橋本裕の日記
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姉歯設計事務所の耐震強度偽造が問題になっている。昨日の朝日新聞に神戸市在住の一級建築士の斎藤さんが、「地震に対する強度こそ絶対に妥協してはならない大切なものです」と意見を寄せられていた。
しかし現実には施主はデザインやコストを重視し、構造についてはあまり関心を持たないという。施行検査や構造診断を専門にしている斎藤さんは、「私にとって大きな驚きではない」と書いている。
姉歯事務所が係わった物件は青森県から鹿児島県まで22都府県に及び、194を越えるマンションやホテルがあるという。マンションの住民のなかに不安が広がり、営業を見合わせるホテルも続出している。
昨日の国会で行われた国土交通委員会には姉歯建築士は欠席したが、建築の建設や審査、販売を手掛けた木村建築やイーホームズ、ヒューザーの社長が参考人として出席し証言していた。
姉歯建築士の不正が分かり、イーホームズの担当者が国土交通省に報告したところ、「報告の必要はない」との答えが返ってきたという。また、ヒューザーの小嶋社長からイーホームズの藤田社長に公表を控えるように圧力があったという。この部分を今日の朝日新聞から引用しよう。
<藤田社長は次々に新たな「事実」を明かした。「(偽造を)公表して何の意味があるのかと(小嶋社長に)言われました」「どんな弁護士を使ってでも徹底的にたたくと言われました」
小嶋社長は声を荒らげて「公表するまでに相当程度お調べする時間が必要と申し上げた」「あってはならない(ずさんな)業務が行われていたのであれば、徹底的に追及させていただくと申し上げた」と反論した>
2000年に建築法が改正され、2001年から強度の検査業務を民間に委託している。しかし、これはあくまでも「委託」であり、これによって国の責任が消滅するわけではない。この問題について、掲示板に渚のバラードさんが投稿して下さったので、引用させていただこう。
<国交委員会での参考人質疑を報道ステイションで見ていたら、ヒューザー小嶋社長の醜態に直面しました。あの人相といい、破廉恥な言動は最低の品性を物語って余りあるものでした。丸でヤクザです。不規則発言を注意されていましたが、国会のあの場でイーホームズの社長を恫喝するのですから、密室でだったら罵詈雑言など序の口でしょうね。
「自己責任」という言葉を巡って、当BBSでは色々議論が盛り上がりますが、今回に限ってはマンションの住人に対し「自己責任」を持ち出すのは間違いだと思います。公的に設計審査で承認され、合法的に建設されたマンションですから、割安な価格に魅力を感じて購入した人達には、何等落ち度はない筈です。
民間に審査を委託したとしても、最終的には国土交通省の権限において建設が認められた以上、国が最終的な責任を負う義務があります。勿論、本日の参考人全員と所属企業・団体が一次的責任を負うべきですが、国は「責任がない」とは言えない筈です。さもなければ、誰も国を信頼出来なくなりますから。>
木村建設は従業員を全員解雇し、倒産することになるらしい。しかし会社が倒産したからといって、責任が消滅するわけではない。倒産が安易な資産隠しや責任逃れの隠れ蓑にされては消費者は浮かばれない。
当然、国土交通省にも責任がある。最終的には何ほどかの公的資金が注入されることになるのだろうが、役所の尻拭いを国民がさせられていてはたまらない。「民営化」というのは、なんでも民間にまかせることではない。政府は国民生活の安全性に対する公的責任を自覚すべきだ。
最近、朝起きたとき、左足の裏が痛い。しばらくすると痛みは感じなくなり、生活に問題はないのだが、それでも気になるので、書店の健康コーナーに行って関係する本を立ち読みした。
足の裏にはたくさんのツボが集中している。そして体の各部位と神経でつながっている。たとえば親指は基本的に頭である。だから肩が凝ったときには親指の付け根をマッサージしてやればよいわけだ。
胃や腸、肝臓や腎臓などの内臓器官もその対応する部位が足の裏にある。足の裏をマッサージすることで、これらの内臓の活動を活発にすることができる。逆に、これらの器官に異変があると、その兆候が足の裏に現れる。
私の場合、左足の土踏まずの一部が痛い。この部分を「足の裏地図」で調べてみると、「直腸」「肛門」のあたりだということがわかった。現在、とくにこの部分に違和感があるわけではない。しかし、用心するにこしたことはないので、トイレに行ったときなど、血便が出ていないか確認している。
おりしも、53歳の義兄(妻の兄)が直腸癌になって手術することになった。血便が出たので病院で検査して貰ったら癌だといわれたそうである。お見舞いに行ったとき、足の裏に痛みはなかったか聞いてみよう。とても人ごととは思えない。
日本人に大腸癌や直腸癌が増えているという。内視鏡医学の第一人者で、米国アルバート・アインシュタイン医科大学の新谷弘実教授は「この40年間、大腸ガンは増え続ける傾向にあります。その原因は、食生活の欧米化にともなって、動植物を多食することになったことがあげられます」と書いている。
新谷教授は内視鏡によって、これまで日米で30万人以上の体内を診察してきたという。一般に欧米人の腸内環境は悪く、ポリープやガンが発生しやすい環境だが、こうした状態に日本人の腸もなってきているらしい。
対策は、「動物食の過剰な摂取」をやめることだという。彼は「健康の結論」(弘文堂)という本のなかで、「多量の動物食は有害菌を増殖させ、毒素を作り、血液を汚し、血液の流れを悪くすることで、諸々の病気の発生原因となります」と書いている。
さいわい、私はこのところ「小食主義」を実行している。動物性たんぱくや牛乳・乳製品はなるべくとらないようにしている。これを続けることで、腸内環境をよくして、病気につよい体を作りたいと思っている。
昨日午後2時頃、名古屋の妻の実家から「リリオが死んだ」という電話があった。私と妻と次女でさっそくかけつけた。リリオというのはわが家の愛犬の名前である。マルチーズの雄で、わが家で15年ほど飼っていた。そのあと、この1年間は妻の実家にいた。
リリオは仏壇の前に寝かされていた。愛用の胴着を着たまま、目を開けて死んでいた。体にさわってみるとまだ温もりが残っていた。耳がピンと立っている。私たちの会話に耳を立てているようである。
去年の10月に、義父が目の手術をして入院した。そのときリリオを連れていくと、義母が「入院中は一人で寂しいのでリリオをあずからしてくれ」という。リリオも義母が大好きで、ぴったりくっついている。そこで、リリオをしばらく預けることにした。
その後、何度かリリオを引き取ろうとしたが、義母も愛着があり、リリオもすっかり義母に馴れてしまって、家に帰りたいという素振りを見せない。そこで、義母が面倒を見ることが出来る間は預けて置こうということになった。
リリオは心臓が悪く、もうだいぶん前から薬を飲んでいた。医者からは毎年冬になると、「この冬が越せるかどうか」と言われていたが、去年の冬も妻の実家で持ちこたえた。義母はリリオの為にエアコンを買い、冬の暖房にはとくに気を使ったようだ。
妻の実家でリリオは特別に大切にされ、可愛がられた。体の具合が少しでも悪くなると、昵懇にしている近所の獣医さんに診て貰い、手厚い治療を受けていた。昨日も咳がするというので、獣医に行って、注射をしてもらったばかりだったという。
獣医から帰り、お昼になると餌を食べた。そして水を飲んでいるとき、心臓の具合が悪くなり、急死したのだという。そんなに苦しまずに、あっけない死に方だった。たしかに死顔を見ても苦しんだ様子はない。
「御飯を食べてくれたので、しばらく腹が空かないだろう。水ものんでくれた。それでも長い旅だから、腹が空くかも知れない。視力が落ちていたから、三途の河原を迷わずに無事に行けるだろうか……」
義母はそんなことを言い、泣いていた。妻も泣いている。義母はリリオのためにお経をあげたらしい。私は指先でリリオの眼を閉じたが、しばらくするとまた開いてきた。義母も閉じてやったがすぐに開いてしまうのだという。耳を立て、目を開けた様子は、まるで生きているようにも見える。そして私の方を見ている。
リリオが生後まもなく家に着たとき、長女は小学校の2年生で、次女はまだ幼稚園だった。その後16年間も家族の一員だったリリオには色々な思い出が寄り添っている。走馬燈のようにいろいろな情景が思い出される。
私が生前のリリオを最後に見たのは、4ケ月ほど前、2日間ほどわが家にかえって来たときだった。私はリリオを連れてさっそく散歩に出た。散歩が大好きな犬だった。私も散歩が大好きでいつも歩いている。しかしもはや、リリオと一緒に歩くことは永遠にないのだ。そう思うと切ない思いが押し寄せてくる。
4ヶ月前に、リリオが一時帰宅したとき写した写真が残っている。うずらのハル子にお菓子をやっていると、リリオが近づいてきて、そのようすをじっとみている。ハル子もリリオには怯えない。その様子を娘が携帯のカメラで撮した写真だ。 http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/ruruo.htm
リリオを妻の実家から引き取り、一宮の家に帰ると、リリオが愛用していた毛布と一緒に彼が生前寝床として使っていたダンポールの箱に入れた。昨夜はそれをお通夜ということで居間に置いた。
今日は妻と二人で近所の焼き場にもって行っていくつもりだ。形見の品をわが家の庭に埋めて、小さな墓標でも建ててやろうと思う。
私の毎朝散歩している木曽川南岸の土手が工事中なので、最近は木曽川橋を渡った北岸を散歩することが多くなった。橋を渡るとそこは岐阜県の笠松町である。ときには笠松町の町中にまで足をのばす。
笠松は江戸時代は陣屋が置かれ、明治になってからは県庁が置かれるなど、美濃地方の政治の中心地だった。ここからは伊勢、京都に通じ、渡し場を通って名古屋にも通じていた。川湊としても栄え、この地方の経済の中心地だった。
笠松港は伊勢湾沿いの桑名・四日市・津・松坂・名古屋・常滑方面と、上りは木曽川沿いの犬山・土田・太田・兼山・八百津方面へ通じていた。塩・雑穀・肥料・瓶・土管・石灰などがここにもたらされ、笠松港からは建築用丸石・砂利・薪・味噌・たまりが積み出されていたという。
今そのにぎわいはない。跡地は小公園となり、往時をわずかにしのばせるものとして灯台・道標・芭蕉句碑が立っている。道標は天保4年(1833)のものを、近年に復元したもので、「右いせ、左なごや、すぐ京みち」と刻まれている。
松尾芭蕉は貞享元年(1684)から翌年にかけての「野ざらし紀行」の旅でこの地を訪れ、笠松で一泊している、そのときの芭蕉が詠んだ二つの句が句碑に刻まれている。
時雨ふれ笠松へ着日なりけり
春かぜやきせるくはへて船頭殿
小公園から木曽川が見渡せるが、その昔、芭蕉は船でこの川を下りながら「春かぜやきせるくはへて船頭殿」と詠んだわけだ。小公園から、木曽川へ下る坂道には往時を物語る石畳が残っている。私はこの石畳を踏んで、河原に下りたり、高台にある小公園に登ったりする。この石畳を芭蕉も歩いたかも知れないと、楽しい空想に耽る。
公園の後ろには堤防道路を挟んで、笠松の街並みが拡がっている。黒塀の家や廃業した喫茶店、伝統的な町屋も少しだが残っている、そして町にあちこちに寺院や社がある。私はこうした鄙びた古い街並みを歩くのが好きだ。笠松のあちらこちらに、芭蕉の句碑がある。それをめぐりながら、またいろいろと考える。このひとときが楽しい。
道のべの木槿は馬にかまれけり (蓮国寺)
永き日を囀りたらぬ雲雀かな (称名寺)
はらなかやものもつかず啼くひばり (日枝神社)
草いろいろおのおの花の手柄かな (中央公民館)
現在の笠松の様子を知って貰うために、私が参考にしている「町並み紀行:岐阜県美濃・飛騨路」と題されたHPから、笠松のところを一部引用しよう。
<町並みは、港跡から八幡神社に向かって北に延びる通りを中心に発達をする。川の近くの港跡界隈は港町、そこから北に下本町、上本町、八幡町と続き、港町の西に西町、本町の東に司町などがある。
港町は、川べりのごく狭い一角ではあるが、青果市場があり、塗込造りの高木家が古い構えをみせている。本町通りは、港町寄りの下本町に古い町並みが見られ、蔵造りの山田釣具店、塗込造りの小森家、伝統的な町家である金桝屋酒店、吉田時計舗などが昔の姿をとどめている。また、八幡町には、塗込造りでウダツを上げた高木喜右衛門家が風格のある構えをみせる。西町と司町は、仕舞屋の多い通りとなっているが、司町の川に出る路地が、昔の名残をとどめている。
笠松には、寺院もけっこう集まっており、本町には法伝寺(真宗大谷派)、蓮国寺(日蓮宗)、司町には福證寺(真宗大谷派)、西町には盛泉寺(真宗大谷派)、誓願寺(小庵)、西町南の柳原町には西本願寺別院などがあり、浄土真宗の勢力が強い。
町並みの北には八幡神社が鎮座する。境内には富森稲荷がまつられている。別名「陣屋稲荷」ともいう。由来は、享保5年(1720)に郡代辻甚太郎が京都伏見稲荷の分霊を勧請して、陣屋内の鎮守としたものという。明治維新後に、八幡神社境内に移された。
八幡町の東は県町という。この一角に、笠松陣屋跡地の記念碑が立てられている。ここは、陣屋が設けられた地にあたる。陣屋が笠松に置かれたのは、寛文2年(1662)のことで、美濃郡代名取半左衛門は、当時「笠町」と呼ばれていた地を笠松に改めた。以来、笠松陣屋は、美濃国内の幕府領の支配と治水などを行ない、幕末まで続いた。そして、笠松裁判所を経て笠松県の県庁舎として利用され、明治4年の岐阜県の誕生によって笠松県庁は廃止された。
笠松は、陣屋が置かれて政治の中心となるとともに、川湊のある商人町としての繁栄の跡を、今もわずかではあるが伝えている>
http://www2.aasa.ac.jp/people/onomi/3418.html
川端康成は私の好きな作家の一人である。先日、妻と二人で長良川の河畔を車で走りながら、短編小説「篝火」を思い出した。家に帰り、川端康成全集第二巻を広げて、作品を拾い読みした。小説はこんな書き出しで始まっている。
<岐阜名産の雨傘と提燈を作る家の多い田舎町の澄願寺には、門がなかった。道に立ち停まって、境内のまばらな立樹越しに奥を窺っていた朝倉が言った。 「みち子がいる、いる、ね、立っているだろう」 私は朝倉に身を寄せて伸び上がった>
川端は大正6年に18歳で大阪から上京し、9月には一高に入学している。伊豆へ旅したのは19歳のことだ。そして20歳の川端青年は本郷元町のカフェで女給をしていた可憐な少女(伊藤初代)と出合う。川端は彼女のいるカフェに友人たちと通い詰めた。
ところが彼女は岐阜の加納の西方寺(小説では澄願寺)に養女として貰われることになり、東京を去る。大正10年10月8日、21歳の川端は友人と一緒に、初代に結婚の申し込みをしようと岐阜を訪れる。このとき初代はまだ数え年16歳だった。「篝火」にはその顛末が描かれている。
川端と友人の朝倉(実名:三明永無)と示し合わせて、みち子(初代)を長良川河畔の宿に誘いだす。笠屋の並んだ町屋の一角を抜け、天満宮の境内を通って広い道にでる。友人が気を利かせて先に立ってあるいていく。
<私はみち子と歩いていた。女の美しさは日の下の道を歩くときにだけ正直な裸になると思って、私は歩いているみち子を見た。体臭の微塵もない娘だと感じた。病気のように蒼い。快活が底に沈んで、自分の奥の孤独をしじゅう見つめているようだ。女と歩き馴れない私には背丈の違う相手が具合悪い。敷き詰めた砂礫を踏むみち子の足駄は運びにくそうであった>
三人は長良橋を渡り、川向こうの宿屋に行く。通された二階の八畳から川面が見えた。金華山の緑がけぶり、その上に天守閣が見える。心が爽やかに広がる眺望だった。川端はみち子を残して朝倉と風呂に入る。そしてすぐに風呂を出て、部屋に引き返してくる。二人の会話を小説から拾ってみよう。
「朝倉さんから聞いてくれたのか」 「ええ」 「それでは君はどう思ってくれる」 「わたくしはなんにも申し上げられません」 「え?」 「わたくしには、申し上げることなぞございません。貰っていただければ、わたくしは幸福でございますわ」 「幸福かどうかは……」 「いいえ、幸福ですわ」
21歳の若者と16歳の少女の会話にしてはませている。とくに川端の言葉は冷静に見えるが、その実、「煙管を銜えようとすると、琥珀のパイプはかちかち歯に鳴る」ほど緊張していた。
<私は感情が少しも言葉に出来ない。空想していたのとはまるでちがう。みち子のほうが遙かにしゃんと立っている。そして、黙ってしまうと、私の安らいだ心は、静かに澄んだ水になって、ひたひたと遠くに拡がってゆく。眠ってしまいたいようだ。この娘が自分と婚約をしてしまったと、みち子を見ると、この娘がねえと、珍しいものに眼を見張る子供のように快い驚きを感じる。
不思議でならない。私の遠い過去が新しい光りを浴びて、見て下さい見て下さいと、私に小さく擦り寄って甘えている。私のような者と婚約してしまってと、なぜだか、無鉄砲なみち子が可哀想でならない。あきらめーー結婚の約束は一つの寂しいあきらめかしら。ふと私は、広い闇を深く落ちてゆく二つの火の玉を見ている。何だか、世の中一切が、音のしない小さい遠景に見える>
夕食が終わって夜が更けると、金華山の麓の闇に篝火が点々と浮かんだ。鵜飼船の焚く篝火である。篝火は宿の川岸に寄ってきた。松明の燃えさかる音が聞こえた。
<鵜匠は舳先に立って十二羽の鵜の手綱を巧みに捌いている。舳先の篝火は水を焼いて、宿の二階から鮎が見えるかと思わせる。
そして、私は篝火をあかあかと抱いている。焔の映ったみち子の顔をちらちら見ている。こんなに美しい顔はみち子の一生に二度とあるまい。
私たちの宿屋は下鵜飼にある。長良橋の下を流れて消える篝火を見送ってから、三人は宿を出た。私は帽子もかぶっていなかった。朝倉は柳ケ瀬で電車をぷいと、二人で行け、と言わぬばかりに下りてしまった。私とみち子と二人きりが乗客の電車は、灯の貧しい町を早く走って行った>
小説はここで終わっている。しかし、この恋は悲恋で終わった。初代がふいに川端の目の届かないところに姿を消したからである。川端がこの小説を書いたのは、それから5年後の26歳のときだった。
なぜ、結婚の約束は破られたのか。「非常」と題された別の自伝的小説にはその顛末が書かれているが、これを読んでみてもよくわからない。初代の養父母を中心に、この結婚に反対する声が強かったことが想像される。「南方の火」の中には、少女から来た手紙が引用されている。
<あなた様は私を愛して下さるのではないのです。私をお金の力のままにしようと思っていらっしゃるのですね。・・・あなた様がこの手紙を見て岐阜にいらっしゃいましてもお目にかかりません。お手紙下さいましても拝見しません。どのようにおっしゃいましても東京へは行きません。私は自分を忘れあなた様も忘れ真面目にくらすのです>
康成は「南方の火」の中で「16の少女と一緒になれるーーこれだけでも美しい夢だった」と書いているが、やはり現実からあまりに浮き上がった、観念的で幼い恋だったのだろう。康成の一人相撲の「美しい夢」に、少女も周囲も不安を覚えたのではないだろうか。
川端は婚約をする一ヶ月前にも川端は京都からの帰りに岐阜を訪れ、鵜飼宿に少女を誘っていた。そのときの様子が「南方の火」にはこう書かれている。
<夏休みが終わって京都から東京へ行く途中、時雄と水澤とは岐阜に代って弓子を長良川べりの鵜飼宿へ連れ出した。金華山の影が宿の屋根に落ちていた。縁側から長良川の南岸に下りられた。
岸には薄や萩がまばらで、遊船会社の鵜飼見物船が並んでいた。早瀬の色は初秋だった。長良橋が左に見えた。その上を渡る電車の音を時雄は幾度も遠い雷と聞き違えた。月が明るくて鵜飼は休みだった>
川端が少女と歩いた長良橋を私も何度か歩き、彼らが眺めたであろう景色を私も眺めた。そして私が尊敬する川端にも、こんな幼い恋の時代があり、切実な体験があったことを思いだし、ほほえましく感じたものだ。
川端たちが9月に泊まった長良川南岸の宿は現在も「ホテルパークみなと館」として営業している。また、「篝火」の舞台になった北岸の旅館は「鐘秀館」で、現在は十六銀行の研修センターになっているという。いずれも長良橋に立てば眺めることができる。
(参考サイト) http://www.tokyo-kurenaidan.com/kawabata-hatsukoi1.htm
セルジオ越前さんが川柳の面白さに目覚めたようだ。毎日のように掲示板に投稿してくれている。また専用のブログを立ち上げて、そこに発表している。そのなかから数句を紹介させていただこう。
民営化 規制緩和で 倒壊ビル
今朝もまた 電車に飛び込む 4万人
ニートらに 軍隊いいぞと 自民党
司令部を 日本へ移し 再占領
暴動で ほっとひと息 ユーロ高
そこで、私も川柳に挑戦してみた。セルジオ越前さのようにパンチの効いたものはつくれないが、できそないでも我が子は可愛いものだ。
改革の 旗振る小泉 人気者
改革の 仮面に騙され 夢を追う
改革で 潤うひとは 一握り
改革で 赤いポストも 雨ざらし
改革で 電車もこの駅 とまらない
改革で 税金医療費 高くなり
改革で 下層階級 ばかりかな
改革で 少子化すすみ 荒れ野原
改革で 命の値段も やすくなる
改革で いつか来た道 二等兵
改革を 望む庶民は 浮かばれず
少し前まで、河原を歩いていると、草むらで虫たちが鳴いていた。その声も細くなり、やがて風の音ばかりになった。草むらはいつか草紅葉である。その美しい風景に、消えていったいのちのはかなさを思いながら、久しぶりに俳句を作ってみた。
こおろぎの 姿は見えず 草紅葉 裕
(参考サイト) http://d.hatena.ne.jp/miguelh/
私は明治時代が偉大だったのは、教育に力を注いだからだと思っている。政府は外国から多くの教育者を招聘したが、その俸給は総理大臣よりも高かった。
さらに学校の建物にもお金をかけた。外国人が日本にやってきて、政府の建物よりも何よりも一番立派なのが学校だと驚いている。今でも明治時代に建てられた小学校があちこちに文化財として残っているくらいだ。
教育にお金をかけなくなって、軍艦ばかりつくるようになり、教師ではなく軍人が尊敬されるようになって、日本はどんどん悪い方向に走り出した。
教育をどれほど大切に考えるか、そして教育界にいかに優秀な人材を得るかということがこれからに日本にとって重要である。もちろんここでいう教育は単なる知識詰め込みの教育ではない。専門的にすぐれていると同時に、人格的にもすぐれた教育者による全人教育である。
その昔、教師の待遇が悪くて、「でもしか教師」が流行った。大学を卒業してみたが大企業に就職できなくて、「しようがないや、教師にでもなるか」ということでほとんど無競争で教師になった人たちだ。しかし、こうした人たちに教育をまかせれば、国の将来が傾くことは想像できる。
ところで、10月20日、財政制度等審議会で教員給与が行政職を11パーセント上回るとして、教員給与の優遇が問題にされた。これをうけて中日新聞などのマスコミがこれを一面トップで報じた。
これを読んだ人は誰でも教員が給与面で優遇されているような印象をもつだろう。そもそも一般の公務員が高給を取っているというイメージが定着しているうえに、さらに優遇されているのだから、けんしからんということにもなりかねない。
しかし、近所の民間会社に務める人と比較して、わが家の暮らしぶりはひときわ質素で慎ましい。妻も私もこの10年間洋服を新調することもなく、私は理髪店にもこの3年間行かずに、自前でやっている。この日記を書いているパソコンも10年以上前に買った骨董品だし、車は10数年前にはじめて新車で買ったカリーナを17万キロ以上乗り回している。
最近は、健康上の理由から土日や休日の夕食を抜いているが、これには経済上のこともある。妻と二人で食事代が一食1000円として、これで月に約1万円ほどの節約になる。しかしいくら節約しても貯蓄をするゆとりはない。子供の教育費用の捻出と住宅ローンにあえぐなかで、今はやりの投資などとは無縁の人生である。
というふうに、私の生活実感からして、それほど高給をいただいてきたという実感はないのだが、これはあくまで主観である。そこで、もう少し客観的なデーターを紹介しよう。まず、一般の国家公務員について、8月18日の日記に紹介した統計を引用してみよう。
<国家公務員の場合は、従業員数5人の小企業にくらべれば、月平均で6万円ほど高い給料をもらっている。しかし、500人規模の中企業にくらべれば、月収は10万円低いことになる。大企業に勤めるいわゆるエリートサラリーマンとはくらべようもない。これも誤解にないようにつけくわえておくが、ここで給料というのはさまざまな手当も含めた総収入である>
さて、教職員組合の資料によれば、一般行政職にくらべて教員が11パーセント高くなっているのは、教員給与のみ教職員調整額を加算しているからで、こうした点を補正をすればこのギャップは現在は5パーセント未満になっている。さらに平均年齢の違いがある。また大卒の比率は教員が88パーセントであるのに対して、行政職は55パーセントである。
こうした要素を勘案し、さらに教員が現場に身を置く現業であることを勘案すれば、はたして教員の給料が行政職に比べて高いと言えるのかどうか疑問である。ちなみに、行政職との給与格差は消防で16パーセント、警察で21パーセント割高になっている。しかし、こうした現業の給与水準が高いという批判はあまり聞かない。
給料が高い低いというのは、その仕事の内容との比較でなされるものだ。医師や弁護士が高給をとるのが当たり前というのも、それだけ仕事が専門性を要求される高度なものだと一般に受け入れられているからだろう。
例えば教育先進国のフィンランドの場合は、教員はすべて大学院卒業資格をもたせている。そしてそれに見合う高給を与えている。教師に高い専門性を要求し、こうした教師集団によって可能な高質の教育こそ国が発展する基本だと考えているからだ。
公務員が給料が高いと人々が考えるのは、そのパフォーマンスに対する評価が低いせいだろう。実際、給料の水準に見合った公共サービスのパフォーマンスをしているのか、この点は問題である。
平均に比べて高いから引き下げるというのは暴論だが、パフォーマンスが悪いのであれば改善しなければならないし、改善できないのであれば、給料は下げざるを得ない。しかし、教員の場合、その待遇については、国の将来をみすえて慎重に考えるべきだろう。
通勤電車で毎日「石橋湛山評論集」(岩波文庫)を少しずつ味わいながら読んでいる。明治から大正の初めの頃に「東洋経済新報」などに掲載されたあたりを読んでいるが、その内容が少しも古くなっていないのに驚く。
今日は大正元年9月の「東洋時論」に掲載された「愚かなる神宮建設の議」という評論を紹介してみよう。明治天皇がなくなり、国民は悲しんだ。天皇の功績をたたえるために神宮を建設しようという声が高まる。これに湛山は反対である。
<或る一部から多大の希望を嘱せられて東京市長の椅子を占めた阪谷芳郎は、その就任最初の事業として、日枝(ひえ)神社へお参りをした。それから第二の事業として明治神宮の建設に奔走しておる。そうしてその第一の事業もなかなか世間の賞賛を博したが、第二の事業はまた素晴らしい勢いで、今やほとんど東京全市の政治家、実業家、学者、官吏、それからモップの翼賛する処となっておるようである。
しかしながら、阪谷男よ。それからその他の人々よ、卿らの考えは何でそのように小さいのであるか。卿らはわずかに東京の一地に一つの神社くらいを立てて、それで、先帝陛下と、先帝陛下によって代表せられたる明治時代とを記念することが出来ると思っているのか>
湛山によれば、明治時代の最大特色は人々が考えているように「帝国主義的発展」にあるのではない。大戦争を経験し、陸海軍が盛大になり、台湾も樺太も朝鮮も日本の版図になった。しかしこうしたことは、明治という時代の一面にすぎないという。
<その最大事業は、政治、法律、社会の万般の制度および思想に、デモクラチックの改革を行ったことにあると考えたい。軍艦をふやし、師団を増設し、而して幾度かの大戦争をし、版図を拡張したということは、過去五十年の時勢が、日本を駆ってやむをえず採るらしめた偶然の出来事である、一時的の政策である。
一時的の政策、偶然の出来事は、時勢が変われば、それと共に意義を失ってしまう。しかし、明治元年に発せられた世に有名な御誓文を初めとして、それ以後明治八年の元老大審院開設の詔勅、明治十四年の国会開設の詔勅において、いくたびか繰り返されて宣せられた公論政治、衆議政治即ちデモクラシーの大主義は、今後ますますその適用の範囲を拡張せられ、その光輝の発揮せらるることありとも、決して時勢の変によってその意義を失ってしまうようなことはない。
而してもし明治時代が永く人類の歴史の上に記念せらるるとすれば、実にこの点においてでなければならぬ。しかも我が国民の上下は果たしてこの点においてどれほど深く明治時代の意義を意識し、而してこれを完成するの覚悟をもっておるであろうか>
一介の科学者であるノーベルが永遠に世界の人々の心に残るのは、「その資産を世界文明のために賞金として遺した」からである。湛山はこのノーベルの例を持ち出し、明治天皇の功績を世界に知らしめるために、一木造石造の神社建設に夢中になって運動し回るのはやめて、「明治賞金」をつくれと提唱する。
<東京のどこかに一地を相して明治神宮を建てつるなどということは実に愚かな極みである。こんなことは、断じて先帝陛下の御意志にもかなったことではないのみならず、また決して永遠に、先帝陛下を記念しまつる所以でもない。真に、先帝陛下を記念しまつらんと欲すれば、まず何よりも吾人は先帝の遺された事業を完成することを考えねばならぬ。而してもし何らか形に現れた記念物を作らんと欲するならば「明治賞金」の設定に越して適当なものはない>
湛山がいうように「明治賞金」が出来ていたら面白かったにちがいない。この資金で近代化のために努力しているアジアやアフリカの人々や団体を励ますことができただろう。世界に対する宣伝効果ははるかに大きなものがあったに違いない。そして、これが日本国民に与えた影響も大きかっただろう。
しかし、日本はそうした道を進まなかった。国内のみならず植民地にまで神社を建設し、植民地の人々に礼拝を強要した。こうして神国日本の神話が作られていった。明治天皇の死がその契機になっていることが、湛山の文章を読むとよくわかる。
フジテレビ系全国ネットで「奇跡体験 アンビリバボー」という番組を毎週水曜日に放送しているらしい。私は見ていないが、妻はときどき見ている。5月12日に放送された番組に、透視能力をもつというロシアの少女が出演した。
大学の医学部に在籍するというこの18歳の少女は人体を透視する能力をもち、この能力を用いて患者の病名を次々と言い当てることができるのだという。番組の中でこの様子が紹介され、超能力の持ち主として有名になった。超能力少女の番組への出演は2回に及び、さらに視聴率がよかったので、これが再放送されたという。
これにたいして、大槻義彦(早稲田大学名誉教授)さんが、「超能力ロシア少女ナターシャはデタラメだ」(週刊現代)と抗議をしている。超能力に批判的な大槻さんに対して、2回目の番組への出演が打診され、彼はこれを条件付きで了解したのだという。
その条件とは、実際に彼が抱える病気の名前を少女に当てて貰うことと、その日、彼自身の人体に特別な仕掛けをしていくので、それを言い当ててもらうことだった。大槻さんは小豆大の真珠を呑み込んで番組に登場するつもりだった。
少女が本物の超能力者だとしたら、胃袋の中の真珠が見えるはずである。もちろんこの仕掛けについては秘密にしておかなければならない。大槻さんの体内の真珠の存在は大槻さんしか知らないということでなければならない。少女に情報を与えてはいけない。
フジテレビはこれを了承したものの、その後、プロデューサーが彼の病名と仕掛けを事前に報せてくれと言ってきた。その理由は、大槻さんがどんな病歴があるのか、体内の仕掛けがどんなものか事前に知らないと、番組の途中に具合が悪くなられると困るからだという。
大槻さんはその心配はないとこれを断ったところ、「安全のため」ということで、番組への出演が一方的にキャンセルされた。これによって、大槻さんはロシア少女もまたこれまで無数にマスメディアにでっち上げられたニセモノの一人だと確信した。
番組に参加したSF作家の山本弘さんも、「オンエアされた番組を見て驚きました。ナターシャが正解を外したところはほとんどがカットされている」と述べている。実際の番組では、少女は患者に様々な問診をしながら、頭から順番に見ていったという。
頭や喉、肺、心臓・・・と次々と問診を繰り返すうちに、患部にたどりつくわけだ。番組ではこの試行錯誤の部分が省略されて、少女がぴたりと言い当てたように見えるわけだ。これは「編集のトリック」であって超能力ではない。
大槻さんは、「こういう番組を信じた視聴者が神霊療法などを信じて被害にあうのです」と述べ、番組の反社会的性格を指摘している。これに対してフジテレビ側はこれを「演出の範囲内」だとして、「2時間ドラマで殺人事件を扱ったといって、殺人が増えるのでしょうか」と答えている。この番組の再放送は、大槻さんが放送局に抗議したあとに行われたという。
公共性の高いテレビが、トリックによって視聴者に超能力が存在するかのように思わせてもよいものだろうか。テレビは所詮そのくらいだと突き放して考えることもできるが、視聴率を稼ぐために何でもありというのは社会的に問題である。いずれにせよ私たちは、メディアリテラシーを磨いて、嘘に騙されないようにしなければならない。
もし、突然透視能力が恵まれたら、人生はどんな風にかわるだろう。こんな能力があると、学校の教師はやっていられないかも知れない。なにしろ教室には可愛い女の子がいっぱいだ。職員室にも独身の女教師がいる。これでは気分が散って、教材研究もできないし、授業にも集中できないだろう。
教師は失業するかも知れないが、これを武器に手品師になり世界中で公演して、大儲けできるかもしれない。私も数年前だが、100円ショップで「透視箱」という手品を手に入れて、家族や生徒、友人たちにパフォーマンスして手品師の気分を味わった。たとえばこんな風である。
「先生はね、実はこれまで秘密にしていたんだが、透視能力があるんだよ」 「そんなの嘘に決まっているじゃん」 「それじゃ、ひとつ証明してやろう」
そう言って私はやおらポケットから魔法の箱を取り出す。プラスチックの円筒形の箱の中にはサイコロが入っている。そのサイコロの面に「笑った顔」「怒った顔」「泣顔」の三種類の表情をした顔の絵がはりつけてある。
生徒にそれらを渡し、私に見えないようにしてサイコロを箱の中にしまわせる。私は箱を受け取り、指先で箱の上面を撫でながら呪文を唱え、「見えてきた、見えてきた」と思わせぶりなセリフをはく。そして、「泣顔が見えてきたぞ」と言ってみんなの前で箱をあける。ときどき間違うことがあるが、たいてい合っている。
「どうだ、すごいだろう」 「うん、すごいね」 「しかし、もちろん、先生は透視能力なんかあるわけがない。これには仕掛けがあるんだ。その仕掛けを見破ってほしい。どうだ、だれか分からないか」
生徒たちは箱とサイコロを手に取り、考える。箱の中に入れて、私がやったように指先でなで回している生徒もいる。クラスによってはだれも分からないこともあるが、30人もいるとたいてい一人か二人はトリックを見破る。職員室でもこれを実演したが、何人かの先生がこのトリックを見破った。
実は、サイコロは完全な正六面体ではない。つまり微妙に厚みが違っている。笑い顔の時はびったり箱に収まるが、泣いていたり、怒っているときは、箱の蓋がほんのわずかだけ持ち上がる。この僅かな違いを箱を受け取った瞬間、指先に神経を集中してその感触から読みとるわけだ。仕掛けがわかると、みんな「何だ、そんなことか」といういう顔をする。
サイコロが完全な正六面体でないとは見た目ではわからない。そして、たいてい私たちはそれを正六面体だと思い込んでいる。トリックを見破った人は、これに疑問を持ち、箱の中で入れ替えてみて観察する。
その違いはほんの僅かだが、少し練習すれば人間の指先はこの微妙な違いを感知できる。私のかっての同僚は、藁半紙の束を渡すと、「32枚ほどあるね」と即座に答えることができた。そして誤差がいつも1、2枚程度しかない。こんなことも少し訓練すればできるのだという。人間の能力はバカにはできない。
2005年11月20日(日) |
人をだますテクニック |
私は霊魂や神秘的な霊力を信じていない。奇跡は存在するかと聞かれれば、人生そのものが奇跡であり、生命という存在自体が神秘以外の何者でもないと答える。考えれば考えるほど、こんな奇跡はどこから生まれたのか不思議でならない。私は正直なところ「神様は存在するかもしれない」と思っている。
しかし、テレビのワイドショーでもてはやされる超能力はどれもインチキだと思っている。早稲田大学の大槻義彦さんの講演を聴いたことがあったが、彼も「これまでたくさんの超能力者を研究したが、みんなインチキでした」と言っていた。
もちろんある種の人たちは、人並みはずれた才能や能力を示すことはある。アインシュタインやモーツアルトはまさにそうだろう。しかし私たちは彼らのことを天才だとはいうが、超能力者だとは呼ばない。これがまともな考え方だと思っている。
超能力は信じていないが、手品や奇術は大好きである。百円ショップで手品の種を仕入れてきて、家族に紹介したりもする。テレビで見たりするのも好きだ。先日も風呂上がりに何気なく居間のテレビを覗くと、テレビで人気の奇術師らしい人が、思わせぶりなパホーマンスの最中だった。
ある街角の洒落た洋酒専門店の玄関のガラス戸に白い封筒が貼り付けてあって、その前に人だかりがしている。そこへ彼が現れて、「だれかこのカードを引いて下さい」と手にもったカードをその中の一人に引かせる。そのあと、封筒を開けると、カードと同じ文字が手紙に記されている。観客は「わあ、どうしてだろう」と不思議になる。
もちろん、これは序の口だ。これを前座にして、彼は「物をガラスの向こう側に貫通させる」という奇術をはじめる。極めつけは彼自身がガラス越しに店の中に貫通するという奇術である。貫通した彼は内部からガラス戸を開け、手にしたシャンパンを差し出す。
私はこのシーンしか見ていないが、その前に彼は電車の中で体を空中に浮かせ、一回転するというパフォーマンスをしてみせたそうだ。電車に乗り合わせた乗客がこれを見て驚愕する様子がテレビに写し出されたという。以下は妻と私の会話である。
「ほんとうにびっくりしたわよ」 「トリックがあるはずだ」 「でも、みんなの見ている前でよ。どうやったらできるの」 「それがトリックなのだよ」 「どういうこと?」 「彼が僕の前でその業をやってみせたら驚くよ。しかし、僕以外の人間の前でやってみせても驚かないね」 「つまり、見物人は全員ぐるなわけね。やらせなわけね」
視聴者はテレビがそんな大それた「やらせ」をするはずがないと思うだろう。そういう常識や良識を逆手に利用することで成り立つのがトリックの世界だ。トリックは分かってみれば単純なものだ。そして人々は単純なものほどわからない。まさかそんな幼稚なことはあるはずがないと勝手に思い込む。詐術師はこの思いこみを利用するわけだ。
ヒトラーが小さな嘘はすぐにばれるが、大きな嘘はなかなかばれないと言った。これはトリックの神髄をいいあてている。このトリックを使って人々を騙すことを商売にしているのが、いまはやりの評論家や政治家、そして彼らと共生関係にあるマスメディアである。彼らの権威にだまされないようにしよう。
昨日は午後から出張だった。しかし、ネットで知り合った斎藤さんと会うため、八時過ぎに家を出た。出がけに白い運動帽をかぶると、妻が季節外れで目立つからよしなさい、まるでテニスに行くようだ、別の黒い帽子をかぶりなさい、という。
「だめだよ。面識のない人と会うのだから、目立つ格好でいかなければならないんだ。白い運動帽を被っていくことになっているんだ」 「だったら、会うときだけ被ればいいでしょう」
妻に言われて、それもそうだと思い直し、帽子を鞄に入れた。10時頃にテレビ塔の近くにきて白い帽子を被ると、体格のがっちりした40年輩の男性がにこにこしながら、「橋本さんですか」と近づいてきた。こちらも一目で斎藤さんだとわかった。色が浅黒く、精悍な感じである。それでいて目がやさしかった。
戦争の最中に、沖縄から本土に疎開する児童たちを載せたままアメリカの潜水艦に沈没させられた対馬丸という船がある。これによって1000人以上の人命が失われた。斎藤さんはこれを題材に「銀の鈴」という台本を書き、劇団ARKで上演した。
斎藤さんは沖縄のことを検索していて、私のHPを知ったのだという。それから何度か掲示板でやりとりをした。いつかお会いすることもあるだろうと思っていたが、たまたま斎藤さんが名古屋に出張してみえたので、お互いの時間の隙間を見つけてお会いすることができた。
喫茶店でコーヒーを飲んだり、レストランでランチを食べたりしながら、2時間ほどお話しした。演劇のことが中心だった。「銀の鈴」を書くのに、対馬丸で生き残った人から、その後の苦労話も聞いたという。戦争体験は生き残った人にも過酷だった。
斎藤さんは最近起こった静岡の少女による母親毒殺未遂事件にも興味を持っていて、これらを題材にシナリオを準備中だという。これはとても興味がある。どんなシナリオになるのか是非読みたいし、劇も見たいものだと思った。ちなみに斎藤さんは山田一彦というペンネームでシナリオを書いている。
2時間ほどの対談だったが、話題は戦死された叔父さんのことや、戦争論、教育論、シェークスピアやドストエフスキーにまで及び、話はつきなかった。もう少し時間をとって再びゆっくりお会いしたいものだと思った。
(参考サイト) 劇団ARK http://cat-5.hp.infoseek.co.jp/
教室で旅の話しをしたら、Tさんが「私も旅が好きです」と言って、石川文洋さんの「日本縦断 徒歩の旅」(岩波新書)を貸してくれた。石川さんはもと朝日新聞のカメラマンで、ベトナム戦争やアフガン戦争などを取材した人である。
この人が65歳の記念に北海道の北から沖縄の南まで3300キロを徒歩で歩く計画を立て、これを実行した。この本がそのその記録である。冒頭の文章を紹介しよう。
<歩いている間は誰にも束縛されない自由時間のように感じる。歩いている時は夢や空想が広がる。だから歩くことが好きだ。この気持は中学の頃に生まれたと思っている>
石川さんの一家は彼が5歳の時に、沖縄から本土に移住した。戦争の最中のことだった。その後、沖縄を戦争の惨禍が見舞った。戦時中も戦後も彼の一家は極貧生活だったという。彼は中学を卒業するまで朝刊と夕刊を配り続けた。そして定時制高校に入学したのだという。
1964年、26歳の時、無銭旅行を企ててアメリカに渡った。翌年にはサイゴンに行き、政府軍に同行してベトナム戦争を体験した。45歳で15年間勤務した新聞社を辞職し、アフリカへ行って内戦の様子を取材した。
その後、サラエボやインド・パキスタン、アフガニスタンと、最前線での取材が続く。戦場で負傷して命拾いをしたこともあったという。石川さんが日本縦断をしていた2003年にはイラク戦争が勃発している。石川さんにはイラクに行きたい思いもあった。
<イラク戦争が始まった時、現地へ行かなければと思った。しかし、長年の夢である徒歩の旅を優先させた。歩いている時もイラクのことが気になっていた。現地の状況は悪くなるばかりである。
日本人を含め民間人の人質事件や拘束は心が痛む。時期を見てイラクへも行き、アフガニスタンも再訪したい。ベトナム、カンボジアの現状も取材したい。楽しみながらの徒歩の旅と報道を両立させながら、人生の旅を続けたいと思っている>
日本縦断の旅で石川さんは日本海ぞいの道を選んでいる。芭蕉ゆかりの奥の細道や良寛の生まれた出雲崎、私が好きな金沢や故郷の福井や若狭小浜のことも書かれていてうれしかった。石川さんが宿泊して一番よかったのが小浜市の田烏にある民宿「浜乃家」だそうだ。
<今回の旅のナンバーワンである。刺身はイシダイ、アカラ(キジハタ)、それぞれ一匹分とイカ、アマエビが皿に盛ってある。カニ半身、ギジハタ煮付け、天麩羅ははエビ、キス、シシトウ、ナス、サツマイモ、シソの葉。サザエ二個、ホタテ一個もついた。一泊二食付きで7000円。部屋、洗面所も清潔である。素朴な宿のご主人と奥さんが良い>
65歳の石川さんは旅に出る前はコレステロール値が異常で、高血圧も180を超えていて降圧剤を飲んでいたという。そんな体で3300キロもよく歩いたものだ。しかし、この徒歩旅行で体重が73キロから62キロに減った。血圧は142に下がり、コレステロールも平常値にもどったのだという。
長年の夢であった日本縦断の徒歩旅行は、石川さんに健康という人生最大の宝をも恵んでくれた。石川さんは今度はスペイン最南端のアルヘシラースからヨーロッパ各国を放浪し、デンマークまで行ってみたいそうだ。さらにアフリカ横断も夢見ているという。石川さんの本を読んでいると、元気が湧いてくる。
毎朝NHKの朝のドラマ「風のハルカ」を楽しみに見ている。そしてこれを見終わってから散歩に出かける。そのころは太陽もかなり高くなり、日向ぼっこをしながらの散歩が楽しめる。
散歩は昔から大好きだった。歩いていると気分が爽快になる。裏町を歩くのも好きだが、町外れや田舎道を歩くのもいい。最近は運動をかねて早足で歩いている。歩いているうちに汗ばんでいる。
途中、木曽川の堤を歩いているが、数ケ月前から大工事が始まり、来年の3月まで通行止めになっている。しかし、このコースが一番の気に入だから外すわけにはいかない。
もっとも、私が歩いていても、工事現場で働いている人はだれも注意しない。むしろ「おはようございます」と声を掛けてくれたりする。私も「おはようございます」と返す。しかし、昨日、ヘルメットをかぶった男から声を掛けられた。
「通行止めになっています。迂回路の方を通ってください」 「私の毎日の散歩道です。通らせていただきます」 「工事の車が通るのであぶないですよ」 「気をつけます」 「今日だけですよ」 「明日も通らせていただきます」
相手は「困ったな」というふうに苦笑いをしていた。私も答えながら苦笑してしまった。通行禁止だと看板が出ていて、バリケードまでしてあるのに、自分の散歩道だからと押し通るのは、あきらかに私がわるい。これが逆の立場だったら、私も役目がら注意しただろう。こんな訳の分からない口を利かれたら、腹が立つかも知れない。
男を残して大股で歩きながら、私は今さらのようにあたりの風景を眺めた。大がかりな道路拡張工事のため、堤防にあった多くの桜の木が倒された。そのうち河川敷の自然林も切り倒され、きれいに整備されるのだろう。すっかり野趣がなくなり、面白みがなくなる。鳥たちも楽園を失って困るに違いない。
そして、私の散歩道もきれいに二車線に舗装され、堤防道路として大型のトラックが疾駆することだろう。工事が終わったら終わったで、私は永遠にこの魅力的な散歩道を失うことになるのかもしれない。そう思うと、一日でも長くこの散歩道をたのしみたいと思う。そういう思いが、私に自分でも苦笑するような理不尽な態度をとらせたのだろう。
(次のサイトで私の朝の散歩コースの写真を見ることができます) 「秋の散歩道」 http://hasimotohp.hp.infoseek.co.jp/top2.htm
小さい頃、よく動物をいじめた。猫を空に放り上げて、泣き叫ぶのを見て面白がった。カエルを石に叩きつけたり、トンボの目玉をくりぬいたり、蠅の頭をちぎったりした。とくに私が熱中したのは、採集した昆虫に毒液を注射することだった。学校ではカエルやフナの解剖もしたが、これも面白かった。
現在の私は蟻一匹殺すことはできないし、まちがって踏みつけたりすると、じつにいやな気持になる。いのちあるものは何であれ、他人が虐げたり、殺したりするのを見ると腹が立つ。戦争映画や暴力シーンを売り物にしている映画は見る気がしない。
これは私の心がまっとうに成長したからだ。長年の教育によって心が次第に発達し、私の中にヒューマンな感情が育ち、醸成されていった結果である。現在の私は他者の命を尊び、これを慈しむことに大きな価値と喜びを見いだしている。
心の中にこうした他者を慈しむゆたかな感情を育てることが大切である。そのためには、私たちはよき教育を受けて、よき人生体験をしなければならない。学校や家庭でよき学習をしなければならない。心にたくさんの栄養を与えなければならない。そのための社会環境も大切である。
もし大人こうした配慮を怠ったらどうなるか。子供たちは自らの心を育てることがむつかしくなるだろう。知識が蓄積され、体力は大人並に成長しても、心はいつまでも未熟で貧弱なままである。心が成長せず、狭いままでは、他者の痛みをわがわが痛みと感じ、他者のよろこびを自らの喜びとすることはできない。
そうした心の成長不良をおもわせる事件が毎日のように報道されている。今話題になっている静岡県伊豆の16歳の女子高校生による母親毒殺未遂事件もその一つだろう。彼女は母親に酢酸タリウムを飲ませ続け、苦しみながら衰弱していくありさまを、冷静に観察し、ブログで公開していた。彼女はブログでは自分を「僕」とよび、男性を装っていた。
<生き物を殺すという事、何かにナイフを突き立てる瞬間、柔らかな肉を引き裂く感触、生暖かい血の温度、漏れる吐息、すべてが僕を慰めてくれる>(9/3)
少女は母親に毒を飲ませる前にも、さまざまな動物をつかって生体実験をしていた。彼女の部屋には猫の首など、解剖した動物たちの体の一部がガラスの容器にいれて置いてあったという。同居していた兄がこうしたことをいぶかしく思っていた。
<兄は此を見ている。訪問者記録に残っている。挙動から分かる。それとなく臭わせている。どうぞごゆっくり、お客様>(8/15)
<隠れる事は喜びでありながら、見つけられない事は苦痛である。見つけられることは危険である。しかし自分が存在していることを確認するためには、だれかに見つけられるしかない>(9/27)
兄は同じ家に住み、母親が正体不明の病気で苦しむ様子を不審に思い、少女に疑いを持っていた。彼女のブログを読んで、妹の犯行を確信したようだ。少女は兄の告発で逮捕された。少女は逮捕されてからも、捜査員を「おまえ」呼ばわりしているようだ。
少女は有名進学校にかよい、成績も優秀だったという。しかし、彼女が心酔していたのはイギリスの殺人鬼であり、彼女の愛読書は彼が書いた「クレアム・ヤング毒殺日記」という本だった。
ヤングは1962年に14歳で継母を毒殺したのを皮切りに、父親、姉、同級生などを次々と殺したことで有名な殺人鬼である。少女はこれを読んで、母親を毒殺することを思いついたようだ。
近所の人たちからは仲の良い一家とみられ、少女は母親と肩を並べて買い物に行っていたという。しかし、この少女の心の中には、大切なものが育っていなかった。頭脳は優秀かも知れないが、こころが成長していなかったのである。
彼女は一躍世間の注目を浴びることで、望み通り自分がこの世に存在していることを証明したと思っているのだろう。しかし、そうしてマスメディアに取り上げられ、有名になることでしか自分の存在が確認できないというのは、むしろ自己の不在を証明している。
昨日、数年前にデジカメで撮った福井の写真を眺めていたら、近所のA書店の写真があって、おもわず長いこと見つめていた。私が中学生の頃とほとんど店の造りが変わっていない。街の様子が変わる中で、むかしの面影を残している。
A書店は私の実家から歩いて5,6分である。本好きの私はよくそこに足を向けた。高校生の私は、ガモフの物理や数学についての啓蒙書を注文して買った。大学生の私は岩波書店の「志賀直哉全集」や「夏目漱石全集」を注文した。それらの本は今も一宮の私の家の書棚にある。
A書店は代替わりをして、息子のA君があとを継いだ。ちなみにA君は私の中学時代の同級生である。一緒に遊んだ記憶はないが、A書店の前を通りながら、A君のようにこういう本屋さんの主人として好きな本を読みながら一生を終わるのもいいなと思ったことがある。
母も最近までA書店から雑誌などを購入していた。A君がそれを届けに来て、そのついでに上がり込んで世間話をしていったらしい。そのA君が今年の春先に、55歳の若さで突然なくなった。このことを、私は4月に福井に帰省したとき母からきいた。
死因は自殺だという。奥さんが首を吊っているA君をみつけたらしい。A君が運ばれた先の病院に、弟の妻が薬剤師として働いていた。母は彼女から、A君の自殺を知らされた。母はだれにも話さず、A君の死因は突然死ということにして、葬式も普通に行われたが、やがて自殺だといううわさが流れ、母の耳にも入ったという。
A君は母の愚痴をよくきいてくれた。母も息子の同級生のA君には親しみがあって、つい長話になった。A君はいやな顔一つしなかった。ほんとうにやさしい、まじめな人柄だったようだ。母もまさか自殺するとは思いもしかった。しかし、振り返ってみると、思い当たることがあるらしい。
母が病気の話をしたとき、A君もリューマチがひどくて自転車が思うように乗れずに困っていると言った。お金がないというと、A君も小さな町の本屋の窮状を口にしたことがあるという。経済的苦境に加えて健康の悪化が、A君を悲観的な気持にさせて、発作的に死を選ばせたのではないか。
数年前のA書店の写真は、まだA君が生きていたころに撮ったものだ。写真を眺めていると、いまにもガラス戸が開いて、少し頭が薄くなったA君が、「やあ、ひさしぶり。元気にやっているか」と出てきそうである。ご冥福を祈る。
2005年11月14日(月) |
小さいことにくよくよするな |
リチャード・カーソンさんの「小さいことにくよくよするな」という絵本がある。たまたま書店で目にして読み始めたらとまらなくなった。今日はこの本から私が好きな言葉をいくつか紹介しよう。とても易しい英語で書かれている。英語はこんな風に使うのだというお手本でもある。
<Don't Sweat the Small Stuff>
小さいことにくよくよするな。小さいことに囚われると、もっと大切なものが見えなくなる。人生の原点は何かと言うことを見失ってはいけない。汗を流すこと、努力することは悪くはないが、ただ努力することがよいわけではない。
<Learn to Live in the Present Moment>
いまを生きよう。現在のこの瞬間瞬間が大切である。今を生きることを学ばなければならない。もちろんこれは、刹那的に生きるということではない。
<Be Happy Where You Are>
いまいる場所で、幸せをつかもう。幸せはどこか遠い山の彼方にあるわけではない。今、ここで幸せになれない人は、どこへ行っても幸せにはなれないだろう。
<Fill Your Life With Love>
人生を愛でみたそう。ありのままの自分を愛し、ありのままの他人を愛すること、幸せになる道はこれしかない。
<Be Kind First>
まず、こちらから親切を。相手から挨拶されて挨拶を返すのではなく、こちらから笑顔を向けるのである。こちらから心を開けば、どんな頑な相手でも、しだいに心を開くものだ。
<Respond with Love>
人から罵声や憎悪を向けられたとき、憎悪や罵声を返してはいけない。憎悪には愛情をかえしてやろう。どんな悪人でも、もしその人の置かれた状況や、生い立ちを知れば、同情がもてるものだ。相手を理解することで、憎悪は消える。
<Stay Playful>
人生を楽しもう。つねに朗らかであること。人生は楽しくなくてはね。
<You can look at it in two ways>
もの事はいくつもの側面がある。別の立場に立てば、また違った真実が見えるものだ。自分を色々な立場において物事を客観的に眺めてみること、これができる人を知性がある人という。
<Talk to him his way>
相手に語りかけるときは、相手が理解できる言葉で語りかけなければならない。ほんものの知性を持っている人はこれができる。またこれがほんとうのやさしさだ。
<Don't forget to smell the rose>
花に香りがあることを忘れないでおこう。人生に大切なのは道草をするゆとりだ。目標を持つことは大切だが、それにとらわれると、もっと大切なことが見えなくなる。人生のかぐわしい香りをいつも忘れないでおこう。
(参考文献) 「小さいことにくよくよするな!」 リチャード・カーソン著 サンマーク出版
木曽川の川原を散歩していると、雁などが群になって飛んでいくのをよく見かけるようになった。水辺にも鴨の姿が多くなっている。昨日はお天気も回復してきたので、昼食がてら妻を誘って「うぬま自然公園」へ行った。
そこに大きな池がふたつほどある。毎年渡り鳥がこの季節になるとやってくるので、餌の食パンを途中で買って訪れた。数はまだ1/3ほどだが、鴨たちの姿があった。しかし人になれていないのか、最初は寄ってこない。
パンをちぎって投げているうちに、少しずつ寄ってきたが、その数はせいぜい十数羽ほどだった。それもあらそって食べるというのではなく、なんだか知らないが、お義理でちょっと食べてやるかという感じである。
まだ、餌が足りているのかもしれない。あるいは人になれていないことや、旅疲れもあるのだろうか。そんな鳥たちも数ケ月もすると、私たちの姿を見ただけで遠くからわれさきにやってくるようになる。その様子がとてもかわいい。今月のHPの顔の写真は、去年の彼らの様子を撮したものだ。
池で鳥たちに餌をやったあと、蔭平山に登った。頂上の展望台まで30分ほどである。木洩れ日の坂道を、ところどころ紅葉している木々を眺めながら登った。展望台に立つと木曽川や犬山城が眼下に見えた。名古屋駅のツインビルや、その横に建設中のトヨタビルもはっきり見えた。一宮タワーも見える。しばらくひなたぼっこをしてから降りた。
家に帰ってしばらくすると、看護婦をしている長女が夜勤明けだと言ってやってきた。夜勤明けなのに病院を出たのが午後になってしまったのだという。意識が回復しない患者を二人も抱えていて、勤務時間などあってないようなものだという。それでいて割合元気で、妻と二人で買い物に出かけた。次女も大学の馬術部の試合でいないので、家の中が急にしずかになった。
そこで、居間のノートパソコンを使って、ホームページの手入れをした。具体的にはこれまで書いた文章に写真をつける作業である。あたらしくinfoseekのHPを手に入れたので、そこに写真を置くことにした。
これで「タイ家族旅行」や「セブ島留学体験記」が写真入りで読めるようになった。写真が入るとページがカラフルになる。「百聞は一見にしかず」というが、文字では現せない情報が得られる。もっともこの日記帳には写真はつけない。ページが重くなるし、言葉を大切にしたいという思いもある。
「タイ家族旅行」 http://hasimotohp.hp.infoseek.co.jp/tai.htm
「セブ島留学体験記」 http://hasimotohp.hp.infoseek.co.jp/cebu.htm
いつも4時頃には起きているのだが、今日は起床が5時半だった。最近はときどき寝坊する。まあ、これでも大方の人よりは早いかも知れないが、早起きを身上としている私には寝坊である。
寝坊の原因はいろいろとあるが、今日の場合は2時頃にトイレに行ったことだろう。さすが2時に起きる気はしないので、もう一眠りした。しかしその後の眠りが浅く、おかしな夢ばかりみた。これでリズムが狂ったらしい。
こういうパターンは避けたいのだが、これがときどき繰り返される。おかしなリズムができそうだ。困るのは清浄な朝の時間が少なくなることだ。日記を書く時間もなくなり、内容も疎かになる。今日の日記がその例である。
予定していたテーマはあるが、何だか気力がわかない。かわりに昨日から読み始めた半藤一利さんの「戦う石橋湛山」(東洋経済新報社)について書こうと思ったら、うまい具合に掲示板に植田さんが、この本を読まれた感想を投稿して下さった。ここに引用させていただくことにする。
−−−−−「戦う石橋湛山」に学ぶ −−−−−−−−
掲示板でみなさんにお知らせしたくなって投稿します。 「日記」11/4付で紹介されていた「石橋湛山の先見の明」を拝見し、Amazonで標記の本を購入して一読しました。徹底した湛山の反戦論もさることながら、満州事変から上海事件、国際連盟脱退に至る軍国主義への急展開に朝日・毎日の二大新聞が戦意を煽り立て、大衆を戦争への熱狂と興奮に誘導した流れが当時の記事を証拠に跡付けられていて、唖然とする思いでした。 今までは言論の自由を圧殺した軍部権力の責任が大きいと思い込んでいたのですが、軍部も世論の後ろ盾があったからこそ謀略を重ねて侵略を進めることができたのです。当時もマスコミが世論の形成に大きな力をもっていたことが分かります。 これは過去の事実に止まりません。小泉首相の民営化解散の場合も、マスコミは問題の本質を論じることを忘れて解散に賛成し、「刺客を放った」とか「小泉チルドレン」とか、コマーシャルまがいの新語をばらまいて、世論を小泉支持に誘導したとしか言えないからです。 今後もマスコミへ監視と批判の目をそらしてはならないと痛感します。因みに、私たちのHPでも石橋湛山の反戦論について紹介しています。自虐史観とか謝罪外交の是非を語る前に、昭和5年から日米開戦までの史実を認識することが、平和の大切さを説得する大きな力になり得ると思います。
−−−−−−−−−−−−−
現在6時である。この日記、今日は15分間で書くことができた。これは新記録だ。植田さん、ありがとうございました。私も今日一日かけて、じっくり読んでみたいと思っています。
ダイエットと血圧降圧剤の相乗効果で、脳に問題が生じて、物が二重に錯綜して見えるという視力異常に襲われたときは、たいへん心細い思いをしたものだが、おかげで障害者の世界をすこしだけ体験できた。
駅の施設や街には視力障害者の便宜のためにいろいろな工夫がほどこされている。ふだんは見過ごしていたが、自分が障害を持つと、これらがいかにありがたい存在かがわかった。
視力に障害をもちながら一人で街を歩くということはつらいものだ。そんなとき、重宝したのは障害者用の歩行帯である。黄色く塗られ、適度なでこぼこがあるので、勤務先や病院への行き帰りにはこれをたよりに歩くようになった。
街や駅には思った以上にバリアフリーの工夫がなされていたが、問題はこうした設備が有効に活用されているかということである。たとえば、障害者用の歩行帯の上に、自転車が置いてあったり、自動車が乗り上げていたりする。障害者にとって、これは迷惑なことだし、危険なことである。
どんなにハード面を整えてバリアフリーを実現しても、私たち市民に障害者を思いやる心や気遣いがなければ、障害者の安全確保はむつかしい。歩行帯の上の障害物については、これを排除するきびしい法律を作って取り締まりをしてほしい。
(今日の日記を次のように簡潔にして、朝日新聞の「声」の欄に投稿してみた。皆さんが新聞投稿するための、何かの参考になればと思い、ここに載せておこう)
−−−−視力異常で体験、あふれる障害物−−−−
ダイエットと血圧降圧剤の相乗効果で、物が二重に錯綜して見えるという視力異常に襲われた。心細い思いをしたが、おかげで障害者の世界を体験できた。
駅や街には視力障害者の便宜のために工夫がほどこされている。ふだんは見過ごしていたが、自分が障害を持つと、いかにありがたい存在かわかった。
歩くとき重宝したのは、障害者用の歩行帯である。黄色く塗られ、適度なでこぼこがあるので、勤務先や病院への行き帰りにはこれをたよりに歩くようになった。
街や駅にはバリアフリーの工夫がなされていたが、障害者用の歩行帯の上に、自転車が置いてあったり、自動車が乗り上げていたりした。障害者にとって、迷惑で危険なことである。
どんなにバリアフリーを実現しても、私たち市民に障害者を思いやる心がなければ、障害者の安全確保はむつかしい。歩行帯の障害物については、これを排除するきびしい法律を作って取り締まりをしてほしい。
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私はわりと太る体質なので、昔から「腹八分目」を心がけているが、それでも油断すると太る。ところが世間には「やせの大食い」と言って、食べても食べても太らない人もいる。これはどうしたことだろうか。
おいしいものをたくさん食べても太らない人をみると、なんだかうらやましくなるが、もう少し太りたいと思っている人にすれば、そうした自分の体質に不満があるのかも知れない。それにこうした人たちはたくさん食べなければならないので、食費もかさむだろう。
私のように比較的小食でも腹も減らず、元気に活動していられるのは、おそらく腸の栄養吸収力がいいのだろう。私たちの腸の中には数百種類に及ぶ100兆もの腸内細菌がいる。その重さはじつに1.0〜1.5キログラムにもなるという。
実はこれらの腸内の微生物が、消化酵素と協力して私たちの食べた物を分解し、栄養として吸収しやすいかたちにしてくれている。ただ分解するだけではなく、あらたな栄養源をつくりだしてもいる。
牛などの草食動物の場合は、消化器の一部がふくらんで(ルーメニという)、そこに多数の微生物が繁殖し、食物を分解するだけではなく、自らが蛋白源となって草食動物の栄養になっている。だから牛たちは自らの体内でこれらの微生物を飼っているかぎり、タンパク質を摂らなくてもよいわけだ。
人間の場合はこうした能力は衰えているが、それでも人間の腸にもこれと似た細菌が棲んでいるという。生野菜しか食べない人が長期間健康な生活を維持していられるのも、こうした腸内細菌が活発な活動をして栄養をつくり、また吸収を助けているからだと考えられる。
ところが、こうした健康な人でも食べすぎると、腸の中で食物が腐敗し、悪い細菌が繁殖して、善玉の細菌が死滅するのだという。そうすると栄養の吸収が悪くなり、「やせの大食い」ということになりかねない。
また腐敗によって体に悪い物質がつくりだされ、これが腸から吸収されると、体内の血液が濁り、健康そのものが阻害される。気管支喘息やアトピーなどのアレルギー症状もそうだし、リューマチや悪性のガンにもなりやすくなる。
腸内環境をよくたもつことが、健康の秘訣だとすれば、過食は慎まなければならない。私たち先進国に住んでいる人たちが「腹八分目」を心がけることで、世界の食糧事情もよくなるし、それ以上に、私たち自身が健康でしあわせな人生をエンジョイできる。「小食に病なし」という格言を大切にしたい。
16年ほど前、体重が増え始めた時期があった。当時夜間高校に勤務していた私は、夜中に駅から自宅にあるいて帰る途中、屋台に寄ってラーメンを食べていた。学校がとても荒れていたころで、かなりストレスもたまっていたのだろう。私の最大の楽しみは、このラーメンだったのである。
その頃私は1年生の担任をしていたが、私のクラスは40人いて、しかも30人近くが男子生徒だった。しかもその大半がわけありの生徒ばかりで、指導が大変だった。口のききかたが悪いといって、職員室で生徒にワイシャツをひきちひられるという暴行を受けたこともある。
授業料や給食費を滞納したまま学校にこなくなった生徒の家に押し掛けて、父親と直談判してお金をださせたこともある。素直に払うことは滅多になく、何度も居留守を使われたあげく、ようやく粘り勝ちで授業料と退学届を手に入れたときはほっとしたが、これが教員の仕事かと思うと泣きたい気分になったものだ。
結局40人いた私のクラスは、1年間で20人あまりが退学して、とても淋しいことになったのだが、それまでに随分いろいろな事件があり、戦争のような毎日だった。ストレスから私は怒りっぽくなり、よけに生徒達とトラブルが増えた。
11時過ぎに木曽川の駅を降り、とぼとぼ暗い夜道を20分ほどわが家に歩きながら、何度教員を止めようかと思ったか知れない。しかし、幼稚園と小学生の娘や妻のことを思うと、そんな弱音をはいてはいられない。そんなとき、屋台のラーメンの味がはらわたにしみてくる。
しかし、そうしているうちに、私の体に異変が生じてきた。シャツの首周りが苦しくなり、胸のボタンがちぎれそうになった。腰回り84センチのズボンがどれも窮屈になった。鏡で顔を見ると、別人のようにふくらんで生気が感じられない。
そこで、私は一大決心をした。屋台のラーメンを食べる回数を減らすこととにしたのだ。そんな日は、学校から帰って、お茶を一杯だけのむ。この一杯のお茶をそれこそ宝物のように味わって飲むのである。
それから、もう一つ決断したことがあった。それは浮いたラーメン代をユニセフに寄付することだった。世界には飢餓に苦しんでいる大勢の子供たちがいる。私がラーメンを食べずに、そのお金を寄付すれば何人もの子供が助かる。そう考えると、自分の餓鬼のような食欲も少しはおさまってくれた。
ラーメンを食べる回数をどんどん減らした結果、私の体重は増加を止めて、わずかだが減少した。私は新しくワイシャツやズボンを新調することもなかった。そして私は餓鬼のような自分から解放され、さらにそれによって浮いたお金を寄付することで、自分の人間としての誇りをとりもどすことができた。
いまでも毎年年の暮れにユニセフに献金している。そのたびに、私は自分の人生で出あった試練を思い出し、この試練にうち勝つことのできた自分を誇りに思い、さらには、私にこの力を与えてくれたユニセフや、もっと大きな存在に感謝することにしている。
HPをはじめて、丸6年が過ぎた。最初のきっかけはhelloのHPだった。HPというものは難しいものだと思っていたので、こんなに簡単に作れるのかと驚いた。掲示板までついて無料である。
これに味をしめ、IBM社のホームページビルダーを買って、本格的なHP作りに挑戦することにした。これが現在の「橋本裕文学人生world」である。1999年8月13日いらい、日記は一日も休んでいない。2250日間以上続いていることになる。われながらこれはちょっとした偉業だと思っている。
私のインターネットのプロバイダーは「インターネット尾張」だが、HPの容量は30MBまでサービスで、これを超えると30MBごとに1050円/月を支払わなければならない。最近、この限界が気になってきた。写真などを載せることも極力少なくしなければならないので、表紙の写真も昔のものを使い回している。
これを解消するために容量の増量をすることにした。ただし月1050円は貧乏人の私には負担が大きすぎるので、今話題の「infoseek楽天」のHP作成サービスを利用することにした。これだと50MBまで無料である。しかも写真掲載可能な掲示板が10個もついてくる。
広告がうるさいので、これを外すことにしたが、そのために年額3150円が必要になった。これまでのプロバイダーだと1050円/月で30MB増量だが、これだと263円/月で50MBの増量である。1/4の費用ですむ。
しかも年額6300円(525円/月)払うと、これが一気に300MBもの増量になる。年額10500円で30MBとは比べようがない。その外にさまざまなサービスがついている。これもありがたい。
さて、50MBを手に入れたので、これでもう一つ新しい「人生の散歩道」というHPを作ることにした。コンテンツは「橋本裕文学人生world」とほとんど変わらない。ただ、橋本裕という名前を出さないことにした。生徒や同僚に見せてもよいような無難なものになっている。
(先日の日曜日に一日がかりで製作したので、一度覗いてみてください。表紙が写真館になっているので、「次に」をクリックすると、私の「朝の散歩コース」を見ることができます。いずれ、「人生の散歩道写真館」として、こちらのHPでも見ることができるようにするつもりです)
http://hasimotohp.hp.infoseek.co.jp/index.html
これからは「infoseek楽天」のメモリーを使って、この「橋本裕world」も大いに充実させて行きたいと思っている。
血圧が高いと血管を痛め、ときには血管を破壊してしまう。これが脳溢血だそうだ。これを防ぐために、血圧を下げる薬を飲み続けた。しかし、薬によって血圧を下げることはあまり好ましくない。なぜなら、高血圧になるにはそれなりの理由があるからだ。
血圧が高くなるのは、体がそれを要求しているからだ。動脈硬化で血管が細くなると充分な血液が脳にいかなくなる。そこで体は脳を守るために血圧を上げて、脳に行く血液を確保しようとするわけだ。手元にある健康本から引用してみよう。
<体の中でいちばん血液を必要としているところは脳です。手足が必要とする血液の量を1とすると、脳に行く血液は20倍が必要です。仮に、手足をしばって血液を30分くらい止めておいても、しばっているのを解けば手は生き返ります。しかし、脳の血液を30分止めたら、脳は元にもどりません。せいぜい3〜6分間が限度です。
動脈硬化が進み、血管が狭くなり、血液の流れが悪い状態では、脳に血液不足が生じます。すると、脳は危機を察して血圧を上げて血流量をふやします。脳は血液不足を解決するために、わざと血圧を上げているのです。
それを降圧剤でむりやり下げたら、脳の血流がへり、流れがよどんで血栓(血液の塊)ができやすくなって、血管が詰まりやすくなり、脳梗塞の危険が高まります。ですから、血圧が上がるのは、体の防衛手段として、なくてはならないことなのです>
もちろん、血管を守るためにとりあえず降圧剤を飲んで、血圧を下げることは必要だ。しかし、降圧剤は脳溢血(脳卒中)を防いでくれるが、その分、脳が血流不足になり、思考力の低下や気力の減退を引き起こす。さらに恐ろしいのが、脳梗塞である。薬を飲むと言うことは、このリスクを抱えるということだ。
私はこうした医学知識をよく知らずに、医者に言われるまま、3年以上も降圧剤を飲み続けた。朝食後降圧剤を飲んだ後、通勤途中でどうにも眠くなり、車を止めて木曽川の土手でいつも一休みしていたものだ。学校でも昼飯を食べた後は体がだるく、意識がはっきりしなかったが、これも薬の副作用だったようだ。
これに気付いて、薬を止める決断をした。健康本に「過食をつつしめば適正な体重になり、高血圧も解消する」と書かれているのを読み、遅蒔きながら体重を減らして血圧を下げることにした。
しかし、昨日も書いたように、ここで私は大変な失敗をした。一日二食を敢然と実行し、1ケ月で5キロ以上も体重が減り、血圧も下がっていたのに、医者の指示にしたがって降圧剤を飲み続けたことだ。ただでさえ血流不足だった私の脳は、もはや深刻な血流不足に陥り、酸素や栄養が不足して、ついには視覚障害を生じた。こういうことは、高血圧の理由や、降圧剤についての正確な知識があれば未然に防げたことだ。
高血圧になるには体がそれを欲しているからである。風邪を引いて熱が出るのも、食欲がなくなるのもみんなそうだ。これを薬で無理に抑えたり、無理に食事をしたりすることはほんとうは体にあまりよくない。
痛い目にあって、体験からいろいろ勉強したおかげで、健康について何が大切かということがとてもよくわかった。いかにこれまで間違った先入観で生活していたかもよくわかった。これはとても大きな収穫だった。
(参考文献) 「小食が健康の原点」 甲田光雄 たま出版 「奇跡が起こる半日断食」 甲田光雄 マキノ出版 「健康の結論」 新谷弘実 弘文堂
先日、近くのユニクロでジーパンを買った。店員さんに腰回りをはかってもらったら、82センチとのこと。この4月には96センチでもきつかったから驚きである。30年前の体形に逆戻りだ。なんとなく一気に若返ったようでうれしい。
体重は68キロを超えていたのが、いまは62キロを割り込んでいる。夏休みに夕食を抜いて1日2食にしたとき大幅に減ったが、その後も土日はなるべく夕食を抜き、ふつうの日でも夕食は半分以下にしている。これによってじりじりと体重がさがってきた。
身長×身長×21=理想の体重
という式に私の身長をあてはめると、約60キロになる。あと少しで理想体重に到達できるわけだ。今年中には理想体重を実現したいと思っている。
現在、月〜金曜日の夕食は学校で給食を食べているが、これは御飯は食べずに、野菜や穀類を中心に少したべている。このあと明くる日の7時まで、約13時間は水以外は胃袋に入れない。もちろん間食は一切しない。
朝4時前に起きて、2時間ほどかけて日記を書き、6時頃から散歩をはじめる。少し前まではこれが私の日課だったが、散歩をしていても空腹感を感じることはなかった。むしろ朝起きて頭も良く回転するし、散歩の足取りもずいぶん軽かった。(最近は9時頃から歩いている。寒いからね)
「腹が減ってはいくさができない」という諺があるが、あれは医学的には間違いらしい。動物は食べた後は活動しない。ライオンでも狩りをするのは空腹なときで、胃や腸の中に食物がある間は寝そべってぼんやりしている。
人間も動物だから、体や頭がよく働くのは胃袋が空っぽのときである。昔のお百姓さんはこのことを知っていて、「朝飯前」に働いた。私の場合も、生産性があがるのは朝食前の数時間である。
体重が減ったお陰で、体が軽くなり、山登りができるようになった。持久力もついてきたように思う。しかし、何と言ってもいちばん有り難いのは、かっては180を超えていた血圧が劇的に下がったことである。
当初、血圧が下がっていたのに血圧硬化剤を飲んでいた。病院で測ったとき上が120そこそこしかないのに、医者はあいかわらず薬を出し続け、私はその医者のいう通りに律儀に薬をのみ続けた。
その結果どうなったかというと、血圧が薬で異常に下がって血行の流れが遅くなり、脳の小さな血管にゴミがつまって流れなくなった。つまり脳梗塞が生じたわけだ。このため、頭痛が続いたあげく、ものが二重になって見えるという視力障害に見舞われ、一週間も病院に通って様々な検査をよぎなくされたわけだ。
原因がわかったので、すぐに血圧降下剤をのむのを止めて、もう1ヶ月以上飲んでいないが、血圧は安定している。これで薬からも病院通いからも解放された。毎月の高血圧の薬代が必要なくなり、その分、おいしいものが食べれそうである。おっと、食べ過ぎないようにしなくてはね。
個人の自由と社会の秩序をどう調和させるかということは、いつの時代でも大きな問題である。個人の自由を尊重し、これに重きを置くべきたとする人と、社会の秩序を重んじ、個人の自由は制限されるべきだとする人がいる。
しかし、個人の自由か社会の秩序かという二項対立はディベートとしては面白いが、あまり実りあるものをもたらさない。なぜなら、個人の自由は秩序のよく保たれた良質な社会があって可能なことであり、良質な社会もまた自由な個人の存在に支えられているからだ。
自由な個人を希求することと、秩序の維持された良質な社会を希求することは、何も矛盾することでも対立することでもない。それは車の両輪のように、助け合って機能し、おたがいを前進させる。
こうした観点にたって、とくに「言論の自由」を尊重する良質な個人主義論を展開したのが、ジョン・スチュアート・ミル(1806〜1873)である。彼はとくに「少数意見の尊重」こそが民主主義の原点であり、社会に多大な利益をもたらすものだと主張している。彼の「自由論」(1859年)から引用してみよう。
<個性の自由な発展は幸福の主要な要素である。それはまた、文明、知識、教育、教養といった言葉で表現されているもの必須の要素でもある。このことが痛感されているならば、自由の軽視される危険は存在せず、自由と社会による統制との境界を調整することについても、特別の困難を惹起しないであろう。
不幸なことに、一般の考えによると、個人の自発性が固有の価値をもち、それ自体のゆえに尊敬に値するものであることは、ほとんど認められていない。大多数の人々は、現在のままの習慣に満足しているので、これらの習慣が必ずしもすべての個人にとって満足すべきものではないわけを理解することができない>
<意見の発表を沈黙させるということは、それが人類の利益を奪い取るということなのである。それは現代の人々の利益を奪うとともに、後代の人々の利益をも奪う。それはその意見をもっている人の利益を奪うだけではなく、その意見に反対の人々の利益さえ奪う。
もしその意見が正しいものならば、人類は誤謬を捨てて真理をとる機会を奪われる。また、たとえその意見が誤っていても、これによって真理は一層明白に認識され、一層明らかな印象を与えてくれる。反対意見を沈黙させるということは、真理にとって少しも利益にならない>
<対立する二つの意見のうち、いずれか一方が他方よりも寛大に待遇されるだけではなく、特に鼓舞され激励されるべきだとすれば、それは少数意見の方である。少数意見こそ、多くは無視されている利益を代表し、またその正当な分け前にあずかることができないという恐れのある人類の福祉の一面を代表している意見なのである>
<反対者の意見をありのまま受け止める冷静さをもち、反対者に不利になるようないかなる事実をも誇張せず、また反対者に有利となる事実を隠そうとしない人々に対しては、彼らがどのような意見をもっていても、敬意を払わねばならない。
これこそは公の道徳である。この道徳はしばしば守られていないが、これを誠実に守っている人がいて、さらに守ろうとして良心的に努力している人々も大勢いる。このことを私はとても嬉しく思っている>
<人間は間違いをおかすものだ。そして真理と考えられているものも、その多くは不十分な真理でしかない。意見の一致が得られたにせよ、それが対立する意見を十二分に比較した自由な討論の結果でない限り、それは望ましいことではない。
人類が現在よりもはるかに進歩して、真理のすべての側面を認識できるようになるまでは、意見の相違は害悪ではなくてむしろなくてはならぬものである。そしてこのことは、意見の相違だけではなく、人間の様々な行動においてもいえる。社会の発展のためには、異なった意見が存在していることが有益であるのと同様に、異なった生活の実験が存在していることもまた有益なのである>
ミルはこの著によって「自由」がいかに社会に有益で重要なものであるかをあきらかにした。民主主義もまたこの「自由」の培地の中で育つわけだ。こうしたすぐれた古典が学校で教えられ、家庭で読まれて、もっと多くの人々に共有されれば、民主主義や個人主義について世間に流布する誤解もおおかた解消するだろう。
(参考文献) 「今こそ読みたい哲学の名著」 長谷川宏 光文社
戦前・戦中、「満州は日本の生命線」だといわれた。満州を失い、朝鮮を失えば日本は滅びると考えて、これらの植民地を死守すべく、愚かな戦争に突入していった。そしてこの侵略戦争を、「大東亜共栄圏の建設」とか、「八紘一宇」などと呼んで美化していた。
こうした傾向を、戦前から鋭く批判し、日本に植民地は必要ではなく、日本の活路は米英との協調関係にあると説いていたのが石橋湛山(第55代内閣総理大臣)である。彼が大正十年のワシントン海軍軍縮会議に際し、『東洋経済新報』 に発表した二つの社説を紹介しよう。
これを読めば、アメリカが突きつけてきた「ハルノート」もそうやみくもに拒否すべきものであったかどうか疑問になるだろう。すでに日本側から、こうしたことを石橋湛山は委曲を尽くして主張していたからだ。
文章の引用は瀬戸内パイレーツさんが掲示板で紹介して下さったHP(アドレスを下記)からさせていただいた。石橋湛山の文章は、「戦う石橋湛山」(半藤一利著 東洋経済新報社)からの引用だそうである。
<例えば満洲を棄てる、山東を棄てる、その他支那が我が国から受けつつありと考うる一切の圧迫を棄てる、その結果はどうなるか。また例えば朝鮮に、台湾に自由を許す、その結果はどうなるか。英国にせよ、米国にせよ、非常な苦境に陥るであろう。
なんとなれば彼らは日本にのみ、かくのごとき自由主義を採られては、世界におけるその道徳的位地を保ちえずに至るからである。その時には、支那を始め、世界の小弱国は一斉に我が国に向かって信頼の頭を下ぐるであろう。インド、エジプト、ペルシャ、ハイチ、その他の列強属領地は、日本が台湾・朝鮮に自由を許したごとく、我にもまた自由を許せと騒ぎ立つだろう。
これ実に我が国の位地を九地の底より九天の上に昇せ、英米その他をこの反対の位地に置くものではないか。我が国にして、ひとたびこの覚悟をもって会議に臨まば、思うに英米は、まあ少し待ってくれと、我が国に懇願するであろう。
ここにすなわち「身を棄ててこそ」の面白味がある。遅しといえども、今にしてこの覚悟をすれば、我が国は救われる。しかも、これこそがその唯一の道である。しかしながらこの唯一の道は、同時に、我が国際的位地をば、従来の守勢から一転して攻勢に出でしむるの道である。
以上の吾輩の説に対して、あるいは空想呼ばわりをする人があるかも知れぬ。小欲に囚わるることの深き者には、必ずさようの疑念が起こるに相違ない。朝鮮・台湾・満洲を棄てる、支那から手を引く、樺太も、シベリアもいらない、そんなことで、どうして日本は生きていけるかと。
キリストいわく、「何を食い、何を飲み、何を着んとて思い煩うなかれ。汝らまず神の国とその義とを求めよ、しからばこれらのものは皆、汝らに加えられるべし」 と>(「一切を棄つるの覚悟」七月二十三日号)
<朝鮮・台湾・関東州、この三地を合わせて、昨年、我が国はわずかに九億余円の商売をしたに過ぎない。同年、米国に対しては輸出入合計十四億三千八百万円、インドに対しては五億八千七百万円、また英国に対してさえ三億三千万円の商売をした。すなわち経済・貿易を重視するならば、三植民地より後者三国のほうが欠くべからぎる国であり、よっぼど重要な存在ということになる。
しかも、中国およびシベリアにたいする干渉政策が、経済上からみてどんなに不利益をもたらしているかを知るべきである。つまり中国およびロシア国民のうちに日本にたいする反感をいっそう高め、経済的発展の障害となっている。この反感は、日本が干渉政策をやめないかぎり、なくならない。
それゆえに、結局のところ、朝鮮・台湾・樺太を領有し、関東州を租借し、支那・シベリアに干渉することが、我が経済的自立に欠くべからぎる要件だなどいう説が、全くとるに足らざるは、以上に述べたごとくである。
我が国に対する、これらの土地の経済的関係は、量において、質において、むしろ米国や、英国に対する経済関係以下である。これらの土地を抑えて置くために、えらい利益を得ておるごとく考うるは、事実を明白に見ぬために起こった幻想に過ぎない。・・・
日本の政治家も軍人も新聞人も、異口同音に、「わが軍備は他国を侵略する目的ではない」という。では他国から侵略される恐れはあるのか。仮想敵国は以前はロシアだといい、いまはアメリカだという。では問うが、いったいアメリカが侵略してきて日本のどこを奪ろうというのか。
日本の本土のごときは、ただで遣るといってもだれも貰い手はないであろう。むしろ侵略の恐れのあるとすれば、わが海外領土にたいしてであろう。それよりも何よりも、戦争勃発の危険のもっとも多いのは、中国またはシベリアなのである。
我が国が支那またはシベリアを自由にしようとする、米国がこれを妨げようとする。あるいは米国が支那またはシベリアに勢力を張ろうとする、我が国がこれをそうさせまいとする。ここに戦争が起これば、起こる。しかしてその結果、我が海外領土や本土も、敵軍に襲わるる危険が起こる。さればもし我が国にして支那またはシベリアを我が縄張りとしようとする野心を棄つるならば、満洲・台湾・朝鮮・樺太等も入用でないという態度に出ずるならば、戦争は絶対に起こらない、したがって我が国が他国から侵さるるということも決してない。
論者は、これらの土地を我が領土とし、もしくは我が勢力範囲として置くことが、国防上必要だというが、実はこれらの土地をかくして置き、もしくはかくせんとすればこそ、国防の必要が起こるのである。それらは軍備を必要とする原因であって、軍備の必要から起こった結果ではない。
しかるに世人は、この原因と結果とを取り違えておる。謂えらく、台湾・支那・朝鮮・シベリア・樺太は、我が国防の垣であると。安(いずくん)ぞ知らん、その垣こそ最も危険な燃え草であるのである。しかして我が国民はこの垣を守るがために、せっせといわゆる消極的国防を整えつつあるのである。吾輩の説くごとく、その垣を棄つるならば、国防も用はない。あるいはいわく、我が国これを棄つれば、他国が代わってこれを取ろうと。しかりあるいはさようのことが起こらぬとも限らぬ。しかし経済的に、既に我が国のしかく執着する必要のない土地ならば、いかなる国がこれを取ろうとも、宜いではないか。
しかし事実においては、いかなる国といえども、支那人から支那を、露国人からシベリアを、奪うことは、断じてできない。もし朝鮮・台湾を日本が棄つるとすれば、日本に代わって、これらの国を、朝鮮人から、もしくは台湾人から奪い得る国は、決してない。
日本に武力があったればこそ、支那は列強の分割を免れ、極東は平和を維持したのであると人はいう。過去においては、あるいはさようの関係もあったか知れぬ。しかし今はかえってこれに反する。日本に武力あり、極東を我が物顔に振る舞い、支那に対して野心を包蔵するらしく見ゆるので、列強も負けてはいられずと、しきりに支那ないし極東をうかがうのである。>(大日本主義の幻想)
日本が愚かな戦争をし、そして敗れたのは、指導者に世界に通用する戦略なかったからだ。そうした意味で、石橋湛山は米英に対抗できる貴重な戦略家だった。そして彼がすぐれた戦略家たりえたのは、彼が世界に通用する世界観と歴史観、哲学を持っていたからだ。現在の私たちも彼から多くのことを学ぶことができる。
(参考サイト) http://www.sam.hi-ho.ne.jp/s_suzuki/book_ishibashi.html
自民党の新憲法草案が先日新聞に発表された。これについて友人のtenseiさんがHPのコラム「塵語」に感想を書いている。全文を引用させていただこう。
−−−−−自民党の新憲法草案−−−−−
これを読んだのは、先週の土曜日の朝刊である。戦争放棄は維持するそうだ。しかし、自衛軍は明記するそうだ。自衛軍がどういう活動をするものであるかは、別に定める法律があるようで、それが載っていないからわからない。
「戦力を保持しない」と「交戦権を認めない」を削除して、4項目にもわたるくどくどした自衛軍の規定があるのだが、どうやら、今まではサマーワに水運びや土木作業に行っても、非武装(?)の非戦闘員としてみなされていたのが、この憲法が成立すると、武装した戦闘員とみなされるということなのだ。
そうなれば、現地の武装集団も遠慮する必要がなくなると思うのだが。。。今までは、万一攻撃を受けた場合の対処が実に慎重に考えられていたが、この憲法の下では、自分たちの安全(?)のために堂々と応戦できる。そうして、米軍と肩を並べて、ドンパチやれるわけだ。
そうして、水運びや土木作業に行ったはずなのに、そっちのけで、来る日も来る日も飽くなき戦闘状態になったりもするわけだ。さらに、平和な状態をもたらすためと称して、応援が送れ込まれる。ま、もしこんなことにでもなるなら、事実上の参戦である。そんなことにならないように、軍隊をもたないこと、交戦権を認めないことを、国家に対して宣告したのが日本国憲法だったのに。。。
それは、戦後60年、日本が誇りとしてきたものを放棄することなのだ。戦争放棄を維持しながら、平和主義も放棄するって、どういうこと? 詐欺じゃないの??
さらに何年もすると、第9条の戦争放棄と自衛軍は矛盾すると言い出して、戦争放棄を放棄する新憲法を決議しようという計画なのではないか?
だから、憲法改正を今より簡単にできるようにもしようとしている。
「衆参各院の総議員の過半数の賛成で国会が議決し、国民に提案して、、」
今まで各院の3分の2だったのを、過半数に緩めてしまおうというものだ。過半数の議席さえあれば、1党だけの思惑で改案が提議できるわけだ。またもや、自分たちに有利なルールを作ろうという汚いやつらだ。憲法というのはそんなに浅はかなものであってよいのか。
第12条の、「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ」 には笑えてしまった。小泉クンがあの時憤慨のあまり口走ってしまった「自己責任」という語が、こんなところに反映している。こうまで根に持たれてしまったのだから、あの3人の人質は偉大だ(笑)
全体として、為政者への縛りを緩め、国民への戒めを増やした草案に見える。前文にも現行憲法のような感動的な主張は感じられないし、矛盾は深まるし、わざわざこんな低レベルで幼稚な憲法に変えようとは、一体どういう神経だ? ま、こんなのが国会で議決されるとは到底信じられないけれど。。。
でも、こういうものを出しながら、国民の目を混乱させながら、現憲法の下で現憲法をないがしろにして行くんだろうな。。。
−−−−−−引用終わり−−−−−−
自民党の憲法草案では、「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ」(第12条)などと、国の責任と義務を規定するべき憲法が、どうしたことか国民に責任や義務を説いている。憲法は国民を国家権力の横暴から守るための番人である。しかし、自民党の新憲法草案ではこの意識が薄められて、むしろ国家権力の側に立って発想されている。これでは何のための憲法かわからない。
国会議員の過半数の賛成で国民投票ができるというのも問題だ。民主主義を「多数決」の論理で割り切ろうとしている。「多数決」はファシズム(全体主義)論理である。国会議員の1/2、国民の半分近くが反対するようなことを憲法で規定してはいけない。もっと歴史の教訓から学ぶべきだろう。
(1)国民主権 (2)基本的人権の尊重 (3)国際協調による平和の実現
現在の日本国憲法はこうした立場から政治をすることを国家権力に要請している。ところが小泉政権は多くの点で憲法の理念を踏みにじっている。そして憲法を変えることで、さらに国民主権を空洞化し、基本的人権を国家権力の下におき、国際協調ではなく武力による覇権主義へと国を導こうとしている。これが「小泉改革」の目差すところだとしたら大変だ。いずれにせよ、自民党による今回の新憲法草案は歴史を逆行させようとする愚案である。
米英開戦の翌年、連勝祝賀でわきたつ世論を背景に、東条内閣は万全の下準備のもと、4月30日に総選挙を行った。東条はこの選挙で、候補者の推薦制を実施すると宣言していた。
推薦制というのは、すでに一部の地方選挙で行われていた。つまり、地方の有力者が候補者を推薦し、他の立候補をみとめず、そのまま無投票で当選を決めてしまうやり方だ。
もちろんこんなことは憲法違反であり、いくら戦時中だと言えやってはならないことだ。しかし、東条はこれを行うべく、翼賛政治協議会をつくり、議員定数の466名の候補者を推薦させた。
これに先だって、警視庁情報課が現職代議士を次の3つのグループに分類した「立候補適格者名簿」を作成している。
(甲)時局に即応し、率先垂範国策遂行のため他を指導し、代議士たるの職務を完遂し得る人物(85名)
(乙)積極的活動なきも時局に順応、国策を支持し反政府的言動なき人物(207名)
(丙)時局認識薄く徒らに旧態を墨守し常に反国策的・反政府的言動をなし又は思想的に代議士として不適当なる人物(138名)
憲政の神様と呼ばれ、連続当選20回、東京市長をはじめ、文部大臣、司法大臣を歴任した尾崎行雄は、この「立候補適格者名簿」では徒らに旧態を墨守する非適格者の丙に分類され、翼賛政治協議会の推薦も得られなかった。しかし、すでに82歳だった尾崎翁はいささかもひるむことなく、無所属で立候補した。
それどころか同じく無所属で立候補した人たちの応援にたった。これをよしとしない官憲は、尾崎の応援演説の中に天皇に対する不敬があったったとして、投票1週間前に逮捕し留置所に拘置する。
尾崎翁の不敬罪というのは、「売家と唐様で書く三代目という川柳がある。たいてい三代目になると没落する。しかし日本は明治天皇が英明で憲法をおつくりになったおかげで大正天皇、今上天皇の代になって日本はますます発展した」という発言に対するものだった。
「畏くも天皇陛下が川柳の三代目に当らせらるるかの感を与える」ところが不敬だというのだから、あきれるしかない。幸い尾崎はそれでも当選した。しかし、裁判は非公開で行われ、12月21日には東京刑事地方裁判所は懲役8ケ月、執行猶予2年の判決が下された。尾崎はただちに大審院に上告した。
大審院の判決が下ったのは、東条が職を退き、敗戦間近の1944年6月29日のことだ。三宅正太郎裁判長は尾崎には不敬の範囲はなしとして、尾崎を無罪と断じた。さらに「被告人は謹厳の士、明治大正昭和の三代に仕ふる老臣なり。その憲政上に於ける功績は世人周知のところ」と尾崎を誉め讃えた。昭和の名判決といわれるゆえんだ。
東条の翼賛選挙で、推薦候補はひとりあたり5千円の資金援助をうけるなど、政府や軍部から手厚い援助をうけた。在郷軍人会や町内会、隣組の常会が開かれ、内相自らがラジオを通じて全国民に「翼賛選挙」の意義を訴えた。新聞や雑誌もこぞって翼賛選挙を応援した。
これに加えて、非推薦の候補には官憲による厳しい取り締まりや恫喝、いやがらせが加えらた。その結果、東条政権をささえる翼賛政治協議会が推薦する466名の候補のうち381名が当選しました。翼賛候補の当選率はなんと81パーセントをこえた。これによって、東条政権は独裁的な地位を掌中に収めた。
しかし、当時の状況の中でも、尾崎をはじめ非推薦候補が85名当選している。419万票、34パーセントの票が非推薦候補に投じられていた。まだこれだけの人たちが、東条内閣に批判的だったわけだ。
非推薦候補として当選した人の中には、極右翼的な立場から東条は手ぬるいと批判する人たちも少なからずいたが、1940年2月の国会で反軍演説を行い、議員の身分を剥奪された斎藤隆夫のような軍部独裁に批判的な人もいた。彼は兵庫五区から立候補し、トップ当選を果たしている。どんな時代にも骨のある政治家がいて、勇気ある有権者がいた。
なおこの総選挙は本来ならば、1941年に行われるべきものだった。ところが近衛内閣は、日中戦争が泥濘に入り、世論が政府に批判的だと判断して、特別立法で総選挙を1年間延長した。
この間に太平洋戦争が勃発し、世論が一気に政府や軍部に友好的になったわけだ。こんなことができたのも、大政翼賛会に支えられた近衛内閣だったからだ。これも憲政上きわめて異常なことだと言わなければならない。
2005年11月01日(火) |
待ちに待った日米開戦 |
1941年12月8日午前7時、ラジオの臨時ニュースは「帝国陸海軍は本日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」と報じた。さらにその日の正午、「億兆一心国家ノ総力ヲ挙ゲ征戦ノ目的ヲ達成」せよとの天皇の詔書を放送した。
皇居の二重橋前の広場には、国民が詰めかけ、土下座して宮城を拝する者もいた。官庁には「進め一億火の玉だ」「屠れ米英我らの敵だ」という垂れ幕がさげられ、全国の映画館と劇場では午後7時から興業を一時中断し、東条首相の「大詔を拝し奉りて」の録音放送を観客に聞かせた。
1937年7月7日の廬溝橋事件に端を発した日中戦争が4年間続いていたが、戦局は泥沼化するばかりで進展はなく、米英から経済封鎖を受ける中で国民生活も圧迫され、日本には閉塞感が重苦しく漂っていた。
徳川無声も12月4日の日記に「日米会談、相変わらず危機、ABCD包囲網益々強化、早く始まってくれ」と書いている。それだけに日米開戦とそれに続く帝国陸海軍の快進は、国民を狂喜させた。高名な詩人の北原白秋は次のような歌を詠んだ。
天にして雲うちひらく朝日かげ 真澄に晴れたるこの朗ら見よ
この歌は国民の多くの気持を代弁していた。桑原武夫は「暗雲が晴れた。スーッとしたような気持」と書き、河上轍太郎も「今本当に心からカラッとした気持でいられる」と書いた。戦後東大総長となった政治学者の南原繁は開戦の詔勅を聞いたときの心の高まりを、次のような和歌に託した。
人間の常識を超え学識を超えて おこれり日本世界と戦ふ
「それからまもなく昼頃戦果の発表でしょう。そうしたら、ぽろぽろ涙が出てきた。支那事変というものは、はっきりとした情報があたえられていないにもかかわらず、憂鬱な、グルーミーな感じだったのに、それがなにかすっきりしたような、この戦争なら死んでもいいやという気持になりましたね」
戦後作家になった阿川弘之もこのように当時を回想している。翌年2月15日にシンガポールが落ちると、首相官邸や陸海軍省に日の丸の小旗を持った市民や学生がおしかけた。18日の祝賀式では、東条首相のラジオによる「天皇陛下万歳」の三唱に、ラジオの前に集まった何千万という国民が唱和した。
この日、皇居の二重橋前の広場は数万の群衆でうめつくされた。午後1時55分、愛馬「白雪」にまたがった天皇が二重橋の上に現れると、「天皇陛下万歳」の声がわき上がり、君が代の大合唱となった。やがて人気絶頂の霧島昇や藤山一郎らが歌った「大東亜決戦の歌」が国民に愛唱された。
起つや忽ち 撃滅の かちどき挙がる 太平洋 東亜侵略 百年の 野望を ここに覆す 今決戦の 時きたる
こうして国民の熱狂的支持を得て、大西洋戦争は始まった。しかし、国民には知らされていなかったが、この戦争の先行きが暗いことは、戦争を裁可した天皇も政府も軍部の上層部も知っていた。
1941年におけるアメリカの主要物資生産高は日本の76倍以上もあった。そして日本は石油や屑鉄をはじめ主要な産物をほとんど米英から輸入していた。とくに石油について、鈴木貞一企画院総裁は11月5日の御前会議で、「3年後の1944年末には軍需民需ともに需用困難におちいる」とはっきり述べていた。
その数ヶ月まえの9月6日、天皇は近衛首相立ち会いのもと、杉山元参謀総長と永野修身軍令部総長を宮中に呼び出し、作戦計画について下問している。南方作戦によって石油の確保は可能だという杉山に対して、天皇は「お前の大臣の時に蒋介石は直ぐに参るといふたが、未だにやれぬではないか」と追求した。天皇の「絶対に勝てるのか」という大声の下問に、杉山は「絶対に勝てるとはとはもうしかねます」とあやふやな答をするしかなかった。
11月4日に開かれた天皇臨席の軍事参議院会議で、永野は「開戦二カ年の間必勝の確信を有するも、将来長期にわたる勝局においては予見し得ず」と正直に述べている。東条英機首相兼陸相も、「戦争の短期終結は希望するところにして、種種考慮する所あるも名案なし。敵の使命を制する手段なきを遺憾とす」と述べていた。
満州事変や日中戦争は出先機関の暴走によってやむを得ない形ではじまった。これに対して、太平洋戦争は天皇の臨席のもと、慎重な会議を重ねての決断である。しかも、その会議でだれもが勝利の確信を述べることをしなかった。それではどうして天皇はじめ重臣達はこのような先の見えない無謀な戦争に踏み切ったのか。
それは重臣達もまた当時の重苦しい閉塞的な気分にうんざりしていたからだろう。そうした中で軍部を中心に不穏な動きがあった。当時朝日新聞社の主筆だった緒方竹虎が、そのころの国内の雰囲気を次のように伝えている。
「当時の国内情勢を大袈裟にいへば、外に戦争に訴えるか、内に内乱に堪へるか、二つに一つを択ぶ外ないような時局であった。それほど軍およびそれに引きずられた好戦的の勢ひを抑え難い事態だったのである」
東条はこうした軍の暴走を抑えるためにあえて首相にしたのだが、結局、会議は東条の「二年間は南方の要域を確保し得べく全力を尽くして努力せば、将来戦勝の基は之に因り得るを確信す」という根拠のない楽観にもとづいた確信に押し切られてしまった。
「無為に自滅をもとめず、死中に活を求めるべき」だという東条の主張に、対米慎重論者の海軍大将・米内光政元首相は「ジリ貧を避けんとしてドカ貧にならない様に充分ご注意願いたい」と発言した。しかし、このとき連合艦隊はすでに、真珠湾を目差していた。
真珠湾攻撃は戦術的には成功だったが、戦略的には失敗だった。しかし、このあと、日本軍は戦術的にも失敗を繰り返し、自滅への道をたどっていく。その象徴が「特攻攻撃」であろう。まさに「ジリ貧を避けんとしてドカ貧」になったわけだ。
開戦の理由について、ABCD包囲網や資源の枯渇をあげる人がいる。天皇も戦後「石油」が開戦の理由だったとのべたことがあった。しかし、これはアメリカから出された条件をもっと真剣に検討し、妥協すれば回避できたことである。事実アメリカは「ハルノート」で日本に互恵的最恵国待遇を約束していた。
<米国政府及び日本国政府は、両国による互恵的最恵国待遇及び通商障壁引き下げを基本とする米日間通商協定締結のための交渉に入るものとす。右通商障壁引き下げには生糸を自由品目に据え置くべき米国による約束を含むものとす。米国政府及び日本国政府は、各々米国にある日本資産及び日本にある米国資産に対する凍結措置を撤廃するものとす>
「屈辱的な要求により、やむを得ず開戦に至った」などという論調が今もまかり通っていることに対して、この人たちが本当にハルノートを真剣に読み、その精神を理解しようとしたことがあるのか疑問に思わざるを得ない。
<合衆国政府及日本国政府は、共に太平洋の平和を欲し、其の国策は太平洋地域全般に亙永続的且広汎なる平和を目的とし、両国は右地域に於て何等領土的企図を有せず、他国を脅威又は隣接国に対し侵略的に武力を行使するの意図なく、又其の国策に於ては、相互間及一切の他国政府との間の関係の基礎たる左記根本諸原則を積極的に支持し、且之を実際的に適用すべき旨闡明す>
米内首相が主張したように、ナチスドイツを排してアメリカと組む事がもっとも理性的な選択だったわけだ。その上で、これを逆手にとって東南アジアの独立に寄与すれば、日本は今も世界から尊敬される国として大いに繁栄していたことだろう。残念ながら、天皇をはじめ当時の指導者にはそうした英明さはなく、事情を知らない軍や国民の不満と熱狂に押し流されていくしかなかった。
(参考文献) 「昭和の歴史 7 太平洋戦争」 木坂順一郎著 小学館
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