空色の明日
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このところおたふくとか風邪ひいたりとかずっと体調が悪かったのでずいぶんながいことティップネスに行ってませんでした。 ほぼ一ヶ月ぶりに行って、ヨガをしました。
ひさしぶりだとあっという間に汗が出ます。 筋肉もあっというまに衰えていて(笑)前はできたポーズができなかったり、足がつりそうになったりします。
でもまったくはじめての時よりはまし。 日々の積み重ねというものがとても苦手な努力ニガテ人間の私ですが、いい身体はまさにその「積み重ね」なしには、絶対に手に入らないものだと思います。 もともと痩せ型だったので多少食べることに気を使えばたいして太ったりしないと安心していましたが、やっぱり筋肉のある身体は綺麗に見えるし、何よりとても暮らしの動作ひとつひとつ、立ったり歩いたりすること、座っていることさえが楽になります。
綺麗でありたいということは、女の永遠の願望ですが、綺麗であるためにはやっぱりそう思い努力することが大切。 でも努力が嫌いな私がそれをどうやって無理なく持続するかというと、やっぱり「楽しくやれるような環境を作る」ことかもしれません。
もともと特にスポーツが好きなわけではありませんから、自分では三日も続けられません。なるべく通いやすい場所を選び、なるべく楽しそうなものを探して、そしてなるべく「行くの面倒くさいなぁ」と思わないぐらい手軽にいけるよう、ある程度の道具をいれておくロッカーを借りる1000円ぐらいのお金はケチらない(笑) 1000円をケチって10000円の会費を無駄にしたのでは元も子もありませんから(笑)
20代までは、とにかく「知る」ためにいろんな情報やモノにお金を費やしていました。 知らないことには、とにかく自分をどこまで伸ばして生きたいかという目標もみつけられないのですから。 そしてその20年で素敵だなと思ったたくさんの点をつなげて線にして、30歳で「あの線を目指すぞ」と心に決め、今度は「磨く」ことにお金を費やすことにしました。 この「線」というところがポイントです。 「点」に到達するのは簡単です。それをひたすらめざしてあらゆることをそっちのけにしても目指せるからです。 けれど、大人として生活・仕事・趣味・交友関係、あらゆるジャンルにおいての目標点にバランスよく全体に少しづつ近づいていくことが大切。 でなければ周りがその変化についていけなくて、きっとどれかを失うことになるから。
上のほうにある綺麗な色のリボンのようなその線に向かって、少しづつ、バランスよく自分を毎日磨くこと。 それは楽しい毎日。 そんな日々の積み重ねは努力というよりも手工芸のような楽しい作業。 大きなキルトや刺繍を作るように、ひと針ひと針、楽しみながら作品を作り上げていくような、そんなかんじ。 それが私の思う人生。
私の親は冗談でも嘘をつかない人でした。
よく冗談で、嘘をついて、それを信じて「すごい!?」なんて言うと「ウソウソ。冗談だよ。」なんて会話は罪なく普通に行われるなんてことないものであるように感じますが、たぶん私はそういう会話を自分からしたことがないし、そういうことをする頭がないのだと思います。
こういう会話を周りの人がする中で育った人は、人の話を聞くとき、きっと「もしかして嘘かも」と少し身構えて話を聞くのじゃないかしら。
私の周りにはこの習慣が身についてしまっている人があまりいない。 だから話すことはみんな、ほぼ本当の話で、私はその話をなんの身構えもなく聞くことができる。
だけど時々そうでない人が大勢いる中に入るととてもとても疲れる。 話している人は疲れないのかしらと思うけれど、こういう人は、意外に多い。 たぶん、会話の途切れ目が怖い人、とにかく何かを喋らなければと思う人は、こういう会話で場を盛り上げようとするのかもしれません。 それはとてもサービス精神がある人なのだと思います。 そしてその会話の中から、本当のことをピックアップして聞き分けられる能力がある人なのだと思います。
だけど私はその能力が鍛えられていません。 でも鍛えられたらきっともっともっといろんなことを複雑に考えなくてはならなくなってくたびれてしまいます。 物事がやけに見えてしまうこと、気付いてしまうことでただでさえくたびれてしまうのだから。
だから私はきづかなくていいな。
そんな私だから周りの人はそういう人ばかりになるのかしら。 今の職場もそんな人ばかりのような気がします。
「みんな一所懸命、自分を信じて生きている」だって。
誰かと繋がって生きている時、たとえばそれが家族だったりするとその人のサイクルに合わせたりすることによって、いつの間にか自分の生き方が決まったりする。 そういうことの積み重ねで人生が流れていくことは悪くない。 そうやって人は生きていくものだと私は思う。 夫婦でもなんでも自分の生き方があって、相手のそれをおびやかすことはいけないと思うけれど、宿命や運命という名前で「自然にそっちの方向に流れていく」というような生き方は、人間という種として当然のことだと思う。
だけど、こうして一人っきりで生きている私のような人間は、本当に自分を信じることでしか、生き方を決められない。 自分が何をできるか、何をしたいか、何をするべきか、常に自分を見つめながら生きていく習性がついてしまう。
一所懸命、一所懸命、自分を信じて生きている。 自分が生きていていい理由。 自分がそこに存在している理由。 そういうものを人から与えられることがなくとも、自分が生きていかなければならないと信じて。
自分自身の存在は、人が認めてくれることでそこに形となって残る。 だから今の私はまだ会社でも「様子を見ている最中」の存在で、なんとなくふわふわと消えかかったような霧のような存在。
それでも形が見えるように自分自身が凛としていなくては・・と背筋を伸ばす。筋肉痛になるほどに。
ひさびさに「オーラの泉」で江原さんと美輪さんを見た。 まえの江原さんの一般公募の人が出てくる番組の時は、正直「悪い人」も出てきてて、江原さんが苦しみながらもその人に叱責する部分がとてもリアリティがあったのだけれど、「オーラの泉」は、素敵な人とか悪いことを番組的に言えない立場の人に対して話すので、なんとなくリアリティがないなぁ・・と思う。 でも江原さんもそういう人を見るほうがきっと楽なんだろうな。 楽というのは悪いことじゃなくて、きっともう「悪い人」を見るのは精神的にも肉体的にもしんどいんだと思う。 だから「オーラの泉」の時の江原さんは、見ていてほっとする。 美輪さんにも守られてる感じがして。 ああいう仕事をしている人は、その人自身が苦しそうだなぁ・・見ていて思ってしまう。 見えすぎるほど、つらいことも見えすぎてしまうと思うから。
そして、長島一茂さんがお父さんを支えるために生まれてきたんだなぁと思った。 たぶんお父さんが偉いからそういう言い方を江原さんはしなかったけど、でもきっとそういうことなんだろうな。 才能ある人がいて、その人が本当に幸せに大きくなっていくためには、才能だけじゃなくて支えてくれる人に恵まれるということもものすごく大切だと思う。 その人の存在は、その人の「持って生まれたもの」と、「自分が勝ち取ったもの」だけではなくて、その周りの人との出会いと与えられたものが占める割合も半分ぐらいのような気がする。
一茂さんの前世が武士というのを聞いてとても納得だった。 じっと見据えるその姿勢など。 彼はお父さんという存在を見守る立場であることを受け入れるという人生をきちんとわきまえて生きているところがすごいな。 わきまえて生きるということは、特に若い時にはなかなかできることじゃないと思う。
江原さんも、美輪さんも、一茂さんも、そして国分太一くんも、4人ともきちんと自分をわきまえた上で自分を輝かせられるところが素敵。
「わきまえて生きる」ということ。 それは、シンプルにその人なりの生き方を最大限に生かす、私の理想の生き方。 長島一茂って人をとくによいとも悪いとも思っていなかったけど、なんだか素敵に見えて、目立って生きることだけがすばらしいようなふうなTV画面の中に、優しい春の木漏れ日が見えた気がしました。
学生たちが試験を終え、私たちの仕事も一段落。 慰労会として理事長のおごりでてっちりだ〜!! 幸せです・・・♪ てっちりってものをはじめてお店で食べた。 (実家で買ってきたものを食べたことはあったけど)
早い時間に仕事を切り上げて「もう、行くぞ!今日は早じまいだ!」という勢いが、小さい会社っていいなぁ・・と思う。
もうこの仕事を始めて4ヶ月。 短期契約で働いている周りの人が契約更新されなくて悩んでいたりすると、本当にこの仕事に出会えたのはかなり奇跡的だなと思います。 求められている条件に吸い寄せられるように出会えたこの仕事。 運命ってやっぱりあるような気がする。
私がとてもいいなと思っているS先生。 頭がよく、とてもきびきびして、そしてとても気がつき、おまけに優しい。 はっきりいって完璧な女性。しかも完璧さをかんじさせないラフさがある。 本物の完璧。
たぶん彼女がいる限り、私はこの仕事を続けられると思う。 彼女をずっと見ていたいから。 彼女から学ぶことはとても多い。 その優しさ、思いやり。
それでも私より6歳年下で、今の会社以外を知らないから彼女は私に「経験」という知識を求めてきてくれる。 そんな彼女を見ていると、前の職場の時の自分を思い出す。 みんなの面倒を一人で抱え込んでいるかんじ。 講師補助として、そんな彼女の荷物を少しだけでも軽くしてあげたいと思う。 というか、そういうふうに思える人の補助につけて、私は幸せだなぁと思う。 人としてとても素敵だから。
そういう人に出会えてよかったな。 この仕事にめぐりあえてよかったな。
私の周りには素敵な人が多い。 いつもいつもそう書いてきたけど、やっぱり環境が変わった今も同じように素敵な人が私の周りにはたくさん。 そういう星のもとに生まれてきたのだとしたら私はやっぱり幸せな人間なんだなと思います。
小さな幸せ きらきらと舞い降りてきたらいいのに
携帯にCDから曲をダウンロードしています。 面倒くさい。 きっと私がMDというものを導入しなかったのも、このコピーするという作業が面倒だったからだろうと思う。 まぁ、レンタルCDを利用するならMDに落とそうがCDに落とそうが携帯に落とそうが同じなのだろうけれどウチの近所には今レンタルビデオ屋がないのでその作業もまったくないものだから。
今日とうとう一念発起して何枚かのCDを一気にダウンロード。 電車で音楽が聴けるようになったのは嬉しい。 最近家でもほとんど音楽を聴く時間がないので。
仕事を始めて生活は落ち着いたけど、こういう余裕がないのはさびしい。わかってたことだけど。
その人は、とっても美味しい餌をいつもに増してたくさん持ってきた。
ぼくがむしゃむしゃとそれをおいしそうに食べるのをじっとみながら「たくさんお食べ」と見守るように見つめていた。
やっとぼくがそれを食べ終え、ひげを整えて、顔をなめ終わったとき、その人はこういったんだ。
ウチはマンションで犬もいるんだ。 ごめんね。ウチでは飼ってあげられないんだよ。 きっといい人に拾われるんだよ。幸せにね。
そうして僕はまた公園の片隅のダンボールの中で小さく丸まって眠るんだ。 今日は晴れてる。 星が出てる。 だから今日は幸せだ。
そう自分に言い聞かせながら眠るんだ。
何事も自分にとって得ではないことは文句を言う人っていますね。 別に損でもないなら言わなくてもいいと思うのですが、「いいな〜」という言葉はなんとなく相手にプレッシャーを与えると思った。 もしその人がそのことを喜んでいるなら「よかったね〜♪」と心から言える人になりたい。 少なくとも世の中で喜んでいる人が一人増えたことに対してでもいいから、ほほえましく思えるようでありたい。 今はこれといって不幸でもない私なのだから。
向上心と羨みの境目に立ってる気がする。 今までは常に向上心だった。 少しでも私の思う「普通の生活」に近づくために転職したり勉強したりとにかくいろいろ努力してみた。 ただ、上をみればきりがなくて自分で「このぐらいでいいか」と思ったところがこの境目だと思う。 もっと上を・・と野望にむかって邁進する人をすごいなと思うけれど、私はもうこのぐらいの幸せがいいなと今は思ってる。
もしかしてこれに慣れてきたらきっともっと欲が出てくるのかもしれないけれど。
でもこうして「今は幸せだなぁ・・」と思えることが一番幸せなんじゃないかなと思うのです。
もうすぐ春。 桜の綺麗なこの街に住んでてよかったと思える季節がやってきます。
友達が同じマンションに引っ越してきた。
今日は休みでお互いの部屋を行ったりきたりしながらおしゃべりして「そういえばおひな祭りだねぇ」と話していたら、夕方になって「ちらし寿司作ったから食べて」と友達からメール。
甘エビやいくらがいっぱい乗ったピンク色のとっても綺麗なお寿司。
女の子は楽しいな。 いろんな楽しみ方を知っている。
そういうことを思い出させてくれる、そんな友達。
安藤みかげ
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