橋本裕の日記
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「悩みや悲しみは最初からあるが、喜びはだれかが作り出さないといけない」朝日賞を受賞した作家の井上ひさし氏の言葉だそうである。なかなか含蓄のある言葉だ。
同じようなことをカントが平和について言っている。「自然状態はむしろ戦争状態である。それゆえ、平和は創設されなければならない」(世界平和の為に)
人間は争いを好む。戦争や流血を好む。人が平和に幸福に暮らしているのを眺めるよりは、苦悩に打ちひしがれ、涙にくれている姿を眺める方が好きだ。だから、人の不幸やゴシップをあつかった週刊誌が売れるし、乱闘シーンや殺人シーンばかりの血なまぐさい映画がヒットしたりする。
自然の成り行きに任せれば、争いが起こり、悩みや悲しみばかりの人生になることは目に見えている。そうした事に気付いた人間だけが、平和を創り出そう、そして喜びを創り出そうと、真剣に考えるのだろう。
2001年02月27日(火) |
幽霊たちが支える森政権 |
KSD(中小企業経営者福祉事業団)による自民党費肩代わりは、9年間で述べ63万人分、15億円にのぼる。しかも、名簿に載っているのは、ほとんど実在しない架空の人物で、「石川五右衛門」や「徳川家康」といった名前まであるという。KSDで十数名のアルバイトをやとい、入党申込書にせっせと書き込んだらしい。
KSDの会員で、自分が知らないうちに自民党の党員にされ、おまけに架空の家族の名前をでっち上げられて、幽霊家族で複数分登録されたりしている人もいる。こうして登録された名簿をもとに、自民党から党員証が送られてくるが、本人には届かないようにKSDの関連企業に送らせて、廃棄処分にしていたという。
東京地検に呼び出された会員の一人は、姓は同じだが名前を知らない二人が同居していることになっていて、東京都豊明支部の名簿に三人で載っていた。「党費をはらったこともないし、党員になっていることも知らなかった。KSDに払った会費がこんなことになっているとはまるで詐欺。私と同じような人がまだ他にたくさんいると検事に言われた」と話している。(2/23朝日新聞朝刊)
KSDが党費を肩代わりしたのは、参議員選挙をひかえ、村上正邦氏や小山孝雄氏の比例区の順位を上げるためだ。そのかいがあって、二人とも参議院議員になることができた。村上氏などは、順位2位(一位はお客さんの有馬前東大総長)の位置に着け、堂々当選して自民党の参議院会長として党内に重きをなしていた。
村上氏はやがて小渕氏のあとの次期首相をきめた5人組の一人となり、「森でいいだろう」と発言して、森首相実現に貢献した。ということは、森政権の背後に「石川五右衛門」さんたちがついているということだ。なんだか背筋が寒くなってきた。
日本の生命保険会社が次々と破綻している。日産、東邦、第百、大正、千代田、協栄生命と続き、この先も破綻する生命保険会社が続きそうである。バブル期に高い予定利率で契約したため、逆ざやが生じて、経営が立ち行かなくなったからだという。
これらの多くの生保は外国の保険会社に身売りする事になっている。たとえば、協栄生命は米プレデンシャルに、千代田生命は米AIGに、日産生命(現あおば生命)は仏アルテミスにという具合である。
こうした生保の破綻処理のために生保協会は5600億を投入するという。本来は預金者に還元されるべき金がこうした処理につかわれるわけだ。公的資金も4000億円上納されるそうだから、納税者としても納得がいくかたちでなければならない。
とくに大切なのは、こうした破綻をまねいた経営責任の追求だろう。ところが破綻処理に際して、「受け皿会社は過去の経営責任をいっさい追求しない」という免責事項が設けられているので、経営責任はうやむやにされそうだという。
たとえばあけぼの生命(旧日産生命)の場合、300億円で譲渡されるはずだったのが、この免責事項を認めさせることで、50億円も値引きがおこなわれたという。この50億円は本来なら預金者の救済にあてられるべきだろう。それが経営破綻を招いた責任者たちの免責に使われるというのだからあきれてものがいえない。
今日本の経営者のほとんどは50代後半から60代前半だという。そして彼らの考えることはだれも同じで、「このままあと数年頑張ってしまえば、自分の時に血を流さないですむ」ということらしい。つまり、自分だけは逃げ切り、莫大な役員報酬や退職金を手に入れようということだ。だから誰も真剣に不良債権の処理などする気がない。朝日新聞2月22日付コラムによると、これを「逃げ切り症候群」というらしい。
一方官僚の間では「模様眺め症候群」が広がっているという。財務省の高官は「みな模様眺めを決め込んでいる。いま飛び出しても何のトクにもならないし、いまの政治指導者のだれかに入れ上げてもしょうがないから」と漏らしているという。「政治も経済もまだ悪くなる。とことん頭をぶつけないことには思い切って変革しようとする政治勢力は生まれない。まだそこまで行っていない」と、頭の良い官僚たちは考えているらしい。
論語に「徳は弧ならず。必ず隣あり」(四、里仁)とある。これは志賀直哉の好きな言葉だったようだ。実際に志賀直哉の「徳不弧」という書を見て、感動した記憶がある。
孔子はまた、「徳ある者はかならず言あり。仁ある者は必ず勇あり」(十四 憲問)と言っている。徳者は見て見ぬふりをしたり、仁者は間違ったことに対しては、たとえ相手が権力者でもこれを正面から糺す勇気を持っている。
一方で孔子は弟子の子路に「徳を知る者はすくなし」とも嘆いている。孔子の時代にかぎらず、徳を行う者はいつの時代でもそう多くはなかったのだろう。とくに現代のような苛烈な競争社会に住む私たちは、どうしても自分勝手になりがちである。なまじっか他人のことなど考えていたら、競争に負けて落ちこぼれになりかねない。
しかし、そうした自分勝手な人間ばかりでは社会は成り立たない。そして事実、世の中はそうした利己主義者ばかりで満ちている訳でもない。自分ばかりを高くおいて、「徳は弧なり」などというのは、思い上がった独善であり、徳そのものから一番遠いのではないだろうか。
「私は日々、一匹狼のように暮らしていますが、事実、美と真理と正義を求めてやまない人々が形成する目に見えない共同体の一員であるという自覚があるため、寂しいとは感じません」
このアインシュタインの言葉に共感する。私も組織や集団が嫌いで、そうしたものに容易になじめない一匹狼(子羊?)だが、「美と真理と正義を求めてやまない人々が形成する目に見えない共同体」の存在を信じ、その「一員でありたい」と、いつも願っている。
2001年02月24日(土) |
なんでもないから好き |
俵万智さんの短歌を「サラダ記念日」からいくつか引用しよう。
思いでの一つのようでそのままにしておく麦わら帽子のへこみ 潮風に君のにおいがふいに舞う 抱き寄せられて貝殻になる なんでもない会話なんでもない笑顔なんでもないからふるさとが好き
俵万智さんの短歌の持つこの「なんでもない軽さ」が好きである。ついでに「かぜのてのひら」からも好きな歌をひとつ引用しておこう。
ぎこちない父との会話 茶柱が立てばしばらく茶柱のこと
芥川龍之介が「言葉は辞書の中にあるときよりも文章の中でより美しくなければならない」という意味のことを書いている。言葉そのものは抽象的な存在でしかない。しかし、それを組み合わせてつくられる世界はたんなる抽象物ではなく、それを形作った人間の息吹を帯びている。
ほんとうに普遍的なものは個性的であり、ほんとうに個性的なものは普遍的である。それは個性的であると同時に普遍性を持っている。俵万智さんの歌集をひさしぶりに広げながら、とりとめのないことを考え、なんでもない世界に遊んでみた。
友人の北さんにすすめられて、「フォロー・ミー」を観た。監督は「第三の男」のキャロル・リード、脚本は「アマデウス」のピーター・シェイファー。結婚して頻繁に家を空けるようになった妻ベリンダ(ミア・ファロー)に会計士の夫チャールズは不審を懐き、私立探偵に妻の身辺調査を依頼する。
ところがこの私立探偵というのが一風変わっている。堅苦しい依頼人とは正反対の、クレージーで型破りの人物。そして依頼人の奥さんを10日間追い続けるうちに、いつか二人の間に心の交流が生まれる。
二人は一言も言葉を交わさずに、街を歩き、動物園や植物園を歩き、映画を見る。ときには私立探偵の方が彼女の先を歩き、おどけたしぐさで彼女の笑いを誘ったりする。彼女は不倫をしていたわけではなく、結婚して仕事や世間的な交際にしか目が向かなくなった夫に失望しながら、息苦しい家をはなれて、ただ満たされないまま彷徨っていただけだった。
彼女は夫に追求されて、いつも自分の連れをする奇妙な男のことを話す。甘いものに目がなく、白いおかしなコートを着て、白いスクーターを乗り回している道化役者のようなおかしな人物。はじめは警戒していた彼女も、やがて彼とともに過ごす時間を楽しんでいる自分に気付く。そしてどうやら、その男も彼女に好意以上のものを抱いているらしい。
この事実をしって、チャールズは怒り心頭。私立探偵の家に乗り込んで殴りかかるが、反対に組み伏せられてしまう。そこに夫を追って妻がかけつける。妻は夫が自分を疑って私立探偵に尾行させていたと知って驚き、そのまま行方不明になってしまう。
やがて市立探偵は植物園で彼女を見つけだす。そして、チャールズのもとに戻るように助言する。「君と一緒にいて、僕は幸福だった。そしてはじめて自分というものを知った。同じ幸せを彼に分かち与えてやってほしい」
「どうすればそれができるの」と問う彼女に、「僕がこの10日間したことと同じ事を彼に体験させるんだ。一言も話をしないで、ただ一緒にいて、同じ物を眺める。そうすれば彼の心がかわり、二人でいることが楽しくなる」
私立探偵は同じ忠告をチャールズにもする。事務所を10日間もあけて、ただ妻の後を追うことだけをしろと言われて、チャールズはその提案を馬鹿馬鹿しいと思ったが、もはや残された道がそれしかないのを知って、そのことに同意する。そうして、妻を追い始めた夫に、やがて微笑が蘇ってくる。
トポル演じる私立探偵の軽やかに人生を楽しむ姿がよい。しかし、彼の自由な味のある生き方を、チャールズの散文的な重々しさに対照させながら、必ずしも手放しで賞賛しているわけではない。コメディタッチの楽しい映画のように見えて、人生のありかたをとらえた内容のある映画だと思った。夫婦で観るのにふさわしい映画かもしれない。
以前に福井に帰省した折り、母の俳句の載っている新聞を見た。
老いてなほ燃ゆるものあり深紅葉
いい句だなあと感心して、はっと思い当たった。これは以前に私が雑誌の投句欄で見つけて、感心したので母に教えた句ではないか。母はそのことを忘れて、自分の句だと思って投稿したのだろうか。
新聞を見ながら、このことに気付いたものの、母には言わなかった。せっかく句が採用されて、素直に喜んでいる母の気持ちに水を差す気になれなかったからだ。それに、自分の句と思い込むほど、この句に愛着を持っている母がなんだか愛おしかった。
俳句が好きなのは私の家系らしく、私の父も若い頃俳句を嗜んで、俳号も持っていたようだ。もっとも、父の自信作というのがこれまた芭蕉の句にそっくりなので、これは盗作ではないかと疑ったが、あえて指摘しなかった。そんなことで親子の仲が剣呑になってはいけないと思ったからだ。
さて、私自身も俳句や短歌を作るが、どれも我流でいい加減なものである。ごく親しい人にはワープロで作ったあやしげな句集や歌集を配ったりしたことがあったが、今読み返してみると恥ずかしいほどの駄作で、回収して回りたくなる。
そんな恥ずかしい思いをしながら、相変わらず作り続けるのは、やはり俳句好きの血が私の中に流れているからだろう。好きなものは好きなのだから仕方がない。
クロッカス花弁の底に清水かな つむじかぜ少女の足の白さかな かなしみを捨つるがごとく衣脱ぐ
ふるさとの道
土の道が少なくなった タンポポやおおばこが茂り 右や左にきままに曲がっていて 石垣や木立の間を 鼻歌でもうたいながら のんきに歩いていける そんな土の香りのする道が めっきり少なくなった
母の膝のようにあたたかくて 雨上がりの虹のように 美しい夢に満ちていた 魔法の世界 小鳥のさえずりと 小川のせせらぎが そよかぜのなかに さわやかに響いていた ふるさとの道
僕を育て 僕の心をいろいろなものに 出会わせてくれた ふるさとの小さな道
(1983年12月12日の日記より)
一昨日、ビデオで「この森で、天使はバスを降りた」というアメリカ映画を見た。殺人を犯して刑期を終えた少女パーシーは、ある冬の夜、北部の寂れた田舎町のバス停に降り立つ。そして老婦人が経営する古ぼけたレストランで働きはじめる。
町の人々は猜疑心がつよく、いがみ合いながら、人生に希望が持てなくなっている。自分たちの住んでいる土地をのろい、教会や美しい森にも目を向けなくなった人々。そんな彼らの頑なな心が、少女の純粋なやさしさによって癒されていく。少女が町の人々に与えたものは、生きることの「希望と勇気」だった。
希望と勇気は仲のよい恋人のように、いつも連れだっている。希望のあるところに勇気があり、勇気のあるところに希望がある。希望は人生を照らす明かりであり、その中に身を置くとき、勇気がわき起こってくる。
そして、愛とはつまり、希望と勇気をはぐくむ豊穣な大地である。愛があり、希望と勇気のあるところに、人間の幸福がある。愛が大地であり、希望と勇気が葉や茎や根であるならば、幸福とはそこに咲く花であろう。
あるいは、こうも言える。幸福とは満たされた人生の中にあるのではなく、逆境の中で自らの運命を切り開く戦いに中に生まれる。逆境はときに大地のあたたかさを教え、勇気と希望の貴さを教えてくれる。ほんとうの幸福は、北風の中でけなげに咲く一輪の花のように清々しい。
映画の中の少女パーシーは、逆境の中で希望と勇気を失わずに、けなげに生きていく。そして、多くの人々が忘れかけていたもの、幸せを感じる能力や、他人を愛したり思いやることの喜びを、人々の胸に温かく蘇らせた。
森首相をはじめ、最近政治家の知的水準がかなり低下している。しかし、低下しているのは、政治家ばかりではない。東大教授の野口悠紀夫さんは、最近の学生は数学と英語の学力が目に見えて衰えたと言う。高校生の学力崩壊もかなり深刻な状況になってきた。学ぼうという意欲が希薄になっている。
かって日本人の知的水準は世界のトップレベルだった。独創性には劣るものの、平均値で言えば世界の最高水準だったと思われる。しかし、現在日本人の知的水準は、おそらくかなり後退しているのではないだろうか。
ある調査によると、日本人の50歳代の読書時間は一日平均30分程度だという。つまり国民の中堅層がほとんどまともに本を読んでいない。まして他の世代はいうまでもない。日本の学生の読書時間は一日平均10分程度だという統計をかってみたことがある。つまり、限りなく0に近いのである。
日本の大学進学率は45パーセントで、これはアメリカの50パーセントとそれほど遜色はないが、問題は中身だろう。日本では大学に入るまでは一応勉強するけれど、大学に入るとほとんど勉強しなくなる。アメリカの大学は、学生をきびしく教育し、本を読ませ、遊んでいる学生は容赦なく落とす。だから、大学を卒業する頃には、完全に逆転してしまう。
国民の知的水準はどんな本がベストセラー入りするかをみればよい。日本でベストセラーになるのは、知的水準が低い娯楽品ばかりである。書店へ行けばわかるが、書架の大半をしめているのは漫画本である。あとはアダルト系のグラビア雑誌ばかり。TVはまともな知性の持ち主にはとうてい耐えきれないようなお粗末なものばかりを垂れ流している。
日本人の知性はこの先どこまで崩壊していくのだろう。なかでも科学的知識の崩壊は国の未来にとって致命的だと思われる。サイエンス系の本でベストセラー入りする本がほとんどない。サイアスの休刊が象徴するように、科学雑誌も日本では壊滅状態にある。政治家や経済人は株が下落すると大騒ぎするが、本当に憂えるべきはむしろ知的水準の下落ではないのか。
以前に日本の大学の閉鎖性について日記に書いた。それでは、アメリカの大学の場合、一体どうなっているのか。その一例を、アメリカの大学に学んでいる人の体験記から引いておこう。最近、私がインターネットで読んだ文章である。
「アメリカのカレッジのクラスでは、10代から60代までの多様な経歴の持ち主が同じ授業を受けています。たった人口1万人ほどの私が住むこの街に、立派なカレッジがあることにも、また、どんな人でも受講することができることに、この国の懐の深さを感じます。 いつからでも、やりたいことを始められる。カレッジは希望でいっぱいです。4年生の有名大学への進学も、夢ではありません。編入することができるからです。カレッジでとった単位を、4年生大学編入に生かすことができます。働きながら通う人も多いですし、ミッションやミリタリーなどを経験して、外国生活を体験済みの人も多くいます。年齢や経歴がさまざまですから、意見もさまざまですし、いろいろな話を聞くチャンスにも恵まれています。おのずと視野も広がります。 授業料も1科目1学期数千円からと、非常に安いです。講座の種類も、社会科学、生物学、機械、音楽、スポーツ、芸術などさまざまです。日本では、大学教育の場がまだまだ閉ざされていると思います。一部の若者、限られた受験の一時期にしかチャンスがないのです」
こうした文章を読んでいと、日本の大学にくらべて、アメリカの大学がいかに市民生活に根付いているかがわかる。日本の大学の後進性は、日本社会の後進性であり、私たちの生き方の貧しさの現れのように思われてくる。
私が住んでいる一宮市は人口が30万人もありながら、市民が気楽に学べるような大学は一つも見当たらない。目立つのはパチンコ屋ばかりである。いや、一宮市に限らず、日本の都市はどこでも同じような状況ではないだろうか。
アメリカの町は教会を中心にして成り立っていたという。ところがやがてそれが裁判所に取って代わられた。しかし、近い将来、裁判所にかわって、大学に人々の心のよりどころが向かうのではないだろうか。日本も是非そうなってほしいと思っている。
2001年02月17日(土) |
アメリカの理想主義者 |
アメリカ建国の父といえば、ジョージ・ワシントンやベンジャミン・フランクリンなどの名前が上がるが、私が好きなのは、トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson1743〜1826)である。
彼は、弁護士であり、農場経営者、建築家、科学者、音楽家、作家、哲学者、そして政治家であった。フランスの公使として勤務し、ワシントン大統領の国務長官、ジョン・アダムスの副大統領となり、1800年に三代目大統領に選出されている。
独立宣言の起草者である彼は,アメリカではPen of the Revolutionと呼ばれ、アメリカで最も慕われている大統領の1人だという。ジェファーソンは大統領の職務に取り巻いている虚飾を取り除き、最も良い政府とは最も小さい政府であると信じて疑わなかった。独立後間もないアメリカ議会において,彼の掲げる理想主義的政策と,第2代大統領ジョン・アダムスの現実路線とがしばしばぶつかりあい,これが後の2大政党制へと発展していったという。
独立宣言の中のでも有名なのは「All men are created equal」であろう。しかし当時33歳だったジェファーソンがこの有名な一文を書いたとき、彼自身の農園でも多くの黒人奴隷が働いていた。多くの州がこれに反対し、議会はもめにもめた。
このジェファーソンの言葉を、福沢諭吉は「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずと云うへり」と日本に紹介した。奴隷制度を克服して平等な民主主義社会を実現しつつあった米国は、江戸幕府を倒し、士農工商の身分制度を克服しようとしていた日本とって、一つの理想的なお手本だったといえる。このジェファーソンの言葉は1776年以来、その後に引き続く彼の後継者たちによって堅持され、理想と現実のギャップを埋める努力がなされて来た。
彼は大統領職を1800年から2期勤めた後引退し、彼が愛していたモンティチェロの、ヴァージニアの故郷へ戻った。そこで、彼は大衆への教育の理念と、ヴァージニア大学の創始に心身を打ち込んだ。そして、独立宣言が発表された丁度50年後に当たる7月4日に,バージニア州シャーロッツビルの私邸モンティセロで息を引き取った。
彼の最後の言葉は「7月4日になりましたか?」だったという。一方,第2代米国大統領を務めたマサチューセッツ出身のアダムスが没したのも,まさに同じ日で、彼の言葉は「ジェファーソンは,まだ生きているのか」だった。
ジェファーソンは奴隷の女性と20年間に及ぶ交渉をもち、子供まで産ませていたようだ。ジェファーソン記念財団は、DNA鑑定など生物学的証拠と史実を検証した結果、彼が混血の奴隷サリー・ヘミングズの6人の子供の父親である可能性が非常に強いと発表している。
理想主義者の彼は実生活でも平等を「体現」してみせたのだろうか。ヘミングズの子孫の多くは大統領の血筋と同様、奴隷の血筋も誇りに思っているという。こうした事実があばかれても、一向人気が衰えないところも、ジェファーソンの人徳なのだろう。
小学校の頃、「日本誕生」という映画を見て、最後のヤマトタケルの尊が死んで白鳥になるところにとても感動した。日本人は死んで鳥になると考えていた。すばらしい死のイメージだと思う。
ところで、死んだら鳥になるという発想はどこからきたのだろう。私はこれには「風葬」という古代の習慣が影響しているのではないかと思っている。死体を野にさらすことによって、鳥たちがそれを片づけてくれる。死体は鳥たちの餌になることによって、彼らに同化するわけだ。
「風葬」というのは極端だが、最近「自然葬」が見直されてきている。「自然葬」についてはHPがたくさんある。たとえば、http://www.age.ne.jp/x/mumyouan/f/fn-8.htmlを覗いてみると、こんなことが書かれている。
「本当に完全に誰の目にも触れなければ、あなたが海水浴や釣りに行った時にそっと水中に故人の遺灰を葬ってもいいわけである。見た事もあるだろうが海上での散灰は今までわりと派手に撒いていた。しかし、そんなふうにバラバラとは撒かず、水に溶ける無害な紙に包みそっと水中に手放せば、多少人のいる川や海でも目立たないのである。また骨粉は水に沈むので、水槽に魚を飼っている人は水槽のサンゴなどに交ぜてもいいだろう。故人は魚たちの体の一部となるのである。また自宅でガーデニングをやっている人は庭の地中や鉢植えの中に骨粉をまぜても良い。そうすれば故人の一部が花となり木となるのである。さらにオシャレで、なんとも雄大な方法に「間接鳥葬」がある。言うまでもなく日本では本格的な鳥葬(鳥に死体を食べさせる葬儀)は出来ない。そこで米粉などの穀類に骨粉を練り込み、小さいダンゴ状にして野鳥にあげるのだ。こうすれば故人は空を飛ぶ鳥の一部になる」
現在の葬式は寺と葬儀屋がとりしきり、厳粛な人の死を商売の道具にしている。私は昨日の日記に書いたように「風葬」を望んでいるが、不慮の事故や病気でそれが無理な場合は「自然葬」がいいと思っている。
妻にはすでに「死んだら葬式はいらないよ。とにかく坊主はごめんだね」と言ってある。火葬場から骨を貰って帰ってきたら、こまかく砕いて木曽川か、私の故郷の九頭竜川にでも流して欲しい。法律的には何の問題もないようだ。
私が風葬に関心を持つようになったのは、10年ほど前にNHKの番組で、モンゴルの風葬について知ってからだ。そのとき、モンゴルの人々の生活や人生の終末の迎え方に共感した。それは深沢七郎の描いた「楢山節考」のおりん婆さんの、潔い、さわやかな世界にも通じている。そして、現代日本に生きる私たちの、我欲にまみれた人生とはずいぶん違っている。
昔は人は死ねば土に埋められるか、焼かれて、遺灰を野山にまかれた。たとえば、万葉集には次のような美しい歌がある。
鏡なす我が見し君を阿婆の野の 花橘の珠に拾いつ (巻7 1404)
鏡を見るように毎日見ていた恋人を、阿婆(あば)の野で焼いて、その橘の白い珠のような骨を拾った。さらに、そのあと、恋人の骨を清らかな山野に撒くのである。
玉梓の妹は珠かもあしびきの 清き山辺に撒けば散りぬる (巻7 1415)
特別な身分のある貴人は墓が造られたりもしただろうが、庶民は自然葬があたりまえのことだった。庶民がお墓を造るようになったのは、江戸時代幕府になって檀家制度が軌道に乗ってきたころからである。一つの墓に何人も入るという「先祖代々の墓」が一般化したのはずっと後で、明治30年代だそうだ。
こうして日本では自然葬はほとんど姿を消してしまったが、外国では遺灰を自然に帰すことは自由に行われている。たとえば、ネール元首相、周恩来元首相、アインシュタイン博士、エンゲルス、ケインズ、ジャン・ギャバン、ライシャワー元駐日米大使などなど。こうした有名人に限らず、アメリカのカリフォルニア州では全体の約30%が散灰だという。
私の夢はモンゴルの平原で夕日を眺めながら、ひとり誰も煩わせることなく、まただれからも煩わされることなく死んでいくことだ。死んだ後の体は、鳥たちがきれいに片づけてくれるだろう。そうして跡形もなくこの地上から消えることができれば、理想的な自然葬と言える。
万葉集巻20には防人の歌が93首並んでいる。防人は崎守といい、九州、壱岐、対馬の防衛のため、東国から徴収された兵士である。任期は3年だったが、3年経って無事故郷に帰れるという保証はなかった。
我が妻はいたく恋ひらし飲む水に 影さえ見えてよに忘られず (巻20 4322)
水を飲もうとすると、そこに妻の顔が写っている。ああ、妻は私のことを恋いこがれているのだな、と思って男の胸も切なくなる。男の名前は若倭部身麻呂、遠江の国(静岡)に住んでいた農民である。
古代の人々は、夢に恋しい人の姿を見ても、それは恋人の魂がやってきたからだと考えた。だから、「夢に見る」と言って、「夢を見る」とは言わなかった。水に浮かんだ妻の面影も、実際妻の魂がこちらにやってきたと考えた。
水鳥の立ちの急ぎに父母に 物言はず来にて今ぞ悔しき (巻20 4337)
防人に指名されれば、有無を言わせず、農民は九州へと駆り立てられる。妻や家族と別れさえ惜しんでいる暇はなかった。上の歌は駿河の国(静岡)の有渡部牛麻呂のものである。彼も又、運悪く防人に選ばれ、出発をせき立てられたのだろう。
我が母の袖もち撫でて我がからに 泣きし心を忘らえぬかも (巻20 4653)
上総の国、物部乎刀良(おとら)の歌である。家を立つ間際、母親が自分の袖にすがりついてきて、泣いた。その深い心が忘れられないと青年は歌う。彼にはまだ妻や恋人はいなかったのかもしれない。つぎは、相模の国の丈部造人麻呂の歌。
大君の命畏(かしこ)み磯に触(ふ)り 海原渡る父母置きて (巻20 4328)
戦時中、私たちの父や祖父も赤紙一枚で戦場にかり出された。そして多くの人が故郷を遠く離れた異境の地で果てた。その遺体の多くは山野や海底に白骨として残されている。
たとえば、沖縄の激戦地であった摩文仁の丘の断崖下にはいまも手つかずの遺骨が多数眠っている。そこは50年間遺棄され続けたゴミで埋もれている。毎年遺骨収集奉仕団が結成され、ごみをかき分け、異臭の中で、砲弾や手榴弾、有毒なハブの恐怖にさらされながら、遺骨収集を続けているという。
(今年も今月末に全国から100人あまりのボランティアが現地に集合して遺骨収集作業をするそうです。83歳の老人から11歳の少年まで、すべて参加者の自己負担で。くわしくは昨日の朝日新聞朝刊「声」の欄の「ごみに埋まる沖縄戦の遺骨」をごらんください)
さて、万葉集に93首もの防人の歌を収めたのは、大伴家持である。755年、彼は兵部省の要職(少輔)にあった。彼はあらかじめ東国の国府に、防人たちの歌を集めて提出するように命じた。家持はそれを万葉集の巻20に、提出順に並べた。
彼自身も、「防人の情(こころ)となりて思いを陳べて作る歌」をかなり作っている。そのなかの一首をあげておこう。
海原に霞たなびき鶴(たづ)が音(ね)の 悲しき宵は国方(くにへ)し念ほゆ (巻20 4362)
大伴旅人は奈良に帰る途上、歌をいくつも作っている。
吾妹子が見し鞆の浦のむろの木は 常世にあれど見し人もなし (巻3 446)
吾妹子(わぎもこ)というのは太宰府で亡くなった妻のことである。九州に下るときは一緒に眺めたのであろう。それが今は見る人がいないという。長旅の疲れもあったのだろうが、喪失感は奈良の家に帰って、さらに深くなる。
人もなき空しき家は草枕 旅にまさりて苦しかりけり (巻3 451)
吾妹子が植ゑし梅の木見るごとに 心むせつつ涙し流る (巻3 453)
奈良の家に帰って眺めた梅は、亡き妻が植えたものだった。妻がいないので、花を一緒に眺めることが出来ない。しかし旅人がその花を眺めるのも、それが最後になった。やがて旅人は病を得た。
そして病床にあった彼の脳裏に蘇ったのは、やはり天の香具山の麓の「古りにし里」であった。いまそこに萩の花が咲いている。
指進(さしずみ)の栗栖の小野の萩の花 散らむ時にし行きて手向けむ (巻6 970)
しかし、旅人は再び出かけることは出来なかった。病床で、「萩の花は咲いているか」と尋ねた後、息を引き取ったという。735年秋7月。享年67歳であった。
かくのみにありけるものを萩の花 咲きてありやと問ひし君はも (余明軍 巻3 455)
余明軍は大伴家に使えた資人である。彼は主人旅人を追悼する歌を6首、万葉集に残している。またこれより少し前に、太宰府の沙弥満誓から書簡と歌が届いていた。
ぬばたまの黒髪変わり白髪(しら)けても 痛き恋には会う時ありき (巻3 573)
満誓は旅人の人柄によほど惚れていたのだろう。そうでなければ「痛き恋」などという言葉をかっての上司に使うはずがない。旅人が死んだ佐保の邸に、14歳の家持とその弟の書持(ふみもち)、そして妹がひっそりと残された。
大伴旅人が太宰府にいたのは3、4年だった。しかし、ここで培われた歌のポテンシャルが後に、旅人の息子の家持に受け継がれ、やがては万葉集という世界にもまれな大歌集を生み出す力になっていく。そうした意味でも、天の配剤によるこの希有な機会があったということは、私たちにとって幸せなことである。
730年10月、大納言に栄進した旅人がいよいよ都に帰ることになった。そのとき、児島という遊女が、見送りの人々の中から進み出て、「会うことに難きを嘆き、泪を拭ひて、みずから袖を振る歌」を送ったという。
やまと路は雲隠りたり然れども 我が振る袖を無礼(なめし)と思ふな (巻6 966)
衆人環視の中で、旅人は悪びれもせず遊女と別れを惜しみ、歌二首で彼女の気持ちに答えている。いかにも人情家らしい旅人のおおらかな人柄がしのばれる歌である。
大和道の吉備の児島を過ぎて行かば 筑紫の児島念(おも)ほえむかも (巻6 967)
大夫(ますらを)と念(おも)へる我や 水茎(みずくき)の水城の上に涙拭はむ (巻6 968)
水城(みずき)というのは、7世紀の後半に太宰府を海外の敵から守るために造られた堀で、今も福岡県太宰府市にその遺構が残っているという。たぶん旅人はこの歌を遊女に返しながら、あふれる涙を拭っていたに違いない。
太宰府の長官であり、武門の貴族の統領でありながら、旅人にはまったく貴人としての気取りがない。ただ相手をひとりの人間として、あたたかく抱擁する気持があるばかりだ。彼は生まれも育ちも一流だが、人間としても一流の人物だった。
生けるもの遂にも死ぬるものにあれば 今あるほどは楽しくあらな (旅人 巻3 350)
世の中を何にたとへむあさ開き 漕ぎ去(い)にし船の跡なきがごと (沙弥満誓 巻3 351)
旅人は自分や仲間たちの歌が後世に残るとは思っていなかっただろう。しかし後に残ったのは、旅人や彼の仲間たちの歌ばかりではない。名前もしらない農民や兵士、遊女の歌まで数多く残った。そしてそのことをなし遂げたのは、息子の家持だった。
728年に大伴旅人は中納言の地位のまま、太宰師に任ぜられ、奈良の都を離れた。このときすでに64歳であった。住み慣れた都を離れることは、老境にあった旅人にとって、つらいことだったにちがいない。しかも、太宰府に着いてすぐに、妻を失っている。
世の中は空しきものと知る時し いよよますます悲しかりけり (巻5 793)
この歌にはこんな詞書きが添えられている。「過故重畳し、凶問累集す。ひたぶるに崩心の悲しびを懐き、独り断腸のなみだを流す・・・」異境の地で頼りにしていた妻に先立たれた旅人の心中はいかばかりだっただろう。
わすれ草わが紐に付く香具山の ふりにし里を忘れむがため (巻3 334)
わすれ草(ヤブカンゾウ)は黄色いユリ科の八重咲きの野草である。身につけると憂いを忘れさせてくれるという言い伝えがあった。そこで旅人も望郷の思いを断ち切るためにこの花を身につけた。しかし、あまり効果があったようには思えない。この後も、たくさんの望郷の歌が作られて行くからだ。
旅人が故郷とよぶ香具山の麓には青年時代の思い出が残っているのかも知れない。あるいはそこで亡妻の大伴郎女(いつらめ)と出会ったのだろうか。わすれ草の印象的な黄色い花は香具山の麓にも咲き乱れていたのではないだろうか。
ひさかたの天の香具山このゆうべ 霞たなびく春立つらしも (巻10 1812)
これは柿本人麻呂の歌である。旅人もこの歌を知っていて、口ずさんでいたに違いない。昨年の秋、私は大和を訪れ、甘橿丘から天香具山の麓の「ふりにし里」を眺めた。飛鳥川を眼下に眺めながら、旅人や人麻呂が歌に詠った光景をいつくしんだ。
ところで、旅人の赴任した太宰府には山上憶良や小野老といった名を知られた文人たちがいた。そしてやがて旅人を中心にして、太宰府に歌壇が作られていくことになる。
あおによし奈良の都は咲く花の 匂ふがごとく今さかりなり (小野老 巻3 328)
天ざかる鄙に五とせ住まひつつ 都の風習(てぶり)忘らえにけり (山上憶良 巻5 880)
わが園に梅の花散るひさかたの 天(あま)より雪の流れ来るかも (大伴旅人 巻5 822)
旅人や憶良は漢詩を作る教養豊かな知識人であった。その彼らが晩年になって歌を詠むことに熱中した。彼らの歌には人生への思いが託されている。「述志の文学」と言われるゆえんだが、老年とは思えない若々しい「青春」の香りに満ちているところがすばらしい。
フタリシズカという花は、4,5月ごろ、ひっそりと山蔭に咲く。白い花穂が二つ、寄り添うように咲くので、この名がある。私の故郷の福井の山にも咲いていて、山仕事の合間、谷水で喉を潤した後、一休みした足下につつましく咲いていたのを覚えている。この花の古名は「つぎね」といい、万葉集にも歌われている。
つぎねふ 山背道を 人夫(ひとつま)の 馬より行くに 己夫(おのつま)し 徒歩より行けば 見るごとに 音のみし泣かゆ そこ思ふに 心し痛し たらちねの 母が形見と 我が持てる まぞみ鏡に 蜻蛉領巾(あきつひれ) 負ひ並め持ちて 馬買へ我が背 (巻13 3314)
フタリシズカの咲く山城への道を、男たちは馬に乗って行くのに、自分の夫は、馬がないので歩いて通っている。そんな夫の様子を見ていると辛くてならない。「私の母の形見の鏡と領巾(ひれ)を持っていき、馬を買ってください」と妻は訴える。妻のこの歌に、夫はこう答えた。
馬買はば妹徒歩ならむよしゑやし 石は踏むとも我はふたり行かむ (巻13 3317)
たとえ石を踏んでもかまわない。二人で歩いていこう、と夫はむしろ妻を思いやる。ほのぼのとした夫婦愛の感じられる歌である。同様な名もない夫婦の歌をもうひとつ。
信濃道は今の墾(は)り道刈りばねに 足踏ましなむ沓(くつ)はけ我が背 (巻14 3399)
これは賦役のために都に旅立つ夫を見送る妻の歌であろうか。万葉の人々は私たちより遙かに貧しい暮らしをしていた。しかし彼らの心は豊かで、ほのぼのと美しい。
671年12月3日に天智天皇が死んだ。天皇の詔によって、大友皇子が天皇の後継に決まっていたが、近江朝の宮廷は混乱した。なかでも名門貴族である大伴氏の一族ははただちに大和の旧邸にひきあげ、大海人皇子に肩入れする姿勢を見せた。
吉野に隠れていた大海人皇子は6月になって動いた。そして激戦の末、大友皇子(弘文天皇)を破り、7月23日には彼を戦場で自害させた。大津の都はたちまち略奪・放火され、廃墟になったというが、妃であった十市皇女やその母の額田大王は無事に保護されたようである。こうして国を二分して戦われた壬申の乱は終わった。
夫を失った十市皇女は父の天武天皇に連れられて、飛鳥に帰り、宮中にいたようだ。しかし、壬申の乱から6年後の678年7月7日の未明に、にわかに病を得て死んだ。彼女の異母兄である高市皇子が彼女のために悲痛な挽歌を3首残している。
三諸(みもろ)の神の神杉夢にだに 見むとすれどもいねぬ夜ぞおおき (巻2 156)
三輪山の山辺真麻木綿(まそゆふ)短かゆふ かくのみゆゑに長くと思ひき (巻2 157)
山吹の立ち儀(よそ)ひたる山清水 酌みに行かめど道のしらなくに (巻2 158)
あの世ののことを黄泉という。山吹の黄色と山清水の泉が死の世界を象徴しているのだろう。それにしても、これらの歌にこめられた思いの何と深く静かで、かなしいことだろう。歌が美しいだけに、よけいに心にしみこんでくる。
高市皇子は壬申の乱で父の大海人から全軍の指揮を任されていた。いわば十市皇女から夫を奪った張本人でもある。その心の痛みがいつか同情となり、やがては十市皇女への愛情へと変わっていったのだろうか。いや、そもそも二人は幼なじみであり、以前からの心の恋人であったのかもしれない。
実はここに意外な史実がある。じつはこの日、十市皇女は天武の命によって、斎王として送られることになっていた。まさにその直前に彼女が死んだのである。そこに何か偶然ではない、十市皇女の意図が感じれなくはない。
十市皇女は自害したのではないだろうか。そしてその事情を、高市皇子は知っていた。なぜなら二人は既に夫婦のちぎりを結んでいたと思われるからだ。「短かゆふかくのみゆゑに長くと思ひき」というのは「これだけの短いちぎりであったが、末永くと思っていた」ということらしい。
そもそも天武は二人の仲を裂くために、十市を斎王にしたとも考えられる。北山茂夫氏はその労作「万葉集とその世紀」のなかで、この線にそって、それが政略上の理由からであったことを考証している。そうすると。娘の突然の死によって、二人の仲を裂くという天武の望みはかなえられた。しかしそれは思っても見ない悲しい結末だった。神の祭りは中止され、十市の葬儀が行われたが、その場に天武の姿もあったという。
十市皇女の母は、かって山大兄(天智)と大海人(天武)の寵愛を受けた。その娘だけに、さぞや美しかったに違いない。万葉集中に彼女の歌は残っていないようだ。残念と言えば残念だが、それだけによけいにミステリアスな女性に思われる。
ところで、母親の額田大王は長生きして、天武天皇の死をも見届けている。やがて持統天皇の世になって、彼女は弓削皇子から送られた歌に、こんな返しをしている。
いにしへに恋ふらく鳥はほとほとぎす けだしや鳴きし我が恋ふるごと (巻2 112)
ほととぎすの声をききながら、額田王は自分の過去の恋の思い出にふけっている。しかしなんだか、とてもさびしい歌である。
私が通勤路にしている木曽川の堤防から、美しい山々の姿が見える。伊吹山や御嶽山などの霊峰をはじめ、頂上にお城をのせた金華山、そのほかの名も知らないたくさんの山。そのなかに私が「三輪山」と呼んでいる山がある。
丸い紡錘形の山の姿が、去年の秋に山辺の道を歩きながら眺めた三輪山にそっくりなのだ。だから毎日、この山の姿を眺め、大和の三輪山を思い浮かべる。そうするうちに、何故古代の人々が三輪山に信仰を寄せたのか、何となく分かってきた。やはりその緑豊かな優しい山の姿に魅せられたのだろうと思う。
三輪山をしかも隠すか雲だにも 心あらなも隠さふべしや (巻1 18)
額田王が「近江に下りしとき」に作った長歌の反歌である。長年住み慣れた大和から近江への遷都は667年に行われたが、「書記」には「天下の百姓、都遷すことを願わず」と書かれている。百姓の中にはもちろん額田王らの王族たちも含まれている。
三輪山は額田王にとって毎日親しんだ故郷の山だったのだろう。大和への思いをこの山に託して、「雲よ、今一度山の姿を見せておくれ。情けがあるなら、隠さないでね」と訴えかけている。
翌668年1月に、中大兄皇子が皇位について天智天皇となる。同時に大海人皇子は皇太子の地位についた。この年の5月に天智天皇は多くの群臣や女官をともなって、蒲生野に遊猟にでかけた。このとき、すでに天智の妃になっていた額田王はかっての恋人であり夫であった大海人皇子とこんな歌のやりとりをしている。
あかねさす紫野行き標野(しめの)行き 野守は見ずや君が袖振る (巻1 20)
紫草(むらさき)のにほえる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに吾恋ひめやも (巻1 21)
夫である天智天皇を野守と呼ぶ額田王のおおらかさはどうだろう。大海人の歌はさらに大胆である。「書記」によれば、額田王は大海人の間に十市(とおち)皇女を設けている。そして十市皇女は天智の嫡子大友皇子の妃になり、やがて壬申の乱で夫を失い、自分の父に夫を奪われるという悲劇を体験することになる。
大津皇子には二つ年上の姉がいた。姉弟がまだ幼い頃に母親(大田皇女、持統天皇の姉)が世を去ったこともあり、二人は大変仲がよかった。姉の名前は大伯皇女(おおくのひめみこ)。彼女は大津皇子が十歳の頃、伊勢の斎宮となり、大和をはなれた。
天武天皇が死んだ後、大津皇子はこっそりと姉のもとを訪れた。たぶん身の危険を感じていたのだろう。自分の命の長くないことを予感していたのかもしれない。姉と夜っぴて語り合った大津皇子は、夜が明け切らぬうちに出発した。
我が背子を大和へ遣ると小夜更けて 暁露(あかときつゆ)に我が立ち濡れし (巻2 105)
ふたり行けど行き過ぎかたき秋山を いかにか君がひとり越ゆらむ (巻2 106)
姉と弟は離ればなれに暮らしていたが、心はひとつだった。姉は弟が今生の別れを告げにきたことを知っていたのだろう。だから、弟の後ろ姿が見えなくなってからも、いつまでも夜露のなかに濡れて佇んでいた。
姉の不吉な予感は現実のものとなった。10月3日に大津皇子は謀反人の汚名を着せられて自害させられた。時に24歳である。日本書紀は大津の謀反を記しながらも、彼の人品をほめあげ、「詩賦の興り、大津より始まれり」と彼の文才を惜しんでいる。大津皇子の亡骸は飛鳥の地にではなく、遠く離れた二上山の山頂に埋葬された。
うつそみの人にある我や明日よりは 二上山を弟背(いろせ)とわが見む (巻2 165)
磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど 見すべき君がありと言はなくに (巻2 166)
姉は11月に斎宮の職を解かれ、飛鳥に帰ってきた。もはや父の天武はおろか、愛する弟も横死していない。その身よりのない淋しさはいかばかりだったことか。上の歌はその哀しみをよく伝えている。
万葉集の歌はどれもみずみずしい青春の香りを持っている。たとえば、次の歌。
あしひきの山のしずくに妹待つと 我立ち濡れぬ山のしずくに (巻2 107)
山の中に身を隠して恋人を待っているうちに、すっかり夜露に濡れてしまった青年が、やっと現れた乙女に送った歌らしい。逢い引き相手の乙女の名は石川郎女(いしかわのいつらめ)である。彼女も又、すかさず歌を返す。
我を待つと君が濡れけむあしひきの 山のしずくにならましものを (巻2 108)
私は山のしずくになりたい。そして愛しいあなたの肌をぬらしてあげたい。こんなに機転のきいた、しかも情熱的な歌を返されたら、青年はもう怒るわけにはいかない。ただもう愛しさが募り、すぐにも恋人の肩を抱いて、熱い口づけをしたくなるに違いない。
青年の名前は大津皇子である。天武天皇の皇子で、文武に秀でた当代随一の貴公子。彼は人望があり、父の天武天皇からばかりでなく、誰からも愛された。しかしその人気が命取りになった。
686年9月に天武が死んだあと、一ヶ月もしないうちに彼の人気を恐れた皇后(のちの持統天皇)によって、彼は謀反の罪を着せられて刑場に送られた。皇后は自分の息子の草壁皇子だけが可愛かった。
百伝う磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや雲隠りなむ (巻3 413)
これは大津皇子の辞世の歌である。磐余の池は今の桜井市池尻のあたりだという。皇子の后、山辺皇女は黒髪を振り乱し、裸足で刑場に走り、自ら夫に殉じて命を絶ったと「日本書記」は伝えている。
今日は立春だという。立春は一年を二十四節気に分けたうちのひとつで、冬至と春分の中間の日だという。地球に対する太陽の位置が、太陽黄経315度の日だそうだが、理科の教師をしていた私にもこれはよくわからない。
ところで二月は如月(きさらぎ)ともいう。辞書を引くと、「衣更着」と書いてある。朝の食卓で、私は大いばりで「二月をきさらぎというのは、なぜかわかるか。衣を更に着ると書いて、きさらぎと読むんだぞ」と得意の講釈をしてみせた。二月は一年で一番寒い季節だから、衣を更に着るわけだ。理屈にあっているので、妻も娘たちもいつものように半畳をいれてこなかった。
ところが長女が学校から帰ってきて、「おとうさんのおかげで、はずかしい思いをした」という。古文の時間にその知識をひけらしたところ、先生から「それはおかしいわね。旧暦でいる如月は、現代の4月なのよ」と笑われたという。
ねがはくは花のしたにて春しなむそのきさらぎのもちづきのころ
古文の先生は黒板に西行のこの有名な歌を書いて、説明してくれたという。たしかに旧暦のきさらぎは4月だろう。だから、桜の花が咲くのである。「衣更着」というのは、春の陽気に誘われて衣替え(更衣)をする季節という意味らしい。またしても、私のはやとちりである。
ところで、インターネットで知り合った「夢河童」さんから、「自叙伝」を書き始めたというメールの便りをもらったので、さっそく覗かせてもらった。そこに、「四十歳は青春の老年であり、五十歳は老年の青春である」という西洋の諺が引用してあった。夢河童さんも、私とほぼ同じ世代である。「五十歳は老年の青春である」という言葉はなかなかよい。彼の自叙伝を読むのが楽しみである。
去年の夏に買ったオカリナはその後三日坊主にもならず、毎日吹いている。暗譜でふける曲はまだ5,6曲だが、楽譜があればたいがいの曲は吹けるようになった。シンプルな楽器なので、なれてくると口笛を吹くような感じで吹ける。もっともここまで来るのに半年もかかっている。
歳をとると年々学習能力が落ちていくようだ。若い頃は1,2日で出来ることも、1,2ヶ月かかる。しかし、そのかわり、あまりあせらないで、のんびりとものごとを楽しむ事が出来るようになった。別に上手にならなくても、下手は下手なりに、その下手さ加減を楽しむという感じである。
朝は10分ほど早く家を出て、途中木曽川の河原により、そこで山や川の風景を眺めながらのんびり吹く。今吹くのは「荒城の月」だ。それから「マリモの唄」や「五木の子守歌」「菩提樹」などなど。
私の学校では「朝の10分間読書」をしているが、私の場合は「朝の10分間オカリナ」である。これで何となく、一日のリズムができる。こうして、いくらか清々しい気分で一日が始められるということはありがたいことだ。
テレビのインタービューで、外国人学者が日本の大学に正規の職を持つ外国人教員の数は70人にも満たないと言っていた。一方アメリカの中規模の大学に一校だけでも、これ以上の外国人が職を得ているという。
世界はグローバル化しつつある。学問や科学技術の世界もそうである。そうした中で、日本の大学は今も旧態依然とした封建制度のなかにある。日本という狭い枠の中で通用する学問ばかりが幅を利かせている現状は変えていかなければならない。
日本の大学の純潔主義こそ、いまや最大のガンである。これでは日本は世界から取り残される。これを改革するためには、日本の大学の教員は1/3は外国人にするという法律を作ってはどうだろう。もちろん、授業も英語で行う。そうすることで、真に国際的な教養人にふさわしい人材が育つ環境ができる。
アメリカの大学に留学している人のWeb日記を読んでいると、日本とは随分違った生き生きとした授業風景が見えてくる。学期末、最後の授業を終えると、生徒たちは教師に惜しみない拍手を送る。とくにすぐれた授業をした教師の場合は立ち上がって拍手喝采するらしい。
また、アメリカの大学で教えていて、帰国して日本の国立大学(大阪大学)の教授になった人(中谷 巌)がアメリカの大学生はとにかく目立ちたがりやで、われがちに質問をぶつけてきて、教師の力量をためそうとする。いきおい授業も真剣勝負にならざるをえない。日本に帰ってきて、授業風景のあまりに違うのに驚いたという。
これは京大の数学科の教授がかいていることだが、京大では数学の授業はほとんど出席をとらないことになっているという。なぜなら出席をとると、そのことだけのために余計なやる気のない生徒が出てきて、私語がふえる。集中力を必要とする数学の授業で、こうした雑音は困るので、出席はとらないのだという。そのかわり、理科系の学生でありながら、複素数や三角関数もろくに理解しないまま卒業していく生徒が続出している状態らしい。(「分数のできない大学生」より)
日本の大学では学生の学力低下が言われている。たしかに学生の学習意欲のなさには恐るべき状態にあるが、大学自身のありかたにも問題がある。旧態依然としたカビ臭い講義ではただでさえ低調な学生たちの学習意欲を掻き立てることは出来ない。
日本の学生の多くは大学へ学問をしに通うのではなく、ただ卒業免状を貰うために通っているだけだった。だから、最初から講義には期待しない。なるべく楽をして、免状さえもらえれば、あとはそれが社会へのパスポートとして役に立つ。社会も又、彼が大学で何を学んだかを問題にしなかった。しかし、こうした状況が続く中で、日本社会はすっかり活力を失った。
大学が豊かな知的生産と教育の現場として機能するようになれば、今日本が置かれている閉塞状況も改善されるのではないだろうか。政治や経済の国際舞台で、外国人と対等に議論し、お互いに切磋琢磨することで、私たち日本人も21世紀に生きるに相応しい教養を身につけることができる。そのためにも、大学を世界に開放して、日本人の頭脳を世界の新風にさらさなければならない。
人間存在の在り方について、もっとも鋭い洞察を示したのはキルケゴールだろう。ハイデガーもサルトルもその実存主義哲学の基本思想をキルケゴールに負っている。もし、私が世界で一番恐ろしい本を一冊あげよと言われたら、迷うことなく、キルケゴールの「死に至る病」をあげるだろう。冒頭にこんな文章がある。
「人間は精神である。精神とは何であろうか。精神とは自己である。自己とは何であるか。自己とは自己自身に関わるひとつの関係である。いいかえればこの関係のうちには、関係がそれ自身にかかわるということが含まれている。したがって自己は、ただの関係ではなくて、関係がそれ自身にかかわることである」
ここでキルケゴールは「自己とは自己自身にかかわる一つの関係」だと明確に述べている。これを図式で表せば次のようになる。
自己 ―― (自己) ―― 自己 (自己性の回路) ここで注意しなければならないのは、自己とは何か一つの強固な実体ではないということだ。キルケゴールがいみじくも指摘したように、それはまさしく一つの関係である。つまり自己が自己であるのは他者としての自己(他己)を介してであり、まさに自己とは他者である自己によって自己となる自己閉鎖的な不断の関係でしかない。
キルケゴールはこうした自己閉鎖的な自己は、必然的に魂を病み、絶望の状態に置かれざるを得ないと言う。ある者はこの自己の牢獄に絶望して自己から逃れようとする。またある者は絶望して自己自身であろうとするが、その場合でも絶望者がめざす自己は、彼のありのままの自己ではない。つまりいずれの場合でも彼は今の自分自身に耐えられなくて何か他の自己になろうともがいているのだ。
しかしこういう人達はまだ救いがある。なぜなら彼等には「絶望しているが故に、絶望から救われる」という唯一の可能性が残されているからだ。世の中には絶望から無縁のように見え、本人自身もそう考えながら、実は自己について深く絶望している人達がいる。
「医者が、完全に健康な人間などおそらく一人もいないというのと同様に、人間というものをほんとうに知っている人なら、少しも絶望していない人間など、その内心に動揺、軋轢、不安といったものを宿していない人間など一人もいないと言うに違いない。……絶望していることを意識していないということ、それこそが絶望のひとつの形態に過ぎない。……この病が、それにかかっている当人自身でさえ知らないようなふうに人間の内に隠れていることが出来る」
キルケゴールによれば、人間が何かについて絶望するとき、「彼は彼自身について絶望している」のであり、「その人を絶望に至らしめるようなものがあらわれるやいなや、その同じ瞬間に、彼が過去の全生涯を通じて絶望していたということ」が顕になる。自己の対する絶望は「死に至る病」である。そして人間はこの病を得て、死に至るべく運命づけられている。
私は大学時代にこの本を読んで、ほんとうに怖い本だと思ったが、今読み返してみても、やはり怖い本であることに変わりはない。しかし、人間が本当に自分自身に出会い、自分という牢獄の外に出ようと思ったら、この自己という恐怖を心底経験してみる必要があるのかも知れない。
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