unsteady diary
riko



 『風光る』〜自分のために

『風光る』(渡辺多恵子 小学館フラワーコミックス)が面白いです。
一気に6巻まで読んでしまいました。

ストーリーは、新撰組に性別を偽り入隊した女の子がヒロインで、彼女は父と兄の仇討ちのために武士になることを決意したんだけど、浪士たちのおちゃらけに振り回されるうちに、その後ろにあるそれぞれの気持ちに気づいてゆく。気がついたら、沖田(命の恩人で、彼には彼女=清三郎が女であることがばれてる)を好きになっているわけ。でも、沖田は、新撰組局長の近藤勇が1番大事、2番目が土方、3番目が清三郎、というわけで、彼女はいろいろ悩まされるわけだけど。
人を斬るときの怖さ、罪悪感、いろんなものから彼女は何度もつまずくけど、
けっきょくは沖田のそばにいて、守りたいという気持ちから仇討ちが終わっても、いつづける。   …つづく。


ヒロイン、なんと月代を剃られてます。(笑)
あの、頭のまんなかを青く剃るやつ。
それだけしちゃう彼女、少女漫画のヒロインにしては珍しいのかもしれないけど、いいよねえ、こういう子。

私は、予想通り(?)沖田総司にはまりました。
渡辺さんのマンガは、キャラクターが一筋縄じゃいかなくて、
そこがいい感じなんですが。
沖田も例外なくヘンな人、愛すべきキャラに描かれてますね。
いわゆるヒーローじゃなくて、もっと謎なひと。
笑いながら、人を斬る鬼。

ちょっと、『るろうに剣心』を思い出します。(笑)

あ、でも土方も、斎藤一も、そうとういい味だしてます。
とにかく、キャラがひとりひとり立ってるので、なんでもない日常が面白くなるんです。ただの討ち入りの武勇伝を読んでるんじゃなく、ふつうの人間がそれぞれの生き方を生きてたんだなあって思える作品。


私はひねくれ者で、幕末好きという人が多い中、あまり幕末のいざこざは好きになれなかったんですが。
個人のために人を斬るなら、私にも共感できる。
そう判りました。
『最遊記』が好きなのも、そういう嘘のなさに惹かれるからだと思う。

大義名分は嫌い。
世のため人のため、お国のため、学校のため?
冗談じゃないっ。
しょせん、自分は自分だ。
好きも嫌いも、生も死も、エゴと切り離せないと思っているから。
好きな人は、自分の一部。
だから、そのひとのために命を賭すとしても、それは自己犠牲というより、自己防衛だと思う。
ナショナリズムだってそうでしょ?
将軍のためにお命投げ出そうっていうのは、わかんないさ。
新しい時代をつくるため、ってのもわかんない。
でも、それが自分のためだというなら、正しくないことでも、しょうがないんじゃない?
自己犠牲でうっとりしてるより、よほど健全だと思う。
まあ、私を巻き込まないでくれる限り、
私の大切な人を巻き込まないでいる限り、勝手にどうぞ。
悪人を悪人呼ばわりできるほど、私もきれいに生きてきたわけじゃなし。
そんなもんでしょう。

エゴだといえば、後追いもそう。殉死といったほうがいいのかな。
それはもう、自分のため、だよね。
相手が自分に死ぬな、と言い残したとしても、自分がその人がいない世界に住むのが嫌だから、死ぬんだ。
いい迷惑だし、傲慢だとも思うけど、本人にとっては、なんてぜいたく。なんて幸せ。


だけど。
失敗したとしても、後悔しない生き方って、案外そんなもんかもしれない。
汚れない人生でもなく、正しいと言える人生でもなく、人に迷惑掛けまくったとしても、自分の気持ちを偽らなかったなら、たぶん後悔しないんだろう。


単純なことだけど、気づかないことが多いのは、
自分がなにを好きか嫌いか、
自分がただ単純に好奇心を持ってることかどうか、だと思う。
善悪の見極めは案外カンタンにつくものだけど。
そうじゃなくて、ただ自分がなにを望んでいるのか、はバレないように
自分自身さえ欺けるよう、透明にされてしまう。
正しいかどうか、とは必ずしも一致しない自分の気持ちを
その「色」を取り戻して、むきだしにしていられるなら、
きっと気持ちいいんだろうな。

自分のしたいこと、それだけが自分の絶対軸。
そんな生き方は、私には、何度生まれ変わったところで、できそうにないけれど。
でも、ほんのすこしだけ憧れる気持ちも、ないわけじゃない。
そんな生き方は危うくて、危ういからこそきっと魅力的。
犯罪者に惹かれる心理ってこういうものかもしれない。(笑)

2000年11月29日(水)



 安売り。

…といっても、バーゲンに行ったという話ではなく。

最近、私は言葉をすなおに出してる分、大切につかってないのかもしれないと思い始めた。「ありがとう」は、思った分だけ出そうと思っているので、だから安売りに思われちゃうのは嫌だけど、このままでいくと思う。
でも、もうちょっといろいろ含みのある大切な言葉もあるんだよね。
「大切」とか「ごめんなさい」とか、「好き」とか「理想」とか…。
その言葉を相手に送ることで、私は別に問題ないんだけど。
相手を居心地悪くしちゃうかなって、ちょっと前から考えてた。
ここ数日、特に思うところがあって
今日の日記になりました。

昨日、meeさんに私の日記は「直球」だと言われたの。
どんなところが?という質問をする前に、チャットが終わってしまったので、
それ以上は訊けなかったのだけど、最近、言葉がストレートだからかもしれない、と思った。
ストレートに物言いをすることじたいは、別に問題ないんだけど、
言葉が上滑りしちゃったら、いやだよね。

曲がりなりにも、言葉が好きだと言ってる自分。
だけど、はたして言葉を選んでるかなあ?
それは、使うだけの大きさのある感情をあらわすのに、ふさわしい言葉なんだろうか。

考えてみる。

実際、大きいと思って、私自身は使ってるような気もするの。
若さゆえの気障さもあるだろうから、未来の自分が今の自分を見たら、
きっと恥ずかしくて笑っちゃうだろうけど。
でも、いまの私には、それなりに考えた言葉であるような気がする。
でも、もしかしたら相手にはちょっと押し付けなのかもしれない。
同じだけの気持ちの大きさで、やりとりできるはずはないので。

軽く流すのはいや。
そもそも、わりと物事を重く考え、突き詰める性格なので、やっぱり言葉がおおげさになっちゃう。
そうしたら、重たいとけむたがられちゃうかなあ。
でも、それを怖がって、言葉を控えるのはきっと違う。
方便としての言葉を安売りするのは論外だけど、
ほんとうに自分の中でそのくらい大きい意味のある言葉なら、
使うのはたぶんやめないでいると思う。

2000年11月28日(火)



 支離滅裂で、いかにも小学生的日記。

深夜、R嬢の家を夜襲。(笑)
チャットで話したのち、そういうことになりました。
本のやり取りが目的だったのだけど、
とにかく家が近いからこんなことができちゃう。
もちろん、お家の方は眠ってらっしゃるので、
ピンポンも押さず、こっそりと玄関でひそひそしゃべる。
なんだか、修学旅行の消灯時間後のおしゃべりみたいだ。
わくわくする。
しゃべりたいことがいっぱいある気がする。

物理的距離は、やっぱり安心感を生むんだろうなあ。
めったに会わないのに、すぐ会えるという気がしてるから、
しばらくぶりに会おうとも、なんの壁もつくらなくていいんだよね。
すごく楽。
たとえると、パジャマでいられる、そんな関係だと思う。

開口一番。
彼女に、「これぞ通い婚って感じだねえ」って云われて、ずっこける。
後朝の歌でも、つくれっていうのかっ?!

注)平安時代は夜に男性が女性の家にしのんでいくのが、結婚の形式で、
朝に、男性が「ごちそうさま」の歌を女性に贈るのが、ならわしだったんです。(笑)私も彼女も、氷室冴子の『ざ・ちぇんじ』や『なんて素敵にジャパネスク』とかを読んで育ったので、いまだにこんな言葉遊びをしたりします。

『エイリアン通り』をfaworite wordsにアップしたために、
成田美名子作品が読みたくなって、彼女から『NATURAL』を奪い取ってきました。
雑誌でリアルタイムで読んでたんだけど、まとめて読むのも楽しいので。
ちなみに、主人公のお姉さんの名前が、本名と近いので、ちょっとどきどきするのです。(笑)

おやすみ。
ちょっといい気分のまま眠れそう。
チャットも、ひさしぶりの人とおしゃべりができたし。
すこしだったけど、私は堅いままだったけど、それでもうれしかった。

明日を、がんばろう。
そういえば、明日はオープンゼミ。
ということは、来年のお仲間になるかもしれない後輩が、いっぱい見に来るのね。
ああ、緊張しそうだ…。


2000年11月27日(月)



 チャット

某所で、ひさしぶりにチャットをした。
みなさん、お忙しい方ばかりなので、何人もそろうことなんてなかなか貴重で、
時間は長くはなかったけど、楽しかった。

話したのは、サイトの姿勢、目的、方向性について。
いろんな意見が聞けて、参考になりました。
付き合ってくれた方々、ありがとう。

カウンタの進みやBBSのカキコって、管理者としてはけっこう気になるもの。
いくら自分の好き勝手にやろうといっても、なにかを伝えたいという気持ちが強いから、私はサイトをやっているので。
(どんな人が読んでくれてるのかな?読んで、どんなことを考えてくれたんだろう?)
という思いがないわけじゃない。
もっとも、感想を強要しちゃったら、元も子もないんだけどねー。

あるサイトが、最近カウンタを外したんだけど、
それがすごく潔いなあって思ったの。
カウンタが増えること自体が目的じゃないのだから、
ほんとうは、なくてもいいものなんだよね。
でも、そこまで踏み切れないです、私は。


以前、あるところとリンクするときに、

「(自分のサイトには)少なくとも中高生だって悩んでいる子がいるから、rikoのように必死になっても模索すると姿を1つの例として見て欲しいというのと、「私の友人」を見せびらかしたいからです(笑)。

って、云ってくれたのね。
 (無断借用赦せ!私だって見せびらかしたかったのさ(笑)>R嬢)

そうして、実際に来てくださった方がいて…。
そのとき、(ああ繋がるっていいなァ)ってしみじみ思ったの。

だけど、書き込みをするのも、メールを出すのも、ほんとはすごく勇気の要ることだよね。
それはすごくわかるので、「読んだよ」とだけボタンをぽちっと押すだけのミニ掲示板があるといいね、とある人が昨日のチャットで話したのでした。


私はサイトでいろんなひとと、いろんな話がしたいです。
お天気にこと、住んでるところのこと、学校のこと、仕事のこと、食べ物のこと、
いろんなお悩み、それをくぐりぬけてきた人からのアドバイス…などなど。
ちゃんと手を伸ばせば、逃げないで向き合ってくれる人もなかにはいるんだよ。
そうやって、私もいっぱい支えられてる。
実感すると、すごく幸せな気持ちになるの。


私のサイトは、まだまだ私だけの憩いの場にすぎないかもしれない。
そもそも、それがひとつの我儘なサイトの目的なのだけど。
私が吐き出すことで楽になってるだけで、そのぶん見なくてもいい汚さや不安を
来てくれる大切なひとたちに押し付けて、背負わせているかもしれない。

けれど、私ももうちょっと大人になって、少しずつでもいいから
ここで楽になってもらえるように、
くつろいでもらえるようなサイトをつくっていけたらいいな、と思うの。
疲れるような嘘はつかなくてもいい場所になるといいな。
元気じゃないときは、元気じゃないと言える場所にしたい。
これは、私自身への戒めでもあるけど。(笑)


meeさんのサイトは、気がつくといろんな人が集まってきます。
疲れたときにぶらりと立ち寄る喫茶店みたい。
けんとさんのところは、癒されるための言葉を売ってるヒーリング専門の本屋さんみたい。
りょうかさんのところは、ぴしっと気合入れたいときにいくところみたい。

うちは、「ひりひり」(bymeeさん)させるメントールなサイトです。
ひりひりってちょっと痛いよね?
わざわざ「ひりひり」したくないときは、来たくないかもしれない。
実際、いまはまだ、そんな感じなんだろうなあ。
でも、できるなら、もっと心地よい「ひりひり」にしていきたいです。


私が無理やり引っ張ってきて、そのままここを支えてくださってる方へ、
「これからも、どうぞよろしく!」
そして。
「はじめまして」の方も、よかったらコミュニケーションに参加してみてくださいね。

2000年11月26日(日)



 フェミニズム

先日、いくつかの大学のゼミが合同で研究発表する催しがありました。
でも、なにやってるんだかよくわかんない研究です。
専攻してる社会学じたいが、世の中に役に立つようなものじゃないからねえ。
高い学費払ってなにやってるんだ?と父に言われましたが、まったくそのとおりなので、反論できませんでした。

遠いかった。>目的地
寒かった。山だった…。
受験のときに一度だけ行ったことがありますが、そのときは雪だったなあ。
しかも帰り道に中央線が人身事故で止まって、1時間半も足止め食らった覚えがあります。なんで中央線ってあんなに人身事故が多いんでしょう。
噂では、あのチャイムみたいな音楽に、ふらふらと飛び込みたくなるって聞いたけど。なんにせよ、あえて電車を選ぶのは、社会に対するさいごの復讐なのかなあ、と思ってしまう。
切ないね…。人身事故だと聞くたびに、やはり平静ではいられないもの。


合同ゼミの話。

うちは共学なんだけど、4つのなかにひとつだけ女子大が入ってるの。
女性学(フェミニズム)をやってるんだけど、やっぱり他大学から突き上げをくらってました。
質疑応答の時間には、女性としてのホンネの部分を、攻撃されつづけてました。
ただ、泣きそうな顔をされると、質問者がいじめてるような気分にさせられるらしく、さいごまで討論にはならないんだなあ。
女性が発表者のときは、ほんとにそう。
一線をひいているような気がして、かえっていやですね、そういうのは。

女の子も、あいまい笑顔で誤魔化すとか、黙り込んでしまうのは違う気がする。
あと、すぐに相手に同調しすぎる気がした。
すばらしい研究だったと思うのに、質疑応答だと、その研究の姿勢がどこかへ行ってしまうのね。
でも、あのほうが角が立たなくて社会の中ではいいのかもね。
私はわりと気が強いので、討論のときは、ある程度相手を攻撃しちゃうほうだからなあ。なまじ、私はふだんは大人しいので、よけいにギャップがあるらしく、困りものです。

でも、彼女たちも、すごく難しい立場に立たされていたと思う。
ちいさい頃から躾としての女らしさを求められつつ、実際身につけてきたのに、今度は学問をやってみるといわゆる「女らしさ」は男社会に媚びるものだとわかってくる。でもそれはタテマエで、従来どおり、親や恋人は、やはり「女らしさ」を求めるだろうし、自分のホンネを変えるのはそう楽じゃない。
そうすると、女性学を勉強してみたところで、自分を変えるのって難しいね。

彼女たちはひとつの鏡でした。
自分のなかにもあるだろう無意識の特権意識を、女性だからいいか、という甘えを
再認識した気がします。


2000年11月25日(土)



 なにかのプロであること。

できるなら、仕事に誇りを持てたらいいよね。
「おまえは仕事がしたいのか?給料がもらいたいのか?」
答え―。
給料がもらいたい。
それは、生活してゆくため。
だけど、ほんとうにそれでいいの?
安定したいのだと、ただそれを口にするたび、どこかから
なにかが流れ出てゆく気がする。
それはたぶん大切なもので、でも正体はわからない。
見えないもの。
だから、無視しようと思えばできる。
でも、見えないからこそ、大切なんだと思う。


タクシードライバーの親子が日本からロンドンまで3ヶ月近い旅をする、お客をのせて走りきるという特別番組を、テレビ東京で放送していた。
面白い企画だったと思う。

(テレビ東京って、いわゆる6時からのニュース枠でただ一局、アニメを放送しつづけるという独自路線を貫き、あのポケモンで給料が払われてるようなところだったりするんだけど、企画力が優れてて、独自性の強い番組をやるんだよね。とにかく切り口が他の民放に比べて、格段に面白い。金をかけず、いかに面白い番組作りをするか、にかけてはとても上手いと思う。娯楽ばかりじゃなく、教養番組も、わりとつくるし。)

これ、東京のローカルだから、見た人少ないと思うんだけど、
タクシードライバーとしての誇りを持っていることがひしひしと伝わってきた。
ただ、飛行機でむこうに行って、パリとかをショッピングとグルメで紹介するだけの旅番組とは決定的にちがう。
アジアを横断するシルクロードは悪路が多い。
いかに安全に、客を運ぶ、車を運ぶか。
そこにプロとしての誇りがかかっているのだ。


なにかのプロであること、自分の仕事に誇りを持つこと。
それがきっとオトナであること。
生きる意味を持つこと。

わたしの好きな緒方恵美という役者さんが、昔ラジオでそんなことを言ってた。
いまでも、すごく心に残ってる言葉。
プロだから、妥協をしない。自分に恥じない仕事をする。
そう、彼女はファンに約束して。
事実、やってのけている。
役者だからってえらいんじゃない。
タクシードライバーだろうと、
役者だろうと、
自分の仕事にプロとしての誇りをもってやり通すから、かっこよくて。
惹かれるんだ。

理想だけじゃ生きてゆけないということくらい、さすがにわかっているつもりだけど、それでも給料をもらえるならなんでもいい、というふうにはまだ割り切れない。
私はとことん甘い「お嬢さん」らしい。
ずっと親のすねかじりだもんなあ…。

じゃあ、理想に突っ走るか、というとそうもいかなくて。
一方では、とりあえず女性の働きやすい職場、できるだけハードでない、年頃になっても肩たたきを受けないような職場を探していたりする。
どっちの価値観で突き進もうか、自分でも決めかねている。
こういう場合、私はとかく安全な道をとりたがるから、自分の意志をよくよく確かめないと、危ないの。
自分でも表面的には安全な路をとるべきだと思ってると思い込んでる、つまり、それが自分の意志のように、自分さえ欺いているときがあるから。
でも、そんなの長くは続かないんだよね。

あーあ。
自分が仕事のできる人間だと信じきれるなら、きっと興味を優先するんだろうな。
そうでないなら、やっぱり広くて安全な路をゆくべきか。


なにかをつくりたい。
だから、こうして、つくっている。
文章関係の仕事というわけにはいかないだろうけど、それでもなにかをつくる仕事をしたい。ただ、そこを突き詰められない。
なぜなら、つくる自分の能力に、ほんとうは自信が持てないから。
一からつくるようなオリジナリティはないんだもんなー。
作品に対して評価するのは好きだけど。
favorite wordsをコンテンツにしたのは、ただの我儘。
ああいう作業はわりと好きなの。
でも、それでお金をもらえるはずはないのだから、
やっぱりおとなしく、興味は趣味の域で収めとくのが無難だろうなー。

まわりからの変な期待。
昔の知り合いに会うたびに云われる、語られる、「私」の像。
見栄っ張りで外面のよい「私」が、一人歩きしてる。
それに、自分もひきずられてる。
だけどね。
私くらいの人間はどこにでもいるんだよ。
これじゃあ、だめなんだ。
この程度じゃ、だめなんだ。

そういう思い。
他の人にはないのかな?
それとも、私だけなのか。

2000年11月23日(木)



 更新。

sketchと、favorite wordsを更新しました。
wordsのほうは、徐々に長くなる傾向がありますね。(汗)
もっとも、最初にアップしたものは、そうとう読み込んでいて、はっきりいって、マイベストなものばかりだったので、短くてわかりやすいのが多いんですが。
詩ってそもそもは長いんだよね、わりと。
できるだけ、親しみやすいのを紹介していきたいと思ってるんで、
うっとおしがらないでくれると、ありがたいです。
マンガからもそのうち台詞をとると思うし。
マンガ大好き人間だからねー。

日記は、なんだか変におさまっちゃってますね、波が。
たぶん、片付けよう、寒くしようという一点が、意識されて、それがある程度部屋を落ち着かせたら、そこからまた平坦なモードに戻ってるんだと思う。
単純だな、われながら。(笑)
つまり、なにもない、ということ。
自分が前向きにこれをしなくちゃって迫られてる感覚がない。
めっちゃ逃げてて、やらなくちゃいけないことは、それこそ山積みなんですが…。

行き先がわからないのに走り込みをするのはきついです。
その感覚。
なにも前が見えないのに、行動するのはなかなかきつい。
すべてが無駄なような気がして、すべてが何のためのことかわからなくて、
無気力状態。

最近、書くことで、現実から逃げてる気がします。
書くことさえできずに、悶々としていた数ヶ月前よりは、よほどマシなんですが。
けんとさんやmeeさんが、お仕事とサイトを両立させてるのをみてると、
自分がつくづく情けなくなります。

書くことで救われたり、中学くらいの強気な強情な「私」が微妙に戻ってきかけたりするので、それ自体は必要なんだと思うんだけど。
ほんとうは、それより他にやらなくてはいけないことがある。
堕落した生活を送っています。
大学2年のときの目の回る忙しさに比べれば、家にいることが多くなったし、それでなにをしているかというと、とにかくだらだら。
それを楽しんでいられるならいいの。
ただ、気持ちだけは妙に追いつめられてて。
息が詰まりそうなくせに、具合が悪いせいにしたりして外に出ない。
実際からだが弱いのは事実だけど、そんなことを言ってられる身分だなんて、
ずいぶん悠長なことだよね。

突っ走っているときのほうが、ラクだった気さえする。
やらなくちゃいけないことに追い立てられるのはけしていい感じではないけど、
それでも当座のところ、漠然とした不安みたいなものは、後回しにできたから。

自分のことを自分で決めるということが、私はいちばん苦手で、つねにそういう状況になることを避けてる気がする。
そういう自分とは対照的な人間がそばにいるので、よけいにそう思う。
ある人が、国家試験の勉強に入る前まで、と6ヶ月の期限を定めてサイトをはじめたの。
彼女は、はじめるにあたって、ちゃんといろんな自分のなかでの決意をしていて、そういうのが伝わってくると、なんとなく始めたものの、先のビジョンがなにもない自分が、情けなくなる。

比べてどう、というんじゃないけど。
ある意味、目標にしてるところがあるから。
ますます、距離が広がった気がして、頑張らなくちゃ置いてゆかれると自分を奮い立たせようとするけど。

これから、なにをしたいんだろう。
考えなくちゃいけないことなんです。
このサイトとの付き合い方も。
逃げ道にしちゃわないように…。
いろいろ考えなくちゃいけないと、自分に言い聞かせてみよう。

2000年11月22日(水)



 秋の味覚。

菊を食べたの。
なめ茸と大根おろしで、おひたしにしたやつ。
食べ方はちがうかもしれないけど、食べる人は他にもいるよねえ?
この季節になると、うちではときどき食卓に上ります。
考えてみると、花を食べるのってけっこうエグいと思うんだけどな。

下ごしらえ。
菊の花びらをひたすらむしりとるの。
バラしてゆくと、指が菊の体液が染みて苦くなって、
むしった花弁は、黄色い羽根みたいに積みあがる。

そういえば、食べたくて買ったことはない。
だから、嫌いなわけじゃないけど、一人暮らしならきっと買わないなー。
もらったら食べるけど。
なくても平気なものなのに、なんで食べるんだろう。
いろんなものが、たぶん、そういうもの。

ちなみに、いかにも「草」な感じの大根の葉も、捨てないで、ラー油とかで甘辛く味をつけて炒めると、ちょっとしたおかず(おつまみ?(笑))になります。

草食でありながら肉食でもある人間って、いちばん節操がないのかもねー。だから、しぶといのか。(笑)

ふと思い出した。
昔、ツツジの蜜を吸って遊んでた。
知ってる?
ガクの部分をとったら、花の根元が甘いんだよ。
そこに吸い付くの。ほのかに甘さが広がる。ちょっとした遊びの間のおやつ。
ちなみに、私が変わってたわけじゃなく、ほかにもそうやって遊んでた子はいたけど。地域によるのかなあ?
ずっとやってると、美味しい花とそうでない花も見分けがつくようになるのさー。

いまなら、きっと虫が怖くてできない。
子供だったからできたことは、けっこう多いような気がする。

2000年11月21日(火)



 更新日記。(favorite words)

今日は、きわめてマニアックな更新をしました。
実は、反応がちょっと怖いんだよね。
でも、はじめまして、のお客様にも「私」を解ってもらおうと思ったら、
嘘をつかずに自分の価値観を表してゆくしかないから。
おそるおそるアップしてみました。(笑)

原作を知らないと解りにくいという内容のものは、できれば避けたかった。
閉じたサイトにはしたくなかったから。
いろんなひとといろんな話をしたいから。
それは、今も変わっていません。
だから、「はじめまして」のお客様の言葉はすごくうれしいし、大切にしたいと思う。
なので、ロムだけという方、いましたら、カキコしてくれると嬉しいです。
ほんとうに、怖いお姉さんじゃないですから。(笑)

今回はどうだろうなあ。
読みたいって思ってもらえるような紹介の仕方、言葉の選び方ができていたら、そこに自分が透けて見えていたら、一応それで満足なのですが。

率直な感想、正座してお待ちしています。

2000年11月20日(月)



 お片づけ続行中。

なにもなくすの。
部屋をからっぽにする勢いで。
好きなもの、いや、好きだったものを片っ端から棄てるの。
いまの自分に必要のないものならすべて。
といってもね、所詮は自分に甘い人間だから、どうしても棄てきれなくて、残るものも多いけど、なんにせよ、寒々とした殺風景な部屋にするのです。
子供部屋ではなくなりたいのです。
いつでも、あとにできるように。

基調が白なので。

白い壁。
白いカーテン。
白いクローゼットの扉。
絨毯を取り払ったので、冷たい床。

暖房がなにひとつない部屋なので、実際問題、寒いのですが。

いまの自分に必要な「寒さ」のような気がするので、
いろんなものをなくすつもりなの。

いつどうなってもいいように、身の回りを身軽にしておきたいと思い始めた。
要らないものはほんとうはいっぱいあるんだよね。
なくても生きてゆけるものばかり。
囲まれていると確かに幸せなものだったりするけど、
もうそこから動きたくなくなるから。
だから、寒い部屋にするんだ。

いつまでもつかねえ。
こんな強がり。
あたたかい色、大好きなのに。
淋しくてしょうがないのにさー。

積極的に片づけをしている自分は、もっと別にもっと早急にやらないといけないことから逃げてるんだよね、たいがいは。
本来は、ずぼらで、とてもじゃないが、整理整頓は苦手なんだから。
それよりもっともっとやりたくないことがあるのよね、きっと。



2000年11月19日(日)



 ちょっといい出会い。

何日か、少々暗めの内容が続いたので、(あっ、でも「波」と云うほどのみこまれてはなくて、自分のなかのぐちゃぐちゃ具合を少しほどこうと頑張ってるかんじなの)ふつうの日記らしいことを書こうっと。

ほのぼのする日記って、自分には到底書けないけど、(性格的に無理だろう)
読むのは好き。
いろんなことを気づかせてくれるからね。
けんとさんの日記も、だいすき。
ほのぼのじゃなくても、meeさんの日記もすごい。
影響が大きいので、あまり飲み込まれないように踏ん張ってるよう。

…こんなところで云ってるなんてね、ご本人たちにくしゃみされちゃいそうだ。(笑)


昨日、コンタクトを買いに行った。
いままでは「フォーカスデイリーズ」を使っていて、知ってる人は知ってるだろうと思うけど、破れたのがはいってたとかで企業側が回収してるのね。
で、当然買えなかった。
以前、「ワンデーアキビュー」を目医者で処方されたことがあったんだけど、これがとてつもなく異物感がすごくて、まず30分くらい格闘しないとレンズが入らないし、そのうえ、何時間ももたなかった。涙ぼろぼろだったし。でも、医者はまったく異常はないから、それで痛いなんておかしい、と苦情を言ってもとりあってくれなかった。しまいには、私も、自分が痛さを我慢できない性質だから、こうやって迷惑かけるんだと思って、けっきょくは自分が折れて、それを使い始めたんだけど、やっぱりだめで、途中でめげたの。
ああ、やっぱり私は最後まで意志を貫けないだらしない人間だなあ、と思いつつ。


それで、しばらくして、車の免許をとるために、やっぱりコンタクトが絶対必要になって、今度は昨日も行った眼鏡屋さんに直接駆け込んだ。そしたら別の(つまりフォーカス〜)を試させてもらって、あっけないほど、大丈夫だったのさ。
「おおっ!」
って、感動して即使い始めて、もう半年はたつ。
ほんとうに、世界が変わった。
0,06とか、そのくらいしかないものだから、裸眼では世界はいつだってぼやけてるの。つねに眠いような。そうやって過ごしてきたから、(めがねも頭痛の種で、勉強のとき以外はしなかったから)人の顔が、街が、すべてが見えることに、びっくりした。新鮮で、少し怖かった。人の表情が見えることって素敵で、でも怖いこと。
もっとも、いまはすっかり馴れたけど。(笑)

(ちなみに、そのようにずっと目が悪いまま過ごしてきたので、声フェチなんだと思う。人の顔を覚えるのはすごく苦手なんだけど、声はたいがい当てられる。テレビでも、声で誰だかわかることが多いし、声の演技をする人を尊敬してる。そして、ラジオも好き。←余談ですね。)

今回、自分にはとても合ってたフォーカスが、使えなくなってどうしようというとき、その眼鏡屋さんでは他には、彼の「ワンデーアキビュー」しか扱ってなくて、しょうがなく試したの。再挑戦。
そこで、思いがけないことがわかりました。
なんと、医者の処方がいい加減だったのさー。
一般的なカーブのレンズと、ちょっときつめのカーブのレンズがあって、
きつめのほうは、取り寄せになるくらいあまり普通の人は使わずに、一般用のやつで問題なく合うらしいんです。
ただ、私は今日もそれを最初に試したら、いったん入れても、すぐ外れる。まばたきするたびに、目のなかでレンズも一緒に動くありさま。
レンズじたいが大きいから、まつげもまきこんじゃうし、とにかく痛くて涙ボロボロ。
で、機械で見てもらっても、やっぱり動きまくってて、NGだったの。
「やっぱりだめですかねえ」って諦めかけたんだけど。
もうひとつのカーブのきついほうを試したら、あっさり入って、しかもフォーカスよりは異物感があるものの、まあ、つけてられないほどじゃあない。

けっきょく、そちらを買うことにしました。

家に帰って、残ってた医者から処方されたものを見てみた。
びっくりです。
そう、全然合わなかったカーブのないほうのレンズを処方されてたの。
医者だよ?ちゃんと目のカーブくらいわかってるでしょうがっ!
それなのに、あんなに訴えたのに、それでもちょっとでもそっちを試すことすらしなかったのね。
ひどすぎるっ。

それと対照的に。
眼鏡屋さんは、ほんとうにほんとうに、親切なおじさまが応対してくれました。
お客だから丁寧っていう域を越えて。

たとえば、「一般用じゃ合わなくって…」と母に私が言ったところ、
「別に『異常』ということじゃなくて、ただたんにそちらのほうが合うひともいるってことですよー」って。
他にもいろんな言葉をもらった。
視力の調整だって、ちょっとでも私が首を傾げたら、何度でも確かめてくれた。
ほんのちょっとの見えにくさの違いとかなので、私も自信なく応えてしまうの。そういうたびに、何度でも根気よく繰り返してくれた。
申し訳ながってしまう私に、ずっとほんとうの(と私には見えた…)笑顔で接してくれた気がする。
おめでたい人間かなあ?
でも、私はそう思ったの。
人間性って出るものだなあって。
彼にはちいさな日々の仕事かもしれないけど、私にはとても大きなこと。
目のことは、日常においてすごーく大きな問題だもの。
そういうふうに、相手を思いやれる人はすごい。

こういう人になりたいと思った。
応対がマニュアルで決まってるから丁寧、ということじゃなく、
ほんとうに相手が心地よく生活できるために、心を砕けるひとに。


珍しくちょっと前向き?

2000年11月18日(土)



 対等=双方向でありたいけれど。

自分は、すごく嫉妬深い人間だと思う。
そして我儘。
なのに、とても臆病だ。
それを押さえつけて生きているけど、
ときどきむくりと起き上がってきて、私をぎょっとさせる。

嫉妬や不安と無縁でいられるのは、
その人をほんとうに好きじゃないからだと
嫉妬するほど不安だらけの自分を、正当化しようとしてみる。
うまくはいかない。
…いくわけがない。
ちゃんとその人の本質を愛しているのなら、
心穏やかにいられるはずなのだ、と解っているから。

とても大切な友人がいる。
変な言い方だけど、その子に欲情しないことを除けば、
ほんとうに好きだと思う。
その言葉次第で、あったかくもなるし、寒くもなる。
こういうこと書くとやつは嫌がるだろうけど、メールの言葉でうっかり泣いたことさえある。

最近は片想いじゃないって確認できるようになったけど、
それはある程度、自分が素直になれたから。
けっきょくは、相手が開いてくれて、自分も開いていけて、双方向になったことを実感できたから、だ。
それまでは、嫉妬していた。ずっとずっと不安だった。
そのうえで、嫉妬してる自分を押さえつけていた。
どうやって?
うーんと、自分より他の子といたほうが楽しいのは、当たり前だから、自分は友達というよりお荷物にしかならないんだから、期待するのはそもそも間違ってるって言い聞かせてた…かな。
自分を否定する材料なんて、山ほどあったしね。

彼女と長く続いているわけは、やっぱり物理的な距離だと思う。
どうしても顔を見たくなる、直接話したくなることはときどきあって、
それができないと、がちがちになりかける気がする。
そういうときは、自分のなかで悪いほうに自己完結して、きつい言葉とかを本来入るべきポケットとは別のところに入れてしまったりする。
そうやって、ひとりで傷ついて、確かめたくても怖くて確かめられないときは、
やっぱり会いたくなる。
自分が落ち着いてるときは、会わなくっても全然平気なのにね。
いまは、そういうとき。
なので、メールも滞っている。
このあいだ、彼女の家に泊まって語り尽したら、
なんだかしばらくは会わなくても元気でいられそうな気がした。

そういう関係を、他の人ともつくれたらいいのにと思う。
嫌われたらどうしよう?って相手の顔色をうかがわずに
云いたいことをぶつけられるようになりたい。

だけど、そこで問題があるの。
ふつうは、相手の嫌なところって、見えるものでしょうか?
私は、相手を好きになると、欠点ってほとんど見えないんだよね。
それはもう、ほんとにどっぷりその人の価値観にはまる。
自分にはない潔さとか、自然体さ加減とか、そういうものに惚れこんでしまう。
冷静に、対等に、よいところも悪い所も見えなくっちゃ、ほんとうの相互作用なんておきないと思うのに。
どうしたら、ぶつかれるだろう。
気持ちじたい、ぶつかってないのに。
ほんとうに、心から、いろんなことをすごいと思うのに。

でも、それじゃあ対等じゃないよね。
いつもいつも誉めてばかりじゃ、どうしようもないよね。
批判、適切な意見、そういうものは、もっと成長しないと出てこないんだろうか。

ご機嫌取りで誉めてるんじゃないの。
ほんとうよ?
ほんとうなの。
そんなに私は器用じゃないもの。

でもそれじゃあ、お互いの関係で相手はちっとも成長できなくなっちゃうよね。
そういう切磋琢磨を求める人たちだから、私はとても惹かれるのに。
自分にはそれができないでいる。
ジレンマ。

感想って難しい。
湧いてくる気持ちはあるんだけど、
どうしたらいいの?
伝えたいのだけど、それはいつも、もう自分の独りよがりに尽きてしまう。

さっき話した親友さんは、文章書きだ。
彼女の文章をいくつか最初に読ませてもらったことがある。
だけど、彼女が私にくれる批判ほど、役に立つ批判は、いつもできない。
いつもいつも、圧倒されるばかりだ。
相手はもっと深いやり取りを求めているのに、それができないのは、けっこうきつい。そういう実りのあるやり取りをしたくて付き合ってるのだから、よけいに。

話をするということは、そして文章を書くということは、ほんとうに自分のなかみの薄っぺらさをさらすことだ。なにをどんなふうにどのくらい深く考えているかを、さらすことだと最近強く思う。

…怖いね。
書いたものすべてを、仕舞いこみたくなる。
それではなにも解決しないのに。

2000年11月17日(金)



 存在証明=社会に認められること?

昨日、母と喧嘩ついでに就職の話をした。
時にはうっとおしくても、身近に話せる相手など他にそうはいないので、こうやって話す羽目になる。
けっきょく、私自身も、もちろん母が嫌いなわけじゃなく、むしろ仲はよいのだし、こうして依存してるわけだ。
だから、彼女を責める資格は、ほんとうは私にはない。
昨日の日記、かなり感情的になってしまったけどね。


就職のことを考えるときも、ずっと自分の中にはびこり、膨れ上がろうとしてる感情がある。

…「失敗するのが怖い。」

そう。
今よりもっとみっともなくなるのが怖い。
責任が取れない。
覚悟が決められない。
たぶん…だから動き出せないんだ。
これ以上悪化したくないから。
できるなら。
もっとなりふりかまわず生きたいのに。
見栄っ張りで、途方もなく臆病な「私」が、どこまでもまとわりついて、
私を縛り付ける。

大学受験のときのことを思い出す。
親から絶対に浪人はさせないというプレッシャーをかけられていた私は、滑り止めばかりいくつも受けようとした。
周りからは、過小評価しすぎ、悪く考えすぎと言われたが、自分の中で失敗したときの覚悟ができなくて、自分で組んだプランは安全圏ばかりを受けるものだった。もちろん、そうして選んだ大学に行きたかったのなら、別に偏差値がどうのってことは問題じゃない。だけど、自分でも行きたいとは思わないようなところを、浪人するのが怖くて選んでいたのだ。

当時通っていた塾の信頼していた先生に「なんだこれは?!」とどやされて、
「どんなことがあったっておまえなら受かるから絶対受けろ!全部受かって来い!」と押し切られて、かろうじて思いとどまったのだけど。あのとき、「自分だけで決めろ、その結果に責任をもて」と言われていたら、私の選択は絶対に変わらなかっただろう。
結果、私の悲観的予想は外れ、その先生には「だから言っただろ」と言われてしまったが、いまでもそういう後ろ向きな考え方はちっとも変わっちゃいない。

行きたくない学校に受かったって意味がないから受けないと、第一志望しか受けなかった友人が、ひそかにかっこいいなと思っていた。
自分にはできない、とも。
彼女はけっきょく失敗したが、とても生き生きとしたいことをしている。
憧れと嫉妬とが入り混じった気持ちで、彼女を見ている私がいる。

私は、道をひとつしか選択できないなら、きっと安全な道を選ぶ。
そして、後悔する。
自分の感情を無視して選択したからだ。
でも、その感情だって自信は持てないのだから、あてにはできない。
何を捨ててもそれをしたい、と胸張って言い切れるような情熱などどこにもないから。
結局。危険な賭けをして、結果的に道がなくなるよりマシ。
そう言い聞かせて前に進むだろう。
鬱々としつつも。


就職活動が近づいてきて、そのときに解決しなかった自分の弱さがまた浮き彫りになる。以前よりもっと深刻に。ツケがまわってきているのだ。

自分が自分の価値基準に従って選ぶこと。
そして相手にも選ばれること。

つまりは、自分の価値と向き合わなくちゃいけない。
いやおうなく、自分の市場価値を思い知らされるのだ。
その価値は、たしかに一面的な価値にすぎないけれど、それでも私の評価には違いはなくて、「社会から認められない=選ばれない」ことはやっぱり私を追い詰めることだろう。

ある人に薦められた中島梓の『コミュニケーション不全症候群』を読んでいると、そういう自分の強迫観念、臆病さの根っこが、見えてくる。
見えてくるのに、まだまだ直せない。
ちっともたどりつかない。
切開したいのに、刃の先さえも届かないのだ。

仮に認められなくても、自分が自分を愛してさえいれば、他人からの存在証明なんてこれっぽっちもいらないはずなのだ。
ほんとうは。
でも、「ほんとう」まではとてもとても遠い。

2000年11月16日(木)



 久しぶりに。

…いやな気分になった。
昨日に続けてこんなんばっかりでごめんよー。(笑)
でも、やっぱり腹が立った。

買い物にいこうと母と外に出て、郵便受けを除いたら、就職関係のDMが何通か入ってたの。で、それをもって家のなかに戻って、玄関に置いたのね。そしたら母が「なにそれ?」って訊いてきた。
「別に…」というと、「自分のなにかなんだ?」ってにやけながら戻っていって、チェックしてるの。

もう、わかってたこと。
彼女が私の郵便物とか部屋とか、チェックするひとだということは。
どこまでも、子供は勝手なことはしちゃいけないんだって。
自分で稼げるようになってから、好きなことできるんだって。
親に黙ってコンサートに行ったりしたら、もうそれだけで
「聞いてないよ!」と怒る。

だけど、諦めてたけど、今日は自分のなかでの許容量が少なかったのかもしれないが、許せなかった。
思わず食ってかかってしまった。
「なんで?私は自分の好きなことをなにひとつしちゃいけないっていうの?」
って。
実際今回は見られて困る手紙だったわけじゃない。
でも、通販の一つもできない、友達の手紙だって全部親に筒抜けで当たり前っていういまの状況は相当に解せない。

部屋を子供部屋じゃなくしたかった。
最近頑張って随分整理した。あらゆるものを棄てたから。
だけど、親は棄てられない。
私自身も頼って生きてるから。
だから、親のせいばかりにはできないのだけど、
どうにかしてもう少し親の、あの罪悪感のなさ、理不尽なことをしてるとは微塵も思わない態度だけは、変えたい。
でなければ、やっぱり家を出るしかないのかな。

愚痴ばかりでごめん。
明日は元気。
大丈夫。おいしいものも食べたし。
前向きに考えるしかない。

2000年11月15日(水)



 険悪ムード

ゼミで、グループごとにちょっとした研究を発表しなければいけないんですが、
そのためのグループ内で、ちょっと喧嘩になりかけました。

私が悪い。
あとでもっと穏やかに進めればよかったと思った。
だけど、気が強いんです。
理不尽なことは我慢がならないんです。
そういう自分には、最近になってやっと気づいてきた、というか、
取り戻してきたので、
それまではおとなしい人だと見られてしまうのだけど。
だからダメなんでしょう。
ちょっとでも口調を荒げたり、きっぱりと相手を批判したりすると、
角が立つ。
ふだんおとなしく優しそうと言われる私が、
そういうことを言うから、よけいに腹がたつみたい。
ほんとうは。
私が折れて、私が仕事を率先して引き受けて、どこまでも相手の負担を軽くしてあげればいいんでしょうね。
そうしたら、和やかに場は進んだはず。
そして、やっぱり「○○さんは真面目だよねえ、責任感あるよね。よかったよかった」と感謝されるんでしょう。

そうすべきだったのか。
そうすれば、こんな気分の悪い思いはしなくてよかったのだから。
でも、私は、そうできなかった。

こういう私の行動って、協調性がないってことになるんだろうなあ。

うーん、基本的に私は攻撃的なのかもしれない。
だから、議論とかは、相手をやっつけようとしてしまう。
そういうのって、浮くんだよねえ。
実際、極端に真面目な人間だとか怖いオンナだとか、そんなふうには思われたくないっていう打算が私の側にあるのは、確かだ。

でも、穏やかな私も、また私なんだよ?
気を遣う、優しいと言われる、そういうのだって、別に無理してるわけじゃない。
猫かぶってるつもりはないのに。
どっちかじゃなくちゃ、いけないんだろうか。
そうじゃないと、嘘をついてることになるんだろうか。

なんだか、ふだんから自由奔放に生きてる人が、殊更うらやましくなった今日。
同じことを言っても、受け入れられる、それだけの魅力がその人にはあるってことなんだろうから。

2000年11月14日(火)



 BBSも仮設置。

一昨日登録したジオシティのサイトを、今日で仮オープンということに。
とにかくHTML言語がまったくわからないので、
不具合を直すのに直接ファイルマネージャーで修正するときに
HTML言語と格闘している。
プレビューで試行錯誤。
とにかくタイヘン。
これを楽しんでやれちゃうひとってすごい。
楽しくないとは云わないが、CGIはあまりに遠い存在。
どうせ、ジオではサポートされてないから、使えないんだけどね。
ああ、がっかり。
すごく使いたい掲示板があったのに…。
なんにせよ、まったく手元に参考書のない状態で
よくぞここまで作った!(笑)>自分

いつになったら、公開出来るでしょうかねえ。
わからないけどとりあえず、GO!

2000年11月13日(月)



 昔の文章、どうしよっかな。

昔の写真が出てきた。
昔の文章も出てきた。
もう、なんちゅうか、昔の自分の「生きてるじたばた」が、妙〜にいとしい。(笑)
みっともなくて、笑っちゃうんだけど、それでも今見ると、ある意味一生懸命生きてる。…そう思うな。
また10年くらいしたら、今の自分の卑怯な「じたばた」も、また可愛いもんだと笑えるようになるといい。

私は、泣きたいときは泣きたいよ。
じたばたしてる自分、無理しても笑うほど、自分を欺きたくない。

無理して笑ってる自分が居て、そのときの自分を抱きしめてあげたいと思う。
だけど、いまのままの自分じゃ、まだ無理。
きっと振り払われる。
過去の自分は、そのくらいには負けず嫌いだ。

大切な物語世界に逃げながら、
ずっとじたばた。
そのうち、じたばたに馴れてしまったのかもしれない。
どうせ世界は変わらないのだと、もう思い知ってしまったら、
蜘蛛の巣のなかでもがくのも、バカみたいだと。
死なないともわかった。
このままなら、息が詰まって死ぬほど苦しくはなくて、
自由は利かないけど、我慢しつづけられる程度の許される部分もあって。

人は有り余るものを持ってはいけないのかもしれない。
未来が有り余っていると思うから、失敗できないのだ。
楽になりたいと、生きることさえある意味厭いながらも、
心の底では、自分がいちばん死から遠い存在だと無条件に思い込んでいるのかもしれない。

やりたいことをやれるのは、もしかしたら今日限りなのかもしれないのにね。
誰にも平等に明日があるわけではないのに。

2000年11月11日(土)



 分裂気味。(笑)

今日の知識社会学で興味深かった話について。

ボルヘス著『伝奇集』のなかに「記憶のイフネス」という短編があるそうです。

主人公フネスは、超人的な記憶能力をもっている。
葉にあたる光の色から、或る日の雨の匂いまで、すべてを彼はそのまま記憶することができるのだ。

極端な例を挙げよう。
3時10分に前を向いていた犬が、3時11分に後ろを向いたとしても、彼には同じ犬であると認識できない。1分の間に、その犬は、細胞レベルでも、その姿勢からも、毛の数からも、とにかく確かに変化してはいるからである。
まったく同じ犬でさえそうなのだから、ましてや、通りがかるすべての違う個体の犬たちも、同じ「犬」という言葉で類型化することができない。
彼にとっては、すべてが、ありのままに、その些細な違いも見落とさないままに存在するからだ。

人間は、言語を発明し、文明を築くことができた。
その恩恵によって、私はこうして生きているのは確かだ。
しかし。
一般には進歩と呼ばれるその発明によって、しかし同時に、ありのままの世界を見ることは叶わなくなったのではないかとも思う。
記憶の不確かさも、言語を得、文字を得たからこそではないか。
言葉に置き換えることによって、「りんご」はあの赤いとも青いとも黄色いともいえない複雑な色に艶めく、不規則にごつごつした物体ではなくなる。
つるんとした、「赤い」「丸い」「果物」である「りんご」という総称をもつ記号で、鮮やかなビジョンは代替されるのである。
固有の甘酸っぱさは、いままで体験した「りんごの味」というものに、還元される。それは、昨日食べたものとも、一年前に食べたものとも、呼ばれ方はなんら変わらない。

フネスほどでなかったにしろ、言語をもち、文字をもつ以前は、たしかに現在より格段に記憶は鮮明で、よりありのままを写し取ろうとしていたはずなのだ。


なーんてね、レポートにしたら、Dがきそうなどうしょーもない内容の駄文を書いてみた。で、飽きた。だめだ、今日は確実に文章の神様のかけらも降ってこないやー。


源氏占いというものがある。
やってみた。
藤壺だった。(笑)
なぜやん?




エレガントな裏側に情熱の炎。自分を素直に表現して!

源氏の永遠の憧れの女性。義理の母親にあたる彼女と源氏はいつしか禁断の愛に落ちます。彼女は罪悪感にさいなまれ、ついに出家してしまいます。ふたりの間には春宮が生まれています。

もえるような情熱がハートで熱く脈打っている女性があなたです。けれど周囲の評判をひどく気にする性格なのも事実。そのため自分の欲望を抑制してしまう経験も少なくありません。いつも、やりたいことがありながらジッと我慢をする傾向なのです。
ところが、いざ目標を定めたときの、あなたのパワーのすさまじさは、まるで火の玉。どんな忠告も、助言にも耳を貸さず、まっしぐらに目標に向かってばく進するはず。しかし、それが計画を練りチャンスをうかがってのことならまだしも、あまたの場合、ほとんど衝動的に動き出すのが不安要素です。まして忍耐することに慣らされたあなたです。衝動的な行動は病み上がりの病人がいきなりプールで泳ぐに等しい危険な行い。周囲の意見に耳を傾ける余裕は絶対に必要です。これを年頭におくだけで、あなたの人生は楽しくパラ色に輝くことでしょう。

激しさを表面では隠しているため、上品でエレガントかつ穏やかな人という評価です。いつも周囲とのバランスを重視しているように見えるので頼れる女性像。でもこの点を逆手にとって無理難題を押し付ける人も。なかなか「ノー」と断れない雰囲気があなたの体から発散されているからです。

衝動的に行動するのは周囲をただ驚かすだけ。日ごろから、自然に悩みを友達に打ち明けていれば、あなたの行動を理解してくれるでしょう。


くーっ、たかが誕生日で、なんでこんなに当たってるんだよ?
他のやってみると、全然違うのも多いのにね。
それにしても、特に嫌いなキャラになってしまった。
藤壺って、いっちゃんあわれで、嫌いなの。

花散る里のほうが、好きだなあ。

http://www.genji-daigaku.com/content/person.asp

で、やれます。やってみたい方、どうぞ〜。

2000年11月10日(金)



 過去の清算

…と書くと、なんだか火遊びの後片付けみたいですが。(笑)
何年も整理してなかった棚とか、プリントとかをやっと整理してます、最近。
自分にとって使いやすいってことが目的だから、いわゆる「模様替え」ってな粋な響きはまったくないんですが、大きくて立派なのに使い勝手の極めて悪いリビングボードと格闘してました。
まだ、机のなかみは一部、小学生のまんまさー。
ほっといても、収まってはいるんだから…とも思うんだけど、
さすがにね、気分を引き締めようと思って、整理中なのです。
いっぱい、モノを捨てるのってほんと気持ちいいよ。
昔の自分のカキモノとかがいっぱい出てきて、かなりえぐいですが。

2000年11月09日(木)



 雨垂れがしみこむように

何週間かぶりに、不思議とすっきりしている気がします。
一昨日、昨日とぐるぐるしたあげくに、吐き出しまくった反動かもしれない。
結果的にはたくさんのひとに迷惑をかけちゃったけど。
いまはそうやって支えられてるのが、ちょっと素直に受け入れられそうな感じです。

ぴんと背筋を伸ばして、リュック(腰痛対策のために変えたのです(笑))をカタカタ言わせながら、早足で胸張ってすっすと歩きました。
ジーパンにスプリングコートにリュック…とんでもない格好なんだけど、
全然気にならない。

はじめて、ひとりでレストラン(安いとこだけど)に入って、堂々とパスタを食べました。これまではひとりではファーストフードしか入れなくて、わびしい食事してたんだけど。
割引のチケットがあったのね。友達誘おうと思ってたんだけど、
けっきょくうまく予定も合わないし、ひとりでなんかしたかったの。

昔は好奇心旺盛で、なんでもひとりでしてました。
どこにでも行った。
こわいものなんてなかった。
気が強いって言われるのは、この頃の名残。
ええ、子供の頃は、立ち食いそば屋さんに入って、お金がないからおにぎりくださいって言って、平然としてたもんね。
お店の人が、お味噌汁つけてくれたっけ。(笑)

そんなころの、私。
ずっと忘れてた感覚。
ひとりで知らない街を歩くのは、ほんとうは好き。
でも、忙しいと、そういう時間は、無駄なもので、罪悪感があるんだよね。


そんなふうに。
ほんのちょっとのことなんだけど、少し自分を取り戻したような気がする。
うじうじしてる場合じゃなくて、まわりはすでに将来の為に動いていて、自分のなかでがちがちになってる場合じゃない。
…就職ガイダンスにひさしぶりに出たせいもあるな。(笑)
そういうふうに、妙に意識がはっきりしたというか…。

がちがちに萎縮してたカラダもこころも、すこしだけほぐれた気分。気のせいかもしれないけど、また明日は萎縮して鍵をかけちゃうのかもしれないけど、今日は開いていたい気分なんです。

チャットで、メールで、呑み会で(りょうかさんね)
いろんなところで、言葉をもらってました。
いい加減反応が鈍いかもしれないけど、やっとやっと言葉が沁みこみはじめたような気がします。
やっと、考えるスタートラインに立てただけなんだけどね。
ほんとうに、今日は元気です。
「から元気」じゃなくって…。
ありがとう。>まきこんじゃった大好きな人たちへ

2000年11月07日(火)



 ひとりごと。

やきもち。
かっこわるい。
身の丈に合わない。
相手に迷惑。
好きな人なのに。
嫉妬するなんて、いや。

だめだよ。
こんなの。
だめだよ、自分。



2000年11月05日(日)



 ライブ×お泊り×ノックアウト(笑)

お気に入りのストリートミュージシャンのSHUくんのライブin四谷三丁目。
4時半からのスタートだと思ってたんだけど、若手がいっぱい集まったジョイントライブだったということで、SHUくんは8時からの一時間半でした。
もっとも、いかにも路上のギター一本って感じの男の子2人組のユニットが2組出てて、すごくよかった〜。
好きなことをやってる瞳をしてた。輝いてたね、
なんで好きなことをやれちゃうんだろうって、思う。
あんなに生き生き、とね。
苦しいことだっていっぱいあるはずだし、自分の才能をずっと信じつづけられるほど自惚れが強いとは限らない。
それでも、好きなことだから、やらなくちゃ自分が生きていけないくらい、きっと好きなことだから、やれちゃうんだね。

ほんとうに、自分にはないエネルギーだった。
「好き」の強さを、見せつけられた気がした。

私はこれまでの日記を読んでもわかるかもしれないけど、
ずっと鬱状態だった。
寂しくて、つながりたいのに、それができないくらいぐるぐるしてて、
とにかくわけわかんなくなってて。
なにも見えなくなってて。
少しでも見えるものに、しがみつきたくってたまらなかった。

ライブに一緒に行ったmeeさんは、隣にいても、ライブに集中してて、「生き生き」してて、考えごとしてた。
私は、物理的距離がこんなに近くても、寂しくなるんだなって思った。
手を伸ばして触れるくらいなのに、世界は別なの。
あたりまえなんだけど、そういう当たり前の事実に傷ついてる自分の幼さ加減がとても嫌だった。
私だって、好きなことに没頭してるときは、まわりなんて関係ないのくせにね。

SHUくんのライブが終わって、なんだかギターの音よりも打ち込みのほうが多くて、消化不良だったんだけど、それでもじゅうぶん楽しんで、会場をあとにした。
もう10時過ぎで、どこもお店なんて開いてなかったし、私もそのあとの予定があったので、meeさんとはそのまま駅でおとなしく別れることになった。

言葉にならないぐちゃぐちゃが、アメーバみたいに、ずっと喉をふさいで声を出なくしてる気がした。
電車がくるまで、とねだって一緒にいてもらう。
ほんのちょっとの間だったけど、少しほっとする。

電車はあっという間に来て。
あわててホームにかけこむ。
だけど、それは回送電車で。
そのうち、meeさんの姿がむこうのホームに見えて、
「回送電車だったんだ〜」と叫ぶ。
遠いからなにもしゃべれないし、別になにかしゃべりたいことが明確にあったわけでもなく。
そのうち、本当に電車が来て、乗り込み、手を振る。
たぶん、切ない表情をしてたと思う。
みっともないくらい。

気持ちが揺れて、どうしようもなかった。
meeさんのすっきりしたと見てわかる笑顔とか、
自分のすっきりしなさ加減とか。
meeさんに、まだつかわれてしまう敬語とか。
一方で私はもうコントロールできずにタメ口になってるとか。
とにかくいろんなことで、私ばかりが気持ちが揺れて、隠せなくて、みっともなくて、いやな人間になってる気がして、そういうふうに被害妄想気味に、気持ちが揺れに揺れてた。
ちょっと落ち着けば、ほんとうにバカみたいなんだけど。

そのまま、りょうかさんに電話をかける。
泊まりで呑む約束をしてたので。
12時半ごろにやっとはじめられた。

なにを話しただろう。
くだらない話から、いろいろ。
ほんとうに、いろいろ。
呑んで、食べて、パソコン見て、ある人のHPをふたりで見て、声に出して朗読。
あまりの言葉のストレートさに、ひねくれてるりょうかさんは地球の裏側までもぐってしまった。
私はというと、とにかくすごく響いたんだ。

…タイムリーだったんだと思う。
自分のぐるぐるの本質が、かなりそこにあって、どうしようもなくずきずきキてしまった。ノックアウト。
彼の文章を読んだのが初めてなわけではないんだけど、読むときの自分の状況によって、同じ言葉でも響き方ってちがうものなんだよう。

以前そのサイトに来ているある人に、彼と私が部分的に「似てる」って言われたことがあったの。
そのときは、正直ピンとこなかった。
昨日、少しだけ分かった気がした。
といっても、似てないってことに気づいたんだけど。
考え方、感じ方のさいしょの半分は確かに(おこがましいことこの上ないんだけど…)近いのね。
りょうかさんにも、その繊細っぷりに、「親戚か?」とからかわれた。(笑)
ただね、その結果、選ぶ道が正反対で。
彼はとにかく前向きで、強くて。

ノックアウトされっぱなしじゃなく、打たれ強く立ち上がれるようにならないといけないなあと思う。
思うだけで、なかなかへこむと起き上がれないけど。
でも、いい文章にあったとき、しみこむだけの余裕がある人でいたい。
せめて、素直に受け取りたいよ。


2000年11月04日(土)



 日記を書くことの難しさ。

うっとりいじけ虫の日記になるだろうことは、想像はついてたけど。
…どうしようかなあ。
思った以上に日記を書けない体質らしい。

以前、「『病んで』ると口にすることで逃げている」と言われたことがある。
心当たりはあったから、それなりにぐさっとキた。
免罪符みたいな言葉だ。
変わってることを誇りにしちゃうオタク心理と似てる気がする。

ぐるぐるしてる自分は、嫌だけど、否定はしたくない。
と思うのも、病んでるっぽい状態にうっとりしてるからなのか。

いやな気分になるキーワード。
「(いやんなるほど)変わってないね」

これを言われないために、自分をすこしずつ遠ざからせていくような気がする。
大切な人から、好きな人から、遠ざかるのは、とても愚かで、哀しくて。
でも、そうやってかろうじて、悪化をふせぐ。

変わりたくないというより、もっと悪くなることを
心の底から怖れている。
これ以上なにがあるというのか。



2000年11月03日(金)



 いろんな「好き」があるけれど。

―「好き」の気持ちは、自分を、いちばん無敵で臆病な生きものに、変えるのかもしれない。


ひとつの居場所が復活した。

私は、欠けたままの日々にすこしずつ馴れ始めていたところだった。
替りをさがして、みつけて。
そこもまた居心地のよい場所で。

だから、なにが違うとか言えはしない。
しいて言うなら、たぶん、私の安定度だけ。

あそこは、ただ、きもちが揺れる。
何故だか分からないけれど、もう条件反射みたいに、
声とか、文章とか、これまで残してくれたすこしの言葉とか。
そういうものが、湧き上がってきて、穏やかではいられない。
ざわざわする、皮膚感覚が、なにかを訴える。

人に惹かれるのに、ほんとうは理由なんてないのかもしれない。
すこしずつ、しのびこんでくるそのひとの考え方、言葉が
やがてすごく大きくなって、のみこまれそうになる。
そういうふう。

昼間も、ぼうっとしながら、よく考えている。
めったに会うことのない人のことを
なんでこんなに気にかかるんだろうって思いながら。
どちらも現実の世界なんだけど、妙にふわふわと浮遊してるみたいで。

会うまでは、ただ理想化してるためにふわふわしてるんだと思えた。言い訳ができた。でも、もう逃げ道はなくて。
別に救ってくれる人というわけではなくて。
どっちかというと、突き落とされるかもしれなくて。
こんなに時には苦しいのだし、離れてしまえばその痛みは慢性化してやがて気にならなくなるだろうとさえ思う。

ここ数日、そうやって過ごした。
あちこちで見かける書き込みにも
遠い人だと、ファンでいよう、と。
そう思いながら、引き裂かれる。

ひとりでに卑屈になるのを止めるすべはなくて。
そうやって暗くなればなるほど、重い存在になるってわかってるのに。
それでも、どす黒い塊がずっとずっと喉の奥にひっかかっている感じで。
出したら、どんなにみにくいか、解ってるから、もう一度押し込めるしかない。
うっかり浮き上がってこないように、またいちばん下に仕舞いこむ。

煙たがられないように、明るく笑おう。
そんな手段でしがみついていたって意味がないってわかってるけど。

あかの他人の感情をぶちまけられてもねえ…困るでしょうから。
そもそも、カウンセラーでもなければ、慈善家でもないのだから。
誰もが、自分の世界を大切にすべきで、
そうしてるからこそ魅力的なんだから、専念してほしい、すべきことに。
ええ、無理などしてませんよ。
これは、ホンネ。
そう、信じてるもの。
誰が?
私が。
その私を、私はまた信じられないのだけれどね。


『ゴミはお家に持って帰りましょう。
ここでは棄てないでね。
美化のためです。』

はーい、「いいこ」は、ちゃんとお部屋までもって帰ります。
他人に迷惑をかけちゃいけないですからね。
ここはもう、お部屋のひとつにしちゃいましたけど。
そのうち、こうやってゴミと埃とに埋まるのかもしれませんね。
ああ、いまも半分そうかあ。
いやだなあ、忘れてました。

なんたって、自業自得ですから。
ええ、大丈夫。今日も私は元気です。


2000年11月02日(木)



 とりあえず、歩きだして。

どっかの誰かに影響されて、レンタル日記のみ、開始。
なにごとも三日坊主の私がいつまで続くやら…。
これまでいろんなところでさまよってた自分の言葉を、どこかに集めてやりたくなったのかもしれない。

いまのところ、誰にも見せるあてなどないけれど、それでも紙ではなくWeb上を選んだのは、どこかで人の目に触れたかったから。
そうやって、こっぴどく露出することで、自分のかたちを確かめたいんだと思う。

最初に読んでほしくて、けれど最後まで見せたくない人たちがいる。
私のだいすきな文章を書く人、ほんとうに自然体で息をしている人。
その姿勢は、価値観は、いつも私を打ちのめす。

いつかは、すでに押し付けてる汚さ以上の、もっとぐちゃぐちゃで腐りきってる自分を、ちゃんと見せられる日が来るんだろうか。
もっとも、見せたところで、相手に迷惑なだけじゃないかって、思わないわけではないけど。

いつだってそんなふうに、独りよがりではた迷惑な文章になってしまわないかって気にしてる。
そんなふうに思ったら、本音のメールなんか出せるわけがない。
手を離したら、終わりだと自分に言い聞かせるけど。
どうやってしがみついたらいいのか、わからなくなりかけている。
どんどん窓が閉じられて、そのすきまから、感じて、切なくなって手を伸ばしたくなって、我に返って、あわててその手をひっこめる。
そんな日々。

なにも神聖視してるわけじゃない。
ただ、どうしようもなく惹かれる、その媚びない姿勢。
だけど、私には好きな人たちにあげられるものなんてなにもない。
惹きつける価値など、そもそもありはしない。
ほんの一時、自信がつきかけたときもあったけれど、どうしてそんな思い上がりをできたのか、もう思い出せないくらい。


変わりたいといいながら、私はありのままのぐっちゃぐちゃの自分を肯定してもらおうと躍起になってるのかもしれない。
「性格が優しい」とか、そういうふうに誉められて、嬉しくないわけがないけど、一方では、それが表面の磨いて繕った自分だと分かってるから、嬉しいぶんだけ恐くなる。
ほんとうの、強情っぱりで甘ったれのどうしようもない自分を知ってほしい。
そのうえで、好きになってほしい。
そうでなければ、いつまでたっても救われないのだ、と。
痛いほど解っているつもりで。
だけど、嫌われてもいいと開き直れるほど、私は潤ってなどいなくて。
すでに渇ききっていて。
眼下にはただ海しかなくって、もっと喉が渇いてあとで辛くなるってわかっててもなお、塩っ辛いその水を口にしてしまう漂流者みたいだ。
目の前の苦しみを癒そうとばかりしていたって、けっきょくは、あとでもっと大きな波にのまれるだけだって、教えてくれるひとが、ちゃんといるのにね。

いろんな人が、ちゃんと私を見ようとしてくれている。
たぶん。
出会って間もないけれど、そう思う。
なのに、なぜ退いちゃうんだろう。
どうしてこんなに臆病になるんだろう。
解りあえてきたような気がして、指先がふれた途端、その手を自ら離してしまう。
見つめ返せないのは、見透かされる気がするから。
これ以上、なにを見せてないというのか、とも思うのだけれど。
きっとまだ、もっとずっと深く私は膿んでいるから。
自分でも意識しないほど、それは深くて、ふと浮き上がってくる断片に、自分でも打ちのめされるほど。
あわててそれを隠して、また、上澄みのところで愛想笑いを。

強く強くつながりたいと願う一方で、相手の姿が近くに見えると突然世界を閉じてしまう…そのくりかえしで。
てんで進歩がない。
そんなんじゃ、見棄てられるって、ずっと焦ってる。
けれど、変われやしない。
すこしずつ、まわりは脱皮してゆくのに。
みにくい毛虫のまんま。

なにも他人を必要としていないわけじゃない。
つながりたいんだ、心の底から。
ただ、その心の底にさえ、自分が自分で、確信をもてないでいるだけで。

どうしようもなく濁っている足もとの世界。


ほんとうは、ひとりで立たなくちゃいけない。
ひとりで戦いに出なくちゃいけない。
愛されたいとばかり泣いていては、誰もふりむかない。
愛せない人間に、愛される資格などないんだから。


こんなふうに王子様を待ってるような自分が嫌だ。
女々しくてとっても嫌だ。
でも、それがきっと本音の部分の、「私」でもあるから。
否定すればするほど、片意地張って生きるしかない。
よけいに苦しくて、引き裂かれて、自分がわからなくなる。

私は女だ。
変えようがなく、すべてが、女だ。
考え方も、愛し方も、そこからはじまる。
強くならなくちゃいけない。
自分の足できちんと立たなくちゃならない。
それだけは、確かで。
そのとき、私は自分の「女」を、どんなふうに肯定してゆけばいいんだろう。

このしゃべり方も、言葉も、声も、しぐさも、実際にはすこしも「可愛くない」自分には似合わないなあって思ってきた。けれど、「可愛くない」自分が、せめて少しでも可愛いと思われるよう、無意識に望んできた結果として現在の「私」があるのだとすれば、それを変えようとするのは、はたして正しいんだろうか。

正しいとか正しくないとか、かっこいいとか、かっこ悪いとか、そんなことばかりで、どこまでいっても、「自分自身がどうしたいのか」だけがさっぱり見えきやしない。
してはいけないことは、わかってる。
正論だっていやっていうほど、わかってるつもりで。
ただ、自分がそこにいない。
核のないまま、どうやって変わろうというんだろうか。

それなら。
私にとって気持ちのいい状態ってなんなんだろう。
はっきりしてるのは、毎日こんなふうに鬱々としていたくなんてないということ。
負の感情だね、これは。
一方では、なにかしたいという正のエネルギーが、どこにもないような気がする。
からっぽで、刺激が肌の表面でしか受け止められない人間なのかもしれない。
いまが、ではなくて、ずっと。
それが、「私」なのだとしたら、変わろうだなんてよく言えたもんだ。

前を向きたい。
うつむくのをやめて。

でも、前ってどこにあるんだ?
どっちに歩き出せばいいんだろう?
誰も教えてくれるわけにはいかないんだ。
だいすきな人とでも、その道は共有はできなくて。
置いてゆかれたくなかったら、必死で自分の道を見つけるしかない。
なのに、私は、ずっとこの狭い部屋のなかで、ぐるぐる廻りつづけている。
そのうち、自分自身の排泄物に埋もれてしまうような気さえ、してくる。


2000年11月01日(水)
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