読書の日記 --- READING DIARY
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 クリック?クラック!/エドウィージ・ダンティカ

ダンティカが幼少期を過ごしたハイチは、今から約200年前の1804年に黒人国家としてはじめて独立を果たした誉れ高い国です。1492年のコロンブス到来以来、ハイチを含むカリブ海地域の国々はずっとスペインやフランス、イギリス等のヨーロッパ諸国に代わるがわる植民地支配されつづけました。同じく奴隷として大西洋を越えてアフリカから連れてこられたジャマイカやトリニダードの黒人が1960年代まで果たせなかったことを150年以上も前に成し遂げたジャイチは、カリブはもとより世界中の黒人の羨望の的でした。しかし同時に、独立したがゆえにハイチは圧倒的な貧困と一部エリートによる独裁政治にずっと苛まれてきました。アメリカのハイチ移民の多くもまた、それらから逃れるために命からがら海を渡った人びとなのです。

そのような過酷な歴史的、社会的現実のなかで、彼らは故郷の地アフリカの豊かな文化伝統を決して絶やそうとはしませんでした。本短編集のタイトルである『クリック?クラック!』は、そんなアフリカの口承伝統をそっくり受け継いでいます。伝統的に文字のなかったアフリカでは、「語る」ことはすべてを意味しました。語ることは伝え育むこと。人が人として生きていくための知恵や教訓、悲しみや優しさを、彼らは「語る」ことによって伝え、育んできたのです。語り手が「クリック?」と尋ねると、あたりの聴衆は待ち兼ねたように「クラック!」と答え、耳をすます。まさにダンティカはこの伝統にのっとり、時空を超えた現代の「語り手」として、新たに加えられた文字という文化を駆使し、私たち読者に「クリック?」と尋ねているのです。人としての大切な思いを伝え、私たちの心を育みたいという切なる願いをこめて。
─(訳者あとがき/山本伸 より)


それぞれ独立した短編ではあるが、どこかで繋がりがある。上記にあるようなハイチの歴史を考え合わせながら読むと、何か胸がしめつけられるような気もする。血塗られた恐ろしい現実と、死者とも会話するアフリカの不思議な伝承文化がミックスされ、時にはファンタジーのようでもあり、時には逃れようのない真実であったりする。家族の絆、祖先との繋がりを大事にする彼らの温かく心優しい一面と、それらを断ち切る無残な社会とのコントラストが哀しい。

すべての物語に、ドキっとさせられる部分があって、一気に読んでしまった。カリブの暑く湿った空気を感じながら、ダンティカの不思議な世界に引き込まれ、読み終わるまで本を閉じられなかった。




2003年04月30日(水)
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 The Yearling/Marjorie Kinnan Rawlings

映画「子鹿物語」の原作。
4月、春たけなわのアメリカの開拓地。
主人公のジョディは、一家でただ一人元気に育った男の子。他の子ども達は、すべて赤ん坊の時に死んでしまったのだ。父親ペニー・バクスターがそこに住むようになったいきさつやら、子ども達が死ぬいきさつやら、あまり陽気な話とは言えない。

この話はジョディと子鹿の愛情物語だが、いかにかわいらしい動物でも、農作物を荒らすものは、害獣として処置しなくてはならない。開拓地は人間にとっても動物にとっても厳しいところなのである。

ところでこの本、会話がずいぶんなまってるよと思ったら、舞台はフロリダ。アメリカ南部である。なんとなく西部のイメージがあったのだけど、そういえばフロリダには固有の鹿がいたっけと思いだしたりして、認識を新たにした。内容的にけして明るい話ではないのだが、文章もあまり快活ではない。お父さんやお母さんのイメージも、映画とは全然違う。

ある日、ジョディと父親のペニーが凶暴なクマを退治に行くのだが、死闘を繰り広げた挙句、ペニーも怪我をし、犬のジュリアは瀕死の重症を負った。なのに家に帰ってみると、母親に「犬は死んじまって、クマは逃がしたってのかい?」といきなり言われる。母親なら普通、だいじょうぶか?と心配しないか?(^^;

その上、犬から目を離せないから、寝室で寝せてやるとペニーが言うと、「やめとくれよ!あたしは夕べほとんど眠れなかったんだから、今夜は寝せとくれよ!」と冷たく言われる。(それとも「やめてちょうだい!あたしは夕べちっとも眠れやしなかったんだから。今夜は寝せてちょうだい!」と訳すか?いや、悪いが全然違うイメージなのだ。)仕方がないので、父と息子は、ジョディの狭いベッドで一緒に寝る羽目になる。

そもそも父親と息子はげっそり痩せているのに、母親は体もたくましく、優しさのかけらもない。ええ?映画ではあんなにきれいで優しいお母さんだったのに。。。全然イメージが違うので、面食らってばかり。何にでも文句を言う。こんなお母さん嫌だー!

開拓地でたくましく生きる主人公一家だが、ある日お父さんがガラガラヘビに噛まれるという事件が起こる。ええっ!そんなのあったっけ?という感じだが、噛まれていたんですね。(^^;

その時に応急処置として、雌鹿を殺し、その肝臓で蛇の毒を吸いだすという処置をしたおかげで、一命を取りとめるのだ。そして、やっと出てきた「子鹿」。「子鹿物語」の「子鹿」が出てくるまでに、200ページ。延々と南部訛りで、開拓地の日常生活をを読まされる。

子鹿を飼うことには、もちろん反対するお母さん。でもこのときばかりは、お父さんが「これはジョディのものだ」と強く言ってくれて、ジョディは子鹿を飼うことを許されることになるのだが・・・。

やっと本筋に入ったと思ったら、子鹿はただジョディと遊んでいるばかりで、「友達ができてよかったね、ジョディ!」的雰囲気。ジョディと親しかった近所(と言ってもかなり遠い)のフォレスター家の息子フォッダー・ウィングが、子鹿に「フラッグ」という名前を残して死んでしまったり、狼が群れになって襲ってきたり、お父さんが目の敵にしていた巨大クマのオールド・スリューフットを倒したり、クリスマスに知り合いの家が家事で焼けてしまったり、話は子鹿にはあまり関係ないところで進んでいく。

1年経ち、また春が巡ってきて、子鹿が1歳になろうという頃、作物が何者かに荒らされる。足跡から、それがフラッグの仕業だとわかり、ジョディは必死にフラッグをかばおうとするのだが、フラッグにしてみれば、そんなことはどこ吹く風。

事態は、とうとうフラッグを始末しなくてはならないところまできてしまい、ジョディは泣く泣くフラッグを銃で撃つのだが、大好きだった父親の顔も見たくないし、家にも帰りたくないと思い、家出をする。

絶望とひもじさばかりの辛い、辛い旅。最後にふと思い直し家に帰るのだが、大好きな父親との再会の場面では胸が熱くなる。リューマチで動けない父親の姿を見て、自分が一家を支えていかなければならないと決意するジョディ。辛い旅の果てに、ジョディは少年から脱して、大人の男へと変わりつつあったのだ。

子鹿のエピソードも胸を打つが、父親のクマとの対決が一番すごかった。スリルとアドベンチャーに満ちて、はらはら、ドキドキした。結局この話は、様々な大自然との過酷な闘いを通じて、ジョディが大人になっていく様子を描いたもので、映画では最も胸を打つであろう子鹿のエピソードをメインにしているが、どのエピソードもそれぞれに胸を打つ。母親の厳しさも、次第にそうしなくては生きて行けないのだということがわかってくると、逆に温かい気持ちにもなる。


2003年04月29日(火)
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 黄金の林檎/ユードラ・ウェルティ

本書『黄金の林檎』は1949年に The Golden Apples として出版された作品であるが、実はこれはウェルティーが過去2年余りの間に別々に出版した7編の短編小説を1巻にまとめたものである。
この作品は、「ノヴェル」と「ショート・ストーリー」というジャンルの柵を越えた、画期的な形式を持つ作品となっている。

これら7編の話は、深南部ミシシッピ州の北西部、デルタと呼ばれる地方の、モルガナという架空の小さな町に住む人々に、1900年代から40〜45年くらいの間に起こったいくつかの出来事を扱っている、という共通点がある。モツガナという地名は、作者によれば「ファタ・モルガナ」─ケルト神話の妖精女王モルガン・ル・フェイの作り上げた「海上の蜃気楼」の意─から取ったということである。すなわち第一話の語り手フェイト・レイニー夫人の語りが醸し出した、幻影の町とも解釈できる。そうすれば最終話が彼女の死とそれに係わる出来事で終わるのも、意味あることに思われる。
─作品解説:ソーントン不破直子(訳者)


さて、ユードラ・ウェルティの『黄金の林檎』を読み終えたのだけど、なんかねー、やっぱり私は短編は向いてないんでしょうか。でも、ウェルティは後期に授業でやるよと南さんも言っていたので、途中で投げるわけにもいかず、なんとか読了したものの、う〜ん・・・て感じ。詳しい感想は、あとで読書記録に書くとして、短編なのに全部繋がっているという面白い形ってことはわかるんだけど、そのウェルティ独特の世界に入り込めない。やっぱ翻訳のせいなのかなあ?

ところが、この本のタイトルに「新訳」とある通り、「旧訳」があるわけで、しかも出版年月日が1年しか違わない。その理由がこの本のあとがきで述べられているのだけど、すごいことになってる。つまり、旧訳がとんでもないので、見かねて新訳を出したとはっきり書いてあるのだ。ここは誤訳だ!というのも明示しているし、この訳者のソーントン不破直子さんというのは、よほど自信があったんでしょうねえ。版権の問題とか、どうなってるんだろう?と、肝心の中身より、こっちの問題のほうが興味深かったりして。

でも、旧訳のほうは知らないし、ソーントンさんの訳は正確なのかもしれないけど、なんか面白くないんだよねえ。あとがきも、「私は杉山さん(旧訳のほう)と違ってユードラと仲良しなのよ!」って感じで、ちょっといただけないんだなあ。。。(^^;


2003年04月27日(日)
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 マーティン・ドレスラーの夢/スティーヴン・ミルハウザー

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「昔、マーティン・ドレスラーという男がいた」。これ以上ないと思えるほど、簡潔で力強い書き出しが目を射る。19世紀末から20世紀初頭のニューヨーク、葉巻商の息子に生まれ、ベルボーイからホテルの経営者に登りつめた男。それがこの小説の主人公だ。では、本書はアメリカン・ドリームの物語なのだろうか?

たしかに半分はそうである。なぜならこれは「夢」に関する物語だからだ。当初、いかにも現実の歴史に沿うよう展開していた出世譚は、マーティンのホテルが次々と建造されるにつれてゆがみ、やがて夢幻のごとき色彩を帯びてくる。ホテルの内部には、森や滝、本物の動物が走り回る公園、キャンプ場、はては地底迷路などという、現実には考えられないたぐいの施設が増殖、それに歩調を合わせて地下へ地下へと層も広がってゆく。ついにマーティンは、それ自体でひとつの社会と化したかのような巨大ホテルをつくり上げるが、あまりにも常識を凌駕していたため世に理解されず、その絶頂にもかげりが訪れる――。

きわめて独特な物語世界だが、圧巻はホテルの描写だろう。輪舞のように次々とつづられていく奇怪ともいえる施設の数々。読み進むうち、いつしか読者はもうひとつの世界を築く快楽に加担している。アメリカの歴史を借りて紡ぎだされた夢幻境。それこそ、著者が創造しようとしたものにほかならない。著者は本書によってピューリッツァー賞を受けているが、そうした栄誉すら、この作品の前では幻のごとく色あせてしまう。まことに恐るべき怪作である。(大滝浩太郎)

グレイス・ペイリーの短編集『最後の瞬間のすごく大きな変化』の村上春樹の翻訳を読んだあとなので、ミルハウザーの長編『マーティン・ドレスラーの夢』は、すばらしい翻訳に思えた。もちろん柴田元幸訳。やっぱり村上春樹と柴田元幸では、比較にもならない。

ミルハウザーの本は、『三つの小さな王国』を持っていて、いつも冒頭だけ読んだあたりで、他に読みたいものが出てきてしまうので、ついつい後回しになっていた作家。

ピュリッツァー賞受賞ということで、いろいろ小難しい解説もあるが、柴田さんの解説はいつものように淡々としており、読者に下手な先入観を植え付けるものではないので(私は解説やあとがきを先に読むタイプ)、それによってものすごく期待したというわけではなかったが、ミルハウザーの独特の世界が味わえたと思う。特に、登場人物の名前が独特で、ちょっと古めかしい響きが非常に気にいっている。

ただし、物語としてはすごくお気に入りというわけではなく、春樹訳のグレイス・ペイリーを読まずに、いきなりこれを読んでいたらどうだっただろうか?という疑問は残る。ミルハウザーも細部を書き込むタイプのようで、そういう一部分は、個人的には退屈だったりもした。

しかし、グレイス・ペイリーを柴田さんが訳していたら、どうだったかなあ・・・と思わずにはいられない。もちろん途中からは柴田さんが手伝っているわけだけど、柴田元幸訳として出るのと、村上春樹訳として出るのでは、おのずと手伝うほうだって、翻訳に対する心がまえが違うだろうし、見解の相違があっても、一歩引くのは間違いないだろうと思う。


2003年04月22日(火)
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 最後の瞬間のすごく大きな変化/グレイス・ペイリー

村上春樹訳なので、ずっと見向きもしなかった『最後の瞬間のすごく大きな変化』を読んだ。

なんか、日本語が変だ。
そもそもグレイス・ペイリーの文体は難しいらしい(内容はけして難しくない)のだが、結局訳し切れなくて、柴田元幸さんに手伝ってもらったらしい。アーヴィングの『熊を放つ』と一緒。とりかかって途中で無理とわかると、柴田さんにおしつけちゃうのよねえ。何が何でも話題の作家を訳したがるってのは、やめてほしいなあ。春樹はそもそも翻訳家じゃなくて、作家なんだし。でも、ううう〜ん、感想の書きようがない。(--;

しかし、これを柴田さんが訳していたら、どうだったかなあ・・・と思わずにはいられない。もちろん途中からは柴田さんが手伝っているわけだけど、柴田元幸訳として出るのと、村上春樹訳として出るのでは、おのずと手伝うほうだって、翻訳に対する心がまえが違うだろうし、見解の相違があっても、一歩引くのは間違いないだろうと思う。

で、巻末にある解説というかあとがきは、作品や作家に対する解説に終始しているのではなく、ほとんど「僕は・・・」という村上春樹中心の内容である。

「あ、そう、あなたが翻訳してくれるんだ。ふうん、がんばってよね」と言って、持参した本にサインをしてくれた。

てな風で、グレイス・ペイリーにしてみれば、とんだ災難じゃないのか?と気の毒になった。本書について書かれているのは、巻末も巻末、最後の1ページ程度だ。そんなわけで、嫌だなあ・・・と思いつつ読んでいたので、内容もすっかり飛んでしまった。

この本、買おうと思ってAmazonにオーダーしかけたのだけど、図書館にあったので買わずに済んでよかった。まじで!

ちなみに、個人的にはカポーティの村上春樹訳(イノセントシリーズ)は好きだ。つまり、たまたま作家の個性に春樹がはまったということだろう。かといって、イノセントシリーズ以外は、お願いだから手を出さないでほしい。


2003年04月21日(月)
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 キッチン・コンフィデンシャル/アンソニー・ボーデイン

キッチンには秘密がいっぱいだ。
夏の避暑地のレストラン・ウェディング。アルバイトの大学生が目撃したのは客も花婿もほったらかして、厨房の裏でシェフとセックスに励む花嫁の姿・・・。たちまち大学を飛び出し、料理の世界に飛び込んだ著者が出会った奇人・変人・荒くれ男に料理界のあの手この手。月曜に魚は食べるな?人を殴り殺せないようなものは鍋とは呼ばない?ウェルダンを注文してくれてありがとう・・・?
超有名店シェフが暴露するニューヨークの喧騒、料理人の手の内。
――オビより

小説かと思っていたら、オレはこうして一流になったんだ!みたいな自伝。有名な店の総料理長らしいが、今のところ、お客様に本当においしいものを食べてもらおうという気遣いは一切なし。いかに仕事をこなすかといったことばかり。だからアメリカのレストランはまずいのか・・・って感じ。

あとは、これを読み終えるまでに、このシェフに料理の基本姿勢(人に美味しいものを食べさせてあげたいというただそれだけ)が組み込まれることを祈っていたが、結局、いかに仕事をこなすかということに終始し、日本料理や、あるいは家庭料理における基本的な「おいしいものを食べさせてあげたい」という気持ちは微塵も感じられず、またコックたちの賄い料理のひどさは、そのままアメリカのレストランのまずさに繋がっているんじゃないかという気もした。

酒とドラッグに浸り、寝不足でナイフやフライパンを握る。これで味覚がおかしくならないほうがどうかしているだろう。こんなことを自慢げに書いていて、またそういうシェフの料理をおいしいと思って食べているアメリカ人の味覚って、やはりおかしい。この本には料理がたくさん出てくるが、読んでいて、ただの一度も食欲をそそられたことはない。

本としてどうこうというレベルじゃないし、これがアメリカで50週以上もベストセラーになっていたというのは、一種の暴露本であるからということに他ならないと思う。



2003年04月18日(金)
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 ヴァイオレット&クレア/フランチェスカ・リア・ブロック

─ヴァイオレット
暗黒の子。全身、真っ黒の服でキメ、テクニカラーの夢をみる。

─クレア
生ける妖精。薄布と針金でつくった羽を背中にくっつけ、詩を書いて、自分についてまわる闇から必死に逃れる。

─L.A.
美しく、危険な街。花や夕陽が鮮やかに、けれど毒々しく輝き、夢が血塗られる街。

そんな街で、ヴァイオレットとクレアは映画をつくろうとした。世界そのものにむかって、こんな世界であってほしい、という姿を見せ付けてやるつもりだった。そうしたら、世界は変わるかもしれない──蝶の群れが飛び回り、星の光を塗りたくった夜の闇を、ふたりの女の子を載せたマスタングが暴走するような世界に、憎しみも闘いも欠乏も傷みもない世界に。けれど、欲望と野心が友情を引き裂き──。
(カバーより)

ブロックはブロックでしかなく、独特の非現実的な世界(かといってファンタジーというわけでもない)は、いつもと変わらないのだけれど、金原氏の翻訳が、これまたいつもと同じ調子で、いまどきの中学生や高校生がしゃべっているような文体で、ああ、またかという感じに襲われる。

ブロックは好きな作家だけれど、この日本語はいただけない。これが悪いというのではなく、いつも同じ調子なのがいただけない。同じくブロックの『ウィーツィー・バット』で評判が良かったと言って、これは『ウィーツィー・バット』ではないのだ。作家は同じでも、全く別の世界。別の話。

そんなわけで、この翻訳で読んでいると、ブロックもだんだん飽きてきてしまった。そんな作家のはずがないと信じているのだけど、翻訳で読むのはもうやめたほうがいいかも。もっとも、この調子の翻訳が気にいっている人には安心感を与えるだろうが。


2003年04月17日(木)
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 遠い声 遠い部屋/トルーマン・カポーティ

傷つきやすい豊かな感受性をもった少年が、自我を見出すまでの精神的成長の途上でたどる、さまざまな心の葛藤を描いた処女長編。─新潮社

これは、カポーティが22歳の時に出版された長編第1作目である。先日読んだ『草の竪琴(The Grass Harp)』に非常に感動したので、これもとても期待していたのだが、期待はずれ。というのも、『草の竪琴』は翻訳がとても良く、以前から抱いていたカポーティのイメージ(少年ものの作品に対して)をさらに高めたのだが、この作品の翻訳は、カポーティのそのイメージを壊してしまっているからだ。

ここで言うカポーティのイメージ、それは私個人の感じたものにすぎない。が、それに外れてしまえば私には気にいらないということになる。そしてここの感想は個人の私的な感想であるから、それを正直に書いている。この訳を気にいる人もいるだろう。しかし、私には気にいらないということだ。私が深く読み取れていないというのもあるだろうが、言葉が滑っていってしまうのだ。おそらくこんな表現ではないはずという気がして仕方がないのだ。『草の竪琴』ではこんなことはなかった。心にどんどん入り込んできて、途中で立ち止まり、その部分を何度も読み返し、感動した。

訳は正確ではあるのだろうが、言葉の選び方とか、感性の問題だろうと思う。他の本でもそうだが、だいたい会話の部分でがっかりすることが多く、これもそういった例に漏れない。これを読んでいて、ディケンズの『大いなる遺産』(山西英一訳)を思い出してしまったのは、とんでもない見当違いだろうか?これも訳が気にいらなかった部類で、なんとなく訳し方が似ているような気がした。なおかつカポーティはディケンズにも影響を受けているようなので、それほどとんでもない見当違いということでもないだろうと思う。

翻訳者の河野一郎氏の「解説」は見事だと思う。さすがにどこかの名誉教授だったり校長だったりするだけのことはあり、的確に内容をとらえていると思うのだが、それが訳に活かされていないのは、残念。解説通りのイメージで訳されていれば、まるで違うものになっていただろうと思う。翻訳は正確なだけではダメだという見本のようなものかも。カポーティのような繊細な感性を持つ作家を訳せる翻訳家は、自身も繊細でなければダメということだろうか。

しかし、この話自体が訳すには難しいものであると思う。少年が大人への一歩を踏みだす、その境目の時期の話だが、ゴシックとファンタジーが入り混じったような不思議な空間と、詩的な文章。カポーティ自身が自分はホモであると自称しているが、その片鱗も見える作品である。確かにこれを訳すのは至難の技であると思う。作品の評価も、出版当初は両極端であったが、その後アメリカ文学の古典のひとつとなるまでに至った。いずれ、ぜひとも原書で読みなおしてみたい作品である。


2003年04月14日(月)
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 ライン・オブ・サイト/ジャック・ケリー

トマス・ピンチョンも認めた話題のハードボイルド作家、ついに日本上陸!!読めば読むほど加速する、ノンストップ、ハイスピードノベル。
隣家の人妻と恋に落ちた警官は、予想だにしなかった事件にまきこまれていく─。(カバーより)

いやあ、それほどでもないでしょう。たしかに冒頭の文章が退屈なので、読めば読むほど加速はしていくのだけれど、ハードボイルドにしてはセリフが決まってないし、もちろん訳のせいもあると思うけど、軟弱な感じも受ける。でも、内容は興味深いので、滞りなく読める。

最後にどんでん返しのまたどんでん返しという感じで、たしかにストーリーとしては面白い。でもやっぱり翻訳が・・・と思ったら、この本DHCの出版で、そこの翻訳学校の受講生だった人の訳だった。女性。

女性だからというのは言い訳にはならないが、やっぱりハードボイルドとしては、この訳は軟弱だ。会話が全て同じ調子なため、登場人物のキャラ(特に主人公)が引き立たず、もっと違う訳だったら、かなり面白い作品になっただろうと思うと非常に残念。



2003年04月11日(金)
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 ロベルト・スッコ/パスカル・フロマン

Roberto Succo
Histoire vraie d'un assassin sans raison

<最悪>の青春
両親惨殺後、精神病院から脱走、無差別殺人、強盗、誘拐を繰り返し、謎の死を遂げた連続殺人犯ロベルト・スッコ。ヨーロッパ全土を震撼させ、「天使の顔」を持つとされた彼の<最悪>な青春と、追跡する警察の死闘をリアルに描く、フランスにおけるカポーティの『冷血』と絶賛された傑作ノンフィクション。――カバーより

内容は上記の通りで、事件を詳細に描いたノンフィクションなのだが、再現フィルムを見ているようで、面白い。翻訳は直訳調で、けして上手いとは言えないが、ノンフィクションであることを考えれば、事実をきちんと伝えるという性質上、仕方がないかもしれない。

装丁がほとんどPBのようで、カバーを外すと、どこから見てもブラック、ブラック、ブラック。。。中は2段組で600ページ近くの長編。装丁に惹かれて購入したのだが、中身もブラックだ。凶悪事件を一緒に追いかけているようなスリル。ただし、物語とは違うので、たいした役割でもない人物が次々に登場する。うしろの人物表や地図がなければ、混乱するかもしれない。

窃盗、誘拐、殺人を繰り返しながら逃げまわる犯人ロベルト・スッコ(最初はまだこの名前はわかっていないが)。そもそも気が狂っているので、その行動に筋書きはなく、捜査するほうでも全く予測がつかないという状況。そして気が赴くまま、手当たり次第に犯罪を犯すので、彼が出没する地点では誰もが被害者になる可能性がある。これは怖い!しかもこれはノンフィクションだから、実際に起こったことなんである。

言葉や理屈の通じない相手というのは、本当に怖い。狂人とまではいかなくとも、自分のことしか考えられない人間に、理屈を説くのは不可能のように思われる。実際、周りにもそういう人間はたくさんいる。このロベルト・スッコだけが特殊なのではないと思うと、寒気がする。

本の最初のほうは、連続殺人犯の正体が明かされておらず、ミステリーを読むような感じで話が進んでいくのだが、最後に犯人の生い立ちや、彼の内面を描いており、疑問の残るその死とともに、印象的なラストとなる。

ノンフィクションではあるが、事実は小説より奇なりという言葉どおり、けして作り物にはないリアルさ(著者の丹念な調査やインタビューの結果だと思うが)がある。

ロベルト・スッコの内面の孤独や葛藤には同情を覚えるが、犯した罪は、それでは補えない。精神病であると診断されたために、終身刑を免れたスッコだが、病院を脱走して、幾重にも罪を重ねたことを考えると、そういった責任能力がないという判断が正しいのかどうか・・・。見かけは「天使の顔」を持つというスッコ。ゆえに、スッコを英雄視する女性などもいて、複雑な思いだ。

それにしても、ノンフィクションはだいたい退屈してしまうものだが、これは非常によく考えられた作りになっていて、ミステリーを読むような興奮を味わった。ただ、フランスやイタリアの地名などに慣れていないせいで、そのあたりが読みにくいといえば読みにくい。詳細な場所の描写があっても、まったく頭に浮かばないから、面白みも減少しているかもしれない。


2003年04月09日(水)
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 パストラリア/ジョージ・ソウンダース

「この天才の登場に、米文学界の重鎮たちがこぞって狂気した」―カバーより

彼を称賛するのは新聞・雑誌などのメディアだけではない。マイケル・シェイボンやデイヴィッド・セダリスといった作家たち、ニューヨーカー誌のビル・ビュフォード、コーマック・マッカーシーやレイモンド・カーヴァー、それにアメリカにおける村上春樹など多くの大物作家を担当するゲイリー・フィスケットジョンなど敏腕編集者たちも、こぞってソウンダースの才能を高く評価する―解説より抜粋

さて、これだけベタ誉めされている作家の作品てどんなの?ともちろん読むのを楽しみにしていた。しかし、解説であげられている作家たちを見ると、好きな作家もいるが、逆に嫌いな作家もいる。彼らは私の中では相容れない同士なのだが、そういった彼らが一斉に誉めるってどういうことだ?

正直言って、表題作「パストラリア」を読んだ感想は、何これ?という感じ。いわゆる「新しい短編小説」の部類だろう。表題作は短編というにはちょっと長い作品だが、何が言いたかったのー?という疑問ばかり残る。「新しい短編小説」はそれでいいらしい。つまり物事の断片を切りとって放りだしているだけといったようなもの。サマセット・モームが嫌った手法だ。

ここで、テーマは何か?作家の言いたいことは何か?と一生懸命考えるほうが馬鹿らしいことなのか?はたまた、私がそこまで読み取れていないのか?どちらにしても、好みの作品ではなかった。あれだけの誉め言葉を聞いていれば、過大な期待も止むをえないが、それでも、またか・・・という失望は禁じ得ない。こういう作風の作家は大勢いる。大騒ぎするほどのことじゃない。

無理やり細部に説明をつければ、良いところも見えてくるだろうが、木を見て森を見ないのもどうかと思うので、全体としての感想だけにとどめるが、スラング満載の「クソ」と「糞」ばかりの本は、私には評価できない。言葉がどんどん湧き出てくるようなエネルギーは感じるし、途中、想像力が飛躍して、あちこち脱線するのも良しとするが、どの作品も結末がすべてがっかりだ。

文学は美しいだけではないことは百も承知だし、こういうのが新しい短編小説だと言われればそうなんだろうと思うが、個人的には汚い話は嫌だし、古めかしくとも起承転結のある、何が言いたいのかはっきり読者にわかる作品のほうがいい。

解説にコミカルでユーモアがあると書いてあったが、それもまるで感じなかった。これがユーモアであるとすれば、「クソ」とか「糞」に「笑い」を感じる人たちなんだろう。たしかにそういう笑いも存在する。だが、言葉を考え抜いた上質なユーモアではなく、人をいじめて喜ぶ類の笑いだ。悲惨な場面や不気味な場面もあるので、「いじめて喜ぶ類」というのは、当たらずとも遠からじだと思う。主語のない文章、形容詞や副詞がバラバラな文章を読んでいるような気分。こういった小説が高く評価されるなら、私の興味はますます古典へと向いていくことだろう。

しかし「ソウンダースのユーモアは難しい」ということなので、しばらくしたら、もう一度トライしてみようとは思う。もしかしたら「クソ」や「糞」が上品で高尚に見えてくるかもしれない。(^^;

余談だが、全ての作品に「ママ」、あるいは「ママ的存在」が出てくる。その「ママ」は、どの物語でも主人公に大きな影響を与えている存在だ。もしかしてソウンダースはマザコン?


2003年04月07日(月)
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 Betsy-Tacy/Maud Hart Lovelace

毎日1章ずつ読んで、ふふふと笑って、かわいいなあと思って本を閉じる。その繰り返し。茶色の髪をおさげにしたふっくらしたBetsyと赤い巻き毛でほっそりしたTacyは二人とも5歳。TacyがBetsyの家の前に引っ越してきて、Betsyの誕生パーティーに呼ばれた時から、大の仲良しになる。

5歳くらいの頃って、私もこういうことをして遊んでたんだとか、たしかにこんな風なことを考えてたとか、なんとも微笑ましい。この物語に悪は一切なく、美しく善良な世界である。だが、かわいいばかりではない。Tacyの家の赤ん坊が死んでしまうなど、幼い子どもに死というものを考えさせる場面もある。

大人が子どもの頃を懐かしんで読むのもいいが、同じ年頃の子どもたちが、物語の主人公と同化して楽しんでくれるのが一番いいんじゃないかなと思う。

ストーリーは全部つながっているが、1章ずつ読みきりになっているので、とびとびに好きな章を読んでも差し支えない。読了。

以下、目次。

「Betsy Meets Tacy」
「Betsy's Birthday Party」
「Supper on the Hill」
「The Piano Box」
「The First Day of School」
「The Milkman Story」
「Playing Paper Dolls」
「Easter Eggs」
「The Sand Store」
「Calling on Mrs.Benson」
「The Buggy Shed」
「Margaret」
「Mrs. Muller Comes to Call」
「Tib」


2003年04月06日(日)
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 アメリカ短編小説興亡史/青山南

副題「―とめどもなくあらわれるアメリカの短編小説をめぐる、めどもなくあられもない断片的詳説」

この本は、ほんとに「とめどもなくあらわれる」アメリカン・ショート・ストーリーに関しての歴史というか、変遷というか、そんなところだろうか。古いタイプの短編小説、新しいタイプの短編小説、そして「Eジン」と呼ばれるネット上で発表される短編小説・・・。短編小説はアメリカの国技であるとも言われているが、毎年うんざりするほどの数が出ている。「グランタ版アメリカ短編小説」や、「ピカドール版現代アメリカ小説」などの有名なアンソロジー本を軸に、短編とは何か、なぜアメリカでは短編が盛んなのかなど、さまざまなエピソードを交えて解説している。

例えば、ジョン・アーヴィングはアイオワ大学創作科でT.C.ボイルを教えていたとか(アーヴィング自身もそこでカート・ヴォネガットに教わっている)、レイモンド・カーヴァーの作品は、ほとんど編集者が手を入れており、それがカーヴァーらしさを出していたとか・・・。

通して読むと、アメリカ短編小説の流れがよくわかる。しかし下段にある注釈(実はここに面白いエピソードがあるのだが)のレイアウト(例えばひとつの注釈の続きがとびとびに何ページも間をおいて繋がっていたりする)が、どうにも読みづらい。これは著者のせいではなく、編集のせいなのだろうが、この部分が気になって、せっかくの本文(あるいは注釈の内容そのものにも)に集中できない。実に面白いエピソードがつまっているというのに、この点が非常に残念。それでも一気に読める面白さは、さんざんなレイアウトの割にはマイナスにはなっていない。


2003年04月04日(金)
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 ベッカムに恋して(B+)/ナリンダー・ダミ

ジェスはサッカーとデヴィッド・ベッカムをこよなく愛するインド系の少女。両親には”サッカーなんて男のやること”といい顔をされず、公園でこっそりボールを蹴る毎日。そんなとき、ボーイッシュな美少女ジュールズと出会い、地元の女子サッカーチーム(ハウンズロー・ハリヤーズ)にスカウトされる。家族には内緒でチームに加わり、コーチのジョーの指導で練習を重ねるうち、ますますサッカーの魅力のとりこになってゆくジェス。ところが、家族に嘘がバレてしまい・・・。
――カバーより

これはサクセスストーリー。サッカーに夢中なのに、学校の成績は一番。難なく希望大学にも合格するし、女子プロサッカーチームのあるアメリカにスカウトされて、アメリカの大学の奨学金までもらえることになる。その上、恋もバッチリ!こんな都合のいい話ってある?失敗したと言えるのは、たった1回のPKゴールだけなんてね。

何もかも手にいれちゃう人間なんて、ちょっと面白みがない。もちろん、そこに至るまでには、人種差別とか家族の問題とかいろいろ大変なこともあるんだけど、思いつづければ、何でも叶うってことなのかな?世の中そんな人ばかりじゃないでしょう。でも、部活に命を賭けてる高校生なんかには、素敵な話かも。

ちなみに原題は「Bend it Like Beckham」で、ベッカムのような「曲がるシュート―ベッカムスペシャル」を決めたいってこと。別にベッカムに恋してるわけじゃない。恋についてはまた別の人。ベッカムの名前を使えば・・・と言うのが見え見えだけど、ベッカム以外の名前では、売れないんだろうな。

こんなこと有りえない!などと突っ込みをいれなければ、さらっと読める面白い本ではある。一気に読了。


2003年04月03日(木)
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 草の竪琴/トルーマン・カポーティ

内容(「BOOK」データベースより)
両親と死別し、遠縁にあたるドリーとヴェリーナの姉妹に引き取られ、南部の田舎町で多感な日々を過ごす十六歳の少年コリン。そんな秋のある日、ふとしたきっかけからコリンはドリーたちと一緒に、近くの森にあるムクロジの木の上で暮らすことになった…。少年の内面に視点を据え、その瞳に映る人間模様を詩的言語と入念な文体で描き、青年期に移行する少年の胸底を捉えた名作。


『The Grass Harp』の繊細な文学的表現を日本語にしたらどうなるのか?という好奇心から翻訳を読んでみた。参考程度にと思っていたのに、最後まで読み込んでしまった。訳もよかったが、触れたら壊れてしまいそうな感性が非常にすばらしく、カポーティは天才だと思った。「早熟の天才─恐るべき子供(アンファンテリブル)」である。

望んでも、望んでも、二度と戻れない少年時代への憧憬に、涙が出る。カポーティのほかの少年ものの主人公もそうだが、幸福であっても不幸であっても、あまり感情を出さない少年が、淡々と語っていく周囲の出来事。しかし少年はその時幸福であったのだ。もう一度その時に戻りたいと叶わぬ思いを胸にしながら、もう二度とここに戻ることはあるまいと思いつつ、町を去っていく。町に戻ることもないかもしれないが、この幸福だった時期にはもう戻れないのだという胸がしめつけられるような思いを切々と感じる。予想を遥かに超える名作だった。


2003年04月01日(火)
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