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2006年06月28日(水) 位階勲等をめぐって(賞の一)



 先頃、郷里から電話があった。叔父(母の弟)が受勲したという。 最初何の事か分かりかねて、話を聞いている内、この春、叔父は皇居に出かけて式に出たと言う段で合点した。
 叔父は漢詩を良くする。その中に「酒互酌み交わす」という詩語がよく出てくるので、さっそくお祝いに相応しい酒を送った(後に叔父は酒が飲めないと判明、作詩のためのものだった。叔父がきっかけで漢詩の影響を受けて血迷い、へぼ作詩を始めるきっかけになった)。

 ここで、はたと気がついた。皇居で賜る「章」とは何だ。文化勲章のことか。無い頭に浮かんだ単語、「旭日章」「菊花章」「紫綬褒章」…。後が続かない。興味が無かった事もあるが、とにかく何にも知らなかった。
知っている事と言えば、古くは、京都の陶芸家の河井寛次郎、画家の熊谷守一、ちょっとまえでは、作家の大江健三郎が、受勲を辞退したという事くらいであった。
 少し調べたら全体像がつかめた。図のようになっている。文化勲章は全体の一部で、頭に浮かんだ「紫綬褒章」は、文化勲章などに該当しないその他の章として「褒章」があり、これに入る。叔父が賜ったのは、瑞宝双光章だそうである。国や人のために尽力した人に授けられるようだ。仕事で言うと、自衛隊や警察の人達等。ここでようやっと了解した。文化勲章位しか知らなかった事を少し恥じた。

 国(民)を守る人達の章が文化勲章の上位にあることも当然だろう。昔、防人、今、自衛隊がいて国を守り、国あってこその文化勲章である。
 ところで、これを有り難くいただこうが、先きの人々のようにつっぱねようが個人の自由である。ただ、作家の大江健三郎の辞退の理由がひねくれている。辞退するなら黙ってすれば良いと思うが、いろいろ宣うのである。文化勲章辞退の事も含めて、以下大江が言った事を挙げてみる。

 大江が、「天皇制打倒、天皇制廃止論者」である事は、各方面で書いている事を読めばわかる。だから、文化勲章はいらないと言うのは理の当然と言える。なぜ天皇制が気に食わないのかと言えば、「前世紀の遺物で、近隣国を初めとして悪い事した親玉だから、民主主義国なのに天皇の存在はゆるせん憲法違反」という。

 この事は、国内向けには言わないが、外国メディアなどには言っている。一方、ノーベル賞なら喜んでもらうのである。ノーベル賞をだしているのは、スウェーデンで日本と同 じ立憲君主国である。あっちの王は良くてこっちの皇はだめらしい。ご先祖を辿れば、日本の天皇は神様の子孫(信じようが信じまいがそう言う事になっている)で、スウェーデンの王のそれはヴァイキング(海賊)である。ノーベルはいうまでもないが、近代大量殺戮戦争を可能にした「爆薬」をつくった。それで巨万の富を得て出来たのがこの賞である。

 昭和天皇は、帝王学の最重要科目「倫理」を杉浦重剛から学んでいる。その巻頭にあるのは、「武士道精神」だった。この帝王学は「自己犠牲」をもって極とした。

 「武士町民に先立って、天皇こそ自己供献のお覚悟を」と教えられた。

だからこそ、大東亜戦争敗戦後、単独でマッカーサーに会い、「戦争の全責任は朕一人にあり」と告げた時、てっきり国外亡命すると思っていたマッカーサー(父アーサー(→本人。訂正9/20)は、日本軍がフィリピンを攻略した際、I shall retern(→return 訂正9/20) の言葉を残して敵前逃亡した。)は、感動して、思わず「陛下…」と言ってその手を恭しく押し頂こうとさえしたと言われている。
こういう例は過去世界を探しても日本にしかない。

 今上映されている*「バルトの楽園」の中でも見られるように、国(ドイツ)が降参すると、王(ウィルヘルムニ世)は国外に亡命(要するに逃げる)するのが当たり前のことであった。こういう史実を知ってもなを「皇室」だけをあしざまに扱うのだろうか。

 無効が言われている東京裁判の、東条英機供述調書中においてもあるように、天皇は最後まで戦争に反対し、一度近衛内閣に於いて決まった戦争決定を白紙に戻して、抜擢され首相になった東条英機は、もう一度御前会議を開き、米国に対して譲歩に譲歩を重ねるが、ついにどうにもならず、我が国の存亡をかけた開戦となった。この戦争は、「自存自衛 ための防衛戦争」であった事を大江は知らないのか。  −続く−


杉浦重剛…1855〜1924
安政2年、滋賀県生まれ。東京開成学校に学ぶ。選抜され明治9年年(1876)イギリスに留学。帰国後東京大学予備門長などをへて、同18年東京英語学校を創立。同21年三宅雪嶺と雑誌「日本人」を発刊、欧化主義に反対し、国粋主義を提唱、衆議院議員、國學院学監などをへて、大正3年東宮御学問所御用掛となり、儒教的道徳に基づく帝王倫理を講じた。

「バルトの楽園(がくえん)」
第一次大戦時の日本国内に10近くあった俘虜収容所の一つで、徳島県鳴門市大麻町坂東にあった収容所の話。日本で初めてベートーベンの「交響曲第九」が演奏合唱された。劇中の俘虜、ドイツ人バウムは、後に神戸のユーハイムを作った。板東英二(もとプロ野球投手、現タレント)は満洲引き上げ後、一時ここに住んでいた。バルトとは「髭(劇中の松江の髭は俗にカイゼル髭、当時のウィルヘルム二世の髭のこと)」の意。後に模範的収容所ということで、世界から表彰されている。 

。。余談 。。
よく行く刺身の専門店に、モンゴルから働きに来ているバトルさんと言うのがいて、どうしても、「バトルの楽園」と見えてしまう。

→収容所に関する関連たん譚


→2002年の今日のたん譚









2006年06月06日(火) スギたる和ダ猶およばざるが如し



 今は昔、京の都の経営する美術学校に入るべく算数国語理科社会を猛勉強、美術科入学、彼は喜び勇んだ。入ってからはたと気がついた。何をやっていいのかわからない。あらかた、熱意は受験で使い果たしてしまっている。白いキャンバスを前に考え込んでついに四年間、黄ばんだキャンバスを残し、一枚の作品も残さず、英語の単位をも落として仮卒業してしまった。豪傑である。年下の友人の本当の話である。
 
 その豪傑、 もし在学時に、留学試験があったらどうしたか。件の人と同じく、多分現状から逃れるために受験しただろう。件も豪傑も、もとより、受験勉強はお手の物。あら、受かっちゃった、てなもんで、期待に胸膨らませて異国に行っても、無いもの(才能)は無いのである。
どうするか。とりあえず、気に入った友達の絵のまねっこを始めてついに数十点、試しに、ちょっと片々を変えて見た。
他人の褌のしめ方を変えたら何だかよくなった(ように思えた)。そうこうする内、留学期間も終了、帰国。成果を問われる。仕方ないから、色を変えた他人様の褌で、展覧会に出したら、あらら、賞をもらってしまった。もう後に引けない。が、昔も今も、才能は端から無い。のだから、いまさら作風を変えたくても出来ない。ままよ、同じ作風の予備がまだ数十点、小出しにして行けば、しばらく大丈夫だと思ったのかどうか。

     
和田義彦「宴の後」       アルベルト・スギ「妻と夫」


…ついに破綻の時が来た。それまでなんの和田かまりもなかったのか。
 昔は、大工他・職人、技能職は、試験など無かった。入りたければ這入って、去る者は追わなかった。考えてみてくれ、絵描きが大学院出て、絵の博士号とって何すんの?絵の博士てなんだ?

 数十年前、ある科学的油彩画の技術とやらの本を信じて勉強した。その著者は芸大のセンセで画家であった、ある時、その著者が出品している展覧会を見に行った、目の前の著者の絵が、あまりにも稚拙に見えたその言行?不一致に驚いて、すぐに、うどん屋の釜(湯だけ)図書と認定、破いて捨ててしまった。いくら、絵を科学しようと何しようと、絵が描けなくてはどうしようもない。
これじゃ、グザヴィエ ド ラングレと同じじゃないか。絵画は無言の説得である。
「うーむ」と圧倒させるものが無ければ、プロとは言えない。これに学歴は関係ない。

 はっきりしている事和田、彼の人には絵を描く才能が無かったと言う事である。確かに難しい試験に通ると言う才、デッサンをちょこっと描く才はあったかもしれない。
芸大の入学試験に通る位勉強の出来た只の人だったのだ。もとより絵描きではない。


グザヴィエ ド ラングレ(1906〜75仏ブルターニュで生まれる)…油彩画を技術面から 分析、「La technique de la peinture a 'lhuile (油彩画の技術)」を著す。 ファンアイクから始まり、フランドル画派の技法などを紹介、しかし、その成果を示せるはずのラングレ自身の作品は、末流。俄に、その内容の信憑性を疑ってしまった。むしろ、ブルトン語で書かれた小説の方が高い評価を得ている、中世文学に深い造詣。
画家としてのラングレの名は残っていない。




→2002年の今日のたん譚










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