日々の泡・あるいは魚の寝言

2002年04月29日(月) 四月月末

アカネヒメ3の初校ゲラが、火曜日必着、という昨日(つまり、月曜日の昼下がりまでに翌朝便に載せないとやばいという状況ですね)、父方の祖母が、94才で、なくなったという知らせが入りました。
ちょうど病院にいたときに、トイレに立ったら心不全を起こしてなくなったらしい。寝付かずに、ぽっくり逝ったので、本人は本望だったかもしれません。寝たきりになることを、何よりもおそれていたそうなので。

実は、私はこの祖母とは、生前ほとんど交流がなかったのです。
あって会話した回数も、たぶん数えられるほどしかない。
当然、この祖母からかわいがられたという記憶もないようなものです。

というか…。
私は、父方も母方も、どちらの祖父母からも愛された記憶がありません。ぎゅうっと抱きしめられたとか、頭をなでられたとか、膝に乗せて、優しく話しかけてもらったとか、そういう、よく「おじーちゃんおばーちゃん」が、孫にするような愛情表現を受けた記憶がありません。

まあ、これは、しょうがないというか、うちは亡父が自衛官だったので転勤が多く、長崎在住の祖父母たちとはほとんどあう機会がなかったせい、という理由もありますね。そうして、両方の祖父母のそばには、それぞれの娘がうんだ、目に入れても痛くない孫たちが暮らしていたわけで、いつもそばにいるその孫たちと比べれば、やはりめったにたずねて来ない私などは、愛情に隔たりがあっても当たり前というものでしょう。
でも、それプラス、我が家には、父も母も、それぞれの実家に対する屈折した思いというのがありまして…。
父と母自身が、それぞれの実家とうまくいっていなかったのに、どうして孫の私が、祖父母と仲良くできるでしょうか? かわいがってもらえるでしょうか?
それでもまだ、母方の祖母は、うちの弟をかわいがっていたのですが、この祖母は、性格が猛々しい人で好き嫌いが激しく、「仁志君はかわいかけど、さっちゃん(わたしですね)は、かわいくなかねえ」などと本人にずばり言う人でした。

そういう私にとっては、「孫と仲良しのおじいちゃんおばあちゃん」「おじいちゃんおばあちゃんと仲良しの孫」というのは、もう、ファンタジーの中の登場人物と一緒で、「へえ、そういう人たちもいるんだあ。いいなあ。どういうかんじなのかなあ?」と、思ってしまうのです。
指をくわえるくらい、うらやましくなったり、そっと足を引っかけてころばせたいほど(笑)、ちょこっとねたましくなったりもします。
それで、祖父母という人々への憧れが、よく、私の本に、優しい老人たちを登場させるのです。
「こんなかなあ? こんなでいいのかなあ?」と、毎回、首をひねりながら、孫と仲良しのおじいさんおばあさんを書いている私なのでした。

責任感が伴う、両親の愛情と違って、祖父母の愛というものは、一種、盲目的な、かわいくてたまらない、降りそそぐ愛だと思うのです。無条件で、絶対的な愛。
そういうのに恵まれた経験がある人たちは、幸いだと思います。

私は、そういう愛情が自分に向けられないとわかった子どもの時から、もう祖父母のことは心から切り離していたので、ええ、精神的に、自分とは無縁な人たちだと割り切っていたので、今回祖母が死ぬことによって、ついに「祖父母」と呼べる人たちがこの世に一人もいなくなっても、さして悲しくはなく…。
一方で、悲しくない自分を、悲しまれない祖母を、悲しいと思います。

昨夜の通夜の時、お寺の住職の読経をききながら、私は仕事の段取りを考えていました。考えているうちに、ふと、思い出しました。
幼稚園くらいの頃、祖母のうちに遊びにいった私が、祖母にお祭りに連れて行ってもらったことを。ぼんやりと覚えているけど、あれは夜だった。
赤いぱっちんどめを買ってもらったのでした。
あのぱっちんどめはかわいくて、そのあとも大事にしていたのですが、結局今は手元にないのですから、どこかでなくしてしまったのでしょう。

読経がすんで、祖母の顔を見に行ったら、まるで西洋の夫人のように、ほっそりと美しい顔で眠っていました。癌で死んだ父の死に顔よりも、よほどすっきりとして、きれいでした。
この祖母は、詩吟をする人で、本を読む人で、随筆を書く人で…つまり、父へ、そして私へと続いた、文才の流れをもたらした遺伝子は、この人の家系から流れてきていたのでした。先祖をたどると、漢学者だの、画家だのがいたらしいです。

おばあちゃん…

私は、心の中で呼びかけました。
あなたは、私のことを、少しは好きでいてくれたんですか?

どうだったんですか?
おばあちゃん?

私は、お通夜を早くに抜けて、家に帰って仕事しました。

お通夜のあいだも、そして今日の告別式の時も、私は泣きませんでした。
なくほうが死者が喜ぶとしても、泣かなかったと思います。
泣かないの。
人前でなく涙には、絶対に嘘がまじるから。

祖母の笑い声は、今も耳に残っています。
辛い時代に、辛い人生をたどった人だったのに、明るく、はじけるような声で、笑う人でした。

告別式に出席する前に、ゲラは無事に、翌朝便に載せました。
アカネヒメ3は、仲良しのおばあちゃんと孫のお話でした。



2002年04月25日(木) ひだる神

ひだる神という神様がとりつくと、だるくてしょうがなくなるらしいのですが、私はどこで、その貧乏神を拾ってきたんでしょうか(笑)?

今日は、目覚めたら右の扁桃腺が腫れちゃってて、だるくて熱っぽくて、朝から、あああ、とため息ついてました。…すみません、愚痴らせてください(涙)。

でも、画家の森友さんからファックスが来たので、よいしょと重い腕を上げ、電話〜。うちあわせ〜。
森友さんは、のほほんとした人なので、こっちものほほん♪がうつって、少しだけ元気になったり。
ひきつづいて、まるでタイミングを見計らうかのように、岩崎書店の白雪姫こと、Yさんから電話。彼女はいつも、家の電話じゃなく、携帯にかけてくるんですよねえ。必ず捕まえてやろう、という意気込みが感じられます(笑)。
で、元気に打ち合わせして〜電話切って、またパワーダウン…。
しょうがないから、メールを数通書いて、今日は仕事はしないことにしようとか思っていると、ポプラ社から「ルルー6」の初校ゲラ到着〜♪
〆切はまだ先ですが、これも力いれてやらないとなー。

仕事は好きなんだけど、これだけかたまってこられると、ハードだわ…。
いけどもいけども砂の山が続く、砂丘を旅しているようですな。
魔法のじゅうたんを誰か私にくれたらいいのに…。

夜になって、菅野雪虫ちゃんから電話。
いろいろ楽しく四方山話。
彼女はほんとにセンスがいいし、おもしろいし、話が合うから楽しいのだ。あっというまに一時間と数十分経過。まだ話したりなかったけど、私が体力つきてきたので、そのへんでおしまい。
またはなそうね〜。

今夜は実は、すず猫さんに電話かけようと思っていたんだけど(アカネヒメ3の装丁の件で)、体力つきちゃって、無理でした。
明日は体力が戻っているだろうか?

で、早く寝ようと思ってたんだけど、ちょっとチェーンメールのことで、気になる件があったので、かもめ亭にかきこみ。
ただいま、12時40分…。
お医者さまには、1時よりも前に寝ること、と、いわれているんですが…。

ま、だまってりゃわかりゃしないし♪



2002年04月22日(月) 体力ないのよう

気力と精神力の値は高い私ですが、体力は一桁クラスです。
反射神経もありません。AGLの数値も低いことであろう(笑)。
こういう人は、どういうキャラかというと、くだりのエスカレーターに、なかなか足が踏み出せません。

こないだの週末、この忙しいのに、頭痛で丸一日潰れちゃって、悲惨な目にあいました。アカネヒメ3のスケジュールが、一日余裕がなくなっちゃって。
今日、無事に、翌朝便でだしましたが、今朝方4時まで働いて、9時おきで仕上げることになってしまった。まだ、徹夜しないですんだだけ良かったけど。
今回は、夜中に、森友典子さん(夜行性)と、ファックスで挿絵の打ち合わせができて、楽しかったです。

熱があっても、仕事はできますが、頭痛はどうしようもない…。
頭で文章書いてますからねえ。頭痛薬がきかないと、アウトです。
もひとつダメなのは、吐き気ですね。胃痛は何とかなるけど、吐き気はダメだ。
寝るか吐くかしかない。
で、今、吐き気来てます〜(涙)。
これはですね、病気でも食中毒でもなく、疲れの吐き気…。

でも、少し休んで、今夜はアカネヒメ3の見開きキャラ紹介の文章を書くのです。
もう少しだけ、がんばる…。
大体、今日の疲れは、一種自業自得(笑)。

今日は、長崎中央郵便局に、翌朝便をだしにいったあと(アカネヒメ3のゲラもどきですね)、そのまま繁華街まで歩いて、ちょっとお買い物にいきました。
五月の東京旅行のJTBのチケットを引き取りにいったのと、あと、ゲランのラブリーチェリーブロッサムのコフレを引き取りにいったのです。

結局、ゲランの桜の香水は、前回見に行ったとき、家に持って帰ったムエット(香水をしみこませた紙)の香りがとても良かったので、二つともそろえてしまいました。私は、ラブリーじゃなく、普通のチェリーブロッサムの方が、くどくなくて好きですね。ラブリーは私には、ジャスミンの香りがきつすぎるのだ…。でも、肌につけてみないと、どうなるかわかんないしで、結局入手。
コフレは、東京ではあっという間に売り切れたというバカラのペンダント(チョーカー)つきのものです。なんと、長崎にはまだあったんですねえ!
ペンダントは、虹色にひかる桜の花の形のガラスでできていまして、とってもきれい。
季節はずれだけど、児文協の総会に着けていこうかなと思っています。
今、桜の神様の話を書いている関係上、桜ものにはひかれる私なのです。
見る人が見れば、「お、チェリーブロッサム2002のコフレのペンダントだな」とわかることでしょう。協会にはけっこう、お金持ちのマダムもいるから(笑)、わかる人多いかも。
当日は、ラブリーじゃない方の、チェリーブロッサム、つけていこうっと☆

香水ネタでもう一つ書くと、今けっこう、スピリット・オブ・アユーラにひかれてるんですが、キャラ的にあわないので、買えません(涙)。
あれをつけるには、もっと、大人の女性にならないと。
…いや、年令だけならね、立派ないい年の女なんだけどね(笑)。

(笑)とか書きつつ、きもちわるい…。ううう。胃が…。
吉とでるか凶とでるかわかんないけど、ちょっとお風呂にでも入ろう。

#まあ、でもね。
一生懸命書いた原稿が、岩崎書店の白雪姫みたいな担当Yさんに、電話でいってもらったせりふ−−「今回もすばらしい原稿をありがとうございました。私、このお話、とっても好きです。泣けます。嬉しいです」と、感動してもらえれば、ああ、よかった、と報われるものなんですよね。
担当編集者は、最初の読者。
彼女のお眼鏡にかなった、アカネヒメ3。きっと今回も、読者様たちに喜んでもらえることでしょう。なによりなにより。
そのためなら、少々の吐き気も…。あううう。



2002年04月19日(金) ふう…

気になってしょうがなかった、「シェーラひめ10」関係の、ちょこちょこした更新をやりました。
ほんとにちょこちょこだから、私以外の人間には、感慨がないかも(笑)。

今回の更新で、台湾版のルルーの本についてのページも作りたかったのですが、ちょっとどこまで公開していいものか、判断に迷うところがあったので、週があけてから、ポプラ社さんにきいてみようと思っています。
せっかくスキャンしたので、公開したいんですけどねえ〜。

明日の朝には、仕事がクロネコでやってきます。
「アカネヒメ3」のゲラもどきです。
ゲラもどきとは何かというと…前にも書いたような気がしますが、初校ゲラがでる前の段階で、担当さんに仮に作ってもらったゲラの体裁になった紙のことです。担当さんに頼んで、クオーク(編集さんが使うソフト)で、作成してもらうの。
これは、最初、発案したのは、ポプラ社のNさんだったと記憶しています。
私はとにかく、ゲラの段階で直しまくるので、Nさんは、困ってしまったのですね。写し間違いがあっても困るし、ということで。
印刷所に渡す前に、自分の手元で、ゲラもどきを作ってくれるようになったのです。
これが、非常にあんばいがいいので、いまわたしは、各社のみなさまにお願いして、そうしていただいています。

だから、私は、ゲラは三回だしているということになります。
ゲラもどき、初校ゲラ、再校ゲラ、ですね。
私がかく物語は、児童書にしてはかなりいりくんでいるので、一度さらっと読み直しただけで、はい、出版、という怖ろしいことはできません…。
これからも、三回、ゲラを出し続けると思います。
担当編集者のみなさま、お世話かけます…。

明日、お仕事が来るということは、短い休暇も終わりました。
とりあえず、午前中に、郵便局に行って、おれんじさんにお約束のものをお送りして、あとはまた、お仕事に戻ろうと思います。
香水でも付けて、リフレッシュしてやるんだもん。

#そうそう。アカネヒメ3。
森友さんのキャラデザインができてきましたが〜
表紙のラフもでてきましたが〜
とっても素敵です。みなさま、楽しみにしていて下さいね☆



2002年04月17日(水) ふぁいと・おあ・ふらいと

私は、自分が「児童文学作家」だということを、いつも意識して生きていきたいと思っています。ひとりでいるときもです。

児童文学作家は、子どもから憧れられる存在です。
大人の、純粋な読者さんたちからも、美しいイメージで想像される職業です。

私は、そういう人たちのイメージを壊したくないと思っています。
とくに子どもにとって、尊敬する誰かに対して持っている夢や憧れが崩れ去る瞬間というものが、どれほど痛いものか想像がつくから(いろいろと覚えてもいるし)、その、幻のようなものを、大切にしてあげたいと思うのです。

だから私は、絶対に、「悪いこと」はしないようにしようと思っています。
小さなことでも、法律には背きたくないし、ずるいこともしたくない。
金銭トラブルも背負い込みたくない。
恋愛に関しても、不倫だけは絶対にしない。<そういう相手を好きにもならないけど。
人を職業や生まれや見目形で差別するようなことはしない。
いつでもフェアな私でありたい。
お日様の下をまっすぐに歩けるような、そういう自分でいたいのです。

でも、どこまで、「美しい姿」でいられるかというと、限界もありまして。
たとえば、私は喧嘩屋で、場合によっては、人を傷つけることも何とも思わない人間であります。
嫌いな人は嫌いだと、いってしまい、つきはなしてしまえる人間であります。
そんなんで、私から嫌われた人たちは、私のことを悪人と思い、蛇蝎のように忌み嫌うことでしょう。
そういう人にとっては、私は「おきれいな児童文学作家」じゃないわなあ。

十代の頃…うーん、二十代終わりくらいまでかな?
聖職者のような人間になりたかった時代があります。
自分を慕ってくる人はすべて受け入れ、どんなに自分が傷つけられようと馬鹿にされようと、微笑んで許し、ひたすらに周りの人たちを愛し抜こうと…。

今は、全然そんなことは考えません。
縁がない人とはつきあえなくていいと思ってる。
馬鹿にされたら、蹴倒してあげましょう。
どうしてそんなふうに変わったのかなあ、と自分でも不思議です。
なんかきっかけってあったのかなあ? 覚えてない。

でもたぶん、自分に無理をしないで生きていこうと、ある日、悟って方向転換したのだと思います。きっと、作家になった頃からね。

私は人間が大好きだし、知っている人も知らない人たちも、みんな幸せでいてほしいと思っています。
でも、自分が人とつきあうこと、ってのは、実はものすごく疲れちゃうのです。
人から好かれるのも、疲れてしまうし、好きだといわれても尊敬されても、疲れてしまうし、ええ、もちろん嫌だからじゃなくて、ただ、疲労してしまう。
人の想いを受け止められる余裕がないのかもしれません。

人とつきあうとき、リアルでもバーチャルでも、私はかなり無理してつきあっています。
もちろん楽しいから、そうしてるんだけど、金属疲労みたいなものがいつも心の中にたまっていっているのです。石に少しずつひびが入っていっている感じ、ともいえます。
でもそれでも、私は人間が好きだし、私を好きな人々がいるかぎり、みんなと一緒にいるべきだと思うから、ぎりぎり心が傷付かない程度まで、みんなに近寄って、にこにこしてるのです。

この人は苦手だなあ、とか、この人は嫌いかも、とか思っても、相手が愛読者さんだったりすると、でもって、こっちを慕ってくれてたりすると、「がまんするかなあ」とか、思うこともあります。許容して、迎え入れてあげようと。少々のことなら、目をつぶっていてあげようと。
やはりそこは、かつて聖職者のような人に憧れていた二十代、というのがありますので…。
すると、その苦手な相手は、これでいいものだと思うのか、どんどん増長してゆく。行動や発言が、エスカレートしてゆく。

そしてある日。
我慢が、限界まで来ると、私の心の中で、何かが、折れたり砕けたりしてしまうのです。もう、ある日、突然に。
すると、私は、人間関係から、逃げるか戦うか、どっちかしか選択肢がなくなってしまうのです。

野生動物は、未知のものとあったとき、逃げるか戦うか、一瞬にして判断するといいます。その判断が生死を分けるから、感覚がとぎすまされてゆく。
私もときどき野生動物レベルまで、落ちてしまうわけです。
まあ、土台が野良猫だから、しょうがないという話もありますが。
で、野良猫の舌にはとげが生えているのです。怒ると言葉は相手をさします。
手には爪が生えてもいます。野良猫だから切っていません。鋭いです。

そんなわけで。
たまに私は、児童文学作家と野良猫のあいだで、実像と虚像が揺らめいているのです。この野良猫作家は、決して犯罪は犯しませんが、でも、限界が来ると、いくらでも人を傷つけることができる極悪なイキモノでもあるのでした。

…困ったものです。



2002年04月15日(月) たそがれの約束

アカネヒメ3「たそがれの約束」
56枚で第一稿が書き上がりました。ふう。
ちょっと脳が死んでるので、今日の日記、変なことかいたらごめんなさい。
昨日(今朝だよ)5時に寝て、9時前におきて、そのあとも起きてる状態なので、でもって、ここ数日、昼夜逆転してたので、脳がもはや蟹みそです。ウニと梅肉であえてみて、納豆をブレンドしたくらいに、程良く発酵しています。

今回のアカネヒメは、「七夕とインターネットとパラレルワールド」の三題噺です。
で、このお話の、核となる部分(パラレルワールド)は、二十代の頃にできていたのですが、そのときは三十枚くらいの短編にする予定でした。
たぶん、当時書いていたら、今頃は、このあいだでたポプラ社の短編集「ささやかな魔法の物語」に収録されていたことでしょう(笑)。
二十代の頃は、やたら、短編とか、長編の1エピソードが浮かんでいたので、ずいぶんノートにつけて残したものです。今もまだ、ノートは手元にあります。

でその、「パラレルワールド」に、残り二つがどうくっついたかというと、どうしてくっつけたんだったっけ?
ああ、そうそう。「インターネットと七夕」で、何か話がかけるような予感がします、と、先に出版社の人に約束して、それに、パラレルワールドの話をもってきて融合させたんだった。
結果的に、これはこうなって正解だったと思っています。

毎度、どこから物語が降ってくるのかはわからないんですが、〆切がせまればなんとかかけちゃうから不思議。自分でも自分の才能って説明できない。
たまに、「ひとりで書いてるんですか?」ときかれることがありますが、作家がどうやったら分業できるっていうんですかい(笑)? キャラから設定から構成からストーリーから演出まで、全部ひとりでやってますがな(^^;)
ほかの人(編集さん)の意見を聞くのは、第一稿を渡してから。読みにくい処とか流れが不自然なところがないかどうかきいて、それを参考に直します。

ところで。
何日で何枚、というペース配分を考えるとき、つい、絶好調で、他社の仕事もない状態の時のことを思い浮かべて、スケジュールを立ててしまうので、ちょっとなにかあると、ずれまくりになってしまいます。
仕事そのものの遅れもあるけど、対人関係で悩んだりとかあるとねえ。
もう無惨に、ぱたっととまる。体調も悪くなる。指も動かなくなる。集中力も消滅する。
だからたまに、人と全然あわない環境に自分をおいた方が、仕事のためにはいいんじゃないかと思うこともありますが〜ああ、つまり、ネットもやめちゃうってことね〜でも、人との出会いこそが、作品を生むともいえるし。
今回のアカネヒメも、さりげなく、自分の経験がもとになってるところもあるからなあ。とある謎のお人との思い出話とかね。

水晶が他の石を抱き込んで結晶化している状態のものをたまに見ます。
ああ、ネットやリアルな石屋さんの店頭での話ね。
あんなふうに、私の作品も、ときどき私自身の思いが見え隠れしています。
自分が実際に話した言葉を、作品の中に封じ込めていることもあります。
ある時に感じた、自分の思いを、そのまま使っていたりします。
そんなのって、ちょっとだけ、楽しかったりしてね。

私が生きているよりも長い時間この世に残るものに、私の大事な思い出を封じ込めておくのって、それができるのって、幸福かもしれないと、いつも思っています。
言葉の結晶の意味に、たぶん私だけしか気づかない。それも、素敵なことだよね。



2002年04月12日(金) 大人と子どもの間

今日はちょっと、疲れてボロボロなので、文章が乱れるかもしれません。
そのときは、後日直しますので、ごめんなさい。

ああ、やっと、「アカネヒメ3」の第一稿がアップした。今回は、体力が続かなくて、きつかった。ふう。月曜日〆切で、完成稿をかかなけりゃだけど、まあ、削るだけの作業だから、なんとかなるでしょう。とりあえず、今夜は寝よう〜。

さて、以下は、前に、ミニコミ紙「赤とんぼ通信」に書いた内容の、一部アレンジなのですが……。

世界が、自分を中心に存在していないということを、意識できるかどうかが、大人と子どもの違いのような気がします。

人は、子どもの時、天動説の世界に生きています。

両親から、自分だけに与えられる愛情。これは、他のどの子よりも、自分が優れているのだ、自分は選ばれているのだと、錯覚させる力を持っています。

自分は世界の主役。自分が思うとおりに、世界は動いている。
自分は、なんでもできる。できないのは、自分が本気ではないからだ。
努力さえすれば、たいていのことはできるもの。
夢は見れば叶うものなのだ。

でも、子どもは、そうではないのだということに、やがて気づきます。
親のそばを離れ、友だちの間に入り、仲間や、親以外の大人たちから、自分に向けられる評価を知るうちに、です。
そして、進学と、就職……。
この二つの試練を通り過ぎ、ある程度の挫折を知るうちに、人は、世界には自分を評価しない人々が存在するということ、ひいては、自分は世界の主人公ではなかった、ということを知るのです。(人によっては、失恋も、世界を知るための経験の一つになるのでしょうね)。

自分が、世界という物語の主人公ではなかったということを知ること。
それはもちろん、不幸なことではありません。
自分は物語の主人公ではなかった、でも、同時に、無数の「脇役」たちがおりなす、壮大なドラマのキャラクターのなかのひとりとして、世界に存在しているということを知るわけですから。
自分だけが主人公だと思っていた頃は、他の人々は、舞台の背景、どうかすると書き割りに見えたことでしょう。でも、そのひとりひとりに人生があり、夢みるものがあり、物思う心があると知ったとき、それはどれほどすばらしい驚きを感じさせることでしょうか。
自分はひとりでなかったという、孤独が癒された喜びを、大人は誰でも、知っているはずです。人によって、自覚したりしていなかったりするでしょうけれど。

が。
一方で、いつまでも大人になれない人々というものが存在します。
心の中の、自分が主人公である世界を手放せない人たちです。

僕は(私は)なんにでもなれる。
僕は(私は)世界の主人公だ。
今に、僕の(私の)ドラマが始まる……。

彼ら彼女らは、試練に出会うと、それを否定します。
試練の方がおかしい、間違っていたのだといいます。
そして、ある極端なものたちは、現実に過度に絶望すると、ナイフで人を切ってみたりします。あやしげな超能力や魔法に走り、願ったり祈ったりするようになります。自分が主人公になれるドラマを、自分で作り出すために。
そうして、怪しげな神の絵を描いて、子どもや猫を殺す少年になったり、富士山の麓に秘密基地を作って、電車にサリンをまいてみたりするのです。
世界という存在のなかでの自分の「価値」を、周りの人々に知らしめようとして。

彼らは、自分が主人公になれない世界を、否定します。

ま、ここまで、極端に走らなくても、インターネットの世界で、「子ども大人」にであって、当惑することがあります。
なんの根拠もなく、自分の才能や自分の価値を信じている、非常に「痛い」お子さま(リアル子どもじゃなく年齢的には大人)たち。

日常生活なら、彼ら彼女らは、こちらと出会うことはないかもしれません。
でも、インターネットという、魔法の道具があれば、彼ら彼女らは、すうっとどこまでもとんでいけるんですねえ。
自分の心の、平和な世界から離れないままで、外にでないままで。大人の世界に入り込んでくる。
そうして、彼ら彼女らは、こちらに自分の物語のなかの、脇役(書き割り)となることを、強制してくる。

大人同士で、仕事の話してると、自分も首をつっこんでくるお子さまとかね。なんだか仲間入りして、わけもわからず会話に加わってるの。
だって、彼ら彼女らの心の中では、自分もいつか「努力」さえすれば「立派な人」になれると信じてるから、不思議なことじゃないわけですね。対等なつもり。
大体、彼ら彼女らの脳の仲の劇場では、何しろ自分は主人公なんだから。

大事なことが一つ。
これだけ忘れなければ、人は大人のふりができるってことがあります。
「自分は、自分の人生のなかでは主役で、世界一大切な人間だけど、ほかの人から見れば、価値があるかどうかわからない人間なのだ」ということ。「下手したら、なんの価値もない、その他大勢の人物でしかないと思われている可能性もあるのだ」ということ。
このことさえ忘れなければ、恥をかかないですむんですよ。

……ていうか、ここで引っかかって、人間関係がダメになってる人は、よくみるんだよね。
根拠のない自尊心は、人付き合いのためには、障害にしかならないんだよ。
ふりだけでいい、世間様に認められていないうちは、謙虚であるべきなんだ。

こういうこと書くと、「これは私のことかしら?」「それともぼくのこと?」と、どきどきする人々がでそうですが、そう。あなたたちのことです。
もし、思いあたるところがあるのなら、自分の真実に気づいてください。
もっと、現実を生きるようにしてください。
思いあたるけど、それは誤解だ、私は(僕は)そんな人間じゃない、というのなら、どうか、とりあえず、私のそばから遠ざかってください。
どこか、自分たちが主人公でいられる約束の地をめざして、旅だって下さい。

わたしゃ、子どものお守りは、もうあきた(^^;)。

#思い切り、英文直訳のようなテキストになってしまった(笑)。
ていうか、実はこれが、私の地の文体なんだよね。

#なお、今回の文章のもとネタになっているのは、ここ最近であった人々に限らず、ネットに登場して以来、私が出会った困ったちゃん複数についてまとめたものです。モデルはいっぱいいるんだよ〜。ははは(^^;)
みんな、頼む。現実を生きてくれ。



2002年04月09日(火) 神さまもどきの怒り

たまーに、というか、いつもいつも誤解されるんだけど、私は優しい人間じゃないです。そりゃまあ、きれいさっぱりと、そうじゃない。

そりゃ、困っている人がいれば手助けするし、弱っている人は励ますし、迷っている人は、導けるものなら、導きます。
でも、それは、自分が「痛い」から、ほっとけなくなるだけのこと。
私は、もうどうしようもなく、見ているものと同調してしまう人なのです。小さい子が、わけもわからず、周りの大人が悲しむのも見て、一緒に泣いちゃうのと同じ。本能的なものだから。脊椎反射だから。
そうして、「人として、弱者の味方でありたい」といつも思っているから、理性の部分でも、困っている人には手助けしたいと思う。

#んで、これは、こないだ森江さんに指摘されたけど、「強者には優しくない」。
だって、自分で生きていける人は、ほっといてもいいでしょう。
それと、強者に優しくするってことは、イコール強者におもねるってことだ。わたしはそんなの、死んでもしたくない。

もひとつ。友人知人が相手だと、優しくする優先順位が下がる。
うーん。これはなんていうかな。私のお友達は強い人が多いから、古い知り合いほど、窮状にあるのがわかっていても、ほっといたりしてしまう…。
私がいろいろいわなくても、大丈夫かな、とか思うのだ。
つまり、あまりよく知らない人ほど、気になって手をさしのべてしまう。
通りすがりの人に、一番優しいかもしれないです。

本当に優しい人は、母のような愛情で、相手を包む人だと思うのです。
相手を全肯定する愛。マリアさまのような、マザーテレサのような愛。
心の深いところから、あふれでてくる愛。
私のお友達数人や、そのお母様には、そういう人がいて、私はその人たちのことを思うとき、はあ、と、ため息をつくのです。
いつも愛されてばかりでごめんなさい。私にはみなさんに、みなさんがくださるようなかたちの、愛を返せません。

私の優しさは、愛ではなく、単なる同調だったり、理性的な親切だったり、時として憐憫だったりするので、あまりほめられたものじゃないのです。
だから、相手が弱い立場の人だろうと、「こいつは認められない」「間違っている」と、一度思うと、一転して、排除する側にまわります。冷たいもんです。

十代の頃、「あなたの怒りは、神様の怒りのようで怖い」と、いわれたことがあります。
そのときは、何それ?と思ったけど、今ならわかる。
私は人と深く関わらないから、頭に来たとき、相手と対等に喧嘩するんじゃなく、真上から見下ろして叱りつける、天誅になってしまうのです。
で、人間関係に未練がないから、冷静に、いいたいことをいいきってしまう。

基本的に、マジギレするまでに、ながーい、ながいあいだ、がまんしていたりするので、怒りのエネルギーはふつふつとたまっています。その間は、相手におだやかに接していることが多いので、相手は気づかないことが多いです。
「ここまで」と思うと、雷になって、地上に降りそそぎます。

傷付いた心に同調する思いも、相手を否定したあとではもう、回路が働きません。
私は、人を自分につなぎ止めたいという欲望を持っていないので、嫌いになったら、それきりさようならです。
よほど、誠意でも見せてくれないと、許しません。

だから。
だから、わたしを怒らせないでね☆ みなさん。



2002年04月04日(木) 本棚の謎のブレスレット

ええっと。仕事が忙しいので、あまりにも忙しいので、息抜きに日記書いています(笑)。<現実逃避ともいう

さて、先日、パワーストーンが好きだという話を書きました。
これは実は、「パワーストーン」などという言葉がちまたで使われだすよりも前から、じわじわしていたのです、石集め。それがこのごろ高じたわけで…。

石はいいですよ。きれいで、ひんやりして、見ていると心が落ち着くし。
お守りと同じで、持ってると、なんだか安心〜。
自己暗示でもなんでもいいの。私は石が好きなんだから。
でもって、結果的にいいことでもあれば嬉しいな、と思ってるし。持ってると、精神集中しやすくなるから、仕事もはかどるし。
一方で、「石があれば何もしなくても幸せになれる」とは思ってない。石があれば、いつもそばに友だちがいるみたいで、なんとなくほっとするけど、幸せになるのは自分の力。

で、まあ、私はもともとオカルト好きで、ある程度運命論者で、自分で占いもするアマチュア占い師ですが…。

実のところ、いわゆる「開運グッズ」は、あまり信じていない。
あ、幸運のペンダント、とか、そういうののことです。
いや、安いお札とか、お守りとか招き猫とか狐とかは、好きで集めてるけど。
雑誌に宣伝がでているような、あの手はもう、ぜんっぜん♪
だから当然、ツボ買ったり印鑑買ったりはしないです。

あのね、これは私の本の読者さんたち(で、万が一、開運グッズを信じてる人がいればね)に、強く主張したいんですが、高いものは買わないように。
…安いものは、自己判断で買ってもいいと思うけど(^^;)。面白いから。

金メッキの台に半貴石が一つ二つついただけで、○万円、のペンダントや指輪になるって、んなもん、どう考えてもおかしいでしょ? 原価いくらよ?
「いやそれは、幸運のアクセサリーだから、高いんでしょう?」
と、いう人もいるでしょうねえ。いやそう思える人は買ってもいいんだろうけど、わたしゃ、たとえば4万円の「愛のペンダント」を買うくらいなら、近所の石屋さんで、500円の水晶原石の小さいのを買った方がいいと思いますけどねえ。その方がよっぽど、心が安らぐよ。それに、水晶原石は、文鎮の代わりにもなる(笑)。

「でも、なんだか魔法の石がついているみたいだし…」
というあなた!
私の家に、雑誌に載ってた宣伝文によると「世にも珍しい謎の石」がついているらしい開運グッズのブレスがありますが、その石はどうみても、ただのインカローズ(ロードクロサイト)ですがな。そのへんの石屋さんに売ってる、ただの半貴石。
それが金メッキの台について、3万円くらいしたっけな? 石屋さんで買えば、まあせいぜい純銀の台につけても、2千円から高くて5千円でしょうに。

「開運グッズを信じてない」という私の家に、なんでこんなのがあるかといいますと、いつだったか、ちょっとお小遣いが余ったときに、買ったのです。
なんのためにって? もちろん酔狂で(笑)。あと、ネタになるかなあと思って。
それと、どんなものか一度実物を見てみたいという好奇心もあってねえ。

しかし、開運グッズ。

自慢じゃないけど、私は、物欲がない。金銭欲もない。出世欲もない。ハリウッドで女優デビューをめざしてもいないし、生涯の夢ももう叶ってる。素敵な恋人との出会いも、まあ、今はとりあえずいらないかなあ?
宝くじもあたるらしいけど、私は宝くじ、毎度しゃれで買うけど、そこまで熱を入れて当てたいと思っているわけじゃないんだよね。

こんなわたしの処にやってきた幸運のブレスレット…。

…あんまり張り合いがないんでしょうか、その後、とくにすごく幸運なことって、ないですね、はい(笑)。

ところで、この開運のブレスレット。
メッキの土台になっている金属が、なんだか重たくて、つけていると腕が疲れてしまいます。ので、ふだんは本棚に飾ってます。
ブレスレットの解説書(添付されてくる)に、「人によってはこのブレスレットをつけていると、腕がしびれるという方がいらっしゃいますが、それはブレスレットの持つ開運の波動の影響のせいで、じきになれます。」とかなんとか書いてあったけど、そりゃ単に、重たいからだろうと、つっこみをいれたくなったりして(笑)。

どうでもいいけど、あの、雑誌に載ってる、いろんな開運グッズの宣伝文。
どうして、どれもこれも笑えるのか。あれ書いてる人は、絶対、楽しいでしょうねえ。妙な写真作ってる人もね。
あんなもん、見るからに作り物の宣伝文、信じる人がいるのかと思ってたら、けっこうネットで、信じている人たちの存在をかいま見たりするので、おいおい〜と思います。
まあ、私も、オカルトには片足つっこんでるわけだから、人のこと、笑えないんでしょうけどね(笑)。

本棚に置いている開運のブレスレット。
宝くじ置き場(本棚の一角にあるんです)のそばに置いているんですけど(一応ね〜♪)、とりあえず、大金はあたらず、小銭は当たります。
…が。もともと、小銭は当たるんですよね、私。それを集めて、たまに猫缶買ったりしてます。

まあ、お金で買える幸運はないってことよね。



2002年04月03日(水) たとえば、お好み焼きの上のカツブシのように

今夜、さっき、某お友達から、ちょいと楽しそうな幸せそうなメールが来ました。

そいでもって、彼女の嬉しい気分が伝染して、仕事中だったんだけど、私、できたてのお好み焼きの上で揺れるカツブシのように、ほわほわ踊ってしまいましたね♪

まあ、そのあとの仕事のはかどることよ。
「アカネヒメ」は、伏線を思いついてたかたか書いちゃうし(読んだ人は泣けるぞう)、さがしていた(もうでてこないとあきらめていた)「マリリン4」(このあと執筆予定)の昔に書いたメモがひょこっとでてくるし。<かなり重要な設定を書いたものなのだ!

で、今は、実に気持ちよく、e−oneを立ち上げたというわけ。

今もまだ、伝染した嬉しい気持ちは、いっぱいに残ってる。
まだ踊れちゃうよん。真夜中だけど。

それでやっぱり思ったのは、私はこういう私で良かったんだな、ってことで。
自分に何かいいことがあるよりも、身の回りで知ってる人や知らない人が、幸せそうにしてるのを見たりきいたりしていて、いっしょに喜んで、それで、いいや。
いやもちろん、自分だって、幸せなのに越したことはないけど、人の幸せをきいただけで、自分も十分幸せになれる体質って、なかなか良いではないですか?
うん。少なくとも、私は好きだ。これでOK。私はこれで、多分正しい。

私は野良猫で、でも同時に、高い空を飛ぶ鳥で、だから街の人々のあいだに降りていって、みんなと深いところで愛し合ったり憎みあったりふれあったりすることはできないんだけど、でも、そんな自分でいいと思ってる。
もちろん、こういう自分なのは、心がどこか欠けているんだろうとか、健全じゃないんだろうとか、わかっているんだけど、でも、それでもこれが私だから。
こんな私だから、人を力づける物語が書けるんだから、だからいいんだろう。

…うーむ、こう書くと、なんだかナルシストな感じになっちゃうなあ。
ま、しょうがないでしょ、作家なんだしさあ。

でも、空を飛ぶ鳥は、同時にやはり野良猫だから、たまには路地も走るぞ。眠る人を見守りながら、幸せを祈りながら、夜明けの街を見ていることもあるぞ。なんだかんだいって、やっぱり、人間の街は好きだから、人に交じって、笑いあったり傷つけあったりしながら、仲良く暮らしていきたいような気もするぞ。

空を飛び続けるのか、地へ降りるのか、今はまだわからないけれど、とりあえず、今日の時点での私は、カツブシダンスを人知れず踊るのです。

#伊勢志摩のK・Kさま。お手紙と美味しいもの、ありがとうございました。
嬉しかったです。「アカネヒメ3」が終わり次第、お手紙書きますので、あと少しだけ、ほんとに、あと少しだけ、お待ち下さい〜。
菅野雪虫ちゃん、電話かけたい、ファックスしたいと思いつつ、なかなか連絡できないでごめんなさい! いろいろ話して盛り上がりたいんですが…。ちょっと待ってね。ファン研の新作、今日とどきました。楽しみに読みます。

うーむ。お仕事が多いのはいいんだけど、手紙や電話やファックスやメールを、友人宛の私用で使う時間が年々激減していくのは、ちょーっと、困るですねえ…。



2002年04月02日(火) 一瞬だけ、考えたこと

こないだ、ものすごく疲れていたときに、なんだか無性に、何もかも嫌になった瞬間があった。あれが、魔が差すっていうんでしょうね。

ええっと、それはね、どういうことかといいますと…。

私は、誰のためでもない、「自分以外の誰かを幸せにするため」に、物語を書いています。で、それは、人にほめられたくてやってることじゃない。純粋に、自分がしたことで、人を幸せにするのが好きなの。
それでもって、私は、「ファンの人たちへのサービスのため」に、ホームページを運営している、と。
掲示板に書き込んだり、チャットにでたりしている、と。

上記のことが、自分は楽しくないのか、と、いわれれば、それはもちろん楽しい部分もあるから、いろいろ続けているんだけどさ。

でも、なんだか…。
「あれもこれもそれも、人のため」って、じゃあ、私はなんのために生きているんだ?という想いが、ふと、心の底から突き上げてきたのです、一瞬。

私は、他人の幸せのために、生きているってことか?
それで、いつかは、人生、終わっちゃうのか?
ほんとに、いいのか、それで?

でもでも、ほんとに、それは、一瞬のことでしたけどね。
その後もちゃんと、仕事はしているし、掲示板に書き込みもしている。
たぶん、もうしばらくは、いろいろ迷わないと思う。
だってやっぱり、私はこの仕事が好きだから。
私は、こういう形で、社会に関わっていきたいから。
そうして、少しでも、世の中をいい方に変えていきたいから。

しかし、あれですねえ。
作家生活も、九年目の春になると、今まで迷いもなく続けていたことどもを、ふと、立ち止まって考えてみたりするものなんでしょうね。

つい、去年、一昨年くらいまでは、「私はこれで幸せだから」って、笑顔で、なんの迷いもなく、言い切っていたような気がするんだけど…。



2002年04月01日(月) 四月一日だけど…

なにかせっかくだから、エイプリルフールネタのうそつき日記を書こうと思ったけど、ほら私ったら、真面目だから、嘘なんてかけないも〜ん。<うそつき

冗談はおいといて。
このごろ、香水とともに、凝る度合いが増しているのが、石モノ。
そうです、いわゆる、パワーストーンとか呼ばれる、半貴石ですね。
私はもともと、招き猫とかお守りとかお札とかの縁起物が好きなので、その流れ&きれいなもの好き〜な心理で、石はいろいろ集めてます。

今一番凝ってるのが、インカローズかな?
ついでムーンストーン、アクアマリン、ラピスラズリ、ブルーレースアゲート、水晶いろいろ、アイオライト、トルコ石、ラブラドライトetc.

で、甲府にいくと、水晶を扱っている店(<注>水晶そのものは、輸入物も売ってるとかいう話。ただ、職人さんの加工の技術が発達しているので、いい品があるらしい、と、人からききました)が多いというので、さっき、友だちにメールして、近いうちに、「甲府に水晶を買いに行こうツアー」を決行することにしました。
甲府って、ブドウも美味しいんだったかな? するとブドウの時期にいった方がいいのかしら? 温泉あるかなあ? お料理はどんなのがあるだろう?
と、夢がふくらむ私なのでした。

でもまあ、今のところは、お仕事お仕事〜♪


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