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2006年07月26日(水) |
戦犯・靖国・天皇 最初から考える |
今、天皇陛下が私的に言われた事を書き留めたと言われるメモがニュース(日本経済新聞スクープ)になっている。このメモをまずよーく観察して見る。貼付けてあり,赤線『藤尾(文相)の発言』は以下のどこまでかかるのか。
(ネット上から勝手に拝借)
その前に、大半の人々が何でこの事をマスコミが鬼の首を取ったように取り上げるのか、分からないのではないだろうか。 「戦犯」を合祀したために、天皇は以後参拝を見送った、だから分祀せよと言いたげである。 天皇が例へ言われたとしても、政争の具にすることは出来ない。そう決まっている。 過去、日経は北朝鮮に社員を拉致されて、どうしたか取り返している。それ以来、変な事を時々する。今回は当然、中国に絡む経済団体と媚中派政治家とこの新聞社の操作だろう。
その前に「戦犯」とは何だろうか。 いわゆる、日本を無謀な戦争に引きずり込んだあげく負け、ひどい状態にした悪党達が裁判でA級戦犯と有罪を受けた人達の事なのだろうか? 「騙されて、心ならずも徴兵され、死んで行った兵士達を祭ってある靖国神社」に、A級戦犯の人達が一緒に祭られた事を、このメモではけしからんといっている。だから以後行ってないと。しかし、これには論理の矛盾がある。 「戦犯」と言われている一人、時の首相東条英機は、戦後、天皇がアメリカによって、「戦犯」にされないよう最後まで尽力し、その事は、天皇自身も良く知っていた。天皇自身も前に書いたように、全責任は私にありとマッカーサーに語って驚かせている事をおもいだしてくれ。信頼関係の厚かった両者の関係からしても、このメモはおかしい。
もっと先に戻る。日本が始めたと言われている大東亜戦争(米側呼称は太平洋戦争)は、1941年12月8日にはじまった。この時、日本の石油備蓄は半年、俗に言うABCD(アメリカ・イギリス・中国・オランダ)包囲網による圧力で輸入が止まり、どうしようもなくなった。米国との再三にわたる交渉も、幾重にも重なった画策で、成立するわけがなかった。
一つは、当時の英首相チャーチル、米大統領のルーズベルトが、ひどい人種差別主義者であった事、また一つは、米国の政治中枢深く入り込んだソ連のスパイ、ハリー・ホワイトが書いた日本への最後通牒「ハル・ノート」で、これで日米両者を戦わせ疲弊した後に,共産革命を画策しようとした事など。
今の日本と違って、気概があった当時の日本はあんまりな理不尽を言うアメリカに見切りをつけ、ついに開戦に踏み切るのである。ここで言う事を聞いていれば、晴れて植民地となっていただろう。
宣戦布告がお粗末な手違いから暗号解読が遅れ、米国に手渡した時にはすでに攻撃していた。これを機に卑怯者大キャンペーンが始まり、米世論が怒りルーズベルトの思惑通り戦争となった。 しかし、こういう事実がある。 1940年、戦争の始まる前年、米海軍情報部とFBI が協力し、ニューヨークの日本総領事館から、暗号解読表を盗み出し、それ以降の日本外交文書は全て即座に解読されていた事が、1982年に解禁された米安全保障局(NSA) の文書で明らかにされている。
アメリカは、すべて知っていた。 ルーズベルトは、選挙公約で「戦争はしない」と言って当選したから口が裂けても、するとは自分から言えない。ただし、相手が仕掛けた場合は別である。こういう事をチャーチルと画策していた。だから、日本がいくら、アメリカと会議を開いても、端から、裏で戦争して東洋の猿を叩き潰すと決めていたのだから、戦争を外交で止められるわけがなかった。
こうして始まった、マッカーサーも認める、止むに止まれぬ防衛戦争であった大東亜戦争の事を思えば、「戦犯」の言葉がいかに無意味かがわかるだろう。 東条英機がやらなくても、当時だれが首相になろうが、確実に戦争になるようになっていた。
これでも猶、我が国内で同胞同士が争い、戦で亡くなられた英霊に対して、戦犯だの分祀だのというのか。こういう輩を亡国の徒と言う。
戦争直前、英国領自治ビルマ(ミャンマー)の首相、ウ・ソゥは、兵を戦争に参加させる事の見返りにチャーチルに戦後独立したいと直訴したが断られ、その足で、アメリカに行きルーズベルトに頼もうとするが待たされたあげく断られる。帰途途中、ウ・ソゥはハワイで日本人の真珠湾攻撃を目撃、日本人と組む事を決心する。そのルーズベルトは戦後チャーチルにこう書き送っている。 ルーズベルトがいかに人種差別的であったかがわかる。
*「私はビルマ人が大嫌いでしたが、あなた方も一ビルマを植民地化して以来一この五十年間、彼らには随分、手を焼かれたことでしょう。幸い、日本と手を結ぼうとしたウ・ソゥとかいう彼らの首相はあなた方の厳重な監禁下に置かれています。どうか一味を一人残らず捕らえて処刑台に送り、自らの蒔いた種を自分で刈り取らせるよう、願っています」
ウ・ソゥは日本との関係を作ろうとしたが、例の暗号解読で全て見通され、早い時期に英国に捕捉され、戦後釈放されるも、ビルマ(ミャンマー)に帰って見れば英雄はアウンサンと言う男になっていた。 釈放時にウ・ソゥは、英国から銃と車を与えられる。それで英国の傀儡とみたアウンサンを銃撃してしまう。英国の手を汚さずに、上の手紙のように晴れて、両者自滅させた。 娘のスーチーは英国が引き取り、向こう流の教育を施し育てた。スーチーの夫は英国人である。それが祖国に帰って来て、独立した筈のビルマ(ミャンマー)に英国の影響を受けたスーチーと旦那がなんやかや口出しする。それでは独立の甲斐が無い、そこで自宅軟禁とされているのである。
参考文献 *クリストファー・ソーン「英米にとっての太平洋戦争」草思社 上・下巻 世界は腹黒い 異見自在 高山正之 高木書房
先週の土曜日、東京に行って来た。めぐみさんを初めとする拉致された人々を返せというデモ行進に参加した。総勢700名くらいになったようだ。しかしこの大きなデモを報道したのは民放ではフジテレビだけであったらしい。スカイパーフェクTVのチャンネル桜(767ch)は一部始終を報道していた。
もう、二十数年前になるのではっきりとは覚えていないが、京都の丸善の前や、南禅寺の山門の横で、小さなイラストや、プレートなどを地べたに並べて売っていたことがあった。 その頃、京都大学の西部講堂を中心として活動していた、自主上映グルーブ「織蕗屁の袋工事(おるへ?のふくろこうじ 仮名)」のメンバーだった友人から、「こういう奴見た事が無いか」と、写真を見せられた。その友人の友に見覚えは無かった。
その後、営業の終わった丸善の前、日中、修学旅行生でにぎわう寺の山門の前などで、上のいなくなった友の友を探す母親に何度となく会った。あわただしくタクシーから降りて来て、この写真の人見ませんでしたかと聞く。そのころ、「蒸発」と言う言葉が結構使われていて、何でも蒸発だろうで済ませていた所があって、まさか、北朝鮮が拉致して連れてったなんて、誰も思いもよらない事だった。
聞かれても知らない物は知らないので、「いえ知りません、見た事ありません」としかいえなかった。時は流れて、ほとんどその事は忘れていた。 そして数年前、新聞に、特定失踪者の顔写真が何十名だったか載った。 そこに、先の母上が血眼になって探しまわっていた京都の大学生の顔があった。 これとは別に、1992年に出版された関川夏央の「 退屈な迷宮」をきっかけに北朝鮮関連の本をかなり読んで、最初あまりなことが北朝鮮の人々におこっていることが信じられなかった。しかし、脱北者その他いろいろな人の証言で、現代にもこんな国があるのかと、あきれていたその国が、今度は「拉致」である。人ごとと思えなかった。国会でこの事を最初に言ったのが西村眞悟代議士であった。 その時の中継を見た事がある。どこぞの馬鹿議員が、ひどい野次を飛ばしていたのを覚えている。 デモは、砂防会館別館 を出発して 平河町 ー 溜池山王 ー三河台公園で終わった。途中首相官邸前、在日が多く住む地区を通った。三つの梯団に別れて行進した。 4時半から始まり、6時半に及んだ。終わってから大急ぎでホテルに帰り、昇殿参拝をするために、服を着替えて靖国神社に向かった。みたま祭りで靖国神社は大混雑で、到着した時には、ちょうど昇殿参拝がおわったところだった。 仕方ないので、中に通してもらって口と手を清めて、下の廊下から二人して、本殿に向かって参拝した。
拉致された人達が全員帰ってくる可能性は、北朝鮮が崩壊する(させる)以外にないと思っている。行き帰りに使ったタクシーの運転手に拉致の事を聞いたら、ほとんど無関心であった。これは、東京京都のタクシー運転手に聞いた。少しがっくりきた。が、昔は全人口の7%にみたなかった武士達によって維新が達成されたし、ほとんどの人々はそれについて行った。 だから、無関心な人をせめずに、その人達のぶんも背負って、のつもりで今回行進した。善かれ悪しかれ、今も昔も世を動かす人々は一握りであると言う事には変わりない。
天皇陛下がある年から、靖国参拝取りやめた理由が書かれてあるメモが、今の時期突然出て来た。 天皇が個人的にどう思われようが、戦後、国会で全員罪なしとしている。 どうもA級と言う言葉から来る誤解がある事は、通信簿のABCから、 Aだと一番すごいから一番悪いと友人の娘さんなんかは思っていて、じゃぁ、オリンピックのウルトラCは?と聞いたら初めて気がついた。 この区分けはむしろ、A項、B項、C項と思えば良く,罪状の重い軽いで分けてはいない。 どういう前後の話で昭和天皇がそういったのか、まだ真相はわからない。民放のニュースでは分からないので、今夜のチャンネル桜の特別番組を見る事にする。
北朝鮮がミサイルで脅し、韓国が領土侵犯をやっても、「話し合い」と「情報収集」の馬鹿の一つ覚え。小泉首相は記者の質問に「これ以外何の選択があるんですか」と逆に聞き返していたが、あるのだ。何でも話し合いで済むのだったら、世の中テロや戦争なんかはとっくに無くなっている。 この時、戦争と言う手段が、世界には最後の手段として認められていると、誰もいわない。
昨日、チャンネル桜の「報道ワイド日本 フライデー(城内実)」のゲストに*藤原正彦が、たとえ日本にミサイルが落ちて、一万・二万死ぬとしても、動じない心で応じないと駄目だ、それくらいの気概で、やるならやるぞと言わなければ駄目だと言っていたが、その通りである。 アメリカに守ってもらうと言う前に、自分の国は自分で犠牲が出ても守るという武士の気概が必要だ。この前、せめて一助にと、自衛隊補になろうと要項を見たら、年齢でだめだったので技能関連でも見てみたけれど、医者とか、消防士とかは年齢を超えてなれるようだが、へっぽこ絵描きには用が無いようだ。
東京の美術館で見た、*藤田嗣治の展覧会の白眉は戦争を描いたものだ。パリでのなよんとした女の絵や、飯食う途中の絵(猫は別)などどうでもよい。 画家としての力量はあの皇紀で日付された,戦争画に尽きる。
*藤原正彦…数学者、最近「国家の品格」が大ベストセラーになっている。父は山岳小説家新田次郎
*藤田嗣治 …Leonard Foujita 1886年11月27日 – 1968年1月29日)画家・彫刻家。 馬鹿らしい、戦争に協力した画家と言うレッテルを貼られて日本を捨て、パリに。猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れた。
独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びたが日本人にとって騒ぐほどのものでもない。日本画には艶消しで上品な女図がごまんとある。エコール・ド・パリ(パリ派)の代表的な画家。 圧倒的に戦争画がすぐれている。
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