元気です

 相変わらずあまり食欲はない。
 が、参鶏湯(サムゲタン)なら食べたいような気がしてきた。

 「参鶏湯つくってぇん(はぁ〜と)」
 と母に云ったら「メンドいからヤダ」と即答された。ちぇっ。

 そんなわけで(?)、最近はうどんとそばばかり食べている。
 それもざる。
 温かいものは油がキツいのか、食後の塩梅があまり宜しくなかった。

 薬が効いていないような気がする。
 とにかく食べると痛い。食べなくても痛い。
 「ウイルス性かもねー。だったら効かないワ」(←なんかさわやか)
 と云いながら同じ薬を寄越した医者は信用できるのか、などと疑ってみたりする。


 膵臓が怖いので、乳製品も避けている。
 膵炎はほんとぉ〜に、もぉメチャンコつらかったノダ。
 それに比べたらゼンゼン平気ヘッチャラ屁のカッパぷ〜です。
 ご心配かけたミナサン、どーもスミマセン。
 メールくれた方、ありがとう。
 おいらは元気です。
2003年01月31日(金)

反省です

 「ヤバイ痛み」の時は、総合病院に行ったほうがいい。
 受付でタライ回しにされようが、待合室で1時間待たされようが、ゼッタイ総合病院がいい。

 5年前、片平の某内科で「神経性胃炎」の診断を受けた翌日に救急車で運ばれたのを、ワタシは未だに根に持っている。医療費返せ〜(怨)。



 目下の心配事は、明日の仙台演劇祭2002「人間風車」(市民会館)までに体調が戻るか、という問題。
 ちょっとビミョー。
 周囲に迷惑かけない程度なら行きます(おい)。

 続いて心配なのが、土曜の木下伸市さんのコンサート(イズミティ21)までに体調が戻るか、という問題。
 ま、大丈夫かな、こっちは。



 上司が復職して、急に気が抜けたのかも知れない。
 反省。いい大人が、自分の体くらいちゃんと管理できずにどうする。
2003年01月28日(火)

健康第一です

 思えば土曜の夜からその予兆はあった。
 ヤバイかなーと思ったンだよねー。
 5年前、急性膵炎で救急車に乗って以来、ヤバイ痛みとそうでない痛みの区別がつくようになった。
 膵炎ほどヤバクないけど、これもかなりヤバイ、とは思ったんだ。
 だから昨日も映画を観たあと、食事に誘われたのを断って早く帰ってきたのだけど。

 昨夜はもぉ大変でした。
 朝イチに病院行くぞ、と心に誓いながら一晩中吐いた。
 吐くものがないから、仕方なく水を飲んでは吐き、吐いては飲んでを繰り返し。
 妹に「トイレ座の住人」とからかわれ、や、ほんとうにそれどころじゃない。



 病名:急性胃腸炎。


 「入院だねーこれ」(←なんかさわやか)

 「イ、イヤです…」

 「じゃ、様子見ようか」


 イヤにアッサリ引き下がるじゃないか…。大丈夫なのか?
 取り敢えず、点滴だけ打って今日は帰ってきました。
 相変わらず、吐き気は治まらないけど、昨夜よりは幾分マシかな。
 寝ます…。みなさんもお気をつけて。
2003年01月27日(月)

晴れ時々風花

 今日の仙台は晴れ。時々風花。
 水っぽい雪だったので昼には道路の雪がシャーベット状になってしまった。
 あ〜う〜まいっちんぐ。
 それでも、自然によって慌てふためくこともたまには必要だと思い直す。
 不謹慎ですかネ?
 でも人間はなんだかカシコクなっちゃって、忙しくなっちゃって、人間以外の都合を忘れてしまいがちに思えます。
 歩きにくいのは人間の都合。バスが遅れるのも人間の都合。
 雪は降るのは地球の都合。
 お天気の不平不満を云うのはやめよう。



 雨水は大地を潤し、大地を経て、川へ。そして海へ。
 海水の水蒸気は雲になる。そして雨に。雪に。
2003年01月24日(金)

How do you feel?

 仙台は10年振りの大雪だったそうな。
 そーか?二、三年前も降らなかったか?こんくらい。
 寒がりだけど、寒いのは嫌いじゃない。
 雨や雪が降ったあとの空気は清々しく心地よい。
 しかし…それでも…
 寒空で一時間半も待った挙句、「もう乗れないから次のバス待ってください」とか言われた日にゃあ、さすがにヘコむぜ…。しくしく…


……………




 昨年末の紅白歌合戦は、みゆき姐さんも勿論ですが、木下伸市さん上妻宏光さんのジョイントにこそ、最も昂奮を覚えました。
 香西かおりさんもとても素晴らしかった。
 日本の民謡は好きです。
 さて、お聞きします。


 ワタシは、日本文化をちゃんと解していると思いますか?
 ワタシは日本文化を、ちゃんと、正確に、解していると思いますか?
 外国人を両親に持ちながら日本で生まれ育ち、しかし外国籍を持つ紛れもない外国人であるワタシは、ちゃんと、正確に、誤解なく、解していると思いますか?

 もひとつ、ついでに疑問。
 子供の頃から慣れ親しんだとはいえ日本で生まれ育った者に、朝鮮民謡やチャンダンを、ちゃんと、正確に、誤解なく解している、と云えるのか。
 「クラシック」にも同じことが云えるけど。
 よくわからない。
 ま、だからって「ワタシ、ちゃんとわかってるのかな〜…」と不安に思っているわけではないです。

 例えば抽象画を見て、「おめーにわがんのスかわ?」と問われれば、
 「『わかる』かどうかは知らないが、感じることはできる」と答えるだろう。
 ワタシにとっては好きか嫌いか、何を感じたか感じなかったかが大切なのであって、『わかる』ことに拘ったりなんかしない。


 朝鮮民謡にしろ、日本民謡にしろ、「クラシック」にしろ。
 ロックにしろ、ジャズにしろ、フラメンコにしろ。
 音楽を好きだと感じ、騒がされ、揺るがされる心と躰はきっと、人種、民族、国家、国境、思想などを超えて矛盾なく、ひとつの肉体に共存させることができるのだと思う。
 きっと、誰もがそうなんだと思う(けど「誰か」になったことないからわからん)。


 わ〜またメンドくてどうでもいいことを長々と書いてしまった。
2003年01月23日(木)

一足早く、春

 上司が復職しました。
 うっれしっいなっ!
 心身ともに余裕が持てるようになり、これからはマメに更新できるかな、と思いますが。
 わからん。



 ファジル・サイのピアノ版「春の祭典」を購入。
 「ピアノでハルサイ?ありえねー」と思っていたのだけど、これが凄い。
 ただただ圧巻としか云い様がない。
 余計な装飾が取り払われ、曲自身の骨格が明るみになったという感じ。
 それでいて豊かな音の世界が広がる。
 素晴らしい(オケが余計な装飾だとは思ったことないのだけど)。

 つってもワタシはあんり詳しくないので、どこに価値判断基準を見出せばよいのかイマイチよくわからない。
 うまい、のかな。うまい、んだろうな。
 この曲も四手?六手?くらいある、のかな?と思う。
 という程度で。

 でも好きか嫌いかなら云える。



 春を祝い、輪になって踊るその中心に、いけにえに選ばれた娘が踊りながら、まあ所謂トランス状態に陥り、踊り死ぬ。
 それが何ともはや、生々しく艶かしく。

 オススメです。
2003年01月20日(月)

詩を詩として


 詩を詩として考え、それ以外のものとしては考えない。


(レミ・ド・グールモン)





 冬休みに『シェイクスピアの墓を暴く女』(集英社新書/大場建治)を読みました。
 シェイクスピア=F・ベーコン説を信じて疑わず、エマソンやホーソーンをも巻き込んでその論説を発表しようとしたある女性について書いたもので、所謂「シェイクスピア学」の変遷などとも照らし合わせて書かれているので大変面白く読みました。

 それにしても…欧米の方のシェイクスピアに対する並々ならぬ執着が凄い。偏執的だわ。
 それも愛ゆえ。
 


 さて、この本は本として大変面白く読んだのですが、まったく思いがけず、その本の主旨とは違う単語や文章に最も影響を受けることがある。

 それが日記冒頭のグールモンの言葉。
 そしてニュークリティシズム。

 作者と作品は、完全に切り離されなくてはならない。
 作者の社会的、または歴史的個性は、作品を論じる時、完全に排除し、その上で独立したものとしてそれ単体で評価すべきであると主張する(『シェイクスピアの墓を暴く女』ではニュークリティシズムがシェイクスピア学に与えた影響について少しだけ触れている)。

 あ、御尤も。大賛成。

 映画を見る際に先入観になり得る情報を極力避けてきたのは、それ単体を評価したい為。
 作品ひとつひとつとそれぞれ向き合いたいが為。


 例えば映画のことを書くとき、「クローネンバーグだからこう」だとか、「リドリー・スコットだから」「フィンチャーだから」と、実に安易に口にしがちである(ワタシ自身もそうなのだけれど)。
 撮影監督がダレソレ、脚本がダレソレ、或いは役者がダレソレ、という情報と、作者の個性や生きた時代、その人生、人柄、過去の作品などの情報を包括して解釈しようとしがちである。
 なんだか沢山観てきたり、情報量の多いファンやマニアほどそうなりがちで、彼らはそうして「作者の意図」を導き出しそうとし、またそれこそが唯一の「正解」であると信じる。
 しかしそういったものを包括しなければ、作品は評価されないのか。
 作品それ単体では評価されないのか。

 作品以外の情報を以っての批評は、真にその作品の批評か。
 何らかの情報に囚われてはいないか。
 真に、その作品そのものを見ているか。


 けれど以前にも書いたが、コーヒーがフィルターを通して濾過されるが如く、自己というフィルターを通さなくては、作品を見ることはできない。身の内に取り入れることができない。
 それを突き詰めていけば、ともすれば「私の解釈」「僕の解釈」に終始し、客観性を欠いた独善的なものになってしまうかも知れない。
 ジレンマですね。
2003年01月17日(金)

自戒として

 如何なるジャンルの、また如何なる媒体も、それを生かすも殺すも、すべては受け手にかかっている。

 例えばミステリと呼ばれる作品を読んだり観たりする際、その作品を実に楽しみたいと思うのならば、時にあからさまな(と思える)ミスディレクションや伏線にも、「気づかないふり」をしなければならないのだと思う。
 その場合、計算して「ミスリードされてあげる」のでは意味が異なるし、またそんな計算をしながら読んだり観たりするのではつまらないだろう。
 「推理モノ」を楽しむときは、犯人が明らかになってゆくプロセスを楽しむという受け皿が必要なのだ(ま、「よっしゃ、犯人みつけちゃろ」と思いながら読むことを楽しんでいる人がいても、それはそれで人それぞれですが)。 

 「面白い」或いは「面白くない」
 「オチが読めた」
 「あり得ない」
 「ばかばかしい」
 「理解できない」
 「意味がない」

 そういった言葉は、実に容易に吐きすてられているように感じるけれど、果たしてその言葉を吐いた人間に、その作品を受け止めるだけの力量があったか。受け皿があったか。
 また、おいらにそれがあったか…。
 そうでなくして安易な言葉で切って捨ててしまうのは、その作品に対して、また作った人間に対して、あまりにも礼を失しているというもの。


 一本の映画に、一冊の本に敬意を払い、常に真摯に受け止めようと思う。
2003年01月15日(水)


深作欣二監督のご冥福を衷心よりお祈り申し上げます。
2003年01月13日(月)

冬休みレビュー

 明けましたらおめでたいのかイマイチよくわかりませんが、今年もヒトツと云わずフタツミッツ何卒宜しく。




 待ちに待っていた冬休みも昨日を以て終了。
 殆ど飲んだくれて終わってしまったような気がする…。

 帰省してきた同級生と飲む機会も何度かあったのだけど。
 本当に同い年なのか、こいつら?
 このトシになって鏡月ラッパ飲みさせられるとは思っていなかった(飲んだけど)。
 一晩で鏡月と眞露、何本空けたンだろ?付いていけねー。



 ワタシはあまり悪酔いもしないし、二日酔いになったこともないので、大抵飲んだ次の朝もサッパリ起きることができます(但しモーレツ酒臭い)。
 冬休み中も毎朝ちゃんと起きてシッカリ朝食を取るようにしていたのだけど、結局映画は3本、本も3冊読むに留まった。


 ・観た映画
 『マイノリティ・リポート』(スティーブン・スピルバーグ監督/2002年アメリカ)
 『ハリー・ポッターと秘密の部屋』(クリス・コロンバス監督/2002年アメリカ)
 『ゴスフォード・パーク』(ロバート・アルトマン監督/2001年アメリカ)


 ワタシのペースじゃこんなものかな。
 映画はあまり立て続けに観るもんじゃないと思っておりますので。



 ・読んだ本
 『シェイクスピアの墓を暴く女』(大場建治著/集英社新書)
 『儒教とは何か』(加地伸行著/中公新書)
 『在日韓国人の終焉』(鄭大均著/文春新書)


 どれも大変面白く読みました。
 『儒教とは〜』は、4、5年前に一度読んだものを再読。
 当時長年疑問に思っていたことの答えを得てスッキリした覚えがある。
 疑問っちゅーのはつまり、「儒教は宗教か否か」ということなんだけど。
 この本を読んだ後に林権沢監督の『祝祭』(1996年韓国)を観て、大変感動した記憶が蘇った(ワタシがウチの儒教式の祭祀に寛大になることができたのも、この本と映画の影響)。
 で、DVD注文しちゃった。売ってねーのなんのって。
 仙台初売りで混み合う街中を捜しまくっちゃったわ(挙句に貧血で倒れたのはここだけのハナシである)。

 『在日韓国人の終焉』も秋頃一度読んだものの再読なのだけど。
 この感想は長くなりそうなのでまたいずれ。



 さて、仕事は明日から本格的に始動。
 今年も頑張りましょう!
2003年01月06日(月)

メイテイノテイ / チドリアシ

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