2001年02月26日(月) |
2001年2月25日 |
長崎ペット霊園に、ペルシャ猫のランコの納骨に行って来ました。 納骨堂は、本堂(と呼ばれている部屋)の猫が好きそうな、隅っこの下の段。 「ランコの霊」と金色の文字で書かれた、かわいらしい位牌と、白い小さな水入れと、お線香たてと、お供えをおくお皿が用意してありました。 お水とお線香は、毎日あげてもらえるそうです。 部屋の祭壇には、いつもお線香があがっているのですが、一日に6,7回はお葬式があっているので、ろうそくの火とお線香の煙がたえることはなく、人々がいつも出入りするから、さみしいことはないでしょうと、霊園の人はいいました。
納骨堂の使用料が、四万五千円。 一年間の管理費が三千円。 これは実は、関東地方の相場よりはよほど安いのですが(本を読むと例であげられているのは、大概東京の話なのでわかること)、それでもこの金額を見て、「高い」とか「贅沢だ」とか「もっとましなことにお金は使うべきだ」と、いう人はいるだろうな、と思います。
でもまあ、私も家族も、これで気が済んだところがあるので、そういう意味では価値があるお金の使い方をしたといえるでしょう。 いわゆる「喪の儀式」の一つをすませたような気分です。 一匹の小さな猫でしたが、十年近くもともに暮らせば、それなりの人格もあった家族でした。存在感もあったし、彼女なりの主張もあった。 なによりも、十年分の思い出があった。 そんなのとさよならするには、「人間並み」の行事も必要なのです。
ランコがもし生きられるものなら、私にできる限りのことをしてあげたかった。 お金だって、持っているだけ使ってもかまわなかった。 でも、使いようがなかったので、その分のうちのいくらかが、供養のためのお金になりました。
ペット霊園の方々には感謝しています。 犬猫を自宅の庭にうめることが無理になってきたこの時代、弔うという行為を手伝ってくれる人々は必要なのですね。 納骨の日、何組かの家族が、なくなった犬や猫とお別れをしていました。 白い骨壺を抱いて、霊園の人は家族たちといっしょに歩いていました。骨壺は熱いのに、素手で大事そうに抱いてくれていました。
2001年02月24日(土) |
獣医学とかメダカとかインコとか |
今夜は、途中から「名犬ロシナンテの苦難」(だっけ?)を見る。 獣医大学の学生さんたちが主人公のこのドラマ、一見明るそうで、さりげにシリアスだったりする。さりげーに、「アニマル・アシステッド・セラピー(動物介在療法のこと。動物と接触することによって、人間の肉体や精神の悪い状態が改善されるという実験結果がありまして、老人ホームなどで犬猫を飼うことが始まったりしているのです)が」なんてせりふが出てくるし。 来週は、獣医学部の学生の怖ろしい試練、健康な犬で行う手術の練習、をやるらしい。……つくづく、シリアスなドラマだなあ。来週見ると絶対に落ち込んで泣いちゃいそうだから、見るのやめようかな(でも作家としては、そのモチーフをどう扱うのか非常に非情に興味があったりする)。 実際、動物を使う実習が耐えられなくて、獣医学部をやめちゃう学生は多いという話は、どこかで聞いたことがあります。 「動物のお医者さん」って、大好きなまんがなんですが、あれもさりげなく、「動物実験のあとの死体の処理の話」とかネタにしてあるんですよね。暗い話にはなってないけど。
生き物を使っての実習って、人間の医学部でも当然あるわけで、うちのいとこ(今は外科医)が、学生時代、「大学でメダカの鱗をはいで、それを顕微鏡で見る実習があるんだけど、メダカ、鱗はぐと死んじゃうから、女の子たちは泣くんだよ。だからぼく、代わりに鱗はいであげてるの」なんてことをいってました。 「いつかニホンザルを飼いたい」なんてことをいっていた変わったいとこです(笑)。このごろあってないけど、彼ももう四十代なのね。
医学でも、獣医学でも、「練習」とか「研究」のために、命を犠牲にすることがあるわけで、そのあたりを考えると、軟弱ものの私は、思考停止してしまいそうに悲しいんだけど、でも、まわりまわって、医学や獣医学の知識は、たくさんの動物を助けるわけだから、仕方がないと思うしかないのかなあとか、納得はしようとしているのですが。 が。 私はこの、「尊い犠牲」という考え方が大嫌いな人間だったりするので、結局は、思考はメリーゴーランド状態で、ぐるぐる回ってとまらないわけです。 「一粒の麦、もし死なずば」ってのは、麦本人が納得するれば美しい考え方なんだけど、誰かが麦を大地に無理矢理生き埋めにしたら、そりゃ美談じゃないと思うのだ。
実はここ数日、ぼんやりと、「生まれ変わったら獣医さんになるのもいいな」と思い始めているので、なんか頭の中が「獣医さん」です(笑)。 ま、生まれ変わりって、実のところさほど信じていないのですが。 あればいいなあと切望していますけどね。 本当に獣医さんづいているのは、夏さんの「獣医ドリトル」の影響かしら? あのマンガは、面白い上に、子供時代獣医さん志望だった私のハートをぎゅっとつかんで離さないものがあったりして。 いい職業ですよね、獣医さん。
今夜、ネットサーフィンしていたら、ある童話作家志望の方のサイトの掲示板で、「飼っていたインコが死んでしまったので、今夜公園に埋めにいきます」という内容の書き込みを発見して、しばらく呆然としていました。 その方ともインコとも面識はなくて、ただいろんな掲示板ですれちがっていただけで、ほんと、「友だちの友だち」クラスの知人の方なのですが。今夜だって、本当にたまたま、リンクをたどっていたらぶつかっただけだし。 でも、本当に悲しかった。 掲示板をさかのぼったら、インコの具合が悪くなりだしたころのことから順を追って書いてあって、「どなたかインコに詳しいかたがいませんか。何か情報を教えてください」なんて書き込みがしてあって。 それがほんの数週間前のことで。 ああ、と、私は思ったのです。インコなら私、ちょっとだけど知識があった。だって、猫飼うまではずっとインコを飼い続けていたのです、村山家は。少なくとも、病気のインコは暖めなきゃいけないとか、暖めるための方法とか、そんなのは知っていたのです。療養食の作り方だって。
もちろん、私がその掲示板を、インコの存命中によんでいたとしても、インコが助かったかどうかはわからないんだけど、それに大体、面識もないのに、いきなり書き込むのも変だから、躊躇したろうし、そしたら書き込まなかったかも知れないし、本当に今更こんなことを書いても、仕方がないんだけど。 でも、その人のインコ、できることなら、助けてあげたかったなあ。 助けてあげられなくても、いろいろ相談に乗って差し上げられたかも知れないなあ。 なんてことを、パソコンの画面の前でうなだれながら、思いました。 せめてひそかに、そのインコちゃんの冥福を祈ろうと思います。
明日はうちの猫の、納骨の日です。 別に納骨記念じゃないですが、「シェーラ9」に、「すごく美しくてかっこいい猫」をだすための知恵が浮かんだので、そーゆー猫(?)をだすことにしました。佐竹さんの挿し絵が楽しみなキャラクターになりそう。
今日の昼下がり、近所の公園に、捨て猫がいたのです。 猫にしてはめずらしい、柴犬みたいな色の猫。 それが、柴犬系雑種犬といっしょに、丸くなって眠っていた。
顔にサインペンで眉毛を書かれている犬は、公園の前にあるおそばやさんの店員さんの犬で、毎朝、いっしょに通勤してくる犬なのです。名前はサブちゃん。おだやかな性格で、公園の猫たちをおうこともなく、いつも公園でのんびり寝そべって、飼い主の仕事の時間がおわるのを待っているのでした。
犬に抱かれている子猫は、私の目には、生後二ヶ月くらいに見えました。 鼻がつんと長くて、シャム猫っぽい感じ。 毛色も日本猫風じゃないから、あきらかにまじってる感じ。 しっぽの長さは、ちょっと中途半端。 問題は目で、薄青色に見える目は、両目ともほとんどつぶっていたのでした。 病気の猫です。
でも、私の方を見上げて、「にゃあ」と鳴くので、家から猫のおやつを持ってきて、あげてみました。 おなかがすいていたのか、すごい勢いで食べました。 食欲はある。口の中もただれてはいない。 すると、重病ではないのかな? 寒さとストレスで目が開かないのかな?
うーん。 ここで私は悩みました。 拾うべきか、否か。 毎日のようにこの公園をのぞいて、「捨て猫いたら拾っちゃうかも」と思い続けて、どれだけになることか? あさってはランコの49日。納骨するまでは次の猫は家には入れないと骨壺に誓ってはいたものの、でも、もうほとんど、49日たつしなあ。病気の猫だし、これから天気が悪くなりそうだし、この猫、雨に濡れたら死んじゃうかも知れないし。そしたら、ランちゃんだって許してくれないかな?
でも問題は、今いる猫、レニなのです。 レニはたぶん、この猫を受け入れてくれるんじゃないかなと思いました。あいつはランちゃんと違って、猫や人間が好きな猫だから(なんだったかの猫の本に書いてあった表現を使うと、「空間をほかの猫や人間と共有することが好きな猫」という猫になるんだろ思います)。 ただ、もしこの子猫が、「不治の病」だったら。 猫エイズにかかっていたら。 うちの猫は予防接種は受けていますから、予防接種で防げる病気にかかってるなら、それなら、子猫はOKなんです。 でも、不治の病で、レニにその病気が伝染して、死んだりしたら、私はいったい、どうしたらいいんでしょう? 自分の落ち度のために、レニを死なせるということになってしまいます。
悩みながら、公園の近所にあるペット美容室さんに相談に行きました。 いやよく、猫関係で相談に行くお店なのです。 捨て子猫がいつ捨てられていたものか、情報も知りたかったし。 そしたら、「その子猫は知らないから、今日捨てられたんじゃないかしら」と、女性の店長さんはいいました。このごろ、大きいのから小さいのから、いろいろ捨てに来ているようだというのです。春は引っ越しの季節だからかなあ? 「今拾おうかどうしようか悩んでいる」という話を素直にして、そうして私はうちに帰りました。
ここで、「かわいそうだから、いろいろ考えずに拾う」という選択ができない私は、本当の動物好きではないのだろうと思います。 そんな自分がうっとうしくて、いやになります。 私はもっと、「動物的に」優しい人間でありたかった。 後先を考えずに優しい行動を選択できる人たちが、私は本当に好きなのです。
どんよりした気分で、悩んでいると、キッチンの窓から見える空は、どんどん泣き出しそうに曇っていきます。 子猫のことを、私は考え続けました。 いろいろと家にある猫の病気の本を読み直しながら。 こういうときの常で、暗い予想へと思いは向いて行きます。 もしかして、あの猫の目が、内科的な病気じゃなくて、目の病気やけがだった場合、最悪の場合は、眼球摘出なんてことになるのかしら、と思いました。その場合、手術のお金はどれくらいかかるのでしょう? 猫エイズの検査をしてもらうとして、結果が出るまでのあいだ、病院に入院させるのは無理なんだろうか? もし猫エイズだった場合は、すでに発病しているとしたら、安楽死をたのんだ方がいいのかも知れない…。
どっちにしろ、お金がかかるなあ。と思いました。 猫の病院代は保険がありません。底なしにお金がかかるのです。 一回おなかを壊しただけで、数千円から一万円かかるのが猫なのです。 手術なんていったら、いくらかかるんだろう? 宵越しの金が持たないのがモットーで、おまけに貧乏作家の私です。 銀行には、25日の猫の納骨に必要なお金と、月末に引き落とされるお金くらいしかとっておいていないのでした。
で。私はここで、P社に電話をかけました。 「ルルー6」のスケジュールについてのメールがちょうどはいっていたので、そのことについても話したかったし、ちょうど、「ルルー5」の印税がそろそろ入る予定だったので、具体的に何日に入るものか、知りたいと思ったのです。それに、ほんとに今月はいるのか、調べておきたくて。私は心配性なのです。 若き猫好き編集者のNさんは、いろいろ猫の話を聞いてくれた上、経理の人に振り込みの日を確認してくれました。 振り込みの日にちは、火曜日。27日でした。
それならOKだと思いました。 とりあえず、子猫の病気がなんだとしても、手持ちのお金で、治療は開始できる。27日にお金が入るとわかった以上、得意の話術(笑)で、後払いにでもなんでもしてもらって、徹底的に治療してやろう。 そして、もし、不治の病にかかっていたら。 そのときは、獣医さんにたのんで、この手の中で、安楽死を。 納骨堂には、ランコのほかにまだ猫が入れるスペースはあることだし。
そこまで考えて、春物のコートを着て、いつものリュックを背負うと。 これが気分が明るくなったのですね。 よし、やるぞ、ってかんじ。 ランコの代わりに、子猫を救ってあげるんだ、と、思ったのです。 ちょうど、その朝に、K社のH氏から、仕事がらみのことで、ちょこっとうれしい電話があったところでした。そういう私なのだから、猫の一匹くらい救う経済力も気力も体力もあるはずだ! そうでなければいけないんだ! 台湾の言い伝えに、「家に迷い込んできた猫は福の神で、その人に猫を飼うだけの財力があると思うから来るんだ」というのがたしかあったじゃないか! いや私の場合はうちに迷い込んできたわけじゃないけど、なんとかなるはずよ!
いやー。 そこまで盛り上がって、公園に行ったんですよ。 そしたら、もう、子猫はいなかったわけ。 犬のサブちゃんもいない。 えーっと思って、探し回って、ペット美容室へ聞きにいきました。 何か知らないかなあと思って。 そしたら、サブちゃんの飼い主が、子猫をいっしょに家に連れて帰ったんですって。めでたしめでたし。 まあたしかに、犬と猫と寄り添って眠るあのようすを見たら、あたたかい心の持ち主なら引き離せなくなりますね(^^;)。
私のような、心配性で、冷たい動物好きよりも、子猫は、サブちゃんの飼い主さんのところに引き取られて、幸せだったんだと思います。
今夜の長崎は、春の嵐です。 強い風が吹いて、ベランダの植木が枝を鳴らしています。 雨も強い音を立てて降っています。 子猫が公園で夜を明かすことにならなくて、本当によかった。 今頃は、こたつで寝ているのかな? それとも、おそばやの店員さんの腕枕で寝てるのかな?
ちなみに、美容室の人の見立てによると、「あれはどうみても、生後半年はいっている猫だと思う。雄でした」とのことでした。 うーん。私には子猫に見えたのになあ? レニが大きいから、縮尺が狂っているのかも?
私にとって、創作とは、無意識のうちに自分の傷をなぞる行為なので、それはとても億劫であり、腰が引けてしまう仕事でもあるのです。 同時に、「このために私は生きているんだ」と、毎回再確認できる、魂が浮揚するような感覚を伴う、神聖な作業でもあるわけです。
今、シェーラ9の構成を作りながら、これはどうしたって、人や生き物の生き死ににふれずにはいられない物語になりそうなので、気が滅入ってきています。 つい最近、猫が死んだことを思い出さなきゃならないし、ちょっと心の皮をめくれば、父親が死んだときの記憶だって、よみがえってくるのがわかってる。 いやな作業です。 でも、書かないわけにはいかない。 それが私の仕事だし、書くことによって、自分なりの「疑問」への結論が、とりあえずはできてくるのがわかっているからです。
人間はどうして、いつかは死ぬとわかっているのに、この地上に生まれてくるのだろう? そんなことを考える余地もなく、ただ水が高いところからこぼれてくるように、この地上へと魂は下ってくるのだろうか? 人の死後も、意識は存続するのだろうか? 存続するとしたら、それはどこへいくのだろうか? なんてことを、物語を構成しながら考えています。 いつも考えていることではあるんですが、照準を合わせて考えています。
もっとも、シェーラの世界は、「神様」のいる世界なので、そういう前提でしか(魂は存在するし、死後も人の意識は残る)生き死にについて書けないんですが、でも、それでも、そういう世界なりに、シェーラに、「人がいきるということの意味について」考えさせなきゃならない。 うーん。 今回はハードな仕事だ。
2001年02月19日(月) |
ドリトル先生とかいろいろ |
春みたいな暖かい日だったので、バスに乗ってちょっと外出。 海辺の例の複合商業施設を上から下までお散歩したり海を見たり。帰りは海沿いの道を歩いて、長崎駅に行って、キオスクでビッグコミック3月17日増刊号をゲット。お友達の夏緑さん原作の「獣医ドリトル」を読むためです。 うちに帰って読みましたが、やはり面白かったです。 これは、お友だちの欲目じゃなく、読者としても作家としても、面白かった。 よくまあ、あの短い枚数で物語を盛り上げて、キャラクターをたてて、読後感もよくして、なおかつ「獣医らしい」主人公を描けるものだと尊敬します。 それに、甘い動物好き(私もそうだけど)を一喝してくれる内容の重さと、さりげに読者を救ってくれる細部のスイートさの按配が絶妙ですね。
ミーハーな感想をいわせてもらうと(笑)、ドリトル先生って、すごく私のツボです(笑)。あれで、「不幸な過去」でもあった日には、もうドリトル先生しか視界に入らなくなりそうでおそろしい(笑)。ドリトル先生ファンサイトとか作っちゃいそうだ(^^;)。きゃー。
いかんいかん。 わたしは今日からシェーラひめシリーズの一気読みです。9巻は今までの総まとめみたいな巻なので、自分でも内容を読み返さなきゃと思って。 正直言うとめんどくさいけど(笑)、心の中の神様がそうしろという(笑)。 9巻のイメージソングはELTの新曲なんだけど、まだお店にはないんだよな、たぶん。困った困った。エンドレスで聞きたいのにな。
そうそう。うわさのテレビドラマ、「HERO」をやっと見ました。 第七話。なるほど、面白いですね。第一話から見ればよかった。 ああいう、地縁血縁のない人々が同じ仕事場でがんばるたぐいの話は好きだな。
2001年02月18日(日) |
通信講座とか、腹立った日記とか |
今日は、児童文学者協会の通信講座のお弟子さんの作品を読んで、感想をメールした。お弟子さんはルクセンブルク在住。といっても、もちろん日本人ですが、インターネットの時代でよかったなあと思う今日この頃。原稿もメールに添付で送ってもらえるし、パソコンの前に座って、一太郎で開いて読めちゃうもんね。原稿用紙を机の上に広げなくていいの。
通信講座、去年からのコースが私にとって初めての講師体験だったんですが、一作の長編を何回も書き直してもらってやりとりしているうちに、目に見えて作品のレベルがあがっていくんで、やりでがありますね。お弟子さんのセンスがいいのが、なによりもありがたいことじゃありますが。 今回は、私の都合で二週間くらいお返事を待っていただくことになってしまったので、申し訳なく思います。
…と、ここまで読んで、「村山は原稿の添削の仕事をしてるんだ。原稿を送っちゃえ」と思ったみなさん、はやとちりしないでね(^^;)。 あくまでも、日本児童文学者協会の仕事でやっていることですので、といあわせはそちらへお願いします。私個人は通信講座はやっておりません。協会から斡旋されてきたお弟子さんの指導をしているのであります。といあわせは、こちら。http://www3.ocn.ne.jp/~zb2001/zbktop.html 日本児童文学者協会の公式HPに、メールを出してくださいね。 って。今年度の通信講座の生徒募集はまだやってただろうか? 多分まだ大丈夫だったと思うけど、問い合わせるなら、急いでくださいね。
話変わって。 某あまり有名じゃない歴史小説作家さんのHPの日記で見た言葉。 「このごろ、猫煎餅をみるようになった。そういう季節なんだな」 みたいな内容の文章。 「猫煎餅」って、つまり、あれ? 猫の礫死体のことかな?
けっこう、むかつきました。 いやちょうど、うちの弟の日記で、猫を車ではねてしまっておちこんだ話を読んだばかりだってこともあったんだけど、「猫煎餅」とはひどい言葉だなあ。 既存の言葉なのか、その作家先生の造語なのかは知らないけど、公開している日記に軽い調子でひょろっと書かれちゃうとその方の作家としてのデリカシーを疑うわ、私。
まあ、猫嫌いな人はいるでしょう。 猫に興味がない人もいるよね。 そういう人にとっては、猫の死体は、ただの物体でしょう。 猫煎餅、とか、しゃれていえちゃうものかもね。 でも、それが、人間と同じほ乳類の、あったかい毛と肌をもった生き物で、ひょっとしたら誰か人間に愛されている(その人にとっては家族であるところの)存在のなれのはての姿だということを、ひょっとしたら、どこかでその猫の帰りを待っている家があるかも知れないということを、その作家さんは想像してみたことあるのかな? ないんだろうなあ。 猫そのものはどうでもいい人だって、せめて猫の飼い主であるところの人間が悲しむことがあるかもしれない、その飼い主に対する同情の念はもって欲しいものです。それとも、たかが猫が轢死したからと悲しむ飼い主を馬鹿だとかオロカモノだと思うのかしらん。 犬好きな人みたいだけど、「犬煎餅」って言葉は見ても平気なのかな?
その人のファンの人で、猫好きな人とか動物好きな人がいてその日記を読んだら、マイナス評価つけるような発言だよね、と思った私でした。ま、私、その人の本なんて、読んだことないし、日記の感じから、あまり好きなタイプの作家さんとは思えないんで、この先も読むことはないからいいんだけど。 ただ、もし何かの偶然で、この先、その人の書いたものを目に留める機会があったとして、私はきっと、そのたびに、「これがあの『猫煎餅』の作家さんの書いたものか」と、思うと思いました(笑)。 いやー、作家は迂闊なことをHPに書けませんねえ。 ね、猫煎餅のS先生。
リンパ腺の腫れをひかせるための、お薬とか、アレルギー関係のお薬とか飲んでるんで、とろけるように眠いです。 うわー。仕事にならない。 通信添削のお弟子さんの作品を、読まなきゃいけないのに。 「シェーラ9」の箱書きだって、作る予定だったのに。
これからお風呂入って、「ブロードキャスター」みながら、「姫椿」読んで、そしたらもう寝ちゃいそうだな。寝ていいのかな? 寝てもいいか。 首が腫れて痛いしなあ。
そうそう。さっき弟からドコモのメールが入ったのです。 「買うんだ、買うべきだ」と、催眠術のようにあうたびに繰り返して、洗脳して、ついに買わせたF209i。「取説が分厚くていやだ」とかいっていたわりに、今日はもう使いこなして、漢字交じりのメールを送ってきているではないですか? …やるなあ、弟。 来週、旅行先から実況でメールを送ってきてくれるというので、楽しみです。
2001年02月15日(木) |
山の上の友人のうちへ |
今日は、長いおつきあいの友人の家へ、パソコンのセットアップのお手伝いに行きました。漫画家やってる友人が、ついに、HP作成に乗り出すことになり、そのためにバイオを購入したのであります。 友人はバイト先で、マックにはなれていたものの、ウインドウズはろくにさわったことがないので、新しいパソコン見たさもあって、私はお手伝いにいったのです。
バイオは、型番忘れたけど、ほらあの、初心者向け仕様の、デスクトップタイプの丸っこいディスプレイの、あれであります。それに、エプソンのプリンタとキャノンのスキャナをセットで買っていたのでした。15万円でそろったとか。 友人は、極力お金を使わない、というポリシーを持って暮らしている人物なので、15万円も投資するなんて、よっぽどのことなのです。 実は「HPを作成すると絶対仕事上有利だから」とたきつけたのは私だったりするので、そのへんの責任感も手伝って、今日はかなり緊張して彼女のうちに向かったのでした。
山の上の彼女の家は、繁華街とは三度くらいは温度が違う感じでした。 朝から雪が舞う寒い日に、暖房はこたつしかない彼女の部屋では、話すたびに息が白く凍ります。「これきてね」とさしだされたはんてんを身にまとい、私は… なにをしたかというと、必要なものをチェックして、必要でないものを横にどけて、次になにをするか指図するだけだったりして(^^;)
でもこれは、考えてそうしたことだったんです。 パソコンを箱から出していろいろ接続して、電源いれて、登録して、ソフトをインストールして、って作業をやってあげるのは簡単だけど(ていうか私がやった方が早い)、それやると、彼女がパソコン怖くなって、さわれなくなっちゃうと思ったので、全部させたのでした。 それにほら、自分でやった方が感動するでしょう? 彼女は微妙にマックと扱いが違うとかで、たまに混乱したりしてましたが、なんとか作業をこなしてました。 結果的には、スキャナとプリンタを接続するところまでで、3時間くらいで終わったかな? ほんとはインターネットに接続するところまでつきあってあげたかったのですが、彼女がカードを持ってなかったので、オンラインサインアップはできませんでした。ちょっと残念。無料プロバイダをあてにしてたんですが、あれって、インターネットに接続できる環境じゃないとひょっとしなくてもサインアップできないんですね(^^;)。
途中で冷や汗が出たのは、スキャナのドライバをインストールしたあと、おまけのアプリケーションソフトをインストールさせてたら、途中で画面が真っ黒になってとまったときです。 あれは本当に、どうしようと思った。 自分のパソコンだったら、強制終了して、再起動して、もう一度インストールするな、と思ったんですが、私のパソコンじゃないし、ここは慎重に、友人にキャノンのお客様相談係に電話して問い合わせてもらいました。 電話通じるかな、と危惧していたのですが、友人の日頃の行いがよかったのか、一度で通じまして、係りのお姉さんの指示のまま、アプリケーションソフトのみを強制終了、そのあと残りを強制終了、で、セットアップが完了しました。
友人のバイオは、新製品でウインドウズMeが載ってるんですが、横で見ていてちょっとさわった感じだと、バイオもMeもすごく親切だなあと思いました。今回は使わなかったけど、ヘルプとかあっちこっちについているし(^^;) ああ、私も最初はバイオが欲しかった…。 でも、起動はうちのe−oneの方が早いもーん♪<おいおい
友人のうちの古い机の上に、バイオ君は、まるで昔からあったもののように、なじんでいました。本体の青銀色のラインが、きらきらしてきれいでした。 けっこう、どきどきしたけど、なんか報われた一日でした。
あとはインターネットに接続と、HP作成だ! がんばってね、まるさん♪
昨日の朝、やっと終わりました。 パソコンのAドライブが壊れてるんで、久しぶりに郵送しました。 なんだか、うちのe−oneは、じわじわとあちこちがたがきてますが(笑)、でもかわいい私のマシンなので、外付けのフロッピディスクドライブを買うつもりです。ちょうどパソコン屋さんのポイントがたまってるんで。 いずれ、サブマシンを買って、そっちに仕事関係を任せちゃおうかなとも思ってます。で、e−oneは、完全にホビー用にして……。 お金かかるニャあ(涙)。
で、「日本児童文学」の論文ですが、9枚という枚数が書き出してみると、やはり短くて、結局、酷評のたぐいははずしました。ほとんどほめている本ばかりのることになると思います。二冊だけ、気持ちきついこと書いたのもありますが。それはまあ、ちょっと目に余ったし、話題作だから私ごときが悪い評価を下しても、本人さんもショックは軽かろうということで。
しかし、下原稿というか、30冊分の読書マラソンの記録をこのまま闇に葬るのも惜しいので(笑)、HPにアップしようかな、ともくろんでいます。 ただ、掲載される雑誌が出たあとでないとさすがにまずいような気がするので、四月以降のことになりそうですね。 書評関係を読むのが好きな方は、期待しててくださいましね。
ちょっと微熱が出ています。 やっぱり疲れたかなあ。年なんでしょうね。 昔なら、これくらい続けて仕事をしても、なんでもなかったのに。 若いころは、38度、39度熱があっても、起きて原稿かいてたのに、今は微熱が出ただけで、具合悪くなってアウトです。情けない。
論文の原稿を、郵便局から児童文学者協会に送った直後から、また猫が死んだことを思い出して、街を歩きながら目がうるんだりして、危ない私です(笑)。 今まで忙しいから、心に蓋をしていたのかも。 そのぶん反動がきたみたいで、すごくつらいので、やはりランコの49日がすぎてから、猫を一匹飼うことにしました。昨日、ペットショップで、一匹だけ売れ残ってひまそうにしている猫がいるのを見てしまって、目が合ってしまったので、もし、49日すぎても、まだあの猫がお店にいれば、あれをつれてかえると思います。 いやべつに、野良の子猫を拾ってもいいんだけど、毎日公園に通ってるのに、こういうときにかぎって、捨て猫はいない。 いつも思うんだけど、「捨て猫は、拾えないときに限っている」という法則があるんじゃないでしょうか? 実は十年前に、ランコをペットショップ経由で手に入れたときも、最初は捨て猫をさがして、それでいなかったから、お店に注文してつれてきたのでした。 猫って、欲しいときはいないものなんですよね。
次の猫の名前は、もう決めています。 今度は中国語。実物がうちに来るまでは、ないしょね☆
しかし、ペットロスってつらいものですね。 私はけっして、「猫かわいがり」の飼い主じゃなかったし、「猫は猫」だとわかっているほうだし、まちがっても、「猫ちゃ〜ん♪」なんていうタイプの人間じゃないんですが、それでも、かなりつらいもんです。 猫がいた約十年の歳月を、がさっとえぐりとられた感じです。
小暮規夫先生という獣医さんの書いた猫の飼い方の本に、「猫が死んだとき」という項目があって、「悲しみが癒えたらぜひまた猫をあなたのそばに」というような主旨の文章がありました。 でも、「悲しみを癒すために」新しい猫を飼うという選択肢もありえるんだな、という気がしています。 お互いに幸せになるために、人と猫とが出会う、そんな出会いもあるんですね。 さて、ペットショップの彼女は、私と縁があるかな?
2001年02月09日(金) |
十二月出版の本は不利かもという話 |
ああ、今日も眠い。
15日〆切の論文ですが、2000年度の本の山を崩しながらノートにつけていった感想や、あいまに思いついたさまざまな分析、意見、そんなものがぼちぼちたまってきたので、あと三冊くらい読んだら、もう書き上げてしまおうかと思っています。
結局時間切れで手に入らなかった本が数冊でてしまいましたが、まあ話題作は押さえてるし、読めなかった本もあるということを明記しておけばいいでしょう。
で。今回のことを通して初めてのように気づいたのが、「12月に出版される本は損することがあるのかも」ということ。 評論家や、読書運動家の人あたりが、ある年の本についてレポートを書かなくてはならなくなったとき、それが翌年初めだったりすると、前の年の12月に出た本は、入手しにくいのです。 図書館に入っていないこともあるし、書店に行っても、マイナーな出版社の本だったり、作家がマイナーだったりすると、棚にない。 私もそれで、読めなかった本があるわけで。
評論だのレポートだのは、どんなに偉い人が書こうと、人間が書くものなんですから、手元に本がなければ書けないし、その本の存在そのものさえ知らないということもありますから、そうするといよいよ知らない本のことは書けない。 評論家や読書運動の人に存在を知られない本は、どの媒体でも紹介してもらえないから、損をする。うもれてしまう。
うーん。 シリーズ物の本以外の時は、なるべく十二月には出版しないで欲しいと出版社にお願いするしかないのかな? 上記のことは、眠い頭でぽやぽや考えたことですけどね。
わあ、今日は風邪薬効果で、眠いです。 もう、とろけるくらいにねむいぞ〜!
でも、書きたいことがあるので、日記を書く。
『地の掟 月の眼差し』&『象のダンス』読了。どちらも講談社刊。
『地の掟』はたつみや章さんの縄文時代を舞台にしたファンタジーシリーズの第二作。挿し絵が東逸子で、麗しいんだけど、先に読んだ友人が以前、 「仏蘭西人形みたいな縄文人だった」 といっておりました。 …いわれてみれば、そうかも(^^;)。お肌は陶器みたいだし。 すごくきれいなんだけど、違和感ありました。 縄文時代、という時代のもつ、ワイルドなイメージのせいだろうか…。
たしか昨日だったか、日記で「せりふが気に入らない」ようなことを書いたと思うのですが、最初から最後まで、その印象は変わらなかったです。 「縄文時代」というイメージが、なんだかせりふにないというか…。 みんな、サラリーマンか女学生(それも一昔前の)みたいな語り口調で。 せりふが多い物語だけに、そのあたりは、かなりマイナスな感じがしました。 あと、人名がなんだか不統一なのも、気になったなあ。 それと、擬音の使い方があまりにもストレートすぎて、わたしには抵抗があったかな。
もひとついうと、というか、一番気になったことなんですが。 「宗教」や「身分」に関する意識(主人公たちが持つ)が、なんだか、現代人とそう変わらなく見えたのが気になりました。 縄文時代の人の目には、もっと違う世界や違う人間関係が見えていたはずなのに、なんだか現代人が縄文時代を闊歩しているようで。 なんかなー。みんな「基本的人権」とか知ってるような感じがして(^^;)。 古代人はこんな繊細で理想主義者で、心優しい人種ではないでしょう? だって。現代日本人が知っている哲学だのなんだのが、まだ存在しない世界なんだから。存在しない概念を人は持つことはできないはずです。 もっとケモノのようにシンプルに、おおらかに生きていたんじゃないかなあ?
かなりきつい評価を書きましたが、「ああこれは私理解できない」と頭を抱えたのは、かなり、「美少年小説」ののりがあったところでしょう。 男の子同士抱き合うシーンや、男の子同士の友情のシーンが、あたかも異性同士の愛情を描写しているような濃度で描かれているので、読んでいて、違和感が…。 この違和感だけは…わたしはどうしても受け付けなかったというか。 こればっかりは、趣味の相違ということで、仕方ないのでしょうね。
あとは、本当の意味で「大人」のキャラクターが登場しないのと、でてくる男の子も男の人も、みんなすぐ泣いちゃうのも気になった…。 泣き虫な男の人は、個人的には苦手っていうのもあるけど、どうもそのあたりで、たつみやさんがかく男性キャラを好きになれないのでした…。 うーん。これも、趣味の相違、かなあ?
『象のダンス』(魚住直子・講談社) 新人さんの三冊目。 傷つきやすい15才の女の子が、タイ人の少女にであって変わっていく物語。
魚住さんは以前、雑誌で短編を拝読したことがあって、それはすごくよかったから、この本も期待して読んだんですが…。 なんかすごく、セオリーのまんまの話で、悪いけど、よんでて疲れました…。 とにかく、「不幸で孤独」(客観的にいうと幸福そうなんだけど、主人公の主観的には不幸)な少女が、世間からはみ出たものにあって癒されていく話というのは、もう読み飽きたなあ。 自称不幸な少女たちは、現実世界のふつうのお友達とのあいだでは、もう、幸せになれないのでしょうか? こういう設定の話を作るということが、作者自身がそれをもうあきらめているような気がして、ちょっと心が寒くなります。
今日は猫が死んで、一ヶ月目の日でした。 家の中はまだ、猫の形に、ぽっかりと穴があいているようです。
2001年02月07日(水) |
なんてことのない近況 |
うう。 ひさしぶりにアリナミンを飲んだら、気持ち悪くなっちゃった。 自分で買って飲んだんじゃありませんよ。ちゃんとお医者さんにいただいたのです。 数年前に具合が悪くなったことがあって、それきり飲んでなかったんだけど、せっかくいただいたし、まあ、久しぶりに飲んでみるかと思ったら、どつぼにはまりました(涙)。
…気持ち悪い。口の中、苦いし。 今は早く代謝されないかと、祈るように時間がたつのを待つばかりです。
読書マラソンですが、「悲しすぎる夏」(和田登・文溪堂)が、きわめてよかったです。戦前から戦後にかけての、軽井沢でくりひろげられる、少年少女の物語。 繊細な文章。はかなくも美しい水彩画のような物語。重厚な思想。さりげなく混ぜ込まれる時代設定の説明。 文学だなあと思いました。 作家さんも、年とって枯れていく人もいれば、和田先生みたいにいつまでもみずみずしくよい作品を書かれる方もいるのだなあと思いました。 お会いしたこと無い方ですが、いつかどこかでこそっとご尊顔を拝したいような。
一方で、今日から読むことにしている、たつみや章さんの本は、ちょっと私にはとっつきにくいかも(^^;)? 縄文時代の話らしいけど、縄文時代人が、
「わあっ、ほんとにきれいな目!」<(本文より)
なんて、せりふを吐くだろうか? いや、吐いてもいいけど、こういう文章で書くかなあ…。
実は、私のオフの友だちには、たつみやさんのファンがいないんですよ。 ネットでの友だちには、好きな人も多いみたいなんだけど。 私は以前、たつみやさんのデビュー作を拝読して、相性悪いなと思ったきり読んでなかったので、今度が久しぶりの読書なんですけど、今度はどうかなあ?
おもしろい本だといいなあと思っています。
あ、なんか性格わるい書き込みになっちゃったけど、でも、これくらい読書サイトによくあるきつめの日記に比べたら(^^;)。 ちなみに、今まで私が読んだ中で、一番怖い読書日記は、「幻想文学」の版元さんのサイトにあった日記です…。 あそこに、あの調子で書かれたら、私なら当分立ち直れなさそう。
それはね、虫でも病原菌でもない、花泥棒です。 素人園芸家の敵が、また素人園芸家であることの不思議。
うちのマンションの一階の、入り口のあたりに、小さな花壇のようなスペースがありまして、そこに十年くらい前、私はせっせと花壇を作ろうとしていました。 近くにあるお花やさんから苗を買ってきて、土と肥料をいれて、水やりをして。 すると。 植えたそばから、苗を抜いていくやつがいるのです。 翌日見ると、苗を植えたところに、ぽっかり穴があいているの。 いつのまにやら、幽霊のように、誰かが花をさらって行く。
植えたときには地味で、あとで華やかになっていくタイプの花だと、きれいになったな、と思ったとたんにやられます。 それも、根っこから抜いていく。 抜けないときは、腹いせのように、枝を折り、花をむしっていく。
近所の人々のあいだでは、実はうわさになっていました。 「この界隈には、花泥棒がいるよ」 「ほら、あの、新聞紙もって散歩しているお年寄り、あれがあやしい」 そんなふうに。 「ここで花作ったって、とられるばかりだから、やめときなさい」 そんなふうにいわれたことまであります。
で。 少ないお小遣いから花の苗を買うのが、私はだんだんばからしくなってきまして、うちのベランダにはびこっているゼラニウムをうつしたんですよね。 枝をどんどんさしていった。 すると、根付く前の枝をとっていくやつが出てくる。 それにもめげずさしていると。 やがて、ゼラニウムはもういらなくなったのか、花泥棒は来なくなりました。 そういうわけで、今うちのマンションの一階の花壇には、ゼラニウムがはびこっています(笑)。
しかしまあ。ゼラニウムだけというのもさみしいので、たまには、母の使った花材の残りなどをさしたりもします。そんなにして雪柳が根付いていたのですが。 今日。やられました。 つぼみがいっぱいついていた雪柳の枝を何本か、折りとられてしまった(涙)。
この悔しさは、園芸やってる人間じゃないとわからないでしょうね。 はっきり言って、私には、「美女と野獣」の野獣が怒り狂った気持ちが、よーく、わかります。 野獣にとって、バラの花一輪は、大切な宝物だったんです。 大事に守り育てて、花開く日を待って、やっとさいたバラの花。 それをおりとられた悲しさよ。 野獣は、バラの命のためにも、怒らなければならなかったのです。
ま、それはおいといて。 例の世田谷の猫殺しの屋敷の話なんですけど。 「庭に猫が来るから矢で撃った。猫が悪い」って、親子でいってるみたいだけど。 そこまでいうのなら、もっと庭をきれいに造れば? はっきりいって、テレビカメラに写る庭は、わたしには、少しも手入れされてない庭にしか見えませんでした。 あれだけの地面があれば、私ならいっぱい木だって花だって植えるのに。
それにしても。 「花泥棒よけ」の薬品って、どこかに売ってないもんでしょうか?
2001年02月05日(月) |
何かを糾弾するということ |
私が行き来しているあるサイトの掲示板で、ある出来事に対して、ある名前を伏せた人物のした行為を批判しています。 批判されている人物は、自分がそこで話題にされていることをおそらく知らず、なのにその人物に対して、人格を否定するような書き込みがつづいています。 (「ある」「ある」って、まどろっこしい書き方してるけど、ここでそのサイトがどこかわかるような書き方をしたくないので曖昧なまま書かせてください。なお、サイトの管理人さんには、今日メールを出したので、その方には自分のサイトのことを書かれているのだとわかると思います)。
私は、そういうの、いやなんだなあ。 よってたかって、ネット上で誰かを批判するというの。
いや、ひとりひとりが「批判」するのはいいかもしれないと思うのです。 単発でね。 でも、ひとつの(一枚の?)掲示板が同じのりで、ひとりの人物への批判一色に染められていくのを見るのは、たまらなく、いやです。
もし私が当該サイトの管理人だったら、おそらく、バランスをとるだろうと思いました。ある人物への批判へと、掲示板のすべての人の意見が傾いたら、対象とされる人物に味方する方へ。逆なら、批判を投稿した人物に味方する方へ。 すると私の意見はどうなるんだ? と、いわれそうですが、「作家村山早紀」の意見と、「管理人chayka」の意見は、違うと思うのです。 管理人は、自分の意見より先に、公の場であるところのHP(掲示板)で、「言論の暴力」が起こらないように気を配る必要があると思うのです。 そう。たとえ、相手がどんな悪人でも、その人に批判が集中する掲示板は、その誰かに安全な場所から、よってたかって石をぶつけているのと同じなのですから。
サイトの管理人には、その場の雰囲気を清明に保つ義務と責任があると思う。 そこがアングラサイトでない限りは。
…というのが、ネット歴一年のマスターchayka@村山早紀の意見です。
2001年02月01日(木) |
鼻づまりとかズッコケとかランコとか |
今朝は、目覚めるとき、すごくだるくて起きられなかったです。 なんか、鼻づまりでめがさめたし(笑)。呼吸困難で(笑)。 風邪のひきはななのかなあ?
朝起きて、洋服に着替えたいと思うか否かで、健康かどうかわかりますね。 今日は、寝間着から着替える気になれなくて、今もガウンを羽織ったまま、パソコンに向かっています。この日記を書いたら、お布団であったかくして、読書マラソンを続けるつもりです。
読書マラソンは(笑)、相変わらず、面白いのあり、つまらないのあり、という感じです。幸か不幸か私は、好きな本の趣味がものすごーく広い(これは私が作家として仕事をする上でも、売りの一つになっていますが)ので、たいていの本は、ちゃんと書けていさえすれば、面白く読めるのですが、たまに、「なんでこんなのが出版されたのかなあ?」と、出版社名を何度も見てしまう本もあったり(笑)。
そんな中で、昨日読んだ、ズッコケ三人組はやっぱり面白かったです。 実は生まれて初めて読んだズッコケだったんですけど。 どうもあの表紙の絵が苦手で、読まず嫌いだったのです。
でも、読んでみると、さすがに上手いですね。 さすが、那須先生。船を持ってるだけある(謎)。 文章も構成も手なれたものだし。安心してつるつる読めるし。 正直言って、文章(とくにキャラクターの描写)はいかにも古くて、これは秋元文庫のユーモア小説か、とか、何回か思ったりもしたんですが、それでも、読めるんですよねえ。いやはや。さすが、ベストセラー。初版X万部。
ポプラのベストセラーといえば、そういえば、昨日、香月日輪さんから新刊がとどいてたんでした。その話はまた、おいおい書きますね。
昨日、小峰書店のIさんと電話でおはなししていて、 「まずはお元気そうでなによりです」といわれました。 Iさんは、優しい人なので、猫のことで私が落ち込んでいると心配してくださっていたのでしょう。 でも、仕事の話をしているときは、猫のことは忘れてますから。
猫が死んで、あと何日かで一ヶ月経つということになります。 本当に、仕事のことをしているときは、忘れてます。 でも、ふっと心が空白になったときはいつも、思い出しています。 一時間に一回は思い出します。 やっぱり、悔やまれることも多いし。 もう一度、去年の年末からやり直せたら、と、思いますね。 そうしたら、今度は助けられるかもしれないのになあ。
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