きょうは もうひとつの職場の飲み会。
理科の先生が イモリを理科室で飼っているというので、 オスとメスの2匹もらう約束を とりつけた。
もう わくわくする。 イモリは玄関におくつもり。
満足ほろ酔い御機嫌で 家に帰って、 さて、 今から引っ越し荷物はこび。
明日、 引っ越し屋さんがくるのだが、 かなり安くしてもらって、 そのかわり、 最小限の荷物しか運んでもらえない。
ひとりでなん往復も 荷物はこびをすると ブルーになるのだが、 きょうはなんだか 気持ちがよいので 大丈夫な感じだ。
がんばるぞ!
今夜がこのねぐらで 最後の睡眠だ。
ちょっぴり さみしいな。
職場ののみ会の後に 相棒に引っ越し手伝いを お願いしていたのだ。
電車をおりて ほろ酔い上機嫌で 相棒に電話をする。
今から帰るよ。 あのね。 きょうね。 たいとかまぐろとか いろんな種類のお魚を やいたりゆでたりおさしみだったり いろんなかたちでたべたん。 だから うみの匂いかも。 いいでしょ。
生ぐさいんやな。
海の匂いやよ。 夏をおもいだすでしょ。
夏嫌いやからな。 冬がすきやからな。
そこで 電波が悪くなって 電話がきれてしまった。
相棒は いつもマイペースだ。
ちょんちょん。
昨夜は ふわふわ毛布みたいなライブ。 カラフルなくみあわせで たのしくてここちよくて、 この時間を終わらせるのが淋しくて、 またどっぷりと飲んでしまった。
みんな大好きありがとうっておもった。
かえりたくない。 あんまり深く考えない。 明日のことは明日考える。 タクシーを値切る。
そうして もちろん今日は 二日酔い寝不足ブルーの世界。
それでも まあなんとか 精一杯いくつかの仕事を こなす。
身体がおもくて 水の中で仕事をしているよう。
先日、 引っ越しの荷造りをしていて 8年前の日記をみつけた。
なんとなくペラペラとみていくと、 “ひどい二日酔い。 もう二度と酒の顔もみたくない!” というフレーズが ところところにでていたのだ。
これではまったく 変わっていないではないか。 8年以上も前からわたしは 同じことを何度もくりかえしていたのか…。 学習能力ナシ!
なんとかして、 このパターンから脱出しなければ。
それで、 これからは、 二日酔いを後悔しないことにした。
そうすれば 同じことを反省し続ける 学習しない女というレッテルは はがせるはずだ。
よし、反省しないぞ。
二日酔いさいこー! ハッピー二日酔い。 これからもどんどん二日酔いになるぞ! ファイト! これでよし。
ああ つかれた。 おやすみなさい。
新居のぞうきんがけをした。 よつんばいでトコトコとやる 日本の正しい雑巾がけの方法だ。
それから 部屋中の寸法をメジャーではかり、 メジャーはかりのプロの気分になった。
もう全身が引っ越しモードだ。
ところが こういうときに ものかくし小人がでるのだ。
お気に入りの服とか、 よく使う時計とか、 97年から2000年までのアルバムとかが 消えてしまうのだ。
もうどこをさがしてもない。 絶対に捨てるはずないのに。 引っ越しの荷物は 確認しながら段ボールに入れているのに。
アルバムにいたっては、 ないとわかると 無性にみたくなる。
いままで別にみなくても 平気で生きてこれたのに、 ないとわかったら 無性に手に入れたくなる この欲張り心。
いま1時間くらい ずっと探したけど、 ないので あきらめてねむります。
あしたは 京都でライブなのですよ。 ネガポジという あなぐらのようなお店で 酒もつまみもすすむのですよ。
よかったら みにきてください。
あああ、 おやすみなさい。
いつか、 ものかくし小人の ものをかくしてやる。
入院しているともだちがいる。
ここ1ヶ月ほど、 週1回彼女のところに行って 2、3時間ほどおしゃべりをするのが わたしの習慣になっていた。
彼女の病院にいくまでに、 駅をおりて川沿いをしばらく歩くのだが わたしはその道をいたく気に入っている。
右手に川をみながら、 左手はいろんな植物がはえていて 毎週あるく度に風景がかわる。
今日はぼたん桜の花吹雪と いろんな色のつつじと椰子みたいな木の変な花がよかった。 川の水は粘土の平野みたいで 水の上をあるくラクダのことを考えた。
彼女は産婦人科に入院しているのだが、 そこの産婦人科病棟というのは 病院らしからぬ 妙に明るいエネルギーがあるように感じる。
赤ちゃんパワーなのかしら。 廊下をあるいていると、 赤ん坊の泣き声がきこえてくる。 地球の世界にまだ慣れてないような 宇宙ぽい声質。
今日で彼女とふたりで会うのはおしまいだ。 来週あたり無事に生まれそうなのだ。 次あうときは3人になっているはず。
彼女のお腹をさわると うすい皮一枚のその中に もうひとり奴がいる。
うごいてお腹の皮がつっぱるのをみて エイリアンみたいだといって笑っていたが、 人間の中に人間がいるなんて とても不思議な感じ。
彼女とまったりと 時間をすごして 帰り際、 なんだかいとおしいような 淋しいようなきもちになった。
またね。 生まれたら電話するわ。
うん。あいにくるわ。 健闘を祈る。
そう言って 部屋をでてきた。
帰りも川沿いの道をあるいた。 夕日がちょうど黄色いところで まぶたがきもちよかった。
大切なものがあるということは 幸せだけれど、 出会うということは 必ず別れがあるから、 別れる辛さがふえてしまうなあ、 とおもった。
大切な人とか 好きな風景とか そういうものを いとおしくおもうときに 必ず淋しい感じがやってくるのは そのせいだ。
この間酔っていた時に 誰かが、
この世界のすべての大切なものと自分が 一瞬にしてシュっと消えるのが 一番幸せなんじゃないかな
といったコトバをおもいだした。
そうかもしれない とおもった。
この宇宙の人間の人生の前世の しくみは ほんとうに どうなっているんだろうな。
*やっと日記と日付けが一致しました。 ちなみに4月22日の予測日記は ともだちと飲んだことだけ予測的中。
毎日日記を夜中にかくので、 日付けが一日ずつずれている。 こまった。
しかたないから 明日の日付けで 今日の日記をかくことにしよう。 ついでに明日の予測日記も描いておこう。
4月21日
きょうの夜は 相棒がいたので、 The Whoのビデオをダビングとひきかえに 引っ越し荷物運びを手伝ってもらう。
最近きかなくなったカセットテープとか 食器類をはこんだ。 一時期わたしは いろいろな音を録音し続けていたことがあって、 “フェリーの音”とか “寝ウクレレ”とか “山あるき(和歌山)”とか そんなテープがいっぱいあって やはり今回も処分できずにもっていくことにした。
いつか聞き返す日がくるのだろうか?
ちょんすけは いとも楽しそうに 水浴びをする。
ああ なんてかわいいのかしら。
4月22日予測日記。
きょうは仕事帰りに 久々の友だちと京都で飲む。
あるいていたら 万札がひらひらと何枚もふってきて まわりには誰もおらず、 わたしはどうしたものかと とまどってしまった。
すると、 神の恵みにちがいないと 友だちがいい、 その横顔があまりに清澄な雰囲気だったので ふたりでありがたく 恵みをやまわけすることにする。
人生って美しいなとおもった。
おやすみ。
いちにちに一回 新しい部屋に荷物をはこんでいる。 あるいて3分くらいの距離なのである。
今日は 竹のガムランと 泡盛の2升半の瓶をもって ぷらぷらあるいていった。
きのうは、 ガスストーブと服のはいった段ボール。
おとといは、 マンドリンとくつのはいった段ボール。
部屋着で夜な夜な出歩く あやしげな女である。
その日がどんなに つかれていようとも、 帰りの混雑した電車で 息苦しくなろうとも、 毎晩のこの作業は わたしをわくわくした気持ちにさせる。
近い未来の新しいものを わくわくとおもいえがくことは とてもしあわせなことだ。
つねにつねに 新しい未来のことを わくわくとおもいえがける状態であることは つねにしあわせなのかもしれない。
腹八分目の人生。
おお このコトバなかなかいいな。
近所にレトロな産婦人科があるのだが、 その入り口のぼたん桜がとても美しいのである。
その産婦人科の建物は明治時代をおもわせる 蔦のからまるちょっとハイカラな感じで、 看板がなけりゃ病院だとはわからない。
この町に引っ越してきた当初、 あまりにもすてきな病院なので、 興味本意で訪ねたことがあった。
昔のふつうの家のような待ち合い室。 受付には誰もおらず、 声をはりあげても誰もでてこず、 奥からテレビの音と 世間話のような人の話声がきこえてくるのみ。 30分ほど待っても誰もでてこないので、 結局そのまま診てもらわずにでてきたのである。
病院としては あまりつかえないが、 生活の中の風景としては とても好きな場所なのだ。
そこのぼたん桜がとても 美しいのである。
ピンク色のうすい紙のような 花びらがつくりものみたいに おしあいへしあいひっついていて 現実ばなれしているのである。
今日のような雨の日は、 花びらがぬれて とけてしまいそうなのである。 とけて濃いピンクの液体が したたっているようなのである。
かえりみちに はっとして、 1年前の不安定であやうい こっぱずかしい自分をおもいだした。
その夜もきょうみたいな春の雨で ぼたん桜のピンク色がしたたっていた。
わたしは電話で相棒とひどい言い合いをして、 はだしで雨の中をとびだしたのである。 はだしでずぶぬれで 40分くらいはなれている 相棒の家までいってやろうという きゅうくつで衝動的なおもいつき。
家をでてすぐ、 ぼたん桜の姿にはっとして 花のついた枝をぽきっと折って それをもって相棒のところまで いこうときめたのだ。
しかし、 地面は小石がおちてたりして おもっていたよりも痛い。 でもとびだしてしまったからには ひっこみがつかなくなってしまって、 イテテ、イテテテ、 靴くらい持ってくればよかった などと、現実的なことをおもいながら 相棒の家まで完歩したのである。
あれから1年たったのである。
あのときの自分は かかわりたくない他人のようでもあり、 そのエネルギーをうらやましく いとおしくもおもう。
確かなのは、 ぼたん桜は同じでも わたしはあのころとは 別の場所にきているということである。
わたしたちは 同じようでも 常に変化しつづけているのだ。
いったいどこまでいくのやら。 ぼたん桜よおしえておくれ。
よかった。 休みの日に雨がふるのは好きだ。
窓を全開にして 雨のにおいをかぎながら ふとんの上でゴロゴロする。 夕方までゴロゴロする。
お腹がすいたら 明太子パスタをたべることを考える。 冷蔵庫にはぷりぷりの明太子がある。 バターの香りとお土産にもらったのりの味。 そのことを考えて 食欲のボルテージがぎりぎりいっぱいになるまで ゴロゴロする。 ゴロゴロ。
昨日は昼間ライブだった。 新歌舞伎座の裏のはなのやという 味のある穴蔵のようなお店。
お昼間なのに、 お店の中はよるの時間がながれていて、 ワンドリンク焼酎をのみながら ぼんやりと心地よくすごしていたら、 わたしも不思議なところにきたものだとおもった。 金沢の家の世界から とても遠い場所にきているのだなあ。
ライブが終わって 外にでると、 まだ明るくて 明るいのに酔っていることが 少し罪悪感であった。 もう夜の10時くらいの気分だったのに。
はなのやの前には いい感じのおでんやさんがあって、 そこがとてもうまいというので、 罪悪感は無視して行くことにした。
お店は6時かららしいのだが、 わたしは夜の予定がはいっていたので、 お店にお願いしてはやくからあけてもらう。
ライブで御一緒した三原洋子さんとふたりで つぼざけをのんだ。 たる酒をつぼにいれて冷やしたものだという。 樽の香りがして とてもうまいお酒であった。 520円。
三原洋子さんをみた時、 わたしは、“ギターの似合う女だ”というフレーズがうかんだ。 ギター暦はそんなに長くないときいてびっくりした。 似合う似合わないは長くやってるやっていないと 関係ないのかもしれない。 そんなことを考えながら。
長い髪の毛がのふわふわしたかんじが 色っぽいなあとおもって、 初対面のこの人と 明るいうちから お酒をのんでいうのは また不思議であった。
お店には猫がゴロゴロしている。 ねてるやつもいるし、 おみせのおばちゃんにちょっかいをかけてるやつもいる。 こいつらはけっこう幸せそうだとおもった。
とりとめなくおしゃべりをして、 夜の6時に店をでて わたしは練習へ。
わたしの時計では、 真夜中の練習である。 朝方までの練習である。
だらだらと だだをこねるような雰囲気で練習してしまって メンバーに甘えてるなあとおもう。
あああ、 きのうでなにかがかわった。
いろんなことが一気におしよせていて わたしは慢性的にひからびていたので。 きのうの不思議な一日で すこしわたしはうるおったような気がする。
きょうは夕方までおやすみ。 雨は少しあがったようで、 明太子パスタへの想いも 最高潮だ。
さあ、ごはんにしよう。
*ちょんすけの体重は30グラム。軽!
どうしようも 水がひからびてしまって 金魚はもう力つきて 横になっている。 風がふいたら 表面がかわいてきて いよいよ命も危険にさらされる。
なんとか看病してやらないと。
いっぱい涙をだして なけるんだったら すこしは潤おうのに。
それもできない 不器用なわたしは、 わたしなりのやり方で 看病に専念するしかない。
そうそう 2日ほど部屋をあけていたのだ。
部屋にもどると、 ちょんすけがいらだっていた。 餌箱をひっくりかえして、 落ち着きなく、 指先を噛む嘴の力が強い。
洗いものをしていたら、 ちょんすけがよってきたので、 両手でみずたまりをつくってやると、 手のひらで水浴びをした。 それがあまりにも 自由で楽しそうで 声を出して笑ってしまった。
小学校のとき、 服のまんま 近所の川にはいってあそんで、 パンツでめだかすくいをしたことを おもいだした。
それからどうしようも おちつかなくて。 大切な人に 金魚が危機だとメールしたのだけれど、 とても明るい返事がかえってきて、 この人はこんなに前向きな人だったのかと びっくりする。
それとも、 わたしが暗すぎてこの人を 前向きにしかできなくしているのではないかと 悲しくなる。
金魚が危機なことを わたしひとりしか 理解できないような気がして さみしくなる。
なまぐさいにおいが 鼻につく。
睡眠は ときどき 違う場所につれていってくれる きょうははやくねむろう。
おやすみ
2004年04月15日(木) |
ようするにたいしたことない |
人類は48億年前にうまれたといわれています。 地球がうまれてから 現在までを1年と仮定すると、 人類がうまれたのはいつごろでしょう。
今は12/31の午後11時59分59秒ね。
むしゃむしゃと カレーをたべていたら ふいにそんな質問をされたのだ。
さて、いつごろだとおもいますか? (答えは30行下)
答え:12/31午後8時なんだって。
わたしは、10/22!と答えたのだが。 あまりのおおみそかに、 びっくりびっくりして カレーを食べる手をとめたくらいだ。
ちなみに、生命が誕生したのは、 11/26なんだと。
すごいなあ。 わたしの認知できる世界は ほんとうにちっちゃいものだ。 だけど そんなちっぽけなもんが わたしにとってはでかでかだ。
そういうことを できるだけ 忘れないようにしたら すこしだけ いやなことが へるかもしれないと おもったのです。
例えば、 電車に財布をわすれたりとか。 酔っぱらって警察署の前で吐いたりとか。 結婚を反対されたりとか。 愛する人が他の女とあるいてたりとか。 オトコマエの前でおならをしてしまったりとか。 そんなことがあったとしても、 ようするに たいしたことないってね。
みんな安心していいんだよ。 ようするに たいしたことないよ。
さて、 今度引っ越す家の鍵をもらった。 今の部屋をあけわたすのが、 4月の末なので、 それまでは わたしのねぐらがふたつ。
近所なので ちょこちょこみにいっている。
ふたまたをかけているようで なんだかうしろめたいような うれしいような 甘い誘惑の香り。
今夜もいまから 片手ずつ 扇風機とアコーディオンをもって あっちの家にいくのだ。 地道な引っ越し作業。
うっしっし…。
人生 いかに ドラマティックな物語りをつくって まわりの人をまきこんで 自分も酔ってしまうか。
どこまで 自分も酔い切ってしまうかが 勝負なのかもしれない。
疲れたサラリーマンも 頑固おやじも ピカピカの主婦も 酔っているようにみえる。
なんとなく そんなふうにおもう。
仕事から帰って畳でごろごろしていたら、 なんだか香ばしいかおりがするのである。 おもちをしょうゆでやいたような、 おばあちゃんの背中をおもいだすような そんな匂い。
なんだろうかと 夢うつつでごろごろごろごろ ごろごろしつづけていたら どうやら畳から匂うのである。
そうだ。 昨日畳にしょうゆをこぼしたのであった。 やばいやばいしょうゆがしっかりと 畳にしみこんでしまっている。 4月中に引っ越す予定なので ちょうどよかった。 梅雨になんてはいってしまったら ここからカビが発生しそうである。
そうだ。 昨日はうちで ともだちと飲んだのだ。
いつもは、 お互いの家の中間地点ということで 梅田で飲むことが多いのだが、 あまりの金なしのため、 「どうか家のみにしてください」 と頼んだのである。
うちには酒はあるし ありあわせでつまみをつくれば安つくだろう。 まあ貧乏気分もいいもんだ…。
そうおもっていたら、 彼女はなんとすばらしや、 刺身をかってきてくれたのである。 そのぷりぷりのうまいのなんのって。 量も多いし、とろとろだし。 店で飲むより高級な感じだったのでした。 湯葉豆腐もうまかったし。
ああ、幸せでした。
しょうゆの匂いをかぎながら さしみの味をおもいだす 20代おわりの春の夜。
おやすみ。
世の中にはたくさんの種類の人間がいて、 みんなそれぞれ もっている感性も、性格も、 育った環境も、価値観も、生き方も みんなみんな違う。
ある人にとっての しあわせのカタチは、 もうひとりの人にとっては しあわせではないかもしれない。
いろんな人が 「こうした方がしあわせだよ」 というのだけれど、 わたしは、 今のわたしの頭で考えて 自分の身体で感じる、 しあわせのカタチの方向しか 信じることができない。
きっと、みんな 自分の生きてきた生き方を 肯定したいから 自分のしあわせのカタチが 絶対のしあわせだといいたいのだろうなあ なんて、 ひねくれた風に考えたりもする。
わたしだって 自分の生き方を肯定したいから これでいいのだと 強くおもいこんでいる。
みんなが自分で考えて 自分にぴったりの しあわせのカタチを みつけられたらそれでいいんだろうな。
この社会の最低限のルールの範囲内で。
なんだか 難しい風のことを 考えてばかりいたので おなかがすこし痛くなってしまった。
若干憂鬱な日曜日の夜なのでした。
こんな日はとことん ダークな雰囲気にひたるとしよう。 蝋燭の明かりで 太宰治でも読みます。
おやすみ。
ちょんすけは いままで箪笥のうえが 定位置だった。
しかし、 箪笥がなくなったために 重ねた段ボールの上に かごをおくことになったのである。
今までと場所は同じでも 高さも違うし、 風景がかわったのだろう。 一日3回はしていた 大好きな水浴びを しなくなってしまったのである。
デリケートちょんすけ。 略してデリちょん。
飼い主に似るとはよくいったものだ。 ちょんすけをみていると、 小さなころの自分をおもいだしてしまった。
わたしは小さいころ 滅多にのらない電車にのったり、 なれない他人の家にいったり、 いつもと違う環境にいくとなると、 だまりこんで顔が青白くなり 突然おおあばれしたりして、 親をこまらせていたのである。
その慣れないものにたいする 緊張のし方が良く似ている。
先日も、雑貨屋で偶然、 「小鳥の大好きブランコ」 なる商品をみつけて、 ちょんすけにかってあげたのである。
ところが、 カゴの中にブランコをセットしてから ちょんすけはパニック状態におちいり、 ひとしきりあばれまわったとおもったら、 今度はカゴの片隅でじっとしはじめたのである。
ブランコをじっとみたまま固まっている。
じきに慣れるだろう。 なんせ「小鳥の大好きブランコ」だもの。 とおもっていたら 2時間たってものまずくわずで 同じ体勢なのである。
ショック死かとおもって 心配したほどだ。
ブランコをカゴからだすと、 やっと緊張がとけて ちょんちょんと餌をたべはじめた。
もう、 不憫というよりも、 情けなくなってしまう。
ブランコだって、 ぜんぜん小鳥大好きじゃないではないか。
でも、 わたしだって おおきくなったら ひとりで電車にのれるようになったし、 飛行機にものれるようになったし、 他人の家にもあそびにいけるようになったのだよ。
ちょんすけはまだ6ヶ月なのだし、 今後の成長に期待だ。
きょうもちょんすけは 水浴びをする気配なく、 ほーほーほーほへひょとないている。
いじらしいなぁ…。
2004年04月08日(木) |
いかに自分ががんばったのか自慢 |
わたしって とっても働き者の強い女だとおもう。 よしよし偉いぞ。 いいぞいいぞ。 がんばったぞ。
今日は、 仕事を終えてからがハードであった。
まず、 自分の曲の譜面をかいて 週末のうちあわせに間に合うよう 本日FAXしなければならない。
しかしながら、 譜面なぞ滅多にかかないもので、 ウクレレとキーボードと鉛筆と電話を とっかえひっかえ、 相棒に教えてもらいながらなんとか完成。 夏休み最後の日になきながら宿題を やっている気分と似ていた。
そして次は、 段ボール収集である。 近所の薬局やコンビニをめぐって でかめの段ボールを収集。 薬局では「こんな時間にもうないよ」と断られ、 コンビニもたらいまわしである。
明日が粗大ゴミの日なので 11年間お世話になった洋服箪笥を すてることにきめたのだ。 でかい割には収納できないし、 もう歪んで引き出しがきしんでいたのだ。
段ボールに箪笥の中身をつめこみ。 いよいよ箪笥とお別れだ。
そこで とんでもないことに気がついたのだ。 うちはエレベーターなしの4階なのである。
かよわい女子ひとりでは、 とうていこんなでか箪笥は もっておりられまい。 一瞬弱きのよわこが心のすきまに はいりこんだ。
ああ、あきらめようか。 こんな夜中につらいおもいするよりも、 金さえだせばいつでも ひきとってもらえるからなあ。
しかし、 ここまできてしまったからには ひきさがるわけにはいかぬ。 わたしはこの春 史上最高の金無しなのだ。 節約人生なのだ。
箪笥をひとりで1階におろさないと 地面が割れてワニ地獄に落ちるといわれたら やるしかない。 よし!
無理やり自分をおいつめる状況をつくり、 やる決心をした。 我ながら女前だ。
所要時間2時間。
まず、 ひきだしを5回にわけてもっておりる。 うちは階段がせまいので、 引き出しも一苦労。
次に本体だ。 ここは智恵で勝負だ。 持ち上げるのがむりなら転がすのだ。
ゆっくりゆっくり転がした。
階段ではぶつかって板がわれたり でかい音をたてて 近所迷惑ではあったが、 なんとかやりとげた。
ああよかった。 もうワニ地獄に落ちなくてすむよ。
それからがまた一苦労。 ちらかりまくりの部屋を なんとかふとんがひける状態にした。
ちょんすけよ掃除のひとつくらい 手伝えよ、脳なしめ! と悪態をついてしまった。
きのう、うちの近所の 生命誌博物館で、 いろんな動物の脳のホルマリン漬けをみたので ちょんすけの脳のおおきさを 想像したのだ。
そんなこんなで やっとやっとねる前の ゆったりタイムなのだ。
ねるまえ大好き!
ああ、支離滅裂だ。
いかに自分ががんばったのか 自慢したかっただけの 日記だったのでした。 ちょっとはたらき過ぎで、 ハイになっているのでした。
はたらきすぎって、 箪笥ひとつすてただけのこと なのですが。
箪笥さん11年間ありがとう。 おやすみ。
2004年04月06日(火) |
チカン=赤毛のアン説 |
電車がおくれていて あまりにもこみこみだったので こみこみ電車で気分よくなる法を考えた。
わたしは 大のこみこみ嫌いなのである。 人間の密度が濃いと、 足をふんずけたり 蹴ったり かみついたりしたくなる。
まったくしらない他人と 肌と肌をおしつけあうということ事態が 不自然なはなしではないか。
しかしながら、 わたしたちは、 大好きな人となら近付きたいし 肌と肌をおしつけあいたいとおもうだろう。
そうだ。 まず目をとじて。 自分のまわりにいる人たちが 好きな人だとおもおう。
例えば車両全員ブラッドピット、とか。 例えば車両全員草薙くん、とか。 でも草薙くんの場合はテレビでみるのはいいが、 あんまりこみこみ対策としてはよくなかった。 なぜだろう?
恋人を想像してもいいだろう。 でも現実的すぎて かえって難しいかもしれない。
うーん。 どうだろうかこの案は。
私の場合は、 考えていたらあっという間に 駅についてしまったのだが。
それと同時に、 ちょっとチカンの気持ちも わかるような気がした。
チカン行為はこみこみ電車で イライラするのを防ぐために あみだした楽しいゲームなのかもしれない。
もしそうであるならば、 チカンは、 ネガティヴなものも ポジティブにかえてしまう発想という点で、 赤毛のアンと同じなのか!
チカン=赤毛のアン。
きょうの プチ発見でした。
きょううれしかったのは、 バンドのメンバー5人がそろって 御飯をたべたこと。
メンバーのひとりが入院していたり なんとなくバタバタしていて 5人で会ったのは 1ヶ月ぶりくらいだったのだ。
音楽は、 自分がやろうとおもえば なんらかのカタチで 続けていくことはできるだろう。
しかし、バンドとなると、 今のカタチは今しかない。 常に変化し続けるし、 そのカタチは 自分の意志ではどうにもできない。 まさにナマモノだ。
メンバーがひとりかけたら もうラ・ソラネコの活動はできないのです。 絶妙な5人のバランスで 風にふかれてゆらゆらとゆれているような そんな危なっかしいものなのです。
わたしの心のなかに ラ・ソラネコが占める割り合いは かなりおおきいのだなあ…と びっくり実感した一ヶ月だったのでした。
これからも このメンバーで へんてこでいいもの つくっていきたいな。 ずーっと じじばばになるまで。
そう願いながら 今しかないと おもって やっていこう。
はかないものが好き。 生きている感じがするから。
さて、 ここ最近 年度変わりで飲み会が多かったのですが。 飲み会の次の日にケータイをみると びっくり。
ちょんすけと自分の ツーショット写真だらけなのだ。
ねっころがって鼻のせツーショットとか 手のひらで握ってサドっぽくツーショットとか、 視線そらしてツーショットとか、 誰にもみせられない写真ばかり。
はずかしいったらありゃしない。
帰宅してからの 貴重な寝る前タイムに いったいなにをやっているのだ。
ちょんすけも とんだ迷惑だ。
いろいろな気持ちが心にふきあれる、 20代おわりごろの春です。
ひさびさともだちと飲んだ帰り道。 次にわたしが引っ越す家を見に行った。 真夜中。
正面からの入り口と 裏の細い道と、 両方からはいって 次の我がねぐらをながめたのだ。
このねぐらのせいで わたしは、 やつれたり おなかがいたくなったり ふきでものがでたり…と そんな事態に おちいっているのだが。
だけど、 ともだちが
『いいよ。秘密基地っぽくていいよ』
といったので、 とてもうれしかった。
裏口が細くて しょぼくていいのだ。
そして、そう。 そこにすめば なにかいいふうに ことがながれそうな気配がする とてもいい場所なのです。
何度みにきても やっぱり そう感じるのです。
どうか。 いいふうに状況がすすみますように。
もう おなかがいたくなったり したくないよ。
きのうは飛田新地で すき焼きをたべた。 あんなに肉をくったのは 何年ぶりか。
淫靡なおいしさ。
そして きょうはお茶をのみながら 近所の河原で夜桜をみた。 川にうつる電柱の光りが 目をほそめてみると 流れ星みたいできれいだった。
ここんところすこし つかれていたようで ひさしぶりに ほっとした。
うそじゃないよ。 そんなうそはつかないよ。
けさ、ちょんすけが コップ半分くらい牛乳をがぶのみして おしりから ショーって牛乳をだしてたよ。
っていううそをついてみたら、
夢のはなしやろ?
と全く相手にしてもらえず。 うそだってことにも気づいてもらえず。
しょんぼりなエイプリルフール。
あ、 かみさま発売だ。
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