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2004年05月25日(火) 牛に惹かれて神宮詣で



 先日、伊勢神宮に参拝した。京都からは二時間で行ける。題のように、伊勢に行く手前、途中下車し、牛肉に惹かれて、肉を食いに松阪市の目的の店に向かった。
 一つの誤解がある。二十年くらい前に小説家がエッセイにここの事を書いて以来、松阪肉が有名になったが、実はこの店「渡多金(わだきん 仮名)」の独自の肉が美味いんであって、松阪の牛肉がうまいとは、最初から言ってないにも関わらず、松阪牛がうまいと言う事になってしまった。

 ここの牛は、但馬の牛でこれを、渡多金(わだきん 仮名)の初代が松阪に持ってきて、牧場にて育て以後、これが有名になった。だから但馬(兵庫県)の牛であって、松阪出自の牛君達とは何の関係もない。
 すき焼きは、たった一枚のぺらぺらロース肉。
網焼き肉は、八十g位のヒレ肉一枚、このセットが売りなのでこれを頼んだ。

 以前他所で、霜降りの中に赤みがあるような、体にいいとは思えないステーキを食った事があるが、只只、柔らかく、噛みごたえなく、口中で溶ける。確かにとても旨いが、ばーさん、じーさん向けであった。

 ところがここのは他にはない、箸で切れるのだけれども、適度な噛みごたえがあって、なを溶ける。結構な料金も、たん譚は相応だと了解した。
 
 伊勢市駅近くの宿は、玄関正面 の「翠光入玉簾」を揮毫している伊藤博文をはじめ 、広田 弘毅(外交官・政治家) 東条 英機 (陸軍軍人・政治家) 岸 信介(政治家) 佐藤 栄作(政治家) 福田 赳夫(政治家) 重光 葵(外交官・政治家) 松岡 洋右(外交官・政治家) 西園寺 公一 (政治家) 小林 一三(実業家・政治家) 正力 松太郎(政治家・実業家)
 
三遊亭 金馬 (落語家) 春風亭 柳昇 (落語家) 板東 三津五郎 (歌舞伎俳優) 吉井 勇(歌人) 今 日出海(小説家・評論家) 久保田 万太郎(小説家・劇作家) 川端 龍子(日本画家) 杉本 健吉(画家) 辰野 隆 (フランス文学者) 伊東 深水(日本画家)福田 平八郎(日本画家) 川島 芳子(男装の麗人) 金森 徳次郎 (憲法学者)たん潭(画家、フランス愛好家 だれや??)

錚々(そうそう)たる人々が投宿している老舗料理旅館で、頭拿屋・利用庵(とだや・りょうあん 仮名)という。皆、神宮詣での宿としたのだろう。泊まれる客数は十人くらいで、部屋は二つ。改築後は昔とは違うようだが、窓から、人工だが池に滝が落ちている庭園が眼下に見える。

 歴史ある宿で、歴史上の人物がここにいた事を思いながらの静かな夜は、また格別であった
 
 伊勢神宮の外宮(げくう)は、天皇の食事(御饌・ミケ )所で、稲を、水を祭り、食べ物をまつる。内宮(ないくう)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)が祭られており、古来毎朝、外宮に食事にこられるらしい。
 御饌 (みけ)は神の食事だと聞いて 家の三毛猫のえさは大丈夫だろうかと、おもわず思ってしまった。

宮内の、欧州にはない、巨木がそそり立つ森、流れる沢(五十鈴川源流)。ここには確かに人ではない何者かがいる。昼飯に、宿で作ってもらった、おむすびを食べ、正式な参拝をし、伊勢を後にした。

*この旅を実行する数日前、まったく同じ店に産經新聞の産経抄が訪ね、エッセイに書いてましたが、偶然です。
 









2004年05月20日(木) 真珠の耳飾りの女



 17世紀オランダに生きた画家ヨハネス・フェルメールの作品「真珠の耳飾りの女(青いターバンの少女)」をテーマにした小説が映画化された。 何年か前にもカラバジオを描いた映画を見て、これは別の意味で意表をつく映画で、アトリエのモデルの光の当て方(映像作品としての)に感心してしまい、今回も、物語はさておき、監督があのフェルメールの光をどう再現するのか、それを見に行った。
 
 映画人にとって、今や画家の画室の採光再現などなんて事はないのかもしれない。金があればだれか一人、スタッフを自分が思うような光再現のために雇いたいと思ったくらいだ。本当に感心した。
 
 映画は「真珠の耳飾りの女」のモデルをめぐっての地味と言えば地味な話。
画家とモデルが共有する時間を過ごす時、不思議な親和感を持つ。これは、ヌードモデルを描いている時に、何にも触れていないのに描き終わる頃、関係を持ってしまったかのような感じになるのにもにて、そういう感情を経験した事がある。
着衣していても同じことである。

映画でも、互いに精神的の中では成就してしまっている。
これを見ていたら、ふいに「*日本霊異記」だったかに、修行中の坊主が、弥勒菩薩像を眺めているうちに、ついに達してしまう話があったのを思い出した。精神的昇華に於いては、この坊様のほうがすごいなぁなどと、余計な事を思った。

フェルメールの画法をめぐって、カメラ・オブスキュラ(素朴なスライド映写機と思って下さい)を使って描いたのだ(根拠の一つに一枚のエスキース-下絵-も、残されていない)とか、「いや、消失点の位置にピンをさした後があるので、当時の建築学に基づいて描かれたのだ」などの説か゜今でも飛び交っている。
 カメラ・オブスキュラのようなものは、それ以前からあった。遮光された部屋の壁の一方に穴をあける、すると外の景色が反対側の壁に映し出しだされる。簡単なカメラの原理で(コダックが世界で初めてこの原理で写真を撮った。)、これを写し取って絵を描く。
 
 絵描きの立場から言えば、天才的絵描きと言えども、下絵なしで描くためには、それに至るまで、おびただしいデッサンをしてきて初めて可能だといえる。避けて通れない。だから、一枚の下描きもない、デッサン帖も残さないフェルメールはやはり使っただろう。
 
 絵と言えども、当時の絵画技法に、精神はまったき自由ではあり得ないわけで、光学的な光の解釈(光っている部分が玉のように解釈されて描かれている)は、目で見て描くには無理がある。
 どちらも使ったと見るべきだろう、目と機器と。
 
 '90年頃、この絵ではなく、ウィーン美術史美術館 (Kunsthistorisches Museum Wien)に、「画家のアトリエ(絵画芸術) 」を見に行った。本来なら強く印象に残ったはずのこの絵が、あまり印象に残っていず、同展示室にあった、まったく有名ではない、一枚の絵が強烈に印象に残っている。
  
 絵には貴夫人が描かれていた。去年だったか、日本人画家で初めてフランス政府から、シュバリエ芸術文化勲章をもらった、松井守男さんを紹介された神戸の画廊の、そこに勤めていた女の子に、その貴婦人が、まぁ、瓜二つだった。
 
 つんとして、気高い感じなどそっくりで、一緒に行っていた絵描きと笑い転げた。そういうわけで、「画家のアトリエ」よりも、近くの、他人のそら似絵画の方が、印象深かったのであった。
 
 西洋の絵画が、まだリアリズムに汲々とし離れられずいる17世紀の同時期、すでに、わが京都には、光悦・宗達に影響を受け、装飾性に富んだ琳派様式を確立した、*尾形光琳(おがた・こうりん)がいた。
 

 題を再び見返して見ると、あれれ!「首飾り」となっていました。「真珠の首飾りの女」という作品もありますが、ここで書かれているものではありません。「首飾り→耳飾り」訂正しておきます。(04/06/24)

*日本霊異記
九世紀のはじめ、奈良薬師寺の僧景戒が編集した仏教説話集。因果応報の理を説く話が多いが、幹となったのは当時民間に伝承せられていた説話で、人獣交婚譚や怪力譚もあれば、妖怪変化譚として神々の零落してゆく過程を窺わせる話も多い。説話文学の先駆として、後の『今昔物語』『宇治拾遺物語』などに材料を提供 している。

*尾形光琳(おがた・こうりん)
画家。工芸家。乾山の兄。京都呉服商の家に生まれる。
装飾性に富む琳派様式を確立。晩年は京都に戻り、絵画の大作を次々と制作する一方、弟・乾山の焼き物に絵付けするなど工芸デザインにも大きな影響を及ぼした。代表作は『燕子花図屏風』『紅白梅図屏風』など。蒔絵では、『八橋蒔絵硯箱』などの傑作を残す。

 









2004年05月03日(月) 憲法記念日



過去のたん潭をどうぞ
2002 5月3日憲法記念日に寄せて









2004年05月02日(日) 判官(半眼)びいき



 イラクでの日本人人質の行為を擁護する人々や、マスコミの後ろ楯になっている、米国パウエル国務長官の発言

「イラクの人々のために、危険を冒して、現地入りする市民がいることを日本は誇りに思うべきだ」は、腑に落ちないでいた。

 ところがこれがマスコミがよく使う手で、自分達が都合の良い部分だけを引用していた事がわかった。実はこの後に続いて

「また、イラクに自衛隊を派遣したことも、誇りに思うべきである」
                      (04/28 産經新聞)
と言っているのである。これなら分かる 。どっちがどうと言う事は強調されていない。

◆ ボクシングの世界戦において、アメリカ人は、外国選手に自国チャンピオンがノックアウトされても拍手を送る.その光景を何度も見た。
一方日本での世界戦で、日本のチャンピオンが打ち倒されると、水を打ったようにシーンとしてしまう、拍手はない。

 
ボクシングは、主な戦いの場がラスベガスにある事で分かるように、賭けの対象になっている。そういうことも考えに入れないといけないが、やはり心からかどうか、大勢が拍手する。米国は人工国家で、多数の人種が集まって出来ている国家である所以である。

 太平洋方面での戦争の時に、体当たりして来た零戦が、艦上にひっかかった。搭乗員はすでに死亡していた。だが、ちゃんと敬意を表され、体当たり死した兵士は手厚く葬られている。

 米国は、フロンティア・スピリット(開拓者精神)が基本にある。このスピリットには、精神とか意気と言う意味がある。
このことからも、個人の「意気」は、思想信条を越えてまず褒め讃えるということがあるのだろう。

 二人の記者会見をみた。北海道の18歳で半眼の目、一晩で十数万の署名を集める謎の餓鬼と、恋人に収入が安定しているからといわれて自衛隊に入隊したらしい、自称ジャーナリストの元自衛官。

 おどされて、演技したのは結局、向こうのテロリストと一緒になって自国を批難した事になる。
「あの時、おどされて断れますか?」とこの元自衛官はいったが、果たして断れるのである。
確固たる信念で行ってるのであれば、即座に「私は一個人として来ている。君たちの言い分を伝える事は記事を通じて可能だが、自衛隊撤退の要求は自分とは関係ない」と。
 だいたいこんな事、イラク人と通訳を介して以外、喋られるわけがない。通訳を介しての取材で、「自分なりのイラクが伝え」られると思うのか。
(小泉首相が平壌を訪れた時、金正日は「よう来たなぁ、われ」とため口をきいたが、通訳は勿論伝えなかった)
ところがもともと、米国や日本よりイラクが好きな人である。これ幸いと同調したと言うわけである。

 半眼の少年の父親は、北海道の日教組(旧社会党系)だか、高教祖(共産党系)だかに所属している教師であるそうで、これで一夜にして十数万の署名が集まったのだと合点がいった。
 
 常に非難しているはずの米国に、自分にとって都合の良い意見があるとその部分だけ取り上げる。なりふり構わずとはこの事である。

    餓鬼の目に水見えず











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