西方見聞録...マルコ

 

 

普通の毎日 - 2002年11月30日(土)

 さて、朝8時半、戦う1号を夫とともに送り出した後、私と娘2号の愛のまったり生活が始まる。10時くらいまでにショパンのノクターンをBGMに掃除と洗濯と夕食の準備をすませて後はコーヒーを飲みながら昼までネット。

 求職活動や前の職場の同僚からの問い合わせへの返答、お友達のネットの訪問、てめえのHPの更新などをこの時間内に済ませることを目標にしている。

 昼ごはんを食べたあとは一応勉強をすることになってる。合間合間に娘2号が「かまってくれや」と遊びに来るのでふたりでごろごろ文字どうり乳繰り合う。

 そして午後4時、1日で唯一の外出。娘1号を保育園から取り込みに行くのだ。

 保育園に行く前に郵便局へ行くなどの雑用をすることもあり。帰宅するとマンション主婦の皆様が集っていればだれぞの家でお茶したりもする。

 こうやって書いてみると見事に引きこもり主婦だ。

 週末は夫に連れられ、名所仏閣を渡り歩いているが平日の秋晴れの日々を布団を干す以外に有効活用していない私。
 
 まあいいのだよ。繭につつまれたようにシアワセにぬくぬくしているのだから。
しかし郵便局の親父は私の野望を知っている。その野望の中身は今はつまびらかにしない。別にモーニング娘の新メンバーを目指しているわけじゃないけど。

 ああ、はやく浪速の地下鉄を乗り回してギラギラと社会復帰したいものよ。


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戦えと叫び続けて - 2002年11月27日(水)


 本日は娘1号と新保育園のおはなしをひとつ。

 娘1号は10月1日に新保育園に入園し、1月目は1日も休まず登園した。毎朝、「行きたくない。今日は稲田堤の保育園に行こうよ。」とかき口説くのを「わはは、給食までにつかんでえ」とわらい、「がんばれがんばれ、えらいぞえらいそ」と
呪文を唱えて保育園に送り出す。

 4時半に迎えに行き、笑顔をはり付かせたように遊んでいた娘を自転車の後ろに乗せて夕日が赤々と照らす田んぼのあぜ道を連れ帰る。

 この瞬間が一番つらいのか、娘はよく心のシャウトをくりかえす。
「すげ保育園に帰りたい!すげ保育園に帰りたい!
OXOちゃんに会いたい!XOXちゃんにも会いたい!わあああああ」
 
 娘の高い透き通った声は刈り取りの終わった田んぼを風に吹かれて渡っていく。
私は
「ほんとだねー、みんなどうしているかねー。1号ちゃん、新しいところでお友達できたかなーっていってるかな?」
とできるだけのんきに応える。

 また新保育園は毎日青いラインの入った体操服で登園する決まりなのだが朝の着替えで娘は爆発する。
「私はおしゃれなんだよ!毎日好きな服を選んで好きな服を着て保育園に行きたいんだ!」

 10月は気温の上下がはげしくてあめでおも私も娘2号さえも体調を崩した。しかし糸を張り詰めたように日々を過ごしていた娘は風邪一つひかなかった。(気を張りおって)と内心不憫に思いながらも娘を毎日保育園に送り込んだ。

 11月半ばついに娘は風邪をひき1週間寝込んだ、治ったので登園させると、その日の夜に原因不明の蕁麻疹を体中に炸裂させた。
「ものすごい顔じゃのう」
と言うと
「まったくどうする?」と娘も興味深げに鏡をのぞいていた。
 蕁麻疹も1週間もすると治まり娘は再び登園を始めた
「1号チャンはまだ新しいお友達なんだよ。早く古いお友達になれるといいね。毎日保育園に行くとそれだけ早く古いお友達になれるよ」
 久しぶりの登園を渋る娘と今日も禅問答を繰り返す。

 思えば私はこの娘に戦うことばかり強いてきた

 しかし母はまだまだ言うぞ。

 がんばれ、自分に負けるな、日々を戦え。

 戦う君の後姿を母は心のそこから愛しているぞ。




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暴力の話 - 2002年11月26日(火)


 さてこの日は娘1号の保育参観で娘2号をだっこして保育園へ。

 娘1号は16日に一旦、風邪から回復したものの祖父母帰京後、1日だけ保育園に行った後体中から噴出すような蕁麻疹をだして、さらにもう1週間保育園を休んだ。そんなわけでほぼ2週間ぶりの登園だった。

 稲田堤時代の保育園では保育参観とは「通常の保育の様子を保護者が物陰から1時間程観察し、その後子どもと一緒に遊んで、昼食を介助し、子どもと一緒に帰宅する」というスタイルだった。あめでおも私もこの1年に1度の保育参観が大好きで仕事を休んでいそいそと出かけていた。

 ところが奈良での初めての保育参観はぜんぜん違った。ホールに年少・年中・年長の3クラスの保護者100名以上が集い、子どもたちが舞台の上に立って合唱と合奏をしたのだ。

 約2週間、病気療養をしていた娘1号は練習期間のないまま本番を迎えてしまったのだ。新しい保育園での保育参観がどんな物なのか確認しなかったわが身が悔やまれる。しかし、娘1号は手話つきの合唱も楽器を使った合奏も例によって周囲を見ながら淡々とこなしていく。

 立派。

 見てくれ、あれがわしの子じゃ。と絶叫したい気分だった。

 しかし最後列の端っこに立った娘は半分カーテンに隠れており担任の先生からは見えないところで健気に手話を演じておったわ。

 あわれ。

 その後保護者を対象にCAP(CHILDREN ASSULT PREVENTION)という団体の虐待防止参加型ワークショップが行われた。100名近くいた保護者はココで15人ほどに減った。プログラム自体はおもしろい部分も参考になった部分もあったが、気になったのがワークショップファシリテーター(司会者)の言葉がすごく粗いのだ。

 とくに「普段お母さん方はこんなふうにお子さんをしかってらっしゃると思いますが」といって母親が子どもをしかるしかり方をまねするのだが私だったら絶対使わないような言葉を使っていた。
 
 参加者のレベルを低く設定しているのか?
 あるいはよそ者の私が方言をきつく感じてしまうのか?
 私自身、まだこの新しい町に心の垣根を取り外せずにいるのを感じる。





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- 2002年11月24日(日)


 関西、もみじの名所だらけ。今月は毎週末は紅葉見物でうはうはです。

 大神神社やら法隆寺の裏山の松尾寺、百人一首にも読まれた龍田川沿いの龍田公園。奈良公園。紅葉見物のほか毎週末必ず、なぜか法隆寺に通うわたくしども。
9月末に引っ越してきて以来、これまでにすでに12回も法隆寺に行った。
 
 娘1号・2号>世界でもっとも法隆寺を拝観する5歳児と0歳児。

 南大門の中の法隆寺の五重の塔やら金堂・講堂のあたりは拝観料が1,000円
(ちなみにこの1,000円で資料館と夢殿も拝観できます。)もするため、南大門の外側のスペースをもっぱらうろうろしていたのだが、「法隆寺友の会」の存在が判明し、年会費3,000円で法隆寺内有料部分が入り放題!

 早速友の会に入るあめでおと私。おかげさまで11月に入ってから、4回も友の会パスポートで法隆寺の奥深く侵入しております。

 それから山岸涼子の日出処の天子を全巻、AMAZONで注文するわ、梅原猛の「隠された十字架」を購入するわ、夫婦で法隆寺の謎に迫る毎日を送っています。

 梅原猛によると、法隆寺って聖徳太子の怨念をおさめるための寺なんだって。
絶対外には出してはならないとされた秘仏救世観音を明治期に外国人研究者のフェノロサが無理やり外に出したり(その瞬間法隆寺の坊主は全員恐ろしさのあまり逃走したとか)その救世観音の頭の部分にでかい釘が打ち込まれて光背が支えられていたり、結構、怖い話が満載。

 法隆寺関連の年中行事も気合が入っているらしい。転居早々いきなりお間抜けな秋祭りを体験してしまったがあれは商工会が主催した物で寺は全く関与しておらず
マジに寺がやる年中行事はかなりキているらしい。
 節分に鬼が火を撒く祭りをするのだがそれで失明者が出たこともあるとか。
 失明しない程度に参加しよう!と家族で誓い合う。
 うー、楽しみ!




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夭折 - 2002年11月22日(金)


 一つ年下の従弟が死んだ。

 死因はくも膜下出血で、9月に倒れ、そのまま目覚めなかった。

 この従弟は私の父方の従兄妹たちの中で文句無くもっとも優秀で光り輝くような人だった。当たり前のように東大に入り、当然という顔で東大の博士課程で研究していた。

 しかし8年前突然、その栄光のキャリアを捨ててソーシャルワーカーに転進した。
カウンセリングの新しい方法を考える仲間たちと出会い、カウンセラーとなるべく再出発をしたのだと聞いた。

 私は自分の第1子の出産時にこの従弟に心からのサポートを受けている。

 難産の末に生まれた娘1号は泣き狂う赤ん坊だった。授乳時間の間隔は1時間もあかず、疲労で毎日が地獄だった。しかも産後43日には職場に復帰することが決まっており、この泣き赤子が生後4ヶ月に達すればフィリピンに出張することまで決まっていた。せめて普通に育ってくれれば良いのに、娘は生後3ヶ月を泣いて暮らした。
私も短い産休中をただ泣いて暮らした。

 そんな中、あまり交流が無かったこの従弟が突然手紙をくれた。従弟は短い手紙とともに助産婦さんやカウンセリングの専門家で作っている雑誌を同封してくれた。

 そこには「難産で生まれた子はバーストラウマを癒すためによく泣く。しかし泣くのはその子どもが必要だから泣いているので下手に泣き止ませずにしっかりと抱きしめて心行くまで泣かせてあげれば子どもの心は安定する。」
という趣旨のことが書かれていた。

 私は救われた。

 赤ん坊の泣く原因がわからず、本当に怖かった。しかし「赤ん坊は泣いていいのだ」と肯定されてやっと私は長かったマタニティーブルーから解放され、
予定通り、職場復帰を果たした。

 その後も従弟とは時々手紙をやり取りした。いつも私が育児の不安・疑問を尋ねると丁寧に返答してくれた。

 彼の通夜に参列するため、夫に仕事を休んでもらい、娘たちを夫に託し、私は単身上京した。法隆寺から通夜会場まで片道5時間、日帰りするので終電の23時半に法隆寺駅に帰りつくため通夜会場には1時間半しかいられない。

 読経のはじまる少し前に会場に着き、最後のお別れをさせていただく。きれいな、若々しい死に顔だった。

 あなたに救ってもらって、私は母親になれた。
 あなたに心からの感謝を捧げ、その早すぎる死を悼みます。




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義理の人々 - 2002年11月17日(日)

さて、夫実家の人々は私の実家の父母同様、義母が2泊3日。義父が1泊2日で我が家を滞在。法隆寺訪問など、私の実家の両親とほとんど同じ日程ですごした。ただ異なるのは私の実家の父母が奈良市内のフジタホテルに宿泊したのに対し、義父母は我が家に宿泊した。

 夫は私の実父母が我が家に泊まらないのを「水臭い」という。しかし私は実父母が私たちの暮らしに深く食い込むのを好まない。

 義理の両親と言うのは配偶者の戯画だ。日ごろ愛ゆえに見逃してやっている配偶者の欠点をデフォルメしてこれでもか眼前に突きつけてくるのが配偶者の親族ー義理の人々だと私は思う。

 義理の両親と言うのはどんな素晴らしい人々であっても疎ましい。
 夫が私の両親と触れ合うことで私の醜さがあからさまに夫に露呈するのは苦痛だ。逆に夫の両親から普段見逃してやってる夫の欠点をまざまざと見せ付けられるのも不愉快だ。どんなに素晴らしい義両親であっても、触れ合う機会は最小なのがいいと思う。夫婦の愛を長続きさせたければ。

 一例を挙げると、夫はしもネタ系のギャグが大変うまい。乾いた口調でさらりととんでもないことを言い、気付かないうちにものすごい話題に周囲を巻き込むという特技がある。

 私は夫のしもネタ系の話術の巧みさに、インテリジェンスさえ感じていた。
あるとき姑がしもネタ系のギャグを言った。夫と全く同じに彼女もそうした話が大好きだ。

 しかし彼女の話は下品な田舎くさい話にしか聞こえなかった。夫のしもネタも私が愛と言う名のフィルターをかけてみるから面白いのであって私以外の人は夫のしもネタだって不愉快なのだということにやっと気付いた。

 義理の人々は100年の愛にも冷水をぶっ掛ける。

 ゆえに、私は私の戯画である実両親を夫に出来るだけ見せたくない。実両親と交流するのは配偶者の見ていない場所でするのが良いと思う。




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チキチキレースー当日 - 2002年11月16日(土)

さて、ベビーシッターのNさんが朝8時半にきてくれる。それまでに朝食と家中の片付け、娘2号への授乳をすませ、8時40分、夫と娘1号は車で伊賀上野へ出発。私も電車で大阪へ向かう。

大阪はひとりで歩くのは初めての町。

奈良県からJRで天王寺駅に向かいそこから地下鉄に乗り換える。

初めての町の初めての地下鉄。 昔、観光で訪れたソウルで地下鉄の乗り方がわからなくてうろうろしたときのことを思い出す。

時間通りに専門学校に到着し、求人説明会。60名ばかりの求職者が大ホールで説明を聞く。全員黒もしくは灰色のリクルートスーツ。自慢ではないが、私はリクルートスーツを持っていない。あんまり形どおりの就職活動の経験がないのだ。NGOの就職試験も、青年海外協力隊の試験もブラウスとスカートかお気に入りの水色のツーピースで受けた。今回は鮮やかな芥子色のブラウスに黒い花柄のスカートを着ていた私は黒と灰色のスーツの中で浮き立つように目立った。

就職試験の面接は営業だ。

私という商品を先方にとって如何に有用かということを売り込む場だ。先方に「私を雇う必然性」を提案し、納得させる場だ。私はこの営業がなかなか好きだ。営業に失敗してもそれは縁だ。非常勤を志望ということで、採用結果は12月に持ち越すらしい。

12時50分に専門学校を出る。心斎橋のカフェで10分でサンドイッチとコーヒーを
胃に流し込む。こんなカフェに一人で入るのは本当に久しぶりだ。時間は急いていたが、単純にうれしい。

午後1時20分の天王寺発の奈良行きの電車に乗り、1時40分に法隆寺駅に到着する。夫実家の人々をもてなすためとベビーシッター・N婦人へのお土産にケーキとクッキーを買い、2時5分前に帰宅。N婦人は人見知り期の娘2号とうまくやってくれたらしい。感謝。

2時から4時まで家中を掃除と夕食の準備をする。4時丁度、すっかり元気になった娘1号、夫と夫父母を迎え、5時から鴨鍋。

今日の夕食は特別おいしかった。



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チキチキレース・前夜 - 2002年11月11日(月)


 11日から15日まで娘1号が風邪を引いて高熱を発し、扁桃腺とリンパ腺んを腫らして寝込んだ。

 16日の土曜日は我が家から1時間の距離にある夫の郷里、伊賀上野(現在は家があるだけで無人)で夫の祖父母の法要が営まれることになっていた。

 東京から夫父母も法要に参列するので、夫と娘1号のみ出席し、私とまだ幼い娘2号はうちで待っており、法要後、娘1号、夫、夫父母で我が家の車で我が家を訪問すると言う予定になっていた。

 娘1号の病気が16日までに癒えるかなかなかどきどきさせられた。

 そんななか、12日に履歴書を送っていた専門学校から
「書類審査を通ったので、16日の午前中、説明会と第1次面接に来てほしい。」
という通知を受けとる。

 さて、娘1号が復活した場合、夫と娘1号は法要に出かけてしまう。私が面接に出かけるとしたらその間の娘2号の 世話をどうするか。
 
 13日、自治体のシルバー人材センターの子育て支援室に電話をし、ベビーシッターを派遣してもらうことにする。 料金は1時間800円。16日の午前9時から午後2時までの派遣を依頼。また事前に派遣されるベビーシッターの方と顔合わせも設定してもらう。

 13日の午後、シルバー人材センターの職員の兄さんと一緒にNさんとおっしゃられる60歳近いご婦人が拙宅までいらして顔合わせ。私と同年代のお嬢さんが東京で子育て中ということで、大変親近感。農業にずっと従事なさっていたとのこと、大変しっかりした感じの包容力を感じさせる御婦人でした。

 これで娘1号さえ回復してくれれば私は就職活動もでき、16日夕方4時ころ拙宅を訪問する予定の夫両親にも不義理をせずに済む。

 しかし娘1号は金曜日まで寝込んだ。

 シルバー人材センターは病児の保育まではしてくれない。娘よ治れ!
 と祈りを捧げていると、夫が
「娘1号が16日までに回復しなかった場合、自分が、法要には参加せず、娘1号、2号共に面倒を見るのでマルコは就職活動を優先するように」
という。

 まさに天の声。

 それほど、心の底から決めたい就職の話ではない。しかし、夫の転勤で転職を余儀なくされ、夫の実家の法要のため今シーズン最初の就職試験を棒に振るのではあまりに夫の都合に振り回されている。これで夫実家の人々を笑顔で迎えねばならないのではやりきれない。

 その辺の私の気持ちを、私が何か言う前に、夫が事前に察してくれたことに感謝。

 果たして、娘1号は15日昼より快方に向かい、16日には復活。私は無事に就職戦線に出陣した。




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履歴書 - 2002年11月08日(金)

 さて、この日今シーズン初めての就職活動をすべく履歴書&職務経歴書2002年秋バージョンを作成し、大阪の心斎橋にある某専門学校の教員募集に応募した。

 前回履歴書を練って就職活動をしたのが1999年春。あれから3年半。

 私のこれまでのキャリアとこれから目指している方向。その流れの中でこの求人に応募する必然性のストーリーをざっと作り上げてポストに投函。大学院に行ったとしても学資と小遣いくらいは稼ぎたい。

 非常勤講師として働ければいいが、さて。



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父母来襲 - 2002年11月05日(火)

 さて私の実家両親が5日より拙宅を来襲。 実家父は冷静沈着な男で、実家母は猪突猛進な女と形容しておこう。ふたりとももうかなりいい年で半分引退しているが、父母ともにバリキャリな職業人だったので、おハイソ臭をぷんぷんさせている。

 このおハイソな2人組は私が夫@あめでおとジミ婚したことも、その後暮らした稲田堤のスイートホームが築35年の2DK1戸建ての文化住宅だったこともかなーり心を痛めていた様子。

 しかし今度の新居は稲田堤のスイートホームとあんまり違わないお家賃なのに新築マンション3LDK、その上リビングは25畳もあり、ルーフバルコニーでは自転車も乗れちゃうと言う大変優良物件であったため(まあ東京と比べて住宅事情がよろしいということですが)心のつかえも取れたようでござった。めでたい。

 この両親は、わたくしが結婚した折、稲田堤の文化住宅があまりに狭かったため
嫁入り道具を持たせてやれなかったことがトラウマになっている。その埋め合わせとして、新居を見て足りない物を何でも買ってくれるというのでカーテン、土鍋、客用の茶碗、お皿、コップ等をそろえてもらうことになった。

 そんなわけで5日、東京から到着した両親は私と隣町のサティへまずはお買い物へ繰り出した。

 翌6日は実家両親と娘2人と私の5人で法隆寺を拝観。私もはじめて拝観料を払って内部まで入りました。国宝の仏像がとにかくごろごろしているのであちこちの仏像に様々な願をかけた。

 子どもが元気に成長しますように、私の就職活動がうまく行きますように、などなど。

 しかし百済観音の展示室ではあまりにその神々しいお姿に思わず「世界が平和になりますように」と我欲を捨てた祈りを捧げてしまった。

 父はこの日帰京。母はもう1泊して、7日私が職安へ雇用保険受給説明会に行く間、娘2号を子守りしていてくれる。

 職安から帰宅し、帰郷する母を駅まで送る。途中、娘1号を保育園に迎えに行き、駅で女3代、正月までしばしの別れを惜しむ。






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11月総括 - 2002年11月01日(金)

さて関西暮らしも2か月目。
今月は私の実家と夫の実家の両親が遊びに来るわ、
娘1号が病気で2週間保育園をお休みするわ、
従兄弟が急死し、日帰りで単身上京するわ、
いろいろございました。
今月夫婦で燃えたのは「日出処の天子(山岸涼子作・白泉社刊)」の輪読。
良いニュースは夫と二人で法隆寺友の会に入会したことでしょうか?
法隆寺友の会、3000円で1年間法隆寺拝観し放題。お得ですわ。



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