はとくに倫理を重視し、すべてに神の刻印を見た。宇宙は神の摂理によって運行し、理性(ロゴス)がその本質をなすと考える。したがって、自らのうちに理性を持つ人間は小宇宙ともいうべき存在であり、理性を自覚するかぎり、人間は神の子であり、平等であると説く。ローマの頽廃を救ったのは、ほかならぬこのストア哲学だった。
だがギリシャに発するこの哲学思想は、ローマの賢人たちに真剣に受け継がれたにもかかわらず、一般大衆のなかには入っていかなかった。帝政ローマ時代の市民たちは、悪徳と頽廃のなかで、すきま風を受けるように一抹の不安を抱き、空しさを感じ、悔悟に似た心情で救いを求めていた。けれども、ストア哲学は彼らの渇仰にこたえられなかったのだ。なぜか。
一言でいうなら、その哲学はきわめて個人主義的だったからである。あまりに理性的であり、論理的であり、観照的であり、高踏的でありすぎた。ストア哲学の説く生き方とは、宇宙のロゴスに従うこと、具体的にいうならば、パトス(情念)につき動かされることのない静かな生活、自然にかなった調和のとれた生活をめざすこと、欲望などにそそのかされることのない不動の心(アパティア)を養うこと、つねに魂の平安(アタラクシア)のなかに住むこと、にほかならない。
よく考えよ。空しい悦楽や欲望に身をゆだねることなく、いたずらに世俗のなかを右往左往することなかれ! たしかに、それは傾聴に値する警告かもしれない。しかし、そう説かれても、一般の人たちはどうしたらいいのか。そこには残念ながら思想はあっても、具体的な指針に欠けていた。そして一般の大衆、最も救いを希求していた貧しい人びとにさしのべる手がなかったのである。
このようなストア哲学を充分に身につけ、しかもそれを越えて、人びとに心から共感できる救いの手をさし出したのが、パウロその人であった。その教えはストア哲学が気付かず、気付いてもほとんど意に介さなかった「愛」の一語に尽きる>
ストア哲学はローマ帝国の良心かも知れないが、それはあまりに高尚すぎて庶民に救済を与えることができなかった。考えてみれば、ストア哲学を代表するセネカは、ネロの家庭教師でありながら、ネロを暴君に育ててしまった。そのあげく、ネロに殺されている。ネロに必要なのは宇宙のロゴスの存在を説く高尚な思想ではなかった。ネロに必要だったのは、もっと身近な「愛情」であったのだろう。
森本哲朗さんの「神の旅人」を読み、聖書を読みながら、パウロの足跡をたどる旅はなかなか楽しくもあり、新しい発見に満ちていた。キリスト教がどうした過程で育っていったかよくわかった。
パウロのことを考えながら、私の脳裏にもう一人の宗教家の名前が浮かんだ。それは親鸞である。パウロが「神の旅人」だとすると、親鸞は「仏の旅人」だろうか。この二人は生きた時代も場所もまるで違っているが、その精神や生き方がよく似ている。
カイザリアというのは、その名前の通り、カエサルの都市という意味だ。パウロの一行はここから船でローマへと旅だった。小アジア沿岸の各地に停泊しながら進んだが、途中暴風に襲われたりして、船旅は苦難の連続だった。
最大のピンチは、クレタ島の近くで強い逆風を受けて船が漂流し始めたときだ。幾日ものあいだ太陽は見えず、暴風がふきすさむなかで、船は沈没寸前になった。人々は積み荷を捨て、船具を捨て、15日目には食料も捨ててしまった。そして船はようやくマルタ島に近づいたが、入江を前にして座礁してしまった。
<兵卒たちは、囚人らが泳いで逃げるおそれがあるので、殺してしまおうと図ったが、百卒長は、パウロを救いたいと思うところから、その意図をそりぞけ、泳げる者はまず海に飛び込んで陸に行き、その他の者は、板や船の破片に乗っていくように命じた。こうして、全部の者が上陸して救われたのであった>(使徒行伝)
パウロらはマルタ島で3ヶ月を過ごした。そして春の訪れとともに、ローマへと旅だった。イオニア海を北上し、シチリア島のシラクサにより、イタリア半島のポテオリに上陸した。あとは陸路7日間の旅だった。
パウロがローマ兵に引率されてローマに着いたのはAC62年の初夏のころだ。ローマ在住の異邦人キリスト教徒が途中で出迎えてくれた。パウロはローマで番兵をつけられた上で、ひとりで住むことを許された。ローマにおけるパウロの活動を、「使徒行伝」はくわしく書かずにこう結んでいる。
<パウロは、自分の借りた家に満2年のあいだ住んで、たずねて来る人々をみな迎入れ、はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教え続けた>
パウロがローマの法廷でどういう判決を受けたのか、彼の最後がどうだったのか、だれにもわからない。多くの研究者は、彼はAC64年7月18日のローマの火災で焼け出され、その後に行われたローマ皇帝ネロのキリスト教迫害にあって処刑されたのではないかと推定している。そのころのローマを史書はこう伝えている。
<放埒、淫欲、驕侈、貪婪、残酷を、なるほど初めのうちこそ、ネロはさりげなく、そして人目を忍び、いかにも若者にありがちな誤りでもあるかのように、犯していたが、そのころでも人々は、これらの悪徳が、生来のもので年齢とは関係がないと信じて疑わなかった。
ネロは、どんな理由からにせよ、これと決めた人を殺すのに、差別や手加減などを加えることは一切なかった。自殺を命じた者には、1時間を越える余裕もなかった>(スエトニウス「ローマ皇帝伝」)
タキトゥスもまた「年代記」の中で、ネロについて、「自然・不自然を問わず、あらゆる淫行でもって身を汚し、もうこれ以上堕落のしようがあるまいと思えるほど背徳の限りを尽くした」と書いている。母親アグリッピナさえも犯そうとし、さらには殺害までしている。そうした背徳の都で死んだパウロについて、森本哲朗さんはこう書いている。
<パウロがローマで殉教したことは、深い意味を持っている。なぜなら、当時の世界都市ローマは、悪の見本市でもあったからである。そこはまさしく、第二のバビロンであった。(略)
ネロの死後、内乱を経てようやく安定をとりもどす5賢帝時代になっても、人々はただ欲望の命じるままに動いていた。ローマ帝国の版図はトラヤヌス帝のとき最大となり、属州のいたるところに都市が出現した。
それらの都市を性格づけていたのは、ローマふうの劇場、円形の競技場、公衆浴場、すなわち享楽のための施設であり、どの都市にあっても人びとは「パンとサーカス」に生きていたのである。(略)
パウロの終着地点がローマであったことは、この意味できわめて重要といわねばならない。彼はそのような「罪の都」でイエスの教えをつたえ、殉教し、それによってキリスト今日の礎石をそこに据えたからである>(神の旅人)
ローマの大火と、その後に行われた処刑は、しかしキリスト教徒たちをさらに信仰へと燃え上がらせた。パウロの燃えるような信仰心が、その頃頽廃の極にあったローマに、あらたな精神の灯をともしていたからだろう。
<アウグストゥス治下のローマでは、1年のうち66ほどが、公共のゲームにささげられた。マルクス・アウレリウス治下では、彼はゲームを退屈だと思ったにもかかわらず、この数字が135日にのぼる。そして4世紀には、少なくとも175日に達した。
皇帝の大部分が、血に飢えた臣下にまけずおとらず、エクサイティングな剣闘士の傷害ラウンドを楽しんだのもまた明らかとはいえ、競技場にきまって列席するこが、人気をたもつために、皇帝には必要だったのだ>(プラトンリンガー「パンとサーカス」)
<アリュビウスは眼を閉じ、心に命じて、そのような悪いものに向かわないようにした。だが、耳をふさぐべきだったのだろう。実際、一人の闘士がたおれたとき、全観衆が割れるような叫び声をあげたのである。そのとき、彼は好奇心に負けて、眼を開いてしまった。
彼は血を見て、すぐに、むごたらしさをも赤い葡萄酒のように飲みほし、顔をそむけもしないで、まともに、それに見入った。血なまぐさい激しさを、あえぐように吸い込んで、しかもそれに気がつかなかった>(アウグスティヌス「告白」)
AC391年1月1日、一人のキリスト修道士が立ちあがった。彼は血みどろの競技を続けている剣闘士のあいだに割って入り、「殺しあいはやめよ」と叫んだ。熱狂していた観衆は、おもわぬ闖入者に一瞬静まりかえったが、次の瞬間怒りだした。観衆たちの投石がはじまり、修道士はその場で絶命した。しかし、これがきっかけになって、心ある人たちが立ち上がり、ついにホノリウス帝は剣闘士の見せ物を禁止することにした。
森本哲朗さんは、「自分の生命を賭して、殺人競技を告発したこの僧こそ、聖テーレマコスだった。パウロが殉教したローマとは、このような世界だったのであり、パウロのまいた種はこうしてローマを変えていったのである」と書いている。
パウロはカイザリアで2年間を過ごした。その間、彼はローマ総督のもとで軟禁されていたらしい。ローマ総督のペリクスはパウロを呼びだして話をきいた。総督の関心は、いかにユダヤの反ローマ勢力の勢力をそぐかということだった。この点でパウロの知っている情報に興味があったのだろう。
しかし、パウロはそうした話題にはふれず、ただひたすらイエスへの信仰を説いた。パウロが正義や節制、未来の審判のことを話していると、ペリレスは不安を感じて、「今日はもう帰るがよい。また呼び出す」とパウロを退出させたという。
パウロは幽閉されていても、神の使徒としての活動はやめなかった。パウロには「獄中書簡」とよばれるものがいくつか残っている。森本哲朗さんは、なかでも有名な「エペソ人への手紙」は、このカイザリア幽閉中に書かれたものではないか推測している。
<キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。
あなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。
立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手にとりなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう>(エペソ人への手紙)
やがてペリレスは皇帝ネロによって解任され、新しい総督フェストがやってきた。この新総督のもとで、ふたたび裁判が開かれた。エルサレムからきたユダヤ人は口々にパウロの罪状を並べ立てたが、新総督もまたこれによってローマ市民であるパウロを有罪にしてよいかどうか決断できなかった。パウロは総督にこう直訴した。
「わたしはユダヤ人たちに、何も悪いことはしていません。もしわたしが悪いことをし、死に当たるようなことをしているのなら、死を免れようとはしません。しかし、もし彼らの訴えることに、何の根拠もないとすれば、だれもわたしを彼らに引き渡す権利はありません。わたしはカイザルに上訴します」(使徒行伝)
この上訴を受けて、総督フェストはパウロを他の数人の囚人と一緒にローマに送ることにした。こうしてパウロは二年間の拘禁を解かれ、ローマの兵達に引率されてローマへと旅立つことになった。それはベスビオス火山が火を噴いてポンペイが埋もれる18年前の、AC61年のことだという。
パウロの心中はわからないが、ともかく彼はエルサレム母教会の長老たちにいわれた通りに行動した。つまり、4人の人たちを連れて、彼らとともにきよめを受けてから宮に入った。とりあえず自分が律法を軽視していないことを人々に示そうとしたわけだ。
しかし、7日間続けられたきよめが終わろうとするころ、アジアから来たユダヤ人たちが宮でパウロを見かけて騒ぎ出した。彼らはパウロに手をかけて叫んだ。
「イスラエルの人々よ、加勢してくれ。この人は、いたるところで民と律法とこの場所にそむくことを、みんなに教えている。その上に、ギリシャ人を宮の内に連れ込んで、この神聖な場所を汚したのだ」(使徒行伝)
パウロとともに宮にいた4人はユダヤ人だったが、興奮した民衆はもうそんなことはどうでもよかった。騒ぎを知ってかけつけたエルサレムの守備隊長がパウロを保護した。「その男を殺してしまえ」という群衆の叫びの中を、パウロは兵士達に担がれて退出した。
パウロはローマ市民権をもっていた。そして国際語であったギリシャ語を流暢に話した。したがってローマの官憲も彼をないがしろにするわけにはいかなかった。エルサレムの守備隊長は次のような手紙を添えて、彼をエルサレムからカイザリアのユダヤ総督のもとに送った。
<パウロが、ユダヤ人らに捕らえられ、まさに殺されようとしていたのを、彼がローマ市民であることを知ったので、わたしが兵卒たちを率いて行って、彼を救い出しました。それから、彼が訴えられた理由を知ろうと思い、彼を議会に連れて行きました。ところが、彼はユダヤ人の律法の問題で訴えられたものであり、なんら死刑または投獄に当たる罪のないことがわかりました。
しかし、この人に対して陰謀がめぐらされているとの報告がありましたので、わたしは取りあえず、彼を閣下のもとにお送りすることにし、訴える者たちには、閣下の前で、彼に対する申し立てをするようにと、命じておきました>(使徒行伝)
当時、ユダヤはシリアに合併され、ローマ総督の監督のもとにおかれていたが、ユダヤのローマに対する反感と憎悪は強く、ローマも手を焼いていた。事実、これから8年後のAD66年に、エルサレムでローマに対する大規模な反乱が起こっている。
そうした一触即発の不穏な雰囲気が、すでに当時のエルサレムには充満していた。さて、エルサレムに送られたパウロの運命はどうなるのか。続きは明日の日記に書くことにしよう。
パウロの布教の旅は、2万キロにも及んでいる。彼は3度目の伝道の旅で、エペソからマケドニアに向かい、ピリピ、テサロニケ、ペレアの諸教会を訪ね、コリントで冬を過ごしたあと、いよいよエルサレムへと向かった。パウロ63歳の頃である。
AC58年5月に、パウロはヘロデ王が建設した白亜の港町でユダヤの首都でもあったカイザリアに入った。そこから聖都エルサレムまで陸路を100キロほどである。カイザリアに入る前、パウロはミレトスで各地の教会の長老たちにあい、こんな言葉を残している。
<今や、わたしは御魂に迫られてエルサレムに行く。あの都で、どんな事がわたしの身にふりかかって来るか、わたしにはわからない。わたしはいま信じている。あなたがたの間を歩き回って御国を宣べ伝えたこのわたし顔を、みんなが今後二度と見ることはあるまい。
私が去った後、凶暴なおおかみが、あなたがたの中にはいり込んできて、容赦なく群を荒らすようになることを、わたしは知っている。だから、目をさましていなさい。そして、わたしが3年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがたひとりびとりを絶えずさとしてきたことを、忘れないでほしい>(使徒行伝)
人々は慟哭し、パウロを船にまで見送ったという。人々はパウロの演説から、もはや再びあうことができないことを予感していた。そして人々がいくら泣いて取りすがっても、パウロの決意が固いことも知っていた。
エルサレムはヘブライ語でイェルシャライムといい、その意味は「シャローム(平和)の町」という意味である。しかし、現在にいたるまで、エルサレムほど平和から遠い町はない。パウロが目差したエルサレムも動揺のさなかにあった。なにしろ、キリストがそこで十字架にかけられて、まだ28年しかたっていなかった。
エルサレムの教会にはヤコブをはじめ、11使徒と呼ばれるイエスの直弟子たちがいた。彼ら長老たちはイエスの直弟子でもないパウロをどう見ていたか、パウロは知らないではない。パウロはかってアンティオキアでペテロと論争したことがある。
<ペテロがアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった。「あなたは、ユダヤ人であるのに、自分自身は異邦人のように生活しながら、どうして異邦人にユダヤ人のようになることを強いるのか」>(ガラテア人への手紙)
パウロはユダヤの律法にとらわれず、キリストへの信仰に生きることが大切だと考えていた。キリストの教えはユダヤ人だけのものではない。異邦人にまで割礼を強い、律法を強いるいわれはどこにもなかった。パウロはキリストの弟子であった長老たちが、この点を理解しないのが歯がゆかった。
長老達の目からすると、ユダヤ人でありながら、そしてだれよりも厳格な律法主義者(パイサイ人)であり、かってはキリスト教を弾圧する立場にいた彼が、掌を返したようにイエスを崇拝し、しかもそれを異邦人にまで熱心に広めようとしていることに違和感があったのだろう。しかもその言葉や態度は妥協を許さない激烈さを帯びていた。
エルサレムの母教会を訪れたパウロはアジア、マケドニアの教会からあつめた献金をさしだし、自分の布教活動の報告をした。しかし、パウロを迎えるユダヤ人キリスト信者の態度は冷ややかだったようだ。パウロに同行したルカは、「使徒行伝」のなかで、長老たちのパウロに対する言葉を書き残している。
<伝え聞いているところによれば、あなたは異邦人の中にいるユダヤ人一同に対して、子どもに割礼を施すな、またユダヤの習慣にしたがうなと言って、モーゼにそむくことを教えている、ということである。どうしたらよいか。あなたがここにきているということは、彼らもきっと聞き込むに違いない。ついては、今わたしたちが言うとおりにしなさい。
わたしたちの中に、誓願を立てている者が4人いる。この人たちを連れて行って、彼らと共にきよめを行い、また彼らの頭をそる費用を引き受けてやりなさい。そうすれば、あなたについて、うわさされていることは、根も葉もないことで、あなたは律法を守って、正しい生活をしていることが、みんなにわかるであろう>(使徒行伝)
長老達たちが要求したのは、パウロが律法に忠実であることを、公衆の面前で示せということだった。しかし、それはパウロにとって、これまでの信仰に対する立場を放棄せよと迫るに等しいことだった。パウロはこの心中の難問をどう解決したのだろう。
2006年01月11日(水) |
アレオパゴスのパウロ |
正月に遊びに行った次女に、義父が「アテネに連れていってくれ」と言った。次女は今年は大学の卒論があるし、それに進路のこともある。それを横で聞いていた妻が、「もっとヒマそうな人にあたってみたら」と私の名前を上げたそうである。
「俺ならいいぞ。義父さんをアテネに案内して、念願のパルテノン神殿を見物させてやろう」 「父は80歳よ。もう外国の長旅はむりだわ」 「そうかな。しかし、ビジネスクラスあたりで、ゆっくり行けば何とかなるんじゃないか」
アテネに行きたいのは私の方かもしれない。おりしも森本哲朗さんの「神の旅人」を読んでいる最中だった。パルテノン神殿もそうだが、私にはもう一つどうしても行ってみたいところがある。それはアーレスの丘(アレオパゴス)である。
パルテノン神殿のあるアクロポリスの丘に登り、すぐ下を見下ろすと、オリーブの坂をへだてて、裸の岩山がみえる。頂の平らな、高さが100メートルほどのその巨大な岩の塊がアーレスの丘だという。
軍神アーレスはオリンポスの12神のひとりだが、大変粗暴な性格で、他の神々も持て余していた。しかし、アーレスがポセイドンの息子を殺したとき、さすが神々も彼を許さなかった。このときアーレスを裁く法廷が開かれたのがこの丘だという。
こうした神話にゆかりの丘を、アテネの人々は法廷として使った。裁判ばかりではなく、さまざまな集会がここで開かれた。その丘にはペリクレスやアレキサンダー大王が立って演説しただろうし、ソクラテスもプラトンもアリストテレスも立ったにちがいない。パウロもこの丘でアテネの人々を前に、「神の教え」を説いている。
<アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと見なすべきではない。神はこのような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる>(使徒行伝)
ローマが政治の中心だとすると、アテネは文化の中心だった。いわば最高の知性を前に、パウロはギリシャ語で熱弁をふるったわけだ。パウロはこうした教養ある人々を相手に、「巧みな知恵の言葉」を使い、信仰の言葉ではなく、むしろ理性に訴える話し方をした。しかし、結果はかんばしいものではなかった。とくに、イエスの復活をほのめかしたとき、アテネ人たちのなかに嘲笑がおきた。
<死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは「この事については、いずれまた聞くことにする」と言った。こうして、パウロは彼らの中から出て行った>(使徒行伝)
当時、ローマ世界で人気があったのは、エピクロス派やストア派の哲学だった。ヘレニズム時代を代表するこれらの哲学は、いま私たちが読み返しても益するところが大きい。しかしこの哲学を道しるべとし、ロゴス(理性)に基づいた節度ある生活をしていた人たちは、文化の都とよばれたアテネでもそう多くはなかった。
多くの人々は、宮殿にさまざまな神の像をまつり、これを偶像崇拝していた。そうした無知な人々に対しても、また知的な人々に対しても、パウロの演説はその胸底までは届かなかった。パウロは失望してアテネを去り、コリントに向かった。
<わたしがあなたがたの所へ行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力の証明によったのである。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった>(コリント人への手紙)
パウロは「巧みな知恵の言葉」に頼ることで、アテネで失敗した。そこで、「知恵の言葉」に頼りすぎないで、「信仰の言葉」に力点を移すことにしたのだ。こうしてパウロはアテネでの失敗をいささか挽回した。そこにはパウロの言葉に虚心に耳を傾ける人たちがいて、種が芽を出すことができる「良き土」があった。
いずれにせよ、パウロはアテネで挫折した。その苦い記念の場所がアーレスの丘である。アテネを訪れた時には、私もまたこの丘に登り、眼下のアテネの市街や、古代のアゴラでも眺めて、できればひなが一日、そこで瞑想に耽っていたい。アクロポリスの丘に比べて、こちらはほとんど訪れる観光客はいないようだ。
今年の正月休みは、どこにも旅をしなかった。ときおり出かけたのは、木曽川を渡って隣の笠松町までの徒歩の旅である。妻と二人で古い街並みを眺めながら、神社まで歩いた。帰りに鯛焼きを買い、木曽川の河原でひなたぼっこをしながら食べた。
散歩から帰ると、読書をした。いろいろな本を読んだが、なかでも森本哲朗さんの「神の旅人」がおもしろかった。これは聖パウロの伝道の道を、森本さん自身が自分の足でたどった旅行記である。
これを読んだ後、何年ぶりかで聖書を読んだ。福音書はよく読んだが、「使徒行伝」やパウロの手紙はこれまであまり読まなかった。「神の旅人」を読んだ後でこれらを読むと、その内容がとてもよくわかった。なんだか2000年も昔のパウロの時代にタイムトラベルしたようなスリリングな体験だった。
ガテレア人にあてたパウロの手紙は「キリスト教誕生」の文書だと言われている。森本さんも、「この手紙によってキリスト教は、はっきりとユダヤ教から独立し、ユダヤ教の律法主義から解放されたのである」と書いている。
<あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマ(洗礼)を受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである>(ガテレア人への手紙)
ところでこのガテレア人とは何者だろうか。私は彼らがカエサルの「ガリア戦記」に出てくるガリア人だとは知らなかった。もう少し言えば、ガリア人はケルト人のことである。ローマに征服される前、ゲルマン人がヨーロッパに棲みつく前、ヨーロッパはケルト人の大地だった。
ヨーロッパの先住民族であったケルト人は、ローマに追われて、一部はアイルランドに逃れたが、多くはローマ帝国にのみこまれてしまった。パウロの時代はまだその末裔が各地に棲息していたようである。
パウロが伝道したガテレア人はどこに住んでいたのだろう。森本さんによれば、彼らは前3世紀のはじめに、ヨーロッパからギリシャを通り、小アジアに移住してきた人たちだという。
<午後の陽はもう西に傾いていた。そして、車は倒れかかった標識が一本ポツンと立っている荒野の真ん中に停まっていた。私は目をこすりながら車をおり、標識の消えかかった文字を読んだ。「ピシディアのアンティオキア」とあった。あたり一面に鬼アザミが枯れながらも薄紫の花を必死に支えていた。
ここがアンティオキアか! 「使徒行伝」によれば、この町の会堂で福音をつたえたパウロとバルナバのあとを大勢のユダヤ人や信心深い改宗者たちがついてきて、つぎの安息日にも同じ話をして欲しいと、しきりに頼んだという。そして、「次の安息日には、ほとんど全市をあげて、神の言葉を聞きに集まってきた」とある。ここは南ガテレアの首都でもあったのだ。
だが、いまはアザミだけが咲いている。私は額の汗を拭い、おそらくその群衆のなかにいたであろう信心深いガテレア人の姿をいつまでも胸中に描いていた>(森本哲朗「神の旅人」)
イエスはマタイ福音書の中で、「道端に落ちた種」や「いばらの地に落ちた種」について述べている。いくら種をまいても、荒地に蒔いた種は育つことができない。しかし「良い地」におちた種は実を結び、60倍にも100倍にもなる。
パウロはガテレア人の純朴な心のなかに、「良い地」を見いだして、熱心に種を蒔き続けた。そしてここから、たくさんの実が育って行った。
2006年01月09日(月) |
もし一粒の麦死なずば |
キリストが十字架にかけられたのはAC30年の年だ。このとき、パウロは35歳くらいだった。1,2年後、パウロは復活したイエスの声を聞いて、ユダヤ教からキリスト教に改宗する。そして伝道活動の旅に出る。
パウロは都合3度の伝道旅行をしているが、そのうち2回目と3回目でコリントを訪れ、ここに数年間滞在した。パウロが最初にコリントを訪れたのはAC50年だが、この頃コリントは当時アテネと並ぶ国際商業都市として賑わっていた。「パウロは安息日ごとに会堂で論じては、ユダヤ人やギリシャ人の説得に努めた」(使徒列伝)とあるように、パウロにとってここは重要な伝道拠点だった。
ところがパウロはコリントに住む一人のユダヤ人から「ユダヤの律法にそむいて神を拝むように人々をそそのかしている」と訴えられる。なにやらキリストの受難を思わせる成り行きである。しかし、ピラトと違って、コリントの総督であったガリオはこれを無視した。訴えた男は反対にパウロを支持する人々によって打ち据えられた。
コリント総督のガリオはセネカの兄だという。セネカはガリオにあてて、何通かの手紙を送っている。それらの一部を引用しよう。
<ガリオの兄上に申す。幸せに生活したいのは誰もみな望むところである。しかし人生を幸せにするのが果たして何であるかを見定めるのはむつかしく、誰もみんな五里霧中の状態だ。それだけに、幸福な人生に到達するのは容易でないどころか、誰でも一歩道を誤れば、幸福な人生を求めて急げば急ぐほど、逆にそこから遠ざかってしまうばかりである>(幸福な人生について)
<大広場が沢山の人間で雑踏している。大競技場には、民衆の大部分が姿を現す。そういうところを見るときには、そこには人間の数と同じぐらいの悪徳があると承知するがよい。平服時のトガを着た者たちを見ても、彼らの間には何の平和もない。ある者は僅かな銭をもらって、他の者を破滅させることに引き込まれる。他の者が損害を受けないことには、誰にも儲けはない。彼らは幸福な人を憎み、不幸な人を軽んずる。矛盾した欲望に掻き乱されて、僅かな快楽や利益のためにすべてを失うことさえも望む。これは野獣の集まりである>(怒りについて)
セネカが描いたのは、ローマの頽廃した姿だが、コリントなどバックス・ロマーナ(ローマの力による平和)によって繁栄を極めた地方都市でも状況は同じだった。森本哲朗さんは「神の旅人」(PHP文庫)のなかで、次のように書いている。
<セネカの作品ほど当時のローマの風潮を、当時の人びとの魂の状況を、はっきりとつたえるものはない。ローマの都市はどこでもにぎわい、市民たちは享楽の毎日を送っていた。だが、享楽を追えば追うほど、利に走れば走るだけ、刺激を求めれば求めるにつれ、人々の心の内は空虚になっていった。そして、人間を真にしあわせにするものは何なのか、だれもそれを見定めることができず、みな五里霧中の有様だった>
ちなみに、セネカから手紙を送られた総督のガリオは、AC66年に自殺している。カリグラ、クラウディウス、ネロと続く皇帝の陰謀と流血に満ちた時代を生きることは容易ではない。とくに悪徳に流されず、自己に誠実に生きようとすれば、誰しも絶望に打ちひしがれるものだ。こうした中で、パウロの言葉が人々の胸にしみこんでいった。
<ある人は言うだろう。「どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか」。おろかな人である。あなたの蒔くものは、死ななければ、生かされないではないか>(コリント人への第一の手紙)
パウロはコリントの町に「1年6ケ月の間腰をすえて、神の言葉を彼らの間に教え続けた」(使徒列伝)という。彼はユダヤの律法主義を批判すると同時に、ギリシャ人の偶像崇拝を厳しく糾弾し、彼らの神々を児戯に等しいものとして排斥した。弟子の家に住み込んで、生業のための天幕造りの仕事をしながら、命をかけての烈しい伝道だった。
2006年01月08日(日) |
「You are OK」の世界 |
人が人として成長して行くにあたって、生後3ヶ月の期間がたいへん重要だといわれている。この期間に赤ん坊は親との信頼感関係を築き、人生に対する態度を学ぶ。自己と他者について、生涯に及ぶ基本的な姿勢を獲得するわけだ。
母親や周囲の愛情に包まれ、大切にされた赤ん坊は、自分がこの世界に祝福されていることを感じる。そしてこの感情が、他者への信頼の基盤となり、自己への信頼の基盤になる。そしてこの信頼の基盤の上に、さまざまな人生の邂逅を通して、その人独自の人間性が育てられる。
しかし、この期間に愛情に恵まれなかった赤ん坊は、人生に対する信頼の基盤が脆弱だから、自分や他者を信じることができない。中尾英司さんは「あなたの子供を加害者にしないために」(生活情報センター)のなかで、生後3ヶ月の生活環境が決め手になって、人はおおむね次の4つのタイプの人生についての基本姿勢を持つと書いている。
(1)お互いを認める、I am OK. You are OK。 (2)人のせいにする、I am OK. You are not OK。 (3)自分はダメだと思う、I am not OK. You are OK。 (4)虚無的な、I am not OK. You are not OK
基本姿勢として望ましいのは、自己に対しても他者に対しても受容的な「I am OK. You are OK」であろう。こうした人間に育てるにはどうしたらよいのか。中尾さんは「無条件な愛情」と「人間として尊重」することが大切だという。そして次のように書いている。
<つまり、親として当たり前のことを当たり前にやっていれば、前向きな子どもに育つということです。が、自由競争の価値観はこの二つを侵害します。条件付きで愛情を与え、つい子どもの尻をひっぱたいてせかすのです。親自身が自由競争の価値観と対決しなければならないことがわかります>
競争的価値観で育った共感力に乏しい親は、「しつけ」の名のもとに、子どもを操り人形にし、子どもの成長を奪い、人間不信の孤独世界へと追いつめる。しかも共感力に乏しい親たちや教師は、こうして人生を奪われた子供たちの悲鳴に声をかたむけることもできない。その結果、酒鬼薔薇事件のような世間を震撼させる少年犯罪も起こってくる。
<Aの母親はしつけをいそぐあまり、この三カ月をとばしました。もちろん生まれた子を愛していたでしょう。が、「赤ちゃんを理解する」ことよりも「赤ちゃんにしつけをする」ことを優先したように思います。
それは、『長男Aをある程度キチンとしつけていれば、後に続く子も上を見て育つ』そういう意識が確かにあったと書いているところにも表れています。二歳のAに茶碗を流しに持っていかせるなど、常にしつけを急ごうという意思が働いていたように思います。Aの側から見れば常に要求を受け続けていたわけです>
子供たちはやがて、自分が受けたのと同じことを、他人に繰り返す。犯罪を犯す人たちの多くはあまり自責の念をもたないという。それは「自分が受けたことと同じ事をしているだけだ」という意識があるからだろう。
親や教師が知らず知らずに子どもを傷つけ、傷つけられた子どもは、のちにそのお返しをするわけだ。犯罪者にならないまでも、「I am not OK. You are not OK」という虚無的な姿勢で人生を生きることになる。
もちろん、赤ん坊の三ヶ月で人生がすべて決まるわけではない。虚無的な姿勢を持って成長した人も、何かを転機にして、魂が「I am OK. You are OK」の世界に蘇ることがある。
そういう人たちは、苦しい人生行路を経験しているだけに、その喜びは大きく、その体験を「生まれ変わり」として意識する。人類史に名前を残している思想家や芸術家は、多かれ少なかれ、こうした蘇生体験をもっているようだ。
昨日の朝日新聞によると、日本人に肥満が多くなっているようだ。小学生でもこの10年間にかなり肥満が進んでいるという。これは過食や偏食、それに運動不足が原因だそうだ。小学生のうちから成人病になる人もいるという。
肥満とまではいかなくても、体重を減らしたい人はかなりいるだろう。しかしダイエットはなかなかむつかしい。とくにお正月はご馳走が食卓に並ぶから、どうしても箸がでてしまう。私も毎年正月になると、2キロほど太っていた。そして一旦脂肪がついたら最後、これを落とすのはなかなかむつかしい。
毎年こうした悩みを抱えていたが、今年は正月中も1日2食を心がけたおかげで、体重の増加はなかった。私の理想体重である60キロをなんとか維持している。なんとかと書いたのは、体重計の針をよく見てみると、3,4百グラムは右に振れているからだ。
これはミカンや干し柿、あるいは饅頭などの間食をしたからだろう。間食はしないことにしていたが、今年は青春切符も買わず、旅もしなかった。家の中にごろごろしていると、つい暇に任せて家においてあるものを余計に口に運んでしまう。
去年の今頃は、私は70キロ近い体重があった。どのズボンも腰回りがきつく、それに高血圧に悩まされ、「何とか体重を減らさなければ」とあせっていたが、凡夫のかなしさで、自分の食欲には勝てなかった。
ダイエットに成功したのは、職場が変わり、ストレスが少なくなったせいもあるが、それよりA先生に出会ったことも大きい。定時制は給食があるのだが、A先生だけは職員室にいつも残っている。不思議に思って訊くと、「私は1日2食でやっていますから」という。
「お腹は空かないですか」 「最初は空きましたが、今は平気ですよ。体調はとてもいいです」 「家ではしっかり食べているのですか」 「家でも腹八分目ですね。基本的に菜食です。1食しかたべないこともあります」 「それで栄養は大丈夫ですか」 「大丈夫です。最近は風邪も引きません」
A先生は私よりも年上の58歳の英語科の先生だが、生徒会の顧問をやり、教員のなかでも一番忙しく働いている。しかも柔道部の顧問をしていて、授業が終わった後、武道場で生徒を相手に汗を流す。去年の夏には生徒を全国大会にも連れていっている。先日、体育館でバトミントンをしたときも、私は彼に完敗した。
すぐ身近に、こうした実例があるのは心強い。そこで学校が夏期休暇に入ると同時に、私も1ケ月ほど試みに「1日2食」をつらぬいた。そうしたら、毎日のように体重が減りだして、1ヶ月で4キロほど減った。
これに気をよくした私は、学校が始まってからも「1日2食」を貫いた。そうしたら、ますます加速度的に体重が減り、血圧もほとんど正常値になった。と、ここまではすべて順調だったのだが、思いがけない視力障害に見舞われ、一時は入院騒ぎになった。
A先生はそんな私をみて、一冊の本を貸してくれた。甲田光雄博士の「小食が健康の原点」(たま出版)である。そこに専門家の立場から、小食の理念と実践がわかりやすく書かれていた。ただ単純に1食抜けばよいというものではないのだ。さらに、断食したときに現れる身体症状もくわしく書いてある。
<Oさんが最初断食に入ったとき、蕁麻疹が断食中、身体全身に出て、しかも猛烈な痒みで夜間一睡もできないくらいでした。これは断食の反応症状ですが、断食中に免疫機能なども活発になる結果として、皮膚面に、その現象として症状が現れたものと思います>
じつは私も食事を減らし始めた頃、蕁麻疹が下半身に現れた。そんなに痒くはないのだが、風呂に入るたびに足に紫色にひろがったシミをみるのは不気味だった。さいわい数日のうちにこれは消えたが、もし事前にこの本を読んでいたら、これも一過性の「断食症状」だとわかり、不安にはならなかっただろう。
なお、視力障害の謎も、この本を読んで解けた。高血圧は脳に必要な血液や栄養を送るために心臓ががんばっている証拠である。これをむりに薬で下げると、脳に充分な血液がいかなくなる。私の場合はダイエットで血圧が正常まで下がっていたのに、習慣で降圧剤を飲み続けたのがいけなかった。
ちなみに日本人の4割近くが高血圧だという。降圧剤に使われる医療費もばかにならないらしい。薬代は現在9兆円だというが、今後、これが倍増していくという予想もある。多くの人が小食を実行すれば、現在30兆円を超えている医療費も抑制されるだろう。
小食は健康によいがそれだけではない。過食を慎むということは、資源を大切にするという生き方につながる。地球には過剰の栄養で病気になる人が何億人もいて、一方で飢餓のために命を奪われていく人が何千万人もいる。「小食は自己と人類に対する愛の行為である」ということを教えてくれたA先生を、私は今では「お師匠さん」と呼んでいる。
昨日は妻から夫が離婚を迫られるケースを書いた。そこで今日は夫から妻に離縁状を迫る場合を書いてみよう。統計を調べてみたわけではないが、こちらのケースはかなり稀だろう。しかし、私の知人にもいるくらいだから、皆無ではない。
離縁状を出したからといって、夫が妻を嫌っているわけではない。夫はむしろ妻を愛し、家族を愛しているかもしれない。しかし、家族以上にやりたいこと、やらねばならないことがある場合もある。
定年までは、この気持を押さえて、家族のために尽くしてきた。家族サービスもし、よき夫であり、よき父親であった。そうした男がいきなり、「俺と縁を切ってくれ」と言い出したら、妻はおどろき、子供たちもびっくりするだろう。
「そんなの、身勝手ではありませんか」 「お父さんのエゴイズムよ」 「あなたがそんな人間だとは知りませんでした」
おそらく集中砲火をあびて、立ち往生するかもしれない。したがって、男はそうした愁嘆場をさけ、手紙をおいてある日忽然と姿を消すだろう。「これまでありがとう。感謝している。しかし、俺にはやりたいことがある。できれば離婚してくれ」と書かれた手紙に、離婚届も添えておく。
これでも残された家族にはショックなことには変わりはない。妻は夫に女ができたのかと疑うかも知れない。そこで、何か自分の気持を伝えることができる証拠を添えておくほうがよい。たとえば、芭蕉の「奥の細道」とか、森本哲朗の「神の旅人」(PHP文庫)などはどうだろうか。パウロの生涯を書いた「神の旅人」という本の冒頭近くには、こんな文章がある。
<人間はだれもが、げんに生きている自分を自覚している。こうしてわたしは生きている、とそう思っている。だが、ある瞬間、自分は生きているのではなく、生かされているのではないか、ということに気付く。そして、そのときから、その人は人生の旅人となる>
妻も子供もこれをいぶかしがるだろう。しかし、何かこの世の常でないものの気配をくみとることができるはずだ。芭蕉はその気持を、「そぞろ神の物につきて心をくるはせ」と書いた。いってみれば「酔狂」ということかもしれない。
夫が離縁を迫るのは、家族との関係を清算したいから、絆を断ちたいからである。そうしないと、また未練がましく舞い戻ってくるかもしれない。また、旅に出た以上は、「のざらし」は覚悟の上だろう。どんな死に方をするかわからないが、家族に迷惑はかけられない。
ここに書いたのは、とてもまれなケースのように思われるかもしれない。しかし、私は「片雲の風にさそわれて、漂泊の思ひやまず」という衝動は、多くの人たちの胸底ふかくに潜んでいるのではないかと考えている。なぜなら、私たちはだれしも、ほんとうのところは「神の旅人」だからだ。
森本さんは、「人はさまざまな動機で旅に出る。さまざまな目的で旅を試みる。だが、人々を旅に誘うもの、それは神の呼び声なのではないか」と書いている。私も同感である。そして、「そぞろ神」に誘われて旅に出る代償に、今日もこんな日記を書いている。
2006年01月05日(木) |
熟年離婚は避けられるか |
これから数年間、団塊世代がぞくぞくと退職していく。そこで予想されるのが「熟年離婚」の増加である。会社を退職して家庭の人となったとたん、妻の方から「別れて下さい」と言われる。
家族のために我慢して働き、退職後の甘い夫婦生活を夢見ていた夫にとって、これはまさに寝耳に水だ。おまけに子供たちも妻に味方する。いきなりひとりぼっちになった夫は、なぜ、こんな理不尽な仕打ちをうけなければならないのかわからない。しかし、これは妻の立場に立てばわかることだ。
定年間際ともなれば、おおくの人は部下をもつ管理職だが、会社でいばっていた人も、退職してしまえばただの人。家庭でもつい、会社の癖がでて、家人にいばりたがる。人を支配し、自分の思うとおりにならないと面白くない。
しかし、家人は部下ではないから、オヤジの権力者面におべっかいを使わない。たとえ夫が月給を稼いでいたときはおべっかいをつかっていた妻も、退職すればその必要もなくなる。おべっかいを使われ、威張ることに馴れていた人は、怒り、当惑し、やがて自分の無力を自覚する。愚痴を言ってもしかたがないとわかると、あとは無気力、無関心になり、呆けるしかない。
こういう男のことを妻たちは「産業廃棄物」と呼ぶらしい。もはや人間扱いではなく完全な「粗大ゴミ」あつかいだ。哀れな末路というしかないが、私を含め、これから退職する団塊の世代にとっては他人事ではない。
あくせくはたらき続け、無事退職し、さあこれから妻と水入らずで人生を楽しむぞと思っている人も多いのだろうが、現実はそう甘くないわけだ。「週刊新潮12/22号」に作家の渡辺淳一が「熟年離婚」と題してこう書いている。
<多くのサラリーマン家庭では、夫は朝早くから会社に出かけ、帰りは遅く、家に戻ってからは眠るだけ。「亭主元気で留守がいい」で、長年、妻はその状態にならされてきた。
ところが夫の定年退職を境にして、この生活のリズムが一変する。いままでいないも同然だった夫がどこにも出かけず、朝から晩まで家にはりついて動かない。くわえて朝、昼、晩、「めし」といって、口を空けて待っている。
さらに妻が外出しようとすると、「何処へ行くんだ」「何時に帰るんだ」ときく。帰りの時間が少しでも遅れたらぶつぶつ文句をいう。
夫は定年退職をすると、体力も気力もめっきり衰え、「産業廃棄物」となった夫はもはや妻の若さにはかなわない。海外旅行に行っても、自分から地図をひろげたり、切符を買ったりせず、すべて妻まかせ。妻から見ると「手間ばかりかかって、面白くもおかしくもない」と夫に嫌気が高じる。これが最近はやりの熟年夫婦の「成田離婚」の実態だという。
定年後の甘い生活を夢みている団塊世代にとって、その現実は甘くないことを認識すべきだろう>(あとの祭り、熟年離婚)
先日、ホテルへ友人とランチを食べに行ったときも、まわりは女性ばかりだった。30代から50代くらいまでの女性達が、カップルで、あるいはグループで楽しそうに会話しながら食べている。「女性ばかりだね」というと、友人は「あたりまえだよ。父ちゃんはいまごろ会社で必死で働いているんだから」と笑っていた。
女性達はカルチャーセンターに通い、文化や教養を身につけ、情報も豊かで友人との会話をたのしむ術も身につけている。それにくらべて、働き蜂の男性たちは文化に親しむゆとりはなく、洗練された会話力もない。妻との文化格差は夫の知らないうちに拡がってきている。産業廃棄物と呼ばれ、妻から離縁状を突きつけられる前に、私たち男性も生き方を考え直す必要がありそうだ。
妻が暮れに小川洋子さんの「博士の愛した数式」を読んでいた。感想を聞くと、とってもよかったという。私は発売された当時、北さんに薦められて、学校の図書館で一番に借りて読んだ記憶がある。この日記帳でも紹介した。
その頃、数学教育研究会に出席したが、多くの数学の先生も読んでいて、絶賛していた。小説の形をとおして、数学の世界の奥の深さや、神秘的な美しさがうまく描かれている。生徒達にも読んでほしい一冊だ。もうすぐ映画も公開されるようだから、たのしみである。
数学者が小説の主人公になることは珍しい。数学と聞くだけで、拒否反応を起こす人も少なくないだろうし、数学者は理屈っぽくて偏屈で、浮き世離れしていて、あまり人間性に魅力がないという、ステレオタイプの先入観もある。
しかし、数学者も人間だ。むしろ世間の人に負けず純粋でロマンチックなところもある。そうした数学者の一面をうまく捉えて成功したのが「博士の愛した数式」なのだろう。
数学者が主人公の小説といえば、最近では東野圭吾さんの「容疑者Xの献身」がある。これも北さんに薦められて、図書館に行くたびに探しているのだが、まだ手に入れてはいない。ただtenseiさんが1/2の「tensei塵語」で紹介してくれた。これを読んで、ますますこの小説が読みたくなった。全文を引用させていただこう。
−−−−− 東野圭吾「容疑者Xの献身」 −−−−−
30日の夜に読み始めて、31日までに半分くらい読んでいたのを、昨夜から今朝にかけて読み終えた。読み始めたら、読みたい読みたいという思いに突き動かされて、短い間隙にもほんの数ページでも読み進めたくなる。数学者の築いた綿密なトリックと、彼に敬意を抱く物理学者の推理。。。実に緊迫したドラマだった。
確かに、「このミステリーがすごい!」である。「半落ち」もそうだったけれど、事件やトリックの解明もさることながら、人間の心の謎に迫っているところが大切なのだ。
「身体を拘束されることは何でもない、と彼は思った。 紙とペンがあれば、数学の問題に取り組める。 もし手足を縛られても、頭の中で同じことをすればいい。 何も見えなくても何も聞こえなくても誰も彼の頭脳にまでは手を出せない。そこは彼にとって無限の楽園だ。
数学という鉱脈が眠っており、それをすべて掘り起こすには、一生という時間はあまりにも短い。誰かに認められる必要はないのだ、と彼は改めて思った。論文を発表し、評価されたいという欲望はある。だがそれは数学の本質ではない。誰がその山に最初に登ったかは重要だが、 それは本人だけがわかっていればいいことだ」(P343)
「花岡母娘と出会ってから、石神の生活は一変した。自殺願望は消え去り、生きる喜びを得た。2人がどこで何をしているのかを想像するだけで楽しかった。世界という座標に、靖子と美里という2つの点が存在する。彼にはそれが奇跡のように思えた。日曜日は至福の時だった。窓を開けていれば、2人の話し声が聞こえてくるのだ。内容までは聞き取れない。しかし風に乗って入ってくるかすかな声は、石神にとって最高の音楽だった」(P344)
「彼女たちとどうにかなろうという欲望はまったくなかった。自分が手を出してはいけないものだと思ってきた。それと同時に彼は気づいた。数学と同じなのだ。崇高なるものには、関われるだけでもしあわせなのだ。名声を得ようとすることは、尊厳を傷つけることにもなる。
あの母娘を助けるのは、石神にとって当然のことだった。彼女たちがいなけれは、今の自分もないのだ。身代わりになるわけではない。これは恩返しだと考えていた。彼女たちは身に何の覚えもないだろう。それでいい。人は時に、健気に生きているだけで誰かを救っていることがある」(P345)
こうだから尚のこと、我々読者はこの作品のラストで泣かされてしまうのだ。
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=18221&pg=20060102 −−−−−−−−−−−−−−
2006年01月03日(火) |
お任せ民主主義から脱却 |
最近、「インターネット新聞」を読むようになった。市民による、市民のための、しかもインターネットを利用した購読料のいらない新聞である。庶民の力になってくれる有り難いメディアだ。
http://www.janjan.jp/
1月1日のトップに竹内謙さんという方が、「総務省の公選法解釈は憲法違反だ!」という記事を書いている。竹内さんが大学での講演会で「選挙運動にインターネットを使えると思うか?」と尋ねたら、大部分の人たちが「使えない」に手を挙げたという。
しかし当然ながら1950年にできた公職選挙法のどこをみてもインターネットに関する規制は一言も触れられていない。ただ、総務省が10年ほど前から「使えない」という法解釈を示してきた。それに多くの人たちが従順に従っていることを知って、竹内さんはちょっとがっかりしたという。
公選法ではハガキ、ビラなど選挙運動に使える文書が定められていて、それ以外の文書頒布は禁止されている、そして総務省はインターネットのHPも「文書配布」にあたるという。
しかし、ホームページは見たい人が自発的に見に行くのであって、配られるわけではない。官僚が公職選挙法を勝手に解釈して選挙運動を規制するのはおかしい。問題があるのなら、官僚の解釈にまかせるのではなく、国会で議論して法律を定めるべきだろう。竹内さんこう主張して、政治的背景を次のように分析している。
<なぜ、こんな解釈がまかり通ってきたのか。旧来型の選挙は、政官財癒着の利権構造と労働組合、宗教団体による集票構造に支えられてきた。インターネットは、だれもが選挙に参加することを容易にし、選挙を有権者本位、政策本位に変革する可能性がある。となれば、旧来型の選挙構造は崩れかねない。そんな不安を抱く政治家たちが、総務官僚に「ネット選挙禁止」の解釈を強いてきたといってもいい>
そもそも公選法の本来の精神は「カネのかからない、公平な選挙」のために選挙戦に使える「武器」を対等にしようということだった。この趣旨からしても、インターネットがこのまで普及した現在、その政治的利用を規制するのは、もはや時代遅れだろう。
<候補者や政党が政策や主張を有権者に伝えるのに、これほど便利で、安上がりなツールはない。つまり、インターネットは公選法が「文書図画の頒布」を制限してきた根拠を奪い、総務省の解釈はいまや、憲法違反の状況になっているのだ。
ネット選挙に背を向けてきた自民党がようやく重い腰を上げ、07年参院選からの適用を目指して、今年の通常国会に公職選挙法の改正案を提出しようと作業を進めている。諸外国がインターネットを自由に選挙運動に活用していることからみると、遅きに失した感はあるが、ぜひネット時代にふさわしい選挙制度を早急に実現してほしいと思う。・・・
戦後60年。一刻も早く「お任せ民主主義」を返上しないと、この国の将来は暗い。そのためには、民主主義の基礎を支える選挙を国民主体のものにすることが肝要だ。ネット選挙の解禁は、その絶好のチャンスである>
経済の方は一足先に「ネット株」の時代がはじまった。しかしネット株はだれでも参加できるとは限らない。経済的にゆとりのある人しか参加できないからだ。したがってこれによって貧富の二極分化がはじまり、経済格差が助長されるおそれがある。
これに対して、「ネット選挙」の方は、だれでも平等に一票を行使することができる。これによって政治格差が生まれる心配はあまりない。ネット選挙が解禁になれば、「きっこ」さんのような人気ブログの作者がネット候補としてもてはやされるかも知れない。庶民にとって面白い時代になる。
小泉構造改革でいう「小さな政府」のねらいは、政治による経済の干渉を小さくしようということだ。政治をなるべく排して、生活全般を経済原則にゆだねようということだ。しかし、経済の分野は、だれもが平等な権利を持っているわけではない。それは富者であるほど有利な権力構造をもっている。
私たちは経済に対する政治の優位を手放すべきではない。そのためにインターネットを武器にして、「お任せ民主主義」を脱却しよう。
数年前から年賀状は出さない事にしているが、いただいた方にはいつも元旦の日記を引用した手紙をさしあげている。「これでよければ、また来年もくださいね」と書いているので、毎年年賀状を下さる方がかなりいる。
今年はそのなかの一枚に驚いた。大学時代にお寺で一緒に生活していたSさんが、3月に県立高校の教員を辞めて、夏から美術の勉強をしに中国で生活するというのだ。
Sさんは私と同じ愛知県の数学科の教師だが、学生時代から絵を描くのが好きだった。定年を4年ほど残して、いよいよ自分の好きな道に踏み出したようだ。中国に行く前に、一度Sさんと食事でもして、ゆっくり話を聞いてみよう。いずれはSさんの中国の移住先も訪ねてみたい。
年賀状を読み終わった後、おだたかな日和に誘われて、妻と二人で散歩に出た。まずは近所の氏神社で初詣をした。去年までは娘たち二人も来ていたが、今年は長女は元旦から病院で昼と深夜の勤務、次女は大学の馬術部である。
初詣の後、木曽川橋を渡った。対岸の河原で、父親と少年がふたりで凧揚げをしていた。風がないので上がらない。それでも凧糸をもって走りまわる父親に、なにかほのぼのとした可笑しみと親しみを覚えた。
去年までは私たちも初詣の後、一家で庄内川の河原までドライブして、そこで鳥たちにパン屑をやり、凧揚げをしていた。毎年、鳥たち(都鳥)が大勢やってきて、凧も高くまであがった。これがわが家の正月行事だったが、今年からは少し違ったスタイルになりそうだ。
それから、笠松町を散策。古い家並みが残っていて、まるで昭和にタイムスリップしたような懐かしさである。そうした風情を味わいながら歩いていくと、八幡神社にたどりついた。近所の氏神社とちがって、結構大きな神社で、振り袖姿の娘さんが神妙に手を合わせていた。
神様に手を合わせている振り袖の やさしき微笑きよらに匂う
散歩から帰ってきて、妻と焼き餅を食べていると、次女が帰ってきた。彼女が「映画でも見にいかない?」と誘うので、3人でキリオ・シティまで出かけた。毎月1日は一人1000円で映画を見ることができる。それにくわえて元旦なので、どの館も満員だった。
「ハリーポッター」を見るつもりが、「キングコング」を見ることになった。ジュラシックパークを思わせる格闘シーンは迫力があり、主演の女優もきれいで、ストーリーもそれなりに面白かったが、最後、キングコングが死ぬところは見ていて辛かった。
去年は12月のうちに寒波が日本列島を何度も襲い、各地に記録的な積雪を残した。一宮市のわが家でも家族を動員して雪かきをした。大学の馬術部の部長をしている次女は、馬場の除雪がたいへんで、「馬術部」だか「除雪部」だかわからないとこぼしている。今日も朝5時に、真っ暗な中を飛び出して行った。
福井生まれの私は、このくらいの雪では驚かない。雪道を長靴を穿いて毎日木曽川まで散歩に出かける。山々の稜線が白く染まり、日差しに映える雪景色がうつくしい。この数日間は青空が覗いたが、気温が低かったせいか、雪は山々や田んぼ、道端にも残っている。
昨年のわが家の出来事を振り返ると、4月に長女が大学を卒業して看護士になった。それから、私も7年間勤務した高校から、名古屋市にある夜間定時制高校に転勤した。転勤先が偶然、20年ほど前に8年間勤務したことがある高校だった。これは、「教育の原点にもどり、人生の初心に立ち返りなさい」という、神様の励ましなのだろう。
その原点を見つめ直そうと、年の暮れに20年前の日記を読み返した。1985年2月2日に次女が生まれている。長女はその頃は2歳〜3歳で、私は夜間定時制高校にきて3年目になっていた。
−−−−1985年10月13日(月)の日記−−−−
目が覚めてから朝食までの1時間ほどを寝床でぼんやり過ごす。妻が下の子にかかりきりになっているので、私は長女の相手役ということで、寝るのも一緒だ。 「パパちゃん、おきた?」 早起きの長女の声に、私は狸寝入りをきめこむ。
「パパちゃんいなくなったらいやだよ、いなくなったら、泣くよ。パパちゃんがいたら、笑うよ」
今日は長女がこんなことを2回も口にした。どういう風の吹き回しだろう。子供なりに、何か感じているのだろうか。長女が妻の方に行ってから、私は目を開く。いじわるな父親である。
枕元には赤いラジカセがある。長女がいなくなってから、それでモーツアルトやベートーベンのカセットをヘッドホーンで聴く。最近よく聴くのが「田園交響曲」だ。とくに私の好きなのは、嵐の後の「牧人の歌」の旋律だ。これがこころにしみる。
長女がやってきたので、ヘッドフォーンを外して、片手を差し出す。 「おこしてほしいの?」 「そうだよ」 「明日から、自分でおきなさいね」 そんなませたことを言いながら、長女はいつものように、幼い体をうしろにそらして、私の手を引いてくれた。
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日記は「過去からの贈り物」である。それを読むと、ありし日の人生の断面が鮮やかに浮かんでくる。幼い体を後ろにそらして私を起こしてくれた長女は23歳になり、冬のボーナスで私にセーターをプレゼントしてくれた。今、それを着て、この日記を書いている。
白髪がふえ、眼鏡がないと本も読めなくなったが、まだ熟年というには早い。昨年はフイリピンのセブの語学学校に2週間英語留学したが、今年も持ち前の好奇心と探求心で、新たな人生に挑戦したい。
それではみなさん、旧年中はありがとうございました。 今年もよろしくお願いします。
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