へそおもい

2003年12月26日(金) ひめりんごのコンポート

いろいろなことがあって
とにかく
まあ
ひからびていたのです。

ふらっと休憩に入った
カフェで
ほんとうに
ぼんやりしていたら
ひめりんごのコンポートが
でてきたのです。

クリスマスの飾り付けで
つかったやつなんですけど。
ただ煮たのですけど。
よかったらたべてください。

  


よかったので
よろこんで
たべましたもの。



2003年12月24日(水) クリスマスおめでとう。

はやくから
街中が
クリスマスムードになっているのをみて、

クリスマスなんて
ケッ!

とか
おもってたくせに。

今夜のおかずは
普段よりずっと
手のこんだものにしてしまった。

蝋燭なんかもつけたりして。
チーズケーキなんかつくったりして。
なんだか
神聖な気分になったりして。

ライブがおわって
くらくらしていたけれど、
やっと
自分の生活に
もどってまいりました。

ただいま。


☆ちょんすけは餌箱に身体をうずめるのが好き。
 砂浴びみたいにするので
 狭いへやが餌だらけ。
 掃除をよくするようになりました。



2003年12月22日(月) 看護モノ

忘年会が3つ続いたあとに
昨日はスゥジーズのライブ。

胃腸は疲れ気味で
足はあざ気味。
しかも
右手の親指を捻挫してしまうという
謎の事態が発生。

なんでお酒をのんでいるだけで
捻挫してしまうのか。
よっぽど重たいグラスだったのか。

ライブでは
ピアノをひかなくてはいけなくて。
まあひけることはひけるのだが、
自分がライブの前夜に
捻挫したことが
とても悔しくて悔しくて。
しょんぼりしてしまった。

もっとすっきりしたい。
すっきりさせて
ひとつひとつのものを
たいせつにしたい。

しらない国の田舎の村で
自由にあそぶ夢をみた。

人生の時間の限りを感じて、
だから
野望とか嫉妬とか義務とか
いろいろな無駄なものを
全部ぬいで
今を幸せにあそぼうと
おもった。

ぼおっと
蓮の池にあたる夕陽をながめたり、
珍しいチーズケーキをかいにいったり、
畳にねころんで
ビートルズをきいたりしていた。

一緒にいた女の子は
さやかちゃんという名前だった。

昨日のライブでやった
ロックオペラのわたしの配役は
さやちゃんだったんだ。

さてさて
きょうの、
看護モノ。




2年程前、
入院したときに、
金沢の幼馴染みが
つくってくれた
看護モノ。

いろいろ
看護してくれるよ。



2003年12月19日(金) 忘年会一日目

忘年会って
すこし
さみしいかんじ。

でも
おさけは好きなので
のんでしまう。

損得とか考えるのは
嫌いなのだけれど、
仕事となると
考えてしまう自分が
なんとも
やるせない。

まあ
なりゆきまかせ。

人生の時間は
限られているので
できるだけ
正直に
生きたいとおもう。



2003年12月17日(水) ちょんすけのうた

ちょんすけのおやすみのうたを
毎日ねる前にうたってあげるのが
日課なのだが。

今日相棒がきていて、
ちょんすけのおやすみのうたを
かえ歌にしてることを発見。

“ちょんすけちょんすけ
 焼き鳥丼
 ちょんすけちょんすけ
 親子丼
 今日はおいしかった
 今日はおなかいっぱい
 ちょんすけちょんすけ
 焼き鳥丼”

『ちょんすけ、
 焼き鳥丼か親子丼か
 どっちがいい?』

なんてきいている。

もう
即座にやめさせた。

そのあと
体重400キロ位になった時の
おすもうさんみたいな
口調のものまねを
1時間ほど練習した。

それは
すこし上達したかも。



2003年12月16日(火) ぬるま湯

女として
人間として
とても
尊敬できる
おばあちゃんと
おはなしをした。

わたしには
想像のかけらも
できないくらいの
小説みたいな人生で。
わたしがつかっているのは
まぎれもなく
ぬるま湯だと
確認。

世の中
しらないことで
いっぱいだ。
わからないことで
いっぱい。

きっと死ぬまで
そうなんだろうな。


◇家に帰ったら
ちょんすけは
膨らんだカラダに
首をうめて
静かに
ねむっていました。

それなので
玄関の電気だけで、
そおーっと
日記をかいて
そおーっと
お風呂に入って
そおーっと
ねむります。

おやすみ



2003年12月15日(月) 青空カラオケ

天王寺の
青空カラオケが撤去される
ニュースをみて
なんとも淋しい気持ちになった。

大阪に住みはじめた頃
わたしはよく
ひとりであのあたりを
ふらふらした。

はじめて
美術館にいったときは、
なんで美術館の裏で
カラオケが大音量?と
そのミスマッチさに
わらってしまった。

ぜんぜん絵画鑑賞の
雰囲気じゃないのだ。

美術館をでて
音をたよりに
カラオケ屋台をみつけた。

近所のおばちゃんとか
おっちゃんとか
若い女や男たちが
あつまって
のんびりと
だべったり
うたをうたったり。

今までわたしが
住んだことのある日本の町では
みたことがない
あたたかな風景だった。

それがまたひとつ
へるんだよな。

きれいに
ととのっていくことは
いいことなのかな。
安全を
コントロールしていくことは
いいことなのかな。

あたたかいものが
へっていくのは
なかなか
誰もきがつかないよな。

あたたかいものが
へっていくと
どこか心の奥深いところが
危険になっていくような
気がしないかな。

どうなのかな。

わからないけれど、
淋しい気持ちに
なってしまったのです。

さてさて
きょうのちょんすけ。




かわいい。



2003年12月14日(日) 人生は不純物だらけ

二日酔度30。
右あたまがいたい。

きのうは、
拾得へマーガレットズロース&渡辺勝さんのライブにいった。
とても好きなバンドなのだ。

先日、
南風で話をしていた時に
マスターが、
マラソンをしている時とか
好きな人のライブを聴いている時に
いろいろなことを考えたり
いろいろな発想がうかんだりする、
という話をしていた。

まさに、
きのうはそんな感じだった。
山登りであるいているときに感じるような、
あの自分に深くはいりこんだような感覚。

マーガレットズロースのライブをみていると
とても正直でまっすぐで
人生がなんの不純物なく
一本にしっかりとつながっているような
あるひとつの方向に向かってのびていくような
そんなエネルギーを感じる。

わたしはそれをうらやましいとおもう。

わたしはとても欲張りなので、
バンドもしたいし、
心理のお仕事もしたいし、
もうお年頃なので、
結婚とか子どもとか
そういうことも考えることだってあるし、
なんだかぜんぜん
まっすぐではなくて
不純物だらけの
宙ぶらりんだ。
それをじっくりと
かみしめることもなく
なんとなく
手のひらでころがして
まいにちをおくっているような。

ああなんて
あまっちょろいんだろう。
人生なめてるよな
わたしって。
なけてくるよな。

だけど、
それしかきなんだよな。
わたしは。
すてることができないんだよな。

でも、まてよ。
あまっちょろいものだって
この世の中にあってもいいのではないか。

たとえば
わたしの
大好きなチーズケーキ。
あまくておいしい。

そうだ。いいのだ。
わたしはわたしなのだ。

ただ、絶妙なバランスを
追求しなくては。

チーズケーキだって、
レモンの香りとか
チーズのコクとか
お砂糖の甘味とか
焼きかたとか、
いろんなものが
絶妙にまじりあって
はじめて
おいしいチーズケーキになる。

だから、
わたしなりの
おいしい人生を
つくっていかなくては。

これでいいのだ。
このままつきすすむのだ。
というわけで、
これからも
あまっちょろくいきます。

あ、
こういうところが
あまっちょろいのかもしれないな。

兎にも角にも
昨日はいいライブで
わたしは気前よくビールを
がんがんたのんでしまって
反省と喜びがいりまじった
複雑な朝をむかえているのでした。

人生は不純物だらけです。


さてさて、
うちのちょんすけです。




画像がアップできるようになったので、
ためしてみました。
写真よりホンモノの方が
ずっとずっとかわいい。



2003年12月12日(金) 文鳥

ちょんすけが日に日にかわいくなる。
はなれたところから名前を呼ぶと
肩にとんでくる
なんとかわいいこと。

夏目漱石の『文鳥』を読んだ。

この人はホント
自分の微妙な感覚に敏感で
それをうまく文章にしてるなあと、
あらためて感じ入る。

その短編の最後には、
飼っていた文鳥が死んでしまう。
その死んだ文鳥の描写が
なんともなまなましく
わたしは随分
こたえたらしい。

昨夜の夢は
いろんな色の鳥を何匹かかっていて
そのうちのブルーの1匹が
死にかけている夢だった。

あたたかいように、
新聞紙をちぎって鳥をまいて
すずりが入っていた箱にいれた。
ほとんど死んでいて
からだがかたまっていく感触を
手のひらがおぼえている。

死体をどこにうめようか、
おおきな病院の裏山を
うろうろとして
鳥を埋める場所を探した。

今にもくずれそうな
吊り橋をわたりながら、
視界のはしっこにちらちらと見える
白い病院の黒い窓がこわかった。

いやぁな感じでめがさめて、
あまりにもいやぁな感じだったので
おきてすぐに
相棒に電話をかけてしまったほどだ。

そういえば、
つげ義春のマンガにも
文鳥が死んでしまうのが
あったような。
あれはどんなストーリーだっけ。

それにしても、
文鳥はなんで文鳥なのだろうか。
もしかして、
夏目漱石をはじめ文学者の間で
はやった鳥なのではないだろうか。

文鳥は東南アジア原産なので、
英語ではJava sparrowというらしい。
なのになぜ日本語では
ジャワ鳥でなく文鳥なのだろう?

謎は深まるばかりである。
だれか知っていたら
おしえてください。

ああ
こんなにわたしが
胸をいためているというのに、
ちょんすけは
肩にとんできてふんをする。
なんていとおしい。
ちょんすけめ。



2003年12月10日(水) アカシヤのはちみつ

食パンにアカシアのはちみつをたらして
紅茶をのんでいたら
ふっとおもいだした。

小学校高学年の頃。
やたらといたずらをしたかった頃。

担任の男の先生に、
“せんせえ〜せんせぇのうたききたい〜!”
と何度もせがんだ。
うたをうたいそうにない先生だったので、
おもしろそうだとおもったのだとおもう。

先生は“だーめーや”と、
何度もことわってきたのだが、
しつこくせがんでいると、
ある日、
誰にもきかせない、
という約束でカセットテープをくれたのだ。

そのテープ。
家にかえってラジカセできいてみると、
石原裕次郎の『赤いハンカチ』が
アカペラではいっていたのだ。

“アーカシヤの〜花の〜したあでぇ〜
 あなたがそっとぉ
 涙をふいたぁ
 赤いハンカチぃよ〜”

なんかなんかとてもおもしろかったのだ。
なんでなんでこのうたなのか!
しかもアカペラで!
わたしひとりではもったいない。
重要な秘密を握った探偵の気分。

早速次の日
その先生の授業の前に
黒板消しをドアにはさんで
教卓の横にそのテープがはいった
ラジカセをセットして
先生が教室にはいって
黒板消しにおどろいた拍子に
ラジカセが大音量でなるようにしたのだ。

なんかいまおもえば
いやらしいいたずらしてたものだ。
自分がやられたら
傷つくかもしれない。

先生は
“誰にもきかせたらだめって約束したがいね”
と無表情でわたしにいった。

わたしはいたずらをするというコーフンと
先生の約束をやぶってしまった…という罪悪感と
なんだか複雑な気持ちになったのをおぼえている。

あの頃は先生に対して
やたらといたずらをしていた。
そういや
チョークの中を彫刻刀で掘って
中にピーナツをしこんだこともあったっけ。
あれはおもしろかった。

だってチョークのなかから
ピーナツだよ!

アカシヤの花のはちみつで、
こんなことをおもいだすとは。

そんなことをおもえば
わたしも随分オトナになったものだのう。



2003年12月06日(土) 雨の土曜日おひるどき

きのういれた珈琲ののこり
よみかけの本が数冊
リサイクルショップにもっていくはずのがらくたの紙袋
いきたいお店のチラシ
のみかけの水のグラス
大切な書類とすてる書類
ちょんすけの片言の鳴き声
飲んでしりあった人の連絡先のメモ紙
ぬぎすてたセーター
きのうもっていったカバン
ケースにはいってないCD
練習しようとしてだした楽器
かきかけの手紙
外は雨模様
重い頭と胃袋

6畳の1DKのわたしのねぐらは
いろいろなものでとっちらかっている。

ビール7杯。

きのうはそんなに
のんだはずではないのに。
なんなのだろうか
この敗北感は。
自分が何かおおきな力に
流されている感じ。
流されてもいいのだけれど、
流れに自分が消え入りそうな感じ。

ひとつひとつ整理していかないと
また次のことがふってきて
地層になって
生き埋めになってしまいそう。

きっとだれも気がつかないから
生き埋めにならないように
自分で自分の身をまもらなくては。

そんな焦燥感。

ちょんすけのごはんの時間だ。
バタバタチュンチュンしている。

そうだな。
ごはんをたべて、
部屋のかたづけでもするかな。



2003年12月01日(月) ちょんすけのにおい

新しいものが自分の生活にやってくると、
その記憶の一部が常にカラダにのこっていて、
似たものに反応してしまう。

例えば
ケータイをはじめて持ちはじめて、
バイブ設定になれはじめると、
携帯をもっていなくても、
電車の振動とか
肩にかけたカバンの振動なんかで、
ケータイを感じてしまう。

例えば
文鳥のちょんすけがうちにやってきて、
まいにちにおいをかいでいたら、
カレーやさんで、
ちょんすけのにおいを感じてしまう。

きょうは
タイ料理屋でごろごろしたり、
映画「うた追い人」をみにいったり、
カレー屋でちょんすけのにおいを感じたり、
のんびりとおしゃべりしたり、
充実したいちにちでした。

まいにちがこんなだったら
しあわせかも。


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はたさとみ [MAIL]

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