へそおもい

2004年10月30日(土) 鼻血がでそう

おお
きょうは珍しく
酔っぱらっている。

いろいろなことが
めくるめく
おこっているが、
要は、
あしたはライブなのだ。

なんだか
突然はがきを作ろうとおもいたち、
5種類つくってみた。
(明日のライブで販売します。)




こういう作業が
とても楽しい。

いろいろなものを
どんどん
つくりたい。



2004年10月29日(金) 魂を網ですくう

それは突然やってきた。

チャイをのんで
ぶらぶらして
うたをうたって。
ぶらぶらして
鳥のカタチのお財布を買って、
髪を切って
それから
御飯をたべた。

秋鮭の南蛮漬けをたべた。
麦御飯もたべた。
おかずも全部食べた。
10回かんでたべた。
紅茶をのみながら
ノートをひろげて。

その時。

魂をすくえたような気がした。
ここしばらく
空洞だった胸のあたりの定位置に
魂がもどってきたような気がした。

それは、
素っ裸で
知らない街のアスファルトの上に
ゴロンところがされても、
智恵と勇気と愛嬌で
なんとかのりきれる自信といおうか。

何をやってもいいし
何をやっても大丈夫。

失うものは何もなくて
なにもこわくなくて。
生きている感覚を
ひとつものがすことなく
うけとめつづけて
わすれつづけて
その作業をずっとずっと
つづけていけるような自信といおうか。

それが
どんどんあふれでてきて
ひとすじの川になって
海までつながっていく。

潮の香りがする。
鳥のさえずりがきこえる。
手にはせみとり網。

やっとすくうことが
できたのだと
きょうは
ほっとしている。




2004年10月28日(木) 尊敬する人

石川浩司さんの
「たまという船にのっていた」を読む。

数年前、
たまさんの前座をする機会があって、
その時、
史上最悪の酔い方をしてしまい、
それがトラウマで
大好きだったたまの音楽を
きけなくなっていたのだった。

ちょっとやそっとの
ゲロゲロの悪酔いくらいなら、
忘れたくなくても忘れてしまうのだけれど。
あの時は、
そりゃもうわけのわからない
ひどい酔い方だったのだ。

まあまあ、
わたしがそんな風になっている間に、
たまは解散してしまっていたのだ。
昨年のことである。

ずっとずっと気になっていたのに
トラウマがずきずきうずいて
近寄れず。

最近になって突然
トラウマをのりこえたのか?
スイッチがはいったように、
たま関係のものを漁りはじめたのだ。

やはり、
とてもよい本だった。

じーんとして
ところどころを
何回も読みかえした。

わたしは、
尊敬する人は?
ときかれたら
“石川浩司さん!”と答えることでしょう。

帰り道はすごい満月。
空に穴があいているのかとおもった。

そらをぴらぴらめくった
向こうの世界は
まぶしく
輝いているのだ。



2004年10月27日(水) 維新派

初めて維新派をみにいった。

数年前のエッセイを読んでいたら
維新派の話がでていて、
ちょっと気になっていたら、
知り合いのホームページでその名前をみて、
そのあと、何かの広告で
今大阪で公演していることを知り、
やたら維新派が目につくということは、
これは行けということなのか、
ということで予約したのだ。

行ける日はきょうしかなく、
今日の仕事はいつも残業なのだが、
朝から“定時に帰ります”宣言をして
5時すぎには職場をでた。

それでも
南港についたのは
公演15分前。

ニュートラムをおりてからの
殺伐とした風景の中に、
いきなりあらわれる屋台村。

たき火があって
酒も食べ物もあってワクワクする
あたたかさ。

その広場のまんなかから
客席に通じる階段がある。
ラムチャイを片手に客席へ。
なんて楽しいのだろう。




維新派はすばらしかった。
こんなすばらしいものを作るチカラを
人間はもっているのか!
ホントに来てヨカッタ!
そうおもった。

誤解をおそれずに言うと、
便利を追求するこの日本社会では
無駄だとされるようなことに、
こんなに真剣にエネルギーをそそぐなんて、
なんてすばらしいことなのだろうかと
おもったのだ。

野外の壮大な舞台セットや
想像を絶する連続するアイディア、
絶妙な動きとタイミングと音。

すごいとかすばらしいとか
抽象的な表現ばかりなのだが、
そうとしか表現できないような
さまざまな種類のたくさんのものが
その場所にはつまっていた。

感動した。

終演後屋台村に戻ると
広場では、
もと?憂歌団の木村さんが歌っていた。

たくさんの人が
おもいおもいに
踊ったりたべたり
しゃべったりしている。

それでも
みんな共通して
維新派のつくったこの空間を
愛おしくおもっている感じで。

わたしは、
マッカリとかお湯割りをのんだり、
おでんをたべたりしながら、
焚き火にあたった。

空をみたら
流れる雲の間から
月がみえて、
火の粉がとんでいた。

かえりたくない、
かえりたくない、
かえりたくない、
もうちょっとここに浸かっていたい。

そうおもいつつも、
現実は流れている。
明日は仕事だし、
電車がなくなったらかえれないし、
お金もない。
うしろがみをひかれつつ帰宅。

大袈裟だが
今のわたしにとって
人生を左右するくらいのものが
このひとときにつまっていたような気がする。

ああほんとうに
生きててよかったなぁ。



2004年10月26日(火) ちょんすけダンス

いつも洋楽ばかりの相棒が
なぜだかきょうは、
オフコースとかKANとか
一昔前の日本のうたものばかり
きいている。

ちょんすけが
曲にあわせて
ちょんちょんと
求愛ダンスをおどるので
対抗して
ちょんすけダンスを
おどってやった。

ちょんすけダンスとは、
尻ふりや腕くねくねとかをくみあわせた
即興ちょんすけ向き求愛ダンス。

その動きにまたさらに
ちょんすけが求愛ダンスを
おどるので
ちょんすけとともに
ひとつの空間を創造している感じがして
気持ちがよい。

むかしよく聴いた曲の
なつかしさもあって、
コーフンの夜になった。

もうすぐ満月だ。



2004年10月25日(月) うだうだ実行

ここのところ
忙しかったせいか、
はりつめていたものが
プツンときれた感じ。

昨夜はライブの後だったので、
コーフンがおさまらず、
結局眠ったのは朝方。
今朝おきたら
身体がボロボロだった。

そこで、今日は、
午後の予定をすべてキャンセルして
休息することにした。

帰り道で
安売りの部屋着と
ハーブティーと
芋焼酎を購入し、
引きこもり体制完了!

へそおもいも
こんな早い時間にかいてしまう。

夕方から、
家でのんびり
好きなことをする予定。

早速
うだうだするぞ。



2004年10月24日(日) さらにナマケモノへ

ハードレインでライブ。

青空太郎さんと
御一緒できてよかった。

“うだうだ”という曲をきいて
ここのところ“うだうだ”が
足りなかったことを反省。

もっとうだうだしなければ。

社会では
“うだうだ”はよくないこと
とされているような気がするが、
実は
とても大切なもののように思う。

うだうだするには余裕が必要で、
余裕をえるためには、
ある程度のお金が必要で
お金の事を考えると
うだうだが減ってしまう。

どうやって
うだうだを増やすかが
今後の課題。

めざせうだうだ。
めざせナマケモノ。

ケモノちゃん。
おやすみ。


◆次のライブ◆

10/31(日)京都丸太町 ネガポジ
秋のジャイアントシリーズ 最終日。
ハローウィンの夜。
キラキラパンツ運動会。
来週も楽しみ。

JR京都駅から地下鉄ですぐ丸太町。
丸太町でおりてあるいてすぐ。
京都じゃない人も行きやすいとおもいます。



2004年10月23日(土) まゆげの大切さ

土曜日だというのに、
朝6時代(滅多にない!)に起きて仕事。

職場の秋まつりで
讃岐うどん屋さんのお手伝いをした。

うどん玉(粉をねったやつ)を
足でふんで平たくのばしたり、
麺きり機で麺をきったり。

信じられないくらいの量の
葱を切り刻んだり、
だしをすくったりした。

朝から晩までたちっぱなしで
へろへろにはなったけれど、
グランドの上の
広い空の鱗雲を
ながめられてよかった。

広い空をじっくりみるのは
ひさしぶりだった。

あと、
同僚とプロレスに行く約束ができたし、
去年一緒だった懐かしい人たちに
会えたのもよかった。

とくに、
一年ぶりに会った子のまゆげが
すごく細くなっていたので、
おもしろかった。

まゆげが違うだけで、
こんなに印象がかわるのか。
最初だれだかわからなくて
ぽかんとしてした。

まゆげって大事かも。


★宣伝

あした10/24(日)は、
梅田HARD RAINでライブです。
対バンは青空太郎さん!
ラ・ソラネコは
昔の曲と新曲をやるよ。

HARD RAIN 06-6363-5557




2004年10月22日(金) 読みはじめたらとまらない

ハリーポッター
仕事
ハリーポッター
練習うたうた
南風楽天
秋鮭ちゃんちゃん焼き
紹興酒うまうま
風呂
ハリーポッター
ねる

おやすみ



2004年10月20日(水) トカゲめ

台風の風がこわい。
うちは4階なのだが、
強い風がふくと
部屋が揺れることが発覚。

大丈夫だろうか。
地震みたいに
家がゆれている。

こわいよう。

人間は地面に生きる生き物だから
変に地面を離れると
よくないのだなとわかった。

ちょんすけは
空を飛べるから
大丈夫だろうな。

昨日のイケナイ期待通り、
今日はお昼すぎに
職場から帰宅。

しかし、
どうも落ち着かないし
だるいし、
マイナスの気分だし、
生理前みたいで
何も手につかない。

ここ数年、
低気圧とか気候によって
気分が大きく影響されるように
なってきたような気がする。

先日、
アメリカのインディアンの女性は
月経前になると聖地にこもりはじめ、
月経がおわるまで
瞑想をするのだという話を読んだ。

女性のその時期は
とても神聖で
スピリチュアルなものと
つながりやすいらしい。
瞑想をすると
いろいろなメッセージや
アイディアがみえてくるらしいのだ。

そんな特別な時期だから、
薬なんかで症状をおさえるのではなく
その状態を大切にしたらよいのだと。

そうおもったら
少し楽にはなるのだが。

やはり
仕事がすすまなかったり
気分が重いのは
心地よいものではないとおもう。

瞑想しようにも
生活感あふれる雑然とした
自分の部屋でなんか
瞑想をする気にもなれぬ。

気になっている仕事もあるし、
週末のライブのことを
考えたい気持ちもある。

まったく
自分は俗っぽいなあとおもう。

はやく
たいふうが過ぎて
ゆれない部屋で
ねむりたい。



2004年10月19日(火) あめのひ

急に雨なので憂鬱。

しかも
朝の通勤電車の中で
戦時中のお話を読んでしまって
さらにどんより。

日本がどうやって
今の状態になったのかとか、
これからどうなるんだろうかとか。

戦時中に生まれた父や
戦後すぐに生まれた母が
どんな社会の中で育ったのかとか、
その影響をわたしは
どう受けてきたのかとか。

考えてしまった。

わたしが生きている
あたりまえだとおもっている
日本の今の生活は
ほんとにほんとに
おおきな流れの中の
小さな一部にしかすぎないのだとおもう。

常にかわりつづけていて、
常に新しい状態へ
新しい状態へ
変化し続けているのだとおもう。

先がわからないことは
不安でもあり
楽しみでもある。

だけどきょうは
なんとなく
どんより。

どんよりついでに
あしたは台風(トカゲ)が
くるらしいので、
仕事が楽になればよいなあ
などと
ちょっとイケナイ期待。

トカゲというネーミングは
非常によいとおもう。



2004年10月18日(月) アタリの人とハズレの人

肩と眼が異様に疲労していたので
ひさしぶりに
近所のアロマサロンへ行く。

時々がんばった御褒美と称して
足裏マッサージにいっているのである。

スタッフは5人くらいが
シフトで入れ代わっているのだが、
今日はアタリの人で嬉しかった。

そのアタリの人の
お客との距離の取りかたや
しゃべりかたがとても心地よい。

足裏マッサージの手つきも
他のスタッフとは違う。

その人にマッサージをしてもらうと
いつも最初の10分くらいで
意識がなくなってしまうのだ。

別のスタッフからきくところによると
そのアタリの人は
レイキというものを修得しているらしい。

レイキというのは
宇宙のエネルギーを
自分の身体をとおして
流すものなのだト。

そのアタリの人のマッサージが
あまりにも心地がよいので
レイキというものも
あるのだろうなとおもってしまう。

マッサージが終わった後に
ハーブティーをたっぷり
サービスしてもらえるのだが、
その時に
ハズレのスタッフがしゃべりかけてきた。

“○○の香り、いいですよね〜!”と
媚びたように話しかけてくる。
くつろぎタイムを邪魔された感じはしつつも、
“○○の香りはいいけど
 ちょっとキツイかなー”と答えると、
“そうですよね〜!ちょっと嫌になる時ありますよね〜!”
という。

まったく心のこもらない会話だなあとおもう。

言葉の内容とは別に、
“話しかけてサービスしなくちゃ”
という意図を感じてしまい、
それがこちらの気分と
まったくそぐわない感触。

話しかけさえすれば
わたしへのサービスになると
思いこんでいるところ。

わたしは
そういうのが
どうも苦手みたいだ。

そのサロン
指名制度をつくってほしい
とおもったのだが、
いやいや待てよと
おもいなおした。

ハズレもアタリもあって、
それが自然のカタチなのかもしれない。
いいところ取りをしていくと
なにか歪みがでてくるような気がする。

アタリの人がごう慢になっていくとか
ハズレの人がイライラして
さらにハズレ度アップとか。

またこんど
誰にあたるかは
運まかせだな。



2004年10月17日(日) はやくも引っ越しがしたい

あまりに天気がよいので
心地よく曲でもつくろうかと
ウクレレをつまびいていたら、
とうとうやってきた。

大家さんからの電話である。
近所の人から
楽器の音がうるさいと
苦情がきているというのだ。

この家に引っ越してきてからは
初めてである。

この部屋は
両隣りがいない最上階の家ということもあり、
音の事でなやまされることはないとおもい
選んだというのに。
さては階下の人であろう。

不意をうたれて、
おもわず“すみません”などと
下手にでてしまったのだが、
電話をきってからおもったことは、
日曜日のまっぴるまくらい
別によいではないか!
ということ。

それで
腹がたつような
くやしいような
うわーやってしもた的な
感じがいりみだれて、
ちょっと気分が落ち込んだ。

こういう時は
あんまり深く考えないでおこう。

夜は練習。
スタジオは思いっきり音がだせるので
よい。

マイスタジオのある家に
引っ越したいよう。
あるいは、
音をだしても平気な場所にある
一軒家でもよい。

この家にきて初めて
引っ越しをしたいとおもったのでした。
まだ引っ越してきて数カ月なのだけれど。



2004年10月16日(土) 旅の気分

仕事がらみの研修会。

こんなに天気がよいのに、
窓のないエアコンの効いた部屋で
イチニチを過ごす。

名も知らぬ女性と異様に気があって、
名も知らぬまま
昼食にはふたりで
インドカレーを食べる。

彼女はナンをおかわりして、
午後の研修中ずっと
“ゲップと一緒に吐きそう…”
というのを小声で連発していた。

わたしが“気が合う”と感じるには、
“食べ物の好み”と“笑いのつぼ”が
重なっていないといけない。

一緒にうまいものを食べて
一緒に笑えることが
とても重要なのだ。

逆にそれさえあっていれば、
何をやっていようが
名前がなんであろうが
関係ないのだな、
ということを再確認。

そういう出会いは旅のようで
気持ちがうきうきした。

夜は
出雲旅行のうちあわせと銘打って
梅田で飲む。

今年も神在月には出雲にいくのだ!

日本海と月を眺めながら
うまい酒を飲むことに決定。



2004年10月14日(木) 目の前にあるのに手がとどかない

実は天体モノが好きでして、
今日の日食を
密かにたのしみにしていたのだ。

日食がみれるのは
お昼前後だと確認し、
ワクワクしながら出勤。

仕事の合間をぬって
観察しようと
こっそり計画していたのだ。

すばらしい青空で
これは完璧だとおもっていた。

いい時間をみはからって
さりげなく太陽をみてみる。

なんだこりゃ!
まぶしいじゃないか!
まぶしすぎてなんにもみれないではないか!

そういえば、
小学校の時は黒い下敷きをすかして
観察していたっけ。
日食なんて生でみれるはずないではないか。
肝心なところを忘れていたよ、
奥さん。

少ない智恵をふりしぼって、
ハンカチや服やスーパの袋なんかを
目の前にもってきて、
すかしてみたりしたのだが、
残念ながら観察できず。

職場内の保健室なんかに
レントゲンのフィルムないかなあ…などと
考えてはみたが、
日食をみるために
レントゲンフィルムを借りるのは
不可能だろう。

売店に下敷きかセロファンを
買いに行くという手もあるが、
ちょっと挙動不振だ。

あああ
目の前で
神秘の天体ショーが
おこなわれているというのに!

なにかいいアイディアはないかと、
手をこまねいているうちに
時間がなくなってしまったのでした。

あああ
空腹で手足をしばられて
目の前にカレーライスとか
さんまの塩焼きとか
新鮮でぷりぷりのお刺身なんかを
並べられた時の気持ちって、
こういうものなのでしょうか。

残念。

きょうはぐっすりふて寝できそうです。
おやすみ。



2004年10月13日(水) 数字を考える時の色

なぜかテンションが高く
次から次へと
いろいろなアイディアが浮かび
昨夜はほとんど眠れなかった。

眠ろう眠ろうとすると
どんどん眠れなくなっていく
身体がくるくるとまわって
浮いているような
あの感触をひさびさに味わう。

しかも
おもいついた素晴らしいアイディアは
朝にはほとんど忘れている。

案の定、
今日の仕事後はへろへろになってしまい、
夜は相棒と蕎麦屋にいくことにした。

そして蕎麦屋では
飲んでもいないのに
閉店まで議論。

相棒は数字を考える時に
明らかな色があるというのだ。

1〜9は真っ白
10〜19は暗い黒
20〜29は黄色っぽい白
30〜39は青
40〜49は暗い赤茶色
50〜59は白
60〜69は黄土色
70〜75は白
75〜79は黒
80以上は黒っぽいがイメージなし。
100からはまたくり返し。

相棒は足し算をする時に
ブロックとブロックが
ガシャンとぶつかって
答えを出すらしいのだが、
そのブロックに数字を考える時の色が
ついているのだという。



45+25の場合、
赤茶色の45のブロックに
黄色っぽい白の25のブロックが
ガシャンとぶつかってきて、
70の白のブロックになるという。
(図は相棒がかいたやつ)

この微妙な色のくみあわせも謎。
ブロックとブロックが
ガシャンとぶつかるイメージも
わたしにはわからない。
なぜ70台だけ75でくぎられるのかも謎。

ぜったいにおかしい。

相棒は
ふつうはみんなそう考えるのだから
わたしがおかしいのだという。

議論をしていくと、
お金や月など数字がからむものには、
明らかに色がみえるのだといいだす始末。

例えば、4月と8月は明らかに黒とか。
2月が黄土色で3月は緑とか。
1〜1000円までの黒よりも
4000円から5000円の黒の方が暗いとか。

蕎麦屋の値段表をみて
これは黒っぽい
これは白!
これは黒!
なんでみえへんのや!
見えるはずや!
と、コーフンして熱くなっている。

ますますおかしい。

ふたりではどうしても煮詰まってしまうので、
友だちに電話をしてきいてみることにした。
しかし、
3人にきいてみた時点で
そんな明らかで独特の色はないという。

劣勢にたった相棒は
「電話したのが女性だから違うのだ」と言い張る。
じゃあ男性にきてみようじゃねーか。

鼻息あらく、
男性の友だちに電話をかけてみたが
そんな具体的な色はないのだという。

相棒は頭を抱え出し、
さらに数人に電話をしたが
やはり、ダメ。

相棒が寂し気なため息をついたときに、
最後に電話をした友だちから
電話がかけなおされてきたのだ。

その友だちのとなりにいた友だちが
わかる!といいだしたのだ。

彼女の場合は
お金の色やブロックはわからないが、
色は違えど10ずつに区切られる
独特の色があるのだという。

おお
そういう人も数人にひとりいるものなのか。

なんとなくそれで
議論はおちつき、
我々はおとなしく
帰途についた。

これで一件落着とおもいきや、
あるいているうちに
今度はカレンダーを思い浮かべた時の
形がどんな形かという議論になった。

相棒は横ならびに1月から12月が
でてくるのだという。
わたしは奥行きのある円で、
手前が12月で奥が6月になる。

わたしはてっきり
みんな同じように考えていると
おもっていた。
相棒もそうおもっていたようだ。

他の人はどうなのだろうか。

実は、
人間同士、
数字や色など共通認識できていると
おもいこんでいるが、
それぞれまったく違うかもしれない。
同じ言葉であらわせるものでも、
それぞれ違う色や違う形で表現される
違う世界に生きているのかもしれない。

ああ不思議だ。
相棒の世界はどんなものだろう。

同じモノをそれぞれみんなが
違うふうにみているから、
他人の言葉をきいて
はっとしたり、
腹がたったり
吃驚して涙がでたり、
恋をしたりするのだろう。

人間って
うまくできている。
非常に神秘的だ。

…なんて
ちょっと感動したりして
秋の夜は更けていくのであった。

今夜も眠れなさそうです。



2004年10月12日(火)

昨日は加藤汽船でライブ。
やはりあの空間は好きだ。

2階のトイレにはいって電気をつけたら
大中小のゴキブリたちが
会議中の雰囲気だ。
人の気配におどろいて
いそいで会議中断で
逃げているところだった。

ここのところ
ゴキブリに縁があるなあ、とおもう。




夕暮れの加藤汽船。

ライブにきてくれた友だちと
ひさしぶりにおもしろ話をしていたら、
飲み屋の気分になってきて、
やたら種類の多い焼酎を片っ端から
たのみたい衝動にかられる。

結局、ふたりして、
静岡茶焼酎とやし焼酎とハニ−はぶ酒(強烈!)に挑戦。
今度は玉葱の焼酎をのもう。

ライブ後松本さんと話ができて
うれしい反面とても緊張した。

なんで緊張ってしてしまうのだろうか。
緊張すると頭の中がまっしろで
言いたいことも言えない上に
挙動不振になってしまう。

しかもあとで
シャワーを浴びている時なんかに
その時の事をおもいだして
“うわー!”っとなってしまうのだ。

まあ
あまり深く考えないでおこうとおもう。

夜母から電話があり、
実家の近所に熊がでたという。

母の友だち宅の柿の木のところに、
熊の爪痕と糞がのこっていたそうだ。
その糞が柿の糞だったらしく、
柿の糞の写真をメールでおくってもらったと
喜んでいた。

ホットな話題のあるところにいて
ちょっと羨ましいとおもった。



2004年10月10日(日) ベランダ菜園授賞式

我が家で
自給自足ができているのは、
バジルくんとパセリさんである。

特にバジルくんは
よくがんばってくれた。

種から発芽したものの、
大量発生した白い虫に喰われ、
プランターから5本だけ救出。
多くの困難をのりこえ、
のびやかにおいしく成長し、
いま花盛りである。

食卓でも
スパゲティ−や炒めもの、
スープなどなど、
幅広く活躍してくれている。

バジルくん自給自足大活躍賞
オメデトウ!

パセリさんは、
発芽からいままで
虫もつかず
影も薄く、
安定した成長をみせてくれました。

パセリさん手のかからないいい子賞
オメデトウ!

そして、トマトさん。
自給自足率がほぼゼロに近いのだが、
トマトさんには特別賞を授与したい。

この夏中玉トマトさん2本から
収穫したトマトは、
プチトマト5つだけである。
(注:中玉トマトなのにプチ)

幹や枝は
わたしの背丈を余裕で越え、
のびるだけのび放題。
ベランダにだらんと
のさばっている。

正直邪魔である。

花はたくさんつけるのだが、
実がなるとおもいきや、
5ミリくらいにふくらんで
そのまましぼんでしまうのである。

その萎んだ実が、
おばあちゃんの乳首のようなのだ。

それを発見した時に感激した。
なんと芸術的なのだろうか。
乳首のなる植物!
自然の生み出す神秘!

トマトさん役立たず芸術賞
オメデトウ!

以上
今年の受賞者でした。

今日は
流石、旧体育の日だけあって
とても気持ちのよい天気。

深い穴からちょっとだけ
顔を出したような感じです。

心地よい空気に誘われて
このまま外に
でられたらよいのだけれど。

金木犀の香りがいいね。



2004年10月09日(土) 同時耳かき

生まれて初めてやる
行動を発見。

同時耳かきである。

綿棒を両手にもって
同時に両耳をかくのである。

時間も短縮できるし、
気持ちがよいし、
両耳の穴のカタチの違いがわかる。

生まれて初めてやる行動を
日常の中でさ発見したときの
清清しさよ。


★ちょっとお知らせ★
10/11(月・祝)大阪 Bar吟遊詩人。

松本英輝さんの“地球環境講演会”の前に
ちょっとだけうたいます。
地球環境!とかエコロジー!とかいう言葉をきくと
ヒネクレモノのわたしは、
なんとなく嘘っぽく感じてしまうのですが。

松本英輝さんの言葉を初めて聴いた時
わたしとしたことが、
涙がでてきてしまいました。
感動とはこういうことをいうのか。
吃驚。

ここ1年ほど気がむかず、
ソロはやらないことにしていたのですが。
松本英輝さんと御一緒できるこの機会、
やらないわけにはいかぬ!と思ったのでした。

Bar吟遊詩人は弁天町の加藤汽船のビルです。
昔フェリーに乗る人でにぎわっていたであろうこのビル自体、
とても不思議な雰囲気のところ。

古いものがこわれて
新しいものがうまれる。

なんとなく
前向きな異空間に
ぜひいらしてくださいな。



2004年10月06日(水) 突然ばあちゃん

頭で整理してしまうと、
感覚でじっくり
味わえなくなるような気がして
それが、こわい時がある。

頭で整理しないと
楽になれないのに、
それをしたくなくて
ぼんやり味わって
もやもやに
苦しんでいるときもある。
ちょっとマゾチックだ。

実際
わたしはある感情がわきでてから
それを意識して整理するのに
とても時間がかかるのだが。

大人になると
どんどんその整理が
自動的に進みやすくなるような気がして、
それに対して嫌悪感を感じるわたしは、
いい歳してずっと
子どもでいたいのだろうか。

それはそれでいいや!とも思うのだが。

以前友人に、
“あんたは子どもから突然おばあちゃんになりそう”
といわれたのが気になる。

わたしは
ある日突然
おばあちゃんに
なってしまうのだろうか。

ああ
それも口惜しいなあ。

死ぬまでに、
“オトナのいい女”キャラも
経験してみたい
今日このごろ。

ものおもいにふける
秋の夜長なのでした。



2004年10月04日(月) ラタトゥイユ

大小さまざまなたくさんの
ゴキブリが夕焼け空を
とびまわっている。

この季節になると、
別の世界の扉があいて
こちらの世界に
あちらの生き物が
もれてくるのだという。

彼岸花がとても綺麗。

狐やイモリなどの動物の顔をして
身体は人間のスーツ姿の大人たちが、
会社から帰宅する時間である。
ちょっと離れた街から
この田舎の家に帰ってきたのだろう。
バスからぞろぞろおりてくる。

わたしは、
ゴキブリが家にはいらないように、
細く玄関のドアをあけて入り、
いそいでドアを閉める。
何匹かのゴキブリが
ドアにはさまって潰れる。

台所にいって夕飯の支度をしなければ。

家族がラタトゥイユが食べたいという。
わたしはラタトゥイユは聴いたことがあっても
どんなたべものか知らない。

台所のテーブルには、
都合よくラタトゥイユの素がおいてあり、
説明書を読むと、
この素とミリンと夏野菜さえあれば
ラタトゥイユができるのだという。

なすとトマトとさんまをいれよう。
洋風の印象だけれども、
ミリンを入れるなんて珍しいな。
パッケージは中華風だ。
ラタトゥイユって中華だったのか…。

などと考えながら、
さんまを焼いて身をほぐす。
なすがぷりぷりして
とても旨そうだ。

ふとおいてあった計量スプーンに
ついていた汁を味見してみる。
その計量スプーンの金属の感触が
歯にあたって気持ちが悪い。

黒板を爪でこすったようなあの感触。
口からスプーンをぬこうとしても、
スプーンがおおきすぎて
歯にひっかかって
口からだせない。

うわー!!

目がさめると
さわやかな朝であった。

すごくリアルな夢で、
現実に夢が
もれてまざってきているような
へんな感触。

夢占いの本によると、
夢にでてきた食べ物は
身体が欲していることが多いらしい。

ラタトゥイユに関しては、
あまりにも具体的だったので、
これは食べろということなのかと、
夢の記憶と家にあった材料を考えにいれて、
今日の夕食をつくってみた。

さんまの塩焼き。
なすとじゃがいもと牛肉を
ホールトマトいれて洋風に煮たやつ。
白ごはん。

さんまは脂がのっていて
非常に旨い。
勝手なラタトゥイユもどきも
なかなか旨くできた。

あとでラタトゥイユを検索したら
結構いい線いっているではないか。
やはり中華風ではなかったが、
トマトとなすは当たりであった。

夢をみるまでは
ラタトゥ−ユだとおもっていたのに、
夢にでてきたパッケージでは
ラタトゥイユで、
それで検索してみたらでてきたのにも
びっくり。

なにかメッセージがあるのだろうか。

いったい
ナンナノダ。
ラタトゥイユ。



2004年10月03日(日) 可哀想な自分

人生においての後悔のひとつに、
記憶をなくして二日酔い、
というのが挙げられる。

記憶がある二日酔いであれば、
“この二日酔いも
 楽しかった代償として我慢しよう”
なんて気にもなるもんだ。

しかし、
記憶がないとなると、
なにをやっていたのかという不安と
せっかくの時間が消えたもったいなさと
二日酔いの苦しみが
一気におしよせてくるのである。

それは地獄の拷問のように。

頭痛と寒気とめまいと吐き気が
同時に、かつ、連打で襲ってくる。
わたしの身も心もボロボロなのである。

昨日は友人宅で宴があったのだ。

相棒がいた気安さもあったのか。
手品でもりあがっていたあたりから
記憶がない。

あのあとどうなったのであろうか?

気がついたら
自宅の玄関で眠っていた。

相棒が送り届けるまでしてくれたらしいが、
玄関からどうにも動かなかったらしい。

吐き気と闘いながら
シャワーをあびる。
ひざと左小指がすりむけてしみる。

胃壁と胃壁がくっついていて、
沖縄でゲットしたウコン粒も
胃薬もうけつけない。

眠ろうにも
気分がわるくて眠れない。

ヒマなので読みかけの本の
続きでも読もうとしたのだが、
それが、
“日本全国酒紀行:江口まゆみ”なのである。
非常におもしろい本なのだが、
二日酔いの時に読む本ではない。

自分のことが
とてもかわいそうだとおもうのだが、
自業自得、と
攻められるばかりである。
ああ
ますます可哀想な自分。

お昼間、
すこし動けるようになったので
味噌汁を作って飲んだ。

じゃがいもとたまねぎと豆腐の
味噌汁は二日酔いには最高である。
なんでこんなに美味しいのだろう。
なんでこんなにがぶがぶのめるのだろう。

きっとなにかこわれた細胞を補うものが
味噌汁にははいっているのだろう。

わたしの味方は
味噌汁だけである。
味噌汁さんありがとう。
泣けてくるぜ。

味噌汁さんのおかげで
さらに楽になったので、
このやるせないおもいをぶつけようと
パソコンを開いた次第である。

それではみなさま
ごきげんよう。
強く生きていきましょう。

今夜は練習です。



追伸
携帯を友人宅に忘れてきた模様。
しばらくはメールもみれないし、
電話もでれません。
どうぞよろしくです。




2004年10月01日(金) 山に住むともだち

山に住むともだちに
8年ぶりに会った。

ひさしぶりに会ったので
はじめのほうは、
なんとなくお互い緊張していて
笑ってしまった。

お茶を何杯ものんで
お煎餅をばりばり食べて
杉林を散歩して
渓流をみて、
とてもたくさんの話をした。

この数年分のお互いの人生を
ふたりで鑑賞して
好き勝手なことを
言い合った感じである。

おみやげに
朝採りのしいたけと
いがつきの栗と
椅子になる感じの丸太と
2メートルくらいの長い板と
花台になりそうな丸い板と
木工細工のパズル(めいにおみやげ)を
買う。
安いのだ。

山の夜は
月がぎらぎらしていて
ビール1杯で
とても気分がよくなってしまう。

長そででも寒くて
金木犀の香りが
空気にいっぱい。
虫の声が
サイケデリックにせまってくる。

駅まで送ってもらって、
電気の明るい電車にのると
さっきまでのことが
夢だったような気がした。

彼女と話をしたのも
月の感触も
山の匂いも
すべてが幻だったような。

大量に買った
重いかさばるおみやげをみて
現実だったことを確認する。

彼女はあの村が大好きだと
言っていた。
友だちはみな都会にでていくのに
彼女だけが村に残っているそうである。

非日常のやわらかなリズムが
彼女のまわりにはあるような気がした。

いまごろ
彼女は眠っただろうか。
寒いから布団は分厚いに違いない。
窓から月がみえるのだろうか。
空気はよい香りだろうか。

わたしは下界に
もどってきてしまったよ。

次はいつ会えるだろうか。


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はたさとみ [MAIL]

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