読書の日記 --- READING DIARY
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 The Minpins/Roald Dahl

主人公のリトル・ビリーは、ある日お母さんからけして行ってはいけないと言われていた森に足を踏み入れる。この森には恐ろしい怪獣が住んでいるというのだ。実際、森には火を吐く怪獣がいた!

命からがら木の上に逃げたリトル・ビリーは、そこで不思議な生き物に出あう。「Minpin」たちだ。Minpinは、森の恐ろしい怪獣から身を守るために、木の上に住むようになった小人たちで、「粘着ブーツ」を履いているため、逆さまにも直角にも歩ける。そして驚いたことに、彼らの乗り物は鳥たちだった。

怪獣を退治しなければ、家に帰れないリトル・ビリー。怪獣は湖に沈めて体内の火を消してしまわない限り、退治できない。そこでリトル・ビリーは白鳥に乗って・・・。

絵本だが、文字の量も結構あるので、読みでがある物語。木の上の小人とか火を吐くため周囲が煙だらけで姿のわからない怪獣とか、なんとも楽しい。怪獣退治のあとも、しばらく白鳥に乗って森に行ったり、雲の中に住んでいる不思議な生き物に出あったりと、わくわくする冒険をする。しかしリトル・ビリーは子供だから白鳥に乗れるのだけど、大人になって乗れなくなると同時に、Minpinたちのことも忘れてしまうんだろうか?そう思うとちょっと寂しい。


2003年05月31日(土)
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 小説日本婦道記/山本周五郎

千石どりの武家としての体面を保つために自分は極端につましい生活を送っていたやす女。彼女の死によって初めて明らかになるその生活を描いた『松の花』をはじめ『梅咲きぬ』『尾花川』など11編を収める連作短編集。厳しい武家の定めの中で、夫のため、子のために生き抜いた日本の妻や母の、清々しいまでの強靭さと、凛然たる美しさ、哀しさがあふれる感動的な作品である。
――カバーより

主題は、作者が強調しているように、日本女性の美しさは、その連れそっている夫も気づかないというところに非常に美しくあらわれる・・・というそのことを、小説として提示することにあった。(解説より)


日本文学を読むのは、私としては非常に珍しいのだが、母に薦められて読んだ。確かにこの本を通して、身の引き締まる思いがし、それぞれの話に出てくる女性の心の美しさに、涙さえ出てくる。

この現代にあっては、男を立てるだけが女じゃないとか、これは女性蔑視であるとか言われそうだが、そういうことではなく、夫も子供も親も、自分の愛する者として、愛する人のために我が身を捧げることは、女性蔑視でもなんでもないではないか。私には当然のことと思われる。武士は大変なお役目とはいえ、現代にもそれはあてはまる。家族のために毎日辛い思いをして働いている夫たち、その夫に最大限の愛情を持って接することは、人間として当たり前だ。

ただここで涙が出たりするのは、それを人知れず、夫にも気づかれないようにやってのける無私の心だ。普通ならば、私はこれだけのことをした、だから認めて欲しい、誉めて欲しいと思うだろうが、余計な心配や気苦労を味あわせたくないという、これも深い愛情である。

ここには不倫だの浮気だの、一切ない。そればかりが真実ではないだろうが、一生をそうしてそいとげることは、並大抵のことではないし、変わらぬ愛情を注いで、お互いに忠誠を尽くす夫婦とは、なんと素晴らしいものだろうと思う。自分の欲ばかりを追っている現代社会において、本当に身の引き締まる、美しい話だ。

夫も苦しむ、その夫と妻も一緒になって、苦難を乗りきっていくという姿、それこそが夫婦というものなのだろうと思う。信じ合っていなければできないことである。やってあげたことを認めてくれないなどと文句を言ってはいけないのだ。真の愛情は見返りなど期待しないものなのだから。

冬の寒い朝のように、凛としてすがすがしい、そんな気分になる。それにしても昔の日本語は美しい。昔の女性もまた美しい。そしてまたその美しさに感動する。

<参考>
『日本婦道記』は、昭和17年6月から終戦後の昭和21年まで、総数31編にわたって執筆された読切連作。本書に収められた11編は、山本氏自身が“定本”として選定したもので、他の20編に比べて、とくにすぐれている。


2003年05月30日(金)
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 フリップ村のとてもしつこいガッパーども/ジョージ・ソウンダース

絵本です。でも幼い子向けというよりは、大人が読んで楽しめる、あるいは考えさせられる本かも。ジョージ・ソウンダースは『パストラリア』を読んで、好きになれなかった作家だけど、この絵本の感覚は好き。訳がいいのかも。<お世辞じゃなく、ほんと!

「ガッパー」というのは、ウニに目がたくさんついているような奇妙な生き物で、海から上がってきて、ヤギにとりついて(ヤギを食べたりするわけではない。ただひっついているだけ)、怖がらせる。そりゃそんなものが体にびっしりくっついてたら死ぬほど気持ち悪い!その結果、お乳もでなくなり、ヤギの乳を売って暮らしている村人は生活に困ってしまうというわけ。

この村の子供たちは、ヤギからガッパーを取って捨てるという仕事をやらされる。それが毎日毎日大変なのだ。ある日ガッパーどもは、少女デキル(Capable)の家に大挙して押し寄せた。なぜなら、そこが一番海に近かったからだ。そこから事態は変わり始める。。。

取りつかれたら気持ち悪いガッパー。ほんとにとてもしつこいガッパー。でも、私はガッパー好きだなあ。意味もなく物に取りついて、ある程度のことは考えられる脳みそもあって、しつこいくせに諦めも早い。ほんとはガッパーでなく、少女デキルをはじめとする人間のご近所づきあいのほうにテーマはあると思うのだけど、ガッパーのような生き方って楽でいいなあと思う私なのであった。

「たくさんの人たちが同じことを大きな声で言っているからといって、それが真実とは限らない」─これがソウンダースの言いたいことだったのだろうと思うが、私個人は、主人公の少女デキルやガッパーどもみたいな発想の転換ができるということが大事なんじゃないかなと思った。いつまでも古い考え、一般的大多数の考えに縛られて、どうにもならなくなっているのではなく、想像力豊かに、前向きに、発想の転換をして生きていけば、きっとも少し楽に生きていけるはずだと。


2003年05月29日(木)
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 ダロウェイ夫人/ヴァージニア・ウルフ

内容(「BOOK」データベースより)
ジョイスの『ユリシーズ』と比較され、ウルフが独自の小説作法を確立した傑作。自宅で夜会を催す日の朝、51歳のダロウェイ夫人は不意に死の不安に襲われる。ロンドンの六月の一日を、多様な登場人物の三十年余に渡る過去に重ね合わせながら描き出す。


これは降参。まるでわかりません。
「意識の流れ」という手法で書かれているのだが、ひとつのパラグラフの中で、最初はダロウェイ夫人のことが書かれているのに、最後は違う人のことになっている。それがあちらの人、こちらの人とめまぐるしく変わり、わけわかりません。たった1日の間に、30年余りの出来事が描かれているのだが、それぞれの出来事にもまるで興味がわかない。

訳も「〜夫人」というのを意識しすぎなのか、「・・・ですわ」「・・・だわ」という文章が、わざとらしくて好きになれない。ジェーン・オースティンの作品の訳みたいに、普通の語尾のほうがよほどいいだろうにって感じ。原文で読めば、違うだろうか?

ウルフの作品は、興味はあったものの、今までどうしても手に取る気になれなかった。この直感というようなものは、当たっていたかもしれない。私には向かない。

◆[意識の流れ] stream of consciousness

文学用語としては、人物の意識の中で次々に生起する印象、思考、感情、想起などの複雑な流れや動きを、作家が順序立てずに記録していく技法をいう。デュジャルダンが先駆とされ、20世紀にはジョイス、ウルフ、プルースト、フォークナーなどが発展させた。


2003年05月28日(水)
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 HOOT(ホー)/カール・ハイアセン

内容(「MARC」データベースより)
中学生のロイはある日、裸足で走る不思議な少年に出会う。彼は建設現場のフクロウの巣を守ろうとして闘っていた。子どもたちと大人の闘いをユーモアたっぷりに描きだすYA文学。



主人公のロイは転校ばかりしていたので、いじめっ子にはなれていたが、今度はなかなか手ごわい。でも、いじめっ子のダナに対するロイのクールさ、淡々としていながら、それでいてちゃんと自分を持っているロイがすごい。

両親思いのロイは、両親を悲しませないようにと努力して、ずっといい子でいたのだが、裸足で走る少年に出会ってから、そういうわけにいかなくなった。ロイには正義感が芽生え、熱い心を持つ少年に成長したのだ。

自然を破壊する大人や社会に完全と立ち向かう子どもたち。なんだか出来過ぎのお涙頂戴ものみたいな設定だが、ユーモラスな語り口に、嫌味はなく、こんなにいい子ばかりなら、地球は滅びないよと安心したりもする。少年たちの暴力やセックスやドラッグの話ばかりじゃ、いい加減うんざりして、この世も終わりと思うしかないが、こういう「いい子」たちの話は、たまに読むとほっとする。だが、これは大人が書いた「いい子」であって、本当の少年たちはどうなんだろうか?



2003年05月27日(火)
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 息吹、まなざし、記憶/エドウィージ・ダンティカ

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カリブ海に浮かぶ大きな島イスパニョーラ島を、ドミニカ共和国と二分する国ハイチ。「息吹とまなざしと記憶がひとつになる土地」ハイチに生まれた母と娘の物語だ。

主人公ソフィーは12歳のとき、顔さえ覚えていない母といっしょに暮らすために、生まれ故郷の貧しい村からニューヨークへ出て、思いがけない事態に直面する。恋人ができたとき、母から処女膜検査を受けることになったのだ。そんなことに耐えられないと家を飛び出すソフィーだったが、母が故郷ハイチを出る前に受けた無惨な体験を、少しずつ娘も理解するようになる。

ニューヨークへ渡っても、母の無意識のなかに蓄えられた、いまわしい記憶は消えることがない。そんな母への愛憎相半ばする感情に戸惑いながら、生まれたばかりの娘を抱いてハイチへ帰郷したソフィーを待っていたのは…。ストーリーは悲しい結末を迎えるけれど、一気に読み終えたあとに不思議な解放感が残る。

ハイチはヨーロッパの植民地として過酷な体験をもち、早々と革命による独立は果たしたものの、いまも不安定な政治や経済状況に苦しむ国で、著者はそれを「悪夢が家宝のように何代にもわたって受け継がれる国」と呼ぶ。

ダンティカは1969年生まれの、才能あふれる若い作家。文字をもたない女たちが、ハイチの民衆言語クレオール語で夜ごと語り継いできた物語を聞きながら育った。幼いときに耳にした「物語る声」が体中にぎっしり詰まっている。その声の世界に文字を与え、多くの読者に開いてみせることのできる作家だ。暮らしのなかの辛苦、女や力なき者にふるわれる暴力といった、旧植民地社会にいまも残る悪夢を解毒する「語り」の力を、とことん知っている作家でもある。

2作目の短編集『Krick? Krack!』(邦題『クリック?クラック!』)で全米図書賞の最終候補にもノミネートされた大型新人。98年9月には『The Farming of Bones』も出版。2001年1月には初来日を果たした。(森 望)



前に読んだ『クリック?クラック!』もそうだったが、ダンティカには、読み終えるまで本を閉じさせない不思議な魔力がある。本書には、悲痛な出来事が描かれているのに、どんどんページをめくらせる。一言で言ってしまえば「面白い」のだけれど、読後は胸が痛い。現実の今の生活の中にハイチの昔語りが加わって、独特の雰囲気をかもし出すダンティカの世界は、やはり魔法がかかっているような不思議な魅力に溢れている。




2003年05月26日(月)
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 ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹/ジェフリー・ユージェニデス

内容(「MARC」データベースより)
リズボン家の姉妹が自殺した。何に取り憑かれてか、ヘビトンボの季節に次々と命を散らしていったのだった。美しく、個性的で、秘密めいた彼女たちに、あの頃、ぼくらはみな心を奪われ、姉妹のことなら何でも知ろうとした。だがある事件で厳格な両親の怒りを買った姉妹は、自由を奪われてしまった。ぼくらは姉妹を救い出そうとしたが、その想いが彼女たちに伝わることは永遠になかった…甘美で残酷な、異色の青春小説。


姉妹の自殺からかなりの年月が経ち、語り手は当時を思い出して、その衝撃を克明に描く。最初の一人が自殺したあと、次々に自殺していくのかと思ったら、そうではなく、終焉は一気にくる。彼女たちの心の動きは本当のところ何もわからず、語り手とその仲間の第三者の心の動きが緻密に描かれているのだが、ここで、もしかしてこれは覗き趣味?あるいはストーカーではないのか?という疑問を持ってはいけないんだろうな。でも、彼女たちの服や持ち物、匂いまで描いているとなると、一歩間違えば、気持ちの悪い小説になるんじゃないだろうか?

解説に「結局、リズボン家の姉妹を引き裂いた責め苦は、単純な道理に基づいた拒絶に由来していた」とあるが、姉妹が社会を拒絶していたにしろ、社会が姉妹を拒絶していたにしろ、「拒絶」とか「無視」とかいったことは、十分「自殺するに値する絶望」を与えるものだと思う。『朗読者』を読んだときにも痛切に感じたが、こういうことは実際の社会の日常生活にも頻繁にある。そういう意味で、私はこの部分に非常に重たいものを感じた。



2003年05月25日(日)
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 フォックスファイア/ジョイス・キャロル・オーツ

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ジョイス・キャロル・オーツの『Foxfire』の邦訳。

舞台は1950年代アメリカ・ニューヨーク州の小さな町。女子高校生が結成したフォックスファイアの活動の記録を、主要メンバーだったマディ・ワーツが回顧する。蛇行するような不均一な語りは、マディのフォックスファイアへの複雑な思いを表現しながら、同時に高校生のはつらつとした迷走ぶりをうまく再現している。

フォックスファイアの活動は、主に性的いやがらせをして女の子を食い物にする男たちに、目に物をみせてやることにある。町の大人たちは、ただのギャングだと思っているのだけれど、彼女たちは志高き正義の味方、とくに女の子の味方なのだ。

強烈なカリスマ性をもつリーダーのレッグズは平等主義者でフェミニスト。ときに資本主義を批判するなど多分に政治的。しかしメンバーたちはレッグズの思想を完全に共有するまでには至らない。たとえば、レッグズが友人とする黒人の女の子たちはメンバーの猛烈な反発にあって受け入れてはもらえなかった。

こうした青春の物語が、とくに政治運動のような体裁をとると、いかに高潔な志のもとに集まろうと、学生運動の苦い記憶に重ねられて、未熟な子供たちの暴走ということでまとめられてしまいがちだ。しかし、この物語の結末では、我らのレッグズのその後が、希望として確保されているところを最大限評価したい。

こんな痛快な小説を知らなかったなんて、これこそ女の子にとって、フェミニズム的大問題だ!(木村朗子)


訳者あとがきより
舞台はニューヨーク州北部の架空の小都市ハモンド。フランクリン・ライブラリー版に寄せられたオーツ自身の序文によると、ハモンドは実在するロックポート(人口25000)とバッファロー(人口30万強)とを合成した街だとのことだ。だが、位置も規模も(おそらくは雰囲気も)前者に近いだろうと察せられる。この小都市は1990年発表の長編小説、『Because It Is Better, and Because It Is Heart』の舞台にもなっている。幼いころのオーツが家族と住んでいた地域にも近く、彼女にとってはひときわ愛着のある土地なのだろう。

本書で、おもに描かれている時代は1950年代だ。地元のハイスクールに通う5人の少女が、レッグズという中性的な魅力を持つリーダーを中心に、フォックスファイアをいう名の集団を結成した。ただの仲良しグループではない。なにしろ肩に炎の刺青を彫り、出血が止まったところで互いの傷口と傷口とを擦り合わせる「血盟の儀式」をおこない、家族よりも強いきずなを誓い合った5人なのだ。

90年代初頭になって、オリジナルメンバーの一人であり自分たちの行動記録をまとめる係だったマディが、そのノートをもとに「告白」録を発表する。秘密集団だったけれど、もうあれからかなり時間が経っているんだからいいではないか、ここで過去を振り返ってみよう――『フォックスファイア』はそんな形式を採った作品だ。




Amazonの解説に、「フォックスファイアの活動は、主に性的いやがらせをして女の子を食い物にする男たちに、目に物をみせてやることにある」とあるが、これは間違っている。最初の目的はけしてそうではなかったはず。この年頃の自分のことを思い出せば、彼女たちのグループ結成の気持ちの高揚は、手に取るようにわかる。また「女の子」というのを必要以上に強調しているような気がするが、それもまた見当違いだと思う。たしかに主人公も活躍するメンバーも全部女の子には違いないが、それを軸にハモンドという町、そこに住む人々を描いているのだ。ひいては、50年代のアメリカをも描いている。オーツの視点は、単なる「女の子」に終わっているのではなく、もっと大きなものを見据えていると思う。

そしてフォックスファイアは、基本的には女の子の味方ではあるが、大きな意味でとらえれば、弱い者の味方である。最初は正義感に溢れていたはずが、最後は取り返しのつかない犯罪を犯すに至る。その過程が悲しい。彼女たちの活躍は痛快なのだが、その裏で、各自の苦悩も大きくなっていくのだ。

この子たちはどうなっていくのだろう?という興味で、後半どんどん読んでいったが、最後はさすが多作のオーツといった感じで、きれいにきっちりまとまった。終わり方に感動。



2003年05月20日(火)
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 ドラゴン・ガール(BOOKPLUS)/九丹

龍のようにしぶとく、現地の男たちを食い物にする“ドラゴン・ガール”。それが、海外で暮らすわたしたち中国人女性に付けられた呼び名だ。けれど、なにが悪いというの?新聞記者としての仕事も家族も捨ててシンガポールに渡ったのは、裕福になって良い暮らしをするため。そのためなら、娼婦と言われてもかまわない。必ず見返してやるわ──衝撃的な内容に批判殺到!
─カバーより

本書は、中国で出版されると同時に問題作として物議をかもしました。批判の大半は、わたしが中国人女性を侮辱しているという主旨のものでしたが、わたしは自らの経験をふまえて女性のうちにひそむ邪悪な部分を示しただけで、中国人女性を誹謗中傷したつもりはありません。
わたしは、本書の主人公ヘレン以上に自分が清らかな女性だと考えたこともなければ、読者のみなさんや姉妹がヘレンと種類の異なる女性だと考えたこともありません。女性はみな、生まれながらの娼婦なのです。
─著者あとがきより


アジアの小説には今のところあまり興味がなかったのだが、BOOKPLUSなので惰性で読んだ。

まずカバーの文章にカチンと来た。つまり「欲」のために娼婦になるわけねと。次に著者のあとがき(批判に対する言い訳のようにも思えるが)に、「読者のみなさんや姉妹はヘレンと種類の異なる女性だと考えたこともありません」とあるが、私はそれに対して共感は持てない。たしかに女性の内なる部分に邪悪なものがあるのは認めるが、だからと言って、誰もが嘘をつき、体を売り、殺人までするのか?それは極端な話だとしても、誰もがそんなことを考えているわけじゃない。日本には「清貧に甘んじる」という言葉もある。欲に突き動かされて、自分を貶める女性ばかりじゃないのだ。

全体のイメージとしては、陰湿。読後感は嫌な気分。主人公のヘレンを含め、この先どうなるのだろう?という興味は大いにあったが、彼女たちの目的は、ただいい暮らしがしたいというだけなのか?それも男に頼るばかりで、他人を傷つけるのも平気。自分を磨いて前向きに生きていくという姿勢がない。「見返してやる」とは誰に対して言っているのだろう?シンガポールに行く動機もわからなければ、その先の夢もわからない。

もちろん中国人女性が全てこうだとは思わない。でも、この主人公の性格は嫌だ。こんな女にはなりたくない。



2003年05月16日(金)
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 悩める狼男たち/マイケル・シェイボン

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ポールの家の隣に住むティモシーは、ひと癖もふた癖もある小学生。いつもいろんなものになりきってしまう彼だが、狼男はやりすぎだった。女の子にかみついてケガをさせてしまったティモシーは、校長先生に呼び出されてしまい…。

思春期の少年たちが抱える悩みを描いた表題作のほか、不妊症で悩んでいた妻が連続レイプ犯に犯され妊娠、その赤ん坊を産むことに決めた彼女に対する夫の心の動きを描いた「狼男の息子」、そして考古学者が調査に訪れた町で出くわした恐ろしい体験をつづった怪奇小説「暗黒製造工場で」など短篇9篇を収録。

著者は『カヴァリエ&クレイの驚くべき冒険』で、2001年度のピューリッツァー賞フィクション部門を受賞、マイケル・ダグラス主演で映画化された『ワンダー・ボーイズ』などでも知られるマイケル・シェイボン。本作品は短篇集第2作となる。現代のどの家庭にもありそうな、どこかぎこちない家族関係をどうにかして修復しようと試みる悩める人たち。そんな彼らを、ときには温かく、ときには辛辣に描いている。

「狼男の息子」で、冷えきった夫婦仲を元に戻すきっかけを作ったのがレイプ犯であること。出産が遅れている妻に、夫の威厳をなくしていた彼が行った「処置」。そして出産後、赤ちゃんを交え親子3人を看護婦がカメラに収めるシーン。著者の毒のある独特の発想とストーリーには、社会に対するアイロニーが多分に含まれている。(石井和人)

目次
悩める狼男たち
家探し
狼男の息子
グリーンの本
ミセス・ボックス
スパイク
ハリス・フェトコの経歴
あれがわたしだった
暗黒製造工場で


本書に寄せられた賛辞

◆軽妙な筆致と比喩で読者の心をとらえ、華麗な文章で実になめらかに描いている。
―ニューヨーク・タイムズ(ミチコ・カクタニ)

◆シェイボンお得意のウィットにとみ、比喩の中に鋭い観察が潜む文章が鮮烈だ。
―ニューヨーク・タイムズ(マイケル・ゴーラ)

◆うれしい裏切りが読者を待ちうけるスマートな小説。シェイボン特有の風刺が抜群に冴えていて、”風刺喜劇”とでもいうべき貴重な一冊だ。
―ロサンゼルス・タイムズ(リチャード・イーダー)

◆この小説のように、本当に美しい文章にはなかなか出会えない!
―USAトゥデイ(スーザン・ケリー)

◆一流の作家シェイボンは、錬金術師のように目を奪う完璧な文章を創り出す。
―ロサンゼルス・タイムズ(マイケル・キャロル)


通常、本のカバーなどにある賛辞を全部鵜呑みにすることはまずないし、実際それらの賛辞が、作品にすべてあてはまることもないのだけれど、シェイボンに限っては、このままそっくりあてはまる。私がこれ以上何も言うことはないというくらい。シェイボンの持っている錬金術のような言葉の感覚は、他ではあまりお目にかかれないかもしれない。そういうことをあまり気にせずに、ただ早く読もうとして流してしまうと、うっかり気づかないかもしれないが、ここに書かれている比喩やウィットは、シェイボンの素晴らしい想像力がもたらしたものだと思う。

読みながら、イーサン・ケイニンにも似ているかな?という気がしていたのだが、「サロン・ドット・コム」のアダム・グッドハートによれば、「シェイボンはジェイ・マキナニーとひとまとめに論じられることが多いが、それは誤りである。むしろイーサン・ケイニンの方が文体や気質においてずっと近い」とのことで、どうやら私の感覚は間違っていなかったようだ。ケイニンに近いということは私の好みである。ケイニンもそうだが、シェイボンも「詩的」でない、緻密な文章がいい。物語の世界は、個人的にはケイニンのほうが好きだが、シェイボンのほうがクールかもしれない。

上のカバーの文章ではふれられていないが、個人的には一番最後の「暗黒製造工場で」というホラーっぽい話が一番面白かった。というわけで、最近出版された冒険活劇の短編を集めた、シェイボン編集の『McSweeney's Mammoth Treasury of Thrilling Tales』というアンソロジーには、大いに期待できるだろうと思っている。

2003年05月13日(火)
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 キャンディ (BOOKPLUS)/テリー・サザーン

人を愛し、平和を愛し、誰より純粋無垢な女子高生、キャンディ・クリスチャン。聖ヴァレンタイン・デイに生を受け、まさに天からの贈り物を思わせる、とびっきりの美人ときてる。そしてますます魅力的なことに、彼女はいつも、どこかヌケてる。というわけでキャンディの行く先々どこでも誰でも─教授も医者も叔父さんも、せむし男も偉大な教祖も、とにかくみんなが彼女の虜。誰もがキャンディとヤリたいと奮闘するが、あと一息のところでお決まりの失敗。自らが招くオトコたちの災難に、キャンディはがっくり嘆く─
「あーあ、どうしてこうなっちゃうんだろう」
いつの日かキャンディに、平穏で幸せな日はくるのだろうか・・・!?
『イージー・ライダー』の名脚本で知られ、絶大な人気を博したテリー・サザーンの空前絶後のエロティック・コメディ。世界中で話題を呼び、日本でも刊行当時30万部以上のベストセラーになった傑作、大幅改訳にて待望の最登場!
─カバーより


というわけで、感想を書くのがバカバカしいような中身。映画的な面白さはあるけれど、キャンディとエッチするために、愚にもつかない大義名分を並べ立てるオジサンたちには、ただただ呆れる。

登場人物は皆エッチで頭がおかしい人ばかりじゃないかって感じなのに、ネルスン・オルグレンの「セックスとユーモアを融合するのは至難の技だ。しかし、『キャンディ』はユーモアを風刺の境地にまで研ぎ澄ますことによって、それに成功している」という批評は、そこまでのものかぁ?という感じ。そりゃ、おかしい部分はあるけれど、どこが風刺なんだろう?風刺もの好きの私としては、納得のできない批評だ。

「ユーモア」というのも、よくある「ユーモア=エロ」と勘違いしているような類。現代においてはものすごくエッチという描写ではないし、面白くないというわけではないけれど、スラップスティック的なドタバタはちょっとうんざりかも。

今回大幅に改訳したとあったが、前に読んだときとイメージは全く変わらない。どうせなら翻訳者も新しくすればよかったのに。ともあれ、なんにも考えずに読み飛ばすにはいいんじゃないの?って感じ。

そもそも昔の作品をBOOKPLUSで出すのは主旨が違っている。「新しい才能を持つ若い作家を世界中から発掘し、紹介していきます」というのがBOOKPLUSの主旨だ。結局は、今夏、映画がリバイバル上映されるというので、それに合わせて見境なく、こんなことしちゃったんでしょうね。



2003年05月12日(月)
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 宮殿泥棒/イーサン・ケイニン

柴田元幸訳。
4つの短編(中編?)が収められたイーサン・ケイニン最良の作品集(柴田氏曰く)。
イーサン・ケイニン自身がハーヴァード大医学部で医学博士号を取得した優等生であるが、この本には、普段文学の世界では虐げられて、あまりロクな扱いを受けていない「優等生」が描かれている。だから、どこかユーモラスだったり、切なかったりするのだ。私もこれは面白い本だと思うので、以下、1編ごとに感想を書くことにする。


●「会計士」

これは、短編集『Emperor of the Air』の表題作「Emperor of the Air」にそっくりだ。真面目で仕事もそこそこ上手くいっている「優等生」が、子どもの頃からの友人(実は密かにライバル意識を持っているのだが)に誘われて、サンフランシスコ・ジャイアンツの「ファンタジー・キャンプ」(一流ホテルに泊まり、元大リーガーたちと試合ができるゴージャスな合宿)に出かける。そこで主人公を待ちうけていた運命とは・・・。

「Emperor of the Air」もそうだったが、話の出だしと結末が輪になっている作り。最後に「えっ!」と思わせて、またふりだしに戻る仕掛けになっているのだ。似ている部分はまだある。本筋の分量はそれほどないのに、枝葉の話がたくさんあって、あの話は終わったのかと思っていると、また出てくる。つまり寄り道が長い。それと、専門用語が頻出する。柴田さんもその部分は専門家に頼らなくてはならなかったようだ。そして親子関係の話が必ずはさまれる(実際に親子でなくても、子どもがいたらなあ・・・とか)。それが全て、どうにも切なかったりするのはなぜだろう?

で、結局この優等生である「会計士」は、自分は誰よりも優秀な人間だと自負しているにも関わらず、いつの間にか相手のほうがまともで立派な人間に思えてきて、常に相手のことが頭から離れなくなるというところも、「Emperor of the Air」に似ている。

つまりは、こういう話の作りや内容が、イーサン・ケイニンの特徴なのだろうと思う。そして、ジョン・アーヴィングのような詳細な書き込みと流れるような文章のリズムは、一字一句見逃せない、じっくり読ませる作家であるという印象を抱く。あちこちに寄り道して、途中で何の話だったかわからなくなったりするけれど、しっかり先に進ませる文章力はすごいと思う。しかも明確ではないが、ちゃんと話の起承転結があるのもいい。


●「バートルシャーグとセレレム」

いわゆる普通の真面目な優等生と、天才的という意味での優等生の兄弟の話。普通の優等生である弟と、天才かキチガイか紙一重の兄との対比が面白く、また最後には切なくもある少年小説だ。

ケイニンは、好んで中年・老人の物語を書くのだが、この少年小説は珍しいかもしれない。しかし、柴田氏によれば、「ケイニンの中年・老人小説は、たいていは偽装した少年小説である」ということからも、年齢に関係なく、心は少年の話のようである。

この作品では、天才的な兄が言語まで発明してしまい、周囲の人にはわからない独特の言語で親友と話すというエピソードがあるが、ちなみにタイトルもその「発明した言語」(実はハンガリー語)で、バートルシャーグは「勇気」、セレレムは「愛」という意味である。意味がわかってみると、なんとも切ない話なのだ。

またきれいなガールフレンドのいる兄だが、ある事実が白日のもとに晒される事により、兄の人生のみならず、家族の人生までもが大きく変わってしまう。だが弟は、以前も、そうなってからも、ずっと兄が好きだったというのが本筋。これも「えっ!」と思う展開で、最後は泣ける。


●「傷心の街」

23年連れ添った妻と離婚した父と、その息子の物語。
父はなかなか妻が忘れられず、寂しい毎日を送っているが、くだらないジョークを飛ばしては、息子に嫌われまいとする。一方大学生の息子は、妙に真面目になってしまい、父としては面白くない。息子が何を考えているのかもわからなくてとまどう父。

その二人が野球を通じてふれあい、遂には父に新しい恋人ができるのだが、そのことに尽力した息子の本心に気づいたとき、父は泣き崩れる。この部分は圧巻だ。父と子という関係に何かしら思いのある人には泣ける部分だろう。やはりこれも「えっ!」と思わせるラストで、個人的にも好き。

「会計士」もそうだったが、これも野球がモチーフに使われている。ケイニンは野球好きなんだろう。ここに出てくるレッド・ソックスの負けっぷりは、私の好きな横浜ベイスターズにも似ていて、それを嘆くファンの様子が笑える。「どうせ駄目なんだよ、ソックスは」とか「何てったってソックスなんだから」なんていうセリフは、まさしくベイスターズファンのセリフだ。こういう部分は自分も野球好きでないと書けないだろう。

この作品に限らずだが、原文で読むと見落としてしまいそうなジョークとか引用句が多い。「見落としてしまいそう」ではなく、「絶対に見落とす」だろう。でも、この作品に限って言えば、ダジャレ好きなお父さんのキャラを構成する要素として、けして見落としてはいけないわけで、これを原文で読むのは難しい。柴田さんの訳だから、これが生きていると言えるかもしれない。


●宮殿泥棒

聖ベネディクトという学校の、真面目な教師が主人公で、そこに転校してきたセジウィック・ベルという少年との因縁の対決を描いている話。これもやはり主人公の教師が「優等生」で、その生真面目な小心ぶりは、むしろ滑稽でもあるが、一生そのままの人生を送るのだ。それに反して少年のほうはまったくの劣等生だったが、のちに産業界の大立者となり、最後には上院議員にまでなる。

学校は歴史を大変重要視しており、毎年大きなイベント「ミスター・ジュリアス・シーザー」コンテスト(歴史クイズのようなもの)が行われる。ここでいよいよ二人の対決の火蓋が切られる。このコンテストの描写などは、さすが「優等生」ケイニンだと言わざるをえないだろう。次々に歴史の問題と答えが出され、小説を読んでいるのに、歴史を勉強させられているみたいだ。

そしてこれも、最後のほうにあっと驚く仕掛けがあって、なるほど、やっぱりワルはワルなのだと納得するのだが、人生においての成功者は、真面目な優等生ではなく、そのワルのほうなのだ。

ここには、もう一人優等生が出てくる。コンテストで優勝するディーパク・メータである。かれは昔から頭のいい物静かな少年で、その後コロンビア大学の教授となり、年老いてからも言葉数の少ない老人として、最後は恩師のかたわらに座り、黙って二人でテレビを見るのだ。テレビには成功者のセジウィックが映っている。コンテストの秘密を知るものは、おそらくこの3人だけ。ディーパクが一貫して沈黙を貫いてきたというところに、大きな意味があるのかもしれない。私はこのディーパクのキャラクターが妙に気になり、非常に興味を持った。

ちなみに、タイトルの「宮殿泥棒」の意味は、最後までわからなかった。どこからこのタイトルがきたものか、いまだに不明。


2003年05月09日(金)
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 大泥棒と結婚すれば/ユードラ・ウェルティ

青山南(訳)
この前読んだ『黄金の林檎』とは全く違う作風の長編。
一見グリム童話かと思うような話だったので、あとがきを読んだら、やっぱりグリムの「強盗のおよめさん」を下敷きにしているそうだ。童話っぽいので、へんてこな設定が出てきても、別にまあいいかという感じ。

前回のがケルト神話をモチーフにしていて、今回はグリム童話。どうやらウェルティは昔話が好きらしい。というのも、家に本がたくさんあって、子どもの頃にそれを読みあさっていたというから納得。

で、肝心のこの本の感想はというと、グリム童話っぽいとしか言いようがなくて、それが頭から離れないので、ウェルティの作品を読んだという気がまったくしないのだ。内容としては、前の『黄金の林檎』のほうが設定も話の運びも変わっていて面白い。もちろんこれも変わっているという意味ではそうなのだが、やっぱりグリムなのだ。グリム童話を下敷きにしたのはいいが、そこから脱しきれなかった感が大きい。

2冊読んでも、いまだにユードラ・ウェルティの作風というのがよくわからない私である。どこか現実離れしているという雰囲気はわかるのだが、これといった決め手がない。文章もけして上手い人ではないような気がする。

<参考>
【ユードラ・ウェルティ─どうして郵便局で暮らすようになったか(青山南)】
この文章の中にある「ぼくが昔ウェルティの小説を翻訳したことがある・・・」という翻訳書がこの作品。


2003年05月03日(土)
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