橋本裕の日記
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2006年02月28日(火) チンギスハーンのY染色体

 遺伝子は自己複製して増殖する。現在地上に存在する30億人あまりの男性の細胞の中にあるY染色体も、もとをたどれば、5万数千年まえのアフリカに生きていた、ただ一人の男性(アダム)の体内にあったY染色体が複製を繰り返して、世界中に広まったようだ。

 Y染色体はしかし、突然変異を繰り返し、またコピーのたびにミスが重なったりするので、アダムのものとそっくり同じというわけではない。ただ、私たちのY染色体の系図をたどっていくと、最終的に一人の男性(アダム)にたどりつく。

 そこまで遡る前に、途中たくさんの枝分かれがある。そして現存する男性のY染色体は、その系統によって、共通の先祖をもついくつかのグループに分けることができる。オックスフォード大学のサックス博士によれば、現在世界最大の勢力を持っているのが、チンギスハーンがもっていたY染色体ではないかという。

 タティアナとクリスというオックスフォードの二人の研究者が、モンゴル人の間に大きな割合を占めるY染色体存在が存在することを発見した。そのグループに属するY染色体の共通の先祖を「遺伝子時計」によって割り出すと、約1千年前だという。つまり、そのころに存在した一人の人物がもっていたY染色体が、その後どんどん複製されて広まったわけだ。

 さらに驚いたことに、その後の調査で、この同じY染色体が、モンゴル以外の地域に住む人々から次々と発見された。その分布は東は太平洋から、西はカスピ海にいたるまで、アジアの広範囲に及んでいるのだという。そしてこれはまさしく、チンギスハーンによって創設されたモンゴル帝国の版図にぴったり重なっていた。

 チンギスハーンは1162年ごろに生まれている。彼はロシア南部、カザフスタン、アフガニスタン、イランを征服し、1227年に死ぬまでに、彼の帝国はシナ海から西はペルシャ湾まで達していた。

 彼の死後、4人の息子たちがさらに版図を拡大した。韓国、チベット、中国の大部分を征服した。孫のフビライハーンは中国全土を掌中に収めた。さらにもう一人の孫であるバトゥーハンはロシア北部を征服した。彼はウクライナの首都キエフを破壊し、ハンガリー、ポーランドに進撃して、キリスト教徒の連合軍を撃破した。

 モンゴル軍はその後も拡大し、1258年にはバクダッドを攻め落とし、チグリス川をも勢力圏に収めた。モンゴル帝国は世界史でもっとも巨大な帝国だといわれている。

 チンギスハーンは無類の女好きだったという。征服された民族は美しい女性は全て彼に差し出さねばならなかった。彼は精力に満ちあふれていて、側近の医者は「たまには一人で寝た方がよい」と助言をしていたそうだ。サックス博士はこうした状況を踏まえて、「アダムの呪い」に次のように書いている。

<現在、各地域に広まるこのY染色体が、過去数千年のあいだにひとりの男性に端を発していることは、疑いの余地がない。そのうえチンギスハーンが亡くなったときのモンゴル帝国の領域にぴったり一致する場所からみつかっている。となれば、タティアナとクリスが見つけた染色体がチジンギスハーンのものである確率は、非常に高い。

 なにより驚かされるのは、いま現在、チンギスハーンの染色体を受けついでいる男性の数である。サンプルが採取された16の地域で、その染色体は平均して全男性の8パーセントから見つかっている。その割合を全地域に適用すれば、いまチンギスハーンの染色体をからだに秘めている男性の数は、千六百万にものぼることになる。

 チンギスハーンの染色体ほど成功を収めた遺伝子は、史上、ほかに類を見ないと請け負ってもいい。そのみごとな成功ぶりに、いったいだれが指揮を執っているのか、わからなくなるほどだ。モンゴル帝国が領土と女たちの征服に成功した結果、彼の染色体が繁殖したのだろうか? それともチンギスハーン本人が、みずからY染色体の野心によって突き動かされ、戦でも寝床でも勝利することになったのだろうか?>

 アフガニスタンとパキスタンの境界線で暮らすハザラ族には、チンギスハーンの直系だという口承がある。DNAを調べてみると、たしかにハザラ族の場合は男性の3分の1近くがこのY染色体を持っていた。しかも同じ地域に住む他の民族ではほとんどみつからなかった。この民族に限ってこのY染色体が異常に多いということは、この口承がまんざら嘘でもないということだろう。


2006年02月27日(月) 性の不思議

 将来、人間のY染色体が駄目になったとき、人間はどうなるのか。おそらく、このピンチを何らかの方法で切り抜けようとするに違いない。そのくらいの知恵は期待したい。

 ショウジョウバエの場合は、XXがメスで、Xがオスだという。人間もYを失って、ショウジョウバエのようになるのだろうか。そこで改めて、他の生物たちはどうやって雌雄を決めているのか気になった。

 サックス博士の「アダムの呪い」を読むと、いろいろな方法が紹介してあって面白い。いくつか紹介してみよう。まずは、無性生殖をするというハシリトカゲの例である。

 ハシリトカゲにはオスがいない。観測されたのはすべてメスばかりだという。おそら昔はオスとメスがいたのだろう。しかし、いつからかオスが姿を消し、メスばかりで繁殖する方法を選んだらしい。

 メスのトカゲが卵を生み、そこから母親と全くおなじ遺伝子をもつ娘がうまれる。このトカゲの世界にはなんら面倒な男女の関係は起こらない。こうしたユニセックスの世界も、それなりに効率的で、未来の人類の一つの方向かも知れない。オスがいなくなれば、人間の世界もいくらか平和的になるだろうか。

 珊瑚礁の海にベラ科のブルーヘッドという美しい魚が泳いでいる。この魚は典型的な一夫多妻制である。つまり、オスは1ダースくらいのメスをしたがえ、ハーレムのようなうらやましい生活を送っている。

 ところで、焼き餅をやいた人間が、そのオスを捕獲してメスから隔離したらどうなるだろう。オスがいなくなったメスの群は生殖能力を失うのだろうか。

 ところがそうはならない。メスのなかで一番体の大きいのが、からだの色を変え、いなくなったオスとそっくりのけばけばしい衣装を身にまとうようになる。1週間ほどかけて変身し、見かけも中身も立派なオスになる。そして自らが、新しいハーレムの主になるのだ。

 つまり、ブルーヘッドは状況に応じて自由に性を変えることができるわけだ。文字通り両刀使いなわけである。ブルーヘッドは性別を決める方法として染色体に依存することを放棄し、ただ集団からオスがいなくなるというシグナルをきっかけに性転換する方法を開拓したわけだ。こうした方法を選ぶ人類の一派もあらわれるかもしれない。

 世の中には想像もできないような奇抜なつがいもいる。海中生物のポリネリアがそうだ。マングローブの茂る湿地帯の穴からいメートルちかい嘴を出して暮らすこの見かけの悪い虫も、メスしかみあたらない。

 みあたらないのも道理で、オスはじつは数ミリしかなく、しかも一生のほとんどをメスの子宮内で暮らしている。そしてメスの栄養分で生活し、メスが卵を生んだときだけ精子をつくりだし、授精させる。これは尻に敷かれるというなまやさしいものではない。

 それではどうやって、オスとメスの選別が行われるのか。それはメスの体内に生み出されたあと、幼虫が成熟したメスの近くにいてメスに呑み込まれたものがオスになり、そうでないものは、メスに成長するのだという。つまり、メスにのみこまれたら、オスになるしかないわけである。だからポリネリアもまた性を決めるのに染色体に依存していない。

 もっと有名なのはウミガメの場合だろう。穴の中に産み付けられた卵に性別はない。ウミガメの場合も染色体で性別を決めていないからだ。性別を決めるのは、孵化するときの砂の温度である。

 砂の温度が34度Cに近ければ、その穴の卵はすべてメスになる。20度に近ければすべてオスになる。それでは中間の温度のときはどうなるのだろう。その場合はオスとメスがいりまじるのだという。

 もし、地球の温度が相対的に下がって、砂の温度がどこも20度よりも低くなったらどうなるか。そうなれば、ウミガメはオスばかりになり、生殖できなくなる。

 こうしたことが、恐竜に起こったのではないかといわれている。つまり恐竜も隕石の衝突で地球が慣例化したとき、オスばかりになって絶滅した可能性がある。

 性別の決定を温度にたよっていると、こうした悲劇に見舞われる。そこで哺乳類や鳥類は性別を染色体メカニズムに頼ることにしたのかも知れない。そして寒い時代や暑い時代を生き残ったのだろう。


2006年02月26日(日) 孤独なY染色体の物語

 小泉さんは「聖域なき構造改革」の仕上げとして、皇室典範の改正を目差したが、「天皇は男系に限るべし」という人々の反撃がすごかった。たしかに天皇家が伝えられるとおり、「万世一系」なら、これは生物学的なサンプルとしてとても価値のある存在かもしれない。

 人間の染色体はふつう46本ある。これについては、1912年、オーストリアの生物学者が男性の細胞から47本、女性の細胞から48本の染色体を発見したと報告している。

 総数が2本違っているのは見誤りだろう。男性の染色体が一本少ないのは、男性が持っている性染色体のXとYのうち、Y染色体はとても小さいくて貧相だったので、見落とされたのに違いない。

 ショウジョウバエの場合は、メスはXX、オスはXだけしか持っていない。つまりオスを決めるのはX染色体の欠如だ。当時は人間もショウジョウバエと同じしくみで性が決まると思われていたことが、この見落としにつながったようだ。

 ふつう、染色体はペアで存在している。人間の場合は23対で46本ある。(ダウン症患者のような例外はある)ペアになっていると生存に有利なことがいろいろある。たとえば片方が壊れても、もう片方を使って修復ができる。

 この点で、XXのペアをもつ女性は男性に比べて生存条件が有利だ。血友病など、男性特有の致死的な病気があるが、これもこの病気の遺伝子がX染色体の上にあるために起こることだ。X染色体を1本しか持たない男性は、性染色体上の遺伝子の代替がきかないので、女性に比べて遺伝情報の面で脆弱な存在だといえる。

 染色体がペアであると、他にも有利なことがある。私たちはそれぞれ23本の染色体を両親から受け継ぐが、そのペアの染色体は私たちの細胞の中でときどき抱擁して、お互いの不良部分を修復したり、パートを交換し合ったりする。

 ペア染色体どうしの抱擁により、染色体上で一部の遺伝子に組み替えがおこることで、染色体は世代を経るにつれて、少しずつ違った内容に更新される。そしてこうした染色体上の遺伝情報の変化の積み重ねが、ときには新しい種を誕生させて、生命に進化現象をもたらすわけだ。

 しかし、Y染色体はX染色体と抱擁できないので、自分を更新できない。つまり、世代交代が起こらず、永遠に自分自身として生き続けるわけだ。たとえば、現在の天皇が神武天応の男系だとすると、神武天皇の細胞の中にあったY染色体は、そのまま現在の天皇の細胞の中に自己複製されて受け継がれているということになる。

 したがって、天皇家がどこまでさかのぼって男系か調べるのは、現代の生物学の技術では簡単だ。昔の天皇の墓から骨のかけらを取りだし、これを現在の天皇のものと比べればよい。男系なら同じ遺伝情報を含むY染色体がコピーされていることになる。

 もっとも、コピーされるときミスが生じたりして、遺伝子も少しずつ変るので、Y染色体の塩基配列はまったく同じではない。しかし、その同じ男系であるあるかぎり変化はわずかであり、他の男系のY染色体とは高度な確率で区別がつく。そこで、男系ということの価値を、こうした遺伝子レベルの自己同一性に求める人も出てくるわけだ。

 しかし、実は、このY遺伝子の他と交わらない孤高なありかたは、生物にとって大きなリスクにもなる。その理由は、コピーミス(突然変異)は少ないと言ってもわずかに存在し、抱擁によってこれが修復されないと、何万年という歳月を経るうちに、そこにそのミスが蓄積され、Y染色体上の遺伝子がどんどん破壊され、欠落していくことになる。つまり、それはまさしく「劣化」するわけだ。

 同じ性染色体でもX染色体は女性細胞の中にあるとき、X同士でペアを組む機会があるので、このような劣化はおこらない。他の染色体と同じく、細胞のなかで、お互いを癒し合う抱擁を繰り返し、体の一部を交換し、新たな存在として再出発できる。だから、世代交代し、自己同一性は失うが、劣化する心配をしないでもすむ。

 私たちはY染色体が劣化したその動かぬ証拠を、現在の私たちの細胞の中に、そのあまりにも貧相な姿に見ることができる。それはもともとX染色体と同じ大きさだった。それがいまや「かけら」のように小さくなり、そしておそらく、この先、ショウジョウバエのように消滅するのかも知れない。

 Y染色体の劣化が、人類の未来に暗い影を落とし始めている。こうしたことについて、くわしく書かれているのが、オックスフォード大学教授のブライアン・サックスの「アダムの呪い」(ソニーマガジンズ)である。少し引用してみよう。

<もともとY染色体は、ほかの染色体と同じ様な、整然とした存在だった。ところが、性別決定という外套を身にまとうようになってから、運命が定められてしまった。それはおそらく、1億年ほど昔、当時世界を支配していた恐竜たちから逃れようと必死になっていた、まだ小さな目立たない生き物だった時代に起きたことだろう。そうした祖先の染色体に突如として現れたひとつの突然変異が、偶然にも男性へと発達させるスイッチを入れる能力を手にしたのだ>

<組み替えの機会を奪われた染色体は、すぐに衰えはじめる。突然変異によるダメージを修復できなくなるからだ。組み替えには癒しの効果がある。最後の抱擁をしているあいだ、ダメージを受けた遺伝子は、ダメージを受けていない染色体にふくまれる健全なパートナーによって修復される。そのあと精子、あるいは卵子へと、べつべつの道を進む。

 そうした手当を受けられない染色体は、どんどん衰えていく。突然変異には害がある場合がほとんどで、そのために遺伝子がつぎからつぎへと殺されてしまう。そのため人間のY染色体は、腐食した遺伝子の墓場となった。Y染色体は自分たちの傷を癒すことができずにいる。これはもはや瀕死の染色体であり、いつの日か絶滅を迎える運命にある>

<Y染色体の歴史的な衰退のプロセスは、まだまだ終わるところではないのである。いまわたしたちのまわりで、着々と進んでいる。驚いたことに、男性の7パーセントが生殖不能症か、それに近いとされる。そのなかのさらに半分くらいの男性、つまり全男性の1〜2パーセントが、Y染色体の突然変異のせいで生殖不能に陥っていると考えられる。これは恐ろしいほど高い数値である>

<男性の生殖不能は、どんどん増えている。顕微鏡をのぞけば、正常な男性と見なされる人間から採取した精子の姿が、見るからに変形しているのがわかる。精子の数は劇的に減っている。人間のY染色体はずっと前から衰退をはじめ、それは今後も続いていくはずだ。そうした傷が蓄積されていくにしたがって、男性の生殖能力はどんどん落ちていくことになる。ひとつ、またひとつとY染色体が消え、やがて残り一つにまでなるだろう。その染色体がついに屈服したとき、男性は絶滅するのである>

<人間のY染色体がどんどん衰えて行くにしたがって、男性の生殖能力は落ち込んでいくはずだ。いくら環境をきれにしても、もはや取り返しのつかないほど>

 Y遺伝子が男性をつくる性染色体になったときから、どんどん劣化が進んだ。そしていまや、「Y染色体を構成している約2300万個のヌクレオチドすべてのDNAを形成する基本的な単位のなかに、わずか78個の遺伝子しか含まれていない」といわれている。

 Y染色体にたよる父系のリスクは大きい。それは現在の皇室の窮状をみてもわかる。これに対して、母系の方は比較的安泰である。なにしろそのつど、強力なY染色体を補給すればよいからだ。ちなみに人類最後のY染色体が滅びるのは、サックス博士の計算によれば、12万5千年後ということだ。生物学的考察にもとづけば、理論上はそこまで女系天皇は可能だということだ。

 父系ということは、こうした遺伝子のレベルから見ても、かなりリスクがあるし、天皇家の「万世一系」というのも、遺伝学上はかなりあやしい神話だといういうことがわかる。

 天皇家の神話より、私は現代科学が明らかにした、もうひとつの真実のほうに心を動かされる。それは現在地上に存在しているすべての男性は、数万年前にアフリカに暮らしていたただ一人の男性「アダム」の子孫だということだ。

 私たち男性がもつY染色体は、そのひとりの男性のY染色体が、何千回も自己分裂してできたものだということがわかっている。つまり天皇家のY染色体も、中国の奥地の農民のもつY染色体も、その起源はひとつだということだ。ふたたび、「アダムの呪い」から引用しよう。

<しかし、当時暮らしていた男性は、アダムひとりではない。アダムと同時代に生きていたほかの男性の系図は、途中で途絶えたか、あるいは娘しか生まれなかったという理由で、とぎれてしまったことになる。アダムが生きていたのはほんの5万9千年前ということになる。1990年代後半、このことに注目する研究者はどこにもいなかった>
 
 天皇家の万世一系は神話だとしても、「アダムの物語」は現代科学が明らかにした信憑性の高い話である。天皇家の神話より、もっとスケールが大きくて、美しい物語、しかも科学によって実証された実話だと言ってもよい。

 サイクス博士は1989年にNDA遺伝子を古代人の骨から取りだすことに成功し、スイスで発見されたアイスマンのDNA分析を手掛けたことで有名だ。人類共通のただひとりの大いなる母親イブの存在を証明した前著「イヴの7人娘たち」も世界的ベストセラーになった。翻訳者の大野晶子さんが「あとがき」にこう書いている。

<サイクス教授は、人類を「〜人」というグループではなく、個々の人間としてとらえることが肝心だと考えている。なにかと争いごとの多い世の中だが、顔つきや肌の色が違っても、信じる宗教は違っても、人類はみなきょうだいであり、その証拠がじっさいからだに刻まれている。この事実が、とげとげした人々の心に少しでも影響を与えられれば、教授にとってそんなうれしいことはないだろう>


2006年02月25日(土) 皇室の男児出産に期待

 2/7の紀子妃ご懐妊のニュースを、午後2時13分ごろ、衆議院の予算委委員会の席で知らされたときの小泉首相の様子は気の毒だった。私はこれを夜のNHKニュースで見たが、秘書官からメモを渡されて、驚く様子が全国に放送されてしまった。

 NHKがご懐妊のニュースを流したのがこの5分前だった。こうした大切なことが一国の首相に知らされていなくて、テレビをみた秘書官から渡されたメモで初めて知るというのは、小泉首相がいかに裸の王様になっているかということだ。

 このあと、小泉首相は安部官房長官に誘われて別室で入り、安部長官から「皇室典範を改正するというのなら、辞職したい」とほのめかされたようだ。会談を終えて部屋から出てきた小泉首相は顔面蒼白でやつれきっていたという。

 それにしてもNHKは大胆なことをした。妊娠6週間で発表するというのは異例の速さだ。普通は安定期を迎えた3ケ月ごろだという。かって雅子妃のご懐妊を7週目に報道した朝日は批判された。NHKがこれをしたのは、だれか実力者の了解があったからだろう。

 さて、皇室典範を変えて「女性天皇」や「女系天皇」を認めることについて、「皇室典範は憲法に規定される男女同権に矛盾しており、男系天皇に拘ることそのものが憲法違反だ」という意見がある。私もこれに同意したい。

 与党の大物政治家が「皇族には人権はない」と発言していたが、天皇は人間宣言もしているし、人間である以上、人権は認めるべきでだろう。また当然のことだが、憲法に矛盾するような典範は改革した方がよい。この点で、私は小泉首相に賛成である。

 憲法は天皇を国と国民統合の「象徴」として位置づけ、天皇の地位は「国民の総意」に基づき(第一条)、皇位は世襲で「国会の議決した皇室典範の定め」により継承する(第二条)としている。

 これを受けて皇室典範は、皇位継承資格を「皇統に属する男系の男子」に限り、継承順位を皇族のうち(1)直系(天皇の子、孫)(2)長系(兄弟では年長)(3)近親(天皇に近い血縁)が優先としている。

 さらに皇室典範は側室、養子を禁じ、昭和天皇の弟君以外の11宮家も昭和22年に皇籍を離れた。ところが皇室には秋篠宮を最後として、この41年間男子の皇族が一人も誕生しなかった。他の宮家のお子さんも8八全員が女子だった。(これはすごいことです)

 ところで私は皇室典範の改正はあってもよいと思っているが、妻は「男系でなければいけない」という。その理由は女系も認めると、女性皇族にも宮家創立を認めなければならなくなり、宮家が増えて国民負担がますからだという。たしかに戦前のように宮家が増えてはかなわない。

 しかし、男系の場合でも、宮家はふえる。むしろ女系よりもさらに増えるのではないだろうか。男系を認めることになれば、さしあたり終戦と共に廃立された旧皇族十一宮家を60数年ぶりに復興することになるからだ。

 しかしそうまでして宮家を復興しても、皇太子妃や秋篠宮妃に男のお子さんが生まれない限り、昭和天皇はおろか明治天皇の血筋さえ途切れることになる。現時点で男系に拘れば、約600年も昔の室町時代の天皇にまで遡らなければならない。男系といっても現在の皇室とあまりにかけ離れている。これで国民や皇族方の理解が得られるだろうか。

 いろいろ勘案すると、たとえ今回秋篠宮に男児が生まれても、そもそも男系相続はいずれむつかしくなり、女系天皇をみとめる方向にならざるをえないのかもしれない。いずれにせよ、あまり宮家ばかり復活してほしくはないので、さしあたり紀子さまや雅子さまの男児ご出産を大いに期待したいと思う。

(参考サイト)
http://www.tokyo-np.co.jp/00/sha/20060212/
col_____sha_____001.shtml


2006年02月24日(金) 巨大な債務は返済されない

 ナチスが台頭した原因についてよく言われるのは、戦勝国がつきつけた過酷な賠償金の存在だ。私もこれによって引き起こされた第一次大戦後のドイツの経済的混乱と、それが及ぼしたドイツ国民の心理的屈辱感を重視している。

 1919年に締結されたベルサイユ条約で、ドイツは海外植民地をすべて取り上げられたあげく、貨幣と現物による巨額の賠償金を、イギリス、フランス、ベルギーなど戦勝国に支払うように命じられた。

 ところが戦後疲弊していたドイツはこれを履行できなかった。戦勝国はふたたび1921年ににロンドンで再び会議を開いて、今度は1320億金マルク(たんなるマルク紙幣ではなく、金の裏付けつき)という巨額の賠償金を最後通牒つきで要求してきた。

 ドイツにはこれも履行できなかった。そうすると、フランスは1923年1月、すかさず石炭が豊富なドイツ・ルール地方を軍事占領した。

 ドイツ政府はルール地方の人々に対して、労働放棄というフランスへの消極的抵抗を訴えた。しかしこれにともなう収入減を国費で補填する必要があり、さらなる財政ピンチにみまわれた。これを解消するために、ドイツ政府はマルク紙幣を大量に印刷した。

 そうすると紙幣の価値がさがり、猛烈なインフレになった。1922年の夏から年末までに物価が20倍になり、1923年になると、月ごとに物価が20倍、200倍、1000倍になった。

 1923年はじめには250マルクで買えたパンが、年末には3990億マルクもした。町には失業者があふれ、1923年には75万にいた失業者が、1930年には300万人にまでふくれあがった。

 ナチスが台頭した背景に、こうした前代未聞の生活破壊があり、ドイツ国民の精神破壊があったわけだ。そして結局ドイツは賠償金を支払うことなく、第二次大戦に突入していった。

 第二次大戦後、戦勝国がドイツや日本に過酷な賠償金を要求せず、経済復興に手をさしのべたのは、こうした第一次大戦の反省も踏まえられていた。

 歴史的にみるならば、「巨大な債務は返済されることはない」というのが真実だ。ドイツはこのことを当事者として知っているわけだが、日本はこの点の認識が薄いのではないだろうか。日本はアメリカをはじめ外国に巨額の債権をもっているが、これを回収することはなかなかむつかしいようだ。

(参考文献)
 「黒字亡国」 三國陽夫 文春新書


2006年02月23日(木) 東証は信頼を取りもどせ

 東証はみずほ証券の株の誤発注でシステム不全が明らかになった。そして1月にはライブドア事件で取引全面停止の事態に追い込まれた。こうした東証に対して、厳しい目が注がれている。松井証券の松井通夫社長も、週刊ポスト3/3号に「脆弱な東証と儲けすぎ証券会社にもの申す」という一文を投じている。

<東証がここ数年、何に力を入れてきたかわかりますか。自らの株式上場のことしか考えてこなかったんです。そのあげく、こんな事態を招いている>

 東京証券取引所は非営利法人として1949年に設立された。これが完全民営化されて、2001年11月1日に資本金115億円の株式会社になった。

 東証は証券会社や上場企業から徴収する負担金をその収入としており、営業利益は530億円もある。経営の基本方針には、「グローバル市場に相応しい信頼と魅力を創造。ITを積極的に活用する」と謳っている。しかし実態はどうだろうか。長く大蔵省の統制下にあり、トップは2004年に急逝した土田氏まで6代続いて大蔵省(財務省)からの天下りだった。

 717名の社員がいながら、システムエンジニアは一人もいない。しかも30代後半の社員はそろって年収1000万円をこえる高給取りだという。東証の常識は世間の非常識といわれていた。民営化されたといっても形だけだったわけだ。

 東証が使っているコンピューターは11年前の日立製だという。しかもすでに去年で耐用年数が切れているらしい。ITの時代にこんなおんぼろのシステムをだましだまし使っているわけだ。

 ニューヨークやロンドンの証券取引所の最新のコンピュータはこの10倍は処理能力を持っている。これらが片道3車線の高速道路だとしたら、東証のシステムは一車線の一般道路にも劣る。これでは事故がおこらないほうが不思議だ。いかに東証が設備投資を怠ってきたかということである。

 松井社長は東証ばかりではなく、自己売買で巨利を上げている証券会社の儲け主義にも疑問を呈している。

<かって証券会社は免許制で。『自己売買より委託売買優先』が大原則だった。投資家が優先で自己売買は二の次ということだ。この原則は免許制でなくなった今も残すべき精神ではないか。

 さらに言えば、証券会社の自己売買は、個人投資家には持てない情報を持っている。板情報を上から下まで見られるし、手数料もかからない。これが同じ土俵に立つのはフェアではない。自己売買で儲けることに躍起になり、証券会社のシステムがトラブルを起こしたり、誤発注したりでは、元も子もない>

 2005年度の株取引売買代金は1100兆円にも達したという。このうち350兆円が個人投資家で、その8割はネット経由だ。一方で、証券会社の自己取引は一昨年の180兆円から、昨年は300兆円と、個人投資家に肉薄している。

 証券会社のなかには自己売買が9割をしめるものもあるという。個人投資家をないがしろにして、証券会社が自己取引に熱中していいものだろうか。こうしたことが続けば市場の健全性は失われ、個人投資家は証券市場から離れていくだろう。


2006年02月22日(水) 勤勉な労働は報われるか

 朝日新聞が18、19日に実施した全国世論調査によると、71パーセントの人が所得格差が拡大したと見ている。そのなかの49パーセントは、小泉首相の政策に関係があると答えている。「小さな政府路線」についても、このまま続けて欲しいという人は、28パーセントしかない。

 国民やマスコミで圧倒的人気を誇った小泉内閣の支持率も、43パーセントにまで下がった。そして不支持が41パーセントと拮抗してきた。とくに、働き盛りの40代〜50代では、内閣府不支持が66パーセントと、支持の24パーセントを圧倒している。

 小泉首相はこうした結果について、格差拡大は構造改革の結果と結びつけるのは、「遅速で短絡的だ」と記者団に語ったという。安部官房長官は、「汗を流した人、頑張った人、知恵を出した人が正しく評価されることによる帰結であれば、多くの人々が肯定的に格差をとらえている」との見方を示した。小泉首相も以前にこうした「格差是認」の発言をしている。

「下層社会」の著者の三浦展之さんは、参院から参考人招致の打診を受けたそうだ。日程があわなかったので出席できなかったらしいが、彼は週刊ポストに「下流社会の楽しみ方」というエッセイを連載している。小泉首相の格差是認の発言について、こう書いている。

<祖父の代から政治家であり、横須賀出身の慶応ボーイの小泉さんにはいわれたくないな、とは思う。小泉さんは裸一貫でのし上がってきたわけじゃない。学歴もない、職業的な地位もない、収入も低い家に生まれた人間の気持ちなんて、わかるわけないだろう。そういう何の資産もない人間と、小泉さんみたいな生まれながらのプリンスが、同じスタートラインから競争するのは、機会不平等だってことに気がついていただきたい。

 僕は小泉さんもホリエモンも頑張っているとは思うけど、駅のトイレを掃除しているおばちゃんも頑張っていると思う。トイレの掃除をしている人が、どう報われる政治をしているのか、そこが問題だ>

 私もトイレ掃除をしているおばちゃんが報われる政治をして欲しいと思う。親から財産や地位を受け継ぎ、学歴まで受け継いでいる人が、ますます有利な位置を占めるような資産家優遇の格差社会であってほしくない。機会均等の競争というのであれば、まずは100パーセントの相続税を実現し、教育費をすべて無料にすることだ。


2006年02月21日(火) 地球大異変

 土曜日と日曜日の二夜連続で、NHKスペシャル「地球大異変」をみた。地球規模でいままでなかった気候の大異変がおこっている。

 去年一年だけみても、アメリカ南部に米国災害史上最悪の被害をもたらした巨大ハリケーン・カトリーナ、スペインを襲った145年ぶりという小雨、そしてアマゾン川を干上がらせた記録的な大渇水など、私たちは異常気象に翻弄された。

 科学者はこれを化石燃料の大量消費による地球温暖化だと分析している。この数十年間急カーブで世界のCO2濃度が上昇し、平気気温が上昇した。大気の運動が活発化すると、猛烈な熱波や寒波が発生する。2003年、ヨーロッパに3万人を超える死者をもたらした熱波も温暖化によるものではないかといわれている。

 科学者は今後100年間でCO2濃度倍増し、気温は4度以上上昇すると考えている。そうするとどういうことになるか。NHKの番組では、世界屈指の計算速度を誇る日本のスーパーコンピューター「地球シミュレータ」による計算結果を映像化して、その驚くべき世界を描き出していた。

 温暖化によって、東京は奄美大島付近の気温になり、真夏日の日数は100日以上に増加し、正月でさえ紅葉の真っ盛りだという。台風やハリケーンは巨大化し、カトリーナ級の台風が本州を襲い、暴風による被害が激増する。

 北極海の氷は完全に融け、海面が上昇して、今世紀末には2億6千万もの人々が環境難民になる可能性がある。地中海沿岸では耕地の乾燥化が進み、アマゾンにはアラビア半島の面積を超える広大な砂漠が出現する。じつはこうした予兆はすでに現れている。世界の各地で居住地が海水によって浸食され、アマゾン川は大規模な渇水に襲われた。
 
 温暖化は、世界の食料事情を激変させる。さらに死をもたらす熱帯病のデング熱が拡大しているが、100年後には九州南部や米国南部が感染危険地域に入る。科学者はこうした悲劇を避けるために温室効果ガスの排出量を2050年に世界全体で50%削減しなければならないと警告している。

 しかし、これは容易なことではない。地球温暖化防止の国際会議は毎年開かれているが、最大の石油消費国であるアメリカが「経済活動を阻害する」として規制に反対である。発展途上の中国やインドも、「先ずは先進国から」という消極的態度を崩さない。NHKの番組は最後にその暗澹たる会議の様子を紹介していた。

 「環境の崩壊が止まらない」というのが、2回目に放送された番組に題名になっていたが、現在の繁栄のために近い将来を破壊し、地球をとりかえしのつかない姿にしてしまってよいのだろうか。とくに経済最優先で走り続けるアメリカの姿勢に大きな疑問を覚えた。


2006年02月20日(月) 虚栄の市

 高校生の頃、ディケンズの「オリバー・ツイスト」を読んだ後、18世紀のイギリスに興味を持って、サッカレーの「虚栄の市」をよんだ。確か岩波文庫で読んだはずだが、書棚をさがしても見当たらない。処分してしまったのだろう。

 サッカレー(1811〜1863)はデケンズと並ぶビクトリア時代の人気作家だが、作風はまるでちがう。ディケンズが下層に生きる人々を温かい筆致で描いたのに対して、サッカレーは上層階級の社交界をどちらかというと冷笑的に描いた。この二人は同じ時代に生きながら、生まれも性格も作風も反対で、ときには反目したが、友人でもあったのだという。

 「虚栄の市」は1847年から1848年にわたり、「Vanity Fair」という表題で分冊で発表された。「オリバー」に少し遅れて世に出たわけだ。これも「オリバー・ツイスト」どうよう、何度も映画化された。

 物語は裕福な商人の娘であるアミーリアと、生まれは貧しいが聡明で勝ち気なレベッカ(ベッキー)という二人の女性の人生を対照させながら展開する。読み始めると面白くて、夢中で読んだ記憶がある。アマゾン・コムに内容の紹介があるので引用しよう。

<19世紀初頭,ロンドン.上昇志向のベッキーと淑やかなアミーリアが女学校を終え世間へ踏み出す。大英帝国の上層社会、そこは物欲・肉欲・俗物根性うずまく〈虚栄の市〉。植民地経営とナポレオン戦争を背景に浮沈する、貴族、有産階級の人生模様。

 ベッキーは首尾よく名家の次男坊と結婚,野心も新たに社交界の頂点スタイン侯爵に近づく。一方アミーリアには悲運が続く。ナポレオン進軍で全欧が震撼し株価暴落で実家は破産、やがてワーテルローから夫の戦死の報が…ロンドン、ブライトン、欧州を舞台に展開するイギリス版「戦争と平和」、前半の山。

 英国はナポレオンに勝利した。だが戦争未亡人アミーリアは零落した実家で息子だけを生き甲斐とする毎日。孫をめぐる婚家の画策と母子を見守る夫の親友ドビン。一方ベッキーは夫も息子も顧みず社交界を泳ぎ回り、大富豪スタイン侯爵に近づくが…。

 賭博場をさすらうベッキーとの予期せぬ再会。亡夫を追慕するアミーリアに旧友は15年前の手紙を突きつけ迷妄を醒ましてやる。しかし、ああ、空の空―虚栄の社会はなおも続き…人間絵巻ついに完結。“悪女”最後の疑惑を読者にのこして>

 アマゾンコムにはこんな読者の感想も寄せられている。よく書けていると思うので、これも引用させて貰おう。

<これだけ軽やかに、華麗なまでにしたたかに生きられるというのは、関係者への甚大な迷惑は別にしてもなかなかスゴイ。ここまでくると賞賛の念にも似た気持ちがわいてしまうから困る。

 ベッキーに引っかかった人々にはお気の毒だが、そもそも彼女の人間性や手練手管はドビン氏のように物事の善し悪しが見える眼を持った人ならきちんと見抜くことが出来ているわけであるし、彼女の犠牲者達はある意味自業自得とも言える。まことにご愁傷様なのである。

 頼る人とてない孤児の身のベッキーは人生の荒波を自分で生きていかなくてはならなかったのだから、彼女の主な獲物である良家の人々が割合ころっと騙されるのもうなずける。なにせ人生経験と意気込みが筋金入りなのだ。

 ただ、自分に掛け値なしに優しくしてくれたアミーリアにだけは微妙に悪人になりきれていないのも、私がついベッキーをひいきしてしまう理由かもしれない。それにしても、初めて読んだ頃は圧倒的にアミーリアを支持していたのに、私も年を経て人間が丸く(?)なったのか(笑)

 この小説は、筋立てはもちろん、当時の英国の風俗や社会背景、階級、独身女性の生き方など、興味深い事柄が本当にたくさん散りばめられているので、そういった事にも注意しながら読むと何倍も楽しめると思う。ヴィクトリア朝の社会や文化のおおまかな雰囲気がつかめるのでは。また、随所に現れる挿絵もとても素敵だ>

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/
4003222741/250-8601363-5809006

 ベッキーの上昇志向の生き方は、起伏に富んでいて、読んでいて面白かったが、読後感としては物足りないものがあった。「オリバー・ツイスト」に感じたほどの作品としての深みや感動がない。「オリバー・ツイスト」の文庫本が残っているのに、「虚栄の市」が残っていないのもそのせいかもしれない。

 いずれにせよ、ビクトリア朝のイギリスを知るには、この二人の対照的な作家の作品を、合わせ鏡のようにして読んでみるとよい。そこに生き生きと描かれている「下層」と「上層」に生きる人々の心の世界は、現代にも通じる普遍性をもっているように思う。


2006年02月19日(日) オリバー・ツイスト

 昨夜、映画館へポランスキー監督の「オリバー・ツイスト」を観に行ってきた。映画はチャールズ・ディケンズ(1812〜1870)の同名の小説を映画化したもの。デケンズはこの小説を1836年に完成した。

 舞台は1800年代初期のイギリスである。ビクトリア王朝が世界を制覇するなかで、庶民の暮らしはどん底に落ちていた。主人公のオリバー・ツイストは孤児院で育ち、救貧院に身を寄せたりしていたが、やがて葬儀屋に売られる。

 奉公先の葬儀屋での生活に絶望して、7日間歩いてロンドンにやってくる。そして盗賊団の少年たちと一緒に貧民窟で暮らし始める。首領のフェイギンは物欲しか頭にないみすぼらしい老人だが、何だか全身に哀れを感じさせる存在だ。

 「オリバー・ツイスト」は何度も映画化されているらしいが、私が観たのはキャロリ・リード監督のミュージカル作品で、孤児のオリバー役を演じていたマーク・レスターがとても可愛かった。高校生の私はこのときディケンズが好きになり、「デヴィッド・カパフィールド」や「クリスマス・キャロル」などの小説を文庫本で次々と読んだ。

 今私の手元に、そのとき買った 「オリバー・ツイスト」(新潮文庫上下各130円)があり、それを読み返しながらこれを書いている。小説はこんな風にはじまっている。

<いろいろの理由からして、ここではその名を云わない方がよかろうと思うし、また。仮りの名をつける気にもならないから、ある町と云うことにしておくが、そうした町の公共施設の中には、町の大小にかかわらず、どこにも昔からある、一つの建物があるものだ。それは救貧院である>(中村龍三訳)

 ディケンズは孤児ではないが、少年時代に父親が破産して、両親が債務者監獄に収監され、彼も12歳で独立し、靴墨工場で働いている。工場では粗暴な少年たちにずいぶんいじめられたらしい。そうした体験が彼の作品に独特の影を落としている。

 彼はそうした環境の中で苦学して法廷の速記者になり、やがて片手間にエッセーを書いて雑誌に投稿し始める。ロンドンの下町社会を舞台に展開する弱者に視点をおいた心温まる作風は大きな反響を呼び、彼はみるみる名声を博して、サッカレーとともにビクトリア期を代表する作家になった。彼の墓碑銘が彼の作家としてのありかたを簡潔に語っている。

「He was a sympathiser to the poor, the suffering, and the oppressed; and by his death, one of England’s greatest writers is lost to the world」

(故人は貧しき者、苦しめる者、そして虐げられた者への共感者であった。その死により、世界から、英国の最も偉大な作家の一人が失われた)

 オリバー・ツイスト少年はデケンズの分身なのだろう。過酷な環境に身を置きながら、少年は魂の純潔さや美しさを失わなかった。物語の終わりの方で、監獄に捕らえられ縛り首になるのを待っているフェイギンのもとにオリバーがやってくる。老人は錯乱してオリバーに自分をここから逃がすように訴える。

<おお、神様、この気の毒な人をゆるして上げてください>

 オリバーは老人を抱擁し、神に祈る。盗賊の首領の老人は社会からすれば犯罪者だが、路上で行き倒れ寸前だったオリバーにとって、かけがえのない命の恩人なのだ。オリバーが監獄を訪れたのも、老人にこのことを感謝するためだった。老人の為に涙を流して神に祈る少年の姿は、この物語の白眉である。

 映画が終わった後、隣の座席のカップルの一人が、「イギリスにもあんな時代があったのね」と言うのが聞こえた。しかし、これはほんとうに昔の時代の物語だろうか。今も世界のありこちにフェイギンとともにたくさんのオリバー少年が生きているのではないだろうか。

 ポランスキー監督が描きたかったのは、昔の時代の物語ばかりではなかったはずである。日本では「格差」論議がやかましいが、世界がどんなひどい格差社会になっているか、この映画を見ながら考えてみてはどうだろうか。


2006年02月18日(土) プーチンの愛国戦略

 ロシアは世界最大の天然ガス産出国であり、世界第二位の石油輸出国である。このところの原油高でロシア政府は未曾有の財政黒字を出しているが、これが可能になった背景にはプーチンのしたたかな世界戦略があった。

 プーチンはエリツィン大統領の後継者だと見られいるが、じつは政策はまるで逆である。簡単に言えば、エリツィンは国を売った大統領だが、プーチンは国を買い戻した大統領だといえる。

 1991年にソ連が崩壊し、ロシア大統領として実権を握ったエリツィンは、若手経済学者のガイダルを副大統領兼経財相に任命し、国営企業の民営化に着手した。ガイダルが失脚したあとも、彼の後をついだチェイバスのもとで、民営化が強行された。

 民営化と言っても、それは国の資産の投げ売りである。こうして安く国の財産を手に入れた人たちによって、「オルガルヒ」(新興財閥)ができた。

 その代表はボリス・ベレゾフスキーだろう。彼はロシアの石油、航空、マスコミを傘下に収め、個人資産30億ドルの大富豪になった。もし彼が現在もその地位にいたら、おそらく彼はこのところの原油高でまちがいなく世界一の大金持ちになっていたに違いない。

 ところが、こうしたにわか泥棒成金の前に立ちはだかった男がいる。それがKGBに基盤を持つプーチンだった。大統領となり実権を握ったプーチンがしたことは、こうした泥棒貴族が政商となってロシアを牛耳り、国有財産を次々と略奪して私物化し、海外に資産を移しているのを許さなかったことだ。そのために彼は司法機関を使い、かなり手荒なこともした。マスコミを押さえ、統制もした。

 シカゴ学派で市場主義者のチェイバスが実権を握り、アメリカの外資と手を組んでロシアの民営化を押し進めていたころ、マスコミは上げてこれを歓迎し、モスクワ市内の集会では年金生活をしている老人までが「今こそ市場原理を」と叫んでいたという。

 そして1996年のロシア大統領選では、チェイバスの改革派と新興財閥が手を組んで、性急な市場化や民営化に反対する抵抗勢力をうち破り、エリツィンを再選させた。新興財閥の傘下にあったロシアのマスコミがあげて、「規制緩和」「民営化」「緊縮財政」を歌い上げ、エリツィン再選を後押ししたことはいうまでもない。

 しかし、そのころすでにロシアは一握りの泥棒成金と大多数の極貧層に二極分解して超格差社会になっていた。市場原理と民営化の夢に酔っていた大多数の民衆が置かれた現実は厳しかった。パンひときれを手入れるにも長い行列をしいられるなかで、多くの人が死に絶えて平均寿命まで縮んだ。

 犯罪が増え、失業した若者を中心にニヒリズムが社会に蔓延しつつあった。こうした中で、エリツィンは為すところをしらず、ただ毎日ウオッカを浴びていた。しかし、エリツィンにも最後の理性が残っていた。それは内心自分の政策の間違いに気付き、後継者にプーチンを選んだことである。

 プーチンは権力を握ると、クレムリンから市場原理を掲げる「外国勢力」を一掃した。そして民営化した基幹産業を、つぎつぎと国営化した。これによって、ロシアの資産が外資にのみこまれるのを防いだわけだ。

 ロシア政府は今年に入って、世界最大のニッケル生産会社ノリリスクニッケルを国有化する方針を固めた。同社は世界のニッケル市場で2割強のシェアを握っている。インタファクス通信によるとノリリスクは、ロシアの国営ダイヤモンド生産会社アルロサが吸収合併するのだという。

 ノリリスクはロシア産ニッケルの96%をはじめ、パラジウム、銅、コバルトなどの生産も手がけている。1995年に政府は民営化にあたり、この企業の株式の51%をロシア人富豪のウラジーミル・ポターニン氏に6億5000万ドル(約747億円)で売却したが、現在同じ株数を買い戻すのに必要な額は、100億ドル(約1兆1500億円)だという。

 これだけの金を払っても、この会社を国営化したいというプーチンの執念はすごい。ロシア政府はエネルギーをはじめ、自動車、重工業などの分野で主要民間企業を次々と買収し、政府による直接統治を強化している。

 プーチンのロシアは日本とはまるで反対のことをして、アメリカの主導するグローバリズムに対抗しようとしている。こうしてプーチンはロシアで愛国者として絶対的な人気を得た。世界にはこうした指導者もいるのだということを、私たちは知っておいて損はない。

(参考文献・サイト)
「週刊朝日」2/24 「小泉改革とエリツィン改革は酷似している」

http://tanakanews.com/g0116russia.htm

http://www.business-i.jp/news/world-page/
news/200601200011a.nwc


2006年02月17日(金) 愛の弁証法

 脳科学者の茂木健一郎さんに何となく引かれて、書店で彼の本を見かけると迷わず立ち読みするようになった。週刊誌では、阿川佐和子さん相手に、こんなことを話していた。

「僕は何かを愛するということは必ずそれに批評的視点を持つことが大事だと思うのです。現状が全部OKということって、ホントに愛していることにならない」

「リストラにあっても生き延びる力はいい文学の中にあると思うのです」

「趣味がいい人って、生きることでも価値観でも、最後は絶対途方に暮れると思うんだ。阿川さん、そういうところがありますよね。すごくいいと思います」

「生きるってどういうことかわからないことなのに、決めつけると何も生み出す感じがしない。生命感がないんですよ。コンピュータのプログラムみたいで」

 私たちが人や国を愛するのは、欠点がないからではない。むしろ、欠点や悪いところがやまほどあるから愛おしいわけだ。人間でも国でも完全無欠な存在などありはしない。そして、趣味のいい人は、ときどき途方に暮れる。これもいい言葉だ。途方に暮れ、迷いながら、それでも何とか赦しあい、認めあって生きていかなければならないのが人生なのだろう。

「人間は傷つき合って、許しあって、愛を覚える」

 これは何かの映画のなかのセリフらしいが、映画監督の大林宣彦さんがバイブルのように大切にしている言葉だという。たしかに私たちが感動する文学やドラマは、「傷つきあって、許しあって、愛を覚える」というストーリー展開になっている。これはドラマ作りのテクニックというだけではなく、真実の愛がそうした弁証法的な深みのある姿をしているからだろう。

 大林さんはお互いの価値観や思想が違うことは仕方がないが、大切なのは「お互いの存在を認めあうこと」だという。お互いの存在を認めるまでには、傷つけ合い、そして途方に暮れ、赦しあうことも必要なのだろう。そうした過程を通って、愛が深められる。いや、その過程そのものが「愛」なのではなかろうか。

(参考文献)
 週刊ポスト「阿川佐和子のこの人に会いたい」


2006年02月16日(木) 小泉構造改革の虚妄

 1997年、橋本内閣は財政の健全化をうたい文句に、消費税率を3パーセントから5パーセントに引き上げた。さらに所得減税の廃止、社会保障の国民負担増で、あわせて9兆円の大増税を行った。

 これによって前年度の名目成長率が2.6パーセントまで回復していた日本経済は、いっきに崩壊した。株価は暴落し、銀行の債権は株価の含み益を失って不良債権化し、大手証券会社や銀行があいついで破綻した。

 アメリカのゴア副大統領は1997年3月来日したとき、橋本首相に「日本はなぜ内需抑制策をとるのか。内需を拡大して経済を活性化すべきではないか」と進言したという。ゴアのみならず、これが多くの外国の政治家や経済学者の意見だった。

 しかし橋本首相や当時の大蔵官僚はこれらの声に耳を傾けなかった。財政赤字を解消するには、増税と緊縮財政しかないと考えたのである。こうした無謀とも言える橋本財政改革で、上向きかけていた日本経済に冷や水が浴びせられた。

 これによって日本はふたたび不況に突入し、失われた10年という言葉が定着した。税収はかえって縮小し、赤字が増えて、財政はますます悪化した。橋本氏は2001年4月の自民党総裁選挙で、「私の財政改革は間違っていた。これで国民に多大の迷惑をおかけした。国民に深くお詫びしたい」と謝罪した。

 2001年の段階で、日本経済はようやく立ち直り掛けていた。橋本内閣の後をついだ小渕内閣が一転して減税と、公共投資拡大路線をとったからだ。1998年に国会で可決された「金融安定化60兆円」の法案によって、金融恐慌も回避することができた。

 こうして2000年には47兆円にまで縮小した税収が再び50兆円台を回復した。名目成長率も回復し、このまま推移すれば3パーセントを超える勢いだった。株価も回復しつつあり、2000年度の主要銀行の不良債権比率は5パーセンで、銀行貸し出しもはじまっていた。橋本氏の謝罪は、こうした経済回復基調のゆるんだ雰囲気のなかで生まれた。

 しかし、大方の予想を覆して、橋本氏は総裁選で敗退し、小泉内閣が発足した。そして皮肉なことに、小泉首相は橋本氏が間違っていたと謝辞した財政改革路線をふたたび継承した。こうして歴史はふたたび、振り出しにもどって繰り返されることになった。

 小泉政権のもとで、株価は下落し、ふたたび銀行の不良債権比率がみるみる上昇した。銀行の収支が悪化するなかで、小泉首相は不良債権の解消を強く迫り、銀行はこの処理のために保有する株を主に外資に安く売り払った。これによって株価はさらに低迷するようになった。

 銀行の貸ししぶりで、中小企業は資金繰りが苦しくなり、倒産があいついだ。また大企業でもリストラが相次ぎ、正規社員がパートに置き換えられた。これによって家計の収入は減少し、これが消費の後退をまねいた。日本経済はこうしてふたたびデフレの暗いトンネルに入った。

 小泉改革がなければ、税収は60兆円台に達していただろうといわれる。しかし、2000年には50兆円を超えた税収も、2003年には41兆8千万円にまで落ち込んだ。小泉構造改革のもとで、日本は20年前の税収しかない経済にまで落ち込んだ。政府長期債務は縮小するどころか、2004年度末で490兆円に達し、2000年度から140兆円もふえてしまった。

 小泉内閣は経費削減を合い言葉に公共事業を削減した。2001年度から2004年度の4年間を合計すると、その額は1.6兆円だという。しかし小泉政権のデフレ政策によって減少した税収は、2000年の50兆円をベースにしても26兆円に達する。実際は30兆円をこえる財政損失だろう。簡単に言えば、小泉内閣は1.6兆円を惜しんで。30兆円を失った貧乏性内閣だったわけだ。

 もし橋本氏が総裁選挙で敗れるという大番狂わせがなければ、その後の日本はまったく別の展開になっていただろう。中国、韓国とも政治的に友好な関係が築かれ、おそらく日本は中国やその他のアジア諸国のあとおしで、悲願である国連安保常任理事国のメンバーになっていたのではないだろうか。

 日本経済は持ち直しつつあると言うが、これも内需ではなく、アメリカや中国の外需に頼っているだけである。株高も原油高で稼いだ外資の流入がおおきい。日本の主要企業の株は現在30パーセントちかくが外資によって占められているが、株主主権主義の行きすぎが日本の企業や労働者に与える影響も考えなければならない。

 小泉首相退陣後、増税や社会保障の国民負担増が予想される。これがさらに日本経済を圧迫するだろう。ライブドアや耐震強度偽装事件、米産牛肉問題で小泉改革の影の部分が浮かび上がってきている。マスメディアを中心に人気の高かった小泉構造改革だが、その破綻がだれの目にも明らかになるのに、そう時間はかからないだろう。

(参考文献)
「増税が日本を破壊する」 菊池英博 ダイヤモンド社


2006年02月15日(水) 高額納税者の公示がなくなった

 今年から法律が改正されて、高額納税者の公示がなくなった。犯罪のターゲットになりやすというのがその主な理由らしいが、低所得者がふえるなかで、所得格差をあまり露骨に知らせたくないということもあるのだろう。

 去年は外資に勤務する株ディーラーが日本一になって、世間を驚かせた。一方、ホリエモンの所得は意外に少なかった。高額納税者を公示するというのは、たんにこれを顕彰するというだけではない。脱税などの不正行為をチェックする機能もある。また、時代の傾向も分かり、国民経済を分析する重要な資料だけに、廃止されたのは残念である。

 国税庁の調査では、サラリーマンの給与は過去7年間連続して減少している。家庭の4分の1が月収20万円以下で生活している。国民金融資産が1400兆円もあるというのに、預貯金を保有していない家庭が23.8パーセントあり、生活保護家庭の割合も増加している。

 国民年金保険料の未納率も2001年から急上昇をしており、その65パーセントが「経済的に支払いが困難」だと理由をあげている。失業率は2002年の5.5パーセントから4.4パーセントまで回復したというが、これも非正規社員の増加によるものである。こうして所得格差は拡大している。

 総務省の発表では、若年層の男性の完全失業率は9・9%になっているが、実質的な失業者であるニートも含めれば、実際には40パーセントに近いといわれている。フリーターの場合、生涯賃金は5200万円程度と推計されていて、正規社員の4分の1である。しかも27歳での収入が最高賃金だという。これでは自分一人が生きるのが精一杯で、家庭を築き、子どもを教育することはむつかしい。

 犯罪もふえつつあり、刑務所はどこも収容率が100パーセントを越え、あらたに各地で建設されている。コストを削減するために、これからは民営化をすすめるというニュースも流れた。年間の自殺者は3万人をはるかに越え、この5年間で16万人以上の人が自らの手で人生途上の死を選んでいる。とくに家庭をもつ働き盛りの中高年男性の自殺が増加している。

 こうした中にあっても、NHKの世論調査によると、「格差はあったほうがよい」という人の割合が4割近くあり、「格差はないほうがよい」とほぼ拮抗している。まだ多くの日本人が「競争社会」を生き抜き、そこで勝ち組になる希望を捨ててはいない。そして、こうした向上心をもつことは、ある意味で好ましいことだとも言える。

 能力と努力によって、収入に差が生まれるのは仕方がないことだ。これを否定すれば活力のない悪平等の社会になるだろう。しかし、「お金がすべて」とばかり他者をうち負かし、競争に勝つことだけが人生ではない。お互いに助け合い、支え合って生きるのが、人生の本来の姿である。

 私たちはこの基本を忘れずに、その上でフェアに競争して、自他の向上をはかりたいものだ。競争も必要だが、大切なのは競争条件を公平で平等にすることである。そしてできることなら、この競争は自分だけが勝つための競争ではなく、まわりの人をも幸せにする競争であってほしい。

 社会がこの基本さえ忘れなければ、高額納税者は多くの国民によって尊敬され祝福されるだろうし、その公示は向上心を持つ人々の励みにもなるだろう。安心して高額所得者を顕彰できる、そうした健やかで心のゆたかな社会を創りたいものだ。


2006年02月14日(火) 超初心株日記

 2月9日に、友人にすすめれるまま、SBIホールディングスの株を7万円で買った。その数日後から下がりはじめ、この数日で5千円以上の損失を出している。

 どうやら、私が買うと、株が下がるという法則があるようで、友人もだいぶん損をしたようだ。彼の分析によれば外人投資家の投機的な行動が原因だろうという。もっともこの株は、私も投機的な目的で買ったものだけに文句をいえない。

 私のSBI株戦略は、これを7万円で買い、8万円で売り抜けるというものだ。そして次に、7万5千円で買い、8万円で売り抜ける。これで1万5千円の利益をかせごうと考えている。とりあえずこの戦略でしばらく(数ヶ月)がんばってみよう。

 このところの下げで割安になった銘柄がずいぶんある。これを買いたい気はするが、残念ながら当初予算の100万円を使い切った。1月13日から始めた株取引だが、これからしばらくは株式市場の行方を静観しようと思う。

 幸いヤクルトと豊田合成の株は、昨日の段階であわせて3万万円あまりの収益をだしていた。しかし、ライブドアの7万円の損実はまだしばらく取り戻せそうにない。あせらず、ゆっくり、橋本流ノンビリズムで株式の理論と実践を勉強していきたいと思っている。

 妻の実家は中部電力の株を数十年前に買ったきりで、妻は先日端株整理のために義母を連れて銀行へ株券を持っていった。中電の株は1千万円以上になっていて、義母も喜んでいたようだ。義母はこれをバブルの頃に売るように言われたそうだが、愛着があって売れなかったという。

 妻の話では、実家ではこの株のお蔭で数十年間一度も電力料金を払ったことがなかったそうだ。それどころか、差し引きあまった分をもらっていたということである。こうした株主優待があって、義母も愛着があるのだろう。

 義理の母は80歳を過ぎ、頭も呆けはじめて、どんな銘柄の株をどれだけもっているのかわからない状態だという。株券も何十年もほったらかしで、死んだ曾祖母名義の株もそのままになっていて、管理もできていないようだ。義父は株にはまったく興味がなく、妻がその分、いそがしそうにしている。

 妻の話によると、三菱重工などの株もあるようだが、これは現在の株価があまりに安いのでがっかりしたという。「少し株を分けて欲しいね」と妻に冗談を飛ばしたが、義母にその気はなさそうだ。株価が上がれば、頭が活性化するかも知れない。義母にはまだまだ元気でいてほしい。


2006年02月13日(月) 格差社会の行方

 2001年3月に小泉政権が誕生し、しばらくして日本の株価はどん底に落ちた。その後、何年もかけて回復してきた。これを小泉構造改革の成果だとする見方があるが、どうだろうか。

 小泉首相はたしかにいろいろな改革をやった。とくに経済分野では会社法を変えたり、外資の導入についても、思い切った規制緩和をした。道路公団や郵便局も小泉政権のもとで民営化されることになった。

「民間でできることは民間で」というキャッチフレーズは多くの国民に支持され、小泉政権はこれまでにない支持率を維持してきた。朝日新聞をはじめマスコミも基本的に小泉構造改革に賛成で、これに反対する人々を「抵抗勢力」と位置づけ、小泉改革の背中を押した。

 そして昨年9月に総選挙では地滑的な勝利を収め、野党の党首をして、「小泉首相と改革を競う」とまでいわせた。この選挙には財界首脳も鉢巻をしめて自民党を応援した。「改革」という言葉が錦の御旗のように私たちの頭上に振り回され、新聞もテレビもこの熱にうかれた。

 経済は回復してきているという。株価も去年1年間で4割も上昇し、バブルではないかとまでいわれている。有効求人倍率も改善した。銀行もこの株高を背景に大幅な黒字になり、不良債権もほぼ解消したという。

 たしかに、小泉首相の経済政策は一定の成果を上げつつあるようにもみえる。しかし、その一方で、貧困率が上昇し、経済格差がひろがった。株高にしても、これを享受できる層はかぎられている。小泉首相は当初、「格差はみかけほど大きくない」と述べていた。しかし、2月1日の衆議院本会議ではこう答弁している。

<格差が出るのは悪いこととは思っていない。能力がある者が努力すれば報われる社会という考え方は、与野党問わず多いと思う。小泉改革は弱者を切り捨てるものではない。一時期敗者になっても、また勝者になりうる社会の実現を目差すのだ。悪平等はいけない>

 これを読んでいて、去年の暮れに読んだホリエモンの「稼ぐが勝ち」を思い出した。ホリエモンが強調していたのも、この点だったからだ。ホリエモンはこう書いている。

<経済の二極化によって上流層、下流層という二つの国ができる。でも下流層が上流層に入るプロセスがわかっていれば、2つを自由に行き来できる>

 たしかに、私も悪平等はいけないと思う。能力や努力によって経済収入に差が生まれるのは当然のことだ。これを否定したら、小泉首相のいうように悪平等の社会になってしまう。しかし、こうした収入の差をどこまで認めるかということである

 「格差」というのは、この差が大きく拡がり、しかも固定した状態をいう。それは最早能力や努力が報われる社会とはいえないような社会である。日本はそうした経済的に二極化した階級社会になりつつある。そうした方向性でよいのかというのが大きな問題なのだ。

 ホリエモンは中学時代は新聞配達をしていたそうだ。毎日10キロ近い道を歩いて学校に通っていたという。特別裕福でもない一般の家庭に育った彼が、才能と努力によって東大に合格し、しかも大学を中退して600万円借金してベンチャーをはじめ、10年間で株価時価総額1兆円の巨大な企業グループのトップになった。

 ホリエモンはこの実績をもとにして、実力主義、能力主義のすばらしさを歌い上げ、「下流層が上流層に入るプロセスがわかっていれば、2つを自由に行き来できる」と説いた。これが多くの若者のみならず、小泉首相をはじめとする政界や財界のエリートにも感銘を与えた。

 しかし、ホリエモンは逮捕され、その後の調査で違法行為があった疑いが濃くなっている。ホリエモンのような偉才にしても、下流層のみならず中流層が上流層に浮上するのはなかなかむつかしい。

 東大生の多くは中流以上の家庭に育ち、その親も東大はじめ有名大学卒の学歴エリートである割合が多い。政界や財界をみてみても、二世、三世が花盛りである。そうした人々が、「格差はあって当然」であり、「一時期敗者になっても、また勝者になりうる社会の実現」と言っても、あまり説得力はない。

 朝日新聞の調査によると、所得格差が拡がってきていると考える人は74パーセントで、40代、50代の男性では83パーセントにのぼるという。日本には格差が存在する。この格差は小泉改革のもとで大きく広がり、これからも広がり続けるだろう。「格差はそれほどではない」と言葉を濁していた小泉首相も、「格差はあって当然」とはっきり述べるようになった。

 問題は「格差があるかないか」ではなく、この格差がこれからの日本社会をどのように変えていくかである。それは私たちがどのような社会を目差しているかという、政治や経済においてもっとも大切で、本質的な問題につながっている。


2006年02月12日(日) 財政と家計の違い

 景気が悪くなると、税収が少なくなる。財政赤字に陥り、そこで経費を削減しようということになる。それでもたりない部分はやむをえず借金するか、増税に頼ることになる。この論理は分かりやすい。とくに家計の例を引かれると。そうかなと納得するだろう。

 家計の場合は、勤めている会社が不景気になり、収入が減れば、まずは家族で倹約するだろう。私の家の場合も、私は散髪も自分でするようになり、好きな旅行や友人との会食もほとんどしなくなった。それでもたりない分は、私は公務員なのでアルバイトができないから、妻がパートに出て、急場をしのいだりもした。

 新聞などを読むと、国や地方自治体の財政を、こうした家計に置き換えて説明している。そうすると、これまで遠い雲の上の世界のことだったことも、身近なこととして理解できる。私もこの日記で、たびたびこの手法を使ってきた。しかし、国や地方自治体の財政を、家計にたとえるのは間違っているという意見がある。

 何が間違いかというと、家計は消費が中心だが、国の財政は企業と同じく、生産の主体と見た方がよいからだ。つまり、政府は国民にさまざまなサービスや財貨を提供し、その代価として税金を受け取っている。公共事業などの政府支出もこうした生産活動として見るべきなのかも知れない。家計に置き換えると、こうした視点が失われる。

 つまり家計の支出は消費だが、政府の支出は消費ではない。それはあらたに財貨を生み出す生産活動である。だから、政府支出を抑えるということは、社会に生み出される財貨がすくなくなるということであり、国民経済の規模を小さくするということにつながる。

 そうするとどうなるか。経済が停滞し、国や自治体の税収がさらに減ることになる。そこでいちだんの倹約をしなければならない。こうした悪循環に陥ると、そこからなかなか抜け出せなくなる。これがデフレであり、不況といわれるものだ。

 こうしたことがあるので、政府はふつう不況の時は積極的な財政を心がける。いちばん手っ取り早いのは減税である。これによって家計の負担を減らし、消費活動をたかめようとするわけだ。こうして経済が上向けば、税収が増える。減税に使った政府支出もこれによって回収できる。

 こうした積極的な攻めの財政は、家計と同一視する立場からは生まれない。家計の場合は、支出が収入の増加につながるというフィードバックシステムになっていないからだ。このことは企業の場合にもいえる。赤字を覚悟で生産を拡大したり、従業員の賃金を上げたり、株の配当を増やしても、それが企業の増益にむすびつくわけではない。

 しかし、企業の場合も、攻めの経営ということは考えられる。売り上げが減った場合、事業を縮小したり、コスト削減のためにリストラという後ろ向きの対応ではなく、新たな商品を開発したり、販路を拡大したりして売り上げを伸ばそうという前向きの経営も考えられる。そしてこれは、自治体や政府にも言えるわけだ。

 小泉内閣の5年間は、表向きは家計型の倹約財政だった。小泉内閣は財政を家計にたとえることで、国民に財政改革をアピールした。そして「小さな政府」を標榜し、「民営化」を旗印にして大胆な規制緩和を実行した。

 これが成功したかどうか、議論がわかれるところだろう。私は失敗したと見ている。その証拠はいろいろとあるが、一番分かりやすい証拠は、小泉退陣後に予定されているとほうもない「増税」である。小さな政府というのは、何よりも国民の税負担の軽い政府でなければならない。


2006年02月11日(土) 景気の回復は本物か

 ライブドア・ショックで大きく下がった株価も、いつのまにか以前の水準にもどった。日本経済の見通しが明るいからだという。たしかに厚生労働省の発表では、2005年12月の有効求人倍率も、全国平均で1.0倍になった。

 1倍台を回復したのは1992年9月以来、実に13年3カ月ぶりだ。総務省の労働力調査でも、05年12月の完全失業率は4.44%と前月に比べて0.22ポイント低下している。1月31日の日経新聞夕刊は、「景気回復による収益改善に加え、団塊世代の大量退職も控えて、雇用情勢の改善が一段とはっきりしてきた」と書き、次のように続けている。

<企業はこの10年来、採用を絞り込んできたため、景気の持続的な回復傾向を踏まえて人材確保を急いでいる。また、団塊世代の大量退職が始まる「2007年問題」を控えて、工場の生産現場などでは円滑な技能継承が課題になっている。厚労省は企業の求人意欲は衰えていないとし、「有効求人倍率の伸びは当面続く」とみている>

 私の勤務する夜間定時制高校でも、進路担当のM先生が「今年度の就職活動はこれで終了です」とはやばやと店じまいを宣言した。企業からはそれでも求人の問い合わせが続いている。M先生によれば、企業は本当に人を欲しがっていて、景気回復を肌で感じるという。

 愛知県はトヨタをはじめ輸出関連企業が多く、外需に支えられ、たしかに景気がいい。有効求人倍率も全国トップで1.61倍もある。大幅な買い手市場である。しかし地域別にみると、沖縄県は0.41倍しかなくて、愛知県の1/4である。北海道(0.63倍)、九州(0.69倍)と、地方では依然として厳しい状況が続いていて、全国的に格差が拡大している。

 完全失業率も北海道、東北、近畿、九州で5%を超えている。全国平均で下がったと言っても、4・4%は13年前の2倍もある。とくに増加が著しいのは、15歳から24歳の若年層の男性の完全失業率で、これが9・9%もある。

 また、有効求人倍率を就業形態別に見ると、パートが1.41倍と1倍を大きく超えているのに対し、正社員は0.65倍しかない。ここに1.0という平均値では見えない現実が横たわっている。つまり、求人倍率の伸びは、おもにパート社員の増加で補われているわけだ。そして正規社員とパートの賃金格差が広がっている。
 
<求人が改善しているといっても、中身は非正規の求人が増えています。有効求人倍率が全国で一番高い愛知をみても、トヨタ自動車の生産ラインでは三割から四割が期間工。五割を超すラインもあります。財界・大企業が進め、小泉内閣が労働法制の改悪で後押しする使い捨て雇用、リストラによるコストダウンでは、貧困と所得格差が広がるばかりです。正社員を増やすこと、同一労働同一賃金の原則に立った均等待遇をはじめ、大企業に社会的責任を果たさせる政策の転換が必要です>

 これは2月1日の赤旗新聞に掲載された労働者教育協会常任理事の佐々木昭三さんの話である。自分の周りだけや、日経新聞ばかり読んでいたのではわからない経済の現実がここにある。

 試験の得点が平均点の半分に満たない生徒を、私たち教師は「成績不振者」と呼ぶ。平均点が60点なら、30点未満の生徒がそうだ。こうした生徒を対象に補習授業を行い、追考査を実施する。こうした働きかけにより、不振者率を下げ、生徒の学力をなんとか底上げしようと努力するわけだ。

 経済学者は、所得が全国平均の半分に満たない人を「貧困者」とよぶ。そしてこの貧困者の割合を「貧困率」と呼ぶ。日本のように所得が高い国では、必ずしもこのネーミングはマッチしないが、少なくともこの数字で収入格差のおおよそを掴むことができる。

 日本の貧困率は90年代前半には一桁台だった。ところが2000年にはこれが15%を越えている。これはアメリカ、アイスランドに続いて、先進国では3番目に大きな数字である。小泉首相は「格差は言われているほどではない」という。為政者がこうした認識を持っている限り、貧困率の改善は期待できそうにない。


2006年02月10日(金) アメリカの公共事業

 私はこの日記で、アメリカの公共事業は「戦争ビジネス」だと、何回か書いてきた。アメリカという国を牛耳っているのは軍産複合体だというのは、もう随分前から言われていて、今や公然の秘密である。

 アメリカの強力な軍事力にはだれも勝てない。何しろ世界の軍事予算の4割り近くがアメリカの軍事予算である。日本と合わせれば、4割を越える。経済力ナンバーワンとツーのこの両国が手を握れば、確かに世界制覇も可能かも知れない。

 しかし、日本には「平和憲法」があり、基本的に軍隊の保持も、武力の行使も禁止しているので、日本はこうした道を歩むことができない。これに不満を持つ人たちは、憲法をかえろという。そしてアメリカと手を組んで、軍事大国の仲間入りを果たしたいわけだ。

 さて、アメリカの公共投資の多くの部分は軍事費で、そのGDPに占める割合は5パーセントほどである。そして国防費のGDP寄与度は、約1パーセントと見積もられている。つまり、3パーセントほどあるGDP成長率の1/3ほどが、軍事費関連でまかなわれているわけだ。

 日本の場合は、防衛費が4.9兆円、公共投資は7.8兆円で、GDP比率はそれぞれ、1.0パーセント、1.5パーセントで、合計しても2.5パーセントである。アメリカの軍事費がいかに突出しているかわかるだろう。

 もちろんアメリカも軍事費の他に公共投資はしている。アメリカの場合は、州政府の予算総額の6〜7パーセントが高速道路関連予算である。連邦政府が軍事費に巨大な支出をする一方で、州政府や地方は公共事業に熱心である。そして、これがアメリカの経済を2本立てで下支えしているわけだ。

 未来学者であるアルビン&ハイディ・トフラーによれば、「GDPが年間11兆ドルを超す米国経済の中で、ほぼその3分の1にあたる約4兆ドルを、連邦と州と地方を含む政府機関が支出している」(読売新聞、2005年11月6日)ということだ。こうした統計を見れば、アメリカの公共事業がいかに盛大に行われているかがわかる。

(参考文献)
 「増税が日本を破壊する」 菊池英博 ダイヤモンド社


2006年02月09日(木) アメリカの謎を解く

 ブッシュ大統領が1月31日の一般教書演説で、「私は8800億ドルを減税し、国民に返却した。今後も減税を恒久化し、09年に財政赤字を半減する」と述べた。

 一方で、アメリカの経常赤字は05年が7900億ドル(93兆6940億円)、財政赤字も06年度は4230億ドル(約50兆2千億円)で過去最大、債務残高はすでに8兆ドル(約950兆円)を越えている。

 日本では、税制赤字を解消するために、増税をしなければならないと考えられているが、アメリカは逆である。減税をして国内消費を活性化し、景気をよくして税収をあげようとする。さらにアメリカの場合は戦争によって軍需景気を作りだしているわけだ。

 いずれにせよ、アメリカは消費大国。国も国民も借金をして消費を楽しんでいる。このアメリカの消費を助けているのが日本をはじめとするアジア諸国だ。とくに日本の貢献が大きい。日本は政府と民間が何百億ドルというアメリカ国債を買っている。

 先日、朝日新聞夕刊「経済気象台」に「米国のもう一つの謎」という文章が載った。経常収支の赤字が拡大しているにもかかわらず、ドル高が持続している謎について、それは借金国のアメリカが負債について支払う金利が「異常」に低いからだと書いている。これに反して、アメリカの対外資産は巨大な利益を手にしている。

 アメリカは莫大な借金をし、そしてその中から、わずかな一部を他国に貸している。そして不思議なことに、巨大な借金のための利払いよりも、わずかな海外資産の方が多くの利益を生み出しているというのだ。

 どうしてこんなマジックが可能なのか。それは日本がこの逆をしているからである。なぜ日本がこの分の悪い役回りを続けるのか、実はこれこそが本当の謎だということになる。

<驚くべきことに、小さな対外資産から受け取る利子と配当が、大きな対外負債に支払う利子と配当を今日まで上回り続けている。家計にたとえると、収入を上回る買い物をして毎月赤字が続き、借金が膨らんでいる。ところが、多額の借金に支払う金利がゼロに近ければ、わずかばかり保有する預金などから受け取る利子の方が大きいという状態なのだ。これでは赤字をいくら出しても、借金さえできれば、後は何の憂いもなく買い物ができる>

<このうまい話に手放しで悪のりして、米国は経済収支赤字を続け、負債の増加に加速度がついている。この構図が最近話題になり、債権国が浮き足だっている。日本にその気配がないことが「謎」の源である>

 実はアメリカのこの「うまい話」は、19世紀に繁栄した大英帝国をまねているだけだ。大英帝国の場合は、その繁栄の謎をとく鍵はインドをはじめとする植民地が持っていた。たとえば当時イギリスの植民地であったインドは、香辛料などの原材料を輸出してイギリスを相手に多額の黒字を計上していた。ところが黒字はルピーではなく、ポンドを使って決済され、そのままイギリスの銀行に預けられていた。

 だからイギリスはいくら植民地を相手に赤字を出しても平気だった。イギリスの銀行に預けられたポンドを、イギリス国内で使えばいいからだ。インドは名目上は債権が増え、お金持ちになったが、そのお金をイギリスの銀行から自由に引き出し、自分の国では使えなかった。お金の使い道は預金者ではなく、イギリスの銀行が決めていたからだ。そしてもちろん、イギリスの銀行は国内の人々に貸し出した。

 イギリス国民は植民地から輸入した品物で生活をたのしみ、しかもしはらったポンドもイギリスの銀行に吸収され、イギリスのために使われるわけだ。こうしてイギリスはどんどん発展した。

 一方植民地はどうなったか。たとえばインドは商品を輸出しても、その見返りの代金はポンドでイギリスに蓄積されるだけだから、国内にお金がまわらなくなる。どんどんデフレになり、不景気になった。

 仕事がきつくなり、給料が下がり、ますます必死で働いて輸出する。ところが黒字分の代金は、ポンドのまま名義上の所有としてやはりイギリス国内で使われる。こうしていくら黒字を出してもインドは豊かになれなかった。そして、赤字を出し続けたイギリスは、これを尻目に繁栄を謳歌できた。

 このイギリスとインドの関係は、そっくり現在のアメリカと日本の関係だと言ってもよい。経済同友会元副代表幹事の三國陽夫さんは、「黒字亡国」(文春新書)にこう書いている。

<輸出拡大によっていくら日本が黒字を蓄積しても、それはアメリカ国内にあるアメリカの銀行にドルで預け入れ、アメリカ国内に貸し置かれる。日本からの預金は、アメリカにしてみれば資金調達である。貸し出しなどに自由に使うことができる。

 日本は稼いだ黒字にふさわしい恩恵に与らないどころか、輸出関連産業を除いて国内消費は慢性的な停滞に喘いでいる。停滞の原因であるデフレはなかなか出口が見えない。

 日本の黒字がドルとして流入したアメリカはどうなのか。ドルはアメリカの銀行から金融市場を経由して広く行き渡り、アメリカ経済の拡大のために投下されている。日本の黒字は結局、アメリカが垂れ流す赤字の穴埋めをし、しかもアメリカの景気の底上げに貢献しているのである。・・・

 輸出で稼いだ黒字を日本がドルでアメリカに預け、日本の利益ではなく、アメリカの利益に貢献している限り、円高圧力もデフレ圧力も弱まることなく、政府・日銀がいくら財政支出や金融緩和というデフレ解消策を講じても、一向に持続性ある効果は現れないのである>

 幸い、最近この貿易構造がかわりつつある。日本の貿易相手国が中国をはじめとするアジアやヨーロッパにシフトしたことで、日本の対米黒字の割合が相対的に低下したからだ。こうして日本がデフレから解放されるチャンスがここから拡大した。

 しかし、問題はすでに厖大なドル建て資産をアメリカに持っていることだ。日本人の汗の結晶であるドル建て資産が、今後ドル安で何百兆と失われる可能性がある。こうした形で、アメリカは最終的に日本の資産を合法的に手に入れようとする。

「今後も減税を恒久化し、09年に財政赤字を半減する」というブッシュの一般教書の宣言は、これからも日本をはじめ、世界から資金を調達するという意思表示と読むべきなのだろう。


2006年02月08日(水) 先鋭化するイスラム

 昨年9月、デンマークの新聞「ユランズ・ポステン」が掲載したイスラーム教の預言者ムハンマド(モハメット)の風刺漫画がイスラム社会に思わぬ波紋を投げている。

 欧州の新聞各社が、「報道や表現の自由」を盾に相次いで漫画掲載に踏みきったことが、さらにイスラム社会に憤激を呼び、パレスチナではガザにあるEUの事務所の前に武装ゲリラが集まり発砲さわぎがあった。

 今月5日にはベイルートのデンマーク領事館が焼き討ちされている。中東の各地で欧州諸国の大使館に群衆が抗議に押しかけた。抗議の波は、イスラム圏のインドネシアなどにも広がりつつある。

 このところ、イスラム社会が先鋭化している。パレスチナ評議会選挙ではハマスが圧勝した。ハマスはイスラエルの存在を認めないイスラム原理主義組織である。アメリカもイスラエルもハマスというのは「テロ組織」だと言っていた。これから対応がむつかしくなるだろう。

 もっと大変なのが、イラン情勢だ。親米的だったハタミ前大統領をアメリカは支援するどころか、ブッシュはイランを、「ならず者国家」「悪の枢軸」と呼び、挑発した。この結果、イラン国民はどんどん反米的になり、とうとう去年の6月の大統領選挙では超強硬派のアフマディネジャドが大統領に就任してしまった。

 フマディネジャド大統領は「ホロコーストはなかった」「イスラエルを欧州に移せ」等々、言いたい放題である。10月26日には、イスラエルは「地図上の恥ずべきシミ」「地図から抹消される」とまで言い切った。

 そして、国連演説では、「先制的手段を許すことは国連と国連憲章の精神に矛盾する!」と口を極めてアメリカを罵り、中止していたウラン濃縮事業も再開すると言い出した。実際かれはこれを実行した。昨年8月8日、イランは中部イスファハンにあるウラン転換施設を再稼働させたことを発表した。

 彼は核兵器を持たないために、イラクはアメリカに戦争を仕掛けられ、蹂躙されたと考えている。イラクがその轍を踏まないためには、核兵器を持つしかないという訳だ。このフマディネジャドの考え方を、かって親米的だったイラン国民までが熱狂的に支持している。

 そればかりではない。1月22日になって、イラク・イスラム教シーア派の強硬派のサドルは「イランが攻撃を受ければ自ら率いるマハディ軍が支援すると表明」した。そして、イラクの多数派であるシーアー派の穏健派の間にまで反米的な雰囲気が拡がってきている。

 イラクでことが起これば、石油はさらに高騰するだろう。この原油高のもとで、世界最高の利益を上げている欧米の国際石油資本や軍需産業はさらに潤うことになる。ちなみに昨年度の石油メジャーの利益は史上最高の837億ドル(9兆9千億円)だという。エクソンモービルは361億ドル(4兆2千億円)も稼ぎ出し、世界のトヨタも顔色なしである。

 国家としてもっとも潤っているのは、いまや世界有数の石油輸出国になったロシアだろう。ロシアは現在イランに武器を売ることで荒稼ぎしているが、さらなる原油高は巨額のオイルマネーをもたらしてくれる。アメリカの強硬な中東政策にロシアは反対しているが、本音では喜んでいるはずだ。

 辺見庸さんは、「クリントン大統領は下半身に問題があったが、ブッシュ大統領は上半身に問題を抱えている」と言っている。ブッシュのしていることは、まさに敵に塩送ることである。しかし、アメリカはこうしてイスラム社会を挑発し、火薬庫に火をつけて、火事場泥棒で儲けようとしているのだという人もいる。

 狂気の沙汰としか思えないが、こうして自滅の道をたどるアメリカに忠実について行くしか能のない日本の首相も、たぶん「上半身」に問題を抱えているのではないかと疑われる。ブッシュのおかげで、世界はやっかいなことになってきた。


2006年02月07日(火) 敗れる前に目覚めよ

 日本は先の大戦で手痛い敗戦を経験した。「今目覚めずしていつ救われるか。俺(おれ)たちはその先導になるのだ」(吉田満著、「戦艦大和ノ最期」)と言い残して死んでいった青年将校がいたという。

 しかし、彼らの遺言を私たちはしっかり受け止めているだろうか。私たちはもはや「敗れてから目覚める」ではいけない。「敗れる前に目覚める」必要がある。そのため、戦争体験者の言葉や遺言には虚心に耳を傾けたいと思う。

 この思いを新たにさせてくれたのが、昨日の東京新聞の社説だった。全文を引用しよう。
http://www.tokyo-np.co.jp/sha/index.shtml

−−−−−敗れる前に目覚めよ−−−−

 目をしっかり開け、歴史のフィルターを通して今を見つめなければ、正しい判断も進歩も生まれません。戦艦大和で散った人たちの悲痛な叫びが聞こえます。

 「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじすぎた。…本当の進歩を忘れていた。敗れて目覚める、それ以外に日本がどうして救われるか。今目覚めずしていつ救われるか。俺(おれ)たちはその先導になるのだ。まさに本望じゃないか」

 一九四五年四月、生還の見込みがない沖縄海域への特攻出撃を前に、戦艦大和の艦内で死の意味をめぐり煩悶(はんもん)、激論する同僚たちを、臼淵磐大尉はこう言って沈黙させました。

■必敗を覚悟した大和特攻

 もし、この臼淵大尉が昨今の日本社会を見たら何と言うでしょう。

 大和の特攻は、制海、制空権を奪われ、敗戦間近いことが明らかな情勢下で、片道分の燃料しか与えられず、戦闘機の護衛なしに臨む戦いです。合わせて三千人を超える将校、下士官、兵士たちの誰もが「必敗」を覚悟していました。

 臼淵大尉は死を美化したのではありません。科学的、合理的思考を放棄し、誤った精神主義で無謀な戦争を始め破滅に導いた国の指導者を暗に批判したのでしょう。そして、日本人がその愚に気づいて目覚めることに、自分たちの死の意味を求めたのでしょう。

 彼の発言には深い深い思いが込められていました。目前の戦闘に負ける意味だけではなく、「失敗」によって目覚め、教訓を得ることの重要性の指摘です。

 数少ない生還者の一人、吉田満氏(当時少尉)の名著「戦艦大和ノ最期」にこの場面は感動的に描かれています。昨年暮れから正月にかけて百数十万人の観客を集めた映画「男たちの大和」でも、かなりの時間を使って紹介されました。

■継承されない先人の教訓

 しかし、大尉役の元プロ野球選手の未熟な演技、大尉の言葉の重さに気づいていそうもない平板なセリフ回しでは、大事なメッセージが伝わりません。スクリーンの前の人々はほとんど無反応でした。

 観客、とりわけ若者たちには「敗れて目覚め」た先人の教訓が継承されていないように見えました。

 継承していないのは若者だけではありません。侵略戦争に駆り立てた責任者を、駆り立てられた人々と同列に祭っている靖国神社に参拝し、中国などからの批判に「罪を憎んで人を憎まず」と開き直った小泉純一郎首相に至っては、目覚めてもいないと言わざるを得ません。

 大和に特攻作戦を伝達にきた連合艦隊参謀長に、大和とともに出撃する駆逐艦の若手艦長が迫ります。

 「なぜ連合艦隊司令長官らは防空壕(ごう)から出て作戦の陣頭指揮をとらないのか」

 このシーンには現在の改憲論議が重なります。自衛隊を自衛軍にして海外派兵も可能にする自民党の「新憲法草案」をつくったのは、自らは銃をとらない国会議員たちでした。いつの世も犠牲を強いる側は大抵、安全地帯にいるのです。

 米軍の猛攻で沈んでゆく艦内で、兵士が「命をかけて戦ったが何も守れなかった。家族も、故郷も…」とつぶやきます。

 これに対し、自民党草案の前文に国民が守るべき対象として掲げられたのは「帰属する国や社会」です。“滅私奉公”を強制されたあの時代でさえ兵士たちが守ろうとした、家族のことには触れていません。

 歴史研究家の半藤一利さんはベストセラーとなった自著「昭和史」について「歴史を振り返りつつ読者に伝えたかったのは“今を見る目”をしっかり持つことだった」と語り、日本人が目をきちんと開くよう求めています。

 自由にものが言えなかった戦時中と違って言論の自由も参政権も保障されています。土壇場で「なぜ?」「そんな!」と後悔しないように、有権者、特に今後の日本を背負う若者はもっと声をあげましょう。

 学ぶべきは古いことだけではありません。自民党は九・一一総選挙で虚業家だった堀江貴文ライブドア前社長の生き方を推奨モデルとして宣伝し、同調した有権者も少なくありません。バブル経済崩壊で苦い思いをしたのはつい最近なのに…。

 改革の旗手のように振る舞う竹中平蔵総務相(当時金融財政担当相)が同容疑者の応援に駆けつけたのは象徴的でした。社会的弱者への配慮より強者の自由を優先し、過度な格差拡大も放置する−堀江容疑者の考え方と小泉内閣の改革路線には共通点があるからです。

■今度こそ…のメッセージ

 昭和の初期、革新官僚、革新将校と呼ばれた人たちが日本をしだいに泥沼へ引きずり込んでいった、歴史上の事実を思い起こします。

 臼淵大尉のメッセージが「今度こそ敗れる前に目覚めよ」と聞こえます。改憲、改革の連呼による集団催眠からさめ、改や革の字に潜む真実を見極めなければなりません。

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 最近、麻生太郎外務大臣が、「天皇陛下に靖国神社参拝を」という趣旨の発言をして、物議をかもしている。彼は後援会会報2003年8月号に、こんなことも書いている。

<私はブッシュ政権が来年11月に再選したら、共産主義の残映を残し覇権を唱えている中国や北朝鮮との戦が始まるだろうと想像している。その時、日本は真の国益を考え、中国への思いや未練を断ち切り、『アメリカ幕府』を支えなければならない>

 おそらく、これが彼の本音だろう。私はこうした視野の狭い人物を外務大臣というポストにおき、首相候補の一人に持っていることが、本当に日本の国益になるのか、疑問に思っている。


2006年02月06日(月) 個体意識と「霊魂」

 友人の北さんが、「霊魂」について、今日の雑記帳にまとまった文章を書いている。私が日頃考えていることとほとんど同じだ。こういう思想が世界に広まれば、戦争はなくなるだろう。人権の蹂躙や自然破壊もなくなるに違いない。ここに全文を引用させていただく。

−−−−−個体意識と「霊魂」−−−−−−

江原敬介という霊能者がもてはやされている。スピリチュアルカウンセラーとかいう肩書きで(清新なイメージを加え)売り出したタレントである。私の尊敬していた美輪明宏が絶賛して「一心同体」なんて言葉まで使っていた。それを聞いて、彼も個体にとりついている「霊」などというものを信じて、そんなレベルで人間の存在を考察していたのかと、かなり失望した。

私は「魂(たましい)」というものは存在することを確信している。肉体が消滅してしまえば何もなくなるなどという浅薄な「物質論者」ではない。地球上の「生命」というものがひとつの大きな「存在」としてあることは、知性というものを持った生命体の一つであるヒトにも、発生の当初は、素朴に、自然に実感されていた。

アニミズムといわれる(私に言わせれば)最も高度な信仰形態が、人類発生当初には、どの民族にもあったのだ。それは<大きな生命>の一部として生きている実感がすべてという幸福な時代であった。

やがて「神」が出現し、それが偶像化され、増殖し、ヒトが神のような存在にまで発展して、文明社会からアニミズムという信仰が失われていった。それが「魂」の喪失ということである。大きな生命(自然)との一体感こそが、魂といわれるものなのだ。

そういう魂なるものに、個体や民族や、国家共同体などの「区別」はあるはずがない。地球上に存在する「生命」は一つの大きな「全体」なのであるから、個は「全体」とのみつながっていて、中間などは存在しないものである。

しかし、人類という奇形的な動物は、知能を発達させ<大きな生命>との分離を進めるうちに、まず「部族」、やがて「民族」、さらには「国家共同体の一員」というように、どんどん個の意識を持ち始めるようになった。

「部族」単位で生きていたうちは、個の意識はほとんどない。それは「民族」単位となって芽生え、「国家共同体」が成立して成熟していった。私の考えでは、そうした進化の過程で、アニミズム的な<大きな生命>への所属実感が次第に希薄となり、一方で枠づけされ、区切られて意識されていったのではないかと思う。

「部族」の段階ではまだ<おおきな生命>が他部族と区別されるような枠づけはなかった。しかし「民族」となると、かなり他民族とは違う枠づけがされるようになった(特にユダヤ人は強烈な選民意識のもとにヤハウェの神としてそれを意識した)と思う。

やがて「国家共同体」ともなると、成員はそれぞれかなり強い個の意識を持ち始め、個体としての肉体の単位で、それが所有する<独立した一部分>の<生命>を実感し始める。そこに、個体にとりついた<大きな生命>の一部としての「霊」が成立したのだ。

個体意識が確立するにつれ、「霊魂」という名称で、<大きな生命>が分割されたのである。そして分割されたそれが、独立した肉体にとりついているモノのように意識されたのである。

<大きな生命>は、仏教では「無我」「空」という言葉で表されるものである。<大きな生命>の世界を、涅槃ととらえてもよかろう。キリスト教でもイスラーム教でも、<大きな生命>はヤハウェの神(アッラー)である。ヒンズー教的な空海の思想では、それは「大日如来」として語られた。

個体にとりつく「霊」などというものはない。個体は<大きな生命>に所属しているだけだ。それが実感できない者が、肉体だけの存在だとする物質主義者になったり、とりついている「霊魂」によって生のあり方が変わると信じる狂信者になったりする。

いずれも、近代が生み出した「自我意識」の強すぎる人間が陥る、不自然で歪んだ、根元的な病状と言えると思う。

http://www.ctk.ne.jp/~kita2000/zakkicho.htm
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2006年02月05日(日) 折紙で分数を教える

 昨日、長野県のMさんからメールをいただいた。Mさんは以前この日記で紹介したように、長野県上田市に住んで見える小学校の先生である。小学校教育の問題点や現状について、私はM先生からいろいろと教えていただいている。

<分数だったら,エジプトで洪水で畑が見えなくなって,そんな所から分数ができたのかなあ?何かいい導入のアイデアは無いかなあ?図形に色をぬったりする活動で,あ,こうして分数ってできたんだなんて方法があるのかな?面白いお話をしたり,測量ごっこ的にしたり,すればいいかも・・う〜んそんな知識も方法もないし,分からない。

 大体分数って発生経過やそれが今どう数学に生きているかもよく知らない。 時間も無い,明日はもう入らないと,何々?第一時,「はしたの大きさを考えよう」か,1mの2等分したのは2分の一と教え,次の時間は,書き方と分子,分母,という言葉を教え,分数といいますか。帯分数,仮分数も教えて7時間で終わり,まあ四年生は簡単な所だし,自分でもつまらないような気分だけど,教科書どおりに指導書にそってやればいいか。単位分数って何かな?よくわからないけどまあいいや。 ほかの授業や行事もあって忙しいしこのへんで思考停止。>

 M先生は私と同年輩の経験豊かな先生である。それでも、分数をどう教えたらよいか、いろいろ試行錯誤され、悩んでみえるという。いちおう私は数学科の教師だが、小学校での教育実践経験はない。おこがましいとは思ったが、あえてこんなメールをお返しした。

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 M様、日記を読んでくださり、ていねいな感想までいただいて、とてもうれしく思っています。

<私の住んでいる上田市は,映画の撮影地として,使ってもらおうと努めていますが,この映画も市の広報に「ロケ地,市営球場,千曲川河川敷グランド,浦里郵便局,市内スーパー」と出ていました。背景の雰囲気はどうでしたか?>

 この映画は妻が先に見たのですが、背景の自然がとても美しいと言って感激していました、私もそう思います。ロケ地は長野県だとは聞いていましたが、M先生のお近くとは知りませんでした。とてもいい雰囲気ですね。この映画の大きな魅力になっていると思いました。

 フィンランド・メソッドについて、さっそく本を買って読まれたとか、私の日記も参考になったようで、よかったと思っています。教科書の方は書店においてなかったので見ることができなかったのですが、もし数学の教科書が出版されたら、購入して読んでみたいと思っています。

 分数の教え方ですが、私は何か具体的な操作をとおして、分数というものを子供たちに実感させる(体験させる)ことが重要ではないかと思っています。そうした意味で、もし、私が分数を教えるとしたら、「折紙」を使ってみようかと思っています。

 正方形の折紙を4枚ほど各自に用意させて、まず、一枚を机の上に広げさせます。(残りは机の中)
「面積を4倍にして下さい」と言えば、生徒は4枚の折紙を机の上に並べるでしょう。
「それでは、その4倍にしたものの半分にして下さい」
と言えば、生徒は2枚を並べるでしょう。

「4の半分は2ですね。それではその2を半分にして下さい」
そうすると、生徒は机の上に一枚の折紙を置くはずです。
「2の半分は1ですね。それでは、これまでのことを式であらわしてみましよう」
 先生は黒板に式を書きます。

(1)1×4=4(1に4を掛けると4)
(2)4÷2=2(4を2で割ると2)
(3)2÷2=1(2を2で割ると1)

これだけ、準備運動をしておいて、
「それでは、その一枚を折って半分にして下さい」
といいます。ここで生徒は二つに折って、長方形や三角形をつくるにちがいありません。

「半分にできましたか。さて、それでは1の半分はいくつかな」
と質問します。実はそんな数はないわけです。そこで、1/2という数(分数)を考える訳です。

1÷2=1/2

どうように、折紙を使えば1/3,1/4などの分数も導入できますし、

1/2+1/2=1

などの分数の足し算や引き算、かけ算も導入できると思います。また折紙を使った授業は、教師が生徒のとりくみを一目で俯瞰できますし、子どもも手を動かし、視覚で数を実感できるので楽しいのではないかと思います。

以上は、私がもし小学校で分数を教えるのなら、こんな授業をしてみたいというサンプルです。M先生もすでに折紙で分数を教えることをなさっているかも知れませんが、なにかの参考にと思って書いてみました。

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 M先生からは、折り返し、「教科書の案よりずっと,子どもも,教える私たちもやる気が出てくるような気がします。先生の方法でやってみます。本当にありがとうございました」というメールをいただいた。M先生の授業が成功し、子供たちが分数を好きになってくれることを、心からお祈りしています。


2006年02月04日(土) 円周角の不思議

 高校の数学は大学入試には必要な場合があるが、それ以外では役に立たないものの代表のように思われている。確かに微分や積分を日常生活の中で使うことはそう滅多にあることではない。中学校から習う二次関数だってそうだろう。

 もちろん数学が好きな人間にとって、役に立とうが立つまいがどうでもいいことだ。知的好奇心の旺盛な人間にとって、数の世界もまた謎に満ちたワンダーランドであり、胸をわくわくさせる感動に満ちた世界なのである。

 しかし、この魅力を生徒たちに伝えることは難しい。なぜならすでに生徒たちは小学校や中学校で数学が嫌いになっているからだ。数学が好きな生徒も、よく話を聞いてみると、数学そのものが好きだというのではない。ただテストでいい点がとれるので好きだというだけの場合が多い。

 これは仕方のないことだかもしれない。数学を教える教師が、数学を面白いと思っていないのだから。これでは面白さを伝えようがないからだ。たまたま計算が得意で、数学のテストの成績がよくて、何となく数学の教師になったという人もいるだろう。

 まだ、それならよいが、小学校で数学(算数)を教えている先生の中には、数学が苦手で、さっぱりわからないという人もいる。子どもが数学を好きになるには、ほんとうは小学校の算数の授業がとても大切なのである。ところが、この大切な時期に、数学の素人の先生が数学(算数)を教えるのだから、子どもたちは気の毒である。

 昨日は1年生の授業で、円周角の話をした。「同一の孤(弦)に対する円周角はどれも等しい」という有名な「円の定理」がある。黒板に円をかき、円周角をいくつか書く。書きながら、これはすごいことだなと思う。そして、「どうだ、これって、とても不思議なことだと思わないか」と生徒に語りかける。

 昨日の授業では、たっぷり時間をとってその証明をした。「円周角が等しい」ということも驚きだが、もっと不思議なことがある。それはこのことを「証明」した人間がいるということである。そうした不思議な現象が存在するには、必ずそれなりの「理由」があるということ、そしてその理由を言葉で説明することができるということ、これがまた「不思議なこと」であり、人間のすばらしいところでもある。

 大切なことは、教師がほんとうにこの世界を不思議だと感じ、人間の知性をすばらしいと感じているということだ。そうすればその気持は生徒につたわる。訳知り顔の生徒は、「こんなこと、あたりまえだ」と思っているにちがいない。それはそうした訳知り顔の教師に、たんなる知識として教えられたからである。

 知識は本を読めば吸収できる。教師はもっと別のことを生徒に伝えたいものだ。それは、単なる知識ではなく、「不思議」だと感じ、「面白い」と感じるその貴重な人生体験であり、生きた感情そのものである。それができるのが、生徒の前に生身で立っている教師ではないだろうか。


2006年02月03日(金) サイコロを投げて、おこずかい

 夜間定時制高校に勤務するようになって、あと2ケ月で1年になる。ふと、去年の今頃は何をしていたのかなと思い、日記を読み返したみたが、ほとんど有用な情報は得られなかった。私の日記はこういう実用上の役にはたたないようにできている。

 おそらく、3年生の担任をしていた私は、最後の定期試験の採点でもしていたのではないか。あるいは、生徒のいなくなった教室へ行って、窓ぎわに坐って外を眺めながら、来年の今頃はどうしているか、生徒たちや自分自身の身の上を考えていたのではないか。

 念願の定時制高校へ転勤できて、現在の私の精神状態はかなりよい。勤務は午後からだから、午前中はのんびり散歩をしたり、読書をしたりすることができる。その分、夜の楽しみがなくなるが、私は、昔から晩酌もしないし、テレビを見ることもほとんどなくて、毎日9時頃には床についていた。夜の生活らしいものが、そもそもなかったのである。

 したがって、夜間高校に勤務するようになって、かえって夜の時間が充実した。授業をしたり、教材のプリントを作ったりと、結構いろいろと仕事はある。もちろん、息抜きに席の近い先生たちと雑談したりもする。

 私の左側に坐っている教務主任のF先生は、50歳そこそこの英語の先生だが、山登りや自然を歩くのが好きで、去年の夏休みには奥さんと二人でスイスに滞在して、アルプスの山々を歩いてきた。そのときの写真を見せてもらったり、ボルンのアインシュタインの旧宅を訪れたときの記念のパンフレットをもらったりした。

 私も自然が好きなので、F先生の話は聞いていて楽しいし、参考になる。福井県境にある「夜叉が池」もF先生からパンフレットをもらい、私も行ってみようという気になった。F先生が山歩きを始めたのは、この数年ほど前からだそうで、それまでは寝たきりの母親の看護でたいへんだったそうだ。

 定時制に転勤したのも、妄想が出始めた母親の面倒を見るためだという。母親が亡くなられて、ようやく夫婦の時間が持てるようになった。山歩きを始めたのは、世話をかけた奥さんへの感謝の気持もあるのだろう。ピアノとハープの先生をしてみえる奥さんも、山を歩きながら野生の花を見るのが大好きらしい。

 私は昨日、山歩きの話は好きだが、数学は苦手だというF先生に、制作中の教材プリントを見せた。2年生のクラスで使う予定の「確率」の問題が載っている。それをあえてF先生に突きつけたのである。

「毎日200円ずつこずかいを貰うのと、毎日サイコロを投げて、6の目が出たら600円、それ以外の目が出たら100円貰うのと、どちらが得か」

 目を白黒させているF先生が気の毒で、「6日間で考えるとわかりやすいよ」と助け船を出した。200円ずつもらうと6日間で1200円である。サイコロを振った場合の期待値は、600円が1日、100円が5日間だから、6日間で1100円ということになる。毎日200円ずつ貰った方が、6日間で100円だけ得をする計算である。

 これはあくまで確率だから、ときには600円が二日続くかもしれない。毎日サイコロを投げて、はらはらしながらこずかいを貰うのも、スリルがあって楽しいだろう。私の現在のおこずかいはぴったし2万円である。これからは毎月サイコロをふって、妻からおこずかいを貰うことにしようか。

 しかし、この数学の理論を妻に納得させることができるかどうか問題である。私の日頃の言動から、猜疑心を強めている妻は、容易にこれを受け容れないだろう。それに、月1万円が何ヶ月も続くのは少しわびしい。サイコロを振っておこずかいを貰うのは、やはりやめておいた方が無難そうだ。

 ところで、数学嫌いのF先生も、私のヒントを頼りに正解にたどりつくと、「へえっ、そうですか。面白いですね」と、いささか数学に関心を持ったようだ。私が「博士の愛した数式」の話をすると、今度是非見に行きたいと、青年のように目を輝かした。

 昨日の職員室はこのあと、国語科や理科の先生を巻き込んで、電磁気の「フレミングの法則」の話題などで盛り上がった。こうして定時制高校職員室の夜は、いつになくアカデミックに更けていった。


2006年02月02日(木) 電気毛布の作る夢

 今日は目が覚めたら、6時を過ぎていた。すぐに起き出したりせず、寝床でぬくぬくしているうちに、妻が起きてくる音がしだした。私が妻より遅く起きるということは、滅多にないことである。

 いつもは5時前に目を覚まし、やおら起き上がって、コップ酒ならぬコップ水道水を片手に、半分酔っぱらったような頭で日記を書き散らしているのだが、今日はなかなかその気にならない。というか、ほかほかの布団の中が日溜まりにいるように快いので、そこで体を丸めて、ものぐさな気分をもうしうばらく味わっていたかった。

 冬の間、寒がりやの私は電気敷毛布のお世話になっている。お陰でどんなに寒いときでも、布団のなかは暖かで、私はほとんど風邪をひかなくなった。そして春の野に遊ぶような快い眠りをいつも提供してくれる。こんなにありがたいものはない。

 木枯らしも電気毛布で春の夢   裕

 昨日は映画の日で、千円で入場できたので、「博士の愛した数式」を見に行ってきた。原作もよかったが、映画もよかった。その余韻がまだ残っている。浮き世離れのした数学の世界のことを考えていると、ますます起きるのが面倒になった。日記を書くのも面倒なので、このくらいで筆を置くことにしよう。


2006年02月01日(水) ライブドア事件関連の発言

 新聞、雑誌、テレビは連日、ライブドア関連のニュースで賑わっている。私もライブドアの株を持っているので、他人事ではない。ホリエモンと彼をめぐる人々の発言を、時系列でいくつか拾い上げてみよう。

<額に汗して働く人、リストラされて働けない人、違反すれば儲かると分かっていても法律を順守している企業の人たちが憤慨するようなことを、困難を排して摘発したい>

 これは東京地検特捜部長大鶴基成さんの、去年4月の就任会見での発言である。このころから、東京地検はホリエモンに照準を定めていたようだ。ところでこれは蛇足だが、ライブドア事件でホリエモンの弁護をする高井さんは、かって特捜部長としてリクルート事件を指揮した大物ヤメ検弁護士である。ホリエモンにとっては何よりも心強い味方だ。

<小泉首相とボクとホリエモンは一体だ。一緒に革命をやるんです>

 これは衆議院選挙公示日の8月30日の竹中総務大臣の発言だ。竹中さんはこの日、ホリエモンの応援に広島に駆けつけた。そしてこの発言である。小泉首相や武部幹事長の歯の浮くようなホリエモン礼賛の発言は、すでに以前の日記に書いたので、ここに繰り返さない。

<苦境で悩み尽くすと、プチンと突き抜ける瞬間があります。そうなると何でもオッケーな状態になります。別の言葉で言うと『開き直る』わけです。『自己破産しても命まで取られるわけでもなし』と開き直れるかどうかです。窮屈な人生を歩みたくない。本音が言えない社会なんて意味がない>

 これは9月の衆議院選挙中のホリエモンの発言。「週刊現代」とのインタビューで語られた内容の一部である。拘置所のなかでホリエモンはさぞ「窮屈」な思いをしていることだろう。検事の尋問には「黙秘」を通しているようだが、この際、洗いざらい「本音」を語ってはどうだろう。まだ本音で「金で買えないものはない」と思っているのだろうか。

<メディアだって持ち上げたじゃないですか。別に自民党がメディアに取り上げて下さいと頼んだわけじゃないですからね。メディアが広告塔みたいにしたんじゃないですか>

 これは最近の小泉首相の発言である。記者から「自民党はホリエモンを広告塔として使ったのではないか」という質問を受けての答えらしいが、これは言い逃れであって、答えになっていない。とはいえ、私もメディアの責任は大きいと思う。


橋本裕 |MAILHomePage

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