橋本裕の日記
DiaryINDEXpastwill


2001年01月31日(水) 存在の呼びかけ

 中学、高校時代、私は休日にはたいてい父と一緒に、山仕事に出かけた。お昼になると、父は握り飯を食べたあと酒を飲み、一眠りする。その間、私は木陰の切り株の上に腰を下ろして、文庫本をひらいた。

 私は山仕事が嫌いだった。そして私にこうした苦しい労働を強制する父を憎んでいた。しかし、このひとときはちょっとよかった。本を読みながら、足下にやってきたリスのかわいらしい姿に微笑したり、葉ずれの音に何か永遠の世界への誘いを感じたり・・・

 そうして読んだ本の中には「善の研究」といった哲学の本もあった。「世界がいかに存在するか」という問いよりも、もっと根本的な問いがある。それは「何故世界が存在するか」という問いである。世界と自己が存在することそのものの不思議。ときおり、山の稜線の遙か向こうの空に視線をさまよわせながら、私はその「不思議さ」を感じていた。

 ハイデガーは「あらゆる存在者のうちひとり人間だけが、存在の声によって呼びかけられ、存在者が存在するという驚異の中の驚異を経験する」と書いている。ハイデガーは古代ギリシャの哲学、西欧哲学の始源へと目を向け、そこに、ニーチェの言う生きた自然、単に「ある」ものではなく、「なる」もののとしての自然を見いだした。

 脱自性を備え、生きた時間の中に自己を荒々しく展開する〈自然〉、人間もまたこの〈自然〉の一環として、その息吹の中に包まれて、脱自的な生を生きることになる。

 西田幾多郎はハイデガーの元に留学することになった九鬼周蔵に「ハイデガーは無神論だから底が浅い」と言ったと言う。しかし、晩年のハイデガーはむしろどんどん神秘主義に接近していった。

 私がハイデガーに共感を覚えたのは、そこの西田哲学と通底する感性を感じたからだろう。ヘルダーリンを愛し「ギリシャ人民には自然はみな生きた自然であった」(善の研究)と書いた西田とハイデガーの立場はそのみかけほどかけ離れているものではないと思う。

「存在の呼びかけ」は別の言葉で言えば、道元の「仏のかたより行われて、これに従いもてゆく」(正法眼蔵)世界であり、親鸞の言う「絶対他力」や「自然法爾の世界」でもあろう。

 50歳を過ぎて、私は高校時代に読んだ本がまたひとしきり読みたくなってきた。そして、私の脳裏にしきりに蘇ってくるのは、あの苦しい労働の舞台であった故郷の山々の、のどかで美しい自然の姿である。


2001年01月30日(火) 分析知と直観知

 ある哲学者によれば、自然は人間をとおして、自己を意識するつまり、人間の意識そのものが自然の反省的意識だそうだ。たしかに人間はそうした意味でも特別な存在かもしれない。サルトルが人間を対自存在と捕らえたゆえんでもあるのだろう。

 ところで、もの事を全体としてみるのではなく、個別的に見るのが分析知だ。言語による概念の使用や比較、数値計算などがこれで、人間の左脳がこれにかかわっているので、左脳知などと呼ばれている。

 これに対して、物事を全体的に統一的に見るのが直観知である。たとえば目の前の赤い花を赤い花として一つのものとして眺める。もちろん彼が眺めているのは、一つ一つの花びらであり、茎や葉や、様々な細部の組織から成る集合体だが、そうして分析的には眺めない。

  薔薇の木に 薔薇の花咲く
  何の不思議なけれど (北原白秋)

 詩人は花を見ながら、しかもその花の中に「永遠のいのち」を見つめている。こうした直観知はイメージ脳とよばれる左脳の働きだと言われている。

 私たちの認識はこの左脳的な分析知と右脳的な直観知を両輪として、両者の緊密な相補的共同作業によるものだ。しかし、どちらかというと、日本人は分析的であるより、直観的な方面に優れている。たとえば、日本を代表する哲学者の西田幾多郎はこう書いている。

「このような自然の生命である統一力は単に我々の思惟によって作られた抽象的概念でなく、かえって我々の直覚の上に現れてくる 事実である。我々は愛する花を見、また親しい動物を見て、ただちに全体において統一的或るものをとらえるのである」(善の研究)

「これまでは西洋人は自分の文化をもっともすぐれたものと考え、人間文化の進んでゆくことは自分たちの文化の方へ進むこととし、東洋等の他の民族は遅れているのでそれも進めば自分と同じものにならねばならぬと考えた。日本人にもそう考えている人がいるが、私はそうではなしに、東洋には根底的に違ったものがあると思う。それらが相補って人間文化を形成し、完全な人間性をあらわしてゆくのではないだろうか。こういうものを見いだすのが、日本文化の進むべき道だと思う」(「日本文化の問題」1939年)

 それでは、何故西洋に分析的な科学がうまれ、東洋には生まれなかったのか。それはたぶん東洋人は自然を対象的に眺める意識が弱かったのだろうと思う。分析するというのは、ものごとを分解するということだ。分解し分類する。こういう苛烈な客観意識が東洋には希薄だったのだろう。いいかえてみれば、それだけ自然条件にめぐまれていた。

 そのかわり、東洋は自然と新和的に生きる知恵に長けている。自然を単に対象物とは眺めないで、そこに奥深い生命の働きを実感し、さらに直感する。自然の豊穣さ、多様さをあるがままに受け入れ、これを尊ぶ姿勢がある。

 分析的な方向を進めると、こうした豊かな生命観がうしなわれる危険がある。私自身大学時代、物理や数学に没頭する中で精神的に異常な体験をしたことがあった。いまから考えればそれは「離人症」にでも分類される体験で、つまりあらゆるものに生の実感が感じられなくなるという体験だ。

 花を見て、それが花であると言うことが完璧に分かるのだが、そこに何のかぐわしさも、うつくしさも感じられない。ただ単に、概念だけの世界。それは今思い返しても恐るべき無機質の世界である。まさしく絶望の世界だ。

 今私は、あらゆるものに感動することが出来る。モーツアルトに感動し、セザンヌに魅入られ、数学や物理学にさえ美を感得する。なぜか、それは自然を対象的に眺めるだけでなく、それと新和的な共生関係を回復したからだと思う。

 こういう微妙な問題を、もうすこし論理的に説明できたらいいのだが・・・。私はその手がかりになるのが、西田哲学ではないかと思っている。


2001年01月29日(月) 私が私でない世界

 分裂症の人はその行動様式に、「諸事物のもとに静かに逗留することができない」、「現実からかけ離れた実現不可能な理想の追求」(ビンスヴァンガー「精神分裂病」)などの特徴があるそうだ。そして共通しているのは、「私が私でない」という自己不確実性だそうである。

 戦前の日本人は富国強兵のかけ声のもとに滅私奉公に励んだ。戦後は経済発展という空虚な観念にとりつかれて、朝から晩まであくせくと動き回り、バブルが弾けた後は、失業の不安に脅えながら働いている。子供は進学競争に勝ち抜くために小学生から塾通い。狭い国土の自然を破壊してできた道路を、車は排気ガスをまき散らし我が物顔に疾走して、至る所で事故を起こしている。

一方で、コマーシャリズムは嵐のように我々を襲い、我々を無力な消費者とする。もし未開社会の人が、現代人の多忙で騒々しいばかりでこれという理念や志を持たない生活を見たら、恐らく分裂病のれっきとした患者だと思うに違いない。

 現代人のあくせくした生活の背後には、不安が潜んでいるようだ。この不安は一言で言えば「自己を持たないことの不安」ではないだろうか。この自己不在の不安を忘れるために、現代人は忙しく動き回る。忙しくしているから心が亡びるのではなくて、心が亡びているから忙しくせざるを得ないのだろう。

自己を持たない人は、それを埋め合わせるために、やたらと地位や名誉や権力を求め、それらの勲章によって、空っぽの自分を飾ろうとする。自己に自信のない人間は、他者によって認められなければ不安で仕方がない。しかし自己の存在を他者の手に委ねることはさらなる不安をもたらす。彼はこの不安に駆られて、二十日鼠のように、この他者性の回路の囚人労働に専念せざるを得なくなる。

 病的な特徴は日本という国にもうかがえる。戦前の「八紘一宇」とか「大東亜共栄圏」などという非現実的なスローガンは、「現実からかけ離れた実現不可能な理想」の追求であり、「諸事物のもとに静かに逗留することが出来ない」この国の有様は、国としてのアイデンティティーの脆弱さを示している。

戦後になってもこのアイデンティティーのなさは変わらない。はっきりとした自己像をもたず、これという〈こころざし〉も持ちあわせていない日本は、いつまでたっても落ち着きのなさを脱しきれない。私達の国は分裂病を病んでいるのだろうか。もしそうなら、どんなに見かけは繁栄していても、そのような国の人々が幸せなわけはない。


2001年01月28日(日) 生命進化の遺産

 私達一人一人の肉体には、この地球上に生命が誕生して以来の三十五億年に及ぶ進化の過程が刻まれている。さらに遡れば太陽系の誕生、さらには宇宙の誕生以来の時の流れが刻まれ、集約されている。いわば我々の一人一人はこの無窮の時が創造した精緻で神秘的な芸術作品だといえよう。しかも我々の肉体は人それぞれに個性を持ち、この地上に全く同じものはない。このすばらしい肉体を私達は無償で与えられた。

 私達の肉体の健全な活動は私達のいのちの源泉であり生活の基盤である。この基盤が脅かされるとき、我々の精神も危殆に瀕する。肉体は我々の精神の器でもあり、精神的存在としての我々の人間はこの肉体という我々にとってもっとも身近でかけがいのない自然的存在によって守られている。

 我々はこの肉体によって、他の自然的存在に繋がっている。我々は肉体を養うために他の生物を我が糧としなければならない。我々は太陽や水や空気ばかりではなく、無数の動植物もしくはバクテリアによって直接的にも間接的にも生存が支えられている。

 植物は我々動物の栄養分となるだけではなく、我々の生存に必要な酸素を光合成によって供給してくれる。また石炭や石油などの化石燃料は太古に生きた生物からの貴重な遺産だ。我々が自然と呼ぶものはこうした様々な生命とその活動によって生み出されたものの総体であり、それは我々人類をも含めた共生関係の生き生きとした舞台である。

 この舞台で、いま我々人類は賢く振る舞うことが要求されている。生きとし生けるものを虐げることは、我々の生存の基盤を危うくすることに繋がる。環境問題の解決は、我々人類がこうした生きとし生けるものとの間に、いかにして豊かな共生関係を結ぶことが出来るかにかかっている。そのために我々はこの生きた自然の姿から多くを学び、その一員としてより謙虚に生きる知恵を身につけなければならない。



2001年01月27日(土) 「純粋経験」の世界

 西田幾多郎の「善の研究」は、戦前戦後の青年の愛読書であった。私も実は高校時代に読んで、たいへん感銘をうけた覚えがある。「個人あって経験があるのではない。経験があって個人があるのである」という有名な言葉を、私は紙に書いて部屋の壁に貼った記憶がある。

 なぜこの本を読むきっかけになったのか。もう記憶は定かではないのだが、たぶん倉田百三の「愛と認識の出発」あたりの影響ではないのだろうか。私の先輩にあたる青年たちも、多くは倉田から西田哲学に入っていったようだから、私もそのくちだったことだろう。

 そう思って「愛と認識の出発」を捜したが、手元にない。ウエブサイトにあるかと思って「青空文庫」へ行ったが、そこにもなかった。「善の研究」も書棚を捜してみたが見つからなかった。しかし、これはウエブサイトの「青空文庫」に全文が収録されていた。そこで、さっそく、何年ぶりかに読み返してみた。

 その感想をここに書こうと思う。とくに今日は「善の研究」の中心となる概念である「純粋経験」という言葉に焦点をあてながら、彼の哲学の特質を考えてみようと思う。


「経験するというのは、事実そのままを知るということです。自分で細工などしないで、ありのままの事実を、そのままに受け入れて知るということです。
 純粋というのは、普通に経験といっているものも、その実は何らかの思想を交えているから、まるで思慮分別を加えない、ほんとうに経験そのものの状態をいうのです。たとえば、色を見たり、音を聞いたりしたその瞬間は、まだこれが外物の作用であるとか、私がこれを感じているとかいうようなことは考ていない。この色、この音は何であるという判断すら加わらない前の状態、それを純粋といいます。
 だから、純粋経験は直接経験と同一であると言えます。自己の意識状態を直下に経験した時、いまだに主観とか客観という意識もなくて、知識とその対象とがまったく一つのものになっている状態、こうした状態こそ、もっとも純粋な経験と言えます」(「善の研究」 第一編 純粋経験)

 西田は「純粋経験は直接経験と同一である」と書いている。つまり、直接体験は純粋で、しかもこれこそ最も醇なるものだと考えているわけだ。たしかに直接体験は錯綜した意識の反芻を経ていない。ありのままの事実をとありのままに反映しているという意味で純粋だと言える。

 しかし、直接経験というのは純粋であるだけではない。それは同時に、なまの現実の持つ豊穣さをそなえている。この混沌とした直接体験を、むしろ内容的にも純粋なものとして受け取るところに、彼の哲学の特徴があるのように思える。

「いかなる意識も、それが厳密なる統一の状態にある間は、いつでも純粋経験であり、単に事実である。これに反し、この統一が破れて、他との関係に入った時、意味が生まれ、判断が生まれることになる。我々に直接に与えられている純粋経験に対し、すぐ過去の意識が働いて来るので、これが現在意識の一部と結合し一部と衝突し、ここに純粋経験の状態が分析され、破壊されることもおこってくる。意味とか判断とかいうものはこの不統一の状態である。
しかしもう少し考えてみると、この統一、不統一ということも、程度の差だと言えないこともない。100パーセント統一された意識もなければ、まったく不統一なる意識も考えられない。
すべての意識は体系的発展である。瞬間的知識であっても種々の対立、変化を含蓄しているように、意味とか判断とかいった関係の意識の背後には、この関係を成立させる統一的意識がなければならない」

さて、彼のいう「純粋経験」について、いくらか考察を付け加えておこう。たとえば子供が数を数えながら手鞠を突いている状況を考えてみる。子供は手鞠を地面に弾ませ、数を数えている。そしてときどき、「わあ、今日は調子がいいぞ」とか、「ちょっと、疲れたけど、まだがんばれるぞ」などと考えているかもしれない。

 子供が無心に手鞠を突くとき、ときには今日はいい天気だなとか、少し汗をかいたから、一休みしょうかとか、いろいろ考える。むしろ手鞠を突くのが上手になるほど、ゆとりが出来て手鞠を楽しみながら、いろいろと考えるかもしれない。

 もの事に熟練するということは、そういうことではないか。たとえば自動車の運転でも、初心者の頃はすごく意識を使って集中するが、慣れてくるとほとんど気を使わない。車を運転しながら、色々なことを考え、車の運転そのものはほとんど「無意識」で行っている。反省的意識がなくなるという意味で、純粋状態に近づいてくる。

 文章を書くときでもそうで、初心の頃はいろいろと表現に気を使うが、慣れてくると、あまり表現に苦労することはなくなる。むしろ内容に意識を使う。内容を考えるだけで、自然に言葉が形成され、文章が作られていく。

 つまり西田の言う「直接経験は純粋経験である」という命題が成り立つには、そこにこうした達成(統一)がなければならない。「直接経験は純粋経験である」ということは、すでに人間はその出発点で「達成」を恵まれているということになる。

「混沌」が「純粋」であるために、私たちには大いなる恵みが与えられていなければならない。したがって、純粋経験ということの意味を深く尋ねていけば、私たちはそこから、必然的に「宗教的なもの」に出会わざるを得なくなるのだと思う。こう考えると、西田の言う「純粋経験」は親鸞の「絶対他力」へと至る出発点だとも言える。私は「善の研究」にこうした道のりを読んだ。


2001年01月26日(金) 後生畏るべし

 高校3年生の長女が学校帰りに、地下鉄の中でこんな出来事に遭遇したという。車内はちらほらと空席があるくらいの混みようだった。長女の斜め前の初老の男の隣が空いていた。そこへ、男子の高校生が座ろうとした。

「高校生は立っていろ」
男は座ろうとした高校生の背中を突き飛ばしたので、その痩せた男子生徒は押し出されて、あやうく前に倒れそうになった。それを見て、長女はその男子生徒がかわいそうになった。同時にその見るからに傲慢そうな男に腹が立った。

 男は中肉中背のがっしりした体格をしていた。対照的に高校生は線が細く、いかにも気が弱そうなタイプである。もし体格のいい男子生徒だったら、男はどんな対応をしただろう。男は「今時の高校生は根性が腐っている」などと、大きな声でしゃべり始めた。風邪気味で体調が悪くて座っていた長女も、なんとなく座っているのがいけないような、肩身の狭い思いがしてきた。

 つぎの駅で、長女と中学時代に同級生だったS君が乗ってきた。穏和なS君は長女を見て、軽く微笑したあと、斜め前の男の横が空いているのに気付いて、そこへ近づいた。
(そこは駄目)
と声を掛けたくなったが、どうしょうもなかった。S君も前の高校生と同じように背中を思い切り突かれて、前のめりになった。

「高校生は座るな」
男は同じように声を荒らげた。それから、前に立つS君を押しのけるように、近くの年輩の女性に声を掛け、「奥さん、どうぞこちらに腰をおかけなさい」と促した。女性は「いえ、もうすぐですから」などと遠慮していたが、再度男に促されて、男の隣りにしぶしぶ腰を下ろした。

 S君は男の前に立ったままだった。前の男子生徒は押し出されたあと、気まずそうに隣りの車両に移ってしまったが、S君は男の前に毅然として立っている。その後ろ姿を眺めながら、長女はS君と男の間がこのままですみそうもないと思った。

 S君は小柄だったが、正義感が強く、はっきりものを言うタイプだった。中学生の頃、クラスで担任の先生が最近遅刻が多いので、その件についてクラス討論をしたいと言ったときも、S君は真っ先に手を上げて、「僕は遅刻をしたことがありません。遅刻をしている人たちから、一人ずつ理由を聞い下さい」と発言した。誰に対してもものおじすることなく、真っ直ぐに意見を言う性格の彼が、男の理不尽な仕打ちにどう対応するか、長女は少し心配でもあり、またいくらか期待する気持もあって、成り行きを見守っていた。

 男は隣の女性を相手に、高校生の悪口を言い始めた。「自分勝手で、礼儀を知らない奴が多くて困る。親の顔が見てみたものだ」などと、言いたい放題である。前に立っているS君の毅然とした態度が気にいらないのだろう。まるで喧嘩を売るような調子だった。

 男の高飛車なものいいが一段落したところで、S君がしずかに口を開いた。
「僕は空いていたから座ろうとしたのです。もし、座れたとしても、だれか年輩の方が立ってみえたら、席をゆずります。これまでもそうしてきましたし、今回もそのつもりでした。だから、あなたからこういう失礼な仕打ちや非難を受けるいわれはないと思います。それから、あなたは親の顔をみたいとおっしゃいましたが、僕は両親を尊敬しています。両親まで侮辱されることはないと思いますが、どうでしょうか」

 S君の声は落ち着いていて、車内によく響いた。しんとした乗客の視線が男とS君の方に注がれたが、男は急に黙り込んだ切り、青年の視線を避けるようにして、しきりに気まずそうに咳払いをするだけ。沈着冷静なS君を前にして、だれの目にも男の敗勢は明らかだった。長女は思わず、(やったね、S君)と心でつぶやいたという。

 論語に「後生畏るべし。いずくんぞ来者の今にしかざるを知らんや」とある。若い者を無下におとしめることは教育的だとは言えない。若い者の将来の可能性を尊び、これを自らを超えるものとして畏敬することが、年輩者のつとめであり、また楽しみでなければならないのだろう。


2001年01月25日(木) 集団的狂気の世界

「飛蝗」という言葉がある。バッタは普段は単独でいるが、干ばつなどで環境が悪化すると幼虫が集まり、体から分泌物を出してお互いに刺激し合って体が黒ずんだ脂ぎった群生相のバッタになる。群生相のバッタはやがて群を作り新天地を求めて大移動を始める。天をも暗くするこの凶悪なバッタの大群が「飛蝗」で、日本でも明治時代北海道に発生したことが記録に残っている。

 動物であれ人間であれその集団の生存が危機に瀕したとき、普段では考えられないような行動をするものだ。町の善良な郵便配達夫や田舎の農夫が異国の戦場では銃を握り別人のように平気で人を殺す。そして戦争が終わるとまたもとの善良な市民に戻り、何食わぬ顔で郵便を配ったり畑を耕す。

 幸いにして戦後生まれの私はそうした体験をしないで済んだが、私の父親の世代は歴史の成り行きでこうした集団的狂気の中に身を置かなければならなかった。私は自分の父親が異国で殺人者の一派であったことを残念に思う。しかし、だからといって父を非難できるかどうか疑問だ。もし私も父の立場に置かれていたら同様なことをしたに違いないと思う。我々に、父の世代の残虐行為を非難する資格があるのだろうか。

 ところで今かりに再び同じような状況になり、我々が又同じ過ちを繰り返すようであれば、その行為は非難されるべきだろうか。我々はイナゴと違って過去の歴史から学ぶことができると考えれば、答えはイエスだろう。しかし我々も危機的状況に陥れば、イナゴと同じく特別な本能(DNA遺伝子の宿命的な配列)によって、再び「群生相」となって狂奔するのではないか。

 これは人間性に対するあまりに悲観的な見方かも知れない。しかし私はこの可能性を否定できない。そして我々はこうした可能性を勘定に入れて、同じような悲劇を繰り返さないために、より慎重に社会の未来を考えるべきだと思う。イナゴと違って我々は理性を持っている。その理性が健全なうちに、それを最大限働かせることでしか、この危機を回避する道はない。

 つまり事態が悪化する前に、その予兆の段階で、その危機に至る可能性を排除するしかないのだ。人間の理性に信頼を置きながら、しかもそれをあまりに過信しないことが大切だと思う。


2001年01月24日(水) 神霊の宿るところ

 高校の頃の古典の授業で「枕詞」について習った。たとえば「あしびきの」は「山」にかかる枕詞である。「むらぎもの」は「心」にかかり、「ひさかたの」は「光」にかかる。それから清少納言の「枕草子」のなかから、何編か学んだりした。ところで、この「枕」とはなんだろうか。

「我が古代信仰では、神霊の寓りとして、色々の物を考えた。其の中でも、祭時に当たって、最大切な神器を託宣する者の、神霊の移るを待つ設備が、『まくら』である。だから、其の枕の中には、神霊が一時寓るとせられたのである。その神座とも言うべき物に、頭を置くことが、霊の移入の方便となるので、外側の条件は、託宣者が仮眠すると言ふ形を取る訳である」(折口信夫『文学様式の発生』)

 折口によれば、「まくら」とは「まくくら」で、神霊がやどる聖なる場所だという。そしてそこに頭を付けることで、神霊が人の方に移ってくる。だから、歌の中の枕詞も神霊を呼び込む、「歌にとって生命ともみえる大切なもの」である。

 しかし時代が下がると、「枕」からこの呪性が薄れてきて、単なる寝具でしかなくなり、「枕詞や歌枕も、人間に枕あるがごとく、歌の頭部にすえるための名」だとしか受け取られなくなった。しかし、枕詞が歌の生命標として中枢部をなしていたことは、万葉集の歌を詠めばいくらか実感される。

 朝影に 我が身はなりぬ 玉かぎる ほのかに見えて 去にし子ゆゑに
 
 たまゆらほのかに見えて去っていった少女によせる思いを詠んだ歌である。柿本人麻呂の若い頃の歌だと思われるが、口ずさんでいるうちに胸がときめいてくる。

「朝影」は朝日によってできる細長い影で、ここでは身のやせ細った様子を形容している。「玉かぎる」のカギルは、カグヤのカグと同根で、玉がほのかに光を出すところから、「ほのか」「はろか」「夕」「日」に掛かる枕詞になった。「玉」はまた「魂」であり、「たまふり」「たましずめ」のタマである。

 古代人は玉に魂が宿ると考えており、玉が触れ合うとき、中から霊魂が出てくると信じていた。「たまかぎる」という言葉にはそうした神秘な時代の響きが残っている。こうした力のある言葉によって、「去にし子」へのはかない思慕が、玲瓏と神秘的に描き出されている。切実な恋の思いや憧れを、美しい憧憬のなかの心象風景として捕らえた名品ではないだろうか。

 信濃なる 千曲の川の 細石(さざれし)も 君し踏みてば 玉と拾はん

 それにしても、こうした玉のような清らかな歌を産み出した万葉の時代の人々は、どんな生き方をしていたのだろう。恋愛観や人生観はどんな風だったのか、歌を口ずさんでいると、いろいろと想像させられて、興味が尽きない。


2001年01月23日(火) 聖なる「岩」

 エルサレムの中心をなす神殿の丘の上に、一個の「岩」があるらしい。そして、この岩はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教のそれぞれにとって、それぞれ「聖なる存在」として特別な意味を持ち、礼拝の対象になっているという。

 まず、ユダヤ教徒にとってこの「岩」は何か。それはアブラハムが神に忠誠を誓うために息子のイサクを乗せて殺そうとした場所だという。したがって、このいわれのある岩を祭るために、ソロモン王がここに神殿を築き、この岩のある丘が「神殿の丘」と呼ばれるようになった。

 ところがキリスト教徒にとって、この岩は別の重要な意味を持つ。神殿の丘にある「岩」は、キリストが十字架にかけたれて昇天した場所であり、岩にある窪みはそのときのキリストの足跡だというのだ。だから、岩を取り囲むドームはやがてキリスト教の聖地になった。

 それではイスラム教徒にとって、この岩はどんないわれを持つのか。コーランに、神がモハメッドをメッカから「至遠の地」(非常に遠い場所)へと連れていったというくだりがある。その「至遠の地」がエルサレムの神殿の丘で、丘の中心の「岩」の窪みは、モハメッドがメッカに帰る為に空に飛び立つときの足跡だという。( http://tanakanews.com/ 参照)

 昔読んだ福翁自伝に、お宮のご神体をこっそり覗いてみたら、ただの石ころだったので、別の石を拾ってきてとりかえた。そして大人たちが相変わらずそれを後生大事に礼拝しているのを見て、こっそり笑っていたという話があった。福沢諭吉の少年時代の愉快なエピソードである。エルサレムの丘にある「岩」もこのたぐいではないかと考えてしまうのは、少し不謹慎に過ぎるのだろうか。


2001年01月22日(月) 「日本沈没」に備えて

 野口悠紀夫さんが、新聞や雑誌のインタビューで、「日本がどうなるかは、あまり重要でない」と主張している。彼は「超整理学」などの著書で有名な東大の教授だが、日本経済の構造改革の必要性について早くから警鐘を鳴らしてきた国際派の経済学者である。構造改革の立ち遅れ、政治家の資質低下など、日本の将来を悲観して、いよいよ日本を見限ったのだろうか。彼はこのように書いている。

「日本人が海外で個人として活躍するには、言葉の問題がある。しかし最も重要なのは、活動の場が国内に限定されないと認識することだ。これまでは、日本の経済成長が急速であったため、生活環境が異なり、知り合いも少ない海外にわざわざ職を求める必然性は乏しかった。しかし、事態はすでに大きく変わっているのである。日本の国内でベンチャーが成長できる環境整備を待つよりも、海外で事業を起こすほうがずっと早い」(朝日新聞2000/12/09、以下同じ文章から引用)

 日本の国内の構造改革はもはや絶望的な状況になりつつある。国債はふくらむ一方だし、金融機関には20兆円以上の公的資金を投入しながら、不良債権の償却は一向にすすまない。もはやだれの目にも日本という国の経済的破綻はあきらかである。しかし本当に恐ろしいのは経済的破綻ではなく、モラルの破壊だろう。政治家も官僚も経済界も、すっかり腐敗しきっている。そして国民もただなりゆきに身をまかせることしかできない。

 こうした国の全面的な機能不全と破綻を前に、資産者階級はすでにほとんどの資産の国外退避をすませているという。彼らにとっては国が破綻しても、経済的実害はない。日本が住み難くなれば、海外に移住して、そこでのんびりと豪華な余生を楽しむことができるし、ビジネスだって出来る。日本にしがみついて、不利益や不愉快を被ることはない。やがて日本を代表する大企業も、海外に本社を移し、税金の高い日本から撤退することを考えるようになるだろう。

「年金受給者、公共事業に依存する産業、規制や保護政策で守られる産業にとっては、国の命運が決定的に重要だ。しかし、自立できる能力を持った人たちにとって、国家の意義はますます低下する。思考法をそのように変えることこそ重要だ」

 野口教授に言われても、われわれ庶民はそう簡単に思考法が変えられるかどうか。沈没する船に取り残されて、割の合わない目をみるのが、たぶん大方の我々の運命だろう。しかし、この沈没する国家と運命をともにしたくなかったら、自立した個人となって、海外のどこでも生活できるだけの力量をみがくことが必要である。

 私たちの世代にはそれはむつかしいことだが、若い世代の人は、このことを考えて人生の設計をしたほうがよい。考えてみれば、それはとてもやりがいのある、面白い生き方ではないか。国という古いしきたりや発想法にとらわれない新しい生き方が、これからの日本人にもとめられている。賢い人たちは、もうそうした生き方を始めているのだろう。



 野口悠紀夫さんが、新聞や雑誌のインタビューで、「日本がどうなるかは、あまり重要でない」と主張している。彼は「超整理学」などの著書で有名な東大の教授だが、日本経済の構造改革の必要性について早くから警鐘を鳴らしてきた国際派の経済学者である。構造改革の立ち遅れ、政治家の資質低下など、日本の将来を悲観して、いよいよ日本を見限ったのだろうか。彼はこのように書いている。

「日本人が海外で個人として活躍するには、言葉の問題がある。しかし最も重要なのは、活動の場が国内に限定されないと認識することだ。これまでは、日本の経済成長が急速であったため、生活環境が異なり、知り合いも少ない海外にわざわざ職を求める必然性は乏しかった。しかし、事態はすでに大きく変わっているのである。日本の国内でベンチャーが成長できる環境整備を待つよりも、海外で事業を起こすほうがずっと早い」(朝日新聞2000/12/09、以下同じ文章から引用)

 日本の国内の構造改革はもはや絶望的な状況になりつつある。国債はふくらむ一方だし、金融機関には20兆円以上の公的資金を投入しながら、不良債権の償却は一向にすすまない。もはやだれの目にも日本という国の経済的破綻はあきらかである。しかし本当に恐ろしいのは経済的破綻ではなく、モラルの破壊だろう。政治家も官僚も経済界も、すっかり腐敗しきっている。そして国民もただなりゆきに身をまかせることしかできない。

 こうした国の全面的な機能不全と破綻を前に、資産者階級はすでにほとんどの資産の国外退避をすませているという。彼らにとっては国が破綻しても、経済的実害はない。日本が住み難くなれば、海外に移住して、そこでのんびりと豪華な余生を楽しむことができるし、ビジネスだって出来る。日本にしがみついて、不利益や不愉快を被ることはない。やがて日本を代表する大企業も、海外に本社を移し、税金の高い日本から撤退することを考えるようになるだろう。

「年金受給者、公共事業に依存する産業、規制や保護政策で守られる産業にとっては、国の命運が決定的に重要だ。しかし、自立できる能力を持った人たちにとって、国家の意義はますます低下する。思考法をそのように変えることこそ重要だ」

 野口教授に言われても、われわれ庶民はそう簡単に思考法が変えられるかどうか。沈没する船に取り残されて、割の合わない目をみるのが、たぶん大方の我々の運命だろう。しかし、この沈没する国家と運命をともにしたくなかったら、自立した個人となって、海外のどこでも生活できるだけの力量をみがくことが必要である。

 私たちの世代にはそれはむつかしいことだが、若い世代の人は、このことを考えて人生の設計をしたほうがよい。考えてみれば、それはとてもやりがいのある、面白い生き方ではないか。国という古いしきたりや発想法にとらわれない新しい生き方が、これからの日本人にもとめられている。賢い人たちは、もうそうした生き方を始めているのだろう。



2001年01月21日(日) フイリピンも政変に想う

アメリカの43代大統領に共和党のブッシュ氏が就任した。親子二代の大統領就任は、1825年のアダムズ大統領以来二人目だという。「アメリカンドリームはすべての人のものであると語りかけたい」とインタビューで言っていたようだが、二世(三世?)議員のこの人に言われても、あまり説得力があるとは思えない。とはいえ、国民が選挙で選んだピカピカの大統領である。

 フイリピンでも政変があり、アロヨさんが大統領に就任した。辞任したエストラダ氏は映画俳優で、3年前圧倒的な国民の支持を得て大統領になったが、腐敗と縁故主義が表面化して、あっというまに支持を失った。それにしても、大統領の辞任を求めたピープル・パワーはすごい。民衆の力を前に、軍部の幹部や腹心たちも次々と寝返って、弾劾集会に駆けつけた。

 アロヨさんは俳優出身のエストラダ氏とちがって、もと大統領の娘という毛並みのよい二世政治家である。米ジョージタウン大学でクリントン大統領と同級生で、経済学の修士号を持つという知的エリートでもある。これまでエストラダ大統領を副大統領として補佐してきたが、ここにきて彼女も完全に彼を見限ったようだ。

 こうした海外動きをみるにつけ、派閥のボスの談合で成立する日本の首相はどうにかならないものかと思う。そこで期待されるのは「首相公選制」だが、民間の「新しい日本をつくる国民会議」(亀井正夫会長)が最近まとめたアンケート調査によると(対象は全国会議員)、54%の議員が首相公選制を「前向きに検討すべき」と答えている。政党別で最も高かったのは民主党で、同党議員の73%がそう答えた。そして自民党議員も、回答者のうち42%が「前向きに検討」を支持している。

 不思議なのは本来革新系だとされる左翼の方から、首相公選制の声が挙がらないことだ。その理由は、日本のインテリは国民を信用していないからだと思う。たしかに首相公選制にすれば、エストラダ氏のような人気俳優や、石原慎太郎のような右翼的な政治家が首相に選ばれる公算は大きいだろう。

 しかし、それも民主主義の学習ではないだろうか。このままではいつまでたっても日本に民主主義が根付くことはないだろう。世界は大きく変わりつつある。この世界の変化に迅速に対応できる、若くて知力のあふれた指導者を、私たちは自分たちの手で選びたいものである。そのためにも、議院内閣制の早急な改正を要求したい。




2001年01月20日(土) 甘えと依存の世界

 今日はセンター入試第一日目である。今日は外国語や数学の試験があるということで、高校三年生の長女も受験に出かけた。今年の出願者は57万人だという。さいわい愛知県地方は天候はまずまずのようだ。全国的にも落ち着いているのではないだろうか。

 長女は中学生の時から看護婦になりたいと言っていた。だから高校も普通科ではなく、県立高校の看護科に進んだが、病院実習などしているうちに、是非大学へ行きたいと言い出した。大学へ行けば看護婦だけではなく、保健婦などの資格も取れるし、職業選択の幅が広がる。合唱部で親しかった先輩が去年大学に進学したことも発憤材料になったようだ。

 進学については、私は本人の意思を尊重することにしている。ただし、20歳を過ぎたら、経済的援助はあてにするなと言ってある。援助しようにも私たちに経済的余裕がない。奨学金やアルバイトで自活することを考えてもらうしかない。

 私たち夫婦は大学を出ている。しかし、娘たちには「大学へ行け」と言ったことはない。行きたければ行っていいが、そのかわり援助できるのは20歳までだよと言い続けている。これは長女だけにではなく、次女にも同じだ。

 アメリカでは高校を卒業したら、親元を離れるのが当たり前らしい。本人は奨学金やアルバイトで自活し、親が学費や生活費の仕送りなどしない。ところがどうしたわけか、日本ではおおかたの親が学費や生活の面倒まで見ている。20歳を過ぎて、これでは情けない。

 そうは言っても、文化の違いや制度の違いがある。たとえば奨学金制度を例に取ると、日本の場合、親の収入で制限がもうけてある。これなどあきらかに、奨学金は本人ではなく、親が借りて、親が返すものだという通念に立っている。何でもアメリカ並でよい訳ではないが、日本も考え方や制度を変えるべき時かも知れない。

 ところで大学時代の私は、学生運動に関わったあげく2年も留年して、家から仕送りがカットになった。それで家庭教師に加え、朝刊と夕刊の新聞配達をして自活をした。友人と共同でお寺の安い間借りを見つけ、自炊生活もした。そうしたなかで、社会の厳しい現実を知り、真剣に勉強もするようになった。

 新聞配達をするようになって、留年もしなくなったし、大学院に合格する学力も着いた。それよりもなによりも、社会人として自立することへの自信と勇気を与えられたことが大きい。そこで、私は今の若者に言いたい。一刻も早く親から自立する勇気を持てと。親などあてにせず、自分の力で運命を切り開く力を養ってほしい。

 同時に、私たち親の世代も自分に厳しくなろう。老後を子供たちに依存しょうなどと甘ったれるな。独立した個人として、死ぬ間際まで自立して生きていく覚悟を持つべきだ。さらに大切なことがある。これ以上環境を破壊するな。モラルを低下させるな。国民一人あたり500万円以上になる公の借金をどうにかしろ。若い世代に負の遺産を押しつけて恥じない大人ばかりでは、若者たちもやる気を失う。若者が生き生きとしていない国に、未来はない。


2001年01月19日(金) 橘曙覧の世界

 今日は江戸時代末期の福井の歌人、橘曙覧の歌を紹介しよう。風にそよぐ一本の樅の木のような趣の、自然でのびやかな歌である。
 
 たのしみは心にうかぶはかなごと思いつづけて煙草すふとき

 たのしみは心にかなふ山水のあたりしづかに見てありくとき

 たのしみは昼寝せしまに庭ぬらしふりたる雨をさめて知るとき

 たのしみはあき米櫃に米いでき今一月はよしといふとき

 たのしみはそぞろ読みゆく書の中に我とひとしき人をみし時

 彼は生前全く世間的には無名だったが、死後、長男が彼の遺稿をまとめて歌集を出したところ、偶然それが正岡子規の目にとまり、子規が、「橘曙覧こそ実朝以来のただ一人の歌人である」と絶賛して、名前が世に知られることになった。

 彼はもともと裕福な商家の跡取りに生まれたが、三十五歳の頃家督を弟に譲り、それから妻と二人の子供をかかえて、あばらやで貧しい生活をしながら、歌を詠む生活を送っていた。福井藩主松平春嶽が彼の評判を聞き、仕官するように促しても、「自分はすずなのような地味な存在なのです。田畑に在ればこそ花なのです」と答えて応じなかったと言う。

  福井藩主が訪れた曙覧のあばらや跡が、私の福井の実家の近くにある。私は福井に帰省する度に訪れて、彼の「独楽吟」の歌を口ずさみむ。

 たのしみは空暖かにうち晴れし春秋の日に出てありく時

 人臭き世にはおかざる我がこころすみかを問わば山のしら雲

 豪商の家督を弟に譲った後、彼は生家から援助を受けた形跡がない。松平春嶽の仕官の要請を断ったのにも、彼の潔い意志力の冴えと、自由人としての気概が感じられる。「神仙の姿あり」と評された彼の風貌の気品も、こうして生まれたのだろう。

「誠の人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰か知り、誰か伝えん。これ、徳を隠し、愚を守るにはあらず。本より、賢愚・得失の境にをらざればなり」(徒然草)

 橘曙覧は良寛と並んで、私がもっとも好きな歌人の一人だ。同郷のよしみということもあるが、妻子とともに市井にあって生活の苦労をしながら、しかも一途に美的な生涯を貫いた彼の生き方はすばらしいと思う。


2001年01月18日(木) <おろち>の棲む世界

 私たちが目にしている様々なカタチの中には、とくに人目をひく特別なカタチがある。そして日本人はそのようなカタチを何者かの象徴としての<かたち>ととらえ、その<かたち>に宿る何者かを、<神>だと考えた。たとえば姿の良い山があったりすると、それを神の宿る<かたち>として崇める。そして川や岩や一本の大木をもご神体として崇める。またイノシシやヘビなどの動物もその生命力に威力を感じ、これを<神>と考えた。

 さらに、<かたち>にはそのような自然物としての<かたち>だけではなく、人間が造形した<かたち>がある。たとえば、エジプトのミイラの棺や日本の古墳などそうである。それらは死者を弔うために考案された特別な聖なる<かたち>だと考えられる。

 お正月に飾る注連縄や鏡餅もそうした聖なる<かたち>の一つだろう。それでは何故それらの人工物が聖なる<かたち>として通用しているのだろう。その理由の一つに、それがある<聖なるもの>の姿を象徴していることがあげられる。

 たとえば鏡餅の場合を考えてみよう。鏡餅のカガミとは何か。実はカガミというのはヘビの古語だそうで、たとえば岐阜県に各務ヶ原(かがみがはら)という地名があるが、これは「ヘビの原」という意味である。田圃に立つ案山子のカカも、もともとはヘビの意味で、ヘビはイタチやモグラなど田圃を荒らす動物から田を守ってくれる大切な存在だった。

 話を鏡餅に戻すと、たしかに餅を重ねた姿はとぐろを巻いたヘビの姿をしている。蛇は日本の古代信仰では神として恐れられ信仰されていた。その名残が鏡餅に残っているのだと考えられる。このばあい、カガミモチの聖性はその独特な<かたち>に由来するわけである。そしてその<かたち>の原型が<へび>だということになる。

 それでは、日本の古墳の<かたち>はどこから由来したのか。たとえば大和に三輪山がある。そして、この山の麓に日本最古の前方後円墳の箸墓古墳がある。卑弥呼の墓ではないかなどともいわれているが、日本書紀には次のような記述がある。

「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)は、孝霊天皇の皇女として生まれ、長じて大物主神の妻となった。夫である大物主神は昼間姿が見えず、夜にだけ訪れる。姫は夫に姿を見せてほしいと頼んだ。すると翌日、櫛笥(くしの箱)に入った小さな蛇となって現れた。それを見て姫が驚いた為、大物主命は恥をかかされたと言って三輪山に隠れてしまった。姫は後悔して陰部を箸で突いて死んだ。だから人々は姫を葬ったこの墓を箸墓と呼ぶようになった」

 民俗学者の吉野裕子さんによると、箸墓をその嚆矢とする日本の前方後円墳の<かたち>も、蛇の姿をかたどったものだそである。つまり円墳が蛇の頭で、残りが蛇のしっぽらしい。

「箸墓の名称、及び、その形状はいずれも蛇を暗示するものとして受けとられる。三輪山の山麓に横たわる箸墓は、日本最古の前方後円墳として知られる。墓は死者を祖霊に合一させる、或いは祖神の国に新生させる擬似母胎と古代日本人は考えていたと推測される」(三輪山と信仰神奈備山考、以下の引用も同じ)

「そのような彼らにとって、墓こそはもっとも祖神を彷彿とさせる形に築かれるべきものであったに相違ない。・・・遺体の永眠する墓が、蛇を象って造型される。遺体、棺の場合がエジプト、墓の場合が日本であって、両者に共通するものは死における祖霊への回帰である」

「柄鏡型といわれる箸墓。この日本最古の前方後円墳こそ一身を犠牲にして祖神に仕えた蛇巫の墓としてもっともふさわしい形と名称を備えたものではなかったろうか。人々はその死を悲しみ傷(いた)んだが、その想いは想像を絶する巨大な墓の造営となり、ついには「昼は人つくり、夜は神が造った」という神人合力の伝承を生むに至ったのである」

「前方後円墳のそもそもの由来については、考古学界で種々の説が唱えられているが、私は蛇の頭と、それにつづく尾の造型を推理する。もちろん後方の円部が「頭」。前方の長方形の部分が「尾」である。また、水は、蛇の生死にかかわる一大事の脱皮に欠かせぬところのものである。箸墓をはじめ、全国の前方後円墳には必ず豊かな水をたたえた濠がめぐらされているのも、それを意識してのことであろう」

 さらに同じく吉野裕子さんによると、三輪山の三輪という名前も、ヘビがとぐろを巻いた姿からきたそうだ。つまり、<かたち>に神が宿ると考えた日本人が、山の形に蛇の姿を見て、これをご神体と考え、またその墓の造形として、蛇の<かたち>を選んだということらしい。蛇は現世においても、来世においても、さかんな生命力の象徴であり、またそのカタチの独特さから、<神>として崇拝するに十分な生き物だったのだろう。

 今回はいかにして<かたち>の中に<神>が宿るかを考えてみた。もともと人間に威力を感じさせる存在があり、そうした存在のもつ<かたち>を人間は<神>がやどるものとして崇めた。古代日本人にとって、そうした存在の一つが<蛇>であり、その蛇の<かたち>が聖なる存在として崇められ事になったと考えられる。鏡餅や注連縄、案山子、前方後円墳、これらの背後に神聖なもの=蛇の<かたち>が伏在していた。

 ところで、エジプトのピラミッドは何の象徴なのだろう。私はこれは彼らがかってその麓で暮らしていた、聖なる山の象徴ではないかと考えているが、確信があるわけではない。もう少し勉強してみようと思っている。


2001年01月17日(水) 偏差値の世界

 日経新聞「教育を問う」によると、昨春、東大医学部の医師国家試験の合格率が八割を割り、国公立五十一大学の中で四十番目になったのだという。教授会では「学部長は腹を切れ」などという激しい言葉が飛び交ったらしい。

「東大医学部に進む理科三類の入試偏差値は全国一。だが四年生の留年率は十五%まで上昇した。元医学部長の矢崎義雄国立国際医療センター総長は、大半の学生は優秀だと断りつつ「入学後に目標を失って無気力になる人もいる」と話す。患者とうまく意志疎通ができない医師の卵たちに悩んだ東大は、一九九九年度入試から理科三類だけ、全員に面接を課している」(2000/10/25)

 私のかっての教え子のT君は、東大理科一類に進学したが、夏休みに母校へ遊びに行ったら、進路担当の先生に「どうだ、もう一度受験しないか。今度は理三でどうだ」と声を掛けられたという。夏休みに私の家に遊びに来て、まんざらでもないような顔でいうので、驚いたことがある。結局彼はそのまま数学科に進み、東京海上火災に就職した。

 しかし彼の同期生のS君は名大の理学部に進学していたが、母校に遊びに行ったばかりに、「お前、来年医学部を受けてみないか」と話を持ちかけられて、結局翌年名古屋市立大の医学部を受験した。こうしたことが、私の身近で起こっているのを眺めながら、これでは日本の科学技術の将来は暗いなと思ったものである。

 別に医学部に進学するのが悪いわけではないが、ただ受験の偏差値が高いと言うだけで、医学部を選ぶというのはどうだろうか。進学塾や高校の進路指導のありかたが問われても仕方がないと思う。東大医学部の医師国家試験の合格率が八割を割り、国公立五十一大学の中で四十番目になったと聞いて、私はさもありなんと納得してしまった。 
 


2001年01月16日(火) ほんとうの豊かさを求めて

 日本の公共事業は景気対策の一貫として行われている。アメリカもニューディール政策が有名だが、今日、公共事業を景気対策、失業対策で行う国はない。それでは財政が破綻し、健全な経済の発展も阻害されるからだ。

 しかし日本は景気対策のかけ声のもと、万博を計画したり、誰も使わない空港や港湾整備、農道を作り続ける。コンクリート使用量は、国土が20倍以上もあるアメリカよりも多く、川や海は死に絶え、環境破壊が進んでいる。毎年100万人の奇形児・流産があり、中高年を中心に突然死が20万人。世界で一番汚染されているのが日本の土壌である。こうした統計をみていると背筋が寒くなる。

 さらにこれが政・財・官の癒着と利権を生み、日本の政治を絶望的な状況に陥れている。公共事業は必要だが、これまでのような景気対策を目的にしたやり方は改めなければならない。失業対策をかくれみのにして、政治家や業者が国民の税金を使ってうまい汁を吸うのをこれ以上許すわけにはいかない。

 それでは景気が悪くなり、失業者が溢れるではないかと言う人がいるが、失業対策など簡単なことで、労働時間を減らせばすむことだ。単純計算では5パーセントの失業率をなくすには、労働時間を5パーセント減らすだけでよい。週休2日制を完全実施するだけでお釣りが来る。給料が5パーセント減ったとしても、無駄な税金を払わなくてすむ。国の財政も改善し、癒着がなくなって政治家のモラルも向上し、やがて経済も正常化するだろう。長い目で見れば、経済的にもマイナスにはならない。

 そもそも日本で失業者が増え続けているのは何故だろう。政治や経済の舵取りの失敗による景気の失速よりも、もっと本質的なことがある。失業の増加は、物やサービスが豊かに行き渡って、供給が過剰になっているためである。そして供給が過剰になったのは不況で需要が落ち込んだ為ではなくて、私たちの暮らしが豊かになって、ものが周囲にあふれかえり、需要の伸びが供給力についていけなくなったからだ。

 もっと本質を言えば、科学技術の進歩によって、生産性が著しく向上したことが原因である。たとえば、この30年間に日本の生産性はおよそ10倍になった。これはつまり、同じ人間が同じ労働時間で、10倍の製品を製造できるようになったということである。需要の方も10倍伸びていれば問題はないが、人間の欲望は無限だと言っても、それほどの発展性はない。日本はこの30年間、外国に洪水のように輸出することで、帳尻を合わせてきたわけだが、もうそろこんな他人迷惑なやりかたは国際社会で通用しなくなってきている。

 IT革命によって、生産性は飛躍的に高まるとおもわれる。生産性が2倍になれば、供給力が2倍になる。しかし需要が変わらなければ、労働者の半分は失業しなければならない。現に産業革命期のイギリスで同じようなことが起こり、紡績機械を打ち壊すラッダイト運動が起こった。科学技術の進歩が必ずしも人々を幸福にしないということが、こうしたことからも理解できる。

 私が高校時代に読んだバートランド・ラッセルの本に、「生産性が2倍になったら、労働時間を半分にして、余暇をたのしむべきだ」と書いてあった。私はそのとき、イギリスのような豊かな社会だから言えることだと思ったが、今の日本の状況であれば賛成したい。社会を安定させ、人間が豊かな精神生活を楽しむためにも、ワークシェアリングの考え方を押し進めるべきだと思う。そして、地球をこれ以上汚さないためも、もう古い生産至上主義のモダニズムの発想は捨てなければならない。


2001年01月15日(月) 煩悩の世界

 仏教の十界論によると、人間が住む世界は「地獄界」「餓鬼界」「畜生界」「修羅界」「人間界」「天界」という6つの迷いの世界と、「声聞界」「縁覚界」「菩薩界」「仏界」という4つのさとりの世界に分けられるという。そして真理に目覚める前の人は、6つの迷いの世界を彷徨うことになる。

 つまりあるときは、餓鬼のように飢えて貪り、修羅のように憎しみに燃えて人と争う。ときには事業に成功して、巨万の富を蓄え、天にも昇る幸運を味わうかも知れないが、一寸先は闇の世界で、ガンを宣告され、余命幾ばくもないと知らされて、地獄に突き落とされるかも知れない。こうした心のさまよいを、仏教では六道輪廻と呼んでいる。人間の欲望の世界をこのように6つに整理して示されると、とてもわかりやすい。

 釈迦は、この迷いの世界からの解脱を説いた。そのためには世俗的な欲望(煩悩)を捨てて、人生の真理をもとめようとする精神的欲求(菩提心)に目覚めなければならない。「声聞」とはそうした精神的欲求に目覚めて、道を求め、修行を始めた者である。そしてその結果なにがしかの真理を体得した者を「縁覚」とよぶ。その真理を多くの人に分かち合おうとして努力するものを「菩薩」といい、その上に慈愛と真理を体現する「仏」という完全な悟りの世界がある。

 プラトンは人間が住む現象界を洞窟の牢獄にたとえている。そして、その奴隷である人間を理想の世界(イデア界)へ向かわせるものが愛の神エロスだと考えた。人間はエロスによって、美しいもの、真実なもの憧れるのである。そしてフィロソフィー(哲学)とはギリシャ語で知を愛することであった。仏教との対比でいうと、エロスは煩悩を菩提のあいだに位置する中間者ということになろうか。

 親鸞は「煩悩即菩提」と言っている。煩悩は薪で、菩提は火のようなものだという。薪を離れて、火は存在しない。煩悩の存在を認め、これを積極的に生かそうという姿勢がみられる。今日の心理学の言葉を使えば、「昇華」ということであろう。欲望を殺すのではなく、これを菩提心にたかめることが必要なのだろう。

 親鸞の生涯もまたこの事の実践であったように思われる。僧侶には許されていない妻帯をして、彼は僧籍を剥奪されて越後に流された。自らを愚禿親鸞と呼び、煩悩具足の凡夫と呼んだ親鸞の誠実さに注目したい。人間は誰しも煩悩を離れて生きることは出来ない。それでも、煩悩をより高い精神的欲求にまで高めることは出来る。

  手をあわすれば 洗われていく
  ふしぎなる この世かな
  かたじけなき ぼんのうの世かな
                 八木重吉


2001年01月14日(日) 「自然法爾」の世界

 私の通っていた高校は浄土真宗系のミッションスクールだったこともあり、毎週「仏教」の授業があった。1年生のとき、釈迦の生涯や教えについて習い、2年生で、法然、道元、日蓮などの鎌倉仏教の祖師たちについてならった。そして、3年生で親鸞の「歎異抄」を一年間かけて僧籍にある教頭先生からみっちりならった。

 私が哲学や宗教、文学の世界に入っていったのは、高校での仏教との出会いが大きいのではないかと思う。県立高校の受験に失敗して、やむなく通うことになった私立高校だったが、振り返ってみると、これは結果的に大変なプラスになったのではないか。仏教ではこれを「逆縁」という。

 中でも親鸞の言行録である「歎異抄」には魅了された。私は今も座右の書として読み返しているし、「歎異抄」にかんする市民講座などがあると参加して、その筋の専門家に「絶対他力」の教えについて聴いたりしたこともある。そうした中で、私がとくに惹かれたのが、晩年の親鸞の、「あるがままに」という教えである。

 親鸞が86歳の時書いた文章に「自然法爾ということ」と題されたものがある。これは「末燈鈔」の中に納められているが、その中に「はからいを捨て、善いとも悪いともはからわないことが自然(じねん)」であり、「阿弥陀仏というのは自然ということを知らせようとする手だてであります」と書いてある。

 簡単に言えば、自然とは「ありのまま」であり、ありのままであることが、すなわちさとりであると、晩年の親鸞は考えていたようだ。そしてありのままあるということは、すなわち大いなる阿弥陀の本願(他力)のなかに生かされてあるということだろう。

 正直言って、私は親鸞の主著「教行信証」は読む気がしない。他の経典の引用が多く、まだ彼の思想も充分熟していないと思われるからだ。しかし、80歳を過ぎてからの門徒にあてた手紙は信心の本質をずばりやさしい言葉で表現している。原文はむつかしいので、私はもっぱら「日本の名著8親鸞」(中央公論社)の現代語訳をたよりにして読んでいる。石田瑞麿さんの解説もわかりやすく、参考になった。

 親鸞は「信心を得た人の心は、常に浄土に住している」「信心を得るとき、すなわち往生する」(唯信鈔文意)と書いている。つまり親鸞にあって、往生とは死んでから行く来世のことではなく、この現世において私たち一人一人の身の上に現れるものだった。親鸞の仏教は死後の仏教ではなく、この現世を幸福に生きるための福音だった。少年時代から科学を愛し、大学・大学院では理論物理学を専攻した私は、もちろん死後の世界を信じない。しかし、そんな私をも包摂するおおきな世界が、親鸞の「自然法爾」の世界だと思う。


2001年01月13日(土) 滅び行く文明の世界

 朝日新聞に連載中の「新世紀を描く」という特集に、2005年愛知万博のプロジェクトチームリーダーで建築家の隅研吾(すみけんご)さんが、「建築型文明と決別しよう」という主張をのべている。彼によると近代を支配し、とくに21世紀にピークを迎えたのは「建築型文明」であり、これは「すべての問題を建築を建てることで解決しようとする文明である」という。

「幸せな家庭を築くためには、家という建物を築くことが必要であり、幸せな国家を築くためにはまず立派な公共施設が必要だと考えられたのである。・・・しかし、今や建築は少しも人々を幸せにしないことに人々は気付いてしまったのである。自然の方がはるかに心を癒してくれるし、IT(情報技術)は建築から得られるものとは比較にならないくらいの豊かな情報と体験を与えてくれる」

 私たちが文明と呼ぶものは、ほとんどがこの「建築型文明」であった。そして20世紀に入ってこの文明はピークを迎えた。その象徴が摩天楼に代表される高層ビル群であろう。高く大きく豪華な建築を建てることで、人々は自らの価値やアイデンティティーを確かめ、自らの文明を自画自賛してきた。しかし、ここへきてようやく、そうした物質至上主義の文明の幻想が破れ、その空虚さが認識されるようになってきた。

 ITの出現はこの傾向を加速する。たとえば電子政府ができれば、東京都庁のような巨大な役所はまるで必要なくなる。ノートパソコン一台に図書館のすべての蔵書の情報を納めることもやがて可能になる。そうすれば本棚に囲まれた立派な書斎も、巨大な図書館や美術館も必要でなくなるだろう。サイバースペースは巨大な情報を蓄積することが出来るが、その物理的スペースはほとんど無に等しいからだ。

 建築型文化にとってかわるのは、人と人の心の交流に価値を置く情報型文化ということになる。それはコンクリートと鉄、ガラスやプラスチックで出来た巨大な建物をつくることよりも、最小限の物質的資源を活用して精神世界のゆたかさを目指す精神文化である。だから巨大な建築群を必要としない。むしろ物質的には簡素な方向性を目指すのではないだろうか。

 未来の文明社会の人々は粗末な丸太小屋に住み、地球環境に配慮してほんの少しだけ生産活動をするだけで、あとは友人たちや家族との交流をたのしみ、自然を友とし、余暇を芸術や学問、スポーツなどに打ち込んで、それぞれの個性を磨くことで、生き生きとした人生を楽しむことだろう。

 そうした知恵のある時代が到来するよう、私たちはさっそく価値観を転換しなければならない。なぜなら、もう私たちに残されている時間はあまりないからだ。私たちが今、考えを変えなければ、私たちのわずか数世代のあとの人類は、廃墟のようにそびえる高層建築を眺めながら、汚染され環境の毒素に犯されて、絶望の中で息絶えるしかないだろう。

 すでに悪い兆しは充分ある。現状を放置すれば、カタストロフィーは近い将来必ずやってくる。私たちは今こそ亡びつつある文明に決別して、新しい精神文化の世界へと一歩を踏み出すべきときなのだろう。
 


2001年01月12日(金) 戒律の世界

 インドネシアで「味の素」の回収騒ぎが起こっている。製造過程で豚の膵臓から抽出した成分を使ったためだという。イスラム教の聖典コーランには豚は穢れた動物で、食べてはいけないと記されているそうだ。だから、これを口にすることは出来ない。

 なぜ、豚を穢れた動物だと考えたのだろう。昨日の毎日新聞の「余録」に、米国の人類学者マービン・ハリス氏の説が書いてあったので、紹介しておこう。彼によると、牛や羊と違って、豚を飼うには人間が食べる穀類を与えてやる必要があり、森林が破壊されて砂漠化したあとの中東の自然環境では、飼育にコストがかかりすぎる。それを食料から外すことは、砂漠化による食糧危機を回避する方策だったという。ちなみに、豚肉を食べることの禁忌は旧約聖書の「レビ記」にもあるらしい。

 簡単に言えば、豚は自然破壊を助長する動物だったのだろう。砂漠化しつつある環境に住む人々にとって、自然の豊かさを守ることは至上命題だった。そのために、旧約聖書やコーランで豚は穢れた存在だとされ、豚肉を食べることは宗教上の禁忌になった。

 イエス・キリストは「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。それだから、人の子は安息日にもまた主なのである」(マルコ伝)と説いている。「戒律」を絶対視するパリサイ人はこれを聞いて、イエスを殺す相談を始めるわけだが、イエスが命をかけて主張した新しい教えによって、多くの人々は戒律の支配する不合理の世界から解放された。

 戒律や掟と言われるものは、もともとは合理性をもち、何か大切な意味があったものだろう。しかし、時代が変わり、環境が変わる中で、その合理性が失われ、時には不合理で非人間的な因習でしかなくなってしまう。宗教は時代や環境によって変わらない永遠な真理を発見し、これを説くことに専念してはどうだろう。大切なことは「人間のために宗教や戒律があるのであり、宗教や戒律のために人間があるのではない」ということだ。


2001年01月11日(木) 「カオス」の世界

『荘子』(内篇7「応帝王篇」)に,有名な「渾沌(混沌)」の説話がある。

「南海の帝王と北海の帝王が中央の帝王である混沌に大層なもてなしを受けたので,二人は混沌の恩義に報いる相談をした。『人間の身体には誰にでも7つの孔があって、それで見たり聞いたり食べたりしているが混沌にはそれがない。恩返しに孔を空けてあげよう』といって、1日に1つづつ空けていったら7日目に混沌は死んでしまった」

混沌は今流の言葉でいえば「カオス」であろう。ギリシャ神話では、天地ができあがって最初に生まれたのが「カオス」らしい。旧約聖書では、天地創造以前の状態をカオスと呼んでいる。ギリシャ語の「カオス」と中国語の「混沌」、何やら音韻が似ているが、両者とも「もやもやとかごちゃごちゃ」という擬音語で、物事が未分化の状態で区別がつかない有様を言い、物事の始めを表す言葉だそうである。

 カオスについての考察はアリストテレスがしているが、同じ時期(紀元前300年頃)中国に荘子があらわれて、しかも同じような事を考えているところが面白い。ただアリストテレスの場合はカオスから秩序へという流れが目立つが、荘子の場合は、上の「混沌」の話でも分かるように、むしろ「混沌」を尊ぶ姿勢が感じられる。人為をしりぞけ、天然自然に生きることが人の道だと荘子は考えた。

「カオス」は現代の数学や科学の主要な研究課題になっている。自然現象や社会現象は実際「カオス」そのものと言っていいだろう。これに目鼻を付け、何とか人為的にコントロールしようとしても、相手はなかなかてごわい。そう易々と人間に目鼻を付けられて、おとなしく降参するやわな相手とは思えない。形勢が不利とみれば、死んだ振りくらいするだろうが、また不死身のように蘇り、人為のあさはかさを嘲笑するに違いない。

 この厄介な相手を敵に回すのではなしに、いかにこれを味方にして、上手に付き合っていくか、そうした方向に考え方を転換した方がよい。「カオス」は自然の生命の別名でもある。「カオス」との共生は、自然との共生でもある。「カオス」を「秩序」によって滅ぼそうとするのではなく、「カオス」の豊穣さをさらにひきだすような「秩序」を創造して、私たちの命そのものをさらに発展させる、そうした知恵のある生き方を心がけたいものである。結局、「カオス」を滅ぼして、亡びるのは、人間自身なのである。


2001年01月10日(水) 「であること」の世界

 丸山真男氏が岩波新書の『日本の思想』(1961年)の中で、価値には「である」価値と、「する」価値の二種類のものがあると書いている。たとえば、徳川時代の日本は典型的な「である」価値や論理で成り立っていた社会だった。丸山氏の文章を引用すると、

「そこでは出生とか家柄とか年齢とかいう要素が社会関係において決定的な役割を担っています。したがって、こういう社会では権力関係にもモラルにも、一般的なものの考え方の上でも、何をするかということよりも、何であるかということが価値判断の重要な基準となるわけです。大名や武士は、大名であり武士であるという身分的な「属性」のゆえに当然支配するという建前になっています。‥‥人々のふるまい方や交わり方もここでは彼が何であるかということから、いわば自然に「流れ出て」来ます。武士は武士らしく、町人は町人にふさわしくというのが、そこでの基本的なモラルであります」

 日本も明治時代になって、西欧の近代主義をとりいれた。近代精神は、先天的な権威のような「である」論理・価値ではなくて、実際の機能や効用を重視する「する」論理・価値の体系でできている。ところが、日本の場合は「和魂洋才」の言葉に見られるように、「である」価値の温存の上に「する」価値が導入された。そしてこのことが、日本社会の価値観を混乱させることになった。再び、丸山氏の文章を引用すると、

「日本の近代の「宿命的」な混乱は、一方で「する」価値が猛烈な勢いで浸透しながら、他方では強靱に「である」価値が根を張り、そのうえ、「する」原理をたてまえとする組織が、しばしば「である」社会のモラルによってセメント化されて来たところに発しているわけなのです」

 こうした不幸な混乱は今日の日本社会をも覆っているように思われる。いやむしろますます、混乱の度を深めようとしているようでさえある。憲法を代表とする近代合理精神は「する」原理の上に立てられている。これにたいして、「である」価値の代表は「天皇制」だろう。日本国憲法第12条には、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」となっている。「である」原理の天皇制にたいして、「する」原理の上に立つ日本国憲法は「不断の努力によってこれを保持しなければならない」という脆弱さがある。
 
「国民は今や主権者となった、しかし主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目覚めてみると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起こるぞ、という警告になっているわけなのです」

 この丸山氏の警告に私たちは今十分に耳を傾けるべきだろう。そうでないと、この先どんな災いが身に及んでくるかわからない。私たちは「であること」の世界に安住していてはならない。そしてまた、丸山氏のいう宿命的な混乱を、どう解決していったらよいのか、その方策をよくよく考えてみるべきだろう。



2001年01月09日(火) 「かたち」の世界

 原始人が壁画に最初に牛の絵を描いたとき、その稚拙な絵は他人に牛のようには見えなかっただろう。描いている本人は牛の絵だと思っていても、見ているものには、それは何かの抽象的な「かたち」でしかない。

 しかし、本人に「これは牛の絵だよ」と言われて、よく眺めてみると、その「かたち」が牛に見えてくる。そのとき、初めてそれは「牛の絵」ということになり、「形」の定まった「具象画」になる。

 なかには腕のいい男がいて、誰が見ても牛だとわかる絵を描くかもしれない。そのとき彼の描く絵ははじめから、「牛の絵」だとして、社会的に認知されるだろう。この場合には、「かたち」がそのまま「形」になっていると考えられる。

 文字を書く場合でもそうだ。日本人の書いた文字を日本語を知らない外国人が見ても、それは文字に見えない。ただの何かの訳の分からない曲線のからみあった「かたち」だ。ところがその「かたち」を日本人が見れば文字として、つまり意味を持った「形」としてただちに認識するだろう。だから、同じものが、「かたち」にも「形」にもなる。「かたち」と「形」はそうして相互に転化する。

 音楽の場合を考えよう。たとえば、モーツアルトの音楽を聴いて、ある人にはそれが魂をゆさぶる妙なる音色にきこえる。それはその音の構成にその人は「あるもの」を見いだしているからだ。ところがその「あるもの」が分からない人間にとって、同じ音楽が音楽ではなく、ただの音の鳴奏としか聞こえない。ただの音が音楽になるには「なにものか」の助けが必要である。

 能役者の演技の場合も、プロであれば彼の演技はすでに「形」が決まっている。しかし、私たちが演じても、自分では「形」になっていると思っても、だれも「形」としては認めてくれない。なにか変な風に体を動かしているなと思われるくらいだ。つまり、初心者の演じる能はいまだ「形」ではなく、それ以前のたんなる「かたち」でしかない。

 なぜ、こんな面倒なことを考えるかというと、それは文化現象とは、それを文化として認めるものにとってはじめて文化現象になると言いたいからである。つまり文化の担い手があって、文化が成り立つ。作り手だけでなく、その受取り手の存在も重要である。「かたち」が「形」になる過程には、深く豊かな表現論・意味論の世界が広がっている。

 ところで、ここまでのところでは、「かたち」が技術的に洗練され、社会的に認知されたものが「形」であると考えられよう。「かたち」は未開の世界そのものだが、「形」は文明の世界の出来事である。「かたち」を「形」に高めることが「文化」だと考えられる。しかし、文化を創造する過程で、「かたち」の持つ本源的な力は重要な役割を果たしている。そのことを最後に述べておこう。

 子供たちは「形」にとらわれずにものが見える。しかし、私たち大人は「かたち」を見る前に「形」を見てしまう。なかなか「形」の呪縛から自由になれない。ただ、一流の画家の目にはこのエネルギーに満ちた、そして訳の分からない混沌とした「かたち」の世界が、ありありと見えているはずである。そして、その混沌の中から、創作を始める。そのためには、できあがった「形」からはなれて、それ以前の、無定型な「かたち」の世界に入っていかなければならない。ところが、これはかなり、勇気のいることなのである。

 一般の分別を備えた大人にとって、「かたち」は忌避すべきものである。なぜなら、それは現実の裂け目であり、秩序の崩壊であり、無と不条理の体験でもあるからだ。意味と日常性の喪失した世界に、私たち大人は不快感を覚えるだろう。サルトルの「嘔吐」の主人公は「マロニエの木の根」を見ているときに、この不条理を体験する。

 デリダは「名付けることは根源的な暴力だ」と言っている。名付けることによって、「かたち」は「形」に姿をかえる。そして、文化的に洗練され、言葉に慣れた私たち大人たちが見ているのは、お行儀のよい「形」であり、決して、現実の生々しい「かたち」ではない。

 子供の絵が、あんなに生き生きとして面白いのはなぜか。子供は「かたち」のおもしろさを知っているからだ。でも分別に囚われた大人には「かたち」の世界は見えない。だから大人の絵はあまり面白くないのである。大人が考えることが、みんな同じで、面白くないのと同じように。

 かって私たち大人も、子供だった。そして、もっと自由に世界を見ていたはずである。私たちは知識を蓄えることによって、ものの眺め方が一面的になり、考え方が型にはまり、しかもそのことさえ気付かずに、本当に大切なことを忘れて生きているのかも知れない。



2001年01月08日(月) 書物のない世界

 1/4の日記「テムトの罪」でも書いたが、ソクラテスは書物(エクリチュール)を否定して「話しことば(パロール)」による対話を重視した。これについて、デリダはこんな面白いことを述べている。

 ソクラテスは、パロールこそすべてだと言おうとして、「魂の中にほんとうの意味で書き込まれた言葉が大切だ」と言っている。しかし「書き込まれた」というのは、すでに文章としての言葉を前提にしなければ成り立たないことで、ソクラテスのいうパロールもその実、「仮装されたエクリチュール」に過ぎない。

 同様なことは、ルソーの文章の中にもみられるようで、たとえば、ルソーは、エクリチュール(書物)を文明の悪、人間を本来からの自然から堕落させる死んだ技術として口をきわめて断罪する一方で、「神の手で人間の魂に書き込まれた自然法」とか、「私の心の奥底に消し去ることのできぬ文字で書き込まれた自然の神聖な声」などと書いている。

 こうして、デリダはソクラテスの言葉を逆手にとって、彼の哲学の世界を「脱構築」していくわけだが、私はデリダのこの戦術に感心したものの、やはりもっとストレートに、「本など書くな」と忠告したテムトやソクラテスの主張に心惹かれるものがある。

 もしソクラテスについての本をプラトンが書かなかったら。そしてそもそも本などというものがこの世になかったとしたら、私はもっと人間は上等な存在になっていただろうと、どうしても考えざるをえない。

 やはり、ソクラテスは正しいのではないだろうか。なぜなら、プラトンがソクラテスの事をかかなければ、彼の言葉は残らず、人間は書物などに頼らず、自分の頭で考えることを続けただろう。そうすれば、第二、第三のソクラテスが出現したかもしれない。

 しかし、ソクラテス以後、ソクラテスを超える哲学者は出なかった。いや、哲学者の名に値する哲学者など、ひとりもいなかった。なぜなら、プラトンがソクラテスについて書いてしまったから。つまり、そこで、哲学は終わってしまったのだ。あとはホワイトヘッドが言ったように、哲学とは「哲学について書かれた本の注釈をつくること」になってしまった。

 とはいえ、人間はやはり書き続けるし、書かずにはいられないのだろう。私自身のことを振り返っても、書いている内容と、その行為の間に自己矛盾のあることを知りながら、こうして書いているではないか。私自身、書くという行為が、もはや業のようで、その病から容易なことで抜けられそうもない。


2001年01月07日(日) 孤独死の光景

 十年以上も前になるが、二人の娘が幼い頃、私たち一家は名古屋市の名東区の借家に住んでいた。近くに大きな池のある公園があり、毎日のように出かけていた。どうしてそんな暇があったのかというと、私はその頃夜間定時制高校に勤務していたので、昼間は家にいたからだ。

 公園の池は「でっちょうの池」という名前で、梅雨の季節になると蓮の花が一面に咲いて美しかった。鯉や亀がいて、家から持ってきたパンくずを娘たちと一緒に投げ与えてやったものだ。

 公園の近くに、この公園の管理を市から委託されていた老夫婦の住んでいる家があって、そこにも鯉のいる池があって、私たちはしばしばその家を訪れて、一休みさせて貰った。クラシック音楽と油絵が趣味だというKさんとその奥さんのことを、娘たちは「でっちょう池のおじいさん、おばあさん」と呼んでなついていた。私たち夫婦もその家の縁側に腰を下ろし、音楽に耳を傾け、Kさんの庭の景色を眺めながら、平和でのどかなひとときをすごさせてもらった。

 十年ほど前に一宮市に家を買って引っ越すとき、Kさんから自分の描いた信州の山の絵を餞別にもらった。そして私たちが家を去るとき、その事を知った奥さんが息を切らせて見送りに来てくれた。私はお二人を見たのはそれが最後である。奥さんがその後5年ほどして亡くなられた。そして、その後一人暮らしをしていたKさんが、去年、亡くなられた。享年92歳だったという。

 Kさんの死を知ったのは昨日のことだった、Kさんからの年賀状がこないので、不審に思った妻が電話をしたところ、留守電になっていた。胸騒ぎを覚えた妻と娘が名古屋まで車を走らせ、Kさんの家を直接訪れたところ、門に鍵がかかっていた。それで近所の病院に行ったところ、受付の看護婦から、「Kさんなら、去年の秋になくなりましたよ」と言われたという。

 最後に妻と娘がKさんの家を訪れたのが、去年の8月3日だった。そのとき、机の上に「遺言状」が置いてあった。Kさんには娘と息子がいたが、奥さんが死んでから、彼らも、彼らの孫たちも家にまるで寄りつかなくなった。妻が弁当を買ってきて一緒に食べ始めると、気丈なKさんがその遺言状を見せて、珍しく身内の愚痴をこぼしたという。

 たぶん、それからしばらくして、Kさんは病院に入り、そこで死んだのだろう。病院が混雑しており、受付の看護婦も記憶が曖昧で、病名や、入院したときの状況は何も聞き出せなかったらしい。妻と娘はそれから再び、Kさんの家に引き返し、主の居ない家をしばらく愕然とした思いで眺めていたという。

 私たちがこちらに引っ越してから、Kさんの奥さんの呆けが急速にすすんだ。その後、妻や娘が訪れても名前がわからなくなっていたという。それでも、顔は覚えていて、嬉しそうに迎えてくれた。奥さんが亡くなる一、二年前、妻と娘が訪れると、Kさんのハーモニカの伴奏にあわせて、奥さんが娘時代からの愛唱歌だという「北上夜曲」を楽しそうに歌ってくれた。

 私はこの光景を実際に見たわけではなく、妻から聞いただけだが、今は自分で見たかのように、瞼の裏にありありと浮かんでくる。天国でいまごろは二人そろって水入らずで、この歌を合唱していることだろう。

   匂いやさしい 白百合の
   濡れているよな あの瞳
   想い出すのは 想い出すのは
   北上河原の 月の夜

   宵の灯 点すころ
   心ほなかな 初恋を
   想い出すのは 想い出すのは
   北上河原の せせらぎよ

   銀河の流れ 仰ぎつつ
   星を数えた 君と僕
   想い出すのは 思い出すのは
   北上河原の 星の夜

 それにしても、親しかった人の死を知ることほど、悲しいことはない。縁あって私たちのよき隣人となられ、また今はなつかしい故人となられたお二人のご冥福を、こころからお祈りします。
    


2001年01月06日(土) 天命を知る

 論語に次の言葉がある。

  子曰く、吾十有五にして学に志す。
  三十にして立つ。
  四十にして惑わず。
  五十にして天命を知る。
  六十にして耳順ふ。
  七十にして心の欲する所に従へども、矩を踰えず。

 私もちょうど50歳、そろそろ天命を知る年頃である。「30にして立つ」というのは、世間的に一人前になるということだろう。経済的に自立し、家族を養い、
市民としての義務をはたし、社会貢献をする。

 これに対して、「天命を知る」というのは、そうした世俗を超えたもっと大きなものの価値に目覚めるというだと思う。いわば、精神的・宗教的な目覚めであり、新しい自分に生まれ変わるということだ。社会に順応するだけではなく、もっと大きく深い精神世界の存在を知り、その声に耳をかたむけようという姿勢を持つことではないだろうか。その努力があって、「六十にして耳順ふ」「矩を踰えず」という人生の理想境に入ることができるのだろう。

 こういうことは、壮年時代にはなかなかむつかしい。社会の仕組みを知り、生きること、生活することに一段落した50代がその時期なのだろう。人生を「起・承・転・結」で区切るならば、50代はちょうど「転機」ということになる。つまり先の人生を考え、自分の生き方を再確認する必要に迫られる時期かもしれない。

 老年は青年に似る、という言葉がある。考えてみれば私たちの多くは青年時代に精神世界とのなにがしかの出会いを経験している。「生きると言うことはどういうことか」「愛とは何か」そうした人生問題に悩み、文学や哲学に助けを求めたりする。しかし、社会にでて、あくせくと働いているうちに、人間は次第に現実的になり、そうした理想主義の美しさ、魂の純粋さを忘れてしまう。

 そうした意味で、老年(熟年。50、60歳代)はこれを回復するチャンスだろう。もういちど、青年時代に読んだ本や感激した音楽、思想に出会い、その価値を再認識する時期かもしれない。

 ところで、最近の青年はほんとうにそうしたゆたかな精神的世界と出会っているのだろうか。今の高校生や大学生を見ていると、物質的な豊かさに幻惑され、精神のゆたかさをを忘れているような気がする。そうした乏しい青年時代を経験したものが、50歳になって「天命」を知ることができるだろうか。とうてい見込みがなさそうにも思えるのだが。



2001年01月05日(金) 永遠なもの

 プラトンは「人間は永遠なもの<イデア>と触れることで、魂がたかめられる」と説いた。そしてそのためには、魂全体をそちらの方に「転回」しなければならないという。なぜなら、人間はいってみれば洞窟の囚人のような存在で、普段は洞窟の底に映った影ばかり見ているからだという。そしてこの永遠なものの中でも究極のものを<善のイデア>と呼び、太陽になぞらえている。

「だから、思うに、上方の世界の事物を見ようとするならば、慣れというものがどうしても必要だろう。−まず最初に影を見れば、いちばん楽に見えるだろうし、つぎには、水にうつる人間その他の映像を見て、後になってから、その実物を直接見るようにすればよい。そしてその後で、天空のうちにあるものや、天空そのものへと目を移すことになるが、これにはまず、夜に星や月の光を見るほうが、昼間太陽とその光を見るよりも楽だろう」

「知的世界には、最後にかろうじて見てとられるものとして、<善>の実相(イデア)がある。いったんこれが見てとられたならば、この<善>の実相こそはあらゆるものにとって、すべて正しく美しいものを生み出す原因であるという結論へ、考えが至らなければならぬ、すなわちそれは、<見られる世界>においては、光と光の主とを生み出し、<思惟によって知られる世界>においては、みずからが主となって君臨しつつ、真実性と知性とを提供するものであるのだ、と。そして、公私いずれにおいても思慮ある行ないをしようとする者は、この<善>の実相をこそ見なければならぬ、ということもね」

 上に引用したのは、プラトン『国家論』第7巻の有名な「洞窟の比喩」の部分である。プラトンの「イデア論」の核心部分であるが、実はここで「イデア」という言葉は使われていない。というか、意外なことだが、プラトンの全著作の中に「イデア」という言葉自身は一度も登場していないという。

 「イデア」ということばは、彼の弟子のアリストテレスが名付けたそうである。プラトン自身は、「饗宴」「パイドン」「国家」など一連のイデア論関連著作の中では、「実在」「実有」「本性」「実相」「真実性」といったさまざまな呼び方をしている。しかしこれら<永遠なもの>を「イデア」という一つの言葉で呼ぶことで、イメージがはっきりする。プラトンの思想も永遠で不滅のものとして後世に残ることになった。彼はよき弟子を持ったものだ。

 イデア思想は、はじめ「饗宴」の中で、<美>のイデアとして登場したが、その後、『パイドン』に至って、美だけではなく、<勇気><敬虔><徳><健康><強さ>などにも拡張された。そして、「国家」で至高のイデアものとして、<善のイデア>が力強く登場した。しかし、私は個人的には、「饗宴」の中で魅力的に説かれている<美のイデア>こそ至上のものではないかと思っている。最後に「饗宴」から、一部を引用しておこう。

「一つの美しい肉体から二つの美しい肉体へ、二つの美しい肉体からすべての美しい肉体へ、そして、美しい肉体から数々の美しい人間の営みへ、人間の営みからもろもろの美しい学問へ、もろもろの学問からあの美そのものを対象とする学問へと行き着くわけです。つまりは、ここにおいて、美であるものそのもの<美のイデア>を知るにいたるためです。いやしくも人生のどこかに人間の生きるに値する生活があるとしたら、それは、まさに、ここにおいてなのです。いうまでもなく、彼はそのとき美そのものを観ているからです。そしてあなたも、ひとたび美そのものを観るならば、黄金も、装いも、世の美少年や美青年も、それを前にしては何するものぞと思われましょう」

 


2001年01月04日(木) テムトの罪

 世界の賢人といえば、ソクラテス、釈迦、孔子であろうか。あるいは別格な存在として、イエス・キリストを付け加えてもいいだろう。ところで彼らに共通していることの一つに、「彼らは書かなかった」ということがある。なぜ、書かなかったのか。

 nojiさんから紹介されて読んだ「デリダ」(現代思想の冒険者たち28,高橋哲哉著、講談社)のなかにその答えがあった。「パイドロス」というプラトンの著作の中で、ソクラテスは友人のパイドロスに「なぜ書物を書かないのか」と質問されて、その訳をはっきり語っていた。

 ソクラテスはまずエジプトに伝わる神話の話から始める。発明の神テムトが太陽神タムスのところへいき、「自分の発明した文字を人々に学ばせてやって下さい。そうすれば、もの覚えがよくなり、知恵がたかまるでしょう」と進言した。ところが、タムスはテムトの申し出を拒んで、こう言った。

「人々が文字を学ぶと、記憶力の訓練がなおざりにされ、忘れっぽい性質がうえつけられる。書いたものを信頼して、自分の力によって内から思い出すことをしなくなるからだ。なにも知らないでいながら、見かけだけは非常な博識家だと見られ、しかも本人は知者であるという自惚れだけが発達して、付き合いにくい人間となるにちがいない」

 ソクラテスはエジプトに伝わるこの神話を紹介したあと、次のように続ける。
「書かれた言葉は最も優れたものでさえ、ものを知っている人々に想起の便をはかるだけだ。魂のなかにほんとうの意味で書き込まれる言葉、ただそういう言葉の中にのみ、明瞭で、完全で、真剣な愛情に値するものがある。パイドロスよ、そう考えることができる人に、私たちはなりたいものだね」

 私のように、知ったかぶりの知識を書き散らしている人間には、とても痛い言葉だ。紙に書かれた言葉よりも、魂の中に書かれた言葉を大切にしなければならないというのは、けだし正論だろう。ソクラテスは書物をあまり信用していなかったことがわかる。書物は人の魂を高めることはしないで、むしろ堕落させることの方が多いと考えていたようだ。

 それではプラトンはどう考えていたのだろう。たぶん彼も師プラトンの考えを受け継いでいたに違いない。プラトンが友人にあてた書簡で、「私はこれまで決してそれらの問題については書物を著さなかったし、プラトンの書物なるものは何一つ存在せず、また、将来も存在しないでしょう」と語っている。また別の書簡では、「この手紙は、いままず何度でも読み、あとは焼き捨てて下さい」と指示までしている。

 現代哲学を代表する碩学のホワイトヘッドによれば「全西洋哲学史はプラトン哲学の注釈の歴史」らしい。もしプラトンが師ソクラテスの教えを守って書物を著さなかったら、哲学の歴史だけではなく、人類の歴史もずいぶん違っていたにちがいない。

 太陽神モノスやソクラテスは書物の氾濫する今の世の中をどう見るだろう。「言わないこっちゃない。テムトなんかに魂を売り渡してどうするんだ。人間がみんな浅薄になったじゃないか」と、顔をしかめ、傍らでプラトンは苦笑いしているかもしれない。


2001年01月03日(水) 善のイデアと幸福

 論語に「子曰く、学びて時に之を習う。またよろこばしからずや。朋、遠方より来るあり。また楽しからずや」とある。歳をとるにつれて、論語や徒然草、万葉集といった古典のすばらしさが身に染みて分かってきた。そして以前読んだ本を、もう一度読み返して、その英知に満ちた世界にしばし心を遊ばせていたくなる。

 そうしたわけで今日は高校時代に習ったギリシアの哲人たちの話を書いてみたいと思う。とくに昔勉強して感激したことがあるプラトンの「イデア論」について書いてみたい。そして今日もなお輝きを失わないどころか、この混迷する時代にあって、ますますその真価を発揮するプラトン哲学のすばらしさを、再確認してみたいと思う。

 紀元前399年、老ソクラテスが、「悪事をまげて善事とし、国家の信じる神々を認めず新しい神を信じて青年たちを腐敗させた」(ソクラテスの弁明)として処刑された。このとき28歳だったプラトンは、尊敬していた師が愛する祖国の手によって殺されたことに驚き、「確かなものがなにもない」という絶望に突き落とされた。

 彼はアテネを去り、イタリアやシシリアを放浪し、「いずれの国々も、その状態は目を覆うばかりのひどい状態にある。国家や社会、および個人における正と不正を識別するのは、法や制度ではなく、哲学的英知に裏付けされた人間の良心に他ならない。」(国家)という考えにたどり着く。つまり、彼は知と徳の合一を唱えたソクラテスの英知の正しさをこの放浪の旅のなかで再確認した。

 この信念を得て故国に戻ったプラトンは、アテネ郊外のアカデメイアの森に私塾を作り、青年たちの知性と感性の教育に従事する。そして80歳で死ぬまでに、「ソクラテスの弁明」をはじめとする膨大な著作を書いた。彼のそれらの著作の中を流れる根本の思想が、西洋哲学(人類智)の原点ともいうべき、「イデア論」である。

 現実の世界は、変化し移り変わる現象の世界であり、多くの誤りや不完全なもの、悪があふれている。しかし、知性や理性によって知ることができる永遠に真実な世界がある。彼はこの永遠で不滅な理想の世界を「イデア界」と呼んだ。そして彼のアカデメイアでは、このイデア界の認識のための「知性と感性の育成」が目指された。

 こうしてプラトンはソクラテスの死という絶望を起点にして、「一体この世に真理はあるのだろうか」「もの事の正しい認識はいかにして可能か」ということをつきつめて考え、「イデア論」にたどりついたわけだ。そこで、次ぎにこの「イデア論」について、もう少し具体的に書いてみよう。

 たとえば、私たちがある図形を見て、それが「三角形」だと分かるのは、あらかじめ私たちが三角形についての概念をもっているからだ。「一直線上にない三点を直線で結んでできる図形が三角形である」という概念がなければ、眼前の図形も三角形としては認識されない。プラトンのいうイデアは、一応この概念のことだと考えればよい。彼は個々のものは不完全だが、こうした概念は永遠で、神のように完全な存在であると考え、これを「イデア」と呼んだ。

 ところでイデアにも上位のものと下位のものがある。たとえば二等辺三角形のイデアは三角形のイデアから見れば下位ということになる。こうしてプラトンは認識を秩序立て、体系化する方法を手に入れた。人がものごとを「正しく」認識できるのは、彼がイデアの体系化に成功し、「正しい認識のシステム」を完成したときだ。そして、このイデアの体系化の中で、最も上位に置くべき至高のイデアをプラトンは「善のイデア」だとした。

 プラトンはソクラテスと同様に、「善く生きること」が人生の至上の価値だと考えた。人間にとって一番大切なことは、「何が善であるか」を知ることであり、その為には「善のイデア」を知り、これにしたがって生きなければならない。彼のアカデミアにおける教育の実践課題も、当然ながらこの至高なる「善のイデア」を認識することでなければならなかった。

 このアカデミアの生徒で、プラトンの愛弟子がアリストテレスだった。アリストテレスはプラトンが亡くなるまで20年間、彼の人生の3分の1近くをそこでプラトンに師事した。そして、プラトンの死後、36歳のアリストテレスはアテネを離れ、5年間あちらこちらを遍歴し、マケドニアに移った。そこで彼の生徒となったフィリッポス二世の息子が、後のアレキサンダー大王である。

 アレキサンダーの死後、アリストテレスはアテネに戻る。そして師プラトンと同じように、「リュケイオン」という学校を創るが、紀元前323年、アテネを中心にしたギリシャの諸都市で反マケドニアの気運が高まり、身の危険を感じたアリストテレスは母の故郷であるカルキスに逃れた。そして翌年、62歳で生涯を終えた。

 アリストテレスは師プラトンの「イデア論」を批判的に継承した。プラトンにあって現実界にある個々のものはイデアの影でしかなかったが、アリストテレスはこの現実界こそ実在の世界だと考えた。そしてイデア(形相)の役割は、それそれのもの(質料)に個物としての特徴(特殊性)を与えることだと考えた。

 イデアは個物から遊離して存在するものではなく、個物に内在し、個物を個物たらしめる規範(類型)であるととらえたのである。すなわちイデアからその神秘性を奪い、「イデア論」をより現実的で実用的な認識のシステムとして完成させたといえよう。

 彼はプラトンが説くように、理性によって「何が善であるか」を知ることも大切だが、さらに重要なのはこれを実践して実際に「善い人」として生きることだと考えた。人間は理性にかなった「正しい生活」をすることで、「善い人」になり、同時に幸福に生きることができる。

 そして「幸福」こそ人生の最大目標であり、最高善であると考えた。「幸福になるために、善の何であるかをわきまえよ。そしてこれを日々の生活の中で実践し、つねに善き人であれ」(ニコマコス倫理学)これが彼の言いたかった眼目だろう。



2001年01月02日(火) アメリカのヒーロー

 正月の楽しみの一つに、ビデオで映画を見ることがある。昨日はマーク・ロッコ監督の「告発」(1995年、米)を見た。アルカトラズ刑務所が閉鎖されるきっかけになったヘンリー・ヤング事件を映画化した作品だが、なかなか見応えがあった。

 ヘンリー(ケビン・ベーコン)は些細な盗みから島の刑務所に送られ、その地下牢に収監された。彼は経費獲得のために集められた囚人の一人だったが、脱走しようとして捕まり、特別の地下牢に入れられ、3年以上に及ぶ虐待を受ける。そして、地下牢から出てきた日に、彼は地下牢へ入るきっかけとなった裏切り者の囚人を殺してしまう。

 国選弁護人として彼の弁護をすることになったのは、大学を出たばかりで、これが初仕事だという新米弁護士のジェームズ(クリスチャン・スレーター)である。彼は上司から「猿にでもできる仕事だ」と言われる。第一級殺人事件として、被告人の有罪と死刑は疑いようがない。

 ジェームズはさっそくヘンリーと面会するが彼はかたくなに心を開かない。そのうちジェームズはヘンリーが非人道的な虐待を受けていた事実を知る。ジェームズは怒りを覚え、法廷で「殺人犯は他にいる」と発言する。そして彼は非人道的な刑務所自体を告訴する。刑務所の所長はアメリカ政界の黒幕と目されるフーバーFBI長官の息のかかった人物である。マスメディアがこれを取りあげ、ここからアメリカ全土を巻き込んだ大騒動がおこる。

 正義を貫くために、国家の悪に対決し、そのために職を解かれそうになりながらも、あくまで周囲の圧力に負けずに果敢に孤独な戦いを続ける正義感に燃える若い弁護士のジェームズ。恐怖の体験から心を開かなかったヘンリーも次第に本音を語り始める。しかし弁護士のジェームズが最後に直面したのは、なんと彼が弁護する当人のヘンリーの反抗だった。

 彼は裁判に勝って、3カ年の刑に服するぐらいなら、死刑になった方がいいので、法廷で自分の有罪を認めたいと言い出す。こうして最後の法廷は裁判官や陪審員を前にして、弁護士と依頼人が対立するという前代未聞のありさまになる。しかしそうした土壇場での弁護人と依頼人との本音のやりとりが、かえって刑務所の暴虐な悪の実態を浮かび上がらせ、陪審員たちの良心に鋭く訴えかけることになる。

 自分の信念と良心を貫いて巨悪に戦いを挑む弁護士は、アメリカ映画ではおなじみのヒーローである。国家や組織に埋没しない個人の勇気と良心を尊ぶアメリカの一面がよく現れている。しかしこの映画の真のヒーローは服役囚のヘンリーであろう。彼は最後に服役の恐怖を乗り越えて、真実を語ることになる。

 そしてふたたび彼が告発した刑務所の恐怖の地下壕へと帰り、そこで彼を待ちかまえていた副所長の虐待によって命を奪われる。しかし彼の犠牲は無駄にはならなかった。1963年、アルカトラズ刑務所の完全封鎖の声明に際し、時の司法長官ロバート・ケネディはその理由にヘンリー・ヤング事件を上げている。

 この映画は、「殺人には死刑を」という私の主張からすると、その主題の扱い方に若干の疑問がのこる。刑務所での非人道的な虐待はあってはならないが、しかしヘンリーは殺人犯として、厳正に処罰されてもよいのではないか。それはともかく、悲劇の主人公を演じたケビン・ベーコンの迫真の演技には思わずうならされた。


2001年01月01日(月) 謹賀新年

 正月と言えば私の通っていた福井の小学校では元旦の朝は学校へ行って、新年の挨拶をしたものだった。全校朝礼があり、教室で先生から話を聞いた。そして紅白の饅頭をもらった。帰ってきた頃に、年賀状が届いていた。

 今はそうしたこともなくなり、元旦は家族でのんびり過ごすことができるようになった。子供たちも親も思いきり寝坊が出来る。教員の私も学校へ出かけなくてもいいわけだからありがたい。

 もっとも私は寝坊しょうにもできないたちなので、今日も5時からおきて、こうしてパソコンの前に座っている。どんなに遅く寝ても、5時には起きてしまうと言うのが、私の特技?である。

 昨夜は遅くまで、友人にeーメールを書いていた。書きながら、モーツアルトの音楽について知りたいことができて、インターネットで検索をしていた。気が付いたときは12時を過ぎて新年になっていた。

 ここ数年、年の変わり目を、近くの神社で焚き火にあたりつつ、御神酒を飲ませて貰いながら迎えていたが、今年はそうした訳で、パソコンの前で、しかも知らないうちにやりすごしていた。たまには神社に御神酒を持っていこうかと妻と話していたのだが、結局タイミングを逸して意気が上がらず、妻と「寒いもんね」などと襖越しに声をかけあって、今年は初詣はしないで寝ることになった。

 ずいぶんとずぼらな年の明けになったが、まあいい加減で無理をしないのが我が家の伝統である。今年もこのスタイルで、のらりくらりと一年間を過ごして行きたいものだと思っている。

  初春や神社の御神酒を飲みそこね   裕


橋本裕 |MAILHomePage

My追加