橋本裕の日記
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2000年12月31日(日) 絶望と希望

 あと数時間で2000年が終わり、21世紀がはじまる。年号や暦は人間がこしらえたものだから、大騒ぎするほどのことではないが、それでも100年に一度のことだと言われれば、気持が高ぶる。

 1950年生まれの私は、半世紀を生きたことになる。20世紀の前半が革命と戦争の時代だとすれば、後半は私たち日本人にとって、ひとまず平和と繁栄の時代だといえよう。私は後半の平穏な時代に生をうけ、高度経済成長の恩恵のなかで、しあわせに生きてきた。

 もっともこの幸運がいつまで続くか、モラルを失い、責任感の欠如した日本の政治家や官僚、経済界のありさまを眺めていると不安になる。いやむしろ、暗澹とした思いになって、こんな詩を、この記念すべき日の日記に書き付けたくなる。

    ・・・・・・・・・ 亡びよ! ・・・・・・・・・・・

 日本は興りつつあるのか、それとも滅びつつあるのか
 わが愛する祖国は祝福の中にあるのか、それとも呪詛の中にか
 興りつつあると私は信じた、祝福の中にあると私は思うた
 しかし実際この国に正義を愛し公道を行おうとする政治家のただ一人もいない
 真理そのものをしたうたましいのごときは草むらをわけても見当たらない
 青年は永遠を忘れて鶏のように地上をあさり
 乙女は真珠を踏みつける豚よりも愚かな恥ずべきことをする
 日本はたしかに滅びつつある
 我が愛する祖国の名は遠からず地上から拭われるであろう
 ワニが東から来てこれを呑むであろう
 亡びよ! この汚れたる処女の国、この意気地なき青年の国!
 この真理を愛することを知らぬ獣と虫けらの国よ、亡びよ!

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 これは内村鑑三の高弟だった藤井武(ふじいたけし)が1930年に発表した詩である。彼は東京帝国大学を卒業後、内務省の官僚になった超エリートだが、その地位と名誉をあっさり捨てて退官し、一介のキリスト教伝道者になった。そして42歳のときにこの詩を書いて生涯を終えた。

 戦前、この詩を講演会で紹介した矢内原忠雄(やはり内村の弟子で、のちの東大総長)は東京帝国大学教授の職を追われた。藤井や矢内原は当時の日本に絶望していた。そして「亡ぶ」ことによってしか、日本は新しく生まれ変われないと思ったのに違いない。私も又、彼らに同情しながら、この詩をここに記しておく。亡びの中にしか希望が見いだせない不幸な時代の兆しを、今の日本に感じずにいられないからだ。


2000年12月30日(土) ソローと「森の生活」

「夏の朝など、いつものように沐浴をすませたあと、日の出から昼まで松やヒッコリーやウルシに囲まれ、乱されることにない孤独と静寂の中で、ぼくは日当たりのいい戸口にすわり、物思いにふけっていた。周囲では鳥がうたったり、音もなく家を飛びぬけていった。そうして西側の窓にさしこんでくる夕日や、遠くの街道をゆく旅人の馬車の音で、時の流れに気付くのだった」

「森の生活」の作者ソローは1817年、アメリカ・ボストンの近くの町、コンコードに生まれた。1837年 20歳でハーバード大学を卒業したあと、コンコードの小学校の教師に赴任する。しかし、学校の方針(ムチ打ち)に抵抗したソローは、わずか2週間で教師をやめた。その後、全人教育を目的とした私塾を兄と共同で始めたが、兄が破傷風で死んでアカデミーは閉鎖された。

 やがてソローはウォールデンの池のほとりに小屋を建て、1845年7月4日から1847年9月6日まで2年2か月間独りで住むことになる。28歳から30歳の間だ。大学時代からラルフ・エマソンに傾倒していた彼は、実際にその思想を実践すべく自然の懐に飛び込んでいった。自然の中でできるだけ質素な生活を営み、己の精神世界を深めようと思ったのだ。

「ぼくは5年以上も自分の労働だけで生活してきて、1年に6週間ほど労働すればすべての生活費がまかなえることがわかったのだった。夏のほとんどと冬はすべての時間を勉強にあてた。・・・ぼくはぼくなりに好きなものがあり、特に自由を大切にし、つらい生活をしてもうまくやっていけるので、自分の時間を犠牲にしてまで豪華なカーペットや素晴らしい家具、上等な料理やギリシャ式、あるいはゴシック式といった家を手に入れたいとは思わなかった」

 彼がウォールデンの池のほとりに丸太小屋を建てるのに要した費用は28ドルちょっとで、これは大学時代の年間の部屋代と同じくらいだという。彼は家に鍵をかけなかったので、誰でも自由に出入りし、彼のものを自由に使った。

「昼も夜も、何日か家を空けるときも、ドアに鍵を掛けたことがなかった。散歩に出て疲れた人はぼくの家の炉端で休み、暖をとり、読書の好きな人はテーブルにのっている何冊かの本を楽しみ、好奇心のある人はクローゼットを開けてどんな食事の残りがあるか、どんな食事が出そうか見ていた。あらゆる階層の人たちがこの湖にやってきたけど、こうしたことでひどい迷惑を被ることもなく、ホーマーの小さな一冊の本以外はなにもなくならなかった」

 森の中でのソローの生活は、質素そのもので、生活に必要なわずかばかりの労働のあと、ありあまる時間を余暇として精神的なものの向上にあてた。しかし、彼はいわゆる世間嫌いの変人ではなく、彼の心は常に社会に開かれていた。彼のたてた手作りの森の小屋には、近所の猟師や町の友人や詩人たちが訪れて、人生や文学について自由に語り合ったという。

 そうした中で、奴隷制度に反対して逃亡奴隷を助けたり、人頭税を払わず、逮捕されたりもしている。自然を愛したソローは、また自然の中で身をさらして生きる人々の友でもあった。彼はアメリカ・インディアンの自然を尊ぶ敬虔で知恵のある生き方について、常に深い共感と敬意を表していたという。

Direct your eye sight inward, and you'll find A thousand regions in your mind Yet undiscovered. Travel them, and be Expert in home-cosmography.

「あなたの視線をあなたの内面に向けなさい。そうすれば、あなたの心の中に無数の世界を見つけることになるでしょう。まだ、発見されていない世界を見つけることになるでしょう。その世界を旅しなさい。そして、あなたの世界の内なる達人になりなさい」

 彼が森を出たのは、森の生活の中で自分の精神世界を深め、自己の価値を発見した彼がその思想を語るべく、詩人として世の中に立とうと考えたからである。彼は森を出てからもコンコードの町で質素な生活を続け、「森の生活」の回想記をこつこつと書き続けた。そして、7年後の1854年、37歳の彼は第7稿まで改稿した原稿を決定稿として出版した。しかしこの作品は世間の注目を集めることもなく、むしろ失敗作と見なされ、8年後、ソローは45歳で無名のまま世を去る。

 20世紀になって、トルストイが彼を発見し、評価してから、「森の生活」は世界の人々の心に響く古典として読み継がれることになる。そして今では環境問題に関心を持つ人々、精神生活の充実を目指してシンプルに生きることに価値をおく全世界の人々にとって、彼は最も魅力的な先駆的実践者であり、彼のこの作品は彼らの精神的なバイブルとなっている。

<文献>
http://www.cnc.chukyo-u.ac.jp/users/egakkai/eibungaku18/kino18.htm
「自己探求への誘い ――Walden 解釈の一つの試み」(木下 恭子)

http://homepage1.nifty.com/~midori-room/thoreau.html
「ソローの年譜」

http://www.sasayama.or.jp/column/link_2.htm
「田園散策のナチュラリスト H・D・ソロー」

http://www.d1.dion.ne.jp/~thitoshi/index.html
「北米における環境倫理思想と教育−人間と環境とのよりよい関係を求めて−」 (高橋 仁)


2000年12月29日(金) 天上のたのしみ

 ヘンリー・D・ソローが「森の生活」の中で、生きていくために必要なものを生産するだけだったら、人間は年に数週間も働けば事足りると書いている。それでは残りの何百日間を何をあくせく働いているのかと言えば、ただ余分なものを作り出すために精力をすり減らしているに過ぎないという。

 余分なものとは、例えばダイアの指輪などの贅沢品だろう。ミサイルや地雷といった武器もそうだし、公害をまき散らして走る車や、原子力発電所や多くのレジャー施設もそうかもしれない。それから今はやりの携帯電話やパソコン、こうしたものは私たちの人生を本当に豊かにすることに役立っているのか、疑問である。

「未開な時代の人間の生活にあったあの単純で飾り気のない状態は、少なくとも人間を自然の中にとけ込ませるという良い面をもっていた。食事をし、睡眠をとって生気をとりもどすと、また旅のことを考えるのだ。この世界で、いわばテントに住み、谷を抜け、草原を横切り、山の頂に登ったのだ。ところが! 人間は自分の道具の道具になってしまった。空腹なときは自分で勝手に果物をとってた者が農民になり、雨宿りで木の下に立っていたものがハウスキーパーになった。もう夜だけキャンプするということはなくなって、天を忘れてしまった」

「この国で一番興味深い家は、画家が知っているように、ふつう貧しい人たちが住んでいる見栄のない控えめな丸太小屋や農家だ。それが絵になっているのは、たんなる外見的な特徴のせいではなく、それを殻としている人たちの生活のせいなのだ。都市の郊外の家も、同じように飾り気をとり、人の想像力にいい感じを与え、家の様式に妙な効果を求めないようになれば、きっと興味深いものになると思う」

  ソローのこの本を毎日噛みしめるようにして読んでいる。そして考えることは、私たちは何というつまらない活動に人生を浪費し、つまらぬ財産や知識の収得のために精力をすり減らしているのだろうという嘆息である。ソローが引用しているチャップマンの警句を、心にとどめておきたい。

  まちがった人間社会
  地上の贅沢のために
  天上のたのしみのすべてがうすれていく



2000年12月28日(木) 理性を失うとき

 昔から哲学や宗教に関心があり、人間にとって「理性」が重要であることを理解しているつもりだが、しかし、私自身はそれほど理性的な人間ではない。すぐに理性を忘れ、怒りの発作にかられ、感情に溺れそうになる。

 先日も、私はあやうく理性を失いそうになった。その日(12/26)、年賀状を印刷するためのカラーインクのカートリッジを買いにギガス関西という店に行ったが、店頭に商品が並んでいないので、「これこれの商品は、売り切れましたか」と近くの店員に訊くと、「ええ」という短い返事。「在庫もありませんか」と訊くと、「ありませんね」と口元に薄笑いを浮かべて返事をする。

 店を出ながら、何という教養のない店員だろうと思った。店員の笑いが決して愛想笑いでなく、「もう売りきれたよ。ざまぁみろ」とこちらを嘲笑しているようにとれた。「すみませんね」とか「またいらして下さい」の一言があれば納得するのだが、人を馬鹿にしていると思って気分がよくなかった。私はこの店をひいきにして、ファックスやCDプレイヤーなどを買っていたが、もう来るものかと思った。

 その店を出て、ユニセフの募金をしに郵便局へ行った。毎年ユニセフから用紙が送られてきていたが、今年はみあたらない。そこで、必要な振込用紙のありかを聞こうと窓口の職員に声をかけると、「番号札をとってください」とにべもない返事。しかたなく札をとって待った。そしてようやく窓口に呼ばれて、「ユニセフの振込用紙」を下さいと言うと、「置いてありません」という事務的な返事。どうしてユニセフの用紙ぐらい置いておかないのだ。だから、日本の募金率は世界最低なのだぞと、腹が立ってきた。

 いらいらしながら、郵便局の駐車場を出たところで、後ろの車に警笛をならされた。いくらか割り込み気味ではあったが、警笛をならすほどのことではない。バックミラーで見ると、若い男のようである。私は怒りの発作に襲われて、ブレーキを踏んだ。もう一度警笛をならしたら、車を出て、「警笛をならすほどのことか」と相手の男に食ってかかろうと思った。

 しかし、後ろの車はそのままハンドルを切って、私の車を追い越していった。追い越し際に警笛でもならすかと思ったが、そうしたこともしない。私は車を見送りながら「負けた」と思った。相手次第では、本当の喧嘩になって、正月を病院のベッドか霊安室で迎えることになっていただろう。自分の感情をコントロールできるよう修行をしなければ大変なことになると、短慮さ加減をつくづく反省した。


2000年12月27日(水) あこがれの余生

 もうじき新しい年を迎えるわけだが、なんだか年が改まるという感激はない。しかし昨夜は11時過ぎまでかかって年賀状をかいた。今日はそれを学校に行きがてら、郵便局に持っていこうと思う。

 ところで、年賀状を書いている最中に、クラスのN君から電話が入り、「先生、ごめんなさい。アルバイト、ばれました」と言う。店員のアルバイトをしていたところ、他の先生に見つかったと言うことで、すでに指導部から連絡もあったという。この電話で、私はまたまた正月気分が遠のいてしまった。

 すでに家庭謹慎をしている3人の生徒に、N君が加わり、ずいぶん気の重い正月を迎えることになりそうである。正月早々、4人の生徒の家を訪問しなければならないと思うと、年賀状を書く気力が萎えてしまった。それでも、「まあ、家出、行方不明よりましか」と、やはり1年生を担任していた2年前の正月を思い出して、何とか気を取り直して年賀状を仕上げた。

 教員になったとき、「50歳までがんばろう」と考えた。なぜ50歳かと言うと、そのころは勤続20年で年金がついたからである。50歳になったら教員を止めて、どこかの山里に質素な庵を結んで、自給自足しながら、清貧の生活を楽しみたい。自然を友とし、俳句や短歌や小説を作り、科学と哲学と思想を極め、ときには水彩画でも描きながら、余生をできる限り簡素に過ごしたいと考えていた。

 そして現在、50歳。残念なことにいまだにあくせく教員という職業にしがみついている。法律が改正されて、25年務めなければ年金がつかなくなった。したがって、少なくともあと3年は、この苦役を甘受しなければならない。家のローンや子供の教育費を考えると、55歳まではがんばらなければならないだろう。その5年間が時にはいくらか重荷に感じられるようになってきた。

 しかしものは考えようである。希望はなにも未来にあるわけではない。現在の生活の中にあるはずである。現在の生活を楽しめない人間は、やはり未来の生活も楽しめないのだろう。来るべき第二の人生を明るくするためにも、現在の日々の生活をできるかぎり充実させ、楽しものにする工夫を忘れてはいけないと思う。


2000年12月26日(火) クリスマスのケーキ

 昨日、5時頃帰ってくると、玄関に高さ40センチほどのお菓子の家が置いてあった。クリスマス用の飾りも兼ねているようである。私は悪い予感がして、居間にはいると、「まさか、あれがクリスマスのケーキじゃないんだろうね」と妻に聞いた。

「なに言っているの。あれがそうよ」と妻。「馬鹿を言うなよ」と私はきょろきょろ辺りを見回し、冷蔵庫を開けてさがしまわる。しかし、いつもの丸いデコレーションケーキらしいものはどこにもない。「だめじゃないか。買ってこいよ」と、私は妻に催促する。

 その様子を眺めていた長女が「おとうさん、心配しないで。ちゃんとあるんだから」妻も笑いながら、「だめじゃないの。そんなに早く教えては」何のことはない。私のあたふたとケーキを探し回る姿を、みんで眺めて楽しんでいたのである。悪趣味としかいいようがない。

 私が子供の頃はケーキはとても普段は口に入らなかった。それがクリスマスの日にだけは、腹一杯飽きるほど食べることができた。だから私にとってクリスマスとは、まずケーキを食べる日なのである。しかもそのケーキは今はやりのごてごてしたものではなく、昔ながらの丸いシンプルなケーキでなければならない。

 ところで、夕食のあと出てきたのは、直径15センチほどの小さなサイズのケーキだった。それでも2000円もしたのだという。部屋の灯りを消して、ローソクに火を付けた。それを次女が一気に吹き消す。何だか知らないが、おごそかな一瞬である。

 今年ももうじき終わりである。妻の風邪も治り、一日遅れでケーキにもありつけた。この一年間、家族や親しい人にこれという病気や怪我がなくて、健康でいられたことを感謝したい。そしてケーキを食べながら、私はふと、まだユニセフの募金を済ませていなかったことに気付いた。

 恵みを受けるだけでなく、ほんのわずかであっても世界の人々に恵みを分かち与えることが出来ることに、さらなる感謝を捧げたい。世界の中の子供たちが、私たちのようにクリスマスの日には、おいしいケーキが一口でも食べられる日が早く来ればいいのにと願っている。


2000年12月25日(月) 手作りのたのしみ

 一昨日から妻が寝込んでいる。目の奥が痛いので、本人は「くも膜下」かも知れないと言うが、たぶん風邪だろう。妻が寝込むのは今年はじめてのこと。ちなみに私は一度も寝込まなかった。医者にかかったのは歯医者と、テニスボールを急所に受けたときだけである。

 そういうわけで、昨日は私が主婦業をした。つまり買い物に出かけ、料理を作って妻や娘達に食べさせたのである。私のつくる料理といえば、「豚鍋」が今のところ定番である。大学生の頃、私は4年間自炊していた。毎日曜日によってメニューを変えていたが、その中の一つが「豚鍋」で、他に酢豚、焼きめし、ブリの照り焼きなど、7種類のメイン料理があった。

 料理を作りながら、久しぶりに豊かな気分になった。大学時代も、思い出してみると、料理を作るのがそれほど苦ではなく、たのしみだった。また、楽しみだったからこそ、長続きしたのだろう。大学の食堂や、近くには手軽な大衆食堂がいくらもあったが、やはり手作りの味は捨てがたい。

 大学時代、私は学生運動に挫折し、一時精神状態が最悪だった。そんなとき「万葉集」に出会って、精神の活力を取り戻したわけだが、今考えてみると、やはり下宿先の寺で自炊を続けていたということも大きな支えではなかったかと思う。「食」というのは生きる上での根本である。それを他人まかせにせず、自分で行うということは、自分の荒廃した精神を回復させる上で効果があったと思う。

 そういえば、ある作家の作品に「鍋の中」というのがあった。小説を書くこともどこか料理と似ている。とくに私の場合、自炊の経験が小説を書くことに何か影響を与えているように思える。精神が自立する上で、この二つの行為が私にとって大きな支えを与えてくれたようである。



2000年12月24日(日) 初めにロゴスありき

 最近、山さんと時々メールの交換をする。山さんは私の同僚で、北さんと同じ国語科の先生。掲示板にも書いてもらったことがあるが、やりとりはメールの方が多い。私のクラスの副担任でもあり、弁当仲間なので、学校では日常的に付き合っているが、メールや文章を通した交流もまた改まった雰囲気が感じられて、日常の雑談よりも思索的で、格調の高い対話が出来そうである。

 というわけで、今日は彼にあてた私のeメールを紹介しよう。ただし「」の文章は彼の文章である。了解を得ずにここに引用してしまったが、やかましく言うとこれは著作権の侵害になる。しかし、山さんなら許してくれるだろうと言うことで、使わせて貰うことにする。

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 私はかねがねの主張通り、仕事は1/3と割り切っています。それ以上の進入を許さない。まあ、ウルトラエゴイストというところでしょうか。新任の頃から手ぶら主義を貫いています。

 残念なのは、結婚してマイホームというお荷物を背負い込んだこと。だから、なるべくはやく、家出して、一人になりたいと願望しています。(家族に対する不満は一切なし。妻も娘もよくできています)これもウルトラエゴイズムですね。

 昔から西行や芭蕉にあこがれています。良寛は私が最も尊敬する人。いずれも漂泊の詩人達です。西洋で言えば、樽の哲学者ディオゲネスでしょうか。無一物の生涯を、精神の自由と高雅さをたもちながら生きて行ければと思っています。

「少々乱暴かも知れないけど、言葉が思惟だと言うべきだろうと思います。心の中の言葉とともに心の中にふさわしい思惟が生まれるし、口から発する言葉とともに口から発するにふさわしい思惟が生まれるし、さらにそこに身振りが伴えばそれにふさわしい思惟が生まれるし、手を使って書けば、それにふさわしい思惟が生まれる。言語ではないけれども、音楽・絵画・演劇・・・など、演奏したり描いたり演技したりするとともに、筆舌に尽くしがたい思惟が生まれます」

 音楽、演劇。絵画、それぞれに言葉=思惟がかかわっているという捉え方はいいですね。私が「人間を守るもの」の中で展開した考え方もこの精神で貫かれています。西洋流に言えば「ロゴス」ですね。初めに言葉(ロゴス)ありき、という訳です。

「表現力を高める、表現技術を磨くということは、思惟を高める、思惟を深めるということになるし、自己の人格を高め、深めることになると思います。物事の本質についての問いかけも、言語表現なくしては不可能ですが、その答えに近づけば近づくほど、世界(身の回り)ともうまくつきあえるようになります」

 人格力の根底には言語能力があると思います。粗暴な言語は粗暴な人格と結びついている。私たちの考え方や感じ方は「言語能力」によって基本的に規定されている。だから言語能力をたかめることこそ、教育の第一の目標でなければならないと思います。私は数学も論理性を重視する言語能力の一部だと理解しています。

 問題点は、言語は我々を支配するシステムであるということ。私たちは母国語の限界の中で考えています。システムの中で生きながら、そのシステムに一方的に支配されるのではなく、ときとしてそのシステムを超える生き方が出来るかどうか、その辺のことを私はいつも考えています。

 言葉について、またいろいろと議論したいですね。言語を基礎においた教育論にはとくに興味があります。


2000年12月23日(土) 腐ったリンゴ

 昨日終業式が終わり、学校は今日から冬休みに入る。と書くと、先生方は休みが長くていいですねと言われそうだが、それは全くの誤解である。正規の授業がなくなるというだけで、学校自体は活動していて、補充や追試、部活動なども行われている。教員は決して休日ではないのだ。とくに担任は多くの成績不良の生徒を抱えて、その指導に神経を使わなければならない。

 さらに私はここにきて、窃盗事件を起こした特別指導の生徒を4人も抱えて、とても忙しくなった。昨日の午後は、リーダー格のA子の家に学年主任のE先生と一緒に家庭訪問をした。お互いに昼食抜きで学校を飛び出したので、途中のコンビニでおにぎりを買い、私は助手席で食べたが、E先生などはおにぎりを食べながらの片手運転である。

 A子はクラスでも一番悪い意味で存在感のある生徒で、彼女は同じクラスのB子、C子、D子を巻き込んで、今度の一連の事件を巻き起こした。中学の頃から相当荒れていて、問題行動を繰り返していたようである。この生徒については職員会議で、進路変更を勧告することが決まっていた。いわば生徒の首を切りに行くわけで、教員をしていて一番にいやな役割である。しかしこれは担任の勤めだから、逃げるわけには行かない。

 両親と本人を前にして、E先生がその申し渡しをすると、母親は泣き出し、本人は涙を浮かべていた。「何とかなりませんか。条件付きで、学校に置いてもらえませんか」と父親はあくまで食い下がってくる。これまでこうした事件を起こして退学を免れた前例がないと言うこと、学校へ来ても本人は大変気まずい思いをしなければならず、とうてい学校を続けられる状況ではないことを話して、どうにか両親に納得してもらうしかなかった。

 A子と一番親しく、いつも行動をともにしていたのがB子で、とうぜんB子もA子と同様の厳罰に処すべしという声が指導部で多数出ていたが、B子といい、C子、D子も、A子に比べるとはるかに穏和な普通の生徒で、A子の強力なリーダーシップの前に、心ならずも共犯者になってしまったという面がある。会議では最終的にこの点が考慮されて、残りの3人についてはもう一度学校に戻るチャンスを与えようと言うことになった。この点についても、両親やA子本人の理解を得なければならない。

「腐ったリンゴ」という言葉がある。箱の中に一個でも腐ったリンゴがあると、たちまち他のリンゴにも伝染して箱全体が腐ってしまうというたとえである。学級崩壊や学校崩壊も、こうしたほんの一個の腐ったリンゴからはじまる場合が少なくない。数年前の長女の中学校の荒れのすさまじさを以前に日記で紹介したが、その場合も引き金になったのは転校生してきた一人の茶髪の女生徒だった。その女生徒の学校や教師をなめ切った野放図な振る舞いが、あっという間に学校中に伝染して、秩序を失わせたのである。

 今回のA子の場合もこれに近い状況である。A子さえいなければ、B子たちも何も問題を起こさなかっただろう。腐りかけたリンゴは独特の甘美な匂いをはなつ。そしてそれは人の良心を麻痺させ、人々を悪徳と堕落の甘美さへと誘う。A子もそうした腐ったリンゴの反抗的で虚無的な匂いをクラスの中でまき散らしていた。授業中私語をしたり、お菓子を食べたり、学校をなめ切っていて、注意した教師には無視をするかくってかかり、教師の指導に素直に従おうとしない、とても教師泣かせの生徒だった。

 しかし今回、A子に引導を渡しながら、母親や本人の涙を見ているうちに、私自身いつか目頭が熱くなり、涙が止まらなくなった。担任として無念の涙だとも言えるが、それだけではなかった。ある記憶が脳裏に蘇ったからだ。

 まだ事件が発覚する随分前に、私は何度か彼女を呼びだして個人指導をしていた。私にも同じ年の娘がいる。ピアスやアイシャドウをして厚化粧の妖婦のような彼女を見ながら、「お前を見ていると、先生とてもかなしくなる」と言った。「おまえに関係ないだろう」と彼女。そのつっぱねた顔を見ているうちに、私の目にふと涙が浮かんだ。そのとき、彼女がけたたましく笑い出した。「先生ったら、アハハハ・・・」彼女は大声で笑いながら、しかし目は笑っていなかった。彼女も又目にいっぱい涙を浮かべていた。

 彼女は腐ったリンゴかも知れない。しかし、芯まで腐っているわけではない。それが証拠に、彼女は今回の事件についても最後は涙を流しながら、すべてを正直に話した。昨日私たちが訪問したときも、まだ思い出したことがあるといって、メモを取りだし話してくれた。そして他の3人については、「私が引き込んでしまって悪かった。ぜんぶ自分がやりました」と思いやりを見せた。

 正直言ってA子という問題児がクラスからいなくなることは、他の生徒への影響を考えると、たいへんありがたいことである。たぶんA子自身にとってもその方がいいのだろう。「お父さんやお母さんには悪いけど、私ははもう学校へは戻れない。働きながら、定時制へ通うことにしたい」と、最後に彼女は憑き物が落ちたような爽やかな笑顔で私たちに言った。彼女のその言葉で、父親も折れた。そして、これまでの重苦しい雰囲気とは違った明るさの中で、彼女の将来について両親や本人と前向きの話をすることができた。

 A子の家を出た後、先方の家の事情もあり、しばらく時間をおいて、B子の家には夜の7時半過ぎに指導部長と一緒に出かけた。父親と本人に在学の意志をたしかめ、指導措置を言い渡し、すべてが終わって、家に帰ってきたのは9時過ぎ。それから風呂に浸かり、そのまま床の中に倒れ込んだ。一分後には、意識を失っていた。こうして長い一日がようやく終わった。




2000年12月22日(金) 不眠の恵み

 私は寝付きがよい。枕に頭を付けて、たいがい5分以内に眠りに落ちる。この話を人にすると、たいていの人はうらやむ。しかし、そんな私にも弱点がある。夜中に目が覚めて、眠れないことがよくあるのだ。

 たとえば、昨晩、私は10時前に床についた。一日の疲れがでて、それこそ頭を枕に付けてた瞬間、もう意識がないという具合だった。ところが、間が覚めたのは夜中の12時過ぎ。がっかりである。これが朝の4時とか5時だったら、それこそ理想の睡眠パターンだが、最近はまずこうした幸運な眠りに恵まれることはない。

 それから、どうにかまた一眠りしたが、熟睡したわけではなく、いやな夢を一ダースほど見た。たとえば、頭上から飛行機が火を噴いて落ちてきて、その残骸の破片や車輪が火を噴いて飛んでくる中を逃げまどうというあまりありがたくない夢である。これなど現在私が置かれている危機的状況を夢が再現して見せたものだと考えられる。

 そんな悪夢にうなされたあげく、2時に再び目が覚めてしまった。5分、10分たっても、もはや眠れそうにない。そこで、私は眠ることを断念して、いつものように空想の世界に自分を誘うことにした。つまりこの機会に短編小説の筋立てをひとつ作り上げようという訳である。

 主人公が外出から帰ってくる。すると玄関口に女もののハイヒールが脱ぎ捨てられてある。妻を失って一人暮らしをしている主人公には大学生の娘がいる。しかし、娘は家を出て、一人で暮らしている。あまり父親と仲が良くない。その娘が帰ってきたのかと、男は胸騒ぎを覚えて家に上がるが、家の中に人気はない。まずはこうしたミステリアスな場面から始めてみた。

 話の筋をいろいろ考えているうちに、まとまるときもあるし、そうでないときもある。まとまってもつまらない駄作の場合が圧倒的に多い。しかし、ときにはこれと思う筋立てが出来るときもある。今日は幸運なことに、気に入ったエンディングにまでたどりついた。最後は自分でもちょっと感動して、布団の中で目頭が熱くなった。この冬休みのうちに、なんとか書き上げて作品として完成させたいと思う。

 そして時計を見ると、3時を少し過ぎている。そろそろ床を抜け出してもよい時刻である。睡眠時間は結局正味4時間に満たないことになったが、これはいつもよりもいくらか短めだが、このところ文学の神様に見放されていて、久しぶりに短編小説のプロットが出来たのだから、まあ満足しなければならない。

 こういう訳で、私が小説の筋立てを考えるのは、ほとんど不眠のとき、眠られぬベッドの中でだ。だから皮肉なことに、むしろ身辺が落ち着かず、不眠症気味の時の方が、小説がよく書ける。最近では2年前、やはり一年生の担任をしていて、クラスが荒れていた頃が創作活動のピークだった。そして担任を外れてわりあいのんびり出来た去年は、結局一本も書けなかった。

 今年は再び1年生の担任をしていて、いよいよ前途多難な時期を迎えようとしている。運命が与えてくれたレモンからいかにおいしいレモネードが作り出せるか、これからが正念場だとも言える。故郷の越前海岸ではいまごろから水仙の花が咲き始める。風雪の断崖に咲くこの花のように、私も厳しい北風の吹きすさぶ逆境の中にこそ、香り高い作品を書くチャンスがあると思っている。


2000年12月21日(木) 言語の恩寵

 昨日の掲示板に北さんの「言語の力について、橋本さんはどう考えていますか」という質問があった。そこで、以前に書いた「人間を守むもの」の第2章「精神と言語」にある「言語と恩寵」の中から、一部引用しよう。この文章を書いたのは4年ほど前だが、今も私の考え方はそれほど変わっていないからだ。

  ・・・・・・ 第2章 精神と言語/言語の恩寵 ・・・・・・・

 ・・・しかし言語能力の恩寵はさらに深いものがあります。それは問題解決のための実際的な必要を満たすだけのものではなく、単にコミュニケーションの道具でさえもないのです。言葉は私達に思索する喜びを与えてくれます。言葉によって我々は世界を認識し、自己をも認識します。パスカルが言うように、我々は広大な宇宙の中のでこの束の間を生きる寄る辺なき存在に過ぎませんが、大切なことは我々はその事実を知っているということです。

「宇宙はその無限の広がりで私を包む。しかし、私は宇宙について考えることができる。私は考えることによって、宇宙を包む」

 パスカルが言うように、「考える葦」である我々は宇宙と自己について静かに思索することが出来ます。それが出来るのは我々が脳と呼ばれる千数百グラムの特別に組織された物質を持っているからです。考えて見ればこれは不思議なことです。どんな壮大な思想も、美しい言葉も、人間のこの狭小な頭蓋骨の穴蔵で生まれます。そしてこの狭小な空間の一握りの物質が、この広大な宇宙について思索し、宇宙の神秘を讃えるのです。この事実に勝る神秘がこの世にあろうとは思われません。

 さらにもう一つ、言語には大切な働きがあります。それは言語はもっとも奥深いところで我々の存在を規定している隠れたシステムだということです。その事についてはすでに述べたとおりですが、この言語の隠れた働きについては何度強調してもし過ぎることはないでしょう。

 言語は我々の意識に秩序をもたらします。我々の精神のあり方は言語の構造に依存しているのです。言語は論理と呼ばれる普遍的な構造によって、我々の精神にある客観性と合理性を与えます。この客観性と合理性こそ、真理と呼ばれるに値するものの土台であり根底なのです。

 人間を人間たらしめているものは言語であり、人間をその根底で支えているものは言語だと言えるのです。しかし我々は普段余りこのことを意識しません。なぜなら我々にとって本当に貴重なものは、しばしばそれがすでに与えられているというだけで等閑視されがちだからです。たとえば水や空気がそうです。そしてこの地球そのものがそうです。太陽もそうですし、我々の手足や健康もそうでしょう。言語も又そうしたものの代表だと言えます。

 言葉の中には人類の悠久の歴史が宿っています。それは何者にも勝る生きた文化財であり、先人達の豊富な経験と知恵の宝庫です。人間は言葉を所有することによって、人類史の成果を彼の個人史の中に取り入れます。そのことによって、我々の肉体が三十億年を越える生命の歴史の産物であるように、我々の心も何十万年に及ぶ人類の遺産の相続人となるのです。
  


2000年12月20日(水) 心の常備薬

 人生、山あり谷ありで、なかなか思うようにいかない。エジソン流に言うならば「人生は1パーセントの喜びと、99パーセントの苦しみである」というのが、実態ではないだろうか。

 こんな悲惨な人生、早いとこおさらばしたいと思うが、人間はいざとなると1パーセントの方にしがみつく。「楢山節考」のおりん婆さんのように潔く生を断念することは、なかなかできない。

 それでも、去年あたりから、我が国の自殺者は3万人を超えている。交通事故死の2倍以上である。とくにこの数年、中高年の自殺が激増しているが、教員の自殺もあるのだろう。私も5年ほど前に私のクラスの副担任をしてくれたこともあるN先生の自死に出会っている。毎年家族の写真入りの年賀状をもらっていただけに、年の暮れになると彼のことを思い出す。

 さて、悩みがあるのが人生ならば、この悩みと上手に付き合って行くことを考えなければならない。一病息災という味のある言葉がある。無病息災は理想かも知れないが、むしろこれはあぶないのではないかと思う。誰かの有名な言葉に、「健康とは単に病気にならないことではなく、病気になっても快復できることである」とあった。問題は快復力であろう。

 病気を治すのは自分自身だが、的確な医療があれば、ずいぶん助けになるだろう。肉体の病気に常備薬が必要なように、心の病気にも常備薬があれば心強い。ところが、案外、多くの人は悩みの多い人生を送っている割に、このことに気付かない。そこで、私にとっての常備薬を今日は紹介しよう。

 それはカーネギーという人の書いた「道は開ける」という一冊の本である。そのなかに「レモンの効用」という一章がある。その中から、ほんの一部だけ引用してみよう。詳しいことは「人生World」の「道は開ける」をご覧になっていただきたい。

 私は自分の人生に行き詰まったとき、いつもこの本をひもとくことにしている。そうすると必ず、逆境にあって困難に立ち向かう勇気を与えられる。つまりこの本は、心を健康にする魔法の薬である。そしてこの本を読む度に、言葉の偉大な力に打たれる。

     ・・・・・・ 第17章 レモンの効用・・・・・・・

「人生で最も大切なことは利益を温存することではない。それなら馬鹿だって出来る。真に重要なことは損失から利益を生み出すことだ。このためには明晰な頭脳が必要になる。そして、ここが分別ある人と馬鹿との分かれ道になる」(ウイリアム・ポリン)

「窮乏に耐えるだけでなく、それを愛するのが超人である」(ニーチェ)

「我々の弱点そのものが、思いがけないほどわれわれを助けてくれる」(ウイリアム・ジェームス)

「人間が自己の責任を背負って立てば、環境が良かろうと悪かろうと中程度であろうと、気骨のある人間が育ち、幸福が必ずやってくる。だからこそ、北風がバイキングの生みの親となったのだ」(エマソン)

 運命がレモンをくれたら、それでレモネードを作る努力をしよう。



2000年12月19日(火) 規律と服従

今は下火になったが、私が教員になった頃の愛知県は、まだ「管理主義教育」が健在だった。たとえば教員3年目で転勤した三河の新設高校では、下足箱に入れる下足の方向が決められていて、毎日指導部が名票にチェックしていた。私のクラスにどうしても反対向きに入れる生徒がいて、職員室で正座させられていた。それも私のすぐ傍らで。まるで担任の私へのあてつけだ。

 この学校の一日は日の丸への礼拝からはじまった。校門で生徒は自転車を降り、ヘルメットを脱いで、正面玄関の屋上にたっている日章旗へ一礼をする。これは教師にも義務づけられていた。車で通勤している教師の場合、駐車場の出口に白線が引いてあり、そこで立ち止まって旗に敬礼をする。

 その学校の場合、これとは別にグラウンドに三旗(日章旗、県旗、校旗)が毎朝当番の生徒と教師の手で掲揚されていた。この時、グランドで活動していた部活動の生徒は一斉に活動を止め、三旗に向かって礼拝する。夕方、三旗を降ろすときも同じである。

 管理は生徒のみならず教員にも及び、たとえば職員室の机の上には完全に空にして帰れという。辞書を置いて帰っていた教員が、朝の職員朝礼の時、「○○、教頭の命令は俺の命令だ。ちゃんと規則に従え」と呼び捨てにして叱られたこともある。(この校長は県の教育委員会から来て、4年後に県に戻り、課長、部長と出世し、名門高校の校長におさまり、教育委員長の有力候補だった。退職後、しばらくして交通事故で亡くなった)

 こうした訳で、教師も生徒も朝から晩まで超緊張状態。息苦しい雰囲気が漂い、授業中に呼吸困難に陥る「過呼吸」の発作を起こす生徒が続出し、一時期、教室の後ろに折り畳み式タンカーが常設されていた。こうした息苦しさに耐えかねて、私の友人の英語の先生は転勤3カ月の頃から不登校に陥り、とうとう精神科の療養施設に入院した。(翌年早々と一年目にして転勤)

 まったく規則ずくめの厳しい生活だが、「どんな規則でも規則である以上従わせなければばならない」というのが指導部長(いま某高校で校長をやっている)の見解だった。私は当時指導部にいたが納得できず、一年目に転勤希望を出し、それがかなえられなかったので翌年担任は辞退させてもらい、その次の年に定時制高校へ転勤した。

 新設高校の場合、「どんな規則にでも従順な人間を作ること」が目的で、その為にはむしろ「規則は不合理なものほどよい」という考え方だったようだ。これでは戦前の軍国主義の時代の教育と変わらない。産業戦士や軍人を作るための教育で、とても怖いことだと思う。

 もっとも現在の学校の、規則などっあってなきがごとき無秩序状態に身を置いてみると、下足の向きまで統制されていた一糸乱れぬ整然とした学校の在り方に、一種のノスタルジーを感じることも事実だ。これも危ない。




2000年12月18日(月) アポロ11号とIT革命

 もうすぐ21世紀である。映画「2001年宇宙の旅」が公開されたのが1968年で、翌年にアポロ11号が月面着陸に成功した。しかし、私たちにとっていまだに宇宙旅行は夢である。宇宙科学技術の開発を国家が独占し、規制をもうけて軍事機密扱いにしたためである。これでは市場の競争原理が働かず、有効需要も喚起できない。

 日本も公団などつくらないで、民間のヘゲモニーに任せていたら、得意の技術力に磨きをかけて、宇宙ビジネスのパイオニアになっていた可能性がある。大勢の日本人が世界の人々と2001年の新年を、月面で地球を眺めながら迎えていたかも知れない。

 同様な遅滞が日本のIT技術に起ころうとしている。森内閣は何千億という予算を配分するつもりらしいが、IT革命に政府が大金を投入する必要はない。政府が為すべきことは今ある規制を撤廃することだろう。そのために必要なのはお金ではなく、政治家や官僚が自分の頭を切り換えることだ。

 たしかに公共事業にしてお金をばらまけば、業者が儲かり、政治家や官僚も甘い汁を吸うことができる。だから、規制をなくすよりも、IT革命を隠れ蓑にして、国民の税金から巨額のお金を投入しようとする。これではIT革命は進まないし、日本の将来も暗い。新しい世紀こそ私たち庶民が夢の持てる、平和で明るい時代にしたいものである。

 


2000年12月17日(日) 絶望する教師たち

 もう何年も前から学校が大変な状況になっている。それは私の同僚である北さんやとくさんのHPをみてもらえば分かる。そこの雑記帳に教育の現場で苦闘している教師の本音が書かれている。だれしも学校や自分の恥はさらしたくない。しかし、教師や父兄が実態を隠し続けていては事態が深刻化するばかりだ。

 そうしたわけで、今日は私が去年体験した「絶望体験」をありのままに書いてみよう。実は北さんを励ますつもりで、掲示板に昨日書き込んだ。しかし、字数制限で割愛した部分もあるので、原文をここに再録しておこう。

 昨年、私は自分の授業で初めて「絶望」を体験した。それは3年生の理系クラス。数学のスタディの下位クラスだが、人数は15,6名。久しぶりに数学のいい授業ができそうだとうれしくなった。ところが授業を始めてみて驚いた。

 誰一人として、私の授業を聞こうとしない

のだ。

A君、B君は一時間中おしゃべりをやめない。注意してもまったく効き目なし。他も同じ。おしゃべりをしているか、居眠りをしているか、漫画を読んでいるか、携帯電話。中でも態度が悪いのがC君で、私が誰かを注意すると

 下敷きで机をけたたましく叩き続ける。

注意しても聞かない、よけいやかましくなるだけである。

 話を聞くと、ほとんど全員が進学希望だが、数学は一年生に習った科目だけで受験するので必要ないという。というわけで、

 私の数学の授業は息抜きのおしゃべり&安眠タイム

と思っているらしい。言っても分からない生徒たちに、

 私は無力感と絶望感をかみしめながら、ただ義務感だけで

授業を進めるしかなかった。

 だれひとりとして聞く者のいない教室で、おしゃべりと居眠りと携帯の音になるべく気を取られないようにしながら、黒板に問題を書き、そして自分で解く。
こうした孤独な授業を続けながら、私の中に

 何ともやりきれない孤独感とむなしさ

が堆積していった。

 ところが、二学期になって、思いがけない救い主が現れた。K子さんが転校してきて、私のクラスに入ったのだ。彼女は実力はさほどではないが、おしゃべりもしないでまじめにノートをとる。

 クラスの中で一人だけ私の授業を聞いてくれる生徒ができた

のだ。

 しかも、彼女がただおざなりに聞いているだけではないことが分かった。ある日私はこれまでの調子でどうせだれもわかりはしないだろうと、途中の式を飛ばして解答した。すると、授業が終わると、彼女がその部分を質問しにきた。そして、「先生、途中の式もとばさないで書いて下さい」と言う。そのとき私は何か新鮮な感動を味わった。そして、

   「よし、私は彼女一人のために、理想的な授業をするぞ」

と決心した。

 卒業式の日、式が終わって、体育館を出ていく卒業生達を私も他の先生たちと一緒に並んで見送った。そのとき彼女が私の前で足を止めて、私の顔を見て
頭を下げた。

 「ありがとう」

私も思わず、つぶやいていた。そして思わず目頭が熱くなった。

 一人でも授業を聞いてくれる生徒がいる

ということはどんなにありがたいことか、そして幸せなことか、そのときしみじみと思った。




橋本裕 |MAILHomePage

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