アンジェラ様と鶴橋コリアンタウンをいく - 2012年03月26日(月) 本日は、なんと光栄にもアンジェラ☆ツアーズ代表のアンジェラ・フォックスさんのお誘いをいただき、鶴橋にて開催されました大人女子会に参加しました。 まずはがっつり焼肉を食べ(うまい〜)、 そんでアンジェラさんが入手した地図を広げて、観光客っぽさ全開に、たくさんある小路をあるきます。食材屋さん、洋服屋さん、それから韓流ショップではKPOPスターのグッズが手に入ります。今度少女時代&KARA愛好者の娘X2を連れてこようと決意いたしました。 アンジェラさんに教えていただいたところによると、ヘバラギとは日本語でひまわりだそうでございます。 街角にはお地蔵さんもいます。このお地蔵さんって、、和風だよね? そんで駅前の鶴橋市場から歩いて10分のところにあるコリアンタウンにも足を伸ばすことにしました。ここも美容品店や食材屋さん、韓流ショップと、そこはツボです〜!みたいなお店が全開ですので、今度経済的に豊かなときに散在限度額を設定してまた来たいです。 ここではホットックが街角で売られてたので100円でかい食べ歩き。あまりのおいしさに家の子らにもお土産に購入しました。激馬です。 最後に韓国風の喫茶店で五味子茶をいただきました。そのお店では喫茶店の店主さんと常連さんたちで詩の朗読会の準備会合が隣で行われていて、虎の穴はどこにでもあるって言うか、さまざまなソーシャルキャピタルが生成されてるな〜とか感じ入りました。 アンジェラさんは旅行会社代表なのは妄想で、その正体は内緒ですが、ガチでリアル学友なのでそっち(研究)方向の話しもたくさんして、D論準備中の一番大変だけど充実期間のアンジェラさんの言葉はちょっとやさぐれ気味の私には大変刺激的でした。刺激を受けついでに、鶴橋から帰宅して夜9時に眠ると、次の朝、3時起きを久しぶりにして、脱稿したまま、私のやる気とともに苔むして転がってた投稿論文をビンタしてたたき起こし、引用文献と注と英語要旨整えて、複雑骨折してた結論も無理矢理座らせて、朝子どもが起きてくる前にメールで投稿しちゃいましたよ。 つうわけでやる気をたたき起こすには遊びは必要だ!と実感した鶴橋漫遊でした。 あと、「ネトウヨ様とリソース配分」「英語に訳すの超困難(フジテレビデモ)」「とどめはささない、真正面の大事さ」「本論まであと何マイル?」「フィフィ様に見る朝鮮学校<無償化>問題のミッシングリンク」とか「母の普通ごみ」「ツイ友錯綜」など様々なトピックが語り合われました。 アンジェラさんを次回平常心オフにご招待したいと思いました。 東京の老母と私のために購入した美顔パック。東京の老母にとっておけずに全部自分で使っちゃったらやはり龍になるのか。 ... ベルリン1945 - 2012年03月23日(金) この日はおとなりの夕焼け番長のRちゃんが家の鍵を忘れて家に入れなかったので我が家でお昼ご飯から夜まで滞在してました。その間おKさんは学童のお別れパーティだったり体操教室に出たりしたので、もうひとり小学生女児のご近所かぎっ子同盟のMちゃんにも家にきてもらって小学生女児シェルターみたいに過ごした1日でした。 まあそんな平和な一日なんですが、今日の日記は「ベルリン1945」の感想です。 前回このベルリン三部作の第2部ベルリン1933の感想を書きましたが、これはその後日譚にあたります。 前作ではナチスがいかに勢力を伸ばしていくのか、労働者1家の次男坊ハンスの眼を通して描かれていましたが、1945ではナチス崩壊前夜から崩壊後にかけて、激しい空襲とソ連軍の侵攻を背景にナチスへの幻想に敗れたベルリンで、人々がいかにナチスの支配した12年の捉えるのか、ハンスの姪エンネの眼を通して描かれます。あるものはナチスを信じる事を選び、あるものはナチスに抵抗したがゆえに辛酸をなめ、まったく異なる12年間をすごした後の、解放(?)後のベルリンでの人々の議論は戦争の被害と加害、そこへの個人レベルでの関与と責任をどう捉えるべきか、もう全然収拾つかない状態で、これまた現代の日本に通じるたくさんの言葉が語られていました。 とにかく1945年の激しい空襲とソ連軍の支配下でベルリン市民は筆舌に尽くしがたい苦難をなめますが「この火はドイツが外国に持ち出した火が帰ってきたものなんだ」というやりきれない哀しみ。 そしてナチスを信奉していた妹と強制収容所から帰還した兄の激論(pp.558〜561)が描かれます。「私たちがナチスを信じたのは間抜けだった、そんなひどいことをしていたとは知らなかった」という妹に兄は「お前達がささやかな得をして喜んでいた頃、他のところではとんでもないことが起こっていた。お前達は知ることが出来た。ただ知ろうとしなかった」と突き放します。そこにドイツ軍兵士として戦地で戦い、帰還した年弱の弟が「学校でなにを叩き込まれたのかわかっているのか?親が子どもに真実を言えずにおびえていたのを知っているのか」と突き放す兄に反論します。そこへ、12年間を生き延びたユダヤ人の登場人物がユダヤの黄色い星を胸に当て割って入ります。「真実を見たいと思えば見えたはずよ、毎日ね。この黄色は簡単に見落とせる色じゃないわ」と。 ナチスがやばいかどうか、ユダヤ人を同じ人間とみなしていたのであれば1933年の時点でわかったはずだ、ということが強烈に示されます。 ある人々の人権を制約して当然と考えているかどうかというのは、その政府が歴史的批判に耐えられるかどうかのひとつの試金石になる、と思いながら読みました。今の日本におけるユダヤ人は誰でしょう?教職員等、組合活動をしている人々?国際的に認められている民族教育の権利を文科省と大阪府と市に否定された在日コリアン? ベルリン1919、にも行っちゃおうと思います。 ラストのニュルンベルグ裁判時のゲーリングの言葉を引用して筆を置きます。 「指導者の命令に従うように仕向けるのはいつでも可能だ。それは至極簡単なことだ。攻撃されたと国民に伝え、平和主義者のことを愛国心に欠けると非難し、平和主義者が国を危うくしていると主張すれば事はすむ。この方法はどんな国でも有効だ」 ... サラの鍵 個別を見ること、出会いがもたらすもの - 2012年03月14日(水) サラの鍵を観てきました。 ちょっとネタバレを含みますので、まだ見てなくて今後観るおつもりの方は他のページにGo! さて、本作はドイツ占領下のフランスで、フランス政府と官憲によるユダヤ人の迫害という「埋もれた歴史」を発掘する現代のジャーナリスト、ジュリアがその取材の過程で[サラ]という60年前のあの時代を駆け抜けた一人の少女と出会うの物語です。 悲しく後ろめたい過去を知り、過去と向き合うことの難しさ、しかしそれでもサラの経験した<真実>を知り、なかったことにせず、覚えて、未来へ語り継いでいくことの尊さが強く発信されていました。 私が心に残った点を<個別を見る><出会いがもたらすもの>という2点に絞って以下にまとめてみたいと思います。 <個別を見る> 作中のヴェルディブ事件の記録を編纂しているホロコースト記念館の老人が語る「わたしは統計の数字でしかなかった犠牲者に顔と名前を与えている(ちょっとうろ覚え)」という言葉が私には鍵でした。 サラが収容所で看守に「ジャック、私はサラ、サラ・スタジンスキー」と名乗った直後、看守は思わぬ行動をとります。その場面で私は昔聞いた「塊で○○人と思っていると差別が起きる。具体的にその人と出会って、名前と顔を知って、○○人じゃなくて○×さんという個人と出会うことが大事。そういう出会いの場を作ってきたのがこの15年の活動」という、神戸の震災以来外国人支援をしている市民活動家の方の言葉を鮮烈に思い出しました、 、、って市民活動家ってFMわいわいの日々野さんですな。もう名前言っちゃえ。とにかく、震災直後から多言語放送で地域の外国人住民をはじめとするマイノリティの方とその他の住民の出会いの場を作り続けてきた日々野さんの言葉を思い出しました。 ユダヤ人という塊で収容所の子どもたちを認識していた看守がサラ・スタジンスキーという名の1人の少女に出会うことで、「正気に返る」様子が描かれます。 [サラ]の名乗りのシーンは他にもいくつか印象的な場面がありました。多様なカテゴリーに属しながら、しかしそれぞれの顔と名前を持つ人との鮮烈な出会いをどれだけ経験できるか、それがあるカテゴリーの人々に対して差別的な視線を持つ人に変容のきっかけを与えるのではないかと思いました。 <出会いがもたらすもの> ホロコーストの犠牲者はみな自分や家族の心配をしつつ、その道の先に何があるのかうすうす恐れつつも、強制収容所への列に並び、やがて悲劇を迎えました。しかし、サラは強制収容所に向かう列の中で、自分が機転を効かしたつもりで納戸に隠してきてしまった弟を救出したい、その一心で行動します。そして弟の命を救いたいという彼女の祈りと行動が「看守」、「デュフォール夫妻」や「テザック家の祖父」といった人々と鮮烈な個別の出会いを果たさせ、彼らの運命を変え、サラの運命も変えます。 そういったサラの埋もれた歴史を、時に、周囲と不協和音を響かせつつも発掘するジュリアもまたサラの軌跡を追う中でサラと出会った人々と出会っていきます。そうした出会いが「ユダヤ人」あるいは「戦争協力者」に対するマスターナラティブ(全体社会の支配的文化で語られるストーリー)やモデルストーリー(あるコミュニティで流通するストーリー)を超えたところにある個別の生に触れることを可能にします。 どうしてジュリアはフランス人でなく、アメリカ人として造形されたのか、とずっと思ってたのですが、おそらく数字だけ残して埋もれようとする歴史と向き合うのはその歴史の当事者性の高い人だけでなく、すべての人に求められる営みだから、なのかな、と今は思っています。 数字だけにされようとする歴史は、本当にいたるところにあり、私たちは数字ではなく、そこに生きた人々と出会い、その出会いを後世に伝える方法を考えなくてはいけない局面に立っているのだと感じました。 サラの鍵は見る前も見たあともいろんなヒトと感想を語り合っています。 私はこの映画をみとこう!と思う動機になったブログを最後に紹介しておきます。→ワッタ☆ガッタリ ... 異世界と交信しているヒトを観る - 2012年03月09日(金) 草間弥生展が国立国際美術館で行われているので行ってきました。 なんちゅうかね。そこは異界だ〜♪って感じで中島みゆきっぽく歌って正気を保ってLet's Go。とてもたくさんの方が観に来ていて、いつも他人を気にせず観る事の出来る(まあ他の言葉で言うと割りと空いている)国際美、本日は人気でした。 しかし異界構築度の高い作家さんで、作家さんは異界と通信している感じでした。 ちょっと樹木希林に似てますが、御年80歳を超えてあふれ出す創作意欲をキャンパスに描き続ける氏の品群はアボリジニ作家のエミリー・カーメ・ウングワレーの作品群を彷彿とさせました。 中は撮影可の場所が何箇所かあります。でも私はカメラもって入らなかったので、出口出た後、上の階から許可を頂撮影したかぼちゃのオブジェです。 う〜んこれもすごい。 気分が悪くなるヒトもいらっしゃるそうです。閲覧注意。 展覧会はモノクロの「愛はとこしえ」シリーズと色彩豊かな「わが永遠の魂」シリーズ、そして新作ポートレートと彫刻群でした。「魂の灯」は強く気を持たないと異界に連れ去られて戻れない感じがするのでご注意を。 「愛はとこしえ」シリーズモノクロで「眼」がたくさん書かれているのですが、その「眼」がなんか細胞と核のように見えてきて、たくさんの眼から感じる圧迫に、世論の細胞って人の視線だな〜とか考えました。 最後にビデオで現在の草間氏のインタヴュー、創作風景、そして若かりし頃の映像をちりばめたショートフィルムがあるのですが、これはいろいろと興味深かったです。 松本の少女時代、京都の芸大で日本画専攻してた時代(何で日本画?)生きる場を見つけるのは難しそうだなとか。そしてニューヨークを皮切りに「ハプニング」というパフォーマンスをやっている映像の若い黒髪の草間氏はなんかいろいろと存在自体が意味づけをされてたんだろうなとか。様々なことをイメージさせる映像でした。 そんでも様々な分野の表現を精力的に発信していた若い頃の彼女の活動は勉強不足で知らなかったのですが、 とにかく長い旅路の末に、今の草間ワールドが構築されてきたのですな。 とにかく今観といたほうがいい美術展の一つだと感じました。気を強く持ってお臨みください。 ... ホロコーストサバイバーたちの戦後 - 2012年03月04日(日) ちょっと大層なお題ですが、拙日記でも紹介しました「ベルリン1933」をどらちゃんもミクシ日記で紹介してくれました。(ミクシなので、読めない方もいると思います。でもどらちゃんの友人の友人まで読める設定になっています。わたしの友人設定の方は読めると思います。私と友人未設定の方はお声をおかけください。) で、どらちゃん日記のコメント欄で読者の皆さんからホロコーストの前後の時期を題材にした映画や書籍が紹介されていました。 *「ホロコースト 戦争と家族」 *「記憶を和解のためにー第2世代に託されたホロコーストの遺産」 *「5000万人のヒトラーがいた」 *「白いリボン」 *「善き人」 *「縞模様のパジャマの少年」 *「サラの鍵」 *「過去への扉を開けろ」 あ〜こりゃ読んでみたい、観てみたい、とおもいつつ、この時代から学ばねばならない時代に現在、自分達がいることを自覚します。 1950年代のアメリカの公民権運動の盛り上がりも、1960年代のカナダ多文化主義の歴史的転換(英仏路線から多文化路線への転換)も究極のレイシズムとして明らかになっていったホロコーストの衝撃とそれを繰り返すまいという社会的機運が背景としてあったといわれています。 私がカナダで出会った移民・難民受け入れを担当する教育省の幹部の女性は、戦後カナダに難民として移住したホロコーストのサバイバーを父をもつひとでした。移民・難民の母語・継承語や経験を資源としてすべての子どもの教育に生かすというカナダの教育を強く推進している人でした。 ホロコーストの悲劇とそれへの反省を現在の平和を築くための資源とした人々のように私たちは南京の悲劇と反省を私たちの資源と出来ているだろうか、と自問します。 かわむら市長のリコールの声が上がらない今の日本でそれが出来ているとはとても思えないのです。 ところでホロコーストのサバイバーの戦後としてあっちこっちの散っていったユダヤ系の人々の行った先にはイスラエルがあるわけですが、上記のどらちゃん日記のコメント欄でchieちゃんが「ケドマ」という作品を紹介していました。これもいつか見るリストに入れねば。 そういえば、イスラエル軍の暴力を告発する元イスラエル兵に焦点を当てた「沈黙を破る」というドキュメンタリー映画でパレスチナ難民キャンプとのが描かれていました。それを見たとき、「戦場のピアニスト」で描かれたワルシャワのユダヤ人ゲットーとパレスチナ難民キャンプの理不尽な暮らしの相似性に愕然としたことを思い出しました。 ... 2012年の雛祭り - 2012年03月03日(土) さて雛祭り。しかし私もそうだったんですが3月3日って期末試験シーズンなので、中学生以降の子どもにとって3月の初めってのは雛祭ってる場合じゃないんですな。 雛祭りってのは女の子のためってより、その母が、あんまり本人が熱心になってくれないのを切なく思いながら、「そういや私も母親に不義理したよな〜」と反省しながら人形飾るという母娘3代で繰り広げられるドラマなわけですよ。 で、今年はいつもよりも母たる私に余裕があったので心安らかに雛人形を飾りました。小3おKさんが飾るの手伝ってくれました。 そんでこの日はみんなで奈良市内のかかりつけ医に花粉症の治療にいきました。花粉症はおKさん以外全員発症してるので、毎年この時期、みんなで行きます。4人でお出かけなんてすごい久しぶりです。 で、いつもの薬を処方してもらって、今日はさくらバーガーでお昼ご飯でした。 この厚切りベーコンがアクセントですな。 昼食後はせっかくだから奈良公園内の東大寺を目指します。途中、季節の宿「やまと」の前を通りかかると、なんと売却物件ですってよ、お客さん。この宿屋さんはなんと、あめでおさんとマルコが新婚旅行で奈良来たときに泊まったお宿なんでした。 そうか、営業やめちゃったのか。確か公共の宿だったと思うんだけどさ。世知辛いね〜。 そんでなんかイベントやってるNHKの前を通って、対象年齢はちょっくり小さい方々のようなので、うちの子はちょっとトウがたっちゃってるのでここはスルー。 はい、ここは戒壇院前ですな。1号さんの喘息のための通院が現在よりも頻繁だったこともあり、前は1ヶ月に1回はこの辺遊びに来てたよね〜。 あのころは毎回同じ奈良公園ばっかり行くのがめんどくさくて、休日を家族ですごすのを束縛っぽく感じてもいたのだけど、もうめったに4人でお出かけなんてことがなくなってしまって、4人の時間の終わりが見えてきた今思うと、なんときらきらとした時間だったことか、笑いながら4人でこの界隈を歩いた日々は。 久しぶりに来たら大仏殿の表札がちょっと新しく、、ふぁんきーに?なってました。 いつも変わらぬ彼と再会。しかし鼻の穴くぐりが人待ちラインが設定されていて、大仏殿内も微妙な変化が、、。 で、いま三月堂が改修中で本尊の不空羂索観音と月光菩薩、日光菩薩がこの新しく出来た東大寺ミュージアムに来ています。 帰りに西大寺でケーキ買って、家帰って散らし寿司をあめでおさんが作ってくれたので、一応雛祭りっぽくすごしました。 しかし、この家族メンバーでの夏は過ぎていくな〜。 次はあめでおさんと夫婦二人で行くフルムーン大和路シリーズか。 ... 高度経済成長期のファッション業界を舞台に語られる加齢と加害-カーネーション1月〜3月2日ー - 2012年03月02日(金) さて朝のドラマのカーネーションが快調です。 うちではビデオ録画して家族揃って毎日見てます。でもまあ、朝ドラは最後まで観てから評価しようと思っています。最終回でうっちゃり食らわせてくれたちりとてちんの例もあるし(でも今回のカーネーションの脚本はちょっとやそってで崩れなさそうですが)。 んで年明けからここまでは華やかに成功していくコシノ3姉妹(物凄い姉妹間の葛藤はあったとしても)の活躍を背景にしつつも焦点を当てられていたのは主人公糸子の加齢でありました(いや、周防さんとの恋でしょ〜!という意見もあるが、あれもまた主人公の人を思い、思うがゆえにわかれを選択するという成熟の物語であったと理解しています)。 自分の感覚を信じて走ってきたのにその頼みの感覚が時代とずれていく事を描いたサックドレスの顛末。自分の感覚がずれたことを自覚した上で、外国語を理解するように若者の夢中になることを理解して乗り切るミニスカートブーム。 そして本日3月2日の放送では東京を拠点に全国展開を仕掛けようとする長女の計画を「面白いとは思えん」と評価し、「ものづくり」から「大量生産大量消費の資本主義ゲーム」への移行の段階にある婦人服ブームに自らの居場所を見つけあぐねる場面が描かれます。 で、八重子さんの渇で、最大多数の最大幸福的な「大商い」ではなく、ニッチなニーズにこだわった「ものづくり」にこそ自分の居場所があり、それを実現する拠点として岸和田に残る道が選択されるのかな〜というラストでしたね。 まんなかじゃなくて端っこに徐々に寄って行く中で、どう自分らしくあるか、働きながら年を重ねる女の生き様がここまでリアルに共感を持って描かれるということは結構珍しいことだと思いました。2010年12月のにやってた子育て期の働く女の描き方もリアルでしたが。来週以降は加齢の過程の女ではなくてもう加齢しちゃってネクストステージな女として糸子さんは登場するわけですね。そちらも楽しみにしたいものです。 この加齢の描写のほかにも様々な描かれたエピソードがありましたが、私の琴線にふれたのは戦争の描き方でした。 多くのドラマで描かれる「戦争」はなんか記号のようなのです。8月15日の玉音放送に知る敗戦の悲しみや広島の悲劇がかたられることはあっても、なんか<記号>で、教科書で見る太字記述みたいな、そんなリアルでない描かれ方が繰り返されてきたようにおもいます。 それが今回のカーネーションでは主に安岡家のエピソードにこれまでにはなかった戦争の描かれ方があったように思うのです。第2次世界大戦と言えば昭和16年の真珠湾戦争で始まったかのような描かれ方が多かったですが勘助がPTSDを患う原因となる日中戦争はそれより前から戦われており、南京大虐殺が起きているのは1937年、昭和12年です。 「あの子が やったんやな」 という1970年代の、病床の安岡のおばちゃんの言葉は「戦争の哀しみ」をずっと複雑でリアルなものにしたように思います。 1970年代というのは日本軍の加害に光があたり始めた時代でもありました。単純な被害者ではなく、わたしたちの加害の先にあった悲劇の痛み、哀しみにも向き合わねばならない、その気づき、その痛みは、単なる被害者としての認識よりずっと深くて、痛い。それでも息子のPTSDやその先にあった死の意味を理解して、おばちゃんが納得し、勘助のPTSDへの対処をめぐって決裂した過去をもつ糸子と深いところで和解する姿が描かれます。 この描写について論争もあるようですがこの議論のいくつかはちゃんとドラマの語りを読み取っているように思いました(私的にその感想はどうよ?みたいな感想も散見されてはいますが)。 加害の認識をまるで無かったことのようにしようとする修正主義的歴史観が台頭していますが、無かったことにはできない歴史が糸ちゃんとおばちゃんの和解を通じて描かれていました。 カーネーションで描かれた戦争の加害は、そのものずばりを描くことよりも、ずっとリアルにその痛みや哀しみを人々に想起させる、ものすごい脚本だったと思います。 ...
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