unsteady diary
riko



 さっぱり

噛切ったの。
もとい、髪切ったの。

行きつけの美容院へは、もう1年近く行ってなくて。
就活のあいだは、近いところで間に合わせてたのよね。
写真撮る前に隣の美容院で駆け込み30分で間に合わせてもらったこともあったし。

久しぶりに前髪つくったら、失敗したかも。
無駄に幼くなった気もするし、
「ねえねえ奥様?」とかって言いながら買い物かごを下げてる、
どこぞのおばさんのような感じもする。
ま、そのうち慣れるでしょ。
自分の髪質と丸顔を無視してオーダーするんだから、
出来上がりに文句は言えないさ。(笑)
分け目がだいぶ気にならなくなってきたので、
それだけでも幸せなことよね。

マッサージしてくれた男の子が
なんと同い年で、お互いにびっくりした。
私はいつもながらお勤め人と間違われ、(涙)
私は私で彼はもう少し年上だと思っていたので。
なんだかなあ。
話がうまく続かなかったのね。
お互い口下手で、
彼も声が小さくて、
私は前を向いているから声が通らないし、
聞き取れなくて、お互い何度も聞き返して。
すごく気まずくて、
マッサージでカラダがほぐれるどころじゃなかった。
髪を切ってもらういつものオネエサンは、
すごく陽気でサバサバしていて、話し易いんだけどな。
こういうときは特に、
私がこんなじゃなかったら、
もっと場を盛り上げられて、
初対面のひとでもそれなりに親しくなれるんだろうなって思う。
せめて聞き上手になろうと努めているけど、
相手がしゃべらないタイプだと、
もう打つ手がないんだもん。
話を聞きだそうとしても、
すぐに会話が止まるしさ。

他人の日記を読んでると、大笑いすることが多いの。
ほんとに皆上手くて、笑いのツボを押さえた文章が多くて困るくらい。
ギャグ書ける人って尊敬しちゃう。
私にもそんなセンスがあったなら、
ちょっとでも話上手になれたのかなあ。
いや、そんな問題じゃないのよね、きっと。


2001年08月31日(金)



 金子みすずという女性

金子みすずという詩人は、
好きではあるけれど、すこし嫌い。
こういう表現をすると、割り切りたがるひとに怒られるかな。
つまりはどっちなんだ?って。

松たか子主演の、金子みすずを描いたドラマを見た。
しばらく前から頻繁にCMが流れていたから、
見た人もいるかもしれない。

金子みすずっていう人は、文学の才能に恵まれながら、
幸せでない結婚をして、自由に自分を表現することを許されないまま、
若くして亡くなった。

彼女はやさしくてやわらかな童謡を残したけれど、
読むたび、私はいつも哀しくなった。
そこには希望があるようでいて、
ほんとうはすべてを諦めているような気もしていた。

なるほどやさしい言葉を紡ぐひとだと思う。
だけど。
少女のままの視線を保ちながら大人でいる危うさみたいなものが、
感じられる気がして。
自由を奪われ、縛られたまま、それでもじっと耐えている
纏足の少女の姿が見えるようで。
少なくとも私にとっては。
ほっとする、癒される、そういう類のやさしさではなかった。
「働けど働けど…」って書かれるほうが、よほどいい。
そんなふうに直接苦しいと語る詩などないのに、
むしろ真綿で包まれている痛さのほうが、
辛い気がした。


数年前だっけ?
なんだか急に、金子みすずの詩が流行ったように思う。
メディアで取り上げられて、
ふだん詩なんてまるで触れることのない人たちが、
本屋で金子みすずの詩集を手に取る姿をよく見かけた。
確か私の伯母も、それから祖母まで本を買いこんでいたような気がする。

それはなんだか不思議な光景だった。
私にとっては、やわらかな言葉で哀しそうに呟く少女は、
どちらかといえば触れたくない人だったから。

けっして、不幸な人の書く詩がいやなのではない。
たとえば、私の好きな石垣りんや茨木のり子という詩人たちは、
けっして楽なくらしをしていたわけじゃない。
目を背けたくなるくらいの苦しさを曝け出して見せるけど、
それを不自然だとは思わないし
可哀相という言葉も出ては来ない。
彼女らは、這い上がろうとしているから。
疲れたときも、疲れたということで、自分をきちんと守ろうとしているから。
そうしてのたうちまわる姿が、むしろ強いから。

それに対して。
金子みすずの詩は、
童謡だからなのかもしれないが、
幸せになろうとしていないというか、
悪あがきをしない潔さ、美しさみたいなものが、
私にはどうしても馴染めなかった。

儚すぎて、
はっとするほど美しいのだけれど、
諸手を上げて受け入れるには、
なにかひっかかる。
そんな詩を書く人だというのが、私の印象。


すっかり有名になった金子みすずの、公式HPがある。
紹介文のなかに、「金子みすずの澄んだ優しい心」というフレーズを見つけた。

優しすぎる人よりは、
少しくらい自分勝手なほうがいい。
澄んでいるあまりに、汚水のなかでは生きられないより、
濁流のなか傷だらけになりながら生きているほうが
私は綺麗だと思う。

上手く言えないけれど、
金子みすずを、私はけっして嫌えない。
だけど少なくとも、
癒されるとか、道徳の教科書にのるような模範的な思いやりがあるからとか、
そんなそんな綺麗な理由じゃない。
童謡だからそんなふうに扱われてしまうのかもしれないけれど、
私は違和感を拭えない。
むしろやわらかな言葉だからこそ、
ぞっとする哀しさや、鋭い眼が生きてくるのではないのかな。

そんなにも素直で無防備な、いかにも幸薄げな詩をつくる前に、
まずは強引になんでもやって幸を引き寄せてよ、って思ってしまう。
そんな苛立ちを感じながらも、
強がらないゆえの透明感に惹きつけられる。
私はそうやって、これからも金子みすずの詩に触れるんだろう。


2001年08月27日(月)



 ビプランシアター襲撃


ミーハー&マニアックな話題で暑苦しく語るワタクシ。

好きな役者さんたちの朗読劇&トーク?なんでもありの井戸端会議に行って来たの。
とにかくステージが低くて近い。
新宿ビプランシアターは初めてだったけど、
あの場所の雰囲気は好き。
切り離されている気がしない。

役者本人がショートショートみたいなものの台本を全部書いてるの。
それがかなり面白い。
全部ネタを文字化できたらいいんだけど、覚えていられないので、
私の中でだけ思い出し笑いをする予定。(笑)
例えばプロ野球の球団ごとのマスコットたちが語り合うという設定のショートコントがあったり。
(広島だけは忘れ去られている…笑。私もマスコット名覚えられなかった)
「我輩は犬である」ばりに、飼い犬のやさぐれたきもちを語るお芝居があったり。
(本人、最近ラブラドールを買い始め、猫可愛がりしてる)

ビタミン補充、完了。
質のいい笑いと、ときめき(死語やね)をもらってきた。
むさくても、お茶目で笑顔がくしゃっとしていて
とにかく愛嬌のある人、好き。
華があるってそういうことなんだなって思う。
顔立ちとか服装だけじゃなくてさ、
空気を持ってる。
くるくる変わる表情にひきつけられる。
オンオフのスイッチがある、根っからの役者なのだなと思う。

毎年恒例の舞台?なのだけど、
はじめて行ったのは、1999冬だった。
ちょうどその頃は、痛む右腕と発熱を引きずってた。
大学を頑張らなくちゃいけない期末に体調崩して、
今度こそどうにもならないかもしれない、と不安だった。
安静にしてなくちゃならなくて
楽しみにしていたのに諦めなくちゃって思ってた。
それどころじゃないと、自分がいちばん判ってたし。
だけど母が、行っておいでと言ってくれた。
気分転換したほうが治りも早いかもよ、って。
ちょうど時期はクリスマスで、
たったひとりで包帯巻いたまま横浜の夜を歩くのは、かなり気が引けたけど。
帰り道は、幸せだった。
横浜は正直遠かったけどそんなことさえ気にならなかった。
ちなみに、それからたっぷり1週間は、そのハッピーが保った。
我ながら現金よね。


キャラメルのちょっとした笑いのセンスが恋しくなったわ。
楽日の当日券情報がファックスされてきたけど、
なんかチケット取りづらそうだった。
うーん……でも観たいわ。

2001年08月26日(日)



 嵐の前に


台風の影響で、関東でも酷い雨が降り出しました。
ニュースでは、長野の飯田市の様子が。
まだ熟れきっていないりんごを、落ちるよりはマシだということで、
急遽収穫してるんだそうな。
美味しいものは、ほんとうに手間暇かけられているのよね。
それにしても、台風の前に千葉へ帰ってこられてよかった。


日記の日付を見ると、こんなにサボったのは久しぶりだなと思う。
サイトの存在が惰性になっていやしないかと、
最近よく考える。
ホームページビルダーを、もうどれだけ開いてないだろう。
私は、更新していないことに罪悪感を感じるようなマメなタイプではけっしてないので(サービス精神も全くない)、正直言って「管理人として心苦しい」みたいな考えはないんだよね。
残しておくだけでは潔くないとか、そういう感じ方はあるけれども。
ただ、なんとなく。
今の自分にとって、ここの存在が以前と比べてどう変化しているのか、
それを考えているだけ。


絶えず動き、自分を追いつめ、繭をつくり、いずれ繭を破り生まれかわる。
そうやって新しい自分を生み出してゆく人を見るのは好き。
だけど、そういう人は、私ではない。


すでに自分の一部みたいに馴染んでしまったこの場所と。
ネット上のrikoというHNをもつひと。
簡単には変えたくない部分がある。
その一方で、手垢がついたなあとも思う。
リセットしたいような、できないような。
中途半端な気分でいる。

2001年08月21日(火)



 ほんとうの面白さ

「人類月に立つ」っていうのかな?
NHKの深夜やってる海外ドラマがけっこう面白かった。
アポロ計画について、連続ドラマになってるらしい。
トム・ハンクスがナビゲーターとして最初に出てきて、びっくり。
彼の出演作「アポロ13」は感動して泣いた映画のひとつ。
その関係でこのドラマにも関わっているのかもしれない。

アポロ15号の地味な話が心に残る。
乗員はパイロットとしては一流だが、
地質学者としては、素人。
月面探索で必要なのは、
彼ら自身が地質学者と同じ目と手を持つことで、
短期の実習を受けることになる。
担当したシルバー教授ってひとが、これまた野外実習にはうってつけのタイプで、
それまでいかにも学者肌の人間に教科書と黒板を前に授業を受けてきて、
地質学なんてつまらないと思ってた彼らが、
「おまえはどこから来たんだ?」っていうふうに、
目を輝かせて石を見るようになる。

けっきょく、彼ら宇宙飛行士は、
素人がただ歩き回ったのでは絶対に見つけられないような、貴重な石を見つける。
シルバー教授が、事前に、彼らにぜひ見つけて欲しいと熱望した、
月がどうして出来たのかを語る可能性のある、とても古い石を。

その価値が解る目を持ってはじめて、ほんとうに感動できたわけだ。
ただ月にたどり着いて、ただ石を拾って帰ってくるなら、
ロボットでもできるのだから。

苦労しなくちゃ本当の面白さにはたどり着けない。
これは学問に関わらず、なんにでも共通して言えること。
それほどのめりこめるものを見つけることが、実際には難しいのだけど。

2001年08月11日(土)



 レディースデイ

「千と千尋の神隠し」を見てきた。
朝いちばんの9:00の回を目指して行ったのに、すでに立ち見に。
なので、次の10:20の回に変更して、列に並ぶ。

設定とかキャラとか芸の細かさが、
いかにも宮崎アニメという感じで、好きだなあと思う。
ただ、とりとめのなさというか、突拍子もない謎解きだったりが、
無理矢理まとめた感が拭えなくて。
なまじ好きな世界観であるだけに、すこし残念。
子供向けなんだから2時間が限度だとは思うが、
あんなに後半を急いでしまうくらいなら、
もう少し長くしてもよかったんじゃないだろうか。

今回、夏休みで子供連れも多かったのだけど、
みんなすごく静かで一生懸命に見ていたのが印象的だった。
主人公が驚く場面でつい、
「あっ」なんて一緒に声を出した男の子が
隣の母親にたしなめられてる光景とか、
なんとも可愛くて、思わずにんまり。
おかげで気持ちよく映画を見られた。
子供だからって偏見を持つのはよくないよね。

以前有楽町で「タイタニック」を見たとき、
周囲の人のマナーがすごく悪くて、集中できなかったことがあったの。
バリバリ音を立ててものを食べるし、しゃべるし、
主人公が死ぬクライマックスシーンで、ガタンと席を立つ人さえいたし。
別な意味で泣きそうになったよ…。


その後、中学時代の友人Sと悪友Rと私の3人でお昼ごはん。
インド料理屋のチャイが美味だったなー。
それからショッピングして、今度は和風甘味でお茶を。
ひたすらまったりとしゃべって、満足。
ただ、Sが別れ際に言った言葉が、気になっている。

私とRが家で数回飲み会をしていたことや、今度長野の彼女の実家に泊まる(宿代を浮かすため以外のなにものでもないのだが…)ことを知って、「そこまで付き合ってたとは思わなかった」と言われてしまったのだ。
(想像はついたので長野旅行のことは言わないでおくつもりだった)

私のなかにも独占欲はあるから、
Sの立場はすごくよくわかる。
それに、このあいだSの友人関係の悩み相談に乗ったのも私だったし、
Rも会いたがってるから電話してみたら…とすすめたのも、私だった。
Sの寂しさが少しでも埋められればいいなと確かに思った。

ただ。
フォローしながらも、
自分のなかにはキレイな気持ちばかりじゃなかった。

単純に人数がいるほうがなんでも楽しいと思えるわけじゃなく。
Sがいたらできない話もあるし、晒せない「私」もあって。
だから、全部Rも入れて3人で行動しようって言えば彼女が喜ぶだろうことはわかっていても、そうは言いたくなくて。
そうすると、フォローの言葉も歯が浮いてるみたいな気がしてきてしまって。

自分の心の狭さを見せ付けられた気分だった。

2001年08月10日(金)



 カテゴライズ

昨日の日記。
「流血」という言葉の下に、(苦悩:心)なんてカテゴリー名があると、
コンタクトレンズ踏んだなんて話題じゃ、すまないみたい。
なにげなくリストを見ていて、自分でびっくりした。

それで思い出した。
「エンピツ」でこの日記を借りるとき、
カテゴリーを考える必要があったの。
最初は「日常」にしてたのだけど、
ちょっと内容が荒れに荒れていたときに、
「『日常』なんて言葉でおさまる内容じゃないな…」
ということで、変えたんだった。
上に書いたカテゴリーに。

それ以来、変更することなく来たのだけど、
正直言って、「心系」というふうに括られるのは、なんか違うと今も思う。
というのも。
私自身、そのカテゴリーに登録されている日記を読むことはあるけれど、あくまでそのひと個人の日記を読むのであって、同じ心系だから読むわけじゃない。
きっかけのひとつではあるけれど、
当然、相性があるし、共感できる部分もそうでない部分もある。
好きになれる人の日記は、たぶんカテゴリー名なんか関係なく、
好きなままだと思う。
つまり、ヨコ意識で繋がるものじゃないと思うの。
言ってしまえば、記号にしか過ぎないわけだから。

そう言いながら、私がカテゴリー名を「日常」から変えたのは、
面白おかしさを求められるのが、嫌だったから。
ぐるぐるしている心の中をさらす場所で、
理不尽に誰かに責められるのも、
からかいを受けるのも、正直怖かった。

だから私は、このカテゴリー名を
隠れ蓑にしていたのだと思う。
これで、全く興味のない人は近付かないでしょ?、というふうに。

でも、案外まったく違うカテゴリーで登録してる人も
読んでくれてたりするのよね。
どこで見つけたの、アナタ?(笑)

けっきょく、属性なんて関係ないんだと今は思う。
だから隠れ蓑っていう意識は、もうない。
いろいろ考えてしまう人に読んでもらえる契機としては、
カテゴリー名は有効だと思っているので、
まだ利用させてもらうけど。




それから。
昨日の日記について、もうひとつ。

自傷行為には走らないだろうっていう言葉。
軽はずみだったかもしれない。
いまの私はそう断言しても、
未来のことは誰にもわからない。
痛いことが好きでしてるとか、そういうのは置いておいて、
カラダの痛みより感情のほうが勝ってしまうとしたら、
痛いのが嫌いだからヤらないだろうなんて、
簡単に言えることじゃないよね。

一生懸命に戦っている人が、確かにいるわけで。
私はけっして共感はできないけれど、
きっぱり否定するだけの強さも正しさも、私にはないから。

素直に思うところを、補足してみた。





8月1日の日記その2

長野旅行のプランをとっとと決定するために、
Rのところへ押しかける。
すぐ帰ると母に伝えたにもかかわらず、
あまりに時間がかかったので、
おばさま特製スペアリブと野菜と梅おにぎりをいただくことに。
スペアリブは、家ではまったく作らないので、
たいへん美味しくいただく。
骨がするっときれいに出るように食べられると、
なんか嬉しくなる。
スペアリブと格闘していて、ツルっとすべらせてしまったら、
Rに思いっきり笑われた。
めげずに、彼女いわく“満面の笑顔”で、食べ尽す。
だってRの母上は、料理が上手なのだ。
…嫁に欲しい。>母上

どうにかホテルをネット予約したのだけど、
けっきょく事情があって、キャンセル。
また別のところを探すことに。

で。
今度こそ私の部屋でミーティングをやらせろと、
迫られている。(苦笑)








「どんなに足の踏み場がなくても食べ残しが散らかっていても本が積み上げられていてもイイから!!!」






そんなに散らかってないよ…。(ちとショック)
掃除もしてるし、床はちゃんと見えてるしキレイよ?
ただ本棚とか机とかが整理整頓されてなくて大変なのですわ。
マットレス剥ぎとった籐ソファ(捨てようとして止められたのでまだ置いてある)とかあって、見た目非常にマズイんですね。
Rの部屋がなまじ整然としてるから、
余計に辛いな、と。

このあいだクッションをもらった身で、
もともと立場が弱いので、
しょうがないから、PCの整理をしてみたり、
部屋の片づけを始めようとしてみたり。
(で、コンタクトレンズを踏んだ…)

本の片付けがいちばん大きい問題なんだよな。
江川達也氏みたいに、
仕事の資料だって言い張って、怪しいもの堂々と陳列できる身分ならいいけどさー。

はたして土曜日までに片付くんだろうか。


2001年08月03日(金)



 流血

と言えなくもない程度の、ちょっとした出来事。

部屋を片付けていて、フローリングの上を行き来していると、なにかを踏んだ。
そして、ちいさな血だまりが。

ガラス片を踏んだ気がしたので、
母に足の裏を見てもらったが、
なにもないと言う。
しょうがないので、
点々と血を垂らしながら(笑)
自分でピンセットを探した。

それから、やっと血の止まりかけた傷口をまさぐって、
傷口を塞いでいる硬くて薄いものを取り出す。
血を拭ってみると、きらきらしたコンタクトの破片だった。

私は、使い捨てコンタクト愛用者なので、
日々、ゴミ箱に捨てるわけだけど、
薄くて小さなモノなので、
実は床に落ちてたりすることも、少なくはない。
しかも、たいがい割れてしまう。
渇くと、ガラスのように硬くなって、
しかもカーブしていて薄いので、
傷口にフィットして、食い込むとけっこう厄介みたい。
今回は、ほんの軽い切り傷のようなので、ご安心を。

最近、自分の部屋の掃除は、クイックルワイパーだけで済ませていたので、
たぶん細かなガラス片までは取りきれなかったんだろう。
気をつけなくては。

「皆さんも気をつけて」と言いたいところだけど、
こんなマヌケなことをするのは、
たぶん私くらいなものなんだろうな。(苦笑)


そういえば、何度見ても、血って見慣れないなあと思う。
たかがカラダの末端の切り傷でも、
案外しっかり血が通ってることにびっくりするもん。
よく、女は痛みや流血に強いって言われるけれど、
私自身はそうは思わない。
それとこれとは、まったくの別モノじゃないかな。

どんな状況でも、
私は自分に刃は立てられないだろうと、改めて思った。
自傷してでも愛を引き寄せるよりは、
ずっと閉じこもりっぱなしでいるほうがマシ。
たとえ拷問されても、たぶんすぐ白状しちゃうだろうな。
肉体を切ったり刺したりの痛みって、ほんと苦手。


宝塚みたいに、ガムテープで清掃しないとダメかな〜。
まだあちこちにコンタクトの破片が残ってそう。



♯♯♯



久しぶりに、SHUくんのCD(を落としてあるMD)を聴く。
夏に熱い歌を聴くのも、いいよな〜。
うん、なんか元気が出るような気がする。
でもやっぱり、生じゃない。
打ち込みの、いかにも無機質な音も、私には邪魔。
ロックなかっこいい彼には、あまり萌えないのかも。
もっと土っぽいほうがいいな。

定期がなくなって以来、
交通費の膨大さに、これまで以上に動かなくなったけど、
生じゃないと味わえないモノって、
確かにあるなあと思う。

キャラメルボックスの夏の新作も、
前売りが、早々に売り切れてしまったとのこと。
上川さんが出るから、しょうがないんだろうなー。
代わりにテレビやネットでも見られるようにするそうだけど、
仮にそうして見られても、
やっぱり、空気が伝わってこないような気がする。
再演を待つ、か。


2001年08月02日(木)



 「らしい」


たった3文字。
だけど、けっこう凶器だと思う。

友人と買い物した店で、
鬼束ちひろのアルバムが、エンドレスでかかっていた。
「好きなんだ」って言うと、
納得したような表情と
「rikoらしい」っていう言葉が返ってきた。

よくわからないなりに、反発を感じた。


私自身、「らしい」という表現をよく使う。
無意識にだから、よけい性質が悪い。
なんでこんなにレッテルを貼りたがるんだって、自分でも思う。
分類することで安心するんだろう。
それが間違っていても、たぶんあまり関係なくて。
自分が「らしい」と認識することに、意味があるだけなんだと思う。
その内容は、たいがい誉める方向にあるけれど、
決め付けていると、嫌がる人もいる。
それでも、なかなかやめられない。
自分自身がやられると、こんなに嫌な気分になるのに。


今回のは、以前私がそんなふうにレッテルづけることを嫌がった友人からの、
言葉だった。
「鬼束ちひろ=私らしい」というレッテルなら、
悪い方向じゃないと思って、
彼女はそういうふうに言ったのかもしれない。
それでも。
なにか居心地の悪さを感じた。
図星を指された不快感にも似ている。

特徴のある誰かが好きだという人のうしろには、
共通するなにかを、皆が見ている気がする。
それを好む人の、ステレオタイプを。
つまりは、「らしい」でイメージする人間像を。

私も、鬼束ちひろが好きだという人のステレオタイプを
瞬時に思い描いた。
そうして、
そこへはめられることへの反発を、感じたんだと思う。

逆にいえば、ステレオタイプとして浮かんだものが、
私にとって、ある程度図星であり、
だが、否定したくなるモノだったということ。


ただ、好きなものは好き。
嫌いなものは嫌い。
それだけでいいはずなのに、ね。

2001年08月01日(水)
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