目次|過去|未来
そろそろ暑い夏が来るので、昨年に仕込んだワインを醸造用瓶から木樽に移しかえた。 樽は、ソーダ灰を水に溶かしたものを満たし、栓をして、絵を描いている足下において時折蹴ってやる。 こうすることで、樽内に付着した葡萄滓などの除去促進になる。十二時間位続けたら捨てて水ですすぎ、次は殺菌、相当する重亜硫酸塩ナトリウムを適量溶かすのだが、これが強烈な刺激臭があり、むせながらの作業。ここからは、筋力トレーニングのつもりで、十二リットル入りの樽を持ち上げ、ひきつけ振り回す。真上に持ち上げた樽を、頭の後ろに、肘を固定した状態であげおろし。 ふらふらになりかけた頃、完了。
樽の外側には亜麻仁油を塗っておく。ワインを移しかえ、専用の冷蔵庫に入れて、これから一年寝かせて、、瓶詰めコルク打ち。 快汁葡萄鏡(日本三大名鏡のひとつ海獣葡萄鏡(国宝) のもじり)頁を作ったのだけれど、作業途中を記録しながらの作業は難しく、途中の行程を幾度も記録し忘れてしまう。で、今に至るも更新されていない。
今ワインは、AOC(原産地管理呼称・フランス)ワインが六百円位で買えるようになった。もう自家醸造ワインには、実益は無く、閑人の趣味となってしまった。ビールと違って、手間ひまかけて作っても美味いものが出来るとは限らない。樽熟成させたからと言って、味がよくなる保障もない。
ようするにひとりよがりの、手間のかかる趣味ということだ。 わざわざ作り方を発表しても、きっと、手打ち蕎麦の蕎麦打ち風景を見せるようなもので、誰も見やしない。だから、更新はどうなるかわからない。
途中のワインを味見をする度に、フランスの昔からのワイン作りの文化伝統に、敬意をはらってしまう事になる。 他方、日本の清酒に至っては、難しすぎ、素人には到底できないレベルで、西洋がパスチャライザシオン(火入れ)を発見する二百年前に、すでに日本酒の世界ではそれが行われていた。他国の酒を造って、わが国の酒のすごさを知る。
2004年06月15日(火) |
小六事件と大人の軟弱 |
佐世保の惨殺事件が起こって、その後、他の子供の心的禍負担はともかく、救急の消防隊員達が、凄惨な現場を目撃したことによる心的禍負担を覚え、苦痛を訴えたりしている。 最近しばしば言われている、日本国が瓦解し初めている予兆がここにも見て取れる。あまりにも軟弱な感受性をもったその道のプロ達がいて、井上惇(あつし)市消防局次長は「隊員の惨事ストレスは初めて。マニュアルはあっても、心の問題には個人差があり、特効薬は見あたらない 」(読売新聞)なんて言う発言をしたりしている。 ◆ 毎日美味しいものを食って、ほぼ無菌の中で暮らす中で、戦争のない平和な世界を声高に叫ぶ、すると腹がへる。その日の夕飯は、焼き肉。が、一度でも自分達で生きた豚の喉をかっ切り、ほとばしる血を一滴も無駄にしまいとバケツに受け、腸の汚物をしごきとり保存し、生きて行く糧とした事があるだろうか。美味いとり肉を食べるため、自分で潰して(屠殺して)、食べる人がどれだけいるだろう。あらゆる残虐行為は他人まかせにしておいて、戦争(殺しあい)のない平和な世界を叫ぶ。
もともと日本には、こういうほ乳類をたたき殺して食うという習慣は、鯨(くじら)以外なかった。 これは世界共通の事と思うが、獲物は血の一滴まで無駄にしない。鯨なんて、ひげまでぜんまいの代用にして使った。ところが明治からこっち、食肉の文化がぽんと入ってきて、以後急速に、加工され、商品化された「肉」が、味噌・醤油・どぶろくなどのように、本来の自家製造過程を経る事なしに出回り今日に至った。
フランスの田舎の農家で、飼っているうさぎを料理するために潰す時、どうするか知っているだろうか。まず血を飛び散らさずに抜くためと、一瞬にして致命傷を与えるために、先の鋭い、たこ焼き返しのようなもので目を深く突き、殺す。その後、後ろ足を縛り木にぶら下げておくのだ。 こういうことに、食肉を歴史としてきた連中は抵抗がない。日本人なら気絶してしまうかもしれない。
*「アーロン収容所」と言う本の中にでて来る目撃譚。略奪する原住民が、死んだ兵隊の遺骸の歯から金を取り出す時どうするか。躊躇なく石で頭蓋骨をぐしゃっとたたき潰す。それを見た著者は震え上がる。が、著者はやがて食肉文化の中では、そういうものだと悟る。
中学生の頃の事、山麓の石切り場に住む、今思うと、うぐいすとめじろの密猟をしていたと思われる(六畳間位の所一杯に天井まで鳥かごがあって、鳥屋に売っていた)、友達のお父さんに、鶏を食うかとすすめられ、生まれて初めて鶏を潰す現場を見た、目の前で、鶏に袋をかぶせ、あっと言う間もなく、喉をかっ切った。 瞬間、血しぶきとともに鶏は4.5m飛んだ。、鶏が飛ぶのをこのとき初めて見た。可愛そうもくそもない。ただ現実があった。が、事はそよとすすめられ、庭には、いこった炭が入った七輪が用意され、友人の父親とその友人を交えて宴が始まった。お相伴にあずかった。とても美味かった。先の悲惨な屠殺現場があってこの幸福があるのだとこの時諒解した。 以後、近くの裏山で、メジロを捕り(今は禁止されている)に入った山で、かすみ網(これも禁止)で獲っていると、つむぎ・あおじなどがかかった。この鳥は美味いので、その場で首をちょんぎり、羽をむしり、腹を割いて塩と醤油をかけ、携帯燃料に火をつけて、焼いてよく食った。
以前、教徒(きょうと・仮名)大学医学部の解剖図のイラストの仕事をした事があって、実際の人間を解体した写真を見ながら、要所を描き出す作業で、吐き気をもよおす米・独製写真集であったが、やがて客観的に見られるようになり、それらのすべての遺骸が、なぜか東洋人であることも発見した。 これは、江戸時代の外国人の記録を見ても、日本人の事を「有機体」と表現しているように、白人以外は人間ではないと言うのが、当時の目で、その習慣が残って解剖のサンプルは人間によくにた?、東洋人としたのかもしれない。 ずいぶん前に、京都-大阪を結ぶ京阪沿線の踏切で、飛び込み自殺事故直後、偶然そこに居合わせた。ばらばらの遺体は線路脇にまとめられ、白い覆いをかぶせてあったが、踏切のそこここには肉片がまだ落ちていた。が、以外に冷静でいられた。 少年期に経験した事やこういう経験のおかげ?で、佐世保小のような事件に遭遇したとしても、心的禍負担になるような過剰反応には至らないと思っている。 それはさておき、このような経験や、凶悪犯罪で血を見てきた人、検死官、交通事故処理経験者、外科医経験者などを、そう言う現場におくのだ。 先の消防局次長の「隊員の惨事ストレスは初めて。マニュアルはあっても、心の問題には個人差があり、特効薬は見あたらない 」(読売新聞) は、打つ手はあるのである。
参考文献: *「アーロン収容所」‥‥著者が敗戦後、イギリス軍に捕虜となっていた2年間の記録。イギリス将校の妻は、日本人が部屋に掃除に入った時も、平然と裸でいる。人として見ていない、猿や犬と同じに見ていた。虐待のすごさ。何日も飢えさせて、川の中州においておく。取り残された日本兵達は、寄生虫を持っているカニを食べて死んで行く。それまでほったらかしにしておくなど。白人種(アングロサクソン)の東洋人を見る目がよく書かれている。会田雄次著
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