読書の日記 --- READING DIARY
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 Missing Pieces/Joy Fielding

これがミステリー?って感じの、だるい話だった。どういうことかと言うと、まず興味を引く疑問を抱かせるための問題提起がないために、「犯人は誰なのか?」、「この先どうなるのか?」という好奇心がまったく生じなかったのだ。我慢して最後まで読んだものの、470ページのうち、残り20ページもない頃になって、やっとミステリーっぽい描写が出てきて、それは日常にあってはならない事件なのに、なぜかほっとしたりして・・・。

内容としては、ファミリー・セラピスト(なんなの?)のケイトを中心に、その家族と、それにまつわる出来事を描いていく。

夫、ラリー:フロリダで毎日ゴルフ三昧。
実母:アルツハイマー
妹、ジョー・リン:いつもとっぴな行動をしており、13人殺したという連続殺人犯と結婚すると言い出す。
娘、サラ:ジョー・リンの影響を受けた落ちこぼれの高校生。
娘、ミッシェル:サラにいじめられて、耐えている妹
コリン・フレンドリー:連続殺人犯
ロバート:弁護士。ケイトの高校時代のあこがれの人

登場人物はこんなところだが、大部分が呆けた母親と、ちょっとおかしい妹と、不良娘の話なのだ。それを軸として、途中でロバートと不倫したり、セラピーの患者の話(リタイアしてフロリダに来たが、夫が毎日ゴルフばかりしてかまってくれないなどなど・・・)をはさんでみたりといった具合。

最初に連続殺人の話が書いてあるので、そういう話なのかと期待していると、新聞を見た妹のジョー・リンが、その犯人と結婚したいと言い出し(つまり疑惑のままではあるものの、犯人は最初からわかってしまっているので、犯人探しの話というわけではないらしい)、裁判に通ううちに、とうとう結婚してしまい、つまり家族が連続殺人犯と親戚になるわけだ。このシチュエーションがどうしても必要だったようだが、神出鬼没の連続殺人犯というサイコパスと結びつけるのに、そこまで縁故関係を使わなくてもいいのではないか。結末を導くためには、そんなことはどうでもいいんじゃないかと思うし、話が強引で都合が良すぎる。

最後の20ページに来て、やっと事件が起き、それぞれの登場人物の謎(というほどのことでもないが)が分かりはじめ、失くしたパズルのピースがひとつずつ見つかるといったオチである。連続殺人犯は脇役であって、大事なのは事件によって失われたものもあるが、それぞれの「ミッシング・ピース」がみつかり、家族の絆が深まるという心温まる(?)お話。表紙にあった「テリフィック・サイコロジカル・スリラー」というキャッチは、一体どこからつけたものだろう?

以前にバーゲンで買った本で、作家の名前はよく聞くものの、未読だった本。また購入するかどうかを判断するために読んだのだが、もうこの作家の本は退屈だから買わない。少なくともその見極めがついたということで、有益だったと思うしかない。


2002年06月24日(月)
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 Charlotte's Web/E.B.White

E.B.ホワイトの有名な作品だが、手元にあったものの、これまでずっと読まずにきてしまった。たまたま読んでいるジョン・アーヴィングの『The Fourth Hand』に、E.B.ホワイトのこの作品と『Stuart Little』の話が出てくるので、これを機会に読んでおこうと思ったもの。

内容は、アメリカの農場を舞台に、豚のウィルバーと蜘蛛のシャーロットが友達になり、シャーロットがウィルバーの命を救うお話。
つい、同じく動物ものの話が多いDick King=Smithと比較してしまったが、こちらは生死の問題や、自らを犠牲にしても友だちを救うという自己犠牲の精神など、単なるハッピーエンドだけではない深いテーマを持っているのに驚いた。

単純にかわいい話なのかと思っていたら、意外にも胸が熱くなる部分があったり、女の子はボーイフレンドができると、動物など相手にしなくなるといった皮肉もあって、苦笑させられるところもあった。読む前に抱いていたイメージとは、ひと味もふた味も違う、読みがいのある物語だった。

イラストがガース・ウィリアムズなので、いかにもアメリカっぽい雰囲気も良い。


2002年06月22日(土)
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 無名恐怖(BOOK PLUS)/ラムゼイ・キャンベル

<内容>
バーバラ・ウォーは有能な出版エージェント。みずからのオフィスをかまえ、毎日多忙な日々を送っている。しかし、彼女は過去に大きなトラウマを抱えていた。9年前、4歳の娘アンジェラが誘拐され、惨殺されたのだ。仕事に没頭し、ようやくその傷も癒えつつあるころ、1本の電話がかかってくる。「ママ、私よ・・・」。それは死んだはずのアンジェラからだった。娘はまだ生きているのか?生きているならいまどこに?その日から母の必死の探索が始まる。えもいわれぬ恐怖がたちのぼる、ホラー小説の巨匠キャンベルの代表作。

BOOK PLUSとしては、初のホラー小説。はなから苦手な分野だが、怖いもの見たさで、他の本は投げ出して一気に読んでしまった。結論から言えば、怖いので途中でやめることもままならず、先に進まざるを得なかった感はあるものの、面白かった部類だろう。原書が出版されてから20年もたつのに、まるで古い感じはない。

何か得たいのしれないものの存在、それが幽霊なのか、キング描くところの“IT”としか言えないものなのか、はたまたカルト教団なのか・・・。このあたりがはっきりしないところが、不気味で怖い。最終的にはその正体は明かされるのだが、「名前がない」というのがキーワードで、キャンベルはル=グィンの<ゲド戦記>の第二作『こわれた腕環』に使われている「ネイムレス=不正、有害、邪悪」といった概念を、モチーフとして使用しているようだ。

キングの『キャリー』を思い起こさせるような超能力の場面、映画『ゴースト』を彷彿とさせる死者の愛など、いろいろとミックスされている感じはするものの、最後まで正体が不明ということで、ラストまで一気にいく。



2002年06月17日(月)
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 タラ通りの大きな家(下)/メイヴ・ビンチー

失意に沈むリアが受けた電話はコネティカット州に住む大学の事務員マリリン・ヴァインという女性からだった。マリリンは一夏の間、自分の家とダブリンに住む誰かの家を交換して住んでみたいというものだった。その話を聞いたリアは自らの現状をマリリンに告白し、交換家主として名乗り出たのだった。話はまとまり、リアはコネティカットへ、マリリンはダブリンへと旅立つ…。心に深い傷を負った女性二人の悲哀を著者独特のユーモアをまじえて描いたもうひとつの二都物語。

<訳者解説>
『タラ通りの大きな家』のおもしろさは、アイルランド人リアとアメリカ人マリリンが家を交換し、それぞれの土地柄や気質の違いからはじめは戸惑ったり腹を立てたりしながらも、結局は周囲の人々を巻き込みつつ心の平和を得ていくところにあるだろう。おせっかいで人のことが放っておけず、噂話が大好きで、人が良く、家族意識の強いアイルランド人の典型リア。リアのまわりには歯に衣着せぬ母親ノラや不平家の姉ヒラリー、反抗と連帯に揺れ動くアニーと弟ブライアンらがいて、アメリカからやって来たマリリンは、いつのまにやらアイルランドのペースに否応なく乗らされ、気づいてみると自分が問題解決の中心にいて、人のために奔走している。けれどもはじめは嫌でたまらなかったそのおせっかいが、結局はそれまで硬く閉ざしていた彼女の心を開かせ、再び人と関わる人生を歩ませることになるのだ。そしてリアはリアで傷つきながらも彼女自身のプラスのエネルギーを、なんとか絶やすことなく、アメリカで得たものを基に、これまた新たな人生を歩むことになる。

というわけで、上巻では夫の不倫で家庭が崩壊する話なのかと思わせておきながら、実は「母は強し、妻は強し」といった結論になるのだろうか。確かに家庭は壊れたが、それをバネに主人公リアは新しい自分を発見し、強く生きていくのだ。そしてマリリンもしかり。

それにしても、やはりアイルランド。必ず大酒のみで暴力をふるう男が登場する。今回その手の登場人物は、リアの友人の夫だったが、それでも離れられない夫婦の不思議な絆が描かれている。そして夫婦の絆と言えば、リアもマリリンも例え結果がどうあろうとも、その絆は強いのだということを示している。

注目すべきは、とてもカッコイイ女性として登場したリアの友人ローズマリーだ。リアの一番の親友かと思っていたら、実ははなからリアを裏切っていたことが判明する。たまたまそれを知ってしまったマリリンは、ローズマリーを激しく憎悪する。それも確かに当然だとは思うが、一番だらしないのはリアの夫ダニーであろう。口は達者だが、この男の身勝手さには辟易する。ダニーから離れ、自分の道を切り開いていったリアだが、実のところそのほうが幸せになれるのではないだろうか?


2002年06月13日(木)
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 タラ通りの大きな家(上)/メイヴ・ビンチー

ダブリンに住むリアは地元の不動産会社に勤務していた。そこへ、他の支店からダニー・リンチがやって来る。リアはハンサムで仕事もよく出来るダニーに恋をし二人は結婚する。同時にタラ通りにある立派な家もダニーの機転で手に入れた。そして二人の子供にも恵まれ一家は幸せな日々を送っていた。だがある日、リアは、ダニーに愛人がいてしかもその愛人が妊娠していることをダニー自身から知らされる。ダニーは家を出て行った。そんな中、見知らぬアメリカ人女性から電話がかかって来た…。

登場人物それぞれのエピソードを同時進行させ、綿密に描いていくビンチーの本は、どれも分厚い。これも上下で約900ページ。あらすじは上に書いたようなことだが、上巻で状況が変わるのは、ほとんど最後のほうで、それまでは主人公の周囲で少しずつ物事が進んでいく。

もともと不倫話は好きではないが、それにしてもリアの夫のダニーの言い分は勝手だ。自分でもめ事を起こしておきながら、子どもたちを傷つけないために話し合いをしようだなんて・・・。傷つけてるのは自分なのに、妻に協力を求めるのは酷じゃないのか?と思う。

結局ビンチーが書きたかったのは、夫の不倫による夫婦の崩壊ではなく、その後に起こる、二ヶ月間、見知らぬ相手と家を取り替えて住む(アイルランドとアメリカの二都物語)というアイデアを書きたかったのだと思う。だから本当の物語は下巻からということになるだろうと予想している。



2002年06月10日(月)
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 マンスフィールド・パーク/ジェーン・オースティン

ファニー・プライスは兄弟姉妹が多い貧しい家庭に生まれ、哀れに思った伯父(サー・トーマス)と伯母(母親の姉)によって、「マンスフィールド・パーク(マンスフィールド荘園)」で養育されることになる。もともと控え目な性格の上に、自分の家ではないという遠慮と、ノリス夫人(一番上の伯母)の厳しく不公平な扱いによって非常にみじめな思いをしていたが、従兄のエドマンドの温かい思いやりのおかげで、美しく賢明で確かな分別を持った女性に成長する。

そんな状況の中、マンスフィールド・パークの牧師館に、ヘンリーとメアリー・クロフォード兄妹が牧師の妻である姉を頼ってやってくる。ここから様々な事件や問題が起こり、ファニーの立場もいたたまれないものとなり、幼い頃から抱き続けてきたエドマンドへの愛も、諦めなければならない事態となっていく・・・。

冒頭は、細かい人間関係を掴むためにスローペースだったが、佳境に入るや、途中でやめられないくらいに夢中になってしまった。この作品は、一般的な人気の点では『自負と偏見』と『エマ』にもう一つ及ばないとのことだが、個人的にはその二作より、この『マンスフィールド・パーク』のほうがはるかに面白かった。

他の作品は他人事としてただ面白く読んでいたが、これに関しては我が事のように感情移入し、胸を打たれ、身につまされる思いがした。主人公ファニー・プライスは自分とは全く違うキャラクターだが、それを越えて深く理解でき、共感を覚えることができた。

自分の言葉ではなかなか思いを伝えきれず、もどかしい思いをしているので、あとがきにあった尊敬するサマセット・モームの言葉を引用する。一部は他の作品でも引用したことがあると思うが。モームは『世界の十大小説』では一般的な人気を考慮して『自負と偏見』を採り上げているが、『読書案内』の方では『マンスフィールド・パーク』を推薦している。

「私はジェイン・オースティンが英国のもっとも偉大な小説家であると主張しようとは思わない。・・・彼女は完璧な作家なのである。確かに彼女の世界は限られており、彼女が取扱うのは地方紳士、牧師、中産階級の人達の狭い世界である。しかし彼女ほど鋭い人間洞察力を持った者が、彼女以上に精妙かつ適切に人間の心の奥底に探りを入れた者が、あったろうか。・・・彼女の物語には大した事が起る訳ではなく、おおかた劇的な事件は避けられているにもかかわらず、どうしてそうなるのかは私にも判らないのだが、次には何が起るのだろうと知りたい気持ちに促されて、次々と頁を繰らずにはいられない。これは小説家に欠くことの出来ない才能である。・・・私はジェイン・オースティンほどこの才能を充分に備えた者をほかに思い出せない。ところで私の目下唯一の困難は、彼女の数少ない作品の中で特にどれを推薦すべきかである。私自身は『マンスフィールド・パーク』が一番好きである。ヒロインがやや道徳的な堅物で、相手の男が些か勿体ぶった頑固者であることは認めるが、私は気にしない。この作品は賢明で、気が利いていて、優しさに富み、皮肉なユーモアと精妙な観察力の遺憾なく発揮された傑作である」
─サマセット・モーム

これまでは私自身は『説得』が一番好きだったが、改めて比べてみると(もちろん甲乙つけがたいのだが)、モーム同様『マンスフィールド・パーク』と言えるかもしれない。六大作品の最後にこの作品を読んだのは、フィナーレを飾るにふさわしい選択だったと思う。


2002年06月07日(金)
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 永遠の王─アーサーの書(下)/T.H.ホワイト

円卓の旗のもと騎士たちは集い、アーサー王の治世はその理想を全うしたかに見えた。しかし、無二の親友ランスロットは妻のグェネヴィアと道ならぬ恋を育み、おまけに国王の失墜を狙う策謀まで渦巻きはじめていた。少年ウォートの運命とは、悲劇の王として生きることにあったのか?波瀾万丈の物語は、やがて苦渋に満ちた人間ドラマへ。叙事詩、ここにクライマックスを迎える。

下巻はいわゆる「円卓の騎士」「聖杯探索」「アーサー王の死」の物語だが、ほとんどが世界一の騎士ランスロットとアーサー王妃グェネヴィア(グウィネビア)の不倫話だった。600ページ近くあるので、上記3点のテーマについても詳しく書いてあるのだろうと期待しており、ホワイト流の解釈も楽しみにしていたのだが、ホワイトは主にランスロットに焦点を当て(もちろんアーサー王の死に繋がる重要な事柄ではあるが)、トリスタンとイズーのロマンスや、緑の騎士などの話は「マロリーで読んでくれ」というわけだ。

マロリーとは、有名な『アーサー王の死』を書いたサー・トマス・マロリーのことだが、最後に小姓としてマロリー自身が登場するほか、特に説明はない。ということは、読者は当然マロリーの作品を読んでいる、あるいはマロリーが「アーサー王の死」を書いたことを知っているものと仮定して書かれているということである。もし知らなければ、この小姓は誰?で終わってしまう。これは上巻でもたびたび感じたことだが、この本は基本となるアーサー王物語を、当然知っているものとして書かれているのだ。知らなくても理解できないわけではないが、知っていれば、さらに深く理解できるということだろう。

個人的にはランスロットとグェネヴィアのロマンスは、アーサー王物語の中では好きでない話で、また忠誠を誓ったはずの騎士(しかも世界一の!)が、なぜこのような裏切り行為を続けるのか納得できないという気持ちもあって、これがメインテーマとなっている本書は、やはり好きにはなれない。これ(ランスロットのロマンス)はもともとそういう話だから、ホワイトが悪いわけではないが、サトクリフのものよりも、より綿密に二人の関係を描いており、ちょっとしつこいくらい。詳しく書けば書くほど、美しい愛の物語からは遠く隔たる。それに比べて、他の騎士(ガウェインやパーシヴァルなどなど)についての言及は少なく、それも物足りない。

ガウェインは重要人物なので、そこそこ紙面はさかれているが、髪の毛の色ひとつとっても、赤毛だったり砂色だったりキツネ色だったりして、なにやら正体不明。ガウェインが死ぬところ(実際には描かれておらず、手紙によってそうとわかる)は、やはり悲しかったが、一貫して描かれているランスロットの不倫話には、少々うんざり気味。マーリンとニムエ姫のエピソードも茶化されているし、それがホワイト流のユーモアであるというわけだろうか?

何よりも、アーサー王の魅力が語られていないのが、一番の不満かもしれない。理想を実現しようとするその胸の内はわかるし、戦争に反対するホワイトの思想も理解できるのだが、これは歴史書ではなく、フィクションでありエンターテインメントでもあると思うので、アーサーが魅力的でなければ、「アーサーの書」としては片手おちではないのだろうか?アーサーは騎士や王妃の心配をしているうちに、いつの間にか年寄りになり、死ぬのか死なないのかわからないうちに話が終わってしまう。息子モードレッドに倒される部分もないし、アヴァロンに渡る部分もないので、これでは「指輪物語」との繋がりも見えない。出版事情によって削除された部分に、それはあったのだろうか。。。

訳者のあとがきに「ホワイトは本書で、ユーモアに富んだ語りで読者を楽しませるという本領を存分に発揮している」とあったが、原書ではそうなのだろうか?だとしたら、翻訳ではそのユーモアが存分にいかされていなかったのだろう。「お道化は物語を渋滞させる」見本のようなものとなってしまったようだ。もっと簡潔に要点をまとめてくれたら、立派な「アーサーの書」になっただろう。まことに勝手な判断をすれば、「アーサー王物語の形をとった、ホワイトの趣味の本」という感じだ。



2002年06月01日(土)
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