紫
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友といっしょに、ホームページ作りをしました。
月末の日曜日の午後。
とても楽しい時間を過ごしました。
途中、友が麺好きな私に「焼きうどん」を作ってくれたり、お酒に目のない(?!)私に、ビールをふるまってくれたりと、うれしいサービスがたくさんありましたが、誘惑にも負けず(負けながら)、ようやく完成。
個性あふれるホームページができあがりました。
家に帰って、今日、作ったばかりの友のホームページを開きました。
なんだか、作ってよかったな、と思えるホームページでした。
ホームページの更新を、義務に思うことなく、負担に思うことなく、いつまでも、自分流・自分ペースで続けてほしいと思います。
いい1日でした。
おやすみ。
地図が好きです。
見ているだけで、わくわくします。
旅の地図はもちろんのこと、車に積んでいる地図も、市内の区分地図も、地図を見始めると、あっという間に時間が経ってしまいます。
おそらく、鉄道ファンが時刻表で1日は遊べる、という感覚と同じなのでしょう。
地図を見ていると、いろんな疑問が出てきます。
たとえば、地名。
廃藩置県によって、江戸幕府のなごりを残さないように、都道府県名はもともとの地名からかけ離れて命名されていますが、市名、町名には歴史の香りを感じます。
とくに、東京や大阪、京都の地名は、「昔」を想像しやすく、このへんに武家屋敷があったんだな、とか、このへんは今は埋め立てられているけれど、港町だったんだな、などと、当時の様子を想像できておもしろさを感じます。
地図を見て想像した土地に行くのが、私の旅の醍醐味とも言えます。
昨日、1冊の「地図」を買いました。
ほぼ半日を、その地図を見て過ごしました。
地図を見るのは、わくわくするけれど、調べることがどんどん増えて、どうしようもありません。
今日、誕生日を迎えた友は、阪神・淡路大震災の年に作られた地図を、今も車に積んでいます。
あちこちで通行止めになっている道路地図を、今もずっと使い続けている彼女。
みんなそれぞれ、「自分の地図」を持っているのだと思っています。
おやすみ。
学生のころのバイト先は、北海道が発祥の居酒屋だったため、北海道出身の社員がいっぱいいました。
大学に入ってすぐにその居酒屋で働き出した私は、彼らの標準語とは少し違う言葉が大好きでした。
「わかるっしょ、そのくらい」
「やめれ、やめれ!そんなこと」
「これ、投げといて(ゴミ箱に捨てておいて)」
などと、北海道弁で仕込みを教えられた私。
1日のほとんどをその居酒屋で過ごしていたため、いつの間にか私も「するっしょ」や「投げる」などと使うようになっていました。
そのほか、語尾が少し上がったり、忙しくてどうしようもないときに「わやだ、わや」とつぶやいていたり。
さすがに「はんかくさい(ばか)」や「手袋をはく」などは使いませんでしたが、「しゃっこい(冷たい)」はときどき口からこぼれることがありました。
だから、北海道に行ったときは、それほど違和感なく、彼らの方言を耳にすることができました。
でも、ただひとつ。
いまだに違和感があることがあります。
それは、電話をかけるとき。
たとえば、山田さんが中村さんに電話をかけたとすると、
「もしもし、中村さん? 山田でした」
………。
なぜか、自分の名前を名乗るときに「○○でした」と過去形にするようです。
そういえば、北海道の人は丁寧語を話すときに、けっこう過去形を使っています。
郵便局で切手を買うとき、「50円切手20枚でよかったでした?」などと言われたときは、かなり違和感がありました。
少し前に話題になった「よろしかったでしょうか」という使い方は、これまた北海道発祥の「つぼ八」が東京に進出してきたときに使われていた方言が、そのまま飲食業界の用語になじんでいったとか。
江戸時代の終わりから、全国津々浦々から集まった北海道人。
いろんなところの方言が混ざり合って融合していった比較的新しい方言なのでしょう。
先日、北海道の友から初雪のしらせが入りました。
北の大地、これから「しばれる季節」が来るのでしょう。
久々に「昼寝」をしました。
13時から16時まで。
3時間も寝てしまいました。
私は、めったに昼寝はしません。
なんとなく、せっかく太陽が顔を出している時間に寝てしまうのがもったいない、と思うからです。
起きていて、特別なことをするわけではないけれど、でも、昼には昼にしかできないことがたくさんあります。
今日は、久々に時間がたっぷりできたので、読書をしようと思いました。
足腰がひんやりと冷えてきたので、ふとんのなかにもぐりこみながら、本を読んでいました。
…………。
……。
!
「もひもひ(もしもし)!」
16時過ぎに、携帯に電話がかかってきてようやく「起床」。
寝ていたことさえ気づかずに3時間。
寝不足なわけではないけれど、ふとんって、こんなにも睡魔に襲われるものなのか、と思いました。
眠れることは、健康なこと。
たとえ、週のまんなかに3時間の昼寝をしたって、1年を通しての私の睡眠時間が、平均よりかなり少ないことだけは、確かなのです。
うむ。
「きょう、ごはんでもどう?」
「行こう行こう」
私が会社に勤めているころは、こんな感じで、ゲリラ的に食事会が開催されていました。
1〜2週に1回くらいだったでしょうか。
ほぼ毎日、外食して帰っていた私ですが、だいたい会社の近所の飲み屋に行くため、「都会でディナー」はあまり行っていません。
ただ、帰る時間がなんとなくわかっているときは、大阪のオフィス街で働く友を誘ったり誘われたりしながら、「都会でディナー」が開催されていました。
ディナーといっても、ほとんどがパスタ料理。
最初は、「どんな店に行く?」と互いに遠慮しながら店選びをしていくのですが、いつもなぜかパスタ屋さん。
何も打ち合わせもしていないのに、パスタ屋さんばかり。
そう、互いにパスタが大好きだったのです。
今日は、久々に「食事、どうですか?」のメールをしました。
「やっぱりパスタ?」という返事がきて、今日の食事会、決定。
同じくオフィス街で働く友をもうひとり誘って、3人でわいわいパスタ。
とても楽しい時間を過ごしました。
やっぱり女同士のおしゃべりは、こうでなくっちゃ!
女が三人で「かしま(姦)し娘」というネーミングに妙に納得。
ただ、「かしましい」という読みになると「やかましい」などの意味になるようですが、「姦」の漢字一文字だと、「悪い心をもつこと。よこしまなこと。また、その人やさま」などの意味になる様子。
使い方に気をつけましょう。
歯医者の予約をしました。
奥歯に詰めていたものが、いつの間にか取れていて、ごはんを食べると、必ず詰まります。
痛くはないけれど、気持ちが悪い。
こういうものは、早めに治療。
ということで、今度から歯医者通いが続くことでしょう。
さて、新しい週が始まります。
2004年10月24日(日) |
2日目・忍頂寺から摂津峡へ |
東海自然歩道の旅、第2日目でした。
今回は、茨木の忍頂寺から高槻の摂津峡まで、総勢6名で歩きました。
私が忘れ物をしたため、予定より30分ほど出発が遅れてしまいましたが、なんとか9時51分には、忍頂寺を出発。
台風一過の山道は、かなり荒れていて、倒木で道がさえぎられていたり、根こそぎ倒れている木があったり、標識になる木が折れていて、何度か道に迷いそうになったりと、いろいろハプニングがありましたが、山慣れしている人たちばかりなので、とても安心。
やはり台風の影響で水量の増した滝をいくつか眺め、これまた水量の増しただろう沢をいくつか渡り、わいわいとおしゃべりしながら、木々からこぼれる陽の光を眺めて歩きました。
13時半ころに、萩谷(はぎたに)の公園で昼食。
山歩きをしていることを忘れるくらいの持ちより豪華ランチパーティーが始まりました。
朝の遅刻が影響していて、バスの時間もせまってきたため、あまりゆっくりすることはできませんでしたが、いい時間を過ごすことができました。
それからイッキに摂津峡へ。
温泉に入って、最後はいつもの店でかきフライと花パスタ。
きょうもまた、仲間とわいわいと歩くことができて、いい1日になりました。
おわりおわりおわりっ!
まだ、サラリーマン時代のころ。
たくさん収入があったときのころ。
そして、残業時間でほぼ通常に2倍の給料をもらっていたときのころ。
年に2回。
買い物をしていました。
人ごみがきらいな私は、もちろんバーゲンなんて行きません。
バーゲンに行っても、バーゲン外のものを人ごみを避けて、みていました。
買い物に行くと、半年分の必要最低限の買い物をします。
買うものは、スーツが2着と、カジュアルが2着くらい。
ショップはだいたい決まっていたので、半年に一度、ケタを外れて買い物をする私を大歓迎してくれました。
それがまた、気持ちよくて(^.^)
きょうは、ひさびさに「バーゲン」に行ってきました。
行った店は、スーツでもなくカジュアルと呼べるものでもなく、山用品の店。
サラリーマン時代のころは、けっこう強きに買い物をしていたけれど、最近は、慎重に慎重に買い物をしています。
きょうも慎重にお買い物。
欲しいものは、次回バーゲンで狙います。
久々のお買い物。
けっこう買ったと思ったけれど、1万5000円弱。
必要最低限のものって、ホントは、安いんだな、って思いました。
今までの感覚が、おかしいんですね。
おやすみみみみぃ。
我ながら、「思い出めぐり」の日記が多いと思います。
それを「日記」と呼ぶのか、「自叙伝」と呼ぶのかはわかりません。
でも、私としては「その日に思い出したこと」だから「日記」でいいと思っています。
子どものころの話を、ほとんど覚えていない、という人が多数、います。
幼稚園からの友に、幼稚園時代の話をしても、「はぁーっ?」って感じでみられます。
きっと、それが当たり前なのでしょう。
私は、なぜか子どものころの記憶が鮮明にあります。
おそらく、兄は私よりもいろんなことを覚えているでしょう。
「思い出めぐり」はとても楽しいけれど、ときどき、胸が「きゅうーーっ」となるときがあります。
それは、おそらく「思い出」が「宝箱」に入っていないからだと思います。
「宝箱」というものをつくってしまった私にも原因があるのでしょう。
でも、「何か」を乗り越える手段として、「宝箱」は私には、必要不可欠でした。
いつか、「宝箱」の話をしなくなる日がくればいいな、と思います。
そうすると「コンのみ日記」も、最終回を迎えるのかも。
まだまだしばらく、思い出めぐりにお付き合いください。
おやすみ。
高校三年生のとき、学校をさぼって、祖母とふたりで奈良に出かけました。
日本史の先生の影響で、神社仏閣に興味のあった私。
地理感のある京都の社寺には一人で行っていたのですが、奈良に行くには勇気がいります。
当時、いっしょに住んでいた祖母を誘いました。
学校をサボる私に何も言わずに、「行こうか」と言ってくれた祖母。
本当は、どういう思いでついてきてくれたのでしょう。
なぜ、奈良に行きたかったかというと、薬師寺の東塔が見たかったから。
「凍れる音楽」とフェノロサが評した薬師寺東塔。
どういう意味なのか、確かめたかったから。
実際に見た東塔は、何が「凍れる音楽」なのかはよくわかりませんでした。
でも、祖母とふたりで、解説を読みながら、「うんうん、そうか」とまわった薬師寺を、私は今も鮮明に覚えています。
帰りのバスに、お土産のおまんじゅうを忘れてしまったことも…。
薬師寺、あれ以来、いまだ訪れず。
いつかふらりと、訪れてみたいと思います。
「停電、するかな」
夕食時に母にぽつり、と言いました。
暗闇の大嫌いな私。
停電は、「怖い話」より天敵です。
超大型の台風23号は、日本列島を縦断ではなく、すっぽりと丸のみしてしまいました。
18時ころに、泉佐野に上陸したとのこと。
わが家は大阪の北にあるので、それほど雨は激しくありません。
それでも、ときどきピカリと光る空を見ると、ほんのちょっと、ふ・あ・ん(不安)。
「はい、これ」
母が、赤くて大きな懐中電灯を出してきました。
それは、私が小学校のころに学校のキャンプに持って行って、クラスの注目を集めたあの懐中電灯でした。
テントのなかを昼間のように明るく灯してくれた懐中電灯。
今までも、キャンプをするたびに、赤くて大きい懐中電灯をよく思いだしていました。
暗闇を明るく照らしてくれたあの懐中電灯が、今、私の目の前にある。
昔、住んでいたあの「家」にあったものを見つけると、今も胸が詰まります。
あの騒動のなか、よくいっしょに出てきたね。
なくしたものは、たくさんあるけれど、こうして今もいっしょに暮らしているものたちもたくさんあります。
停電しても、この赤くて大きな懐中電灯があるから大丈夫、ですね。
おやすみ。
どんより。
求めず期待せずって、慣れれば、いちばん楽なのかもね。
幕末に大活躍した人物の一人に、西郷隆盛さんがいます。
現在の鹿児島出身の人で、江戸城の無血開城に一役買った人物です。
東京の上野公園に、西郷隆盛像があるのは、江戸を戦火から守ったからだとか。
彼が政府から退くと、多くの人が、彼のあとを追って政治から手をひいていったそうです。
情のあつい人柄に、多くの人が彼を慕っていたことがうかがえます。
きょう、国会生中継を観ていました。
政治については、大きな声では言えませんが、あまりよくわかりません。
時代には、時代のヒーローが必ずいます。
今の時代のヒーローは、いったい誰なのでしょう。
ということで、幕末のヒーローのひとり、私の好きな西郷隆盛さんをネットで検索。
なんと、「隆盛」という名前は、お父さんの名前で、役所に届けるときに間違えて記入し、お父さんの名前がそのまま息子の名前になってしまった、という記述を発見!
ヒーローは、ホントは違う名前だったようです。
こんな人、あの時代にはいっぱいいるんでしょうね。
ますます親しみが生まれましたとさ。
おやすみ。
朝5時半に起きました。
手っ取り早く身支度をして、駅に向かいました。
きょうは、六甲山登山の日。
六甲全山縦走コースの3分の1(?)を歩きます。
集合場所の須磨浦公園駅で、きょうのメンバー4人が集合。
そこから、鉢伏山、旗振山、鉄拐山、高倉台、栂尾(とがのお)山、 須磨アルプス 高取山 鵯越(ひよどりごえ)まで、途中にあった「馬の背」をおっかなびっくり越えて、ときどき住宅街を通り抜け、階段の多い山道で息を切らし、いくつかのピークで達成感を味わい、少し道に迷いながら、あーだこーだと言って仲間と意見交換、そして、横一列に並んで食べた昼食。友がつくってきてくれた「フチャンプル」、それから心のこもった「手作りおにぎり」、そして「昔ながらのハンバーグ」。
秋晴れの高い空と、そよそよ秋風。
すべてが、「楽しい」という一言に尽きた1日でした。
有馬温泉の金の湯。
そして、湯上がりの生ビール。
最後は、かきフライとリゾット。
いい1日は、いい1日のまま。
おやすみ。
あしたは、早い。
おやすみ。
1日のオワリは、なんだかしくしくモードでした。
おまけに寒くて、ぶるぶる震えていて、このまま寝たら、すごくみじめな思いをするような気がしました。
ということで、小さな「シアワセ」を抱きしめて寝ることに。
ぎゅっ。
あったか〜い。
ということで、いよいよ登場。
「湯たんぽ」。
あぁ、懐かしい………なんて、寒がりの私は、今年の5月中旬くらいまで、湯たんぽを抱いて寝ていたから、それほど懐かしくはないはずです。
紅葉よりも先に、冬の風物詩を抱きしめて寝る。
1日のオワリは、こうしてあたたかくなりましたとさ。
きょうも、朝から晩まで仕事をしていました。
なんだか、大変です(汗)。
忙しすぎる1日だった。
2004年10月10日(日) |
1日目・箕面から忍頂寺。うっそうとした木立を歩く |
8時に箕面(みのお)駅集合。
記念撮影をしたり、買い物をしたりと、トイレに行ったりと、各自いろんな準備をすませてから、いよいよ出発です。
きょうから、「東海自然歩道」を、何日か小分けして東京の高尾を目指します。
箕面川に沿って整備されている「滝道」のゆるい上り坂をてくてくと行くと、箕面の滝に到着。
整備された観光道路という感じでした。
しばらく休憩したあと、車のびゅんびゅん通る道路を通り、サルのふんをよけながら歩き、箕面ビジターセンターに出ます。
実は、「東海自然歩道」は、このビジターセンターから始まります。
ビジターセンターで、東海自然歩道の地図を購入。
京都の高尾までのルートが乗っています。
ようやく山道に入りました。
ここから、最勝ケ峰に向けて、標高差250メートルをイッキに登ります。
さすがに息切れ。
途中のベンチで休んでいると、なんとマウンテンバイクのおじさんたちが、5人。
自転車を抱えてやってきました。
しばし、談笑。
「それじゃあ、また」という感じで、去っていきました。
なんとなく、旅の途中、のような感じがして、気持ちがよかったです。
それから、またひたすら歩きます。
勝尾寺(かつおうじ)の鐘を聴きながら、ひたすらてくてく。
山道だったり、車道に出たり。
民家のあいだを抜けたり、田んぼの側道を通ったり。
いろんな道に出会いました。
そろそろ歩くのに飽きてきたー、と思ったところで、遅めの昼食。
おにぎりと塩ラーメン。
野菜とウインナー入りの塩ラーメンは、かなりおいしかったです。
そして、15時半。
とうとう茨木市の忍頂寺(にんちょうじ)のバスターミナルに到着!
約7時間の歩きでした。
旅の様子は、写真日記で公開しています。
トップページ→The CONTACT →旅 → 東海自然歩道の旅にあります。
次回は、忍頂寺から高槻市の摂津渓を過ぎたところまで歩きます。
以前も書きましたが、いよいよ明日から「東海道の旅」の始まりです。
正確に言えば、「東海自然歩道」の旅。
アスファルトと排気ガスの1号線をのぼるより、自然のなかを歩こうと、企画を変更しました。
19歳のときに思いついた目標を、十年以上経った今、始めようと思います。
当時は、夏休みを利用して、イッキに京都まで行こう、と思っていましたが、今は、そんな気力も体力もありません。
何日かに小分けして、歩きます。
1日に4〜6時間。
無理はしません。
さて、何年かかるのでしょうか。
旅の様子は、写真日記で公開予定です。
トップページ→The CONTACT →旅 → 東海自然歩道の旅にあります。
とにかく明日。
いよいよスタート!
ためてても、どうせ書けないので。
おやすみ。
「ガラスの仮面」という少女漫画があります。
美内すずえさん作で、「はなとゆめ」という漫画雑誌に連載されていました。
私が幼稚園くらいから高校1年生くらいまで、ずっとずっと、単行本を集めていました。
たぶん32巻くらいまでは持っていたように思います。
1巻はたしか320円。だんだんと値上がりして、だいたい360円に落ち着いていました。
今は、1冊410円もするようです。
ひとりの平凡な少女が、すばらしい役者に成長していく物語。
いまだ、完結していません。
ただ、この物語に影響されて少女時代を過ごした人は、かなりの数だったと思います。
かくいう私もそのうちのひとり。
小学校のときから、クラスの芝居で何かしらの役を演じ、中学校に入ると、俳優養成所に通いました。
ただ、私には、「ガラスの仮面」の主人公・北島マヤのような隠れた才能と役者魂は皆無に等しく、ときどき、養成所の窓の外を歩く時代劇役者さんを見つけては、満足していました。
「なんのとりえもない平凡な私が……」
これは、北島マヤの口癖のようなセリフです。
北島マヤは、その才能を認められて、非凡になっていったけれど、私は「平凡」なまま、おとなになりました。
いや、なんでも「平凡」がいちばん、と今は、つくづく思っています。
さ、がんばろー。
「てめえのケツくらい、オレがふいてやるから、思いっきりやってこい」
最初の会社に入ったとき、よく先輩に言われた言葉です。
かなり下品な言葉遣いだと、今、日記を書いていて思うのですが、当時は、とてもとても心強いセリフでした。
新人が失敗することなんて、今から思えば、たいしたことはありません。
たいしたことはあっても、上司がうまくフォローに入ってくれます。
だから、まさに怖いもの知らずで、思う存分、やっていたように思います。
「失敗したら、ケツまくって逃げてこい。あとのことは任せろ」
そんなセリフを背中に、仕事に出かけていた毎日。
当時の「男社会」のなかに、たった一人の女性営業として飛び込んだ私は、ある意味、かわいがられながらも、かなりひどい罵声を浴びながら、毎日を送っていました。
いえ、これは、私だけではなく、ほかの同期も同じ対応でした。
ただ、実際に失敗して逃げ帰った暁には、こんなセリフも。
「ばかやろうっ。それでのこのこ帰ってこられるな! 何を考えてんだ、てめえっ」
人に怒鳴られるなんて、高校時代以来。
ときには、理不尽なことで叱られることもありましたが、今、思えば、その上司や先輩のなかでは、一本、筋の通った理屈があったのでしょう。
部下を怒鳴る上司。
最近では、嫌われる上司の代表のようです。
叱り方、叱られ方を知らない世代が、増えてきたように思うのは、私だけでしょうか。
ただ、言葉遣いは、もう少しキレイなほうがいいとは思うのですが。
おやすみ。
「もしもーし、おう、ワシだ。久しぶりやな」
父が、岩手の兄弟に電話をしていました。
兄弟といっても、11人兄姉の末っ子。
私のいちばん年上のいとこは、母よりも年上です。
長男のお嫁さんにいじめられながら育った父。
いつもかばってくれた七番目の姉も父が子どものころに病気で亡くなったそうです。
そんな父の話を聞くのは、別世界の話を聞くようで、とても楽しみでした。
だから、父が岩手の方面に電話をしているときは、ついつい耳を傾けてしまいます。
「おう。元気か? ところで、ガンは大丈夫か?」
んん?
ガン?
「いや、兄姉がどんどんガンで死んでるだろ。なんだ? ガンの家系か?」
父は、わざわざそんなことを聞くために電話したのでしょうか。
最近、健康診断に行った父。
もしかしたら…。
いや、もしかして、もしかすると………。
母譲りの「心配性気質」な私。
でも、もしかして………。
「ガンって遺伝やって言うだろ?」
………あぁ…(どきどき)。
「ところでな。おまえ、知っているか? 『どぶろく』ってどうやって造るんだ?」
え(・_・)?
「このあいだ、娘がうまそうな新米を買ってきてな。それで、どぶろくを造ろうと思っているんだ」
……………、酒かいっ!
と、心のなかで突っ込んではみたものの、父が元気であったこと。
父が電話で聞いているレシピを、母が隣でメモしていたこと。
それから、両親が元気なことが、とてもとてもうれしく感じた一瞬でした。
どぶろく、もしかしたら来年あたりに「のみすけ日記」に載るかも?!
学生時代、「東海道五十三次を歩こう」という企画を何度も立てました。
東京の日本橋から京都の三条大橋まで。
ひとりで歩きとおす勇気はありません。
二十歳になる年、何人か友を誘いました。
が、「親に反対された」とか「絶対無理だから」という理由でことごとく断られ、結局、普通電車とバスを乗り継いで、3泊4日で京都まで帰る旅をしました。
これはこれで、また楽しい旅になったのですが、やはり最初に立てた目標は忘れることはありません。
大学4年生のとき、「自転車で東海道を下ろう」と中国人の友に誘われましたが、就職活動をするため、と、マウンテンバイクを買うほどの余裕がなかったため、実現できませんでした。
そんなこんなで、のびのびになってもう十年以上経った私の目標。
そろそろ、形をかえて、スタートしようと思います。
少しずつ少しずつですが、ゆっくりのんびりと、歩いていこうと思います。
いつ、スタートするかは、また追ってご連絡するとして、まずは、ひとまず。
おやすみなさい。
つかれたよぅ。
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