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今朝の産經新聞の産経抄に、 「イラクで拉致事件に巻き込まれた国の中で、犯行グループでなく自国の政府を批判する家族や団体が際立つ国は日本だけ」。それがさらなる交渉条件を上乗せできるという誤解を拉致の犯人に与えているというのである。世界で最も反日的なのは一部の日本人だという見方がここでも成立している」 とあった。
周囲を見渡しても多い。反日で、国家解体論のような事を口走るのがいる。が、皮肉な事に、その同じ口が古くは英国、今フランスのボルドーのワインを愛でる。ワインは国そのものなのである。そこまで思い至らないのが悲しい。 なぜと言うのに、ワインはとても厳しい法律で、規制され管理されているものなのだ。作付け面積や、収穫量、糖度、添加物 等などにおいて。
ドイツ国境近くのアルザスという地方がある。一時ドイツに占領された。 ここはフランス屈指の白ワインの産地だが、戦後に再びフランスが取り戻した時、そこに植えてあった全ての葡萄の木を引っこ抜いて、植え直した。
たかが葡萄の木ではないのだ。ワインは法律である、他国の管理下におかれていた葡萄の木は、他国の法で規定されている。そのまんま使い回しはできない。だから植え替えてしまうのだ。
国なくして、銘酒は作りえない。 国家解体のような事を口走るのは、日本が環海であり他国に接していない事もあって、危機感が薄いせいだろう。 戦後7年間、アメリカが行った、国内にいるソ連(当時)シンパ(同調者)を使って、日本国内の、言論や教育を分裂させた成果が見事なまでに花開いている。
もし「左」という言葉に、何か知的なものを感じる人がいたとしたら、かなり「痴的な左巻き(向き)」である。
イラクで人質にされた者の家族達、ありゃなんだ! 無事帰って来て、息子が再び危険地帯に行くと行ったらまたいかせるそうだ。行くのは勝手だ、行けば良い。しかし今度、行くなと言う所へ行く時は、日本政府に対して「私は、殺されても、レイブされてもかまいません、一切の助け不要」と書いて、家族に印をついてもらい、届けを出してから、それから行きたきゃ行け。
この家族は、普段、人権や個人の権利、プライバシーが何のとすぐ声高に言う種類の人達だろうと見ていたら、やっばりでました。なんたらかんたら人権委員会?? んなものイラクにあるの会。
自分は清く正しく思っているのだろう、個人の正義で動いているはずが、窮地に陥ると、子供を助けるために、自衛隊をひっこめろと、自国を相手に居丈高になる。自分の子供のわがままのあげくの結果を、自衛隊の撤退に結び付ける神経は、厚顔無恥と言う他ない。 北朝鮮に子供を拉致されている家族とくらべて、この家族達は何なんだろう。「さーよくわかんねぇ」と横にいた爺さんは言った。
先日、祇園に都をどりを見にいった。庭園の桜が池に舞い散っている。
はるの日の うららにさして 観る舞は
観劇前の点茶の、點前は小喜美。一服頂いてから、着席。満席の大盛況。地方からも観光バスで来ている。横浜からの観光バスはベンツであった。なぁにベンツといって驚くな。向こうじゃベンツのトラックも走ってらい。日本のトヨタ・日産と同じ車の会社じゃないか。 それぞれに歳を重ねて、以前にも増してまんまるな顔の芸(舞)妓、あごのしゃくれた芸(舞)妓、どうしたらそんなおでこにと思ってしまう芸(舞)妓、さまざまが舞い踊る。よくもこんなに個性的の顔が集まるもんだと踊りそっちのけで鑑賞。 その中でも、アイドル歌手と浮き名を流した佳つ乃はやっばり際立って目立つ。 神戸の知人推薦の小亜希もなかなかよろしいな。 「二条城大広間の雪見」にそろって出ておりました。その襖繪には、鷹(豹のまちがい。訂正04/06/10)と虎が描かれている。京都における江戸幕府の本拠地としてあった二条城の大広間の控えの襖繪は、ここに登城する*大名達を威嚇するためのものだったという。 都をどりを通して、各時代のさまざまが見て取れる。それは色彩にもおよんで、「紫」ひとつとっても、紺桔梗・藤鼠・紅掛花色・藤色・二藍・藤紫・桔梗色・紫音色・滅紫・紫紺・深紫(こきむらさき)・浅紫・薄色・半色(はしたいろ)・菫色(すみれいろ) 杜若(かきつばた、別名 江戸紫(桃屋のあれではありません))。まだまだある…。芸妓の着物はさておいて、日本人の色彩感は、総じて各時代を通じて、けばけばしくなくシックであった。
嘉永六年(1853)、プーチャーチン使節団の一員として長崎に渡航したゴンチャロフも、「その中(接待の役人達に)に、どぎつい鮮明な色がない事」「赤も黄も緑も原色のままのは一つもなくて全てがその二色、三色の混和色の穏やかな軟らかい色調である…正装の色調はヨーロッパ人のそれと同じである。私は老人が花模様緞子(どんす)の袴をはいているのを5人ばかり見たが、これもくすんだ色であった」 また 安政5年(1858)、日英修好通商条約提携のため来日した、エルギン卿使節団を乗せて来た船の船長オズボーンの訪日記にこんな事が書いてある。 「日本の役人や、ジェントリは、大抵着飾っていたし彼等自身の流儀に従って、服装によってかなりのダンディズムを発揮していた。だが日本では、衣服の点では家屋と同様、地味な色合いが一般的て、中国でありふれている、けばけばしい色や安ぴかものが存在しない事に我々は気がついた。ここでは上流婦人の外出着も、茶屋の気の毒な少女達や、商人の妻のそれも生地はどんなに上等であっても、色は落ち着いていた。 そして役人の公式の装いにおいても、黒、ダークブルー、それに黒と白の柄が最も一般的であった。 彼等の家屋や寺院は同様に、東洋のどこと比べてみてもけばけばしく塗られていないし、黄金で塗られているのはずっと少ない。この日本人の趣味の特性は、われわれが日本を訪れた際の第一印象のひとつで、多くの第一印象がそうであるように、結局正しいと言う事が解った」。 「一口に言うと最新の流行色が全部揃っていた」と書いている。 今あげた二人の他に、多くの訪日した異邦人の認識は、この世界でも奇跡と思われる類い稀な独自の発達をとげた文明が、我々が来た事で壊れてしまわないかと言う危惧だった。そうして、それは見事に適中し、今日 あらゆるものが西洋化されてしまい、日本人としての矜持を持たない人々であふれている。 昔日本人と今日本人のわずかな共通項は、「言葉」である。冒頭にあげた句、 はるの日の うららにさして 観る舞は はある有名な句をもじって作ったものだが、日本人なら、この大和言葉だけの句を読んで即座に理解できる事だろう。だが今後、タレントや流行作家の詩や文章を載せ、万葉集を教えない教科書でそだった日本人もどきは、ついに毛唐にも日本人にもなれないだろう。
参考文献: *美と宗教の発見 梅原 猛 逝きし世の面影 渡辺 京一 葦書房 日本の伝統色彩 長島 盛輝 京都書院
子供の頃から超人に憧れていた。とはいっても、テレビや映画に出てくる安っぽいヒーロー(昔エイトマン月光仮面、今仮面ライダースバイダーマンなど)なんて一切興味も無かったし、ましてやなりたいなどとは思いもしなかった。
以前、フルコンタクト(実際に打ち、蹴る)系空手の有名な選手が、この手のヒーローに憧れて今日があると言うような事を行っていた。 ちょっと信じられなかった。現実と架空・絵空事の区別がつかないのだろうか。こういう人がやがて道場を開いたとして、門下に集まってくる人たちは何のもとに集まってくるのだろうか。師範の頭がマンガなのにである。
ここで門下生達は何を学ぶのだろう。多分、対敵に対しての強さだけを学びにくる。だから当然のように、体は大きい方が良く、筋肉を膨らませる方へ向かう。大きくて筋骨隆々は小さくて普通の人を教えられない。が、20年経っても象には勝てない。
それはさておき、小さい頃から憧れた人たちは、上の種類のヒーロー達では無かった。全部実際にこの世に生きた人たちであった。その一人、小学生の頃、*零戦乗りの坂井三郎を知って、子供雑誌や「丸」という雑誌でよく読んだが、もう頭の片隅に残っているだけだった。 映画、ラストサムライをきっかけに、「武士道」をもう一度調べて行く内に偶然坂井三郎が「葉隠」で知られている佐賀県(佐賀藩 鍋島 直茂公)の出身であった事から、著作をまとめて読んでみた。 戦後、坂井三郎の本は「SAMURAI」の題名で、米国・カナダ・フィリピン・フランス・フィンランド他で、訳され出版されベストセラーになっている。 零戦(れいせんと読むのが正しい)の圧倒的な強さに興味をひかれた事もさることながら、小学生の時になんでそれほど興味を持ったか再度読んで解った。 多分、著者の超人性に憧れたのだろう。読み返すまでまったく忘れていた数々の信じられない逸話があった。 空中戦に圧勝するためには、先手を取る事、先手とは索敵(さくてき)をいち早く行うと言う事につきる。そのためには目が良くないといけない。 雲一つない空、 何万メートル先の、針の穴に等しい敵機を見つけるためだ。 発見される前に発見する。 誰にでも目が良い事が前提だとは理解できる。目の性能は多く先天的なもので、普通、維持は出来ても今以上にはならない。ところが坂井三郎はそうは考へない。 なんと目を鍛えはじめる。まず目に良いと、機会あらば緑の木々を凝視し、夜更かし、深酒を避けた。電車内から瞬時に看板を読み取る、群れ飛ぶ鳥をすばやく数える。ここまではなーんだで済ませられるが、ここからが常人離れしてくる。 坂井三郎は、目が良ければ、昼間でも星が見えるはずだ ?!と考へ訓練をはじめるのである。
まず簡単な星図の知識を得て、昼間、天頂(頭の真上)に来る星の中でどの星が一番明るいかを調べ、夕暮れ時には、いち早く一番星を見つける、明け方には最後まで消え残る星を探した。 真昼に飛行場の芝生に寝転がり、ひたすら天を凝視し続ける。そうしてついに星を見つける。回を重ねる毎に、発見は早くなりそのうち立ったままでも見られるようになったと言う。空が澄み切った日には、見つけた星の回りに無数の星が見えた時もあったと言う。(8000m級の山では、昼間星が見える) 視力はこの時2.5になっていた。
反射神経の鍛錬も驚くべきものがある。止まっているトンボ、飛んでいるトンボを素手でつかむ練習をしてついに出来るようになる。これだけで終わらない。剣豪宮本武蔵がやったと言われる、飛んでるハエを箸で掴むという逸話を地で行く。初めとまっているハエをつかむ練習からはじめ、ついには、飛んでいるハエの軌道予測をし、そこを掴む事でつかめるようになったと言う。 まだある、持久力を養うために、水泳をやり潜水をやった。100m!を潜って泳げるようになった。息を止めて2分30秒の記録を持っていると言う。 飛行機乗りは、急激な荷重を受けるため、内臓が垂下してくる。それを防ぐために逆立ちをする。その逆立ちは、普通は4.5分が限度だが、15分以上できた。 また、大型テントの鉄のポール(手では握り込めない位の)の上によじ登り、腕力だけで30分いて訓練生達を驚かせた。などなど…。 坂井三郎は生まれつきの天才ではなかった。学業に失敗して、田舎に帰って、畑仕事の時に、空を舞う飛行機を見て飛行機乗りになろうと海軍に志願する。 飛行訓練でも、最初はそう優秀な成績ではなかった。 目的に向かってすべての事を、それに関連づけて訓練した。それがおのずと「道」を作って行ったのだろう。 ラバウル空戦での圧倒的な強さ(200回以上の空戦で64機撃墜)は、「道」に裏づけされているといっても良い。 最近、現在、米国に残る最後の一機、零戦21型(坂井三郎が主に乗っていた)が実際に空を飛んでいる所を収めた、米国製のDVDを手に入れた。このDVDは、最初にFBIの警告がある貴重なものだ。 独特のエンジン音を持つ、栄十二型エンジンも心地いいが、何よりも驚いたのが、飛んでいる時の羽のような軽快さである。例えて言うとUFOみたいだと言えば良いのか、重力にひっばられている感じがしない。本当に軽い。これに鍛え抜いた坂井三郎が乗っていたのなら、敵機15.6機に追い回され撃たれても、ラダーフットペダルを左、と同時に操縦桿を右に、といった激しい動作で巧みによけて無傷で帰還したというのもうなづける。とにかくふわふわ浮いている感じがある。 昭和17.8年当時、830リットル(増槽含)で台湾の台南からフィリピンのルソン島まで480海里(1海里約850m)往復出来た。 戦後9年を経ても、マッカーサーは航空母艦を使ったのだと信じていた。そのくらい信じがたい無給油での飛行距離で、現在でも坂井三郎がだした記録は抜かれていないはずである。現在の新鋭機と言えども、バケツ単位で湯水の如く燃料を消費する。
日本人は、何かを追求する所に、自ずと「道」をつくってしまうのかもしれない。 *零式艦上戦闘機二十一型(れいしき・かんじょうせんとうき・にいち) 総数一万四百二十五機作られた。終戦までに十四回の改良がなされたが、二十一型がパイロットにもっとも信頼された。 どれだけ強かったかと言うと、どこの国でも、敵前逃亡は軍法会議ものである。が、戦争初期、米国では、零戦にもし遭遇したら、ただちに逃げ帰ってもよい事になっていた。そのくらい、他を圧倒していた。 空の要塞、死角ゼロと言われた、大型爆撃機B-17も落とされている。体格差はねずみと蟻くらいだろうか。 これほど強かった零戦も、格闘戦でどうしても勝てない戦闘機があった。九六艦戦(九六式艦上戦闘機)である。この戦闘機は、零戦に全て(格闘戦)において勝ったが、航続力と貧弱な武装、固定脚などの問題で主戦闘機には採用されなかった。
*参考文献: 大空のサムライ(正・続) 光人社 坂井三郎空戦記録 講談社 ゼロ戦の栄光と悲劇 " 坂井三郎の零戦操縦 並木書房 大空の決戦 鱒書房 撃墜王との対話 坂井三郎・高城肇 著 光人社 昭和研究会 ある知識人集団の軌跡 TBSブリタニカ 零戦の運命 講談社 零戦の真実 " DVD A6M5 ZERO -Navarre corp-
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