2022年04月19日(火) |
淋しさについての気づき |
このところえずっと 向きっている淋しさについて 月1回オンラインでやっている セッションで扱うことにした。
先生はもう10年以上前から お世話になっている フォーカシングの先生だ。
淋しさを感じている 身体の部分に意識を向ける。
まずは胸から喉にかけて 淋しさを感じる塊があって それは上は頭頂に したはお尻の穴まで伸びている。
とても美しい星雲のようなエネルギー 美しいけれど儚い魅力があって つい近づいてそばにいてあげたくなる。
無防備にそうしていると しらず知らず 身体の芯から凍ってゆく。
きがつけば 身体の真ん中から 凍えるような孤独に 固められている。
星雲は そんな恐ろしい エネルギーを持っている。
その星雲のような美しい淋しさの どこにそんな恐ろしいパワーがあるのですか?
そう問われて戸惑った。 星雲は美しいだけだから。
でもよく見ると 背景が闇なのだ。 ブラックホールのような 漆黒の闇。
星雲に気を取られて 闇に気がつかないまま そこに近づくと その闇が手を伸ばして 身体の芯から孤独で凍ってゆくように 働いているのだ。
その闇は 容赦がない。 情のかけらもないし わたしを生きた人間だとは つゆとも思っていない。
先生は 闇が出てくると もっと安心できるくらい上に上がって 対になるものを 探してみるように言った。
それは、 わたしの身体の真ん中の扉からつながる 太陽のような光。
それとつながることができていれば だいじょうぶだと思った。
もう一度さみしい星雲と闇に戻る。
闇の力の影響を受けにくい距離感で 闇と向き合う。
それは テレビのような 画面越しにみるとよい感じがした。
画面越しに淋しさと闇に向き合いながら セッションを続ける。
その淋しさや闇が ユングの言う普遍的無意識のようなものであれば 何か連想することは?
と聞かれた。
なんだろう?
しばらく考えて 浮かんできたのは
妬まれて 村八分になるような怖さだ。 自分はただそのままでいたのに なにか自分が持っているものが 人の気に障って怒りを買い 村八分にされてしまう。
信じていた人からも 裏切られる。 誰一人味方はおらず 救ってくれる人もおらず 最後は孤独で死んでいくことになる。 その恐怖。
ふと 奄美に伝わる昔話には 美しく気立の良い女の人が 妬まれて意地悪されたり 虐められたりした末に 悲しい最期を遂げるものが多い。
島だけではなく そんな物語は 調べれば 地球上たくさん残っているのかもしれない。
普遍的無意識の中には そんな物語があるのだ。
島でよく耳にする 遠い話に感じていた物語りが 急に身近なものに 感じられてくる。
先生はいう。
自分が持つ美しさや 才能や能力を発揮したら 酷い目に遭うという恐ろしさが あるんですね。
急に涙が出てきた。
そうです。
思い出した。 わたしはずっと 恐かった。
小学校の授業中に 手を上げて正解を言うのは とても恐ろしいことだった。 間違っていた方がいい。 頭が悪いと思われていた方がいい。
自分はキラキラしてはいけない どこか汚れていないといけない。 女の子らしくあってはいけない 堂々とデキル感じではいけない ちょっと変で変わり者で おっちょこちょいでいる方が 安心できる。
そんな風に 生きてきたように思う。
保育園の頃 人見知りが激しく 友だちも少なく 園で喋ることもすくない 引っ込み思案なわたしが
園の発表会か何かで 主人公の白雪姫をやりたいと手を上げて 先生や親を驚かせたというエピソードを 親から何度も聞いた。
毒リンゴを食べて倒れる演技が 素晴らしく上手だったと 褒められたのを覚えている。
白雪姫も 妬まれて 虐められていた。
でも白雪姫は ハッピーエンドだったね。
わたしの中には 妬まれて虐められて 村八分にされて孤独に死んでゆく 恐れのようなもの 強烈なトラウマのようなものが 染みついている。
前世にそうやって死んだのかもしれない あるいは 普遍的無意識の中のその部分に わたしの何かが共鳴しているのかもしれない。
とにかく キラキラするとか 才能を発揮するとか そういうことが とにかく恐ろしいのだ。 何かやろうとしても ストップがかかるし うまく行かないようにするエネルギーが働いて チグハグな感じになってしまう。
やっとみつけた。
わたしは ここに生まれてきて その恐れを乗り越えたいのだ。
自分の中にある この淋しさや恐れの気持ちを 成仏か癒すか ほどよいようにした上で
ちゃんと 自分の持って生まれた能力を 堂々と発揮して この地球でお役に立ちたい。
そんな風に思っている。
まずは これがわたしのお仕事だ。
そんな気づきのあった 満月明けのセッションでした。
2022年04月18日(月) |
身体の歪なところをやさしく撫でてあげる |
淋しい という気持ちについて考える。
わたしは ものごころついた頃から 淋しかった。
みんなと同じペースで 動くことができず 気がついたら ひとりになっていた。
幼稚園の頃は それが不思議で。
小学校低学年くらいになると さみしいと感じるようになった。
40を超えた今や それがあまりにも あたりまえなので 淋しいことがふつうになっている。
でも たしかに いつも 誰といても ずっと わたしの身体を包んでいる この淋しさは 一体どこから来たのだろう。
村八分にされたような そんな淋しさ。
いつか 生まれた人生で わたしが よかれと思ってやったことが 人の迷惑になってしまって 他人を不快にしてしまって あるいは 誰かをとても傷つけてしまって その結果 村八分にされ 死んでいったのかもしれない。
とても淋しくて でもどうしようもなくて もう二度と そんな風になりたくないと 反省したのかもしれない。
村八分にされることが とてもこわくて 村八分にならないように がんばろうと 心に決めたのかもしれない。
自分がよかれと思っても 他人には良くないかもしれない。
他人の感覚をちゃんと気にして 動かないといけない。
それが過剰になると 自分が消えてゆく。
今の人生では もうそれはいらないと思う。
もしも 過去に そんな辛い目にあったことがあるのなら そんなわたしを抱きしめて いってあげたい。
もうだいじょうぶ 自分を信頼しても大丈夫。 今はもうその時とは違うから あなたが自分を信頼して 行動することは 他の人のためになるんだよ。 もう大丈夫だよ。
こわいかもしれないけれど すこしずつ 確認してみよう。 すこしずつ 自分が良いと思うことをして それがみんなを幸せにするのだということを 確認していこう。
わたしがいるし わたしがみてるから だいじょうぶ。 いっしょにやっていこう。 がんばってみよう。
そう言って 長生きするように 身体の歪なところを 優しく撫でてあげたい。
そうだね。 そうしてあげよう。
生まれてから ずっといっしょにある このさみしいという感情を 思う存分 愛おしんでみようか。
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