読書の日記 --- READING DIARY
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 第三の嘘/アゴタ・クリストフ

奇跡の三部作、完結篇
ついに兄弟は再会する。ベルリンの壁の崩壊後、40年ぶりにふたりが再会したとき、明かされた真実と嘘とは?――カバーより

<三部作の解説>

『悪童日記』は、ひとつの国(ハンガリーと思しい)の第二次世界大戦からその直後にかけての時期の情勢を背景とし、戦火の下という設定で、子供ないし子供時代をテーマとした作品だった。語りの形式は一人称複数の「ぼくら」を用いるものだった。

それに対して『ふたりの証拠』は、ひとつの都市(鉄条網によって隔離されてしまった国境地帯の都市)を舞台とし、共産主義の隣国に牛耳られる戦後全体主義体制の重圧下という設定で、主として青年期を扱った作品だった。そこでは第三人称の叙述がおこなわれていた。

こうした比較対照の観点から『第三の嘘』を見るなら、この小説は、欧州の東西を隔てていたベルリンの壁の崩壊後に時代を設定し、ひとつの家族を枠組みとして、人生の秋ともいうべき初老の時期に焦点を当てた作品だといってよいだろう。とりわけ注目すべきは、ここで語りが一人称単数の「私」によるものに移行していること、しかも異なる二人の主人公が作品の前半と後半に分かれて、いずれも「私」の名において語る語り手となっていることにちがいない。『悪童日記』で一心同体だった「ぼくら」はここで、一方(母国に残った者)が他方(外国へ亡命した者)を拒絶するという関係の二人の「私」に画然と分かれてしまったのである。

(本書解説/掘茂樹・訳者)


『悪童日記』(感想)、『ふたりの証拠』(感想)に続く悪童三部作の完結篇だが、私が前2作を読んだのは、『悪童日記』が2001年6月。『ふたりの証拠』が2002年1月である。『悪童日記』は鮮烈なイメージが残っているものの、『ふたりの証拠』はスコーンと抜けてしまっている。しかし、前2作を知らずとも、この作品は衝撃的だ。

いっさいの感情を破棄した淡々とした文章。嘘を平気でつきまくる少年に、ぞっとしたものを覚えるが、感情が入っていないことによって、それがさらに浮き立つ。前作からの繋がりを考えると、えーっ、こういうことだったのか!という驚きに打たれるが、双子の兄弟クラウスとリュカのどちらもが、「わたし」という一人称で語るため、途中は混乱した。

しかし、次第に真実が明かされるにしたがって、前作の嘘も明らかになってくる。戦時中の話なので、戦争の色は強く、戦争によってもたらされた悲劇と思いきや、彼等の悲劇の始まりは、戦争によるものではないことがわかってくる。それぞれに愛を失った者たちの、悲しい生きざまなのである。

しかしタイトルどおり、最期の話もまた、嘘なのかもしれない。。。
そう考えると、『悪童日記』の感想を読みながら、やられた!と思う私である。


2003年02月27日(木)
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 南の話/青山南

翻訳家の青山南さんのエッセイだが、南さんの話というより、アメリカ南部の話。もちろんエッセイなので、南さんの体験を踏まえて語られているわけだから、「南さんによる南部の話」と、二つの南にかかっているわけだが。

これは、アメリカ南部に並々ならぬ興味を抱いている私には、文句なく面白い読み物だった。ハーパー・リーとトルーマン・カポーティが、アラバマ州モンローヴィルで隣同士の幼馴染みで、リーの『アラバマ物語』に登場するちびのディルは、カポーティをモデルにしたものだという話は、鳥肌ものだった。

他にもマーク・トウェイン、アリス・ホフマン、アン・ライス、フラナリー・オコナーといった南部の作家にまつわる面白い話がいっぱい。知らなくてもどうということはないが、知っていたら、俄然本が面白くなるといった類の情報が山盛りなのだ。もっとも、そういったことに興味を持っている人には宝のような本だが、アメリカ南部には何の興味もなく、ここに載っている作家や作品についての知識が全くないといった人にはガラクタ同然の情報で、面白くもなんともないかもしれない。

後半マーク・トウェインが出てきたところで、あっ!とびっくり。私はトウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』を、文化書房博文社の勝浦吉雄氏の訳で読み、この本がまた内容とは別の意味ですごく面白かったので、鮮明に記憶に残っていた。数多いハック・フィンの翻訳書の中で、なんと、南さんもこの本を読んでいて、その内容が『南の話』に書かれていたのだ。

この本には、36ページにも及ぶ翻訳小史がついていて、それが重箱の隅をつついているみたいで、他人事としては実に面白かったのだ。トウェインには悪いが、中身よりもこちらのほうが数倍面白かった。中身は、と言うと、他人の翻訳を細かく批判したつけがまわって、ご本人の訳は無難にまとまりすぎていて、全然面白みのないものだったのだが、南さんはもしかして、この勝浦氏とお知り合いなのかもしれないが、中身には触れず、やはり付録の小史を面白いと言っている。そうなのだ!邪道な読み方ではあるが、中身はどうでも、この翻訳小史が一見の価値あり!なのだ。

上にも書いたが、山ほどあるハック・フィンの翻訳書の中で、よりにもよって南さんもこれを読んでいたとは!この偶然は嬉しいというか、しばし唖然といった感じで、あとから笑いがこみ上げてきた。

こういった文学案内のような本は何冊もあるが、これほど面白い本に出会ったのは初めて。やっぱり南部はミステリアスで魅力的で面白い。興奮しながら読了。

勝浦吉雄訳『ハックルベリー・フィンの冒険』感想

ハックルベリ・フィンの冒険―附翻訳小史/マーク トウェイン (著), Mark Twain (原著), 勝浦 吉雄 (翻訳)
価格:¥2,800
単行本(ソフトカバー): 356 p ; サイズ(cm): 182 x 128
出版社: 文化書房博文社 ; ISBN: 4830108347 ; (1998/09)
内容(「MARC」データベースより)
30数種以上の邦訳が出されている名作『ハックルベリ・フィンの冒険』を、マーク・トウェイン研究第一人者が英語の方言のニュアンスと日本語のリズム等を吟味して新たに翻訳。他の邦訳を概観した小史も併録。

<参考>
ミシシッピ河上の生活/マーク・トウェイン (著), Mark Twain (原著), 勝浦 吉雄 (翻訳)
単行本: 376 p ; サイズ(cm): 182 x 128
出版社: 文化書房博文社 ; ISBN: 4830106492 ; (1993/03)
内容(「BOOK」データベースより)
本書は、作者自身が主人公になり、故郷のハンニバルで過した少年時代から憧れの的であった、水先案内になるための厳しい修業を通じての実体験を基にして、生き生きとした生活が前半で描かれ、後半は、それから21年後、作家として名を成してから、ミシシッピ河を再び訪れた時の、いわゆる再訪記である。


●掲載されている作品

アン・ライス『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』『魔女の刻』
マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』
テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』
ウィリアム・フォークナー『兵士の報酬』
スコット・フィッツジェラルド『楽園のこちら側』
トルーマン・カポーティ『遠い声、遠い部屋』
ジュリー・スミス『死者に捧げるジャズ』
マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』
ゼルダ・フィッツジェラルド『ワルツはわたしと』
ハーパー・リー『アラバマ物語』
フラナリー・オコナー『秘儀と習俗』
ユードラ・ウェルティ『大泥棒と結婚すれば』
ジョン・ベレント『真夜中のサヴァナ』
ジェイムズ・リー・バーク『ネオン・レイン』『天国の囚人』
ロバート・オレン・バトラー『ふしぎな山からの香り』
ファニー・フラッグ『フライド・グリーン・トマト』
ブランチ・マクラリー・ボイド『女の子たちの革命』
デニス・マクファーランド『音楽室』
バリー・ハナ『ドクター・レイ』
ルイス・グリザード『けっして楽じゃなかったが、楽しかったよ』
ウォルター・モズリー『RLの夢』
ユードラ・ウェルティ『短編集』、『ある作家の出発』、『写真集』、『あるとき、あるところ』
ジェフ・フォクスワーシィ『シャツなし、靴なし・・・問題なし!』
ジョン・ケネディ・トゥール『ばか者同盟』、『ネオン・バイブル』
ジュリー・スミス『ニューオーリーンズの葬送』
ベイリー・ホワイト『ママは決心したよ!』
シャーウッド・キラリー『知能低下』
チャールズ・ジョンソン『中間航路』
イシュメール・リード『マンボ・ジャンボ』、『ニューオーリンズの告解三ヶ日』
ウィリアム・フォークナー『蚊』
ジョン・グリシャム『ペリカン文書』
ルイス・ノーダン『スワンプの音楽』
マーク・トウェイン『ミシシッピ河上の生活』
M.F.K.フィッシャー『オイスターブック』
ピーター・フィーブルマン&リリアン・ヘルマン『一緒に食事を』
ウィリアム・スタイロン
『タイドウォーターの朝』『闇の中に横たわりて』
マイケル・オンダーチェ『バディ・ボールデンを覚えているか』
ドナルド・M・マーキス『バディ・ボールデンを探して』
アリス・ホフマン『タートル・ムーン』
ロバート・マキャモン『ミステリー・ウォーク』(上)(下)『遙か南へ』

2003年02月26日(水)
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 The Hobbit : Graphic Novel/J.R.R.Tolkien

Charles Dixon (編集), Sean Deming (編集), David Wenzel (イラスト)

『ホビットの冒険』のイラスト(コミック?)版。今日届いたばかりだけど一気に読了。実は表紙買いで、中身がどんなものかよくわからなかったのだが、昨日これの日本語版を書店で見て、これだったら嫌だなあと思っていた。結局それの原書だったのだが、文字がアルファベットになると全然雰囲気が違う。これはびっくり!

イラストはDavid Wenzelで、かなり細かい。1991年の出版だが、映画のホビット庄の雰囲気は、この絵を参考にしたんじゃないかと思うほど。ていうか、誰が考えても、こういうイメージになるんだろうけど。。。「アラン・リー」「ジョン・ハウ」かと言ったら、「ジョン・ハウのほうの画風」。竜のスマウグなどは、「ジョン・ハウのそれ」にそっくり!それよりだいぶマンガチックになってはいるが。(^^;

「ガンダルフ」(こちらは私の好きなジョン・ハウのガンダルフ)とトーリン・オーケンシールドがそっくりで、大きいか小さいかの違いだけでどっちがどっちかわからないくらいだが、ガンダルフのほうが鼻がとがっている。ガンダルフは私のイメージにもそう遠くはないので、まあ許せる範囲。トーリンはもう少し優雅なほうがいいかなあ・・・。ビルボはアボリジニみたいだが、ドワーフたちはいい感じだ。全体の色合いも落ちついていて良い。

文章のほうは、絵で説明できている部分は削除されているが、ほぼ忠実じゃないかと思う。それにしても、どの文章を使って、どこを削るか、絵はどのシーンを描くかといったことを決めるのは、それだけでもひと苦労だと思うが、よく考えられている。そういった作業を頭に描きながら読むと、細かくよく作ったものだなあと感心。原作のイメージは損なわれていない。

しかしこれが日本語になると、とんでもない代物になってしまうのはなぜだろう?絵がアルファベットにはマッチするが、日本語には合わないということなのか?


2003年02月20日(木)
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 Awful End/Philip Ardagh

<The Eddie Dickens Trilogy>
Amazon.co.jp
イギリスで人気を博した、子ども向けナンセンス・ユーモア小説。両親が、「体が黄色くなって、はじっこが縮んでしまう」という奇病に犯され、「特製の氷を口に含み、熱湯のビンを山ほど抱えて」病の床に伏すことを余儀なくされたため、主人公エディは彼らの病室の(なぜか)洋服ダンスから現れ出でた「マッド・アンクル・ジャック」に引き取られる。そして始まるわれらが少年エディの大災難…。

6か月洗っていない皿でカビたチ―ズを出す宿の宿代を「魚の干物」で支払いながら、ジャック叔父、その妻モード、彼女がこよなく愛する「剥製オコジョ」のマルコム、そして道中に中途から参加する超クセ者旅芸人パンブルスヌークス氏の5人(?)のハチャメチャ珍道中が、ブリティッシュ・ブラック・ユーモアを満々とたたえて進行する。


設定が変てこだし、ブリティッシュ・ブラックユーモアだというので、ちょっと楽しみにしていたのだが、せっかくの変てこな設定が、結局はあまり生かされていないので、なーんだという感じ。

つまりは、両親の奇病はエディが旅に出るための口実、大おじさん(叔父ではない)一向に関しては何の意味もなく、剥製オコジョもただの飾り。主人公以外は皆、気が狂っているというのだから、意味もなにもありはしない。ユーモアではなく、ノンセンス。何でもありの世界なのだ。

途中でとんでもない孤児院に入れられてしまうエディだが、どうしてまたここで孤児院なのか?あっちもこっちもこんな設定で、「かわいそう!」度を増そうとしているのが見え見え。荒唐無稽と言えば荒唐無稽、面白いと言えば面白い。しかし、ノンセンスは好きではないので、あまり評価できない。

作者の語り口は面白いのだが、大おじさんは「mad」、モード大おばさんは「quite mad」、パンブルスヌーク氏にいたっては「極めつけのmad」であるから、皆が狂っていては笑えない。3部作だが、続きはたぶん読まないと思う。


2003年02月17日(月)
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 I Am the Only Running Footman (Richard Jury Mysteries)/Martha Grimes

スコットランドヤードのリチャード・ジュリー刑事シリーズ。
<内容(「BOOK」データベースより)>
雨にけむるデヴォンの森、若い女の死体が見つかった、首をスカーフで締められて。10ヶ月後、ロンドンのパブ「独り残った先駆け馬丁」亭の前の路上で見つかった若い美女の死体は、やはりスカーフによる絞殺。同じ手口によるふたつの殺人は、偶然か、同一犯人か?おなじみハードボイルド田舎刑事の執念がジュリーを助ける。


これ、邦題が『「独り残った先駆け馬丁」亭の密会』というのだけれど、タイトルが全然違ってもお構いなしのミステリーやロマンスの世界で、これはまたなんて律儀な!というか、これこそ全然違っても構わないから、もっとカッコいいタイトルにできなかったの?という感じ。(^^;

内容は上記の通りなのだが、このところ私自身がミステリーに興味が向いていないせいか、『Red Dragon』に続いて、これもまた退屈に思えてならない。事件が起こって、刑事が聞き込みに回る。その間の状況説明が苦痛なのだ。事態が進展してくれば、もう少し楽しめるのかもしれないが、『Red Dragon』よりは、まだましかな?という感じで、今のところ我慢して読んでいる。

出だしが2月だったということだけで読み始めた本だが、実際はクリスマスシーズンの話だった。

で、結局のところつまらなかったー!
聞き込みの途中、男女間のもつれか、娘を引き逃げされた男の恨みか、引き逃げした男の車に乗っていた被害者が口封じのために殺されたのか・・・といろいろ動機は出てくるのだが、これと言って決め手がない。どれにしても同じ手口で連続殺人を犯すようには見えない。

結局最後は、第3の殺人が行われようとしたまさにその時、真犯人があがるのだが、誰、これ?という感じ。登場人物がやたら多くて、前に出てきてはいるのだろうが、気を入れて読んでいないので、誰だっけ?という感じなのだ。最後の最後に、犯人をいきなり愛称で呼ばないで、ちゃんとフルネームで呼んでよー!
あー、時間の無駄だった。


2003年02月16日(日)
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 しょっぱいドライブ/大道珠貴

第128回芥川賞受賞作。

金だけは充分に持ちながら風采の上がらぬ60代の男の外描写と、語り手である30代女性の気持ちとが巧みに噛み合わされ、二人の間に計算と無垢、太々しさと純心とのドラマが生まれる。そこから漂いだす湿ったユーモアがこの作品の底を支えている。――黒井千次(選考委員)

これは「順当な受賞」とする選考委員の評だが、石原慎太郎「何の感動も衝動も感じなかった。はたしてこの作品にユーモアがあろうか」や村上龍「わたしの元気を奪った。小説として単につまらないからだ」などの評は辛い。実は私の感想も、こちらの辛口批評のほうだ。

まるで児童書でも読んでいるかのような平仮名多用で、冒頭から「とにかくとしよりの運転だから・・・」と始まる。この漢字を使わないことに対しては何か意図があるのだろうが、まずは「読みにくい」という拒否反応を起す。

そして、「いつだって」「なんだって」といったような言葉使いが多く、これもいちいち引っかかる。全体的に現代の会話口調で(ネットで言えばカキコ口調か日記口調?)、きれいな日本語ではなく、小説としてそれのよしあしは内容にもよると思うが、私には不快だった。


[ユーモア感覚]
この作品にユーモアを感じたという人は、たぶんこのあたりで感じたのだろうなと推測はできるのだが、石原氏と同様、私はユーモアは全然感じなかった。ああ、こういう性格の女性っているな・・・という感じで、ここで笑わせようという意図が惨めな感じにしかならなくて、笑うとすれば苦笑の部類かも。こういう性格の女性が「ええ」なんていう返事をするわけがないとまで思う。

60歳と30歳のカップルがいいとか悪いとかでもなく、男女の付き合いがすべて美しいわけでもないが、それにしても夢のまったくない、読んでいて本当に「しょっぱい」感じの小説で、知らず知らずのうちに眉をひそめて読んでいる自分に気づく。後味が悪い。

自分を落としめて笑いをとるのは、ものによっては効果的だが、この小説に関しては、暗さばかりが感じられて全然笑えない。卑下をユーモアと勘違いしているような、不幸とか不運を笑いに変えてしまう前向きな感覚のない、読者が救われない文章だ。

不幸話をして笑ってもらえるならいいが、相手の気持ちをも暗くしてしまうのは失敗である。不幸話の中には、どこかしらにスノッブな部分がなくてはならないし、多少のおしゃれ度も必要だ。それがないと、単なる他人のつまらない不幸話というだけで終わってしまう。

また体言止めのせいか、ネットの中で読む素人の日記みたいな感じが拭いきれない。「素人の日記」はそれはそれでいい。しかしこれは「芥川賞受賞作」である。でも、もしこれがそういった日記だとしたら、二度と読みには行かないだろう。イメージが暗くて、みじめで、いやーな気分になるだけだからだ。


[人生への諦め]
この暗さはなんなのだろう?本当は好きな人がいて、ずっとそのことを考えているのに、それはとても叶わぬことだから、わたしはこのとしより(作者の書いている通りにひらがなにしてみた)でいいなどと諦めてしまっているからだろうか。もっと別の人生があるのではないか?という夢が全くない。

なにも相手がとしよりだから悪いというわけではないし、このとしよりでいいなんていうのは相手に失礼だが、そこに愛情があるのかどうか?あるような気もするし、全然ないような気もする。中途半端で気持ちが悪い。30代にしてすでに人生に諦めを感じ、たまたま子どもの頃から優しくしてくれていたおじさんがそばにいて、この人はお金もくれるし、まあいいか、てな感じにも受け取れる。好きな人と寝たときも、どこか冷めていて、黒井氏の言う「純心」はどこにあるんだろう?と思う。

男性のほうは、それなりにはっきりとした性格をもっているので捉えやすい人物だが(彼はぼうーっとしながらも、彼なりの人生観を持っている)、語り手の女性のほうは自分がなく、夢もなく、楽なほうに流されていってしまっているようで、かといって若さゆえの危うい部分があるわけでもない魅力のない人物だ。この魅力のない人物が語り手なのだから、何の感動もないのは当然だろう。

結局こういった起承転結のない、日常の一部分を切り取ったような話というのは、個人的には好きでないということに尽きるのかもしれないが。



2003年02月14日(金)
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 The Wolves of Willoughby Chase (Wolves Chronicles)/Joan Aiken

寒い寒い冬のある日、ウィロビー家の娘ボニーのもとに、厳格な女性家庭教師がやってくる。両親が船旅に出かけるためだ。しかし、この家庭教師、何か謎があるようだ。

一方、ボニーのいとこで孤児のシルビア(伯母と一緒にロンドンに住んでいる)は、ボニーと一緒に過ごすため、列車でボニーの家に向かうが、途中で列車が狼に襲われたりして、とても大変な思いをする。

こうしてボニーとシルビアの物語が始まるのだが、児童書ではあるものの、エイキンの文章は全然子どもっぽくなく、昨今のはしゃぎすぎのファンタジーとは違って、雪が降る音のように、静かに進んで行く。このあと二人に、何が待ち構えているのだろう?という期待を抱かせて。


[家庭教師]
シルビアは無事ボニーの家に到着。でもあの女性家庭教師(ミス・スライカープ)、どうも怪しい!何か怪しい!と思ったら、やっぱりウィロビー家の財産を狙う悪者だった。

両親が船旅に出てから、スライカープの態度が急変し、ボニーとシルビアに酷い仕打ちをするようになり、両親は船が沈んで死んだと騙し、「両親が死んだ以上、私が後見人です!」と言い、遠くの恐ろしい「学校」(?)に入れてしまう。

さてここで、ん?と思う。これはまさにレモニー・スニケットの<不幸な出来事>シリーズだ。両親ともに事故で死に、財産を狙う遠い親戚だと名乗るおじさんだかおばさんだかにいじめられ、不幸な目にあう子どもたち。間に立つのは、役に立たない弁護士とか銀行員。スニケットのほうは、子ども達だけで試練に耐えるが、こちらは味方になってくれる使用人がいることがまだ救いかも。このあたりは<Dimanche Diller>シリーズの状況に似ている。


[スニケットとの類似]
この似たような物語は、出版したのはエイキンのほうが先。スニケットがこれを読んでいた可能性は高い。

このシリーズ、タイトルも『Black Hearts in Battersea』『Nightbirds on Nantucket』と続くのだが、これもスニケットの『The Bad Beginning』『The Reptile Room』などといった頭文字を合わせるやり方が一緒。ただ、エイキンのほうは、その後こういうタイトルはつけていない。

そして、そこはかとなく漂う悲壮観。これも両者に一致するが、大きく違うのは、エイキンのほうは最後に希望が見えているが、スニケットのほうは、どこまで行っても見えないこと。またスニケットは悲壮観の裏側に、それを覆すユーモアがあることなどなど。両者は明らかに、「似て非なるもの」である。

「いたいけな子どもたちが酷い目に合わされる話」という意味では、両者ともにそっくりだが、こちらは最後にハッピーエンドになるので救われるということになるのだろう。でも、シリーズとして続くなら、個人的にはハッピーエンドでないほうが好ましい。でないと、次はどうなるの?いう興味が半減してしまう。

ここでは、悪や不幸はすべて滅ぼされ、みんなが幸福になる。もう一度言う。悪を除いた「みんな」がだ!!!逆に言えば、お金にものを言わせて幸福になるといった穿った見方もできなくはない。むしろ不幸なままで終わるほうが自然に感じる。

全体としては面白かったが、どうしてもスニケットと比較してしまい、この本のオリジナルな部分を楽しめなかった。こちらを先に読んでいれば、また違った感想になったかもしれないが。

というか、スニケットの<不幸な出来事>シリーズがなかったら、これはすごく面白い話だと思えたに違いない。いずれにしても、エイキンにはエイキンの独自の奇想天外な世界があるようなので、続きも読むことにする。

それにしても、ここに出てくる狼の役割はなんだったのだろう?「狼=悪、不幸」ということなのか?



2003年02月13日(木)
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 ボーイ・スティル・ミッシング(B+)/ジョン・サールズ

<内容紹介>
愛する人が消えたその日、ぼくはすべてを失った。

1970年代、アメリカ。帰らぬ父を捜して、ドミニクは街をさまよった。そこで逢った父親の愛人イーディーに、彼は瞬時に恋をしてしまった。たとえ彼女が父の子を身ごもっているとわかっていても…

イーディーには金が必要だった。彼女を信じ、ドミニクは母親の金を盗み、彼女のもとへと届けた。「お腹の子にはあなたの名前をつけるわ」二人は危険で狂おしい関係にあったはずだった。

だがある日、イーディーは突然彼の前から姿を消す。そして同じ日、ドミニクの母親が不審な点の多い死体で発見された。すべてを失ったドミニクはこう誓った。自分を汚したこの世界に復讐をすると…。(カバーより)


父親と母親の間で揺れる少年の心という設定は、同じくBOOK PLUSシリーズにあるブラッド・バークレイの『僕の夢、パパの愛』に似ていなくもないが、こちらはさらに過激な要素が盛り込まれていて、純粋にミステリーとは言えないが、それに近い驚きとドキドキ感がある。

ゆえに、あらすじを詳細に書くのはためらわれるのだが、カバーに書いてある内容から判断して、ベルンハルト・シュリンクの『朗読者』のような、少年と大人の女性の関係を思い浮かべると、全く思惑は外れる。『朗読者』の主人公よりも、もっと純粋で素直だ。

主人公のドミニクは純粋ではあるが、最後に自分を犠牲にしても、復讐を遂げたいという強さも持ち合わせている。自分を捨てたイーディーに対する気持ちは、自分勝手な『朗読者』のそれとは全然違うし、両親を思いやる気持ちや、母の死に対する責任など、むしろ自分自身に対する葛藤が描かれていて、そこに彼が大人になっていく過程を見ることができる。

しかし、イーディーは本当にドミニクを捨てたのか?それは最後になっても不明のままだ。そして、異父兄トルーマンの存在とは何だったのか?それもよくわからない。とはいえ、「サリンジャーの再来と絶賛!」という言葉とはうらはらに、テンポもよく面白かった(個人的にサリンジャーは嫌いなので)。サリンジャーよりも全然いい!


2003年02月11日(火)
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 アポロってほんとうに月に行ったの?/エム・ハーガ

前々から好奇心をつのらせていたこの問題。やっと本になったかと思って嬉しくなった。

本書は証拠写真(?)をあげて、疑問を提示していくのだが、けして「だから嘘なんです」と断定しているわけではない。たしかに科学的に説明のできないことばかり。しかも当時は米ソの冷戦時代。旧ソ連を出しぬこうと、アメリカが捏造したという説も大いに肯ける。

国家が嘘をつくなんてことは、今では当たり前でさえあるわけで、何の疑いもなく受け入れられる。特に米国国民の「陰謀説好き」は、健全な猜疑心の現れで、「流される」ことを良しとしない、いい意味での「独立精神」の思想に繋がっていると筆者は言う。

しかしこの本は、そういった謎や疑いを暴くという目的ではなく、人々が簡単に流されていく状況に警告を発しているものなのだ。社会や世の中に流され(実際そのほうが楽だ)、深く考えずに納得してしまう。そこに「個」とか「自分」は存在するのか?といったことを訴えているのだ。


[とりあげられている14の謎]
(1)星条旗は「風」ではためいたのか?
(2)影の方向がバラバラ?
(3)逆光なのにはっきり写っている?
(4)レンズの十字マークが消えている?
(5)「スローモーション映像」は不思議?
(6)星が写った写真がない?/(7)違う場所で撮ったのに背景はそっくり?
(8)ロケットエンジンは音がしない?
(9)死の放射線帯を越えた?
(10)関係者たちの死は不可解?
(11)旧ソ連はなぜ月へ行かなかったのか?
(12)秘密軍事基地「エリア51」で何があった?
(13)国家もウソをつく?
(14)その他にもいろいろ謎がある?


[エム・ハーガとは?]
この本の著者、エム・ハーガとは何者?実は訳者として載っている芳賀正光(M.Haga)のことである。彼は、「相手を理解するのに、手っ取り早い方法は相手になってみること。そこで私は、米国人になったつもりでこの本を書いてみようと思い立った。・・・エム・ハーガになってみて、あらためて、アポロの月面着陸ウソ説を考えることは、結局、米国とは何なのか、を考えることだ」と言っている。

ああ、ダマされた!と怒ってはいけない。宇宙計画を表明したJ.F.ケネディでさえ、そんなことには全然興味がなかったというのが事実。そもそもがソ連を出しぬくための嘘だったのだ。で、結局アポロは月に行ったのだろうか?今では誰も行かない月に行って、何をしてきたのだろう?個人的には半々くらいの割で、本当に行ったと思いたいし、実は行かなかったとも思えるといったところ。



2003年02月04日(火)
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 The Promise In A Kiss/Stephanie Laurens

Cynster Novelsシリーズのクリスマス・スペシャルバージョン。
このシリーズは、この本から読み始めようと思っていたので、クリスマスには間に合わなかったが、あえてここから。

プロローグの舞台は1776年12月のパリ。妹アリエルと一緒に、女子修道院に寄宿しているヘレナは、そこでのちに夫となるセバスチャン(Cynster家の当主)と運命の出逢いをする。夜、庭を散歩していたヘレナの前に突然現れ、いきなりのキス。お互いに一目で惹かれ合ったのはわかったが、あれは一体誰・・・・・・?


[誘拐]
7年後。暴漢に誘拐されそうになったヘレナは、ファビアンというフランスの貴族に助けられる。しかしその恩義をたてに、ヘレナを自分か、またはフランスの貴族と結婚させようとするファビアン。そこにはフランスとイギリスの政略的な企みがあった。そしてその甥のルイは、事あるごとにヘレナを見張っているのだ。

しかし、ある夫人の舞踏会で、ヘレナは7年前に出逢った、あの男性を見かける。 自分ではどうすることもできないような状況下において、そこに白馬の騎士が現れたという感じでしょうか。フランス貴族はどうでもいいので、早く舞台がイギリスになってほしい。時折出てくるフランス語を読むのがだるい。


[すでにイギリス]
上記の舞踏会は、すでにイギリスでした。(^^; 
昔の貴族の話なので、どうも状況がよく把握できなくて、同じところを3回くらい読んだ。結局オースティンの小説の冒頭のように、家督がどうとか、身分がどうとかいう話が続く。そんなことはどうでもいいから、早くロマンス進めてよ!と思っていたら、いよいよヒーロー登場。てところで眠くなってしまう私って、全然ロマンチストじゃないみたい。。。


[ああ、この展開]
やっとヒーローに会えたのに、すげなくするヒロイン。お互いに惹かれているのに・・・というあの展開。それにしても、このヒロインのすげなさは、ちょっとかわいげがない。「またお会いできましたわね」と普通に喜べばよさそうなものを、「あなたはpestね」とまで言う!pest=害虫、やっかい者などという意味。憎たらしいー!

Cynster一族の紹介がてら登場人物も増えるばかり。家系図を見ると、ヒーローのセバスチャンは5代目。でもその隣に愛人(?)らしき影が・・・(そっちの話は3巻目?)。


[3分の2ほど]
相変わらず出てくるうっとうしいフランス語は、意味など考えずに読み飛ばし、3分の2まで来た。運命の相手セバスチャンに会ったというのに(しかも十分にその気があるのに)、すげないヒロインなのだが、何度も舞踏会で会ううちに、結局は気持ちが傾いて行く。

この間、舞踏会の模様しかなくて、退屈。誰それは夫にするには年を取りすぎているとか、財産があまりないとか、つまりはもうセバスチャンしかいないのだってことなのだが、「あの人は危険だから」と、結婚相手には良くない(なぜ?)という無理やりな判断をしている。

でも、気持ちが傾いて事に至ったのは、エメラルドと真珠のネックレス&イヤリング&ブレスレットの高価なセットを貰ってからといのが、なんだかなあという感じ。それまでツンツンしていたのに・・・。

[苦悩?]
セバスチャンと事に至ろうとしている時、それを人に見られてしまい、その言い分けに「結婚する」という言葉が初めて出てきて、そのまま結婚するということになるのだが、そんな折り、フランスにいる妹アリエルとファビアンから手紙が来る。

内容は、ヘレナはイギリスの貴族と結婚するようだから、妹アリエルを愛人にするというものだ。どうしてもファビアンからは逃れられないと知ったヘレナは、苦悩する。そう言いながらも、それを忘れてセバスチャンと一夜を過ごすなんて、どんな神経なんでしょうか?だが、何かがおかしいと怪しむセバスチャン・・・。


[読了]
あー、やっと読み終えた。最後は無理やり一気読み。エロじじいファビアンの策略に悩むヘレナを助け、セバスチャンが立ち上がる。すったもんだの挙句、無事にヘレナの妹アリエルを助け出し、ヘレナもめでたくCynster家の女主人におさまって、めでたし、めでたし。

最後が山場なのだろうが、とにかくフランス語まじりの文章って、うっとうしいし、貴族の社会の付き合いの描き方も、オースティンのように上手くない。ロマンスなので、センシュアリティの度合いがどうかというと、結構度合いは高いと思うが、それもあんまり上手い描写じゃなくて、興ざめ。

この後、<Cynster Novels>シリーズを読破できるだろうか?ともあれ、クリスマスバージョンというのは、だいたいがシリーズの中でも退屈なものだから、本シリーズのほうには少しは期待したい。クリスマスものということで言えば、出会いがクリスマス、最後のめでたしがクリスマスというだけのこと。



2003年02月03日(月)
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 ROBIN HOOD/Anonymous

「アイヴァンホー」繋がりで読み始める。
「アイヴァンホー」では、黒騎士・リチャード獅子心王の活躍が目だったが、このリチャード王に絶対の忠誠を誓っているのがシャーウッドの森のアウトロー、ロビン・オブ・ロクスリ=ロビン・フッドなのだ。

冒頭はリチャード王の弟ジョンに仕える、ノッティンガムの執政長官の残忍な人殺しの場面から始まる。この執政長官は邪魔なロビンフッドを消したくてたまらない人物。ロクスリのロビン=ロビン・フッドであると知った長官が、ロビンとマリアンの結婚式に乗り込み、逮捕しようとするが、ロビンは森に逃れ、仲間を集める。この後も物語中で活躍するリトル・ジョン、修道僧タック、ウィル・スカーレットなどの仲間である。

[挿絵]
この本はピーター・ハドック社の児童向けの本で、挿絵がたくさんついているため、まるでマンガでも読んでいるような感覚。イメージを捉えやすいといえばそうなのだけれど、絵がけして素晴らしい絵ではないので、いいような、悪いような。。。絵があるとどうしてもそのイメージしか浮かばなくなってしまうので、個人的には挿絵の多いのはあまり賛成ではない。とはいえ、このピーター・ハドック社の本は、とても楽しい。「ロビン・フッド」は作者不詳なので、いろんな版がある。というわけで、これは児童向けとはいうものの、特に省略されているとか、そういったことは関係がないようだ。民間伝承であって、オリジナルの文章があるわけではないらしい。

[ロビンフッドの最期]
強きをくじき、弱きを助けるロビンフッドと仲間達のさまざまなエピソードを描きながら、執政長官たちの悪を暴いていく。シャーウッドの森での大きな戦いの時、現れたのがリチャード獅子心王。王によって執政長官ら悪者は捕らえられ、ロビンフッドたちはロンドンの王のそばで暮らすようになるのだが、ロンドンの暮らしはロビンフッドには合わなかった。

結局ロクスリ(町の名前)に戻り、時折シャーウッドの森へと足を運ぶロビンフッドも、やがて年を取り、ついに最期の時を迎える。窓から射ち放った矢の落ちた所に埋めて欲しいと言い残して。「アイヴァンホー」に書かれていた最期とは違うが、これは感動的な最期だった。文学としてうんぬんというより、ロビンフッドとはどういう人物か?といった好奇心を満たすには十分な本。



2003年02月01日(土)
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