橋本裕の日記
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2005年12月31日(土) |
パズルに悩む年の暮れ |
「立体思考のすすめ」と題した昨日の日記に、付録として「マッチ棒9本で正方形を3個作れ」というパズルを出して、「お正月にでも解いて下さい」と書いたら、さっそくパズル好きの友人から、「1分間で解けたよ」とメールが入った。そのうえ、次のようなパズルで挑戦してきた。
<12本のマッチ棒を使って、正方形を5個つくれ>
こんなものは簡単だ。私もさっそく「1分でできたぞ」とメールをだした。そのときの私の答えは「田」の字に並べるというもの。小さな正方形が4つと、大きいのが1つで、合計5個の正方形がある。
ところが、友人はこれではいけないという。正方形の大きさは違ってもいいが、重なってはだめだという。そこでマッチ棒を使って、本格的に解きだしたが、どうしてもわからない。妻と長女も動員し、「これが解けなかったら、わが家の名誉にかかわる」とばかり頑張ってみたが、やはりだめだった。
時計を見ると、いつか12時をまわっている。とうに眠りについている時間だ。「一眠りすると、いいアイデアが浮かぶかもしれないわよ」という妻の言葉に、一縷の望みを託して、昨夜は悶々としながら床に就いた。
さて、一夜明けて、頭脳明晰、立体思考もできそうである。冷たい水をコップに一杯飲んでから、さっそくとりかかったが、どうしてもまともな解答が浮かばない。残念ながら、悶々としたまま、2005年最後の日記を書くはめになってしまった。
私にこんな悩ましいパズルを出してくれた友人もふくめて、みなさん、本年中はいろいろとありがとうございました。来る年がよきお年でありますよう、心からお祈りしています。
私はときどき教室で生徒にクイズをだす。私はクイズ大好き人間なので、他人からクイズを出されるのも好きだし、書店へ行くとクイズの本を立ち読みしたりもする。とくに私が好きなのが数理クイズである。あれこれ考えるのがたのしい。
私が教室でよく出すのが、「6本のマッチ棒で、同じ大きさの正三角形を4個つくれ」という問題だ。2個ならすぐにできるが、3個となるとむつかしい。まして4個はほとんど絶望的だ。多くの生徒が「絶対にできるわけがない。不可能だ」と投げ出す中で、かならず何人かは正解にたどり着く。そしてその瞬間、「わあ、できた!」と、生徒の目がぱっと輝く。
この問題は平面で考えていてはむつかしい。不可能にも思える。しかし、立体的に考えれば、たちどころに解決される。「立体的思考」のすばらしさを実感させる意味で、これにまさる教材はないと思っている。
それから、こんな話をする。地球儀の上に蟻が一匹いるとする。そしてその蟻が地球儀の上を真っ直ぐ歩いていく。そうすると、蟻はまたもとの位置に戻ってくる。真っ直ぐ進んだにも限らす、元の位置に戻るというのは、蟻にとって不思議なことだろう。
しかし、外から地球儀を眺めている私たちには、少しも不思議でも不合理でもない。なぜかといえば、2次元世界に住んでいる蟻と違って、私たちは3次元世界に住み、そのように次元のもう一つ高い位置から物事をみることができるからだ。
科学や数学の問題を解く場合でも、この「一つ高い次元から眺める」ということはとても重要になる。たとえば、アインシュタインはこの世界が「空間と時間のむすびあった4次元世界」であると考えた。そうすると「3次元空間」ではどうしても解決できなかった「光速度不変」という事実が見事に説明できる。こうした立体的思考が相対性理論を生みだした。
今世紀最大の天才数学者の一人に数えられるゲーデルという人は、「数学の体系が矛盾を含まないことは、その体系の内部では証明できない」(不完全性の定理)という恐るべき命題を証明した。矛盾を根本的に解決しようとすれば、私たちはもう一つ高次の次元に進まなければならない。そして、この思考の階段に果てがないことをゲーデルは証明したわけだ。
これは数学のみならず、人間の思考の根底に係わり、知性に重きを置く人たちの人生観や世界観までも震撼させる大きな事件だった。今日も、ちょっと大きな書店にいけば、「ゲーデルの不完全性定理」に関する何冊もの書物を手にすることができる。
さて、ゲーデルはこの発見で一躍有名になったあと、ナチスに追われてアメリカに亡命した。そしてプリンストン大学でアインシュタインに出会う。二人はたちまち意気投合し、ゲーデルは相対性理論について画期的な論文まで書いている。きむずかしいゲーデルがアインシュタインに心を許したのは、おたがいに相手の人格を尊敬する気持が深かったからだろう。
アインシュタインの薦めにしたがって、ゲーデルはアメリカ国籍を取ることにした。そしてその試験を受けるために、アメリカ合衆国の憲法を勉強し始めた。ところが、ある日、ゲーデルは息を弾ませてアインシュタインのところにやっきて、「アメリカ合衆国憲法には論理的矛盾があります。そのことを私は証明しました」と興奮して話し出した。
なんと、ゲーデルは憲法までも数学者の目で見ていたわけだ。アインシュタインは驚いて、決して審査官の前で「憲法の論理的欠陥」など主張しないようにアドバイスした。そして試験当日は、アインシュタインも一緒にタクシー乗って試験会場にまでつきそった。
しかし、アインシュタインの心配は的中した。審査官を前に、ゲーデルは「アメリカ合衆国憲法には致命的な論理矛盾があること」を滔々と弁じはじめたからだ。審査官は度肝を抜かれたが、この人類の宝である高名な数学者を無慈悲に落第させるほど無粋な人物ではなかった。ゲーデルはアメリカ国籍を得ることができた。「高次元思考」は大切だが、ときとして、とんでもないトラブルを巻き起こすこともある。
しかし、「立体的思考」は物理や数学の問題を解くときだけ有用なわけではない。ゲーデルの定理が、数学の枠を超えて多くの哲学者や思想家に衝撃を与えたように、そうした高次元的解決が必要な問題は、この矛盾に満ちた現実の社会に多く存在している。「矛盾に突き当たったら、もう一つ高い次元のレベルで解決を図る」ということは、私たちの人生にとっても、とても実践的で有意義な方法だといえる。
(6本のマッチ棒で正四面体の三角錐をつくれば4個の正三角形ができる。それでは、9本のマッチ棒で同じ大きさの正方形を3個作るにはどうしたらよいか。これも立体的思考でとける。お暇な方は正月にでも挑戦してみて下さい)
2005年12月29日(木) |
直接資本主義のすすめ |
現在、日本の銀行は未曾有の利益を上げている。たとえば三菱UFJファイナンシャルグループの利益はトヨタをおさえて日本一だ。この好調さを受けて、銀行の平均株価は総選挙を挟んで2ケ月で50パーセントも上がっている。
しかし、一方で銀行の金利は全国平均で0.002パーセントにすぎない。これで利益があがらないほうがおかしい。低利の国債で運用してもかなりおつりがくる。つまりこの低金利政策のおかげで、本来は預金をしている国民にはいるべき所得がどんどん銀行に吸い取られているわけだ。
預金に比べて、株式の配当金は平均で1パーセントをこえている。つまり銀行預金500倍である。さらにこのところの株高で、株価の値上がり益によるキャピタルゲインもある。政府は2年前から、預金に比べてキャピタルゲインへの課税を預金の半分の10パーセントに下げた。さらにネット証券の出現で、日本の株取引の手数料は世界一の安さだという。
こうした好条件に支えられて、外資が日本買いに動いている。現在、日本の主要企業の株の30パーセントが外国の投資家の手にあると言われている。会社法が改正され企業買収も容易になった。内外の企業に敵対買収されないために、企業は発行株の時価総額を大きくしようとしのぎを削っている。これも株高に寄与している。
アメリカの動向は不安含みだが、インドや中国の経済成長でアジア経済も元気になってきた。さらに日本の経済構造が内需型になっているという経済評論家の分析がある。こうした内外の要因が重なり、株価は来年度も値上がりするとみられている。そして、世界一の預貯金をもつ日本の裕福層もまた株式投資に食指を動かし始めている。
これまで日本人は銀行などに貯金をする人が多く、株に投資する割合が小さいと言われてきた。しかし、国民が郵便局や銀行に貯金したお金も、国民が知らない間に、いろいろなところに投資されている。たとえば米国債だ。こんなもの買うなと言っても、一旦預けたお金の運用権は預金者にはない。
銀行は消費者ローンにも投資するし、アメリカの武器産業にも投資する。郵便貯金もときにはむだな公共投資に使われたする。日本には80兆円の一般会計の他に、31にものぼる特別会計があり、それらの総額は460兆円、重複部分を除いても220兆円もある。これで国債が買い入れられ、特殊法人の事業費や人件費がまなわれている。
こうした無駄遣いを許さないためにも、個人が個人の見識で直接、企業やファンドを選んで投資するほうがよい。いわゆる間接資本主義をやめて、直接資本主義に移行するわけだ。私はこれが成熟した資本主義の形ではないかと思う。この点でアメリカは日本や欧州の少し先を走っている。
ただし、これからの個人株主に期待されるのは、「ただお金が儲かればよい」という投機型の投資行動ではない。企業の経営状態だけではなく、その企業がどのような理念を持ち、どのような社会貢献をしているか、たとえば環境問題や地域の福祉にどう取り組んでいるかなど、その実績を自分でみきわめることだ。そして短期の株価の上下に惑わされず、中長期に渡って、これとおもう企業を応援することだ。
投資である以上、儲かることが前提だが、ただ儲かればよいというわけではない。同時にそれが優良な企業を育てることをとおし、社会的意義のあるものになっていることが大切である。投資家がそうした良質な倫理をもたなければ、資本主義経済は何度でもバブル崩壊の悲劇を経験するだろう。
成熟した民主主義が成熟した有権者によって支えられるように、成熟した資本主義も成熟した個人株主がいて健全なものとなる。このことを、私たちは過去の苦い歴史から学ぶべきだろう。
以前にNHKである人を紹介していた。その人は今は尺八の奏者として有名だが、以前はモーレツ・サラリーマンだった。ところがリストラで会社を首になった。傷心して家庭に帰ってくると、奥さんは励ましてくれるどころか、「離婚しましょう」と掌を返したように冷たくなったという。
それからその人の苦難の人生がはじまる。うちのめされて仏門に助けを求めたりしたが、やがて尺八にめぐり会い、それを吹くのが喜びになり、人生の支えになっていく。人々にも聴いてもらった。やがて、その独特の深みのある音色が人々の心をとらえていった。
以前、この日記に紹介した記憶があるが、いつの日記か調べるのが面倒なので、うろおぼえで書いたが、おおよそこうした内容の番組だったように思う。番組ではその人の実演もあって、尺八もいいものだなとしみじみ思ったものだ。
新聞や雑誌を見ると、株価も1万6千円台を回復し、景気もよくなってきているという。企業はバブル期を超える黒字を出し、ボーナスもいいらしい。しかし、東証に上場しているのはほんの一部の大企業である。
労働者の98パーセントは東証の株高とはあまり関係のない中小企業の従業員だ。そして家計の平均収入はこのところ連続して落ちてきている。非正規従業員の比率もうなぎ登りだ。その上、健康保険料の値上げや増税が待ちかまえている。国民の大半を占める人々は、今後いくら株が上がっても生活は苦しくなるばかりだろう。
私は日本がこうした状況になったのは小泉構造改革が原因だと考えている。しかし、これについてはすでに嫌になるほど書いたので繰り返さない。それよりも今後の生き方をどうするか、もうすこし現実的な問題を考えなければならない。収入が減り、リストラの不安のなかで、それでも人生を肯定的に生きていく智慧が求められている。
金銭や地位を得られないからと言って、それを嘆いていても仕方がない。それを嘆くのは、彼自身がそうした価値観のなかに生きているからだ。そうではなく、これを機会に、また別の世界に出会い、別の価値観で生きてみるのもよいのではないだろうか。
もうひとつ、身近な例をあげよう。知人のAさんは、去年、会社をリストラされた。会社では役員をしていて、奥さんによると月50万円ずつ貯金できるほどの高給取りだったそうだ。
会社の業績が悪くなり、突然リストラされて、Aさんは茫然自失。精神的な挫折感が大きく、鬱病のようになってしまった。しかし彼の場合は奥さんが賢くて、心の優しい人だった。もぬけの殻のような夫を何とか立ち直らせようと、奥さんはかなり気を使った。
幸い二人の子供たちも独立していたし、蓄えがあるので生活には困らない。去年から今年にかけて夫婦であちこち海外旅行をした。今年の春はカナダに長期滞在をした。そのときは妻や娘も一緒にこないかと誘われている。
奥さんのおかげでAさんの精神状態もおもむろによくなり、今はインターネットに海外旅行の写真を載せたりして楽しそうである。私のセブ語学留学の話に興味を覚え、さっそく資料を取り寄せ、来月にセブへ旅立つ予定だという。私が留学した英語学校で1ケ月間英語を勉強するのだという。
Aさんの場合は、リストラによって、思いがけず新しい人生が開かれた幸運な例である。高給をもらっていた会社を自主的に辞めることは不可能だったし、会社員の頃は別にもっとすばらしい人生があるなどと想像もできなかっただろう。しかしリストラされたおかげで、魅力的な世界に踏み出すことができた。これだから、人生は面白い。
冬には毎年青春切符の旅をしているが、今年は見送ることにした。懐が寒いことが一番の理由だが、この雪でいささか旅をするのが億劫になったことも確かだ。かわりに、年末に金沢まで車でお節料理の買い出しに行こうかなどと思っている。しかし、これも北陸の天候次第だ。
青春切符の旅はできなくなったが、この機会に過去の日記のデジタル化にとりくみたい。そしてこの20年間の日記帳をなるべく早く処分したい。すでに3年分は完了しているので、1985年分にとりかかった。日記を読み返すのも魅力的な「インナートリップ」だ。4日間で1年分を完了し、さっそく「過去の日記」にリンクした。
1985年という年は思い出の深い年である。それはこの年の2月2日に次女が誕生したからだ。次女が小学生の時、「生まれたときの様子をお父さんやお母さんからくわしく書いてもらうように」という宿題を持って帰ってきた。私は自分の日記を引用した。次女誕生前後の日記は、それからときどき読み返した。
日記を読んでいると、忘れていた記憶が次々と読みがえってくる。2歳の長女と赤ん坊の次女を、毎日お昼に湯浴びさせていたこと。それから家族で行った近所の公園。公園にはおおきな池があり、蓮の花が咲き、鯉やカメがいた。そしてその公園を管理していた老夫婦のことなど。
夜間定時制に勤務していた私は、お昼たっぷりと子供たちと触れ合う時間があった。しかし、一方で同人誌に小説を書くために自分一人の静寂を欲してもいた。ときには子供たちのことを鬱陶しいと思い、妻に当たり散らした。日記にはその苦々しい心境も書かれている。
時代背景を見てみると、2月7日に創政会が結成され、田中派は分裂した。3月16日に筑波で科学万博が開催。8月12日には、日航ジャンボ機が墜落して520人が死んだ。その3日後の8月15日、中曽根首相が戦後の首相としてはじめて靖国神社に参拝している。「新人類」という言葉が流行ったのもこの頃だ。
さて、「1985年の日記」の副題を「いのちを味わう」とした。夜間高校定時制も3年目を迎え、生徒との多少の軋轢はあったが、三河の新設高校であくせくしていた頃とは大違いで、精神的にもゆとりが生まれ、日記にも生活の記録や俳句が多くなった。小説もいくつか「作家」に発表している。まずは仕事の面でも、家庭的にも恵まれた年だった。
1985年の日記も、すべてをここに収録することはしなかった。一冊の日記帳のなかで、ここに写したのは2割ほどでしかない。日記を処分することで、大方の記録が失われることになるが、これは止むをえないことだ。日記が残され、その一部をここに保存できたことを喜びとしよう。
「1985年の日記」 http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/mukasi85.htm
2005年12月26日(月) |
さようなら、ハルちゃん |
4年ほど前から飼っていたうずらのハルちゃんが、昨日死んだ。一ヶ月ほど前に、15年間飼っていた愛犬のリリオが死んだので、この二匹が仲良く暮らしていた頃とくらべると、家の居間もずいぶん淋しくなった。
ハルちゃんの場合も、お昼は居間で放し飼いにしていたので、あちこちに糞がしてあったりで、考えてみればずいぶん非衛生的で、見栄えもよくないのだが、わが家の場合は私をはじめとして、だれもこれを不快にはおもわない。むしろ、こうした動物となかよく共生できるのがうれしい。
そうしたわけで、ハルちゃんもわりと伸び伸びと、わが家の居間で暮らしていた。卵も毎日生んでいた。卵を生むときには妻の方に寄ってきて、セーターの裾から中に潜り込んで生んだりした。ちゃんと自分の名前を覚えていて、餌を与えるとき、「ハルちゃん」と呼ぶと、羽根を羽ばたたかせて、駆け足でやってきた。
様子がおかしくなったのは1ケ月ほど前からで、次第に足が萎えたようになって動けなくなった。元気がなく、眼に活力が感じられない。「リリオが呼びに来たのかもしれない」と思い、先は長くないのではないかと思った。
ところが、妻がインターネットで調べたら、同じような症状のうずらがいて、「ビタシロップ」という栄養剤を飲ませたら治ったという報告があった。さっそくメーカに問い合わせ、これを購入して飲ませた。そうすると一週間も経たないうちに、ハルちゃんはまた自分で歩けるようになった。
昨日も、ハルちゃんに妻がこの栄養剤のしみこんだ餌を食べさせようとして抱きかかえた。このとき、ハルちゃんが突然羽ばたきをし、妻の手の中から飛び出した。以前のハルちゃんなら、難なく床に着地しただろう。
しかし、まだ羽根を動かす力がなかったようだ。そのまま床に落ちて、胸の辺りを強打した。妻が拾い上げると、嘴を開けて苦しそうに鳴いたあと、妻の手の中でしずかに目を閉じた。
亡骸は庭に埋めた。クリスマスの日、こうしてハルちゃんの魂は神様に召されて天国へと旅だった。ハルちゃん、さようなら。たくさんの楽しい思い出をありがとう。
2005年12月25日(日) |
ロリコン趣味の塾講師 |
12月10日、京都市にある学習塾「京進」で、小学6年生の堀本紗也乃(12)さんが殺された。殺したのは塾講師の萩野裕(23)だという。萩野は同志社大学の4年生で、この塾でアルバイトをしていた。紗也乃ちゃんを教室に閉じこめ、用意していた刃物で斬りつけた。
現場には少女の切り落とされた指が転がっていたという。顔を滅多切りにされ、首の皮一枚でつながるなど、一面血の海の凄惨な殺人だった。事件の背景には、生徒だった紗也乃ちゃんとのトラブルがあった。
萩野は大学を卒業後、この学習塾に就職するつもりだった。かなり熱血型の教師だったようだ。自分のことを「はぎっちょ」と呼び、「はぎっちょと勉強しよう」などと子供たちに語りかけていたらしい。紗也乃ちゃんにも積極的に近づいて、以前は仲が良かったこともあったという。紗也乃ちゃんも職員室のカウンターで、笑いながら萩野に勉強をみてもらっていたりした。
しかし、夏休みのころから、紗也乃ちゃんは萩野を毛嫌いするようになった。「ウチの塾にはキモくてウザイやつがいる」と友人に話していたという。また教室でも、萩野が近づいてくると、「きもい」「あっちへいけ」などと言っていたらしい。それでも萩野はしつこかった。結局、彼女は萩野の授業をとるのをやめている。
萩野は警察の取り調べに対して、「彼女が自分の授業をやめたことで、正社員になれないかも知れないと思った」と自供しているという。将来の塾の教師としての立場が危うくなって、これを逆恨みして、彼女に殺意を抱いたということらしい。
<指導について悩んでいた。いなくなれば苦しみから解放される、楽になれると思った。関係を絶ちたかった>
<自分は熱心でいい先生だった。でも彼女に毛嫌いされたことで、自分の存在が否定されたように感じた>
<たった一人の生徒のことで、自分の人生が狂わされるかも知れない焦りがあった>
萩野は「塾だより」で「自分を輝かせることがまわりの幸せにつながるような、そんな生き方ができればと思っています」と殊勝なことを書いている、しかし、一方で、ロリコンの趣味があり、紗也乃ちゃんにうるさくつきまとったのも、こうした異常性愛からではないかという指摘がある。警察もその裏付け捜査をしているようだ。
こうしたことはやがて真相が明らかにされるだろうが、信頼すべき教師が過激なロリコン趣味で、熱心な指導も、仮面をかぶった異常性愛だったとすると、とんでもないことである。殺された少女にとっては災難以外の何者でもない。残された家族の悲しみはいかばかりだろう。
学校教師の性犯罪に比べて、塾教師の性犯罪はあまり報じられないし、話題になってもその取り扱いは小さい。しかし、表沙汰になったものも結構ある。中学生の教え子を1年以上にわたってホテルや自宅に誘い、みだらな行為をしていた神奈川県の塾講師の例もある。
ロリコン趣味は多くの男性に見られる。かくいう私にも美少女が大好きだ。しかしこれがこうじて、スカートの中を覗いたり、体にさわったり、ストーカーをするというのは、あきらかに犯罪であり、異常性愛というしかない。
最近はこうしたロリコン趣味の学生が多くなっていて、しかも塾というところはそうした異常性愛を満たすにはうってつけの場所らしい。塾側もトラブルを表沙汰にせず、示談で穏便にすませるケースが多いという。業界の利益優先の体質も問題である。
(参考文献) 「週刊現代12/31号」「週刊新潮12/31」
アテネ民主制の最盛期を築いたペリクレスの師に、アナクサゴラス(BC500〜BC428)という人がいた。彼は「太陽は赤くて熱い玉であり、その大きさはペロポネソス半島よりも大きい」と主張したことで有名である。
当時ギリシャの人々は「太陽は神である」と信じていたから、アナクサゴラスは「神を冒涜した」という罪で捕らえられ、牢獄に入れられた。けっきょく、ペリクレスの尽力で、アナクサゴラスはやがて解放され、自由人となったのだが、実は、彼は牢獄内で、人類史に残るもう一つの問題を発見した。
「定規とコンパスだけを用いて、与えられた円と同じ面積をもつ正方形を描くことができるか」(円の正方化、円積問題)
アナクサゴラスにはこの問題がとけなかった。同時代に生きていた喜劇作家のアリストファネスは、喜劇「鳥」の中で、この難問に頭を悩ませている哲学者を登場させ、不可能なことに挑む人になぞらえて揶揄している。
アナクサゴラスに限らず、世間離れのした数学者や哲学者は庶民にとって絶好のからかいの対象だった。日食を予言し、数学と科学の父とも言われる哲学者ターレスも、星を観測していて井戸に落ち、「あなたは天空について熱心に知ろうとしていますが、自分の目の前や足許にあるものには気がつかないのですね」と、下女に笑われている。プラトンの「テアイテトス」によると、この下女は機知に富んだ美しい少女だったとのことだ。
哲学者や科学者は、「世界とは何か」「人生とは何か」についての知識を求める。しかし、私たちが生きていくのに必要なのは、もっと実践的な「世間についての知識」である。「世界知」に長けた学者が、かならずしも「世間知」に長けているとは限らない。そして時として「世界知」は「世間知」の常識と矛盾する。
さて、アナクサゴラスの発見した「円積問題」はその後、2千年以上にわたって多くの数学者の関心を引き続けた。アルキメデスもデカルトもガウスやオイラーにも解けなかった。これは実に難問中の難問だった。
この問題は、1882年にドイツの数学者リンデマンによって解かれた。リンデマンは「πについて」という論文で、円周率πが代数方程式の解にはなりえない「超越数」であることを示した。「xの2乗−5=0」といった代数方程式で解けないということは、つまり「定規とコンパスで作図できない」ということである。
こうしてアナクサゴラスの提出した難問は、解決不能だったことが「証明」されたわけだ。しかし、この難問によって人類はその知能を磨き、数学や科学は高度化して行った。アインシュタインが言ったように、大切なのは、「すぐれた問を発見すること」である。
現在、私たちは太陽が赤くて熱い玉であることを知っている。そしてその玉の大きさが途方もない大きさであることも。こちらの方は、アナクサゴラスの言った通りだった。
(参考サイト) http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/math1,.htm
職員室の私の席の向かい側に、おなじ数学科のA先生が座っている。わが職場では貴重な女性の先生だ。女性で数学の先生というのもなかなか珍しい。職場がかわって、この半年で一番よく話をしたのがこの先生だ。
数学だけではなく、情報科も受け持っていて、コンピューターにも詳しく、教務の実務は彼女が引き受けている。また、組合の専従をしていたこともあるので、労務関係の知識も豊富である。一口に言うと、なかなかのやり手、女傑と言ってもよい。
といって、恐れ多いという感じではない。とても朗らかで、しかも話題が豊富である。話を聞くと、ご主人も定時制の先生だそうだ。もう子育ては終わっているので、時間にもお金にもゆとりがあり、旅行などして人生を楽しんでいる様子がうかがえる。
今日から3泊4日で、夫婦二人で萩、仙崎、津和野、松江をまわってくるという。仙崎といえば、金子みすずの生誕地だ。ご主人が金子みすずのファンだという。そこで彼女に質問してみた。
「金子みすずのことを知っていますか」 「ええ、夫がHPで情報を集めているのよ」 「たとえば、どんなHP」
興味があるので、彼女のノートパソコンを覗いてみた。そこに現れたのは、何と私の「金子みすずworld」ではないか。「じつは、それは私のHPなんですよ」というと、「まあ、灯台もと暗しだわね」と驚いていた。私の文章とは知らないで、夫婦で読んでいたようだ。
「金子みすず」で検索すると、私のHPがトップの方に来る。そのせいか色々な方に読まれて、メールを頂いたりもする。その中には「金子みすず著作保存会」からの、「無断で詩を掲載しないで欲しい」というような身の引き締まるような要望もあった。現在掲載している詩と写真は、保存会の許可を得たものだ。
私のHPを見つけたのはご主人らしい。先日朝日新聞の「声」に掲載された「バリアフリー」の投稿も、ご主人が見つけて、「愛知県の教員でこんなことを書いている人がいる」というので、読んでみると、そこに私の名前があったので、「この方、今私の前に坐っているのよ」というと、ご主人も驚いていたという。
まだ、ご主人にお会いしたことはないが、A先生からいろいろうかがっているので、他人のような気がしない。どうやら趣味や感性が私と近いようである。今日も一日生憎の雪模様だが、ご夫婦の中国地方への旅が実りゆたかなものになることを祈っている。
(金子みすずworld) http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/misuzu0,.htm
2005年12月22日(木) |
年功をなくしてワークシェア |
私は年功序列の賃金体系を改めて、年齢に応じてではなく、仕事の内容やその成果に応じた賃金を払い、年齢では差別をしないほうがよいと考えている。ちなみに私がいうところの年功序列とは次の通りである。
(1)年齢に応じて一律に賃金を支払う (2)年齢が若いときには低めにおさえ、毎年一定額を上げていって中高年になるほど高給を得る。
現在の中高年については生涯賃金において不公平にならないように配慮する必要があるが、将来的には教員や公務員もふくめて、年功序列はやめたほうがよい。そうすれば若者の失業率だけではなく、中高年の失業率も減るのではないかと思う。これはワークシェアリングにもなる。
以前、朝日新聞の「声」の欄に、「現在の教員の賃金を2割カットして、その分、若い教員を新規に採用せよ」という意見を載せた。ここに再録しておこう。
−−−ワークシェアリングで若者に希望を−−− 2002,2,14
高校生の就職内定率が昨年末現在で7割を切った。年度末でも過去最低を記録しそうだという。中高年に加えて、若者の就職難も深刻化しつつある。
その対策としてワークシェアリングが考えられる。仕事を分かち合えば生産性が下がるという反対論があるが、職場によっては生産性が向上する。例えば現在の教員の給料を2割減らして、その予算で新しい教員を採用してはどうだろう。
若い教員の給料は安くてすむので、人数にして現在の1.4倍くらいになり、1人当たりの仕事量は3割くらいは減る。しかも若い活力が導入されれば、高齢化した職場に活気がもどってくる。中高年教師も助かるし、若者も希望が持てる。
ワークシェアリングで生産性が落ちる分野もあろうが、そのような業種が一部淘汰されることも必要だ。構造改革に必要なのは、失業対策よりも失業者対策である。
−−−−−−−−−−
この投書では、年功序列の廃止にまでは踏み込んでいない。また中高年の賃金を一律にカットするというのは反発もあるだろう。しかし、若者に仕事を与え、あわせて中高年の仕事量も減らすべきだという主張はまちがっていないと思っている。
私の現在の職場は、正規の教員15人のなかに、55歳以上が9名と過半数をしめている。20代、30代がいなくて、40代でさえ2人しかいない。ベテランばかりといえば聞こえがいいが、若い人たちを相手にする教育現場がこんな高齢化社会でよいのだろうか。若い人材を現場に入れて、学校を活性化する必要がある。
若い人の失業率が依然として高いようだ。私はこれが日本社会の一番の問題だと思っている。次代を担う若い人が生き生きと働いている姿を見るのは何よりもうれしものだ。若者に働く場所と環境をつくり出すのは、政治の責任であり、私たちの世代の重大な責任ではないか。
もっとも、高卒にたいする求人数はかなりふえてきた。私の勤務する夜間定時制の職員室にも、企業の人がやってくる。企業やハローワークからも求人の電話がかかってくる。東証一部上場の名前の知れた大企業からの求人もある。
採用条件をみると、数ヶ月は試験的に採用した後、正社員に昇格というのが多いようだ。とにかく、企業はやる気のある若者を求めている。定時制には勉学と労働を両立させている若者がかなりいる。こうしたパワーのある人材が企業にとっては狙い目なのだ。
職場で進路関係の仕事を一手に引き受けて張りきっているM先生は、株で儲けて私にカニをおごってくれた人だ。自分はキャピタル・ゲインを楽しみながら、生徒には「労働」の大切さを説いている。この点を質問すると、こんな答えが返ってきた。
「若者が株や投資で儲けよう何てとんでもないことだよ。若者はしっかり働いてもらわなければいけない。これからの日本を背負っていく人材だからね。労働を通して人間関係や社会を勉強し、勤労の大切さを学ぶ必要がある。株なんて、そのあとでいいんだ」
まさに正論である。M先生は毎日のように企業に電話をかけ、定時制の生徒に仕事を斡旋している。生徒にできるだけよい職場を与えること、これが彼の生きがいのようだ。
こういうことができるのも、彼が株式の投資をとおして、企業や社会の現実をよく知っているからだ。聖人君子ばかりでは、こうした高度な教育サービスはできない。
2005年12月20日(火) |
実力主義で若い世代を育てよう |
堀江貴文さんは「稼ぐが勝ち」(光文社)で、若者が働かないのは、賃金が安いからだと書いている。たしかに仕事が出来ない中高年層が高給をもらっているのに、若くて能力も実力もある人たちが、その半分以下の給料で甘んじているのはおかしい。
会社に長くいたというだけで定期昇給があり、給料がきまった額だけ毎年高くなるというのはどう考えても合理的だとはいえない。給与体系を変えて、若者にその実力にみあった給料を払えば、若者の勤労意識も高くなり、社会全体が活性化する。ニートとかフリーターも少なくなるのではないか。
現在、日本の個人金融資産はほとんど65歳以上の老人が持っている。そしてこの豊かな世代の経済力に、それより若い世代が依存し、援助して貰っている構造がある。これはおかしい。
お金が必要なのは大学時代や、社会出てから結婚して子育てをする間だ。このときにお金がないと、親に世話になることになる。学費も結婚資金も、住宅資金も親が面倒をみなければならない。こうしたことが当たり前になっている社会は、不健全であり、教育的な社会ではない。
高校を卒業したら、もう親の世話にならないでも、自分の力で生きていくことが人間形成にも大切なことだ。年功序列型の賃金体系をやめれば、若者は必要な生活資金を自分で稼ぎ出すことがでる。そして親はもはや子供に経済的援助を与えなくてすみむ。
したがってこうした実力主義の給与体系は、長い目で見れば中高年層にとってもメリットが大きい。これによって子供の親離れが可能になり、若者が経済的に独立することで、中高年の世帯の家計は軽減される。
しかし、日本の企業はなかなか年功序列を改めようとはしないだろう。なぜなら、このシステムにはそれなりのメリットがあるからだ。
(1)若年労働者を低い賃金で雇える。そして賃金が高くなったら不必要な労働者を解雇することで、人件費が浮く。
(2)必要な労働者を会社に囲い込むことができる。なぜなら長くいることでしか、メリットが享受できないから、会社に従順な社員を養成することができる。
(3)給与の査定が面倒でない。横並び意識の強い日本人のメンタリティにもあっている。
年功序列の賃金体系は、戦時中に作られた。もともと労働者を搾取するための労働支配の道具だった。戦後、高度経済成長の時代はこれがうまく機能していたが、産業構造が変わり、労働形態が変わるなかでほころびが目立ってきた。給与体系を実力主義に変えるべきだという点で、私はホリエモンに同感している。若い世代から搾取すべきではない。
しかし、実力主義、能力主義の給与体系を、現在の中高年世代にそのまま適用するのは残酷な事情がある。彼らは若いときには安い給料で働いてきた。これも年功序列の賃金体系により将来の高給を約束されていたからだ。ここにきて、年功序列ではなく、実力主義だ、成果主義だというのはフェアではない。会社側にとっては有利だろうが、社会正義から考えて妥当なものとはいえない。
これから新しい会社ができてくる。そうした会社では年功序列ではなく、実力主義の賃金体系を採用してほしい。こうしたところから日本社会の構造が、若い世代を尊重する方向に、少しずつ変わっていけばよいと思っている。
2005年12月19日(月) |
「稼ぐが勝ち」を読む |
先日、書店に行って、堀江貴文さんの「稼ぐが勝ち」(光文社)を立ち読みした。題名が示しているように、「お金がすべて」「お金で買えないものはない」というのが彼の考え方だ。「人の心もお金で買える」という考え方は、シンプルなだけに妙なリアリティがある。
<女はお金でついてくる。ビジネスで成功をして大金を手に入れたとたん「到底口説けないだろうな」と思っていたおねえちゃんを口説くことができたりする>
彼によれば「会社は人を使う仕組み」で、人を使って儲けるためにあるということだ。世の中には人や金をうまく使って「お金を稼ぐ人」と、「人に使われて搾取される人」がいる。上流層と下流層がこれで分かれる。
こうした富の二極化はすでにアメリカで顕著だが、彼によればこれが本来の資本主義社会のありかたであって、日本もこれからこうした社会になっていく。ただ、この両者が階級として固定されるべきではなく、通路が開かれていることが必要だと書いている。
<経済の二極化によって上流層、下流層という二つの国ができる。でも下流層が上流層に入るプロセスがわかっていれば、2つを自由に行き来できる>
下流の生活が悪いわけではなく、価値観の問題だから、その人の自由だという。要するに上流層の生活をしたければそれにふさわしい努力をすればいいわけで、それがいやなら下流層の生活に甘んじていればよいわけだ。
とくに彼が批判しているのは、年功序列的な賃金システムで、これは老人が若者を搾取するしくみだと批判している。これは頷ける点もあって、いささか痛快だと思った。またあらためて私の考えを書いてみたい。
私も最近は退職後の生活設計を考え始めている。海外に留学したり、自分らしい生き方をするために必要なお金を確保したい。これからは、天下国家の経済ばかりではなく、もっと身近な個人の経済活動にも視点をおきながら庶民経済学の立場で考えようと思っている。
ホリエモンのように「お金がすべて」とは思わないが、自分流を貫く為にはお金の問題も大切である。そういうわけで、将来の夢をかなえ、人生の可能性を広げ、しかも社会的に意義のある投資には関心がある。
しかし、投資活動が私の余暇の主流ではない。旅行や英会話、短歌や俳句を楽しみ、倫理学や哲学、文学や科学についても勉強し、これらを人生の糧としてたのしみたい。お金を稼ぐことばかり考えて拝金主義に染まったり、思想的に変質・堕落してはならない。それは人生を貧しくすることだと思っている。
人の心をお金で買えると考えるのは浅はかである。幸せをお金で買えると考えるのもあさはかである。お金に支配されるのではなく、お金を活用して、自分の教養を高め、周りの人々を幸せにできる生き方ができればと願っている。
薄明かり障子に浮かぶ冬木立 裕
昨日も寒い日だった。いつも9時頃には散歩に出かけるのだが、ぐずぐずしているうちにお昼になった。昼食を食べた後、少し外が明るくなったので、妻を誘って出かけた。ところが家を出て5分もしないうちにみぞれのようなものが降ってきた。
近くの喫茶店に入り、コーヒーを飲み、週刊誌など読んでいると、いつか雨もあがったようで、また出かけた。木曽川橋の上にきて、持参した食パンを川に投げたが、鴨たちは逃げていくばかりでよってこない。対岸でも同じ事だった。
ますます寒くなってきたので、帰りの橋の上で駆け足をした。駆け足は妻の方が早く、長い橋なのでどんどん差が開いていく。この半年で私は8キロほど体重を減らしたが、妻も5キロほど減らして身軽になったようだ。橋のたもとで休んでいた妻にやっと追いついた。走ったせいで体があたたかくなった。
帰り道に「赤尾園芸店」に寄って、900円で冨有柿の苗を一本買った。それを妻と二人で畑に植えた。園芸店で言われたとおり、支柱を立ててしばりつけた。小さな苗木だから、実を着けるのは3,4年後になりそうだ。苗を植えていると、空が明るんできた。
柿の苗植える背中に冬日あり 裕
冨有柿は好きで、毎年のように岐阜県の糸貫まで買いに行く。今年は豊作だったようで、安くておいしい柿をたくさん食べた。ビタミンC、カロチン、ナイアシン、食物繊維、カリウムなどがいっぱいで、高血圧にもいいようだ。つい食べ過ぎて60キロにまで落ちた体重が、1,2キロふえたりした。
柿くふも今年ばかりと思ひけり 子規
これは子規の最晩年の句である。芭蕉も柿が好きだった。最晩年の元禄七年に、こんな句を作っている。
里ふりて柿の木もたぬ家もなし 芭蕉
柿は学名を「ディオスピロス・カキ」といい、日本を代表する果物として知られているが、ずいぶん昔にその先祖が中国から来たらしい。ただし甘柿は日本で作られたものだという。
昔の人は柿の実はすべてを採らずに、一つか二つは枝に残しておいた。鳥のためであり、旅人のためとだともいう。
2005年12月17日(土) |
バトミントンができない |
先日、学校で球技大会が2日間にわたっておこなわれた。夜間高校なので、給食を食べた後、夜の6時に体育館に集合する。寒い季節だから、体育館は底冷えしていた。おかげで体の芯まで冷えてしまった。
体育館で行われたのはバトミントンである。私は男子のバトミントンの審判をやることになった。卓球やテニスは部活の顧問をしたことがあり、審判もできるが、バトミントンはこれまで遊んだことはあっても、正式な試合をしたことがない。
そこで、事前にルールや審判のやりかたを教えて貰うことにした。体育科の先生や部活動主任の先生、バトミントン部の顧問の先生と一緒に体育館でバトミントンの試合をし、審判を体験した。
去年まで私はテニス部の顧問で、ラケットも握っていたから、バトミントンくらいたやすいと思っていたが、これが思った以上にむつかしかった。私は体育科のA先生とペアを組んで試合に臨んだが、私たちのチームは惨敗だった。私が一人でパートナーの足を引っ張ったからだ。
しかも私たちのチームの合計年齢は55+45=100(歳)で、相手チームの合計年齢は58+58=116(歳)である。若い私たちのペアが、定年間際の二人の先生に惨敗したのだから、ショックが大きかった。ちなみに、体育科のA先生は、次に別の教員とペアを組んで雪辱を果たしている。
バトミントンをしていて驚いたのは、バトミントンの羽根球を打とうとしてもラケットが当たらないことである。サーブのときでさえ、空振りをしてしまう。試合を見ていた先生も驚いて、「10センチくらいずれていますよ」という。自分ではまともに打っているつもりだが、完全に外れているのだ。
むかしバトミントンで遊んだときはこんなことはなかった。格別体調が悪いわけでもなく、運動能力が衰えたとも思えない。にもかかわらずこの体たらくである。考えられることは、まだ視力が完全に復調していないということだ。おそらく私の得意な卓球やテニスをしても、これでは惨敗したかも知れない。
本番の球技大会もボールの運動に眼球運動がついていけるか心配だったが、無事何事もなく審判をこなすことができた。生徒達は思った以上に礼儀正しく、私のジャッジに素直に従ってくれた。試合中は夢中だったので、寒さも忘れていた。
先日、雪の日の午後、看護士をしている長女が、自分の車で私をJRの駅まで送ってくれた。とびきり寒い日だったのでたすかった。娘とこんな会話をかわした。
「以前は私がお父さんに駅まで送ってもらったわね」 「そうだな、いつか立場が反対になったな」 「今度、何か買って上げるね。それとも食べ物がいい?」 「ああ、何かうまい物を食べさせてもらおうかな」
少し前まで高校生だった少女が、春に大学を卒業して、今はもう一人前の顔をして病院で働いている。収入も結構よいようだ。社会人一年生でありながら、この冬のボーナスが手取りで50万円以上あったときいて、少し驚いた。
その分、仕事も厳しいらしい。一般病棟ではなくて、重症患者ばかりあつかう部署に配属されたので、片時も気が抜けない。とくに看護士が二人しかいなくなる深夜の勤務の時は、何か起こるとたいへんだから緊張するという。ときには8時間、トイレに行けないときもあるらしい。職業柄、患者の死を看取ることもある。
それでも自分の選んだ道なので、文句は言えない。「疲れた、寝不足だ」と言いながらもがんばっている。患者さんや家族の「ありがとう」という言葉に加えて、結構な収入が、何よりもの疲労快復剤になっているようだ。
娘の元気に働くすがたを見ていると、私も元気がでてくる。いろいろと苦労したが、やはり子供を一人前の社会人に育て上げたということは、私たち夫婦の一番の社会的貢献ではないかと思っている。何でもないことだが、この平凡なことが大切なのだろう。
長女が社会人になって、私の扶養家族が一人減った。これで大学3年生の次女が再来年に独立すれば、私の肩の荷もずいぶん軽くなる。「そのときは、あなたのお小遣いを上げてあげてもいいわよ」と妻に言われている。まだ少し、先のことだが、これもありがたい。
15年間続いた資産デフレの時代がおわったという論調が新聞や雑誌などのマスメディアを賑わしてきた。多くの経済評論家によると、これからは株価や土地、金などの価格が上昇する資産インフレの時代だそうである。
たしかに株価でいえば、2003年4月28日に7607円だったのが、2年半で二倍以上の1万5千円を越えている。この数ヶ月でも20パーセント以上の値上がりだ。これはおもに海外の投資家の日本買いによるものだが、これからは資産倍増を夢見る国内投資家たちも続々参入してくると思われる。
日本は外国から昨年度は6兆円の石油を輸入しているが、今年度はこれが1.5倍の9兆円にはねあがりそうだ。原油価格の上昇がやがて消費者物価に上乗せされる。実際の統計にもこれがあらわれている。インフレがはじまれば現金の価値は下がる。個人の金融資産が株や金にシフトしていくのは自然な流れだ。
庶民派経済評論家の森永卓朗さんは、近著「庶・民・株!」(光文社)で、こうした状況はデフレから脱却したときの韓国経済とよく似ているという。韓国は国際機関の圧力でデフレの底に落とされ、アメリカなどの外資のハゲタカファンドに不良債権を安値で買いたたかれたあと、大胆な金融緩和政策が発動されて一気にデフレを脱却した。
1998年9月から1999年7月のわずか10ケ月で株価は実に3.6倍にも跳ね上がった。これによって外資や国内のほんの一部の富裕層が大儲けをして、韓国のほとんどの企業の大株主が外国人になったり、一部の財閥の寡占化が進んだ。森永さんはこれが、これから日本で起こることだと解説している。
<昔は額に汗して一生懸命に働いた人がお金持ちになりました。松下幸之助さん、本田宗一郎さんなど、長者番付の常連者は、みな国民生活を改善するために懸命に努力し、働いた企業家でした。
しかし、今は違います。巨万の富を得るのは、お金を右から左に流して、お金を働かせた人なのです。彼らがお金を稼ぐ手段は「資本」のです。資本を細かく分割して取り引きしやすいようにしたのが株式です。ですから私たち庶民は、彼らに便乗して株式投資で儲ければいいのです>
かってバブルが華やかな時代に、カリスマ評論家として売り出していた長谷川慶太郎が「いまどき株をやらない人は世捨て人だ」と書いたことがある。10年一昔といわれるように、あの時代は国民の多くが熱に浮かれたようになった。その結果バブル経済が過熱した。統計を見てみよう。
1970年に銀行に1000万円預けたひとは、20年間で3.7倍の3700万円を手に入れることができた。それではこの1千万円を株で持っていたらどうか。この場合は、16倍の1憶6千万円になっていた。
もっともこのあと、バブルが崩壊して株価は1/3に下がった。うまく逃げた人は20年間で莫大な資産を手に入れることが出来たが、多くの企業や個人、銀行がダメージを受け、日本は長いデフレのトンネルの中に入った。
デフレの時代は資産は資産を生まない。だからお金持ちにとってつまらない時代だと思うかも知れない。しかしデフレの時代に、お金持ちは安い値段で資産を買い占めることができる。そうしてやがてこれがインフレの時代に膨張する。だから、デフレとインフレの循環があって資本は巨大化するわけだ。
お金を増やす法則は「安く買って、高く売る」ということにつきる。資産家が資産を増やす方法もこれしかない。安くなるのをじっと待ち、底値だと判断したら、買いにでる。そしてみんなが殺到して高値がついたところで売りに出すわけだ。
そうすると経済は瓦解し、デフレの時代になる。そこで安くなった資産を買いあさる。こうしたお金持ちの投資行動が景気の循環を作りだしている。もしくは彼らは経済的、政治的力を使い、このシナリオを自ら演出することもできる。以上は森永卓朗さんの「庶・民・株!」の受け売りだが、森永さんはこうも書いている。
<このような庶民をいためつける社会になってしまった以上、庶民が採るべき選択肢は2つしかありません。清貧を貫き、ますます貧者に落ちていくか、それとも、知恵を絞ってお金を稼ぐか、もちろん私は後者を勧めます。そして庶民が、なけなしの資産を増やすためには、やはり少額投資から始められる株式投資しかないのです>
額に汗して働く勤労者が高い税金をとられ、年金まで目減りしていくこれからの時代をどう生きたらよいのか。お金持ち優先のお金がお金を生む社会をどう生きたらよいのか、森永さんのいう「庶民株」も、こうした時代をたくましく生きていく有効な選択だろう。
「庶民株」を、私も機会があればやってみたいと思う。これからは銀行や生命保険、郵便局などの機関投資家にすべてをまかせないで、自分で考えて投資することも必要だろう。そうすることで、経済の動きもよくわかる。
国民が株式投資に没頭する時代にを私は正常な時代だとは思わないが、日本は小泉内閣の打ち出した一連の改革によって経済構造があともどりできないところに踏み出してしまった。「株をやらないやつは世捨て人だ」と言われる時代がふたたび到来したわけだ。
しかし、株はいつか必ず下がる。そのとき再び大やけどしないように心がけなければならない。森永さんはこの点を強調して、庶民が株をするとき、絶対してはならないことがあるという。それは「株の信用買い」である。
家や土地を担保にして「銀行」から借金をして株に投資するべきではない。バブルの時代には多くの人や企業がこれをやり、個人や企業が破産し、日本の銀行は不良債権の山を築いた。この教訓を忘れてはならない。株の投資はあくまでゆとりのある資金で行うことが大切だ。投資が投機になり、お金儲けだけが生きがいということになってはつまらない。
これからのキャピタルゲインの時代を迎えて、所得格差はどんどん広がっていく。これはもはや避けようのない現実である。この現実をしっかりうけとめたうえで、私たち庶民は人生の原点を見失わないで、心ゆたかに生きていきたいものだ。
2005年12月13日(火) |
みずほ証券発注ミスで株長者続出 |
ジェイコムの株1株61万円を「61万株1円」と入力して、みずほ証券は大量に1円株を売りさばき、その損害額は400億円だという。これをうらがえせば、これだけ儲けた人がいるわけだ。その筆頭は米投資銀行のモルガンらしい。
先日の朝日新聞によれば、モルガン・スタンレーはジェイコムの株を31パーセントも取得して大株主になったという。さすが抜け目がない。他にも株長者が続出したという。「夕刊フジ」ニュースから引用しよう。
−−−−ジェイコム長者誕生? ネットに書き込み殺到−−−−−
みずほ証券によるジェイコム株の誤発注問題。熱心な投資家たちが情報交換に集まる「Yahoo JAPAN」の電子掲示板には、誤発注で大儲けしたといった類の話であふれ返っている。本当に“ジェイコム長者”は生まれたのか!?
ヤフーのネット上に登場したジェイコム専用の掲示板は8日午前9時31分の「何これ?」という書き込みをきっかけに一気に盛り上がり、この日だけで4000件以上の書き込みが殺到した。
書き込みの中には「20枚で400万儲かったよありがとう」「俺は、30枚で540万の儲け! クリスマスプレゼントありがとう!!!」などといった内容も。
書き込んだ人が実際にジェイコム株をストップ安時点の57万2000円で買えたのかどうかは不明だが、買っていたとすると、ストップ高のままひけた8日の終値77万2000円との差額は20万円。売買手数料を差し引いても1株につき20万円近い差益が出た勘定だから、つじつまは合う。
掲示板の書き込みはほかにも、「ジェイコムS安で20億ゲット」「含み益3億きたああああああああ」といったものや、「10分で家のローン分儲かった−−− こんなの初めてw ほんとにおろせるの?このお金。」という、どこまで本当なのか、真偽のほどが分からないジェイコム長者が続々と“誕生”している。
自分の稼ぎを誇らしげにアピールするブログも登場しており、ネットは、さながら儲け自慢大会の場となっている。
ジェイコム株には、いまも大量の買い注文が残っており、9日に終日停止となった同社株の売買が再開されれば、77万2000円の株価が当面、上昇していくのは必至。しばらく持ち続けて、含み益をさらに膨らませてから売り抜くデイトレーダーも出てきそうだ。
市場には、誤発注のパニックのなか、米ゴールドマン・サックス(GS)が大量にジェイコム株を買い、大儲けしそうだとのウワサが流れている。GSを直撃すると、「個別の取引についてコメントしないのが通例」として、明確な答えを得られなかった。
−−−−−−−−−−−−−−−−
なお、発行株数を大幅にこえて誤発注された株は、1株あたり91万2千円の現金決済で買い戻すのだという。誤発注したみずほ証券はミスに気付いてキャンセルしようとしたが、受け付けられなかった。このため莫大な取引が生じたのだが、これには東証のシステム上の問題があったのだという。なんともお粗末な話である。
2005年12月12日(月) |
「そのとき歴史は動いた」の舞台裏 |
NHKの番組の中で、私が一番評価しているのは、「クローズアップ現代」でこれは毎回見ることにしている。それでは一番見たくないものは何かといえば、日曜日の8時からはじまる「大河ドラマ」である。
これはエンターテイメントとして楽しめばよいのだろうが、NHK特有の権力主義的な歴史観が鼻について、見る気がしないだけでなく、見ていると気持が悪くなる。上層部の古い封建的な体質と、視聴率を気にした人気取りの混合という、この奇天烈なカクテルは私にいつも悪酔いをもたらす。しかし、最近は見ていないのでこれ以上の批判はひかえよう。
NHKの歴史物でときどき見るのが「そのとき歴史は動いた」である。しかし、これも見た後、きまってある種の不快感に襲われる。根本的には「大河ドラマ」と同じ「歴史歪曲」という不愉快な要素があるからだろう。
こういうNHKのお粗末な番組を見ていて、専門家は不快感を感じないのだろうかと疑問に思っていたが、実際にNHKの番組製作にかかわってきた明治維新を専門とする歴史家の田村貞夫(静岡大学名誉教授)さんの「NHK『歴史は動いた』からの決裂」という文章を読んで、専門家もやはり同じ様な不満を持っていることを知った。
<NHK歴史番組「その時歴史は動いた」の制作をしている大阪放送局から協力要請があった。テーマは「ええじゃないか」。二〇〇四年八月のことである。
八月十九日に担当ディレクターがわたしの住んでいる東京都町田市にやってきたので、わたしはパソコンのパワーポイントで解説をし、三河の御札降り以前の五月末から始まる「ええじゃないか」の意義を説いた。すなわち長州征伐の制札を下ろした時の大坂高麗橋の「時之声」(鬨の声)を再現すること、また大阪市立歴史博物館の天保蝶々踊りの絵と名古屋市立博物館の高力猿猴庵の御鍬祭の絵を用いることを力説した。さらに一〇ページに及ぶ詳細な「ええじゃないか」文献目録を渡した。
その後出演交渉を受け、承諾した。放映予定日は十月二十七日(水)とのことであった。>
<三日に次のようなメールが来た。これは今までの先方の説明とはまったく異なったものであった。主題は王政復古で、歴史が動いた「その時」を王政復古の十二月九日とされていた。これはわたしの要望とはまったく違うものであった。まさか王政復古が主題とは事前に一言の説明がなかった>
<わたしは「ええじゃないか」のみで番組を作ることを要求した。政治過程との無理な接合には反対だからである。
どうしも政治過程にこだわるのであれば、またわたしは「その時」を王政復古ではなく、せめて大政奉還にすることを要求した。大政奉還以後「ええじゃないか」は大爆発するからである。王政復古からは収束に向かうのだ。
しかしもう時間がない、五日午後しかスタジオを取れないというのである。多少台本を手直しするとしても、ナレーション入れは強行するというのである。それでは出演できない。結局五日昼前に六日のビデオ撮りは中止と伝えられた。交渉は決裂した。大阪に来るに及ばずということであった。こんな失礼なことはないだろう。
すでに送られてきていた新幹線の往復切符(グリーン)は、捨ててくれという。もったいないので有難く使わせて頂くことにし、三田市の朝野家に行き、大阪の高麗橋、なんば神社、御霊稲荷を見て歩いた。
途中NHKが会いたいというので、大阪駅で会った。担当ディレクターとその上司である。わたしは牟呂八幡宮の森田家文書が一九四五年六月二十日の豊橋空襲のさなかに、救出された経緯を話し、その後大切に保存されてきたこと、今は豊橋市の指定文化財になっていることを指摘し、興味本位で、いい加減な番組を作って欲しくないと要望した。今回の扱いで、世間にはこの史料の価値が誤って流布されるとわたしは指摘した。NHKの態度に、史実に基づいた番組ではなく、エンターテイメントだという態度が感じられるからである。
このトラブルは、にわか勉強のディレクターに責任があるが、旧説にこり固まった番組上層部の保守的態度が最大の原因である。ディレクターは高麗橋の場面を提案したらしいは一蹴されたらしい。上層部の無知と不勉強の所産である。
今、問題になっているNHKの海老沢体制と関係あるかどうかは知らない。かってタクシーの運転手を土足で蹴飛ばしたというアナウンサーの粗暴な態度の反映かどうかも分らない>
<新聞記者もテレビ・ディレクターも本を読まないらしい。すべて耳学問である。それを自分の高校程度の知識に接木し、新発見とか新見解といって騒ぐのである。
ただ東京の大新聞と地方新聞、テレビでは中央のキー局と地方局とは、区別しておく必要がある。地方新聞の記者や地方テレビのディレクターは、地元の歴史の発掘という熱情があり、きわめて熱心で、よく勉強している。われわれよりはるかにくわしい知識を持っておる場合が多い。
ところが大新聞の記者やNHKのディレクターは、地方に来ても三年程度で転勤する。こういう人びとに、地域の歴史を丁寧に話し、新史料発見の苦労を話しても、ようやく分ってくれかけた時期に転勤してしまう>
実際にNHKの番組制作にかかわってきた学者の文章だけに説得力がある。NHKをはじめ多くのテレビ局でいかに杜撰な番組作りが行われているか、その舞台裏がよく分かる話である。
(参考サイト) http://www1.vecceed.ne.jp/~swtamura/NHK1.htm
2005年12月11日(日) |
欠陥ビル建設の共犯者たち |
このところ毎日のように構造に欠陥のあるマンションやホテルがあらたに見つかり、ニュースになっている。破格の安さと、大理石を惜しげもなく使い、豪華なシステムキッチンで人気を呼んだ花形マンションが、実は検査書類が偽造されて震度5で崩壊するかも知れないという欠陥商品だった。
先月の17日にこの問題が報道されるやいなや自民党武部勤幹事長が「問題がすべてあらわになれば(建設業界が)大変なことになる」と発言して政府の対応ぶりが批判されたが、いよいよ「大変なこと」になってきた感がある。
武部幹事長が思わずもらしたように、問題の根は深い。構造計算書を偽造した姉歯秀次一級建築士(48歳)は、先月の24日、国交省の聴聞でこう応じている。
<建築主や施行業者など3社から「鉄筋量を少なくしてほしい」との圧力があった。強度を保てないことを説明したが、「他の設計事務所に替える」と言われ、家族のことを考えると引き受けざるを得なかった。同時に、取引先へのキックバックも行うようになった>
姉歯は市川市の自宅にベンツとBMWを所有し、かなり派手な生活をしていたらしい。彼の無職の息子たちも国産の高級車に乗っているというから、「家族のため」というのは説得力が乏しい。
一方、欠陥マンションを販売したヒューザーの小嶋社長だが、去年の3月に発行された「ヒューザーの100m2超マンション物語」にこう書いている。
<多くの人に「住みやすく、いつまでも住みたい」住宅を提供することが、私たちデベロッパーの役割であり、義務なのである。・・・
現在、当社が提供するマンションの販売状況は良好である。その最大の理由は、「広いのに安い」からなのだろうが、その根底には。「三世代にわたる家族がゆとりをもって暮らせる永住型マンション」という私たちの提案が受け入れられたからにほかならないと自覚している> 小嶋社長にはもっと他に自覚して欲しいことがあった。「広いのに安い」というマジックの根底にあったのは「安全性の軽視」であった。「永住型マンション」という言葉でこれをごまかそうとしている。
同社の「グランドステージ磯子」は去年、日本住宅建設産業組合から「最優秀事業賞」が与えられている。殺人ビルを作り続け、儲け主義しか頭のなかった会社に相応しいのは「最醜悪偽造事業賞」ではないか。
殺人ビルを建設した木村盛好社長(73歳)もまたカリスマとしてもてはやされていた。今年8月に発売された鶴蒔靖夫著「木村イズム『現場力』で勝つ!」にはこう書かれている。
<経済主義を排除し、儲けを最優先に考えない。仕事の報酬は(次なる)仕事という木村氏のむかし気質は、いまの時代には一服の清涼剤となるかもしれない>
さて、検査を担当したイーホームズ社についても書いておこう。この会社は1999年に設立され、検査業務の民営化の波に乗って急成長をとげた。「安い、早い、何もいわない」というのがこの会社の営業方針だったという。
よくも役者がそろったものだ。そしてこの役者達を結びつけた総合プロデューサーが総合経営研究所の内河健(71)である。彼は建築主に対し、設計・平成設計、施工・木村建設というセットを指定することが多く、平成設計は構造計算の約半分を姉歯事務所に外注していた。総研は短い工期で安価にビジネスホテルを建設する手法を売り物にして、手がけたホテルは250軒以上あり、業界では神様のような存在だったという。
こうした無法者が「神様」と呼ばれ、やり手として世間でもてはやされていたわけだ。今回の耐震強度偽装事件は、日本社会全般におよんでいる利益優先体質のあらわれである。さらに、この風潮に公的機関までが押し流されていたこともわかってきた。偽装を見逃した検査機関の3割は自治体の検査部であり、理由としてはコスト削減による人手不足が考えられる。
民間の検査機関の職員のほとんどが、民営化にともなう公的機関からの天下りだそうだが、民間企業の場合はさらにコスト意識があるから、状況は厳しい。しかも、民間の検査機関の大株主は、建設会社や設計事務所でしめられ、受注元が大株主だということも審査の公平さを損なわせる要因になっている。こうした構造的な問題を解決する必要がある。
なお、今回の問題で大切なのは、欠陥建築を買わされた住民をどう救済したらよいのかということだろう。これに関連して、責任問題もしっかり考える必要がある。
(1)欠陥商品を売りつけた企業の責任 (2)市場の管理者としての国、自治体の管理責任 (3)欠陥商品を買った個人の自己責任
この3者の責任が問われている。それぞれに応分の責任があるが、順位をつければ上のようになるのではないか。この他に、欠陥住宅の問題を放置してきた政治やマスコミの責任もある。
住宅品質確保促進法によれば、欠陥住宅であることが分かったときは、10年以内であれば購入者は無条件で売り主を相手に、契約の解除もふくめて損失額の全額を要求できる。10年以上たっていても、売り主が違法行為であるということを意識していた場合はどうように引っ越し費用も含めて全額を請求できる。
しかし、問題は売り主にそれだけの賠償能力があるかどうかである。こうした安価なマンションやホテルを販売している会社は、コストを下げるために、財団法人「住宅保証機構」が行っている「公的保険」にも加入していない。そのため、売り主に「倒産するぞ」と脅されると、購入者は弱い立場に置かれる。そこで(2)に基づいて、公的な補償の問題が起こってくる。
公的補償については、住民救済という観点で行う必要があるが、これで企業や自治体の責任がうやむやにされてはいけない。これを機会に、国や自治体、企業の不正や怠慢を監視する「民」の側のシステムを作り上げていく必要がある。
そしてもちろん(3)の個人責任もないわけではない。これからは私たち一人一人が経済性だけではなく、安全性ということをもっとしっかり意識して行動したいものだ。たとえば、住宅の購入に際しては、多少コストがかかっても公的保険に入っている会社の物件を慎重に選ぶのも必要なことだろう。国や自治体の責任は重いが、これからの時代は個人責任も重要になってくる。
毎朝鼻血が出ると、日記を書く気力が奪われる。「出鼻を挫かれる」とはこのことだ。そういうわけで、昨日は近所のM病院へ行った。レーザーで出血場所を焼くのだそうである。
妻も二人の娘も鼻血が止まらなくなって焼いて貰ったことがある。焼くときに少し時間がかかり、とても痛くて涙が出ると聞いていた。痛いのが嫌いなので、私はこれを受けたくなかった。病院へ行くのに二の足を踏んでいたのはこのためだ。
ところが受けてみると、あっけなかった。ほんの1,2分である。レーザーを照射するとき、瞬間的にチクチクとしたが、涙が出るほどではない。ただ、肉が焦げるような匂いがして気持が悪かった。
びっくりしたのは、治療費が7千円以上もあったことだ。3割負担でこれだから、実際の治療は2万円以上ということになる。妻も「こんなにかかったかしら」と驚いていた。妻が治療を受けたA医院のときはもっと安かったという。しかも止血剤も出してもらったという。M病院が特別高いのだろうか。
治療代については、よくわからないことがある。歯の治療を受けたときも、あまりに高いので苦情をいうと、次から千円ほどやすくなり、しかも診察時間が3倍ほど伸びた。私が治療を受けているあいだに、隣の診察台には3人もの人が入れ替わっている。商売本位の医者だなと、そのとき思ったものだ。
いずれにせよ、治療代がこんなに高いと、貧乏人はおいそれと病気にもなれない。日頃から健康管理に気を配る必要がある。私ももうカニの食べ放題に通うのはやめにしよう。好物の酒饅頭も自粛しよう。
病院で鼻の粘膜を焼いてもらったおかげで、その後出血はなかった。一番不安なのは、混雑した帰りの電車の中での出血である。この不安から解放されただけで、7千円の価値はあった。今朝も出血はなく、快適に日記が書けた。これもありがたい。
昨日は通勤途中に菓子屋によって、酒饅頭を4つ買った。電車を待ちながら、一つをプラットホームのベンチで食べた。間食をしないことにしているが、ときどきこの規則を破る。その筆頭が、酒饅頭の買い食いである。
木曽川駅の近くにある菓子屋の酒饅頭は一個80円で、見てくれは悪いが、味はまあまあよい。通勤途中にその前を通ると、盆の上に酒饅頭が並んでいるのが見える。これが私の好物なのだ。
酒饅頭を買うのは月に一度あるかないかである。どうしても食べたいと思ったとき以外は買わない。昨日は常になく食べたかった。理由は分からないが、たぶん体が甘いものを要求していたのだろう。こういうときは買うことにしている。
学校から帰り、寝る間際に二つ目を食べた。寝る前は一切間食をしない、お茶も飲まない、という私の習慣から外れることだ。思わず妻に言い訳をしていた。
「饅頭を食べないで、夜中に死んだら心残りだからね」 「そんなことは、99,99パーセントありえないわよ」
妻にも一つ勧めたが、妻は「太るから食べない」という。なかなか意志堅固である。というわけで、昨夜は酒饅頭を一個、たくわんを一切れ食べて寝た。
今朝、妻と二人で一個ずつ味わいながら最後の酒饅頭を食べた。どんな好物でも毎日食べたらあきる。酒饅頭も久しぶりに食べるからうまいのだ。これでまたしばらく、酒饅頭のたのしみはなしである。
今日も朝から鼻血がとまらない。この日記も鼻に脱脂綿を入れて書いている。不便で仕方がない。朝の散歩もままならないので、今日は2時間ほど年休をいただいて病院へ行こうと思う。生きていくことはなかなか厄介なものだが、酒饅頭の楽しみのある人生は捨てたものではない。
今日は何の日か答えられる人は少ないのではないだろうか。64年前の今日、日本は真珠湾を攻撃し、太平洋戦争をはじめた。今日は太平洋戦争の開戦記念日である。日本はこの日、戦争終結への具体的な戦略を持たずに国力が何十倍も違うアメリカに無謀な闘いを挑んだ。
ところで真珠湾攻撃は、あきらかに失敗だった。まず、無謀な闘いという意味で戦略的にまずかった。真珠湾を奇襲されたことで、アメリカの世論が一気に戦争へと傾いた。これについて、靖国神社の遊就館には次のように書かれているという。
<大不況下のアメリカ大統領に就任したルーズベルトは、昭和十五(一九四〇)年十一月三選されても復興しないアメリカ経済に苦慮していた。早くから大戦の勃発を予期していたルーズベルトは、昭和十四年には、米英連合の対独参戦を決断していたが、米国民の反戦意志に行き詰まっていた。米国の戦争準備『勝利の計画』と英国・中国への軍事援助を粛々と推進していたルーズベルトに残された道は、資源に乏しい日本を、禁輸で追い詰めて開戦を強要することであった。そして、参戦によってアメリカ経済は完全に復興した>
たしかにアメリカの世論は必ずしも日本に好戦的ではなかったというのは事実である。しかし日本の参戦をアメリカの禁輸措置のせいにする論調はいただけない。その前に、日本のアジア侵略という事実がある。日本の露骨な軍国的植民地覇権主義が、列強による経済的制裁を生みだしたわけだ。
さらにルーズベルト大統領が「資源に乏しい日本を、禁輸で追い詰めて開戦を強要」したというというのは、一見ありそうな話だが根拠に乏しい。A級戦犯を英霊として祀っている靖国神社がこれを支持するのは、日本の戦争指導者の責任をあいまいにするためだろう。
戦略としてもう一つの大きな誤りは、軍艦ばかりに攻撃を集中して、すぐそのとなりにあった450万バレルの重油を貯蔵した石油タンクと海軍工廠を爆撃しなかったことだ。日本軍がこれをしていれば、アメリカ太平洋艦隊が立ち直るのに相当時間がかかっただろう。ミッドウエーでの敗戦もありえなかった。
それではなぜ、これをしなかったのか。masaさんが以前に紹介してくださったHP(アドレス後記)の文章から引用させていただこう。
<1941年12月8日、第一航空艦隊は真珠湾を空襲し、真珠湾にいなかった空母を除くUSA太平洋艦隊をほとんど全滅させる大戦果をあげた。問題なのはこの先である。第二戦隊指令の山口は、石油タンクや海軍工廠などが無事だとの報告を受け、すぐに第三次攻撃隊の準備を完了させ、そのことを信号旗で旗艦「赤城」にいる南雲司令官に知らせた。しかし南雲中将はそれを無視して退却した。
理由は、USAの空母がどこにいるか分からないのに危険を冒すことは出来ないという事である。「武士の情けだ」とのたまわった、などという訳の分からない逸話も伝わっている。真珠湾攻撃の二カ月前に戦艦「長門」の上での図上会議の時、空母「蒼龍」艦長の山口多門は燃料タンクと修理施設への第三次攻撃を主張したのだが、機動部隊司令官の南雲忠一中将はその進言を無視したと言う。先にも書いたように南雲中将ははじめから真珠湾攻撃には消極的な軍人?だった。
しかしこの時、450万バレルの重油を貯蔵した石油タンクと海軍工廠を爆撃していたらどうだったろうか。そうすれば、ニミッツ提督自身が書いているように、数カ月にわたって、アメリカ海軍は太平洋での作戦を行うことは不可能だったろう。当然、1942年4月18日の東京空襲は生じない。ミッドウェー海戦をする必要もなく、USAの太平洋艦隊は壊滅しており、空母も石油がなくて動けないのだから、ハワイの占領も難しくなかったであろう。
しかし、現実には、450万バレルの重油を貯蔵した石油タンクと海軍工廠は無事であった。そのため、東京空襲が起き、敵の空母を叩くことを主目的に、ミッドウェー攻撃が計画される。敵の空母を叩くことが主目的であるという事さえ、南雲中将には理解できなかったようだ。
南雲中将は、1942年6月6日、第一航空艦隊司令官としてミッドウェー海戦を指揮する。しかし作戦内容がUSAに事前に察知されており、また攻撃機の半数は雷装で待機させよという連合艦隊の命令に反して武装転換命令をたびたび行い、陸上装備のまま敵空母戦力を攻撃し、空母の甲板を叩くべきだという山口多聞の進言も退ける。
その結果は以前に「猛将山口多聞」に書いたとおりである。兵装転換中のところをUSAの急降下爆撃機によって叩かれ、出撃した空母を全て失い、100名以上の第一線パイロットを失った。責任をうやむやにする海軍省の人事で降格等はされなかった。このあたりは、現在の官僚組織と全く同じである>
真珠湾攻撃が戦略的にも戦術的にも失敗だった理由をもう一つあげるとすれば、南雲のような愚かな将軍を英雄に仕立ててしまったことだろう。これによって日本の世論はみせかけの「大戦果」に惑わされ、一気に好戦的になる。国民が真珠湾攻撃の失敗を知り(今でも成功だと信じているひともいる)、南雲の愚将であることを知るのは敗戦後だった。
(参考サイト) http://1katutanuki.cocolog-nifty.com/blog/cat3971908/ http://www.jmca.net/booky/watanabe/012.html
この数日の冷え込みは厳しく、例年よりもかなり早い初雪である。昨日は夜中に屋根の雪が落ちる音で何度か目が覚めた。そのせいで、起きるのが遅くなった。
さらに悪いことに、起きがけに鼻血が出た。このところ毎日のように鼻血が出ている。これが結構うっとおしい。病院に行こうと思いながら、ついつい行きそびれている。原因はよくわからないが、最近の寒さに血圧が高くなっているのかも知れない。
朝食をとり、日記を書いた。それから家を出た。路肩や田んぼには雪が残っていたが、さいわい日が射していて暖かだった。歩いているうちにさらに体があたたかくなった。
雪景色が好きだ。とくに日差しに輝く初雪の景色はすばらしい。毎日通っている散歩道が、すっかり違って見える。まさに魔法の世界である。雪国生まれの私は、故郷に帰ったような心持ちになり、懐かしくもあった。
木曽川橋から下を眺めると、浅瀬に5,6匹の魚が泳いでいた。30センチ以上ある大きな魚が悠々としている。その様子が橋の上からよく見える。魚の種類は何だろうか。体の形からして、鮭や鱒の仲間なのだろう。
少し離れたところには、大きな鯉が三匹泳いでいた。ときどきここで白い鯉を見る。その他、無数の小魚の群がいる。こうした生き物たちの姿を眺めていると元気が出てくる。
川面から目を上げると、雄大な木曽川の景色があった。残念ながら御岳は見えない。伊吹山も雲の中だった。それでも遠くの山から近くの山まで雪で白くなっていた。金華山のお城も真っ白である。それが日差しに輝いていた。
家に帰って風呂に浸かった。散歩の後の風呂も気持がよい。のんびり風呂に浸かっていると、いつか11時を過ぎている。着替えをしていると、「ごはんですよ」という妻の声が届いた。けっきょく昨日も病院へ行かなかった。
昨日から私の住む地方は雪になった。夜間高校の勤務を終えて学校を出たときは降っていなかったが、10時を過ぎて木曽川の駅を下りたときは吹雪いていた。いつもは自転車で帰るのだが、たまらず家に電話をした。
夜の閑散とした駅の待合室でふるえながら待っていると、妻が迎えに来てくれた。 「いつもより雪が早いね」 「もう自転車をやめたらどう」 「雪さえ降らなければ、自転車で大丈夫さ。無駄なガソリンを使うことはない」
自転車愛好家の私は車はなるべく使わないことにしている。そのかわり愛用しているのが自転車だ。去年義兄にもらったマウンテンバイクを愛用している。しかし、さすが吹雪では自転車は役に立たない。
昨日は2時間ほど年休を頂いて、岐阜のホテルへM先生と再びカニの食べ放題のランチを食べに行った。M先生の奢りである。株で儲けたので、お裾分けをしていただいた。いくら儲けたのか聞くと、昨日一日で70万円ほどだという。まあ、そんなに儲かったのなら、3000円のランチくらいおごらせてもいいかと思った。
M先生はよほどカニ好きなのか、このホテルのランチが大変お気に入りのようだ。帰り際に、明後日も来たいというので、予約をいれた。というわけで、この一週間のうちに3度もM先生におごって貰うことになった。カニ好きの私としてはありがたいことである。
M先生の予想では、株はこの一年間で少なくとも1.5倍くらい上がるのではないかという。私もこの予想には根拠があると思っている。M先生は3千万円以上株に投資しているということなので、この一年間に1千5百万ほどもうかるわけだ。笑いが止まらないわけだ。
しかし、カニばかり食べていると、コレステロールの値が高くなる。しかも、カニ以外にいろいろな物を食べる。ケーキやコーヒーも食べ放題、飲み放題だ。夕食の給食はほとんど食べない事にしているが、それでも栄養過多が心配である。実際M先生はあまり体調がよくないという。健康を損ねたら、いくらお金があっても幸せとは言えない。
昨日は4人で、明治村を歩いた。あいにく雨模様の寒い日だったが、紅葉がまだ残っていてきれいだった。入鹿池湖畔の豊かな自然のなかに由緒ある明治の建物が美しく調和して建っている。「本物はいいなあ」とつぶやき、落ち葉を踏みしめながら歩いていると、体も心も温かくなってきた。
明治村が財団法人として発足したのは、昭和37年だという。旧制第四高等学校同窓生であった建築家の谷口吉郎 ( 博物館明治村初代館長 ) と 土川元夫氏 ( 元名古屋鉄道株式会社会長 ) とが 共に語り合い、二人の協力のもとに創設された。
北海道から札幌電話交換局を移築し、京都の聖ヨハネ教会堂、東京の森鴎外と夏目漱石の両文豪が住んだ住宅など、最初は15件に過ぎなかったが、現在では67件に達し、博物館の敷地も2倍近くの100万平方メートルに広がっている。
その中には、遠くシアトル、ハワイ、ブラジルから移築されたものもある。いずれも初期の日本人移民が使用していた集会所や、その困難な日々の生活をしのばせる遺品、遺物である。明治村には何回か足を運んでいるが、これは初めて見た。
フランク・ロイド・ライト(1867-1959)建築の「帝国ホテル」の中央玄関には大きな電飾クリスマスツリーが立ち並んで、クリスマス気分を盛り上げていた。この帝国ホテルへはアインシュタインをはじめ、マリリン・モンローやチャップリンも宿泊している。
帝国ホテルは4年の歳月をかけて建造され、大正12年9月1日全館完成の披露式が行われたが、その日の正午にたまたま関東大震災が起こった。ところが他の多くの建築が倒壊する中で帝国ホテルだけはびくともせず、ロイドと帝国ホテルの名を高めた。帝国ホテルは戦災でも生き残り、マッカーサーもここを利用している。
その帝国ホテルの近くの高台にある洋食屋「浪漫亭」で昼食を食べた。ぺこちゃんが「オムライス」を注文し、残りの3人は明治風カレーライスを注文した。窓から見える景色を眺め、雑談をしながらゆっくり時間をかけて食事を楽しんだ。
明治村 落葉の道を 歩きつつ 友と語らう ひとときたのし 裕
毎年、秋に「万葉の旅」をしている。最近の参加者は私を入れて4人。インターネットで知り合ったeichanとぺこちゃん、それに北さんと私の4人である。今年で6年目になる。これまでに旅した場所をあげておこう。
2000年:明日香 2001年:湖北、広隆寺 2002年:和歌山、白浜 2003年:法隆寺、浄瑠璃寺 2004年:高野山 (2005年:犬山城、明治村)
万葉集にゆかりのある土地を旅するというのが本来の趣旨だが、必ずしも万葉集にこだわらないようになった。とくに今年は、金欠病の私の希望で私が日帰りできる近場にしていただいた。
eichanは奈良から、ぺこちゃんは東京からきてくれた。犬山駅に集合して、ぶらぶらと犬山城の方に歩き、お城に登った。木曽川河畔の丘に聳える天守閣からの眺めは天下一品である。お城も日本最古の天守閣で国宝である。小さいながら本物の風格があって何度眺めてもよい。
600円の「わんわん丸手形」を買うと、犬山城の他に文化資料館、からくり展示館、どんでん館にも入場できる。犬山といえば4月のはじめの土日に行われる「犬山祭り」に使われる。「からくり」と「山車(やま)」が有名である。
文化資料館で犬山の歴史に触れた後、からくり展示館やどんでん館に足を運んで、からくりと山車の実物を鑑賞した。そして今さら思ったのは、犬山市の人々の「祭り」によせる思いの深さである。毎年相当な出費になるが、これをやりとげ続けてきた人々の情熱に、思わず尊敬を覚え、敬意を抱いた。
犬山を歩いた後、5時頃から少し早い食事をした。ビールをのみ、料理に舌ずつみを打ちながら、4人で歓談した。東京の「力行会」という留学生を世話している施設に勤務しているぺこちゃんは、今年だけで、ニューヨーク、スペイン、ドイツと3回も海外旅行をしているという。eichanも国際派のビジネスマンで海外出張が多い。北さんのタイ旅行の土産をいただきながら、3時間余り話は尽きなかった。
昨日に続いて、株の話である。昨日はホテルで友人に昼食をおごってもらったが、ちなみに昨日一日の友人のキャピタル・ゲインは約30万円だということだった。食事をしながら、いろいろと質問をしてみた。
「毎朝、新聞を読んで株高をチェックするのか」 「携帯で見ればわかる。今直ぐにでもわかる」 「便利になったものだね」
株の売買も携帯でできる。現在の個人投資家の売買の9割近くはネット取引だというから、15年前のバブル頃と比べると、株取引はさらにパワーアップしている。しかも、居ながらにしてどこからでも株式市場にアクセスできるだけではない。以前と比べると、手数料が1/10になっているという。
たとえば15年前であれば、100万円買えば、1万円以上は手数料として証券会社に収めなければならなかった。これが今はネット取引だと千円以下で済む。しかも株式に対する配当も以前と比べてよくなった。0金利状態が続くなかで、銀行預金の利息を上回る株の配当を手にすることも可能になった。
さらに、税制上の優遇措置がある。預金に対する課税率が20%なのに対して、配当金や株高によるキャピタルゲインに対する課税率は半分の10%である。こうしたことが背景になって、2003年末に100万口座を越えたインターネット専業証券大手5社の口座数は、すでに250万口座を超えているという。その大半が個人投資家なわけだ。
売買代金でみると、外国人のシェアが約5割だが、日本人個人投資家のシェアも4割に達しようとしている。つまり株取引の9割近くが外国人と日本の個人投資家でしめられているわけだ。バブルのころは企業が主役であったのと比べると様変わりしている。
もちろん、だれもが個人投資家になれるわけではない。現在の日本は生活保護世帯が100万世帯を越え、預金0円の世帯も昨年度で23%になっている。リストラによる雇用不安や臨時雇用が増える中で、株式に投資できる余裕のある階層はしだいに減少している。
リストラによって、会社は業績を回復し、株価を上げた。しかし、リストラされた人々はこの株高の恩恵を受けることはできない。外人投資家や日本の裕福な人々が高額のキャピタルゲインで潤う中で、所得格差はますます広がっていく。こうして日本は確実にアメリカ型の株主優先社会に近づいている。
これが小泉首相がいう「構造改革」によってもたらされる社会である。こうした経済強者優先の競争社会がどんな未来をもたらすか、アメリカの現状をみればよい。しかし野党までがお金に目がくらみ、こぞって「改革競争」に躍起となっているのだから、もはやこの流れを押しとどめることはできそうにない。
それではどうしたらこうしたアメリカ標準のグローバル社会で「負け犬」にならないで済むか。それは現在の私の人生の反対を行くことである。つまり第一に子供を作らないことである。そうすればあえて持ち家をもたなくてもすむ。
夫婦共稼ぎでお金を貯めて、生活を切りつめ、すべてを株式に投資する。こうして出来る限りの力を費やしてキャピタル・ゲインを稼ぐのである。と、ここまで書いてきて、何だか馬鹿らしくなった。ふと、万葉集の憶良の歌を思い出した。
瓜はめば 子供思はゆ 栗はめば ましてしのはゆ いづくより 来たりしものぞ 目なかひに もとなかかりて 安寝しなさぬ (巻5−802)
しろがねも 黄金も玉も 何せむに 優される宝 子にしかめやも (巻5−803)
おりしも今日は毎年恒例の「万葉の旅」の日である。金欠病の私のために、今年は犬山や明治村を旅することになった。論語に「朋あり遠方より来る、また楽しからずや」とある。私にとって人生の最高の楽しみは、心の通い合う友人と楽しく歓談することである。
昨日の東証の終値は1万5130円で5年ぶり高値だった。2000年12月13日以来、5年ぶりに1万5100円台を回復した。東証1部の値上がり銘柄数は1372に上り、全体の8割を超えたという。
職場の友人のM先生が株に投資していて、帰りの地下鉄の中で、「今日は30万円もうかった」「今日は50万円だ」と景気のいいことを言っている。「橋本君、1億円たまったら、何に使いたい」というので、「まあ、旅行だろうな」と答えた。
M先生は子供がいない。奥さんと二馬力で稼いでいるので、お金がたまる。それで株や金を買っているということだった。地道に働いても教員の給料はたかが知れている。しかし、今の時代だと、金や株を買うだけで、その何倍も稼げる。
私も毎日新聞を眺め、「今日は30万円もうかった」と言える身分になってみたいが、悲しいかな株を買うような余分なお金はない。家を買い、子供を二人大学にやるだけで精一杯の生活である。そして、私が思うに、日本の多くの勤労者の家庭がこのレベルではないかと思う。
新聞を見ると、景気のいい話が書いてあるが、これは私たち庶民の生活の実感と随分違っている。しかし、一部にはM先生のように、この時代の趨勢に乗って、勤労所得をはるかに上回る所得を得る人たちがいるにちがいない。これからの日本はこうして貧富の差が拡大していくことだろう。
ところで株高の原因は外国の投資家が多く買っているせいだという。以前のバブルの頃は主に国内の投資家によるものだったが、最近の株高はこの点が大きく違っている。小泉さんの経済のグローバル化による外資導入戦略の成果だとも言える。
ところで、この株高で私も思わぬ恩恵を受けることになった。このところの株高で機嫌のよいM先生が、質素倹約を絵に描いたような私を食事に誘ってくれたのだ。お陰で今日のランチは思い切り豪華にホテルでカニの食べ放題ということになった。もちろんM先生の奢りである。株が買えない私の場合、持つべきは「株持ち」の友人であろうか。
2005年12月01日(木) |
昭和へタイムトラベル |
いよいよ平成17年もあと一ケ月を残すばかりになった。まだ一年を振り返るのは早いので、今日は一昔前の昭和時代のことを振り返ろう。
昭和16年12月1日、御前会議で「対米英蘭開戦」を正式に決定している。12月8日に真珠湾攻撃があり、戦争がはじまった。そして昭和20年8月15日の敗戦の日を迎えるわけだ。この間、3年と8ヶ月、太平洋戦争が続いた。
今日はタイムトンネルをくぐって、63年前の昭和17年12月1日の日本にタイムトラベルしてみよう。太平洋戦争が始まって約1年を経過して、日本国内の雰囲気はどうだったのだろうか。
2月15日にシンガポールが陥落したときには、日本国中が提灯行列でわきあがった。しかし、6月5日にミッドウエー海戦で日本は大敗を喫した。8月7日には米軍がガダルカナル島に上陸している。
日本は南方の資源、とくに石油を必要としていた。しかし、海上支配権を米海軍に押さえられ、資源を本国に運ぶことができない。11月に入ると国内の石油が不足しがちになっていた。「石油の一滴は血の一滴」という標語が生まれている。こうしたなかで、人々はゲートル巻でバケツリレーの訓練にいそしんでいた。
ヒットラーの「我が闘争」が出版され、日本文学報告会が11月に「愛国百人一首」なるものを出版し、生活全般が軍事色に染まり、街角には「欲しがりません勝つまでは」の標語が氾濫していた。軍神がつくられ、「空の新兵」という映画や歌が流行したのもこの頃である。
藍より蒼き 大空に 大空に たちまち開く 百千の 真白きバラの 花模様 見よ落下傘 空に降り 見よ落下傘 空を征(ゆ)く 見よ落下傘 空を征(ゆ)く
一方、物資の供給の途絶えたガダルカナル島のジャングルの中では何万という日本兵が飢えとマラリアや赤痢に苦しんでいた。ガダルカナル島は「餓島」とよばれたが、日本軍死者2万4千名のうち、餓死・病死が1万5千名にものぼっている。
今日の日本は過食と飽食の時代である。この10年間で小学生の肥満は1.5倍も増えており、小学生の3,4年生の女児の5人に一人は高脂血症だという。毎日何百万食分もの残飯が出るほど平和で豊かな現在の日本を、異国の戦場で餓えとマラリアに苛まれて死んでいった人々は想像もできなかっただろう。
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