橋本裕の日記
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2005年10月31日(月) 特攻の責任者

 戦争犯罪人という言葉がある。この言葉で最初に連想するのは、東条英機だろう。しかし、実はその上に大元帥としての天皇がいた。もし東条が戦争犯罪者なら、その上に立ってこれを認可した天皇もまた犯罪者である。

 しかしこの常識が覆され、天皇が命拾いしたのはマッカーサーが天皇に利用価値を見いだしたからだ。日本を統治した連合軍の長がプラグマティストのマッカーサーだったことは天皇にとって幸運なことだった。

 もちろんその前提には、天皇が戦後も大多数の国民から尊崇されていたということがある。天皇を処刑せよという声は国民のなかからはほとんどあがらなかった。むしろ戦争に負けたのは国民がふがいなかったからで、天皇に申し訳ないという「一億総懺悔」という言葉が流行ったくらいである。

 ところで、特攻作戦の実行者は大西中将だが、これを許可したのは米内海軍大臣である。海軍の重鎮で、天皇からも信頼されていた米内大将は、当初から対米開戦には反対で、開戦を決定した御前会議でも「死中に活を求める」と主張した東条首相に対して、「ジリ貧を避けようようとしてドカ貧にならないように」と発言している。

 米内元首相は戦争が始まってからは終始一貫して早期講和を主張してしていた。首相を務めた重臣の彼が東条内閣で海軍大臣を引き受けたのも、東条の暴走を止め、講和を実現するための布石だった。大西中将はそうした米内大臣の下で航空部隊の研究・運営を任されていた。大西を第一航空隊司令長官に任命したのも米内である。

 特攻作戦は大西中将が発案するまでもなく、海軍内にはこれを主張するものがいた。しかし当初大西はこれを却下していた。大西が苦渋のすえ、この「外道」の作戦を採用しようと決意したのは、レイテ決戦で戦争に決着をつけようと思ったからだ。

 また、米内海軍大臣がこれを了承したのも、レイテでけりを付けたいという戦争終結に向けた思惑があったからだろう。いかにして戦争を終わらせるかという発想からの許可だったと考えられる。

 しかし栗田艦隊の「謎の反転」で、相手に打撃を与えることもなく、戦艦大和とその護衛艦が残されてしまった。こうして講和のシナリオが狂ってしまった。このように考えると、歴史上のいろいろな謎が解ける。

 海軍内には和戦両派が対立していた。特攻作戦というのは、この両派の対立の狭間で生み出された鬼子だった。特攻が終戦工作の一貫として始まったとしても、結果はそうなならなかった。むしろ戦争を長引かせ、戦争の質さえも狂気に満ちたものに変えてしまった。そこに歴史の教訓を読みとることができる。

 戦争を終わらせるための手段であったものが、自己目的化して、戦争を継続するための支柱になってしまった。これは世の中によくあることだ。「特攻」についても、この逆説を理解することが重要だと思っている。


2005年10月30日(日) 生き残った特攻隊員

 もう20年近く前になるが、私の職場の上司(教頭)のH先生が特攻の経験者だった。彼が定年退職するとき、同じ理科の教員ということもあり、私はもう一人若い理科の教員も誘って名古屋駅近くの料理屋に招待した。

 H先生は中日文化賞を受賞するなど、教育の分野で大きな功績を残していた。後輩としていろいろ参考になる話を聞こうと思ったが、H先生は職場でも謹厳実直そのもので、滅多に口を開かない。さすが宴会ではにこにこしていたが、それでも寡黙だった。

 ところが、私が彼の戦争体験を聞いたときから、雰囲気がかわった。彼が静かに自分の戦争体験を語りだしたのだ。寡黙な彼が、ときどき涙を浮かべながら話す内容は、私にとって衝撃的なことだった。私たちは口を閉じ、彼の語る世界に入った。

 特攻では片道の燃料しか積まない。まさに死出の旅である。H先生はまだ19歳になったばかりで、この死出の旅に飛び立った。しかし、どうしても死にたくはなかった。「生きていたい」という思いが強まり、気がついたときには引き返していたのだという。

 引き返しても、基地までもどる燃料はない。また戻っても待っているのは上官の譴責である。譴責ですめばよいが、軍法会議にかけられるかもしれない。同僚にも合わす顔がない。ふたたび反転しようかと思ったが、燃料がなかった。燃料切れで海上に落ちることになった。

 飛行機から必死で脱出したものの、広い太平洋の真ん中である。それでもいましばらく生きていられるころがうれしかった。南国の青い空を眺め、死を覚悟しながら波に漂っていると、突然海面に潜水艦が浮上した。それは日本軍の潜水艦だった。こうして彼は奇跡的に生還した。

 戦争が終わり、彼は学校に入りなおして教員になった。家庭を持ち、教員としての生活も精一杯尽くしてきた。「生きていてよかった」という思いと同時に、自分が特攻隊員として生き残ったことに、自責の念もあるのだという。それはとても重い告白だった。

 私はこのとき、初めて特攻というもののむごさを意識した。それから、特攻隊員の遺書や手記をよく読むようになった。最近手にした角田和男さんの「修羅の翼 零戦特攻隊員の真情」には、特攻を前にして必死に精神のバランスを保とうとする若い特攻隊員たちの赤裸々な姿が描かれている。この本を読みながら、久しぶりにH先生のことを思いだした。


2005年10月29日(土) 特攻と終戦工作

 特攻作戦の生みの親といわれる大西滝治郎中将について、これまで沢山の本が出版され、またその生涯は映画化されている。軍隊が嫌いで、特攻も好きにはなれないが、現代史に興味がある私は、そうしたもののいくつかに眼を通したことがある。

 私の理解する大西中将は、海軍のなかでもなうての頑固な主戦論者で、児玉機関と通じて米内大将の終戦工作を終始妨害する狂信的なウルトラ右翼である。玉音放送をめぐる内幕を描いた「日本の一番長い日」でも、阿南陸軍大臣とともに、軍令部次長の彼に和平を阻止しようとする最右翼の役回りがあてがわれていた。

 私は見ていないが、鶴田浩二が演じる東映映画「ああ決戦航空隊」でも、彼は人情味のあるヒロイックで悲劇的な愛国主義者として美化して描かれているという。大西については批判する側も賛美する側も、彼を徹底抗戦を唱える最右翼の主戦派として捕らえている。

 ところが、角田和男さんは「修羅の翼」のなかで、これとは違った大西滝治郎像を提出している。彼もまた早期講和を望んでいて、特攻作戦を米内海軍大臣に進言したのも、じつは終戦工作の一貫としてだという。

 昭和19年11月、角田さんは特攻要員を連れてセブ基地からダバオ基地へ飛んだ。ダバオ基地の司令部に大西長官の使いとして小田原参謀が作戦指導にきており、基地司令官の上野少将を前にして、角田少尉に次のような話をしたという。

「ガダルカナル以来、日本は押されどおしで、一度として敵の反攻を食い止めたことがない。一度でいいから、敵をレイテから追い落とし、それを機会に講和に入れば、七三の条件でできる。敵七分、味方三分の割合である。具体的には満州事変の昔に帰ることだ。ここまで日本は追いつめられているのだ」

「その日本を守るためにも、特攻を行ってフィリピンを最後の戦場にしなければならない。このことは、大西長官一人の考えではない。東京を出発されるに際して、長官は米内海軍大臣と高松宮さまに状況を説明申し上げ、『私の真意に対し内諾をえた』とおっしゃっている。大臣と宮さまが賛成された以上、これは海軍の総意とみていいだろう」

「いま東京で講和のことを口にしたら、たちまち憲兵に捕らえられ、国賊として暗殺されてしまう。長官は死ぬことは恐れないが、戦争の後始末は早くつけなければならぬ、とおっしゃっている。宮さまといえども、講和の進言を陛下になさったとわかれば、命の保証はないような状況である。もし、このようなことになれば、陸海軍の抗争をきたし、強敵を前に内乱にもなりかねない。きわめてむずかしい問題であるが、これは陛下おん自らきめられるべきことであって、宮さまや大臣や軍令部総長の進言によるものであってはならぬ」

「大西長官の真意を話そう。特攻は九分九厘成功の見込みはない。これが成功するとおもうほど長官はバカではない。では、なぜ成功の見込みのない戦法を強行するのか。ここに信じていいことが二つある。

1、 万世一系の慈をもって国を統治されたまう天皇陛下は、この特攻のことを聞かれたならば、必ず戦争はやめろ、と仰せられるであろう。

2、 その結果が、たとえいかなる形の講和になろうとも、日本民族がまさに亡びんとするとき、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きになって、陛下自らのご仁心によって、戦争をやめさせられた、という歴史ののこる限り、5百年、一千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう。

 陛下自らのご意志によって、戦争をやめろと仰せられたならば、いかな陸軍でも、青年将校でも、したがわざるをえまい。これ以外に日本民族を救う方法があるだろうか。戦況は明日にでも講和したいところまできている。しかし、もしもこのことが万一外にもれて、将兵の士気に影響を与えては困る。最後まで、このことは知られてはまずい。敵をあざむくには、まず味方よりせよ、ということわざにもあるように、味方からだましていかねばならぬ。

 大西長官はわしに向かって『参謀長、ほかに日本を救う道があるだろうか。あれば、わしは参謀長のいうことを聞こう』といわれた。わしは、わかりました。とうなずくほかなかった。
長官は『ほかの参謀はわしがおさえる』とまでいわれた。これが、特攻の意味だ」

 フィリピンの海軍航空部隊が全滅すれば、さすがの天皇陛下も、講和の意思を固められるのではないか、これが特攻作戦の隠された意図であり、大西中将の意図だという。小田原参のこの言葉は意表をつくもので、俄には信じがたい。

 小田原参謀によって語られた大西中将の言葉はどこまで本当だろうか。角田氏は小田原参謀の話を聞いていた唯一の生存者であるダバオ基地司令官の上野少将に確認を求めたが、彼は旧軍人らしく黙して語らなかったという。上野少将は特攻作戦そのものに反対で、小田原参謀も彼を説得するためにこんな長広舌を振るったようだ。

 特攻作戦にこうした終戦工作に向けた意図があったかどうか、私はこれもまた特攻の一面ではなかったかと思っている。こうした一面が当初にあったからこそ、和戦派の米内海軍大臣も了解したのだろう。しかし、こうした意味での特攻はレイテ作戦の失敗で完全に破綻した。

 天皇は特攻作戦について戦況を奏上した米内海軍大臣に、「そのようにまでせねばならなかったか。まことに遺憾であるが、しかし、よくやった」と答えている。及川軍令部総長には、「まことによくやった。攻撃隊員に関しては、まことに哀惜に堪えない」と言われたが、天皇から、「早く和平を考慮するように」との言葉はなかった。

 栗田艦隊がレイテに突入して「捷一号作戦」が成功していれば、あるいは和平のチャンスが訪れたかもしれない。しかし、これもかなり困難を伴ったことだろう。当時の状況の中で戦争を終わらすことはなかなか難しかった。

 やがて絶望的な戦局のなかで、ますます特攻精神が強調されるようになる。たとえ特攻作戦が戦争終結の秘策であったにせよ、皮肉なことにそれは「一億総特攻」「一億玉砕」という過激なスローガンを生みだし、国民感情を煽り立てて、戦争終結の大きな妨害となったわけだ。

http://www.warbirds.jp/senri/23ura/39/genten.html


2005年10月28日(金) 特攻の意味

 1944年10月21日、にレイテ湾で始まった戦闘機による「特攻攻撃」は、このあと終戦まで続く。小型空母を轟沈するなど、出足は好調だったが、やがてアメリカもこれに警戒するようになり、ほとんど戦果はあがらなくなる。

 戦後アメリカが公表した数字によれば、特攻機による艦船の損害は沈没48、破損310だという。沈没した艦船のうちわけを見ると、小型空母1、護衛空母2,駆逐艦13、その他の小艦艇8,輸送用艦船24である。これはアメリカ艦隊の規模からすると、たいして深刻な被害ではない。

 これにくらべて、特攻によって失われた戦闘機は2891機以上にのぼり、戦死者は3724名以上である。戦果と比べたとき、その犠牲はあまりにも大きい。客観的にみて、特攻攻撃が合理的な戦術であったかどうか疑われる。

 特攻による命中率は18パーセントだったという。これはマレー沖海戦での通常の爆撃機による命中率が40パーセントを超えていたことからみても、それほど高い数字ではない。命中率だけみても、練達の急降下爆撃機にはるかに及ばなかった。

 その理由は、特攻に選ばれたのが20歳前後のまだ戦闘経験に乏しい若者達だったからだ。特攻隊員の多くは操縦年数が1〜2年、飛行時間300〜600時間で、なかには200時間ほどで投入された若者もいた。

 それではなぜ、このような無謀ともいえる特攻作戦が敢行されたのだろう。当時、戦闘力を持つには操縦年数5年以上、飛行時間2000時間以上の経験が必要だといわれていた。しかし、戦況が逼迫するなか、日本軍にはもはやそれだけの時間がなかった。

 単独飛行がやっとという隊員でも出撃しなければならない。こうした未熟な隊員でも何とか戦果が上げられるような戦法を考えたとき、第一航空艦司令長官だった大西滝治郎中将の達した結論が、「もはや体当たりしか方法がない」という「特攻戦術」だったわけだ。

 しかしそうした苦しい台所事情は隠されて、あるいは隠すために、捨て身の特攻戦術は、日本軍人精神の優秀さを示すものとして宣伝された。こうして特攻隊員に負けずにお国のために命を投げ出して戦うべしという「一億総特攻」の宣伝が日本全土に行き渡った。そうなると、特攻隊に要求されるのは、もはや戦果だけではなくなった。お国のために潔く死んでいく姿が何よりも大切になる。

 特攻隊とともに何度も出撃し、自らも特攻隊としての経歴をもつことになる当時海軍少尉の角田和男さんは、「戦果はどうでもよい。死ぬことが大切なのだ」と上官が特攻隊員に訓示する現場を見ている。こうした風潮を、特別攻撃隊生みの親の大西中将はどう見ていたのだろうか。

 角田和男さんは「修羅の翼」のなかで、大西滝治郎中将の真意は別にあったのではないかと書いている。特攻の意味は戦争を終わらせ、アメリカと講和を進めるためだというのだ。戦意高揚のためではなく、その真意は「終戦工作」だというのである。

 これは通説とは180度違っていて、俄には信じがたい説である。しかし、読み返しているうちに、こうした仮説に立つと、レイテ沖海戦をはじめ、日本海軍の行った様々な作戦の謎が解けそうな気がして、これもまた考慮に値する説だと思うようになった。その理由を明日の日記に書いてみよう。


2005年10月27日(木) 一億総特攻の精神

 レイテ島はセブ島のとなりにある。セブに滞在中、私はゼブ基地から飛び立った特攻機や、レイテ島で喫した日本海軍の敗北についてしばしば考えた。日本に帰ってからも、昭和の歴史 太平洋戦争」(小学館)を読み返しながら、いろいろと考えた。

 レイテ戦や特攻についてインターネットで検索したり、新たに何冊かの本を手にしたが、なかでも印象に残っているのは、私が参加しているメーリングリスト「戦争を語り継ぐ」の管理責任者である西羽さんから教示していただいた「修羅の翼 零戦特攻隊員の真情」(光文社)である。

http://denkaisui.com/tubuyaki2/index618.html

 これは元海軍中尉で特攻隊員だった角田和男さんの体験記である。角田さんは昭和9年15歳で予科練習生として入隊。中国戦線、ラバウル、硫黄島、フィリピン、台湾で熾烈な戦いを経験した。フィリピンのセブ基地にも滞在し、とくに特攻隊の直掩任務(現場まで護衛し、戦果を報告する任務)にあたり、多くの隊員の最期を見届けた。そして自らも特攻隊員となったが奇跡的に生き残り、台湾で敗戦を迎えている。

 この「修羅の翼」には特攻隊の生みの親である大西中将の副官であった門司氏も序文を寄せてる。そこでも触れられているが、この本の大きな特徴は、死んでいった夥しい戦友たち一人一人の日常にまでたちいたった細かい記述であろう。作者自身が自分の目で見たこと、耳で聞いたこと、肌で感じたことをありのまま語ることで、死んでいった戦友達への鎮魂になりえている。

 たとえば、ある特攻隊員が役目を果たさず、爆弾だけ投下して帰ってきた。上官に叱られた彼は、今死ぬと2階級特進しても少尉になれない。あとしばらくで昇進があるので、それから死んで将校になりたい。それが自分が故郷の父母に尽くせるせめてもの孝養だという。これに対して、上官も口をつぐんだという。こういう何気ないところに私はリアリティを感じた。

 また、桟橋に特攻せよという命令に対して、「それはできない。せめて敵の巡洋艦にでもあたらせてくれ」という隊員にたいし、上官は「戦果はどうでもよい。死ぬことが大切なのだ」と諭すところがある。これには驚いた。

 1944年10月20日、マッカーサー率いるアメリカ軍はフィリピンのレイテ島に上陸した。日本軍はこれを叩くべく作戦を発動していた。どんな作戦かというと、連合艦隊のうちの小沢艦隊が囮となって敵艦隊を北に吊り上げ、そのさなかに栗田健男提督の主力艦隊がボルネオを発してレイテ北側の海峡を抜け、レイテ湾に突入するという作戦だった。作戦に参加した日本海軍の構成を「日本の歴史」から引用しよう。

(1)栗田艦隊 大和・武蔵以下戦艦5、重巡10、軽巡2、駆逐艦15
(2)小沢艦隊 瑞鶴、瑞鳳など空母4、日向、伊瀬の航空戦艦2、軽巡3、駆逐艦8
(3)西村艦隊 山城、扶桑の戦艦2、重巡1,駆逐艦4
(4)志摩艦隊 重巡2,軽巡1、駆逐艦4

 この栗田艦隊突入を助けるため、神風特攻隊が編成された。ゼロ戦に250キロ爆弾を搭載して、体当たりで空母に突撃するというものだった。これは海軍航空部隊の司令官大西滝治郎中将の発案である。

 このとき神風特攻隊はそれなりの戦果をあげている。わずか数時間の攻撃で、神風機3機がアメリカの護衛空母二艦の甲板を破り、さらに5機が空母に体当たりして炎上沈没させたという。

 しかし全体的にみればレイテ沖開戦は日本軍の惨憺たる大敗北だった。沈没したものだけで、戦艦3,航空母艦4,重巡6,軽3,駆逐艦8,潜水艦6で合計30にものぼる。まさに壊滅的な打撃である。これにたいして、アメリカの被害は、小型空母1,護衛空母2,駆逐艦3、魚雷艇1,潜水艦1の8隻に過ぎない。

 栗田艦隊の武蔵は一度も砲門をひらくことなく轟沈し、自慢の大和の巨砲も役に立たなかった。囮の小沢艦隊はハルゼー麾下の大艦隊を北に引きつけてチャンスを作ったが、栗田中将は反転を繰り返し、結局はレイテ湾に突入せず、みすみすレイテ湾に集結した敵の輸送船団敵に打撃を与える千載一遇のチャンスを逸した。

 この結果、囮になって空母4隻とともに全滅した小沢艦隊はまったくの犬死になってしまった。それどころか、レイテに残された8万余の陸軍部隊が孤立し、7万9千人が戦死するという悲惨な結末を余儀なくされた。さらに陸軍部隊の玉砕は民間人をまきこみフイリピン諸島全体に及んでいく。これは日本海軍の大失態だが、なぜだかこのことで栗田中将はじめ誰も責任を追及されなかった。またこの決定的な敗戦は国民に知らされることもなかった。

 レイテ海戦については、ミッドウェー海戦とともに多数の本で取り上げられたいるが、ほとんどの著者が栗田艦隊の反転については疑問を投げかけている。栗田は戦後になっても沈黙を守り、他の関係者も口を閉ざす中で、これはいまだに歴史の謎であるが、「日本の歴史」は栗田艦隊反転の理由を一応次の二つに整理している。

(1)出撃した4つの日本艦隊とのあいだの無線連絡がきわめて悪く、不正確な情報や誤報に悩まされたこと。

(2)栗田長官らが敵の輸送船団と主力艦隊のどちらを撃滅目標にするかについて、明確な認識を欠いていたこと。

 とくに深刻なのは(2)であろう。栗田艦隊は出撃するときから、レイテ湾突入に懐疑的だった。敵の主力艦隊と一戦交えたいという気持が強く、「本件は最早能否を超越し国運を賭して断行せられるもの」(大本営)という意志のもとに作戦本部が立案したこの作戦に終始否定的で、中央と意志疎通を欠き、溝が埋まらないまま出撃している。

 これが(1)の無線連絡の不備の中で、「敵主力艦隊現れる」という誤報の電報に惑わされ、任務を放棄して反転することに繋がったと見るのが妥当だろう。海軍中枢部のこの作戦に賭ける思いを、栗田とその幕僚はついに共有できなかかったわけだ。

 この敗戦によって、日本海軍はもはやほとんど手足をもがれた無力な存在となった。これを境にアメリカは日本海周辺の制海権と制空権を握り、やがてサイパン島を発したB29が日本本土襲撃を始め、東京も11月24日には初空襲に見舞われている。

 こうした中で、特攻攻撃は継続された。そしてやがて「一億総特攻」という言葉まで生み出されていく。いったい特攻とは何であったのか。特攻隊の上官が口にしたという「戦果はどうでもよい。死ぬことが大切なのだ」という意味は何か。これについて、角田和男さんは、「修羅の翼」のなかで貴重な証言をしている。明日の日記で紹介しよう。


2005年10月26日(水) ゲイが多いフイリピン

 8人クラスで、週末の報告をしたとき、韓国人のボブが「マッサージ」に行って、とんどもない目にあった話をした。マッサージをしてくれたのはフイリピン人の中年の男性で、その男性があろうことかボブのトランクスまで脱がせて、あらぬところをマッサージされてしまったという。

 私たちは半分笑いながら、ボブに同情した。レベッカによればそういうときには「I don't need any special service .」と言えばよいそうである。こうしたことが、フイリピンではたまにあるようだ。この話を日本人学生のシロウにすると、「フイリピンはゲイが多いのではないか」という。

 実はシロウのマンツーマン・ティーチャーもゲイなのだという。最初はてっきり女性だと思っていたが、「恋人はいるのか」とかいろいろ聞いてくるのでおかしいと思って、よく観察するとどうやら男だった。彼に気があるようで困っているという。

「それはたいへんだ。学校に言って、先生をかえてもらえばよい」と私がいうと、「それはできそうもない」という。彼はとてもやさしく、熱心に英語を教えてくれる。ゲイだという理由だけで先生を替えることはできないし、だいいち、そんなことをしたら彼が傷つくだろう。そんなことはできない、ということだった。

 他にも見かけは男性だが、ゲイっぽいフイリピン男性の教師がいるらしい。日本だったら苦情が出て解雇されるかも知れないが、こうしてゲイを許容するのも文化のちがいだろうか。私は彼の話をききながら自分の狭量さを少し反省した。

 ボブの話を聞いていたのでマッサージに行くのが心配だったが、ディプロマットホテルから歩いて10分のところに、「ZEN」という少し料金が高いが安全なマッサージがあるということを日本人女性のよしみさんから聞いた。

 高いと言っても1時間10分のコースで250ペソ(500円)である。若いフイリピン女性に個室に案内され、トランクスと浴衣に着替えてベッドの上に寝ると、その女性がオイルを塗りながら全身をマッサージしてくれた。彼女になら特別サービスをうけてもよいと思ったが、もちそんそんないかがわしいサービスがあるわけはない。

 部屋は少し薄暗く、適度な冷房が利いている。さらに嬉しかったことは、バックグラウンドミュージックが、世界で一番美しいといわれる「サラ」だった。フイリピンで彼女の天使のような歌声をきこうとは思わなかった。オリエンタルな魅力をたたえたサラの癒しに満ちた歌声を聴きながらのマッサージは最高だった。これで一気にリラックスできた。

 ZENには毎日でも通いたかったが、とうとうこれが最初で最後になってしまった。連日飲み会や会合があり、授業の予習などに追われて、足を向けるゆとりがなかったのだ。来年、セブに行ったら、またZENでマッサージをしてもらおうと思っている。BGMはサラの歌声であってほしい。


2005年10月25日(火) たのしい8人クラス

 CPILSの授業は、マンツーマン・クラス、4人クラス、8人クラスの3つのタイプに分類される。マンツーマン・クラスと4人クラスの先生はフイリピン人で、8人クラスはアメリカ人やカナダ人などのネイティブが担当している。

 オリエンテーションテストで成績が「1」と認定された生徒は、8人クラスに出席できない。さいわい私は「3」の評価なので、8人クラスに参加することができた。日本人は新入生の私とあずみの他、前からいるケンとマサヒコの4人で、韓国人の生徒は、アンジェラ、センディ、ボブ、ミキの4人だった。

 先生はレベッカというオーストラリア人の女性である。独身で年齢は20歳代後半ではないだろうか。笑顔の素敵な愛嬌のある白人女性だった。家族の写真を何枚か見せて貰ったがお父さんは牧師だが、とても温かく自由な家庭で、兄弟や姉妹もそれぞれ個性的なキャラクターのようだった。

 レベッカはフイリピンに来るまえは韓国の高校で教えていたという。日本に旅行したこともあるそうだ。必ず授業の最初に一人一人に声を掛け、「How are you? 」と様子を訊いてくる。休み明けにはもっとくわしくどんなことをして過ごしたか、一人一人に語らせ、自分も楽しそうに話してくれた。

 この先生のもとでクラスの雰囲気は伸び伸びとしてとても明るかった。映画をDVDで見ながら、登場人物のセリフの意味をみんなで考える授業が多かったが、これには私をはじめ多くの学生がなかなか答えられなかった。一番よく答えていたのはあずみで、彼女はたくさんの映画を原語で見ているようだった。そのうえカナダ人の恋人がいたから恋愛の機微にも通じているらしい。

 ビートルズの歌を聴いていて、「head in the hands 」という表現が出てきたとき、レベッカがどんな状態か身振りで示してみなさいというが誰もわからない。私が「It's very difficult」と言いながら両手で頭を抱えると、レベッカは「Shin、Right ! Very Good!」と誉めてくれた。これはとてもうれしかった。

 印象に残っているのは、「嘘つきコンテスト」の授業だ。これは8人が自分を紹介する3つの文章を作りみんなの前で発表する。ただし、3つのうち一つは嘘である。これを聞いて、残りの8人(レベッカも参加)は本人に質問を浴びせかけ、何番目の文章が嘘かを各自が判定するわけだ。私が作った3つの文章を紹介しよう。

(1)I have three hauses in Japan.
(2)I use the internet every day
(3)I have never said " I love you" to others.

 どういう訳か、大半の人が(1)が嘘だと見破った。(3)については、「それでは奥さんになんと言って愛を告白したのか」という質問がでて、はじめのうちは信じられないという反応が多かった。とくにレベッカが大変驚いていた。

 欧米では毎日のように「 I love you」を口にする。フイリピンでも同様のようだ。韓国と日本の学生に意見を聞いていたが、やはり日常的にはそれほど口にしないという人が多かった。しかし、一度も口にしないというのは理解できないという意見が大半を占めた。

「Shinは奥さんや娘さんを愛していないのか」と聞くので、「もちろん愛している。そんなこと口にしなくても、心と心で通じる。言葉は問題ではない」と答えた。これでこの問題に一応決着がついた。

 もっとも最近は私もときどき妻に抱きついて「愛しているよ」と口にする。妻は薄気味悪そうにしているし、大学生の娘にこれをしようとすると、「もう、おとうさんあっちに行って」と嫌われる。なかなかフイリピン流にできそうもない。


2005年10月24日(月) 心の写真館

 セブ留学を前にして、デジタルカメラを買った。これでセブの街の様子や人々を写すつもりだった。そしてHPに「セブ写真館」を開設しようと思った。とくに私が撮りたかったのは、子供たちの表情である。

 ところがデジタルカメラはすぐに作動しなくなった。電池を入れ替えたが反応がないので、故障したのだと思ってあきらめた。実はセブに来てすぐに私はカメラを路上で落としている。これが原因で壊れたと思い込んでしまった。

 実際はセブを離れる前日になって電池切れだったことが分かった。日本からもってきた交換用の電池がすでに使い古しの電池だったのだ。こうした不手際のため「セブ写真館」開設は夢と消えたが、そのかわり私は肉眼で見たものを脳裏にしっかり刻み込み、記憶しようと心がけた。今も目を閉じればさまざまなシーンがあざやかに蘇ってくる。

 9月のセブは雨季だったが、晴れの日が多かった。ただ、毎日のように短期間の降雨があった。学校からの帰り、バスの車窓から外を見ていると、にわか雨になった。そうすると家の中から子供たちが裸で走り出してきた。何のことはない天然シャワーである。こうした光景は何だか見ていてほほえましかった。カメラがあればシャッターを押していただろう。

 革靴を穿いて街を歩いていると、子供たちが手を差し出してよってきた。上半身裸の貧しい少年や少女たちだった。私は「I have no money.」と言って何も与えなかったが、子供たちがよってくるのは私が一見して地元の人々よりもいい身なりをしていたからだ。

 そこで安物のアロハシャツとサンダルを買った。長ズボンは止めて、パジャマ用にもってきた使い古しの半ズボンを穿いて外を歩いた。日本ではとてもできない服装だったが、これでようやく現地に溶け込むことができた。

 ラフな服装になれると、これがかえって居心地がよくなり、学校にもこのスタイルで通った。服装を替えると、心も変わるのか、とても自由で開放的な気持になった。他人と自分の垣根が取り払われたようで、人あたりもよくなり、表情もやわらかくなったようだ。これでまた多くの友人を得ることができた。

 CILSでは各教室の先生の他に、アドバイサーの教師がついた。私のアドバイサー教師はジェニリンという独身のフイリピン女性で、小柄な可愛い人だった。ある日、プールのある中庭を歩いていると、むこうからジェニリンが「Hi、Shin」とにこやかに近づいてきた。

 私は咄嗟に名前が出てこなかったので、「Oh My Daughter」と言って、彼女を胸の中に抱き寄せた。他の学生達が見守る中で、少し大胆だったが、気恥ずかしくもなくこんなスキンシップが自然にできた。日本でこれをすればセクハラだろう。しかしジェニリンともこれで余計に親密になることができた。

 あるときジェニリンは私にアメリカ人の白人の先生を紹介してくれた。「Nice to meet you」という型通りの挨拶の後、私は彼の巨体を眺めながら、「You are very big」と感嘆したように言った。ジェニリンは、「Shin, he is very powerful」といった。それから私も「powerful」という言葉をよく使うようになった。

 最後の授業が終わった後、私はジェニリンの部屋を訪れ、お別れに折り鶴をひとつプレゼントした。「この鳥がきっと君に幸せを運んでくれるよ」と言うと、ジェニリンはとても喜んで私のささやかなプレゼントを受け取ってくれた。クリスマスになったら日本にメールを送りたいというので、私のメールの住所を教えた。

 もしセブ写真館ができていたら、当然ジェニリンの写真も紹介できたはずだ。ジェニーやコリーン、それにオーストラリア人教師のレベッカもとてもフレンドリーで気立てのよい美しい女性だった。

 それからCPILSで知り合った韓国や日本人の学生たち。ゆみ、あずみ、よしみ、アンジェラ、ペトリ、みんなとてもやさしい表情をしていた。彼らの笑顔はセブ留学の記念として、私の心の写真館に飾ってある。


2005年10月23日(日) セブ留学中の宿泊と食事

 外国で生活する上で、一番心配なのは宿泊と食事であろう。セブでの私の宿泊先はディプロマットホテルだったが、これは日本の中級のホテルとほとんど変わなかった。バスルームに浴槽がなく、シャワーしか使えないことを除けば不満はなく、部屋も割合広く清潔だった。冷蔵庫やテレビや金庫もあり、生活するのに不便はなかった。

 一人部屋を要求すると、ツインの部屋を一人で使うことになる。ベッドが二つあるので、だれか友人を泊めることが出来そうだが、CIPLSの規則で決して異性を部屋に入れてはいけないことになっている。これを破ると退学らしい。

 私は知らずに部屋に若い女性を招待して、夜の10時過ぎまで一緒にビール飲んでしまった。しかもこれを不用意に他人にもらしたため、「shinは彼女とホテルの部屋で夜中まで飲んだんだって?」とフイリピン女性の先生にまで言われてしまった。もちろん、規則を知ってからは、この点は慎重に行動した。(規則がなくても慎重に行動すべきだった)

 宿泊所としてはホテルの他に学校の寮がある。というより、ほとんどの学生は寮に宿泊していた。寮と言っても学校と同じ建物の3,4,5階にある。学校はもとはハーバービューホテルという名前のホテルだったらしい。だからタクシーで学校に来るときには、CPILSではなくこのホテルの名前を言った方が通じる。

 寮に宿泊したほうが何かと便利である。しかし、私のような2,3週間の短期滞在者はふつうは寮に入れない。1ヶ月滞在者でも寮が一杯になるとホテルへまわされてくるようだ。寮には一人部屋、二人部屋、三人部屋などがあり、料金が少しずつ違っているが、ホテルに比べれば安い。そして長期滞在者にはかなり割引があるようだ。

 プライバシーを重視し、個人生活を楽しみたいと思ったらホテルの方がよい。学校とホテルを往復する無料のスクールバスが頻繁に出ているし、ディプロマットホテルから15分も歩けば、セブ市の中心街にあるロビンソンデパートに行くことができる。スーパーや飲食店、カジノもあり、生活や娯楽に困らない。隣のホテルのバーで一杯飲むこともできる。

 ホテルや学校には何人もの制服姿の警備員が詰めていた。ホテルの入り口や学校の入り口で私たちを送り迎えしながら親しげに声を掛けてくる。ホテルの裏口から出ようとすると、そこにも警備員がいて、いちいちドアをあけてくれた。仕事の割りに人が多いが、これも人件費の安いフイリピンだから可能なのだろう。

 食事は学校の食堂で三食を食べることができる。バイキング形式で、御飯かパンに、卵焼き、スパゲッティ、野菜炒め、野菜スープ、焼き豚、ウインナー、キムチの漬け物、フルーツなどが出た。メニューは毎日変わるが、味付けは基本的に韓国風である。

 御飯はときどきおかゆになったり、チャーハンになったりする。しかし、日本米になれている私の口にはあわない。韓国の学生に訊いたが、彼も「まずい」と言っていた。もともと粗食を信条とする私は不満をもらさず「おいしい」と言って食べたが、人によってはこの食事に慣れるのがむつかしいかもしれない。

 そういう人は夕食は外で食べればよい。アラヤセンターやSMマートには安い値段でおいしいタイ料理やステーキが食べられる店がいくらでもある。日本料理を食べたかったら「来来軒」へ行けばよい。私はロビンソンデパートの「来来軒」でラーメンを食べたが、ほとんど日本と変わらない味だった。フイリピンにいると、味噌や醤油の味がとても懐かしくなる。

 なお、フイリピンに来て、私はすぐに下痢になった。持参した胃薬をのみ二日間で治ったが、あとで訊くと、日本人のほとんどが下痢になるようだ。個人差はあるが、これもやがて治まるので心配はない。私の場合は、日本に帰ってきたからも二日間下痢になった。水が変わったせいかも知れない。


2005年10月22日(土) 海は死にますか

 マニラからセブまで、正味1時間ほどの空の旅だった。往きも帰りも私は窓ぎわの席で、顔を窓ガラスに寄せてフイリピンの空と海を眺めていた。往きは視力に障害があり、思うように見えなかったが、それでも片目を交互に閉じながら、休み休み眺めていた。

 青い空に白い入道雲の形がくっきりしていた。飛行機はときどきその雲に突入する。そうすると窓の外は乳白色になる。そして飛行機が気流のため揺れる。空を飛んでいるのだという実感が迫ってきた。

 ルソン島やミンダナオ島、レイテ島、セブ島、マクタン島、そのほか無数の島々の近くや上を飛行機で飛びながら、私は日本軍と連合国軍がこの地で激戦を繰り返していた60数年前のことを考えた。

 この空を零戦が飛び、アメリカの戦闘機が飛び交っていたのだろう。そんなことを考えていると、今にも入道雲の陰から戦闘機が飛びだしてきそうな気がする。そして私自身特攻隊の一員になったような気持で、緑の島影や青い海を見つめていた。

 セブ市に滞在中、ディプロマットホテルのロビーで、私は「セブ島通信」というセブ日本人会が発行する会報を見た。何気なく手にとって読んでいるうちに、松本重樹という方の「わたくし的八月のレクイエム」という文章に出あった。少し引用しよう。

<神風特攻隊は、二流の将軍マッカーサー率いる連合軍がセブ島の隣りレイテ島に上陸、それに対して、日本軍が劣勢を挽回しようとして企てた外道の戦法で、その心情的な面はともかく、勇名の割に効果は少なく、前途有為な若者を無駄死にさせた、無謀な作戦の一つである。

 昭和19年10月20日、ルソン島中部マバラカット基地を出撃した、関大尉の敷島隊を神風攻撃の嚆矢とする記述は多いが、実は同日にこのセブ基地と、ミンダナオ島ダバオ基地からも特攻隊が飛び立っている。

 この日は天候不順のため全隊の攻撃はならず帰還しているが、セブ基地から出た大和隊の加納中尉が単機レイテ湾に突入、戦果不明の特攻戦士第一号になった。

 同月25日、ようやく敷島隊の特攻が成功、関大尉異か6名が全軍布告の栄誉に浴すが、事実は違う。今ではどちらが早いの遅いのといっても意味はないが、同日ダバオ基地から発進した朝日隊異か三隊が、この敷島隊より早く最初の体当たりに成功している。

 セブ基地からの出撃は翌年1月3日、第30金剛隊の高島・井野中尉を最後とし、1月9日、ルソン島北部ツゲガラオ基地からの第24、25,26金剛隊の攻撃をもってフイリピンにおける神風特攻作戦は終焉を迎え、延べ202機、256人が散華した>

 松本さんの叔父さんはルソン島で終戦間近の8月1日に戦死したという。「金鵄勲章」をもらった歴戦の勇士で、松本さんが調べに訪れた靖国神社では叔父のことを誉め讃えられたが、「アジアの解放戦争などと、過ちを正当化する所からでは、嬉しくもなく、ありがたくもなかった」と書いている。

 今年の8月15日にはセブで「The Great Raid」という映画が封切られ、人気を呼んだという。日本軍の捕虜収容所から米兵を救出した事実に基づいた映画で、日本軍の暴虐ぶりが強烈に描かれていたという。

 松本さんはセブの映画館で見ていて思わず眼を伏せそうになったが、「事実は事実として後世に伝えなければならない」と思ったという。そしてアメリカ盲従の日本政府にたいして、「性懲りもなくいつか来た道を歩んでいる」と危惧してみえる。

 この松本さんの文章を読んでいたせいか、帰りの飛行機から見たフイリピンの海の青さや島の緑はよけいに印象的だった。ここに多くの人々が非業の死をとげ、今も眠っていることだろう。そう思って、胸のうちでそっと手をあわせた。鎮魂の意味も込めて、さだまさしの「防人の詩」から、歌詞をひいておこう。

  おしえてください
  この世に 生きとし生けるものの
  すべての生命に 限りがあるのならば
  海は死にますか 山は死にますか
  風はどうですか 空もそうですか
  おしえてください


2005年10月21日(金) 旅への憧れ

 毎朝木曽川のほとりを散歩をしながら、名鉄の赤い鉄橋を電車が走るのを見ている。その電車に乗ればセントレア空港にいける。そこから世界の空に旅立てる。そう思うと何だか胸騒ぎを覚える。

 先月の今頃、私はフイリピンのセブ島の語学学校で英語を学んでいた。このことについては日記に書き、「セブ島留学体験記」にまとめて「何でも研究室」におさめてある。

http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/cebu.htm

 これを読んで下さった方から先日メールをいただいた。奈良県で自動車関連の会社を経営している社長さんである。ぜひ、社員研修に使いたいので、申し込み方法を報せて下さいということだった。そこでこんなメールを返した。

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 社員教育の一環としてCPILS留学を考えていらっしゃるとのこと、すばらしいことだと思います。私の場合は2週間でしたが、最短が2週間で、あといくらでも長く留学できます。1ヶ月ならそれなりの成果が期待できるのではないでしょうか。

 費用は1ヶ月だと、季節にもよりますが、12万円くらいですみます。3食と宿泊代もふくめての費用ですから安いと思います。これに航空運賃などをふくめても、20万そこそこの値段です。

 詳しくは次のHPで確認なさってください。申し込みも、資料請求もここからできます。

http://www.eigo.cc/

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 私の日記を読んで、セブ島へ語学留学を考え始めた人が他にもいる。そのうちの一人は家内のお茶のみ友達のご主人で、詳しく知りたいというので、私が持っていた資料を渡した。夫婦で毎年海外旅行にも出かけているが、英語にもっと堪能になり、旅を楽しみたいということだった。ゼブの海にも心が惹かれたという。

 私もまた来年の夏にはセブ島へ行こうと思っている。できれば3週間ほど滞在し、あわせてダイビングの免許も取得したい。英語の勉強だけではなく、あのすばらしい海にまた潜れるかと思うと心がときめく。

 私は9月の旅行で使った20万円のうち、14万円は妻から借金をした。今月から毎月2万円ずつ小遣いから天引きされている。その上、来年の旅行のために貯金もしなければならない。酒も煙草も競馬やパチンコにも縁がない私だから、とくにお金はなくてもよいのだが、青春切符の旅や友人との旅行や会食ができなくなるのは残念だ。

「早朝の新聞配達でも始めるか」と半分冗談で言うと、「それもいいわね」と妻はあっさり賛成してくれた。私のお小遣いを上げようという親切心はない。「賞金かせぎに小説でも書くか」と言うと、これもあまり信用していないようだ。とにかく現在書いている小説をどこかに送ってみよう。宝くじよりは当たる確率が高いに違いない。

 あと二年もして次女が大学を卒業すると、扶養家族は妻だけになる。そうすれば、私の小遣いも上がるだろう。セブ島留学をあと2年ほど続けたら、オーストラリアに留学したい。そしてその先には「世界放浪の旅」と、次々に夢が膨らむ。

「なぜ旅ににあこがれるのか」と自問してみて、色々な答えが浮かぶが、本当のところは自分でもよくわからない。ただ、私の好きなエリック・ホッファーがこんなことを書いている。

<必要なものにあくせくしているあいだは、人間はまだ動物なのである。不必要なものや途方もないものを求めるときに、人間は、人間という独自な存在になる>

 人間という独自な存在とは何だろう。考え始めると難しいが、私にわかっているのは、私自身もふくめて、人間とは何とも不思議な、得体の知れない生き物だということだ。この得体の知れないところが、よくも悪くも「独自」なのかも知れない。


2005年10月20日(木) ジャーナリズムの惨状

 小泉首相が17日に靖国神社を参拝した。続いて100人近くの国会議員が参拝したという。これについて、新聞各紙は「産経」を除いていずれも批判的な社説を出している。韓国や中国もすかさず反応した。町村外相の中国訪問もとりやめになった。

 日本政府は「理解を求めていく」というが、これは順序が違う。理解を求めてから参拝するのが筋であろう。もっとも、これまでの経緯から見て、理解が得られるとは思えない。小泉首相もそのことが分かっているから、抜き打ちで強行したのだろう。

 靖国神社は過去の戦争を賛美し、戦死者を英雄として祭り上げている。そうした宗教的・政治的な施設へ、首相が参拝すること自体がおかしい。新聞各紙の靖国参拝批判にはこの観点が稀薄である。したがってほんとうの批判になっていない。おそらくそこまでラジカルに批判できない事情があったのだろう。

 朝日新聞の世論調査によると、小泉首相の靖国参拝を「よかった」と評価する人が42パーセントで、反対の41パーセントをわずかに上回っている。女性に限ると、「よかった」が46パーセントで、反対の36パーセントをかなり上まわっている。小泉人気のなせるわざともいえるが、私は問題の本質を見過ごし、真実を伝えようとしないジャーナリズムの批判精神の衰弱も大きいと思う。

 近隣諸国との友好を犠牲にしてまでなぜこうしたことを強行するのだろうか。小泉首相の考えはわからない。(おおよその推察はできるが)。しかし、これを是とする人たちの気持ちはわかる。外部の批判をものとせず我が道をゆく小泉首相は颯爽としていて、たのもしく見える。こうした毅然とした男性的な指導者を国民は待望している。

 今後こうしたナショナリズムがさらに増幅され、いさましい世論が幅をきかせることになりそうだ。42パーセントが60パーセントになれば、政治家はもとよりジャーナリズムも自分の立場をさらに軌道修正するだろう。戦前軍国主義に反対していた大新聞が、やがて軍部賛美に傾いていったのと同じシナリオである。

 さきの選挙で大勝した結果、小泉首相は政権基盤を盤石なものにした。やがて憲法が改正され、自衛隊が自衛軍とよばれることになるだろう。そうすると世界的に軍拡競争がはじまり、日本国の周辺でも紛争や戦争がはじまる。その先に待ちかまえているのが、どんな世界かほんの僅かでも想像力を働かせてみてほしい。

 さて、小泉首相の独裁的な権力を前にして、かろうじて当選した郵政民営化法案に反対した議員たちも、選挙後はたちまち自説をまげて小泉法案賛成にまわった。その弁解の言葉が「民意に従う」ということだった。このことを報じる新聞やテレビの良識を欠いた論調にも私はあきれるしかなかった。

 民主主義とはたんに「多数の意見に従うこと」ではない。ただ多数に従うというだけだったら、議会はいらない。ヒットラーが連発したように、国民投票をすればよいのである。そしてこれが実はファシズム(全体主義)の正体である。

 ファシズムといえば、ヒトラーや日本の軍部独裁を思い出す人も多いだろう。そのイメージは一部の独裁者が大勢の民衆を権力で押さえつける姿である。ところがこれはファシズムの本当の姿ではない。ファシズムとは大多数の民衆が少数者の人権を蹂躙することである。つまり多数決の論理は、民主主義の論理よりもファシズムの論理として働く。

 これに対して、「民衆の一人一人の意見を大切にすること」が民主主義の精神である。まず第一に議会は「少数者の意見を聞く場所」である。そしてそのうえで、少数意見を吟味し、多数意見のあやうさを克服することが大切である。こうしたプロセスをとおして、民主主義がまがりなりに実現される。

 今回野田聖子議員は当選後の記者会見で、「法案反対という政治的立場は完敗しました」と述べた。しかし、これはおかしい。彼女は少なくとも地元では勝利した。国会ではたとえ小数派になっても、彼女を支持してくれた人々の負託に答えるのが政治家の責任である。

 野田聖子をはじめてして、堀内光雄氏ら11名の無所属議員の人たちは「小泉郵政法案反対」を選挙区の有権者に訴え当選した。当選した直後、支持してくれた人々の民意を踏みにじることが、「民意に従う」行為だとはとてもいえない。これでは自己の保身のためだといわれてもしかたがない。政治家として、一人の人間として、とても恥ずかしいことである。

 この点、初心を貫いている国民新党の綿貫民輔、亀井静香、亀井久興、新党日本の滝実、無所属の野呂田芳成、平沼赳夫の6衆議院議員および荒井広幸、長谷川憲正両参議院議員はまだ見所がある。考えてみればこれがあたりまえなのだが、こうした良識が通用しないのが永田村の現状らしい。

 さて、私たちはこうした時代の中にあって、どうしたらよいのだろうか。答えは少し皮肉なことだが、ある意味で小泉流に似ている。自分の正しいと思うことを主張し、たとえそれが少数意見であっても気落ちしないことだ。小さな灯火でもよいから、掲げ続けよう。その明かりで自分の道を照らしながら歩いていこう。


2005年10月19日(水) 智慧のある老婆の話

 幼い頃、よく祖母に連れられて、お寺の講話をききに行った。家から歩いて15分のところに東本願寺があり、そこの大きな本堂で講話があった。

 当時はテレビもない時代だったから、お寺で講話を聴くことも楽しみの一つだった。お年寄りに混じって、私のような5,6歳の子供が講話を聴くのは珍しかったと思うが、私のお目当てはそのときいただけるお菓子だった。

 しかし、お菓子はすぐに食べてしまう。そうするといやでも長い講話をきかなければならない。本堂の仏様を見たり、天井を見上げたり、そして自分の想像の世界に遊んだりと、いろいろ気を紛らわせていたが、お坊さんの話も私の心に届いてきた。

 お坊さんの話は仏教の話だが、なにしろ相手が老婆やお菓子目当ての子供たちだから、やさしくかみ砕いて、面白い冗談を交えながらのお話だった。つまり落語のようなもので、子供でも聴いていてわからないことではない。

 そのとき聞いた話で、覚えているものがある。たとえば、お金を落とした老婆の話だ。ある老婆がお札を往来に落としてしまった。家に帰ってから気付いた老婆は暗い気持になって家人にあたりちらし、ますます心が荒んでいった。

 ところが別の老婆もお金を落としたが、彼女は清々しい笑顔だった。彼女は落としたお金が別の人に拾われるところを想像し、拾った人の喜ぶ顔を想像して、こんなふうに考えたからである。

「きっと私より貧しい人がひろってくれただろう。そうすればお金も私の手元にあるより値打ちがあることになる。落としたお金は潔く仏様にさしあげたと思うことにしよう。今日は思いがけずに善行ができてうれしいことだ。心におおきな財産をいただいた」

 彼女はお金を落として、かえって心が豊かになり、晴れ晴れとした。こころの持ち方、ものの考え方で、同じできごとが災いにもなれば、幸せの種にもなる。信心をするとそうした知恵がわいてきて、どんなことも心にしあわせをもたらしてくれるという話だった。

 それから50年近く生きて生きて、私は何度もお金をなくしたり、物をなくしたが、そのたびに、幼い頃に聴いたこの話を思い浮かべた。そして「仏様への喜捨」だと考えた賢明な老婆に学ぼうとした。そうすると不思議と、心が晴れ晴れとした。「智慧のある老婆」の話は、子供心にまで届いたとてもありがたい話だった。


2005年10月18日(火) 天災に対する備え

 台風や震災などの自然災害が世界中で頻発している。北パキスタンで起こった地震では3万人以上の犠牲者が出るのではないかといわれている。発生後、ニュースはすぐに世界に発信された。

 パキスタンはまだまだ発展途上の貧しい国だが、原爆を保有する大国である。ニュースの映像で見る限り、有効な救護活動がおこなわれたのかどうか疑問である。国や国際社会の救援活動の遅れも、こうした災害の被害を大きくしている。

 8月末にアメリカ合衆国南東部を襲ったハリケーン・カトリーナはニューオリンズの8割を水没させ、たくさんの犠牲者を出した。これについてもテレビで見たが、多くの被災者が孤立無援のまま放置されるなど、信じられないことが起こっていた。ビル・トッテンさんはこれは天災ではなく人災だとして、「温故知新」で、こう書いている。

<二〇〇二年、ニューオリンズの新聞はもし大きなハリケーンがきたら同市の約十万人の車を持たない貧困層の住民が特に危険にさらされると警告した。二〇〇〇年の米国の国勢調査によると同市の海面より低い地区に住む住民の36・4%は貧困層であった。米国の貧困層の定義は、四人家族で年収が一万九千三百七ドル(約二百十万円)、二人家族で一万二千三百三十四ドル(百三十五万円)以下である。

 もし日本で公共の交通機関や国民健康保険がなければ、四人家族で二百十万円の年収で暮らすことができるだろうか。または日本にはそれに相当する人々はどれくらいいるのだろうか。米国には三千七百万人、人口の12・7%が貧困層以下で暮らしており、カトリーナの犠牲者もほとんどがそうであった。

 ハリケーン直撃の翌日ブッシュはゴルフをしていた。テレビに出たのは三日後、被災地訪問は五日後だった。米国の各州に自衛隊のようなナショナルガードと呼ばれる州兵がいて国内の緊急時に人々を保護し、支援することを使命としている。しかしルイジアナとミシシッピの兵士の三分の一はイラクへ派兵されていた。

 少ない兵士による援助の中心も、貧困層の命を救うことではなく富裕層の家屋を守ることだった。そして治安が悪化すると、知事は略奪や暴力に加わった人を射殺するよう州兵に命じたという。イラクという戦場から戻った州兵は、ルイジアナ州で階級戦争という新たな戦闘に参加したのである。州兵のほとんどは貧しい階層の出身者である。つまり州兵は自分の国で、自分たちの仲間に対して銃を向けることになったのである>

 実はカトリーナに負けないくらいの大型ハリケーンが去年の9月にキューバを直撃している。過去半世紀で最大だというこのハリケーンにそなえて、1500万人以上の国民が高地に非難した。このため、二万所帯が破壊されたが、死者は一人も出なかったという。もちろん、略奪や暴力、放火もなく、戒厳令が出ることもなかった。これについて、ビル・トッテンさんはこう書いている。

<キューバは綿密に計画された避難警告システムを持ち、地域住民の避難に際して誰が手助けがいるのかが明記された資料があり、避難シェルターには近隣のかかりつけの医師が配置され、例えば誰がインシュリンを必要としているのかといった情報まで配布されていた。医師であってもわれ先にと自分の車で安全なホテルへ避難するのではなく、近所の人々と一緒にシェルターへ移動するのがキューバ流のやり方だったのだ。

 ハリケーンや地震のような自然災害は個人ではどうすることもできない。豊かで自由な市場経済でありながら多くの死者を出した米国と、その米国に経済制裁を科せられている貧しいキューバの状況は、自然災害の多い日本でわれわれがどちらの道を選択したいか、選択すべきかを考えるよい事例である。・・・

 地震や台風がくれば自分の家だけでなく高齢者を気遣う、そのような行動は今日、明日で身に付くものではない。祖父母や両親の姿を見て、そのDNAの中に助け合いや共存共栄が染み込んでいたのが少し前の日本人だったように思う。よく「島国根性」などといって悪い面ばかりを指摘するが、米国についてはすべてを美化し、悪い部分を見ないようにしていることに気付くべきである>

<今回の米国のハリケーンで露呈したことは、国を動かしている一部の富裕層が政治家をも動かして自分たちの利益になるように奉仕させているということである。一般の国民を支援するためには税金を使わせたくない、だから社会投資はなるべく少なくする。富裕層は金があるから国に頼らなくても自分を守ることができるから公共交通機関のような社会インフラなど米国には不要なのだ。

 それだけではない。自分の子弟は私立に行かせるので公立学校への予算削減を主張する。高額な民間の保険に入れる自分たちには国が提供するメディケアなどの国民健康保険もなくしたい。民間のガードマンを雇えるから警察さえ少なくしようとしているのが米国である。

 こうしてすべてを民営化、私有化して社会投資を少なくしたい。社会的弱者に使われるお金はなるべく少なくしたい。避難命令を出したのだから、被災したのは自己責任だというのが米国政府の基本態度である。おそらく今ブッシュ政権がもくろんでいるのは被災地の復興作業でどうやって企業をもうけさせるかであろう。小さい政府、民営化、自己責任の社会。それが日本があがめる米国である>

 ニューオリンズはその大部分が海面下にある。そこで人々は堤防を築き、海と市街地を隔てる湿地帯を守ることで災害に備えてきた。しかし、政府はテロ対策、イラク戦争に資金をまわし、ハリケーン対策である堤防建築の予算を44%も削減した。そして、企業が湿地帯の大部分を破壊し、貪欲な利益追及をすることを許した。

 政府は避難勧告を出したが、鉄道などの公共交通機関は存在せず、しかも車も持たない多くの貧しい人々にとって、避難勧告はどれほどの効果ももたなかった。こうして多くの住民が危険地帯に取り残され、何千人という人命が奪われることになった。ハリケーンはこうして超大国アメリカの意外なもろさを世界に認識させた。

 少し前まで、日本でもちまたには「民営化」や「自己責任」のスローガンがあふれていた。私は国民を幸せにする「民営化」にも「自己責任」にも賛成である。しかし、アメリカ型の金持ち優先の「民営化」や「自己責任」には反対だ。それがどんな殺伐とした社会をもたらすか、アメリカを見ればよい。

 私が幼い頃地震があったとき、となりのおじさんがパンツ一枚でわが家に飛び込んできた。グラリときて、咄嗟に思い浮かんだのが、隣の家の幼い子供たちだったのだ。当時日本はまだ貧しかったが、人と人が助け合って生きていた。そうした心の通じ合いが、防災の基本ではないだろうか。

 こうした人と人の繋がりを大切に育てていきたい。災害に対する最大の備えは地域の人々の心の和だと思うからだ。地域の住民が心を許しあって暮らせる社会、そうした本当の意味でゆたかな社会をつくるために、そもそも政治があり、政府が存在するのである。


2005年10月17日(月) 色即是空の哲学

 この世が無常であること、すなわち「色即是空」を説いた仏教者はたくさんいる。法然や親鸞、道元などはその偉大な代表者だ。しかし、「空即是色」を力強く説いた仏教者は少ない。私は一遍上人はその先覚者であり、西行や芭蕉、良寛は「空即是色」の達人ではないかと思っている。

「色即是空」という言葉は、般若心経に出てくるが、「この世に生じるすべての出来事は、お互いに関連しあって起こっていて、そのもの自体には永遠に変わらない実体はない」という意味だ。たとえていえば、風によって水面にできるさざ波のようなもの。たまゆらそこに存在するが、やがて消えてなくなる。森羅万象をこのように、水の表面に生じるさざ波や泡沫のようなものとしてとらえるのが「空」の思想だ。

 平家物語の「驕れる者も久しからず」という「諸行無常」の考え方もここから出てきた。こうした考え方を体系的に展開したのは、2世紀頃に活躍したインドの龍樹(ナガールジュナ)という人である。私は読んだことがないが、彼の書いた「中論」という本に詳しくかいてあるそうだ。

 釈尊が死んだ後、教団の内部は二つの派に別れた。ひとつは今日小乗仏教といわれる教壇のエリート集団に属するひとたちで、もう一つは今日大乗仏教といわれる在家を中心とした信者の集団だ。後者の大乗仏教派の人たちが作りだし、拠り所にしたのが「般若経」であり、そこに説かれている「空」の思想だった。龍樹はこれを「縁起」「無我」という立場から理論的に体系づけた。

 森羅万象のなかには人間も含まれる。デカルトは「我思う、故に我あり」という名言を吐き、近代科学と哲学の父と呼ばれているが、「空」の考え方に立てば、「我」を実体とみたデカルトの哲学は誤りだ。自己が他者から独立して存在するというのは幻想に過ぎない。

 自己が存在しないとすれば、我執もおこりようがない。我執が生じなければ、偏見や妄想もなくなり、人生の苦しみもなくなる。こうして人間はあらゆる幻想や欲望から解放される。これが大乗仏教でいう悟り(無心)だ。

 しかし、般若心経では「色即是空」のあとに「空即是色」と続く。一旦否定された「色」が「空」を通り抜けて再び蘇る。たとえば兼好法師は「徒然草」のなかで「世はさだめなきこそ、いみじけれ」(世は無常だが、無常なるが故に面白い)と書いている。同様のことを、ガリレオも「天文対話」で次のように書いている。

<私は大地はたえずさまざまな変遷や変化や生成などがあるからこそ、高貴でありみごとだと考えています。・・・不滅性や不変性といったものを称揚する人たちは、かみ砕いて言うなら、いつまでも生きつづけたいという願望や、いつかは死ぬという恐怖のためにそう言っているのだと思います>

 芥川龍之介や川端康成が「末期の眼」ということを書いているが、死を前にして自我が滅び去ったとき、人生の森羅万象がことのほか美しく見えてくるわけだ。それは我執という妄念のさざ波で曇っていた心の表面が静かになり、明鏡止水のようになって、そこに人生の実相がありありと写し出されるからだ。死を媒介にして見えてくる美しいこの世のありようが、すなわち「空即是色」だと言ってもよい。

 龍樹は「空」というのは単なる「虚無」ではないと説いている。それは「有」と「無」の間にあるものつまり「中」だ。そしてこの「中である空」からふたたびさまざまな現象が生み出されてくるわけだ。こううした大乗仏教の考え方が「中観」であり、我々はそれを「空の思想」という。

 龍樹の空の思想は、ニーチェの思想に非常に近い。ニーチェも又「神は死んだ」と宣言し、「虚無」からの創造を志した。私は10年ほど前に「人間を守るもの」を書いて、ハイデガーの思想も加味しながら、「空即是色」をこうした観点から考察したことがある。

http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/ninngen.htm

(補足1) 帰納と演繹

 科学の分野では、個々の現象から一般法則を導くことを「帰納」という。たとえばニュートンは個々の物体の運動を観察して「運動の法則」を導いた。

 ここで現象を「色」、法則を「空」と考えると、「色即是空」ということになる。科学の分野では、さらにこの法則を用いて、新しい発見をしたり発明や創造をしたりする。これが「演繹」とよばれるものだが、「空即是色」がこれにあたる。

 このように、仏教の「色即是空、空即是色」は「帰納と演繹」という関係で捕らえることもできる。私たちはただ「空」という悟りを手に入れるだけではなく、そこに安住しないで、その悟りを活用して、実りある人生を生きなければならない。

 小乗仏教は「色即是空」で完結した世界だ。大乗仏教はこれを批判した。僧侶はたんなる悟り澄ました覚者であってはならず、ツァラトゥストラが山を下りたように、市井にあって、衆生を済度することが大切なわけだ。こうした実践的な慈悲の精神が「空即是色」にこめられている。

(補足2) 場の理論

 ニュートンは光りを粒子だと考えていた。実体をもつ粒子が飛び交い、相互作用をしていると考えていた。これにたいして、現代物理学は光りを「波動」だととらえている。つまり「光子」という実体をもった物質があるのではなく、それを空間のなかにつくり出される波動だと考える。

 実は光子だけではなく、電子もその他の素粒子も、すべて「波動」であるというのが現代物理学の「場の量子論」考え方だ。こうした波を生み出す空間を「場」と呼んでいる。これが仏教でいう「空」に相当する。

 またアインシュタインは物質はすべて空間の歪みであり、この歪みの伝播が運動だと考えた。これが有名な相対性理論だ。釈迦はすべての現象の背後に、「縁起の法則」があり、これによって森羅万象が生起すると考えたが、現代物理学の二本柱である「場の理論」と「相対性理論」はこうした仏教の「空」の考え方と非常によく一致している。

(補足3) 0の発見

 数学で大切なのは「0」であり、「0」が発見されて、数学は大いに発展した。そして「0」を発見したのがインドの数学者だった。大乗仏教による「空」の思想も、「0」の発見とほとんど時を同じくしている。両者ともサンスクリットの原語は sunya であり、欠如という意味だ。

 しかし数字の「0」が単なる「欠如」ではないように、「空」もまた単なる「欠如」ではない。むしろこの「欠如」があって、あらゆるものが生み出されるわけだ。その意味で、「0」も「空」も創造の母胎だといえる。

(補足4) 基本姿勢

 私は卓球やテニスの顧問をしていたが、スポーツにおいてまずもって大切なのは「基本姿勢」である。この基本姿勢ができて、はじめて左右、前後への軽快なフットワークが可能になるからだ。

 ここで基本姿勢を「0」で表そう。そうするとフットワークの練習では、「0−右−0−左−0−前−0−後−0」という具合に、必ず「0」に戻す。決して「右−左−前−後」ではない。こうした「基本姿勢」を堅持することの大切さは剣道や柔道でも同じだ。運動の熟練者かどうかは、基本姿勢を見ただけでわかる。

 人間の心にも「基本姿勢」がある。それは思いこみや雑念を取り除いた静かな心だ。こうした心の状態を古人は「明鏡止水」などと言い表してきた。それは単なる「欠如」ではなく、自由闊達で伸び伸びとした心のありかたである。

 正しい判断をし、正しい行動をするためには、こうした心の原点にそのつど立ち戻らなくてはならない。そのために心をクリアして、清々しい「0」の状態にしなければならない。座禅を組んだり、瞑想をしたりするのも、心の基本姿勢を正すためだと考えられる。


2005年10月16日(日) 我が屍は野に捨てよ

 昨日はナディアパークにある名古屋市青少年文化センターに観劇に行ってきた。演劇グループ紙ふうせんの第八回公演である。友人の工藤さんが出演しているので、私は毎年この公演を見るのをたのしみにしている。

 今回は一遍上人の生涯を描いた「我が屍は野に捨てよ」という題目である。まずはパンフレットからそのあらすじを紹介文しよう。

<時は鎌倉時代、古い支配者(公家政権)が新しい支配者(武家政権)へと移行していった時代。一遍はそうした時代背景の中で生まれ育ち、生きたのでした。

 物語は一遍の33歳から、死の床に就く52歳までの人生を断片的に描きながら、一遍上人という一僧侶のストイックなまでの生き方、情熱、揺れ動く心や堅固な信念などにスポットを当てています>

 娘や妻を伴って、九州から東北まで全国を遊行して歩いた一遍上人。彼は結社を否定し、教団を残そうとはしなかった。著作さえ残していない。「葬儀はするな。屍は野に捨てよ」というのが彼の臨終の言葉だった。それでも彼についてはたくさんの逸話が残されている。岩波文庫の「一遍上人語録」から引用しよう。

<夫れ、念佛の行者用心のこと、示すべき由承り候。南無阿彌陀佛と申す外さらに用心もなく、此外に又示すべき安心もなし。諸々の智者達の樣々に立てをかるる法要どもの侍るも、皆誘惑に對したる假初の要文なり。されば念佛の行者は、かやうの事をも打ち捨てて念佛すべし。

 むかし、空也上人へ、ある人、念佛はいかが申すべきやと問ひければ、「捨ててこそ」とばかりにて、なにとも仰せられずと、西行法師の「撰集抄」に載せられたり。是れ誠に金言なり。念佛の行者は智慧をも愚癡をも捨て、善惡の境界をも捨て、貴賤高下の道理をも捨て、地獄をおそるる心をも捨て、極樂を願ふ心をも捨て、又諸宗の悟をも捨て、一切の事を捨てて申す念佛こそ、彌陀超世の本願に尤もかなひ候へ。

 かやうに打ちあげ打ちあげ唱ふれば、佛もなく我もなく、まして此内に兎角の道理もなし。善惡の境界、皆淨土なり。外に求むべからず。厭ふべからず。よろづ生きとし生けるもの、山河草木、吹く風、立つ浪の音までも、念佛ならずといふことなし。

 人ばかり超世の願に預るにあらず。またかくの如く愚老が申す事も意得にくく候はば、意得にくきにまかせて、愚老が申す事をも打ち捨て、何ともかともあてがひはからずして、本願に任せて念佛し給ふべし。

 念佛は安心して申すも、安心せずして申すも、他力超世の本願にたがふ事なし。彌陀の本願には缺けたる事もなく、餘れる事もなし。此外にさのみ何事をか用心して申すべき。ただ愚なる者の心に立ちかへりて念佛し給ふべし。南無阿彌陀佛>

 この中で、とくに私の好きなのが、「よろづ生きとし生けるもの、山河草木、吹く風、立つ浪の音までも、念佛ならずといふことなし」という言葉だ。これは実に美しい言葉だ。そしてじつにさわやかで深い宗教の境地ではないかと思う。私の好きな一遍上人のこの言葉は、劇の中でも使われていた。

 この劇で主役の一遍上人を力演していたのが、友人の工藤さんだった。工藤さんはカソリックの信者だが、昔一緒に仏教の市民講座に参加したこともある。良寛の本をプレゼントしたこともある。仏教にも深い関心を持っていたので、当たり役といえる。はじめての主役だったが、どっしりとした演技に渋みをまして、なかなかいい味を出していた。

 それにしても長いセリフである。60歳を超え、しかも腎臓を患い透析を受けながら、よくこの大役を演じたものだ。毎年、夏か秋に一緒に旅をしていたが、今年はまだ誘いがかからない。恐らく、セリフを覚えるのが大変で、それどころではなかったのだろう。公演が終わった後、彼と握手をして、「すばらしかったよ」と声を掛けた。

 ホールは満員だったが、そのなかに何人もの知人がいた。とくに私が所属していた「作家」の旧同人の人たちが多く、久しぶりに言葉を交わしてなつかしかった。じつはこの劇の作者が作家の同人だった桑原恭子さんである。私にとって幾重にも縁の深い公演だった。

 公演のあと、久しぶりに再会を祝して、作家の同人時代親しくしていた人たちと食事に行った。文学や宗教、そして恋愛について話題が盛り上がり、私も執筆中の短編小説の話をするなど、創作意欲を大いに刺激された。休日は夕食抜きという原則がまたもや破られたが、稔りの多い一日だった。


2005年10月15日(土) つうと与ひょう

 学校の文化祭でいつかやってみたいと思っている出し物がある。木下順二の「夕鶴」である。じつは私がセブで「The story of a beautiful crane」を書いたときも、念頭にあったのはこの戯曲である。「夕鶴」はこんな出だしで始まっている。

<一面の雪の中に、ぽつんと一軒、小さなあばらや、家のうしろには、赤い赤い夕焼け空が一ぱいに・・・>

 与ひょうは矢に射られて苦しんでいた鶴を助けた。その鶴が若い女のすがたをして家にやってくる。名前を「つう」という。彼女の織る布のおかげで与ひょうは金持ちになる。しかし、お金を手に入れた与ひょうはしだいに人間が変わってくる。つうはそんな与ひょうを見てかなしくてならない。

<与ひょう、あたしの大事な与ひょう。あんたはどうしたの? あんたはだんだん変わって行く。何だか分からないけれど、あたしとは別な世界の人間になって行ってしまう。あの、あたしには言葉も分からない人たち、いつかあたしを矢で射たような、あの恐ろしい人たちとおんなじになって行ってしまう。どうしたの? あんたは。どうすればいいの? あたしは。あたしは一体どうすればいいの>

 与ひょうにはこのつうの気持が伝わらない。与ひょうの頭の中にあるのは「お金」のことばかりだ。昔はそんな人間ではなかった。しかし、今では世間の拝金主義者とかわらない。こうして与ひょうはどんどん遠い人になってく。

<それでもいいの、あたしは。あんたが「おかね」が好きなのなら。だから、その好きな「おかね」がもうたくさんあるのだから、あとはあんたと二人きりで、この小さなうちの中で、静かに楽しく暮らしたいのよ。あんただけはほかの人とは違う人。あたしの世界の人。だからこの広い野原のまん中で、そっと二人だけの世界を作って、畠を耕したり子供たちと遊んだりしながらいつまでも生きていきたかったのに・・・・だのに何だか、あんたはあたしから離れていく。だんだん遠くなって行く。どうしたらいいの? ほんとうにあたしはどうしたらいいの?>

 金の亡者となり、与ひょうはますますつうから離れていく。「布を織れ。都さ行くだ。金儲けて来るだ」と迫る与ひょう。つうのかなしみは、ますます痛切なものになって行く。そして悲しみは絶望にかわる。

<分からない。あんたのいうことがなんにも分からない。さっきの人たちとおなじだわ。口の動くのが見えるだけ。声が聞こえるだけ。だけど何をいっているんだか・・・ああ、あんたは、あんたが、とうとうあんたがあの人たちの言葉を、あたしに分からない世界の言葉を話しだした・・・ああ、どうしよう。どうしよう。・・・ああ、だんだんあんたが遠くなっていく。遠くなっていく。小さくなっていく>

 つうは最後に、二枚の布を織り上げると、「二枚のうち一枚だけは、あんた、大切に取っておいてね。そのつもりで、心を籠めて織ったんだから」とそれを与ひょうにわたす。そして、心の中で与ひょうに別れを告げる。

<与ひょう、あたしを忘れないでね。あたしもあんたを忘れない。ほんの短い間だったけれど、あんたの本当に清い愛情に包まれて、毎日子供たちと唄をうたって遊んだ日のことを、あたしは決して決して忘れないわ。どんなところへ行っても・・・・いつまでも>

 つうを失った与ひょうは「つう・・・つう・・・」とつぶやき、そして言葉を失って立ちつくすしかない。愚かな与ひょう。しかし、私たちは与ひょうを笑うことができるだろうか。


2005年10月14日(金) 楽しい長屋暮らし


 小学生4年生の頃、私が住んでいたのは長屋の警察官官舎だった。他にも一戸建ての官舎はあったが、父が最下級の巡査の階級だったので、長屋の官舎になったのだろう。ちなみに父は退職するまで巡査のままだった。

 私の同級生には署長の息子がいた。父親同士は上下の関係だが、私たちの間にはいささかも上下関係はなかった。私は彼を山本君とよび、彼は私を橋本君と読んだ。いつも一緒に帰り、一緒に遊んだ。

 しかし、山本君は寄り道をして、私の家に上がり込み、おやつを食べていったりしたが、私が彼の家に上がったことは一度もなかった。あそびに行っても、門の外でいつも彼が出てくるのを待っていた。まして、おやつをもらったこともなかった。

 今から考えると、ずいぶん不平等だったように思うのだが、その頃は「彼のお父さんはえらい人だから」ということで納得していたようだ。そのことをとくに不平に思ったり、不愉快に思ったりしたことはない。

 長屋に住んでいて、そのことに引け目を感じたこともなかった。むしろ、長屋暮らしがとても楽しかった。隣には仲の良い一つ年下の「うしおちゃん」という少女が住んでいて、よく一緒にあそんだ。海水浴にも行ったし、長屋の五右衛門風呂にも一緒に入った。快活で気立ての良い女の子だった。

 母が後年、「小浜の長屋にいたころが一番楽しかった」と言ったことがあったが、それはこの長屋に住んでいた4家族の心がひとつに解け合っていたからだろう。同じ風呂釜に入り、料理を一緒に作ったり、分け合ったりした。

 あるとき、うしおちゃんと私と山本君が遊んでいて、夕暮れになった。「さようなら」と言って山本君が一人淋しそうに帰っていくのを見送りながら、「山本君はかわいそうだね」と思わず口にした。うしおちゃんが私の顔を見て、「私たちは一緒でよかったね」と言った。

 彼女の言葉や、快活な微笑みが、セピア色の記憶の底から蘇ってくる。久しぶりに自伝「幼年時代」を読み返しながら、うしおちゃんや山本君のことを思い出して、なんだかとても幸せな気持になった。

(参考)橋本裕自伝「幼年時代」
http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/younen.htm


2005年10月13日(木) アヒルの水かき

 私の職場に熱心な非常勤講師の先生がいる。とても教育熱心で、陽気で明るく、生徒の受けもよい。部活の試合があると、生徒に「応援に来てね」といわれて、顧問でもないのに、自腹を切って応援にかけつける。

 彼は私の学校だけではなく、他の学校にも非常勤講師をかけもちしていて、かなり忙しそうである。そして、毎年教員試験を受けるが、なかなか合格しない。今年も駄目だったようだ。職員室の黒板に、「いろいろ応援していただきましたが、今年も二次で落ちました。また来年、がんばります」と結果報告が書いてあった。

 私自身も教員採用試験では苦労をしている。愛知県の物理の教員の倍率は10倍を超えていた。愛知県だけではなく、千葉県や神奈川県も受けてみたが、いずれも狭き門で、軒並み不合格だった。

 物理の教員になるのは至難のことだが、数学科は採用人数が多いので、まだ倍率も4倍ちょっとだった。こうしたことは知っていたので、私は大学院に籍を置きながら学部の授業に出席し、学生達と一緒に試験も受けて、数学科の教員資格を取得した。翌年は数学で挑戦するしかないと思った。

 そして1年間、愛知県の県立高校で数学の非常勤講師をした。授業が終わってからも生徒の質問を受けたり、授業の合間に校庭の石拾いをしたり、そうしたことで実績をつくり、実力と熱意を校長や教頭、主任の先生方に認めてもらうべく献身した。

 そのせいで学校を出ると、もうくたくただった。金山駅で国鉄から地下鉄に乗り換えるとき、ストレス発散のためパチンコをした。そうすると非常勤講師の収入のかなりが消えてしまった。そのため食を切りつめ、耐乏生活が身についた。

 採用試験を前にして、教頭や教科主任の家を贈答品をかかえて回った。校長の家には福井から両親を呼んで、一緒に「どうかよろしくお願いします」と頭を下げた。事前に福井から豪勢な越前蟹を校長の自宅に送っておいた。こうしたことは私の主義に反することだが、就職のためにはしかたがないと割り切った。

 教員試験に合格したとき、同じく教員試験を受けて不合格だった大学院の先輩のひとりが、「君はいいね。才能もあるし、いろいろ恵まれているから」と言った。「そうでもないですよ。いろいろたいへんでした」と私は答えた。努力の内容について口を閉ざしたのは、私にもプライドがあったからだろう。

 私の学校に勤める非常勤の青年は、もっとほがらかで、「ああ、もう絶望だ」とか職員室で声を上げて、生徒や他の先生に慰められている。ほんとうに必死に頑張っている様子が、全身全霊で伝わってくる。来年こそはぜひ合格して欲しいと、心の底から応援したくなる。

 アヒルはのんびりと湖面を泳いでいるように見えても、水面下ではせわしなく足を動かしているのだという。私は涼しい顔をしながら、水面下では随分あがいていた。人の見えないところでは、ずいぶん努力もしてきた。「アヒルの水掻き」とはよく言ったものだ。こういう話を、娘達に話したが、そのときはあえて「白鳥の水掻き」と言ったような気がする。

(参考)橋本裕自伝「就職まで」
http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/zidenn4.htm


2005年10月12日(水) 稔りの秋がきた

 一昨日の体育の日、妻が義兄の家に行って、新米をもらってきた。義兄から電話があって今から持っていくというのを、妻が「こちらからもらいに行く」と言って出かけた。「俺も行こうか」と声を掛けたが、「大丈夫」と、妻一人で出かけた。

 義兄は名古屋市の職員だが、田んぼや畑を人に貸して農業もしている。私の家で食べる米は義兄の家からもらっているが、米だけでなく、パソコンや自転車もくれる。長女が使っているパソコンは義兄のものだし、私が毎日通勤で使っているマウンティングバイクも義兄にもらったものだ。

 結婚したころ、200坪ほどの土地をやるから家を建てろといわれたこともある。義母には「田んぼを売れば2000万円ほどできる。必要なら作る」と言われた。これは妻が断った。私は、「もらっておけばよかったのに」と思ったものだ。

 土地持ち農家の景気の良い話を聞いているので、「もらってあたりまえ」のように思っていたが、考えてみればこうした感覚はおそろしい。他人をあてにして、自立心を奪われることになる。子供の教育にもよいわけはない。妻が「私たちで何とかします」と断ったのは正解だった。

 自分で稼いだお金で地道に生きることのほうが大切だ。そうすればお金の値打ちもわかるし、倹約や節約することも身に着く。それにお金がなくてあれこれやりくりして、ようやく手に入れたものは輝いている。しあわせもそうした生活の中で実感される。

 私の二人の娘はこうした環境の中で育っている。だから労働を尊重するし、努力することの大切さをわきまえている。考え方が堅実でまともだ。これは親の思想や生き方がまともだったせいだと自画自賛している。

 さて、義兄と言っても、歳は私よりも下である。最近では顔を合わせるのは米を持ってきてくれるときくらいだ。そのとき、家に上がって貰って、お茶を飲みながらしばらく談笑する。しかし、今年は顔を合わせる機会もなかった。義兄の方でも一年ぶりの再会を楽しみにしていたのではないだろうか。妻が米をもらいに行くと、少し不機嫌だったという。

 義兄の家には3人の男の子がいる。長男は工業高校を卒業して専門学校に通っている。次男は今年から東京の大学に行っている。三男は高校生だ。今年は米がかなりあまったという。次男が家を出たせいで、食べ盛りが一人抜けたせいだろう。

 私の家も長女がアパートで暮らし、次女が大学の寮に入ったので、米がかなりあまるようになった。私も小食主義でほとんど御飯を食べなくなった。義兄に「こしひかりもあるから一俵持って行け」といわれて、妻は「そんなにいらない」と断ったという。

 散歩の途中、妻の畑に寄り道する。そこで妻が畑仕事をするのをしばらく眺めている。農薬を使わないので、白菜の葉に虫が付いている。それをていねいに一つ一つ手で取り除いている。こんな細かい作業は私にはできない。こういう仕事に生きがいを感じられる妻に感心するしかない。

 かたわらの田んぼでは、雀の群が小躍りして米を食べていた。鳩も道端で田んぼから伸びている稲穂をついばんでいる。彼らにとって食料の豊かな今の季節が最高なのだろう。さて私はおいしい新米が届いたからと言って、小食主義を崩したりしないでおこう。ただ稔りの秋である。雀たちと一緒に秋の稔りを楽しみ、天の恵みに感謝したい。


2005年10月11日(火) 夜叉ヶ池に登る

 一昨日の日曜日、妻と長女と私の3人で、福井県の岐阜県境にある「夜叉ヶ池」へ行ってきた。池と言っても山上にある火口湖である。あいにく大学生の次女は馬術部の試合があって、山登りには参加できなかった。

 長女の車で出かけた。看護婦の長女は夜勤明けだったが、運転するという。私が運転を申し出ると、「目が悪い人には運転させられない」という。「もう大丈夫だ」と言っても、「何かあったらどうするの?」と、私にはハンドルを握らせなかった。北陸自動車道を今庄インターでおりて、車で30分ほど走ると、夜叉ヶ池登山口についた。

 そこから2時間半ほど山道を歩いた。登り初めて、1000メートルは緩やかだ。しかし残りの2000メートルは急な坂道が続いた。夜叉ヶ池は日野川の源流だという。途中に滝や栃の大木があった。木洩れ日の中でブナの原生林の緑が眼に優しく、涼しい秋風が汗ばんだ肌に快かった。

 以前と比べて身が軽く感じられたのはダイエットで6キロ痩せたせいだろう。69キロあった数ヶ月前までは階段を上るのも大義だったのが、63キロの現在は別人のように足が動く。ダイエットで身も心も若返ったような気がした。私は妻と長女に自分の健康を誇示するために、よけいにがんばった。大量の汗を流して、爽快だった。

「あと500メートルで夜叉ヶ池」という標識があった。池に近づくと、傾斜は緩やかになった。5月頃にはこのあたりにカタクリやニッコウキスゲが群生するのだという。やがて、視界が開け、池が見えた。

 1100メートルの山頂に緑の水を満々とたたえた池がある。岐阜県側は絶壁だ。この壁が崩れたら、大洪水が起こるのではないかと不安になる。この不安を独特の美的で幻想的な戯曲にしたのが泉鏡花の名作「夜叉ヶ池」だ。

 もともとこの池には龍神が住むと言い伝えられ、いくつか伝説が残っている。その代表的なものの一つが次のような話だ。次のHPから引用させていただいた。(夜叉ヶ池のきれいな写真も見ることができる)
http://www.hotimajo.jp/yashagaike/yashagaike.htm

<昔、越前国 南条郡池ノ上に弥兵次という豪農が住んでいました。ある年の干ばつに弥兵次は耐えかね、池の大蛇に「水を田に入れてくれるなら、私の娘を嫁にあげよう」と頼み、大蛇もこれを承諾しました。すると次の日、田に水が入り、作物が活気を取り戻し、弥兵次は大いに喜びました。

 しかし、約束を考えると弥兵次は悩み苦しみました。しかたなく愛娘の一人をお嫁に出しました。娘は蛇体となり、大蛇はそれを伴って夜叉ヶ池に入りました。のちに娘の女蛇は竜神となって、干ばつの年には雨を降らすと言われ、夜叉ヶ池は竜の住む神秘の池となっています。>

 帰りは1時間ほどで下山した。今庄は蕎麦どころで有名である。蕎麦を食べたかったが、あいにく長女が蕎麦アレルギーである。それに時間も3時と中途半端だった。今度は妻の運転で一宮に帰り、長女が栄養補給のために食べたいというシャブシャブの店に行くことにした。

 5時過ぎに一宮に着き、シャブシャブを食べたが、私は肉をほとんど長女に分けてやった。休日は夕食を抜いて「二食」というのが私のポリシーだが、長女と食事をするのは久しぶりである、お昼はおむすび一個だったし、山登りをした後だから、健康のためにも夕食をとるべきだろう。

 それでも風呂に入って体重計に乗ると、63キロを割り込んでいた。もう血圧の薬を飲まなくなって2週間になるが、平常値をたもっている。しかも少しずつ低下気味だ。「小食に病なし」という格言があるが、これからも小食によって健康を維持したいと思った。

 看護婦の長女は、明日は早朝勤務だということでアパートに帰っていった。大学の馬術部で部長をしている次女は、連日名古屋市で行われる大会に出場していて、その日はとうとう帰ってこなかった。


2005年10月10日(月) なぜ英語を勉強するのか

 まだCPILSで学び始めたばかりの頃、スタディ・ルームで緊張しながら勉強していると、韓国の若い女性が「Excuse me . Are you a xxxxx」と話しかけてきた。眼の綺麗な色の白い美しい女性だった。私は「Sorry?」と答えた。女性は再び質問を繰り返したが、私にはよく聞き取れない。「xxxx」の部分が「ヤカン」と聞こえたり「ピン」と聞こえた。

 私がノートを差し出すと、女性はそこに綺麗な文字で「Are you a Japanese?」と書いた。何だ、「Japanese」かと私は納得した。韓国の人と話していると、ときどき「J」や「P」や[F」の発音が聞き取れないときがある。

 私が大急ぎで「Yes」と答えると、女性はいくつか質問をはじめた。それがまたほとんどききとれなかった。私が「Sorry?」をくりかえしていると、女性は手にしていたペーパーを私の目の前に広げた。そして「Prease」と言って頭を下げた。

 どうやらそれは彼女の宿題のようだった。日本人を見つけて、いくつか質問し、それを書き留める必要があるらしい。私は直接その紙に答えを記入することにした。その中に、「なぜあなたはこの学校で英語を学ぼうと思ったのですか」というのがあった。

 私は少し考えて、「To make friends」と答えを書いた。そして思わずその女性を見ると、彼女の生真面目な表情が少し崩れて、「Me too」とつぶやいた。最後は「thank you」とほっとしたように微笑んで離れていった。

 その後、何度か食堂やスタディルームで彼女を見かけたが、お互いに声を掛けることはなかった。ただ目が合うと、彼女はいつもにっこり会釈してくれた。私は彼女のひどい発音を思い出し、それからふと、もう一人こんな美人の娘がいたらいいのにと思ったものだ。

 さて、先日、長野県上田市で教師をしているMさんからメールをいただいた。私の日記を読んでの感想がていねいに書かれていた。山登りが好きだというMさんの律儀で誠実な人柄がしのばれる文章だった。

 一昨日、私はMさんに返信を書いた。その中で、私は「なぜ、英語を勉強するのか」について、少し詳しく書いた。ここにその全文を引用しておこう。

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 M様へ

 お便りありがとうございました。M様は「同じ年齢ですが,私にはとうてい先生のようなエネルギーはありません」と言われますが、エネルギーがないのではなく、日頃の教育に熱心にとりくんでいらっしゃるからだろうと思います。

 私も去年まではとても海外に行くゆとりはありませんでした。休日も部活の指導にあけくれ、なかなか自分の時間をもてない毎日でした。転勤して55歳になってようやく得たゆとりです。松崎先生もいまはお忙しくても、またゆとりができれば、新しいことにチャレンジをする勇気も湧いてくるのではないでしょうか。

 私は今日から3連休です。生憎の雨ですが、すこしゆったりした気持で、久しぶりに何か短編小説でもかいてみようかと思っています。筋立ては頭のなかにできているので、あとはこれをどう文章に創り上げていくのか、楽しいようで、これもまたかなりエネルギーを使います。うまくかけたら、またHPに載せますので読んで下さいね。

 セブ島留学は私にとってほんとうに実り豊かな体験だったと思います。英語の勉強を始めようと思ったのは、12年ほど前、親しくしていた英語科のT先生とAETのイギリス人教師と三人で喫茶店に入ったとき、私はほとんど英語を口にすることができなくて、口惜しい思いをしたことがきっかけでした。

 ジョージというその英国青年は、オックスフォード大学を卒業した教養豊かな好青年で、父親が外交官だったため、さまざまな国に住んだ経験もあり、親切で思いやりのある本物のイギリス人紳士でした。日本の文学や哲学にもたいへん深い関心をいだいているらしく、もっと日本の文化を知りたいということで英語教師として日本に滞在していたのです。

 T先生が私のことを、哲学や文学に造詣が深いなどと持ち上げたので、彼も私との会話を楽しみにしていたらしいのに、私はそのときも、その後も、同じ職場にいてほとんど何も語ることができませんでした。私が口にできるのは当たり障りのない社交辞令くらいです。このときほど国際語である英語で自己の考えを表現できたらと、切実に考えたことはありませんでした。

 その翌年、私はそれまで自転車で通っていた近くの高校から、自家用車で通う遠くの高校に転勤になりました。そこで、私はさっそくNHKラジオの「英語会話入門」を録音して、通勤の途中にテープでききはじめました。

 さいわい遠山顕先生のこの番組がとてもたのしく、英語はよく聞き取れないにもかかわらず、それから毎日毎日聞き続けました。テキストは買わず、遠山さんが男女二人のネイティブスピーカーと交わす気の利いた会話をただ楽しみながらバックグラウンドミュージックのように聞き流していただけです。とてもテンポや雰囲気がよく、落ち込んでいたときにも元気がもらえるトーク番組でした。

 そうしているうちに、英語がだんだん耳になじんできて、好きになってきました。そうすると、もっと本格的に勉強して、自分でも何か話したくなります。まず考えたのが外国でのホームステイや短期留学でした。

 しかし、忙しい上に、二人の娘が大学に進学したりして金銭的にもゆとりがなかったので、これは夢のまた夢でした。今年になって、上の娘が自立し、学校を変わることで、ようやくこの夢が実現しました。10数年ががかりで実現した夢です。

<外国で,色々な考え方の違った人達と違った風土の中でふれあったら,やはり今の自分の世界へ新鮮な風が吹き込むような,伸び伸びした気持ちになることでしょうね。そんな精神を少しは,私も身に付けないと,定年に向かってこれからだめですよね。>

 これはM様の言われるとおりだと思います。英語の学習を通して、今回は私は多くの人々と知り合い、心を通わせることが出来ました。それが私の心をいきいきと甦らせてくれました。

 定時制高校には60歳、70歳でも若々しく学んでいる人たちがいます。私も彼らに負けないくらい、これからもたくさんのことを学び、たくさん心の通い合う友人を作り、人生に前向きにチャレンジし続けたいと思っています。M先生も人生はまだまだこれからです。ご健闘をお祈りします。

       2005,10,8   橋本裕

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2005年10月09日(日) フイリピンと日本の民話

 ジェニーに日本の民話を聞かせて欲しいと言われて、「鶴の恩返し」や「竹取物語」を紹介したことは前に書いたが、そのときジェニーからフィリピンの民話を聞いた。こんな話である。

 王様が一人娘の王女の結婚相手として、二人の青年を選んだ。そして「どちらでもよいから、お前の好きな青年と結婚しなさい」と王女に命じた。聡明な王女はそこで、二人の青年をテストすることにした。王女は海岸の崖の上に二人を連れだし、こう述べた。

「私がこれから海に宝石を投げます。先にこの宝石を見つけた方を、私の夫、つまり将来のこの国の王として迎えたいと思います」

 王女が投げ入れたのを見届けて、二人の青年は海に飛び込んだ。しかし、二人ともなかなか宝石を見つけることはできなかった。そして長い時間が経過した。数年後、青年の一人がやってきた。彼は打ちひしがれた様子で、「残念ですが、みつかりませんでした」と王女に告げた。そして肩を落として引き下がった。

 それからしばらくして、もう一人の青年が顔を輝かしてやってきた。彼の手には宝石があった。彼はそれを王女に渡しながら、「私が見つけました」と誇らしげに言った。

 数日後、王女の結婚相手が発表された。国民はその結果を聞いて驚いた。王女が選んだのは、宝石を手に入れた青年ではなかった。宝石が見つからずに打ちひしがれていた青年の方だからだ。

 ジェニーはここまで話してから、「shin、どうして王女は宝石を手に入れた青年を選ばなかったのかわかりますか」と私に聞いてきた。私は「I have no idea」としか答えることができなかった。

「王女が海に投げ入れたのは宝石ではなかったのです。それは塩の固まりでした。海の中で融けてしまったのです」
「つまり、宝石を手に入れたと言った青年は嘘つきなわけですね」
「そうです。そして王女は、正直な人間が好きだったのです」

 王女もまた、宝石探しをしていたのである。そして王女の求めていた宝石はその正直な青年の心に中にあった。そしてそれは「誠実さ」という心の徳である。ジェニーが語ってくれた民話を私はそのように理解した。

 さて、これも前に書いたことだが、私は「鶴の恩返し」という日本の民話を、少しアレンジしてやさしい英語で書いてみた。そしてそれをジェニーに読んで聞かせた。私が初めて英語で書いた文学作品である。セブ留学の記念として、ここに引用しておこう。

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The story of a beautiful crane

Once upon a time , on a countryside in Japan , there lived a poor young man alone .
One day , he found an injured crane in his trap . The crane was so beautiful that he couldn't kill it . He set it free quickly .

That night , a beautiful young woman visited his house , and asked him for a few days stay . He found her injured . He allowed her to stay in the barn next to his house .

In a few days , she was cured of her injury . She was grateful for his kindness , and said " I am a good weaver , please let me weave a cloth for you ."  The young man allowed her to use weaving tools in the barn which his mother had used .

His answer made her eyes bright , but she added one thing with serious voice . " Don't look into the barn during my weaving . If you do it , I have to leave you ."  He answered " I never do such a thing ."

Next morning , she finished her work . She handed him a cloth . The young man said " I've never seen such a beautiful cloth . I want to go to the town , sell it , and gain some money ." " Please do it ." she said .

That evening , he returned with much money and good food . He was happy and very proud of her . And he found her cheek a little pale . He said " What is wrong with you ?" She said " I am fine . I will weave another cloth for you ."

She weaved a cloth at that night too , and she continued weaving every night . She looked more and more pale , but he was not aware of it . The weaker she was , the richer he became . He made many friends , and he began to play around every day and night .

One morning , she told him that he used to be a very kind man , but now he seemed to be a different man . She couldon't understand what he and his friends were talking about . But he didn't care of her words . He was thinking just how to be rich .

That night , when he came home after drinking with his friends , it was a dark midnight , he found a weak light coming from a small hole of the barn . He approached the hole and looked into the barn .

He saw a crane weaving a cloth . It was picking up white feathers from it's body and weaving a cloth . The crane looled very thin , weak and tired .The young man was upset and bewildered . He went to his house with storong fear .

Next morning , when he went to the barn , there was no women nor crane . In the barn , he only found a beautiful cloth and himself with an enpty and miserable mind . After crying for missing her , he recognized that he got wealth but lost something precious forever .

(Written by Y.Hashimoto ,9,20,2005 in Cebu, From a Japanese Falk Tale)


2005年10月08日(土) What makes you happy ?

 ジェニーに「What makes you happy ?」と質問されて、私は「your smile」と答えた。これはこれで立派な答えだと思うのだが、もちろん、ジェニーは納得しなかった。ジェニーは2週間の授業のなかで、繰り返しこのテーマを持ち出した。

 あるときは「幸福とは何か」にかんするエッセーを読まされた。そのエッセーによると、幸福には三種類のものがあるのだという。第一の幸福は「欲望を満たすことによって得られる幸福」である。この種の人々にとっては、自らの所有欲や支配欲を満たすことが人生の目標になる。

 第二の幸福は、「欲望から自由になることによって得られる幸福」である。所有欲や支配欲を捨て、自らのエゴを捨てることによって魂の平安を売る。これは宗教的な意味での幸福だろう。

 第三の幸福は「他者を愛することによって得られる幸福」である。人と人とが心を通わせ合い、助け合って生きていくなかで得られるささやかな満足感だ。ジェニーも私も結局、この三番目の「素朴にして優雅」な幸福が理想ではないかと考えた。また本当の宗教の境地はこれに近いのではないかということになった。

 ジェニーはカソリックの敬虔な信者である。私が聖書は好きでよく読むというと、「聖書のどこがいいのか」と聞いてきた。そこで私はヨハネ伝8章32節にある「You shall know the truth and truth shall make you free.」という言葉を上げた。

 もちろんジェニーもこの言葉を知っていたが、「説明して欲しい」と言われて、私は何とかブロークンな英語でこれを説明した。真理に従うと言うことは、自然の摂理に従うと言うことである。現代の私たちは自らの欲望を肥大化させ、この自然の摂理から遠く離れてしまったのではないだろうかと疑問を述べた。

 それから私は「神はわれの中にある」というパウロの言葉を引いて、これは仏教の「すべての生きとし生けるものは仏性を持っている」という仏教の思想に通じると言った。そしてそれはまた、すべての存在の中に「神」を見いだす「神道」の多神教の世界にも通じている。

 こうした話を始めると私の弁舌はとまらなくなる。ジェニーが私の英語をどれほど理解したかは分からないが、いつも微笑みをたたえて、私の話に耳を傾けてくれた。私はあらためて、「Your smile makes me happy」と、ジェニーに感謝しないではいられなかった。


2005年10月07日(金) 先生をお仕置き

 フイリピン教師のなかでも、ジェニーはピカ一のキュートな先生だった。CPILSではガイダンス・ティーチャーがつくのだが、私のG・Tになったジェニリンがジェニーの教室に案内しながら、「shinはラッキーだね。ジェニーはとても可愛いいよ」と言ったがそのとおりだった。

 ただジェニーにも欠点があった。朝に弱いことである。私の授業は1限目だったので、彼女は遅刻を繰り返した。ひどいときにはまるごと1時間40分、現れなかった。もちろん、そうしたときは別の先生が現れて代わりに授業をしてくれた。

 これはこれでいろいろな先生に知り合えて悪くはなかったが、それにしても少し教師としての自覚に欠けるのではないだろうか。最初は、「ごめんなさい。渋滞がひどくて・・・」と可愛い顔で弁解する彼女に「no problem」と鷹揚に応じていた私だが、度重なるとそうも言っていられなくなった。

 30分近く遅刻してきた彼女に、私はとうとう少し怖い顔をして、「I don't forgive you. You must be punished. I'll give you a punishment.」と宣言した。彼女は困ったように私を見つめ、少し顔をこわばらせた。

「これから罰を与えるから、眼を閉じて」と言っても、じっと私の顔を見つめているので、もう一度「close your eyes」と促すと、彼女はおずおずと眼を閉じた。私は彼女の額に指を近づけ、爪先でパチンと弾いた。「痛い」と言ってジェニーが目を開いた。

「これから遅刻したら、これをするからね」というと、「shinも遅刻したらだめだよ。私もお仕置きをするから」とジェニーは笑いながら言った。

 明くる日は、珍しく私より早くジェニーが来ていた。二階の教室に登ろうとすると、ジェニーが階段の手すりから身を乗り出して私を待ちかまえていた。「Good morning. shin」と手をふるジェニーをみて、可愛いなと思った。


2005年10月06日(木) 教師を評価するシステム

 私の2週間のCPILS滞在も終わりに近づいた頃、1:4のコリーンのクラスで、4人の生徒に教師評価用のペーパーが配られた。私はコリーンの授業をふくめて3クラスとっていたので3枚、あずみは4枚、他の二人もそれぞれの枚数のパーパーを受け取り、受けているクラスの分だけ評価を記入した。

 評価の基準となる項目が40ほど並んでおり、それぞれ1〜5の5段階で評価する。項目の英語を読むだけで一仕事である。面倒くさいので、私はどれもveru good の「5」にしておいた。そのくらい、3人の教師の授業に満足していたからだ。

 評価を書き込んでから、項目をよく読んでみると、「あなたの先生は、自分の給料についてあなたに何か話しましたか」というようなマイナスの文章がある。これは「5」ではなく、「1」にしなければならない。そこであわてて書き換えたりした。

 生徒は2週間間ごとにこうした方法で教師を評価しているようだ。こうした制度は日本では珍しいが、外国ではあたりまえのことだろうか。これではたしかに、教師は手抜きはできないに違いない。

 それから、これはマンツーマンのジェニーの授業の時だが、格上らしい教師がノート持参で参観に来たことがあった。メモを取りながら授業を20分ほど黙って参観した後、ジェニーを外に呼び出して、何かアドバイスを与えている。

 ゆみのマンツーマンの授業でも、同じ様な授業参観があったという。ゆみも先生も緊張して、なんだかぎこちなくなり、ゆみはただでさえ英語が出てこないのに、ますます口が重くなってしまった。指導係の教師がかえったあと、先生はゆみの前で気の毒に思うくらい落ち込んでいたという。

 さいわい、私とジェニーの授業は参観者の同席に関係なく和気藹々として活発だった。とにかく会話がとぎれることがないのである。このときは「幸福とは何か」ということについて、ジェニーと私でディベートの最中だった。

「肉体の健康は幸福にとって必要不可欠のものではない」というのが私に与えられた立場である。しかし、これは私の考えではない。ジェニーと論争しているうちに次第に旗色が悪くなってきた。それでもディベートだから、全知全能を傾けて、ジェニーを論破しなければならない。参観者のことなど眼中になく、思わず熱が入った。 

 「shinのようによくしゃべるのは、日本人にはほんとうにfewなケースだ」と言われたが、とくにジェニーの授業では私は饒舌だった。英語が自然と口からあふれてくるから不思議である。これもジェニーがとても美人で、聡明な先生だったからだろう。


2005年10月05日(水) 実践的で楽しい授業

 語学留学については以前から考えていたが、インターネットでたまたま見つけたのがフイリピンのセブ島にあるCPILS(Cebu Pacific International Language School)だった。安いということが最大の魅力だったが、それだけに充実した語学教育が受けられるのか不安があった。

 しかし、実際に体験してみて、この不安はなくなった。むしろCPILSを選んで大正解だと思った。その理由の第一は教師の質がよいことだ。30年近く教師をしている私の目から見ても、私たちが受けているのは大変効果的でレベルの高い授業だと思った。

 CPILSは1965年にできたという。その間に蓄積されたノウハウもあることだろう。そしてマンツーマン、から始まり、1:4、最大でも1:8という少人数クラスを実現しているところがすばらしい。日本で行われている語学教育とは天と地ほどの違いがある。

 ちなみに1965年にはスイスのジュネーブで「外国語指導要綱」というべき文書が定められ、ユネスコを通じて世界各国の文部省に通達されている。その要綱には次のように記されている。

(1)子供はことばを学ぶのが早いことから、現代外国語教育は小学校から始められるべきである。

(2)外国語は教養の手段としてよりも、実用の面が強調されなければならない。

(3)読み書きよりも会話が教えられるべきこと。そしてできれば、外国語の時間に母国語は使わないこと。

(4)クラスはできるだけ少人数であるべきこと。

 セブの本屋で「Perform in School, the Smart Way 」という小冊子を50ペソ(100円)で手に入れた。その前文PREFACEに、こう書いてある。

<Theory without practice results to nothing. So, if you want to clim seversl steps higher in improving your study habits, put everything in this book into practice so you will know how far have gone and what improvements you still need to do to achive your goal. >

 外国語の習得で大切なのは、実用的・実践的ということだろう。これが日本の学校には欠けている。CPILSではこうした実践的な「訓練」の要素と、英語を通してお互いが人間的に交流するという「楽しさ」の面と、両方がうまくミックスしていた。

 たとえばコリーンの授業はかなりハードな内容だったが、そうした語学訓練のなかに様々な楽しい工夫や息抜きを持ち込み、英語教育がそのまま教師と生徒、生徒同士の人間的な交流の場になっているところが魅力的だった。

 その演出の一つがコリーンの得意な心理テストだったわけだ。私たちが受けた心理テストをもう一つだけ紹介しておこう。丸○、三角△、四角□、渦巻きの4つの図形を眺めて感じる内容を、それぞれ3つの形容詞で表現せよというものだ。私は次のような答えを黒板に書いた。

(1)丸○について
  round good perfect

(2)三角△について
  stable unsure unperfect

(3)四角□について
  strict stable sturborn

(4)渦巻きについて
  dazzle unstable dazedly

 ところで、それぞれの心理的な意味は何か。コリーンによると、それは次のようなものだという。

(1)丸○について
  What people think about you.

(2)三角△について
  What you think about yourself.

(3)四角□について
  What you think about the world.

(4)渦巻きについて
  What you feel about first sex.

 これによると、私は世間の人々から丸く、善良で、完璧な人間と見られているが、自分自身については安定はしているが未完成でいまだ未熟だと感じ、世界については安定していて、厳格で、かたくななものだと考えている。そしてセックスの初体験の印象は、目が回りそうで不安定だったということになる。

 コリーン先生が「あたっていますか?」と聞いた。ペトリもジュリーもあずみも「そんなにあたっていいない」と答える中で、私が「90パーセント」と答えると、「そんなに?」とみんな驚いていた。


2005年10月04日(火) 宿題が嫌い

 CPILSの先生はよく宿題を出す。学校に向かうスクールバスの中でも、内庭のベンチやスタディルームでも、ノートを広げて宿題に取り組んでいる学生を見かけたし、ディプロマットホテルで隣室だったゆみも「昨日も2時まで勉強したわ」と、バスの中で眠そうに目をこすっていた。

 ゆみは4週間の予定でCPILSにきたが、授業についていけないので早く切り上げて日本に帰りたいと言っていた。体調を崩して、学校を休んだこともある。「宿題が大変で、ノイローゼになりそう」というので、ゆみのノートを見せて貰ったが、几帳面な字でびっしりと書き込んであった。

「ゆみは真面目すぎるんだよ。もうちょっと肩の力を抜いて、リラックスしたほうがいいよ」とアドバイスしたが、生真面目なゆみは手を抜くことができないようだった。しかし数日もするとそんなハードな生活にも慣れて、夜のフィットネスクラブにも参加するようになり、毎朝、さわやかな笑顔を見せてくれるようになった。

 私の場合は、徹底的に宿題に抵抗した。執拗に宿題を出そうとするコリーン先生に対しては、「I hate assignments. I have only two weeks. I need to play」と反抗した。あずみもペトリもジュリーも私を支持してくれた。4人の生徒の反対に出合って、さしものコリーン先生もあきらめて、次第に宿題を出さなくなった。

 コリーン先生が出した宿題を紹介しよう。たとえば昨日紹介した「ロビン・フッドの物語」のときは、この文章に出てくる重要な5つの語句をそれぞれの文に用いて、ひとつながりの文章を完成せよというものだった。以下に、私の書いた文章を引用しよう。

(1)dilemma
My daughter has two boy friends. One is rich. The other is handsome. They proposed to her at once. So she is facing dilemma. But she made up her mind to choose the handsome one. (This story is a fiction)

(2)imprison
My daughter's handsome boy friend store a car and met a car accident. He was imprisoned.

(3)bewildered
My daughter was upset and bewildered by the bad news.

(4)persuade
I persuaded my daughter not to choose her boy friend only because he is rich or handsome.

(5)preconceive
Not only my daughter but also many people these days are bounded to the preconceived ideas that we can't be happy without much wealth. Not what we have but what we are is important.

 こうしてノートを広げ、悪戦苦闘して完成した宿題を読み返してみると、最後にコリーン先生の「Very Good!」という書き込みがあったりして、なんだかなつかしい。コリーン先生に反抗して宿題を止めさせたことがよかったのかどうか。私はかなり悪い生徒だったようだ。少しだけ反省している。


2005年10月03日(月) ロビン・フッドの物語

 コリーンの授業で聞いたテープの一つに「ロビン・フッドの物語」があった。ところが、これが私たちが知っている話とは随分違っている。ロビンフッドと息子が役人につかまる。二人を助けようと、ロビン・フッドの妻は役人に身を捧げる。

 牢獄から解放されたロビン・フッドは妻を許さず、一人孤独な旅に出る。残された息子が母親の面倒を見て一緒に暮らしたのだという。古い資料によると、実はこれがほんとうのロビン・フットの物語だという。

 例の如く、何度もテープを聞き、穴埋めをし、単語を調べ、みんなの前で朗読した後、コリーンが、「ロビン・フッドと息子と妻と役人の4人を比べて、誰が好きですか。1番から4番まで順に黒板に書いてみなさい」と指示を出した。そこで、私たち4人は黒板に答えを書いた。私の場合は次のようになった。

(1)ロビン・フッド
(2)妻
(3)息子 
(4)役人

 ロビン・フッドを1位したのは私とあずみだった。ペトリとジュリーは役人や息子を1番にあげている。二位以下までふくめると、4人ともそれそれ選択が違っていた。コリーンはそこで、私たち4人に何故この順に選んだのか説明を求めた。私は次のように答えた。

「ロビン・フッドが妻を許さなかったのは、それだけ妻を深く愛していたからだ。私は彼に深く同情する。しかし、同時に、夫と息子を救い出すために役人に身を委ねた妻の愛情も痛いほどわかる。この二人は私にとってとても愛しい存在だ。息子が好ましい人物であることはいうまでもない。役人も悪人とはいえない。結論として言えることは、みんなとても人間的だということだ」

 コリーンによればこれは一種の性格テストだという。私の場合は「考え方はいささか保守的だが、とても情にあつく、人間的に成熟していて、kindな心の持ち主だ」ということだ。あずみも「保守的だが、親切で成熟した性格の持ち主」という判定だった。

 可哀想なのは韓国人の二人だった。ジュリーは「一見理性的だが幼稚で冷血だ」という。それからペトリは「性格的に未熟であり、混乱している」という。私とあずみはこれに腹を抱えて笑った。そしてその後もジェリーがムキになると「You are childish」と冷やかし、ペトリが答えにつまると、「You are confused」と言ってからかった。

 コリーン先生はこの種の性格テストが好きらしく、それと知らずいろいろとやらされたが、結果は私とあずみの場合大方良好で、ジェリーとペトリにとっていつも気の毒なことになった。クルーな優等生のジェリーが壁にプリントを丸めて投げつけたり、冗談を飛ばしておおらかなペトリが、結果を聞くとき真顔になっていたりして、余計に面白かった。


2005年10月02日(日) 悪戦苦闘の授業

 4人クラスは楽しかったが、授業の内容では一番負担が大きかった。マンツーマン・クラスの場合は他に生徒がいないので伸び伸びできるし、8人クラスの場合は他の7人の生徒の陰に隠れて息抜きができる。しかし、4人クラスでは手抜きがむつかしい。

 4人クラスでは、先生がテープを数回聞かせ、メモを取らせて、一人ずつその内容を述べさせる。この段階で私はほとんどテープの英語が理解できなかった。テープの英語は実際に放送されたニュースの断片であったり、インタビューの一部だったが、ネイティブの英語のスピードについて行けないのである。

 これは私だけではなく、他の生徒も同じだったが、とくに私の成績は最悪だった。コリーン先生に質問されても、「I have no idea.」と答えるしかない。英語の壁がこんなに高く険しいものだとは知らなかった。そして絶望的な気分になった。

 このあとコリーン先生はテープの内容を書いた英文を配ってくれる。それを見ながら、再びテープを聴く。これもただ聞くだけではなく、ところどころに空欄があるので、そこに適当な単語や文章を書き入れなければならない。

 これがまたむつかしい。私の場合、空欄はほとんど空欄のままに放置された。聞き取れない上に、たとえ聞き取れてもスペルがわからない。スピードが速いので英文の意味を考えている時間もない。「出来ましたか」と先生に聞かれて、私は「パーフェクト」とやけくそで答えるしかなかった。

 このあと、先生が黒板に空欄にあてはまる英文を書いてくれる。各自自分で答え合わせをするのだが、私の場合はただ空欄に書き込むだけの作業になる。空欄が埋まったところで、少し時間が与えられて、意味を考えながら英文を精読することになる。

 分からない単語が10個はあるので、それを前の黒板にすべて書き出す。4人が黒板に書き終えたところで、先生が重複部分を削って整理し、一人当たり3語か4語ほどを割り当てる。割り当てられた単語について各自が辞書で調べ、その結果を前に出てわかりやすく他の3人に解説する。このとき必ず自分で作った例文を示さなければならない。

 こうしたことがすべて終わった後、もう一度英文を精読する。そして英文が回収され、ふたたび一人ずつ、その内容について知り得たことを話さなければならない。私はこの段階でも「I have no idea.」に近いことが多かった。しかし、他の3人の発言から、大方の意味が浮かんでくる。こうして4人が力を合わせることで、どうにか文章の読解が可能になる。

 しかしこれで最後ではない。再び英文が各自に返され、今度はそれを一人ずつ前に出て、なるべく自然な英語で感情を込めて読み上げなければならない。意味が把握できていないと、これがなかなか難しいのである。

 こうしてリスニング、ライテング、リーディング、スピーキングが毎時間の授業で鍛えられる。不思議なことに、これをくりかえしているうちに、すこしずつだがききとれる英語のフレーズが多くなって空欄が埋まるようになる。文章の読解力も向上し、スピーキングに感情が籠もるようになると、授業が少しずつたのしくなってくる。

 私の場合は2週間しか授業に参加できなかったが、これを1ケ月続ければかなりの成果が得られるのではないだろうか。実際、3ヶ月近く続けてきたジェリーの英語スキルは私たち3人を圧倒していた。

 私の滞在も残り少なくなった頃、4人が英文の朗読を終えた後、コリーン先生がオーラルの成績をつけてくれた。私の成績は「A」だった。ジェリーの成績は「Aプラス」である。そして他の二人の成績を見ると「Aマイナス」になっていた。コリーンの授業を一日も休まずにがんばってよかったと思った。


2005年10月01日(土) クラスメイトの紹介

 私は3つの講座に出席したが、授業はどれも楽しかった。たとえば、1:4のクラスは、フイリピン人のコリーン先生と、日本人生徒二人、韓国人生徒二人の5人で、ときには冗談を言い合いながら大いに盛り上がった。

 この授業では最初に日本人生徒と韓国人生徒がペアを組んで、お互いについて15項目以上にわたって英語で質問しあい、相手の経歴や人柄についての情報を、できるだけ分かりやすく整理して、他の3人の前で報告した。これでお互いの人間的距離が近づいた。

 私がペアを組んだのは韓国人学生のジュリーである。他の3人が同期入学の新入生だったのに対して、ジュリーはもう2ヶ月以上CPILSに学んでいて、コリーン先生の講座の古株だった。日本人と韓国人、新参者と古株といった組み合わせもよかった。

 ジュリーは大学を卒業した後、コンピューター関係の会社に入り、そこを辞めてCPILSに来たという。滞在は3ヶ月の予定で、このあとカナダかオーストリアに行く予定らしい。ちなみに私がジュリーについてクラスで発表した英文を引用しておこう。

I 'd like to intoroduce to you my classmate July.

(1) July was born in Korea in 1975. He may be 31 years old.

(2) He lives in the town near Soul with his family. I failed to get his home town's name.

(3) His family is so big that he himself couldn't tell me his familis number. But I have kouwn that he has two brothers.

(4) he majored in computer science in the univercity.

(5) He worked for FELEX.CO. But he quited it. and came to Cebu to study English.

(6) He is planning to study here for 3 months.

(7) In his stay in Cebu, he already visited the beach 4 times. Cebu beach must be so beautiful, I guess.

(8) After his stay here, he wants to visit Canada or Australia.

(9) He has a Japanese friend in this school. His Japanese friend's name is Nizi.

(10) July learned Japanese history in hight school. So he is familiar with Japan.

(11) He told me about the old Japanese rulers such as Nobunaga, Hideyosi and Ieyasu.

(12) He also told me some Japanese words such as Kabuki, Kendo and Susi.

(13) He likes Susi and Kendo. And he also likes movies, basketball and computer.

(14) His favorite color is green. And green is my favorite color too. According to July, green color indicates something like money. In fact I like money, but I can't believe this.

(15) He stays at Diplomat Hotel. And so do I. I hope we will be good friends.

 ところで、私は一番大切な情報を落としていた。それはジュリーには韓国に恋人がいて、今年中に結婚するということである。カナダかオーストリアに行くのはそのあとらしい。私と同じ頃にCPILSを後にした彼は、今頃韓国で恋人と再会していることだろう。


橋本裕 |MAILHomePage

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