西方見聞録...マルコ

 

 

ぎりぎりですが出しました。パブリックコメント 訂正記載あり(3月16日) - 2013年01月26日(土)

 本当にぎりぎりになってしまいましたが、早起きして書きました。朝鮮学校に対する就学支援金不支給を法制化しようとする省令案へのパブリックコメント。本日締切です。
http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=185000617

 この問題の背景に関してはこちらをご覧ください。
http://synodos.livedoor.biz/archives/1929030.html

 私のスタンスは前にも書きましたがこんな感じです。
http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=4157&pg=20101126

===========−パブコメ==============−

 改正案に反対いたします。

 海外における日本語教育、日本における外国人児童生徒への教育問題を研究する者として、朝鮮学校への就学支援金の支給を直ちに現行の法定の手続きに従って行うべきと考えております。

 多くの教育学者は外国にルーツを持つ少数派の子どもたちへの母語支援、母文化に係る教育支援の重要性を指摘しています(例えば、ジム・カミンズ、J・バンクス、中島和子、梶田正巳など)。梶田(1997)は外国人の子どもへの教育対応の土台に「アイデンティティの支援」を挙げ、その重要性を指摘しています。外国にルーツを持つ子どもたちへのアイデンティティ支援を公立学校の枠の中で行えないのであれば、民族学校の存在は大変に重要であると考えます。特に日本の朝鮮学校の2言語によるイマ―ジョン教育は4世代にわたってその継承語の維持、バイリンガルの輩出に成功している稀有な例として考えられており(中島2010)、長きにわたる朝鮮・韓国学校の言語教育実践は世界に誇る言語資源として評価されてしかるべきではありませんか。

 また朝鮮学校への就学支援金不支給の理由が朝鮮学校に通う子供たちの先祖の出身国である北朝鮮と日本国政府の外交上の問題に求められていますが、外交上の問題は外交の場で解決すべきであり、日本国内で育ちゆくわれわれ社会の子どもたちの教育権を侵害することによって解決は図れないでしょうし、そのような試みは正義に反します。
 
 太平洋戦争中、日本からの移民の1世2世はアメリカにおいて財産を奪われ、強制収容所に入れられましたが、その後、補償と大統領による公式謝罪が行われました。またその後アメリカの教育の場で「日系人学習」という教育カリキュラムが実践されています。これは強制収容された日系人を「共感的に理解」することが学習目標としてあげられ、さらに戦後の謝罪と補償のプロセスを学習し、「アメリカが戦争中の不正義をただし謝罪と補償という民主的な対応をしたことを知り、」「(生徒に)どんなときでも、憲法・権利章典およびすべてのアメリカ人の市民的自由を擁護するための責任を共有していることを考えさせ、理解させる。」ことを目標としているのだといいます。

 私たちもまた、民族教育という児童の権利条約(注1)で規定された権利を侵害されようとしている朝鮮半島にルーツを持つ子どもたちの権利を擁護する責任を共有すると考えます。

 世論は折に触れ傾きますが、政治が世論に流されず、正義を貫くことを期待します。第2次世界大戦後、ブラジルで起きた日系移民の勝ち組負け組の争いによって多数の死者を出した事件を受け、ブラジルでは日系人を危険な移民とし、排斥の世論が巻き起こったといいます。その折日系人排斥決議がブラジル下院で討議され50対50で賛否同数となり、下院議長に判断がゆだねられました。議長は「ブラジルは多文化の国であり特定の移民を排斥しない」と揺れる世論を収めたといいます。この時議長による正義の主張がなかったら、現在のような日本とブラジルの友好関係は築けたでしょうか。
 日朝の未来にどのような未来が広がるか、その架け橋となる子どもたちを私たちの社会が健全に育てることにかかっています。朝鮮学校を排除、排斥することに強く反対いたします。新政権の最初の仕事がマイノリティの弾圧だったというメッセージを世界に向けて発しないように、この国を愛する1市民として強くお願いいたします。

梶田正巳他1997『外国人児童・生徒と共に学ぶ学校つくり』ナカニシヤ出版

中島和子2010『マルチリンガル教育への招待-言語資源としての外国人・日本人年少者』ひつじ書房

(注1)児童の権利条約第29条第1項C「児童の父母、児童の文化的同一性、言語及び価値観、児童の居住国及び出身国の国民的価値観並びに自己の文明と異なる文明に対する尊重を育成すること」、同条約第30条「種族的、宗教的若しくは言語的少数民族又は原住民である者が存在する国において、当該少数民族に属し又は原住民である児童は、その集団の他の構成員とともに自己の文化を享有し、自己の宗教を信仰しかつ実践し又は自己の言語を使用する権利を否定されない」



3月16日訂正

さて、上記記述に誤りがありましたので謝罪して訂正します。

上記でも線で消しましたが、現在日本似るオールドカマーの在日コリアンの方はほぼ南部出身の方です。なので上述にあるように

「朝鮮学校に通う子供たちの先祖の出身国である北朝鮮」
というのは事実ではありませんでした。

終戦当時日本国籍を持っていた在日コリアンの人々は1947年、日本国籍のまま最後の勅令、外国人登録令で日本側が設定した朝鮮籍として登録され、「当分の間これを外国人とみなす」とされます。(でも国籍は日本なので教育は日本の教育を受けることが求められたりもします)。1952年に日本国籍が一方的に剥奪されたのを経て、1965年韓国と国交が樹立されたのを機に韓国籍への書き換えは可能になったけど、当時の韓国政府にシンパシーを抱けない人や、分断国家ではなく統一後の朝鮮籍を待ちたい人、北朝鮮を支持する人など様々な人が日本が設定した「朝鮮籍」という「地域を指す呼称記号」にとどまったということです。

この辺のいきさつは「歴史教科書『在日コリアンの歴史』」(明石書店)、徐京植さんの「在日朝鮮人ってどんなひと? (中学生の質問箱)」(平凡社)なんかでもくわしいです。


今日上野さんのこの記事を読んで、わたしもここの記述まずいよね、と思って直そうと思い立ちました。上野さんも「まずい」と、思ったら訂正しよう。マジョリティは基本知らないで済んでしまうことがこの世には多いのだから。だから、今日も知ろう、そう思う。


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対話がなくて、会話と対論がある‐「社会運動の戸惑い」を読んで - 2013年01月16日(水)

 


 ちょっと正月の読書記録。

 来年度はコミュニケーション論とかちょっとこれまで教えたことのない科目にチャレンジする予定なので、巷のコミュニケーション系の教科書に目を通して正月を過ごしていた。

 その中でふ〜んと思って読んだのが平田オリザの「わかりあえないことから―コミュニケーション能力とは何か」という講談社現代新書の本。この中でなるほどと思った箇所がある。それは2者の間で語り合うとき以下の3種類の「語り合い」の形式がある、と平田オリザが規定している部分だ。1つは「会話」、もう一つは「対話」、そして今一つが「対論」。

 会話とは特に意見の異ならない場面で2者が行う「おしゃべり」。

 対話とは2者の意見、価値観が異なる場合に行う摺合せ。AとBという意見が交わされて新たなCという意見や価値観が創造される可能性を秘め、対話する者は異なる価値観のものと出会うことで自らの価値観の変容の可能性を潔しとする。

 対論は異なる意見を持つ2者の間で行われ、AはBに敗れたらAに従わねばならない。Bは意見を変えねばならないが、Aはそれまでの意見を変えない。いわゆるディベート。

 で、今、上記3つのコミュニケーションのうち多様な考え方の人々が暮らす近代以降の民主的な場所では「対話」の力が非常に重視される、と平田オリザは指摘している。

 確かに身の周りを見回しても会話と、時々対論は見られるけど、新しい価値観を生み出そうとするような実のある「対話」ってのは確かに難しいだろうな〜と思う。


 上記の平田オリザ本と平行しながら『社会運動の戸惑いーフェミニズムの「失われた時代」と草の根の保守運動』(山口智美、斉藤正美、荻上チキ著、勁草書房)を読んでたんで、本日は平田オリザの規定した会話、対話、対論の3つのコミュニケーションをキーワードに「社会運動の戸惑い」ちょっと感想をまとめとこうかなと思う。つまりここからが本題。前置きが長いね〜。すまないことです。

        *    *    *    *

 2000年代初頭、男女共同参画条例の策定をめぐって行政側の審議員メンバー入りしたフェミニズム系研究者と草の根の保守活動家の党派的対立が起こっている、とその場にいた人に認識されていた。そこでは互いをフェミナチ(保守からフェミニストを呼ぶ蔑称)、バックラッシャー(フェミから保守派を呼ぶ呼び名)と名付け、それぞれを恐ろしく悪魔的な、そして全国規模で組織化された存在と過度な恐れを抱いていた。そこには2つの党派に分かれた、果てしない対論しか存在せず、自らの党派向けの言葉ばっかりが研ぎ澄まされていく。

 で、著者らは著名な対立の起こった宇部市、千葉県、都城市の男女共同参画条例の作成現場、福井の「ゆーあい福井」の図書隠匿問題などの事例を取り上げ、それぞれの論争にはだれがかかわり、どういう展開をたどったのか明らかにしていく。

 私はこの本に期待してたのは「党派を超えて、こっちの人もあっちの人も悪魔的に相手を仕立てあげてた世界観の誤りに気付けるような、そんな対話のきっかけを切り開く本なのかな〜」ということだった。で、期待通りフェミ論者向けには割と厳しく、ここが間違ってたよ!と指摘してる。大沢真理の「ジェンダーフリーの誤訳」とか「中央集権的な女性解放の教えの伝導(キヅカセ)」(ひいては外国文献からの言葉の移入)と地域でのディスカッションの不足、とか「上野先生、福井の事例は著者の表現の自由論争に逃げたために、地域で読まれるべき男女共同参画の本とは何か、という対話を展開するまたとない機会を逸してしまったよ」とかなかなか舌鋒が鋭い。こうしたフェミ業界への批判的な検討から新たな「対話」が生まれる可能性を感じる。

 でも草の根保守を支えてたみなさんとはインタビューで「会話」が成立したのは分かったけど、それはおしゃべりの「会話」であって異なる価値観をすり合わせるような「対話」になってないようにも思う。インタビューの現場でも突っ込んでもいいし、それを本の中でもっと展開させてもいいのにと思われる突込み不足箇所がいくつか気になった。
 例えば、ジェンダーフリーバッシングの立脚点となった「フェミニストの望む極端な世界」の虚構性だ。これはもっと実証的に検証してもよかったのではないか?男女同室着替えがジェンダーフリー教育の一環として行われたなんてのは虚構だし(単に教室数不足だったという話だったよね)、著者がインタビューした世界新報、日本時事評論が生み出した虚構はその後長く保守派の反動行動の論拠になっていく。著書の中でも「なぜ極端な事例ばかり取り上げているのか?」質問する場面があるが、「議論をセンターに持っていくためにあえて極端な論を投げかけた(とくに保守派の議員には)。」というぬるい問答で済ませている。その極端なレトリックをマジに信じてしまっている人が現在総理大臣になってしまっている現状を考えると、その検証はちょっとぬるいんじゃないかい?と思った。(安倍幹事長(当時)がジェンダーフリーはポルポト政権を髣髴とさせる家族破壊を目指す共産主義者が喧伝している、とか2005年の「過激な性教育・ジェンダーフリー教育を考えるシンポジウム」でオオマジに言っちゃってるっていう話がこの新年のGSMLで流れてきてたよね)。

 この「ジェンダー論議をセンターに引き戻すために投げかけた」極端な事例(虚構も含む)が、どう波及して、途中、妄想にジャンプしながら実際の地方政治に影響を与えたのか、もうちょっと検証してページを割く必要性を感じた。実際、千葉や都城ではジェンダーフリーはフリーセックスと同じことなのです(p.123)」とか「ジェンダーフリー推進論者の3段階計画(p.172)」があって、男女共同参画がフリーセックスコミューン建設を究極の目的にしているなんて、激しい妄想ジャンプが観察されるのに、そこへの論評がもうちょっと突っ込んでくれてもいいのにな、と思った。つまりその妄想ジャンプを現実のものととらえちゃってる読者層にも対話のきっかけになるような本ならばいいのにと思ったのだ。だけど、やっぱり妄想を妄想と感知できるフェミ読者層しか読者として想定されてないってところが、ちょっと残念である。

 また、保守的な地域の中央への抵抗の物語として宇部の事例は語られるけど「地方」ってのはそんなに一枚岩なのかい?ってのも、「地方に生きる一婦人」であるところの私としては感じるところ。
 男女共同参画条例があっても、なくても、あんまり実生活に影響はないって言っちゃってるけど、そうかな?今回この本を読んで私の住んでる町の男女共同参画条例を見たけど、まあ全国的に普通にある保守反動でないバージョンの男女共同参画条例だった。で、地方で地域活動してれば、それはそれで日常的に反動なわけよ。たとえば小学校のPTA役員の会長は男で女は平会員で、しかし平会員が実働を担うとかね。そういう反動に出会ったとき、それって条例違反だぜ、って思えるだけでも心に希望は湧くのよ。なので絵に描いた餅であっても進むべき道が条例案で示されてるのって、私は大事だと思う。宇部バーションの条例だったら、地方の生活現場で反動に出くわしたら本当に絶望すると思うわよ。


 保守側に関しては、ただその動きをなぞっているだけで、あまり対話が開かれる可能性が感じられず、残念。でもフェミ論者の特に偉い先生たちに鮮明に反旗を翻したという点は「新たな対話」の可能性を感じる本でした。

 党派を超えて「対話」を開くような研究ってのは、難しいんだな、ということをしみじみと感じました、自戒を込めて。
 


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おK、一人勝ちの奈良公園 - 2013年01月02日(水)

さて、この日は奈良公園に行きました。あめでおさんのiPHONEの更新時期だったので新しいのに変えて古いのを格安料金で1号さんが春から使用できるように手続きを取るのが、まあ目的です。1号さんも3が日は受験勉強を休んでゆっくりすることにしてたのでiPHONEにつられて大喜びでついてきてくれましたよ。

で、午前中、あめでおさんと1号さんはSOFTBANKショップに行っちゃったので、私とおKさんはもうすぐ閉店しちゃう奈良ビブレの閉店セールやビブレ地下の巨大書店の啓林堂で時間をつぶします。あ〜この規模の本屋って奈良にないのに終わっちゃうのか啓林堂、、。

で、昼ごはんはいつものバイキング料理の花小路に行って振る舞い酒なんかもらっちゃいました。正月だね〜

さて午後はおKちゃんの時間ということで、奈良公園の鹿にドングリを上げに行きました。




奈良公園の鹿は基本鹿せんべい大好きですが(鹿せんべいは鹿愛護協会の運営資金になりますので、鹿せんべいも我が家でも3回に1回くらいは購入します)、家から持ってたリンゴの皮とかも喜んで食べます。マルコはあんまりマメじゃないのでこのお土産食材を持っていくのを忘れちゃうんですが最近奈良公園の鹿はドングリが大好きということを発見しました。奈良公園の鹿、ドングリで検索してみると、鹿愛護会でも病気になって病気の鹿用の施設(角切所のところにあります、広くて快適な施設です)ではドングリを上げていることがわかりました。そして奈良公園にはドングリがいっぱい落ちているのでそれを拾って鹿さんに上げます。




 ドングリは鹿も自力で拾って食べているので、鹿がいっぱいいるところではすでに鹿に食べられていて、ドングリだ!と思って拾ったら鹿のふんということもあるのでお気を付けください。





 で、たいてい鹿せんべい好きな鹿とドングリ派の鹿がいるようなので、どの鹿もドングリをむふぉむふぉ食べるわけではないようです。おKさんの観察によると老人の鹿ほどドングリが好きなようで、おKさんが差し出すドングリに関心を示さない鹿をおKさんは「世間がわかってない鹿」と評価していました。でこの日は上記写真のようにものすごい人出でしたので、鹿せんべいを鹿に上げる人で奈良公園はいっぱいです。そうすると鹿はちょっと鹿せんべいに飽きてしまったようで、ドングリをさしだすおKさんに人気が集まってました。




 これは東大寺ミュージアム。ミュージアムは有料ですが、無料スペースに喫茶店とお土産物屋があり、さらにきれいなトイレがあります。このトイレは現在の奈良公園のもっともすぐれて、きれいで快適なトイレだとマルコは認定しています。




 とにかくものすごい人ごみですが、さすが世界最大の木造建築東大寺大仏殿、どんだけ人を飲み込んでも中はゆったりしています。しかしこれだけ人がいると友達もいるんじゃないかと思ったら、、いました!某神戸の甲小学校のALTのT先生に会っちゃいましたよ!奥さんとアメリカから遊びに来ているという弟さんにも会えました!さすがシルクロードの終着駅、世界の人は奈良を目指すねえ(違)。




ちょっと通り雨が着た後に、出た虹。

今年も良い年でありますように。


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正月フリースタイル - 2013年01月01日(火)





あけましておめでとうございます〜

今年は1号さんが一応受験生なので(特に何もやってないんですがまあポーズ的にね),東京の両実家へのアルカイックスマイル嫁仮面、婿仮面着用での顔見世興行は今年はお休みにして、斑鳩でゆっくり過ごすことになりました。そんなわけで元旦の朝から走りに行っちゃいましたよ。




基本、休日の料理はあめでおさんが担当なので正月料理はあめでおさんが以前から担当してたんですが今年は途中で旅行もないのであめでおさんがカレーとおでんを大なべで作っておでんを煮しめ代わりに、カレーはおせちの箸休めに隔日で登場させてました。あとは生協で半製品のおせち料理を買ったり、年末にエルザさんが送ってくれたハムを切って並べて、はい出来上がり。お雑煮は前半(1日・2日)はあめでおさんの心のふるさとの三重風の赤だし味噌のお雑煮を制作し、後半(3日・4日)はマルコ制作の澄まし汁に青菜と鳥のお雑煮を用意しました。

でもお友達がおいしそうな「てづくり」おせちを用意しているというFBやMIXIの発信に触れ、3年後の1号さんの大学受験時は私ももうちょっとてつくりおせちとかやっちゃおうかなとほんのり反省しました。







そんで家で正月の家族写真を撮ったのち、お昼から法隆寺に初詣に行って、地元人も愛用の門前茶店「志村」で塩うどんと柿の葉寿司セット(マルコ)、茶がゆと柿の葉寿司セット(あめでおさん)、かつ丼(娘ら)を食べました。お正月は毎年大移動で大出費なのですが今年はそれがないので、気前よく外食もしちゃうのでした。

 で、この日の夜ごはんはカレーでした!核家族正月って自由だ!毎年だと飽きそうだけど、3年に1度くらいめぐってくる分には大変によし。




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