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2007年11月30日(金) |
南京事件映画、第一部試写会(撮影完了報告大会) |
この前、大阪地裁の沖縄集団自決、軍命令はあったか(より正確には梅澤もと隊長の名誉回復)で、大江健三郎出廷と聞き、前日から泊まり込んで(京都から午前中に出かけるのは朝五時頃寝る身にとっては不可能だから)早朝半覚醒状態で裁判所前で並び、抽選券をもらったが、落選した(終わってからの弁護士会館にての集まりには参加出来た)がこれとは違って早いもん勝ちらしいので予定は以下のように多少変更されたが早めに行けば確実に座れる。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 平成19年11月29日 ━━
平素は映画「南京の真実」製作に、ご支援、ご鞭撻を賜り、まことに 有り難うございます。
皆様のご支援、ご協力のおかげで、映画「南京の真実」第一部「七人の『死刑囚』」の撮影は、あと数日のロケーション撮影にて、完了する予定です。
映画製作にはよくあることではありますが、さまざまな要因で、当映画の 撮影日数が延びました。連日、朝早くから深夜まで、時には朝日を見るまで、と強行軍の撮影でした。疲労から照明スタッフの1人が脚立から落下し、手首を骨折するという事故も起こりましたが、何とかほぼ無事に撮影を終えられそうです。
撮影は、緑山スタジオオープンセットでの実質6日間(セット建て込みと バラシは別で10日間)を終え、日活撮影所でのスタジオ撮影は、1日の休日もなく、連続12日間(建て込みとバラシで別に1週間)の撮影を終えました。 月末数日間のロケーション撮影を終えますと、オールラッシュ、粗編集作業やCG編集、色彩調整、劇音楽録音、整音、サウンドエフェクト入れ、音ダビング作業、フィルムキネコ起こし等々の作業と続きます。
これまで皆様に予告してまいりましたように、私たちはぎりぎりのスケジュールで、何とか12月14日に、完成披露試写をさせたいと努力してまいりましたが、諸部門の様々なトラブルや撮影の延長等によって、完成された映画作品として皆様に見ていただくには、時間的にもう少し余裕がほしいとの声が、監督からも、他のCG処理や編集、音楽担当からも上がりました。
そこで、最も大切なのは、最良の状態の映画を作り上げ、皆様に観ていただくことだと判断し、12月14日の日程を変更させていただき、「1月完成披露試写」とさせていただこうと決断いたしました。
なお、12月14日は、兼ねてより予定しております九段会館にて、昼の部・夜の部共に「南京の真実」撮影完了報告大会という形で、当映画予告編をお見せする他、「南京の真実」についてのイベントをと企画しています。
南京陥落記念日の翌日の試写会を楽しみにしていた皆様には、まことに申し訳なく、お詫び申し上げますが、どうか、「南京の真実」の映画完成度を磨く時間をいただきたく、私たちの苦渋の決断をご理解をいただきますよう、何卒お願い申し上げます。
くらきより冥き道にぞ入りぬべき はるかに照らせ山の端の月 和泉式部
■映画 南京の真実 第一部「七人の『死刑囚』」撮影完了報告大会■
日時: 平成19年12月14日(金) 【昼の部】開演14時 (開場13時30分) 【夜の部】開演18時30分 (開場18時) 場所:九段会館 102-0074東京都千代田区九段南1-6-5 電話03-3261-5521 http://www.kudankaikan.or.jp/access/index.html
株式会社チャンネル桜エンタテインメント 映画「南京の真実」製作委員会
2007年11月28日(水) |
アリマキとブフネラ (1/2) |
日台同盟推進訪問団(衆議院議員西村眞悟代議士を団長)にくっついて、台湾に行った。会員でも何でもないのに参加させてもらった。駄馬がどこへ行こうと駄馬であると誰かが言った。ライオンや虎と一緒に行くと、改めて自分が駄馬であると言うことが分かるが、同行して良かった。 講演、宴席、いろいろな人達に終始圧倒された。李登輝元総統は、二時間近く立て板に水のごとくに話した。齢八十を超えてそのエネルギーはどこからくるのか。老台北、蔡焜燦氏は取って置きのCIA顔負け??のトップシークレット???を披露し、百数十名の我々の宴席代を支払った(奢ってもらった)!! 宴席では、団長西村代議士はフランス人ルルー作曲の軍歌、抜刀隊(扶桑歌)のあの長い歌詞の曲を音楽無し歌詞カード無しで音吐朗々と歌い上げた。歌詞を見ても文語調で書かれた詩はむづかしい。聞いていると勇気凛々となる。
今回の台湾訪問で改めて思いを新たにしたのは結論から言えば、台湾と日本は共生関係でないと、明日はないと言うことだ。同じ共生といっても、クマノミ(魚)といそぎんちゃくではなく、アリマキとその細胞内で生きるブフネラの関係でないといけない。
←台湾国国旗
いそぎんちゃくは魚をその毒で麻痺させ補食するが、クマノミだけは毒が効かない。おかげでクマノミは、大型の魚から自分を守ることが出来る一方、クマノミがいそぎんちゃくに何を貢献しているのかはよくわかっていない。こういう共生の仕方は、片利共生と言って、今の日本で言えば、在日(主に朝鮮)が、参政権を得るようなものだ。
アリマキとブフネラは、とても強い関係にある。双方の命に関わる関係で、アリマキが摂取する食物には二つのアミノ酸(アスパラギン酸とグルタミン酸)しか含まれていない。他にも必須アミノ酸と言われるものが必要で、これだけでは生きていけない。ブフネラはこの二つのアミノ酸を合成して必須アミノ酸を作り出し、アリマキの生命を維持する。一方、ブフネラは自分の生命維持のための遺伝子の多くを失っていて、アリマキの中でしか分裂増殖が出来ない。これが二億年連綿と続いている。この命を互いに預ける関係が台湾と日本である。地政学的にもそうである。
ー続くー
→2004年の今日のたん譚 お茶の講演会
十月中頃だったか、円山公園野外音楽堂で市民狂言会があった。その時、茂山家と仲のよい*瀬戸内寂聴がゲストで「必要があって作家の遠藤周作の本を読んだ、あんまりの馬鹿馬鹿しさに、腹を抱えて笑ったら、そのはずみであばら骨を折ってしまった、お気をつけ遊ばせ」と冗談を言っていた。 そしたらなんと数日前の新聞に茂山千作氏、転んで肋骨折るのニュースを読んでまぁ仲の良いことだと笑ってしまった。
先日,共に京都名誉市民になって目出度いが骨まで一緒に折る事はない。 ところで狂言の方は、ご高齢のためか腰が据わっていなく、足元覚束ず満足に立ったり座ったりが出来ない。見ていて痛々しい。 潔く引退をした方がいいと思った。いつまでも現役でという、アメリカ型思考は止めて、潔く引き際を知り舞台を去ることで、贔屓にしてきた人々に、何時までも往時の名演を心に留めさせておく事になるのだ。 夭折した映画俳優が記憶に長く残るのに似ている。引き際が肝心。
今日元気 曲舞う舞台 可なれども 所詮昨夜の 姿は舞へず
けふげんき きよくまうぶたい かなれども しよせんさくやの すがたはまへず
*瀬戸内寂聴 …作家、尼僧。タレント。この人の実家の仏壇屋の前の通りのもう一つ南の通りにたん譚が通っていた小学校があり、この仏壇屋が火事になって、家がお釈迦になってしまうのを見ていた記憶がある。
→2001年の今日のたん譚 酒(myrte)と薔薇をめぐって。
2007年11月01日(木) |
わが通る道はありけり(1/2) |
上高地に行ってきた。一晩にして穂高連峰は雪を頂き、冬の装備なしでは危ない状態になった。利用した山小屋も後十日ほどで小屋を閉じる。一人ではなかったし、装備も冬のものではなかったので、涸沢には行かなかった。 今回は槍沢と徳本峠をあたりを逍遙することとした。
昔、上高地にはいるのは徳本峠(とくごうとうげ)から入った。ほとんどの人がもうこの峠を越えて上高地穂高には入らない。 寂れてしまったこの峠を、途中道草を食いながら、登っていった。上高地から徳沢へと続く登山路から一歩徳本峠への分岐にはいると、人足はぱったりと無くなる。 高度を稼ぎながら峠に行くまでの谷沿いの道から眺めるうっすら雪をかぶった明神岳が美しい。沢筋は本来なら、とっくに紅葉していておかしくないのだが全然と言っていいほど紅葉はない。唐松の林がどうにか黄色に色づき秋の気配が感じられる位で、沢をなぜて行く風は冷たくはない。
温暖化が本当だとしたら、日本は亜熱帯性気候になる。歴史始まって以来の大事となる。四季に拠って立ってきた文化形態が変わってしまうだろう。新たな疾病も出現するにちがいない(後の勉強により、あってもこれから100年間の間に0.6度の温度上昇だと知りインチキだとわかる。2009/某月)。
最近は登山者も昔に比べたら減っている。中高年のにわか登山者が増えてはいるが、事故も多く起こっているようだ。この登山者たちにも、スポーツアルピニズムの悪しき弊害?がでているように感じる。 A点からB点に行くのに、 脇目もふらず行く。同じ所で溜まり、同じような行動形式をとる。結果へとへとに疲れて帰ってくる。それでもいいと言われれば何にも言えないが。
山小屋では、イクラが食卓に出、ステーキがでる。茶碗蒸しに、カナダ産の松茸が入っているのは御愛嬌だが、沢筋にごまんと生えている、野生の三つ葉には目がいかないらしい。これを入れればいいのに。そのことを言うと、採ってはいけないことになっているという。たかだか、一晩二十人くらいの食卓の茶碗蒸しにあしらう野生の三つ葉が絶滅につながるはずもないし、適度に採ってやることで、刺激となり前にも増して増える。過剰保護は無関心につながり、今山小屋の従業員に「この茸食べられるの」ってきいてごらん。なーんにも知らない事、都会のホテルマンと同じだから。
かって雪の残る南アルプス北岳の小屋で、夜、小屋を抜け出して、岩陰に腰掛け青い月をかすめて飛ぶように流れていく雲を震えながら見ていた事がある。山に出向くのは寂しさや静けさやまた無情と言う言葉をしみじみ味わうことにある。じっと青い月を見ているとこの世って何だろうという気持ちになる。冬山で負傷した同行の友を思い自分は無傷なのに、友と死を共にすることにし、遺書を残して逝ってしまった*松濤明(まつなみあきら)を、その心情をいつも思う。
翌日開けて朝飯の時、登山客が話題にしていたのは、夕べ夜半小屋を出て行った奴がいるということだった。団体行動なら同じように飯を食い、同じように寝なくてはならないが、個人で来ているのだ。夜半に星を見に行こうが何をしようがいいと思うのだが山小屋を利用するとこういう事になる。 だから、かってはテント食料を担いで行ってたが、年とともにそうも行かなくなった。
上高地、宿泊客は各部屋で眠っている夜半、ベランダに出ると、梓川に黒々と影を落とす山々の上空、オリオンの三つ星は、まるでマグネシウムを焚いたように輝いていた。こんなに輝くのが見える日は少ない、そこで家人に声をかけたが、すでに夢の中であった。
上高地から徒歩で3時間、山中で泊まった「*氷壁の宿」とうたっている徳沢の小屋も、その意味するところを知っている人がいるどれだけいるだろう。 帰りの上高地のバスターミナルで看板を見てたら、おばさん7人くらいに取り囲まれた。看板を見ている。全員が朝鮮語を喋っていた。噂は本当だったニダ。
落葉松 一 からまつの林を過ぎて、 からまつをしみじみと見き。 からまつはさびしかりけり。 たびゆくはさびしかりけり。
二 からまつの林を出でて、 からまつの林に入りぬ。 からまつの林に入りて、 また細く道はつづけり。
三 からまつの林の奥も、 わが通る道はありけり。 霧雨のかかる道なり。 山風のかよふ道なり。
四 からまつの林の道は、 われのみか、ひともかよひぬ。 ほそぼそと通ふ道なり。 さびさびといそぐ道なり。
五 からまつの林を過ぎて、 ゆへしらず歩みひそめつ。 からまつはさびしかりけり、 からまつとささやきにけり。
六 からまつの林を出でて、 浅間嶺にけぶり立つ見つ。 浅間嶺にけぶり立つ見つ。 からまつのまたそのうへに。
七 からまつの林の雨は さびしいけどいよいよしづけし かんこ鳥鳴けるのみなる。 からまつの濡るるのみなる。
八 世の中よ、あはれなりけり。 常なれどうれしかりけり。 山川に山がはの音、 からまつにからまつのかぜ。
北原白秋
*徳澤園。別名「氷壁の宿」…山岳事故を元に書かれた井上靖の小説「氷壁」の舞台になったことからつけられた。昭和30年(1955)切れないはずのナイロンザイルがいともあっさり切れ、登山者の命が奪われ、それをめぐって裁判で争われる。調査結果と違う証言がされたり、大きな話題となった。
*松濤明…厳冬期の槍ヶ岳北鎌尾根において遭難。若くして無くなったのでほとんどなにもないのだが、「風雪のビバーク」「ピークハンティングに帰れ」などのエッセイ、著書がある。
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