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名越二荒之助と言う名前を初めて知ったのがいつだったのか覚えていないが、どう読むのかしばらく悩んだ事はおぼえている。ナコシニ・アラノスケか、コウノスケ? ナゴシ・ニアラノスケ? ナコシジ・コウノスケ? 正解は、ナゴシ・フタラノスケであった。最初の出会いは「日韓二000年の真実(現在は改題して日韓共鳴二千年史)」という分厚い本だった。もう十年くらい前になる。日本と韓国のあまりの文化の違いに興味を持って関係の本を読んでいて出会った。 その後、講演に一度二度でかけた折、お年にも関わらずぴんとした背筋、論、熱を帯びるや迸る活力に圧倒された。 この好々爺は評価がまっ二つに分かれる。 まづ、「日本は悪い事をした。この前の戦は侵略戦争でアジアの人々を苦しめた。」という思いを抱いている人に取っては、鼻持ちならん右翼の爺さんで、 その多くの著書の中の一部をつまみ読みしただけの人は、嘘をかいているインチキ爺さんといって蔑む。
他方、この爺さんの著書を多く読み、その講演なども聞き、チャンネル桜の近現代史の講座などを聞いている人々に取っては、「何を訴え続けているか」がよく分かる。もちろん偏狭な右翼などではない。 少し前、嫌韓流の本が評判を呼んだが、「日韓2000年の真実」を読んでいれば、一回り大きな視点で日韓をみられる。
毎日、画架に向かっている間はチャンネル桜の近現代史講座他を聞きながら描いている。本当につい先日まで元気に講座を開いて、不勉強な地方議員がゲストに来た時など、不満あらわだが番組の終りには必ずねぎらいの言葉をかけた。つい先日も出演していた。それが突然の訃報。お元気そうに見えたが、人は死ぬるのだ。御冥福を祈ります。
写真は、 去年の印度親善旅行の時、ガンジー財団が管理するガンジー埋葬の地ラージガードで献花後、ガンジー平和財団を訪問、ガンジーの住んでいた家の横で記念植樹が終わった後の一こま。 手には「大東亜戦争その後」の著書を携へて。ご本人は、チャンドラボーズが贔屓であった。
名越先生 「君は絵描きか」 たん譚 「はぁ」 名越先生 「藤田嗣治知ってるか」
たん譚 「はい、知っています。戦争画を描いたばっかりに、戦後悪者扱いされ、こんな阿呆な国に愛想が尽きたと、フランスに帰化して二度と日本の地を踏まなかったですね」
名越先生「君、藤田の戦争画見たか、素晴らしいよ」
藤田の絵が良く知られているのは、日本画的に描かれた女や猫の作品だろう。戦争画を知る人はまとまった展覧会を見た人は別として少ないと思う。 しかし知る人ぞ知る。これが傑作揃いなのだ。画面の下には皇紀何年と記されて、戦争の場面を的確に描写している。実に迫力がある。
※※ 名画と言われる、ピカソの「ゲルニカ」を説明無しで戦争の悲惨を表現してると分かる人は少ないだろう。'85年、マドリッドのプラド美術館別館で見たが、先の知識を持ってしても、浅薄なたん譚は「 なんじゃらほい」とただ思っただけであった。この絵からは、ゲルニカの戦争の悲惨惨劇はどう見たって想起されない。
これを↓先入観無しに見たら,子供を連れた父親が、馬車に共々蹴飛ばされた事故現場に、間一髪助かった母親がぐったりとなった子を抱き上げて嘆き悲しんでいる、当たりは既に暗くなっており,御者は大変な事になったと天を仰ぐ。駆けつけた通行人がランプで当たりを照らしている…。交通事故現場に見えるぞ。
ゲルニカ
それに共産主義者のピカソが本当に戦争の悲惨(反戦)を描いたとは思えない。共産主義は武力革命を肯定している。すなわち絵に描いてある事どもは、武力革命の時には起こって当然の現象だからだ。※※
たん譚「戦争画を描いた画家の多くは実力者でした。戦いの場に実際に行ったりして描いている。部屋にいて写真を見ながら描いているのとはわけが違いますね。」
名越先生「で、どうですか。君、南方戦線の戦争画を描いて下さいよ。」
たん譚「え?戦争画ですか…。」 −小学校の頃は実に沢山の零戦紫電改隼飛燕他の戦闘機の絵を描いた。しばし多くの思い出があたまをよぎった。 絶句していると奈良市議が写真を取りましょうかと言ってくれ、戦争画の絵の話はそれきりとなった。そしてお話ししたそれが今生の別れとなった。
→2003年の今日のたん譚 高貴
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