紫
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目次|過去の日記|未来の日記
何の気なしに発せられた「言葉」に傷つくのは、私の悪い癖?
「自分のことでせいいっぱい」というのは、単なる「逃げ」?
なんだか今日は朝からわけがわかりません。
いちばんわけがわからないのは、今日のこの日記でしょう。
さて。
これからどうしますかね。
おやすみ。
さぼってま〜す。
ちょっと忙しい。
ここ数日のことは、ないしょ、ということで。
おやすみ。
ぐったり。
ぐぅぐぅ。
蝉時雨にまぎれて、日記、おやすみ。
まだ注文もしていないうちから、生ビールがジョッキで出され、ちょっとこぶりの「エビライス」が、薄焼き卵にくるりと巻かれてきました。
会計をしているお客さんが、私を見つけて「にこり」と笑ってくれて。
なんとなく、そんなことに「居心地のよさ」を感じた今日の夜。
居心地が良すぎて、またしてもお金を払うのを忘れて帰ってきてしまいましたとさ。
食い逃げ御免!
十数年間、住み慣れた土地を離れて、故郷に帰る友がいます。
私は彼のことをよく知っているわけではないけれど、彼が「心」を養った地を離れるときの気持ちは、なんとなくわかります。
どんな気持ちかは、うまく言えません。
今日はそんな彼のために、「サプライズ送別会!」が開かれました。
ホントに突然、企画されたこの会。
どんなふうになるのか想像もつかなかったけれど、やはりあたたかいあたたかい、いつもどおりに歌声とやさしさにあふれた、あたたかい会になりました。
私もギターで歌いました。
昨日、「歌う?」と聞かれて、今日、練習。
新しい曲なんて、もちろん無理なのと、以前に歌った歌が、今日の日にぴったりだったのため、その歌を歌いました。
歌のくだりにこんな歌詞があります。
「せめて元気でと 君も元気でと
ずっと元気でと きっと元気でと」
遠くに行く友。
今までのように顔を見る機会は減るけれど、いつまでも元気でいるかぎり必ずいつか会える。
そんな気持ちをこめて歌いました。
遠くへ旅立つ友へ。
ずっと、きっと元気でいてください。
そしていつかいっしょに「思い出話し」ができる日を楽しみにしています。
「ガス爆発が起こると、家ごと吹っ飛ぶの」
子どものころ、ガス漏れの恐ろしさを言い聞かせるために、母が私に言いました。
家ごと吹っ飛ぶ…? 家ごと宇宙に飛んでいくのかも?
そんな子どもらしいことを考えました。
でも、宇宙に行ったら空気はないし、家のなかにいたら生きていられるけれど、食べるものがなくなったら買い物に行かなきゃいけないし、でも空気がないから外にはいけないし…。
万一、私が留守番しているときに家ごと吹っ飛んだら、私は宇宙で一人っきり?
う〜ん、それはコワイかも。
ということで、ガス漏れにはかなり注意をするようになったワタシ。
でもみんなでいるときに家ごと吹っ飛んで、しばらくしたらほかの国に落下して、ガイコクに住めるようになるのも楽しいかな。
それもいいカモいいカモ♪
………、そんな夢のような話は、そのあとしばらく続くのでした。
否定だにしなかった母ですが、きっと不安に思ったことでしょう。
幼稚園のころのかわいいお話しでした。
前の職場の近所にある、昔、よく行っていた花屋さんに行きました。
フラワーアレンジメントを頼むためです。
少しの待ち時間のあとに、淡い色で統一された、小さくてかわいいバスケットアレンジメントが出来上がりました。
できあがった花の色調がとてもキレイで、何度もお礼を言いながら車に戻ると、とたんに涙があふれました。
「何かの間違いであってほしい」
そう願った日から1年経ちました。
「もし、今、ここに『彼』がいたら…」
という言葉を心のなかで繰り返し続けた1年が経ちました。
私はこの1年、できるかぎり「今日、起こったこと」を聞かないようにしてきました。
聞けば聞くほど、「今日、起こったこと」がより現実になるような気がしたからです。
どんなに抵抗しても、悲しい現実には変わりないのですが。
1年後の今日、初めてその「場所」に連れていってもらいました。
その途中で、初めて自分から「そのときのこと」について、友に質問しました。
答えるほうもつらいだろうに、私の質問にひとつひとつ答えてくれて、ありがとう。
弔問客が帰ったあと、夜、遅くなってから、彼の思い出について語られました。
彼の「最初で最後のお弟子さん」も、彼について語ります。
去年、私は彼女のために歌いました。
あんなふうに自分の思いっきりの気持ちをこめて歌ったのは、生まれて初めてです。
彼女のなかに生きている彼を、どうにかして「家族」の人たちに伝えようとしている彼女に向けて、私も何かを伝えたかったからです。
今日も彼女は、ていねいにていねいに言葉を選びながら、彼について語ります。
彼が生きた27年間は、こうして人に語られること、思い出されることによって、より多くの「意味」を成していくものなのかもしれない。
そして、彼について聞くこと、語ることによって、少しずつ少しずつ「心に宿」っていくものなのかもしれない。
「解」はやはり出ないし、言葉もまったく見つからないけれど、そう考えるようになってきたこの1年。
今年は、これから暑くなるのでしょうか。
おやすみ。
私の愛していた雑誌の部数が、少しずつ少しずつ落ちているそうです。
なぜだか理由はわかっています。
なぜだかは書きません。
でもやはり部数が落ちているとはっきり聞いたときは、かなりショック。
でも私にはどうしようもありません。
私はその雑誌とその読者を、ある意味、「捨て」てきたからです。
「編集」という仕事は天職だと思っていました。
今は、わかりません。
何度も、この迷いにぶちあたってはきたけれど、それでもやはり編集という道を選んできました。
でも、今はホントにわかりません。
会社を辞めて1年余りのあいだに起こったいろんな出来事に、私はまだ振り回されているような気がします。
もっと自分をしっかり持たないと。
だって、あんなに一生懸命、あの雑誌を作っていたのだから。
がんばらないと。
今日は、自分に向けて書いています。
でも少し(かなり)ふわふわモード。
早めにおやすみ。
2003年07月22日(火) |
やはり、せいいっぱい |
人に語ることで、「思い出」や「気持ち」は形になって、形になることで「思い出に宝箱」にしまえるようになるのでしょう。
「裏」にあるものと「表」にあるものと。
「裏」にあるものも、「評価」されたがっているけれど、なかなかそうはいかなくて。
やっぱり、自分のことでせいいっぱいだけれど、自分のことは最終的には自分で守らなければいけないのでしょう。
今日は、連鎖的にそんなことを考え出したら止まらない1日でした。
静かな夜です。
おやすみなさい。
朝から晩まで、同じ場所にいました。
朝は汗をかきながら、夜はパソコンを触りながら。
夜、かなり疲れているはずなのに、私の胃袋サイズの小さな小さなオムライスを作ってくれました。
卵ふんわりのオムライス、とてもとてもおいしかったです。
今日はホントにホントにおつかれさまでした。
ところで、今日食べたこのオムライスは、日本で発明された料理とのことです。
フランス語の「omlet(オムレツ)」と英語の「rice」が合わさった「和製英仏語」。
では、オムレツの意味はというと、昔、おなかを空かせたフランスの王様が「なんでもいいから、早く作れ」と言ったときに、そこにいた男が大急ぎでタマゴをかき混ぜて、料理を作ったそうです。
それを見ていた王様が「オム・レスト(すばやい男だ)!」と言ったところから、変化して「オムレツ」になったという話。
今日は、おいしいおいしいオムライスを食べながら、インターネットでそんなことを調べていたことは、ないしょにしておきます。
おやすみ。
今日はおやすみ。
「腕のいい職人さん」が、静かにていねいに組み立てた祭壇に、白い布がかぶせられました。
いちばん上に写真を立てかけ、お線香やろうそくを準備して、最後に遺灰が写真の隣に並びました。
それぞれがそれぞれに「今日、するべきこと」をこなしていっています。
そんな姿をみて何度も詰まる胸をおさえながら、今日の段取りを打ち合わせ。
参会者を席に案内して、それから「一回忌の法要」が始まりました。
お経が終わって、祭壇の横に並び、参会者にあいさつをする家族を見ていられず、思わずその場を離れました。
どんな年月を経ても、悲しみは「ここ」にあります。
なくなることはありません。
「彼の生きた27年間の意味を考えながら…」
彼の父の言葉がいつまでも耳に残ります。
やるせない悲しみのなか、昼の部の法要が終わりました。
少しの休憩のあと、夜の法要が始まりました。
夜は、彼を慕っていた旅人が集まります。
夜の法要では、彼の家族全員が参会者にあいさつをしました。
つい先日、彼の足跡をたどって初めての一人旅をしてきたばかりの彼の妹は、その旅で初めて兄と向き合うことができたとのこと。
「旅先で出会った優しさを、今度はみんなに返していきたい」
ホントにいい旅をしてきたんだと、あらためて思いました。
私は、彼女が泣いている姿を、ほとんど見たことがありません。
今日、涙を流しながら、一生懸命にあいさつをしている姿と、そして彼女を見守る家族の姿を、私は一生、忘れないでしょう。
それから、優しさでいっぱいの音楽をたくさん聴いて、みんなで歌って。
ここに集まる旅人の思いが温かすぎてやはり何度も胸が詰まり。
今日は、日付がかわっても、旅人たちでいっぱいでした。
いつまでもいつまでも、この場所が「ここ」にありますように。
いつまでもこの場所に「ただいま」を言い続けていられますように。
そんなことを切に願いながら、夜は更けていきました。
いつまでもいつまでも、いつまでも。
生まれて初めて自分のお小遣いで買ったレコードは、FR DAVIDの「WORDS」でした。
ラジオの深夜放送で毎週水曜日に流れていた曲です。
曲の感じがなんとなく気に入り、耳で聞いて歌詞をノートに書き出していました。
それでも中学校1年生の英語力では、知らない言葉がたくさん出てきて、なにがなんだかわかりません。
「ウオー、どんかみーじーつーみー…」
きっと戦争反対の歌なのだろうと思い、「戦争、それはいけない〜」なぞと訳していたように思います。
それでも、和訳に行き詰まり、悩みに悩んだ末、レコードを購入することに決めました。
13歳の私には、2500円のレコードは、かなり大きなお買い物。
初めて入るレコード屋さんに、少し緊張しながらも必死でレコードを探しだしました。
さっそく家に帰り、古ぼけたプレーヤーでさっそくレコードをかけ、歌詞を読みました。
Words don't come easy to me.
This is the only way for me to say I love you.
Words don't come easy.
!!
なんと、甘い甘い愛の歌ではありませんか。
私の英語力の低さにショックを隠せず、それでも「I love you」という歌詞に恥ずかしくも憧れていた13歳。
辞書を片手に必死で訳しました。
何日か後に訳し終わるとなんともいえない達成感。
あんまりにもクサい歌詞だったため、誰にも見せられません。
そのうち、レコードも歌詞もどこかにいってしまいました。
いったいどこにいってしまったのでしょう。
私に残ったものは…、人並みはずれた英語力!
なーーんて、うまい話はございません。
はい。
小学校のころ、年に一度だけ「父親参観日」という日曜日がありました。
「お父さんにも授業を見に来てもらおう」という企画だったのでしょう。
まだサラリーマンの週休が1日だけだった時代。
こどもも日曜に学校に行き、月曜を振り替えで休む、ということをしていました。
こんな企画、今もあるのでしょうか。
6年間、私の父は私の通っていた小学校に来ることはほとんどありませんでした。
私が忘れ物をしたときも、近所にいた職人さんに届けさせたり、私が病気をしたときも、職人さんに病院に連れていくように頼んだり。
それでも父を恨んだり、友の父をうらやんだりしたことはありません。
それが「普通のお父さん」と思っていたからです。
日焼けしてまっくろで、少し(かなり)おなかが出ていて、田舎から出てきましたとすぐわかるような顔の、お世辞でも「かっこいい」とはいえない父だけど、私はそんな父と、その父の「手」が大好きでした。
6年生になって最後の父親参観日がありました。
「来てね」と素直にいうのが恥ずかしく、「来ないで!」と母に強く言ってその日、学校に行ったのを覚えています。
学校から帰り、母親に今日の父の行動をなにげなく聞いてみました。
「アンタが来るなって言ったから、仕事に行ったよ。迷っていたみたいだけど。来ないほうがよかったんやろ?」
「ふぅ…ん…」
そのあと、父が私の通う学校に訪れたのは、大学の卒業式のときだけです。
なにかと有名人の多い我が母校。
いろんな人を目前に見られて、それはそれは喜んでいました。
そんな父を見て私は「ホントは父親参観にも来てほしかったんだよ」と心のなかでつぶやいたことも忘れられない卒業式、になりましたとさ。
おやすみ。
床屋さんは、前かがみになって頭を洗うんだってー。
顔にばしゃばしゃと水がかかるんだってー。
知らなかった、知らなかった。
世の中、まだまだ不思議なコトだらけ。
いちばん不思議なのは、自分自身だったりして。
あ、いえ。
私よりも私の父や母の言動のほうが摩訶不思議(まかふしぎ)。
今日は疲れた。
おやすみーおやすみー。
日記をなんだかたくさん書き始めていたけれど、なかなかまとまらず。
すべて消して、今日の日記はおやすみ。
求めず期待せず、去るもの追わず、です。
17時に舞鶴港に着きました。
一路、「いつもいる場所」に向かいました。
ホントは家にまっすぐ帰る予定だったけれど、「いつもいる場所」におろす荷物もあるため、回り道をしました。
二週間ぶりだったけれど、二週間ぶりのような感じがしません。
まるで昨日も来たような感覚。
夕飯を食べて、少し話をして帰ってきました。
さて、明日から今までのような生活ではいけません。
気をひきしめて、しっかり働かねば!
だらだらと旅日記をまとめて書いたけれど、最後のほうはもう疲れてきたので手抜きモード。
また思い出したら書くこととしますか。
おやすみ。
かなり早めに宿を出ました。
市場でおみやげを買いたかったのと、とある場所に行きたかったのと。
今日は市場は日曜日で、駅前の観光客相手の小さな市場しか開いていません。
それでもおいしそうなものを見つけて、クール宅急便で送りました。
ひとつ、目的を達成。
それから天狗山に行きました。
見慣れたはずの港の景色を、とても懐かしく感じていることに寂しさを感じました。
もう旅が終わるんだな。
そう思うとますますしょんぼり。
フェリーターミナルに行き、しばらく待ってから乗船。
すぐに甲板に出ました。
当然ですが、誰も見送りはいません。
この見送りのない港に、いつまでたっても慣れることはないのでしょう。
やはりこみあげてくる「気持ち」を抑えるために、誰かと話しがしたかったけれど、それもままなりません。
結局は一人で乗り越えなければいけないコトなのです。
しばらくボーっとしたまま、お気に入りの場所に行き、それから寝台に戻って眠りました。
人の悲しみなんて比較するべきものではなく、どんなことであれ当人にとっては「100%」の悲しみなのだと思います。
自分のことでせいいっぱい。
それは私も例外ではなく。
それでも「悲しい」とか「寂しい」とかいう気持ちは、あまり人にぶつけないようにしよう、そう決心した旅になりました。
今までが甘えすぎていたのだ。うん。
のんびり走るフェリーの上で、そんなことを考えながら、気持ち悪いナンパ男を避けつつ飲んだくれた1日でした。
甲板に吹く風が気持ちよかった。
富良野のほうに行きました。
ラベンダーを見たり、おいしいラーメンを食べたりといろいろ楽しいイベントのあとに、富良野のとある「宿」に向かいました。
この宿こそ、もう二度と足を踏み入れない場だと思っていました。
でも、たくさんの友に出会い、たくさんの思い出のつまった宿です。
「富良野の母さん」の死を知らせてくれらのもこの宿のオーナーです。
少し緊張しながら、ベルを鳴らすと、目の大きいかわいい感じの女性が出てきました。きっと「奥さん」でしょう。
今、宿のオーナーは出かけているとのこと。
電話で簡単に話をすませて、少し奥さんとお話ししました。
少し疲れていそうな雰囲気に、突っ込んだことを聞きそうになったけれど、やめておきました。
「今年はおかしな年です…」
帰り際に彼女がぽつりとつぶやいた言葉が気になりながらも、あと20分で帰ってくるというオーナーを避けるように帰ってきました。
別に避けなくてもいいのですが、長くなりそうなので(汗)。
富良野の駅で4日間いっしょだった友と分かれ、小樽に向かいました。
明日のフェリーで帰ります。
小樽では、小樽の住民たちと久々に夕食。
変わりないようで前に向かっていく友たちが、うらやましく感じました。
そんなこんなで、なんとなくこの2日間は、「思い出の宝箱」がひっくりかえったような2日間。
明日はいよいよ旅の終わりに向けて出発です。
2003年07月11日(金) |
ココロのなかのいろんなコト |
まだ少しの動揺を残しながらも、小利別の宿を出発。
「竜月(りゅうげつ)」という北海道で有名なお菓子の工場に向かいました。
本州ではあまり知られていないけれど、道内では、六花亭(ろっかてい)と同じくらい有名なお菓子屋さんとのこと。
道民をたいせつにしたいから…と、本州には店舗は出さない主義だそうです。
甘いものにはあまり興味のない私。
でも、熱のこもった友の解説になんとなく行ってみようかな、という気分になりました。
途中、上士幌を抜けて行きました。
十勝の広大な景色になんとなくきょろきょろ・そわそわしながら、工場に到着。
おいしいソフトクリームを食べて満足。
ようやく昨日からの震えが止まったような解放感を味わいました。
連れていってくれてどうもありがとう。
そのあと、私の個人の用事で十勝清水の知人の家にあいさつ。
いつ行っても歓待してくれるその家の人たちが、私は大好きです。
それから迷いに迷っていた「富良野の母さん」の家に行きました。
ずいぶん前にお世話になり、それから毎年の年賀状と、ときどき旅先からのハガキを送ることだけは欠かしていませんでした。
一度、家に遊びに行ったことがあります。
そのときに食べたサンマとごはんがおいしかったのを覚えています。
つい先日、母さんが亡くなったと連絡がありました。
あまりにも突然すぎて、言葉が出ませんでした。
母さんの手紙には、いつも叱咤激励の言葉が述べられていました。
それからいつも「富良野に住みませんか」と言ってくれていました。
ぷっつりと、糸が切れたような気持ちのまま、母さんの家にお線香をあげに行くと、ちょうど四十九日だったようで、娘さんたちが集まっていました。
「父さん」も私のことはきっと覚えていないでしょう。
7月7日着で、友と連名で花をおくったなかの一人であるということを告げ、仏壇に手を合わせました。
もうこの家に私を知る人はいないんだな、と思っていたそのとき。
「その仏壇の横の花がこのあいだ、届いたんだ」
今まで黙っていた父さんが連名で送った花を指差しながら、急に話し出しました。
娘さんたちもびっくりしていました。
「5人か6人くらいいたけど、オレの知っているのは1人だけだった」
舌がまわらないのか、方言がきついのか、父さんの言葉を聞き取るのに必死でした。少し痴呆がかっているようで、娘さんたちも「わからないっしょ」っと言っています。
父さんの口から出た「1人」の名前を聞いて、今までこらえていた涙がイッキにあふれました。
「いつも手紙をくれていたんだ」
そう言いながら、奥の間に入っていく父さんの姿を見送り、少し微笑んだ母さんの遺影に、もう一度、手を合わせて帰りました。
もう二度と、この家に来ることはないのでしょう。
さて、今日の宿は旭川の北にある比布の宿です。
あたたかいあたたかいその宿に、楽しい夜が過ぎていきました。
今日もまたココロのなかでいろんなことがありすぎて、少し疲れてしまったのでしょう。
少しメールをしながら、一足早めに眠りました。
下から見れば晴れているようだけど、旭岳登山口は強風のため、朝から運休中止。
ということだったので、銀泉台(ぎんせんだい)というところに行きました。
登山は無理だけど、花の咲く場所くらいならうろちょろできるかな…、と。
約15キロほどの林道を走り、登山口に着きました。
強風と霧と雨で、車を降りる前からこれまた断念。
売店でコーヒーを飲んで帰ってきました。
おいしいコーヒーでよかった。
来た道を戻り、大雪ダム近辺でお昼ごはん。
塩別(しおべつ)つるつる温泉で、まさにつるつるになり、置戸(おけと)のオケトクラフトを見て、今日の宿へ向かいました。
今日は、ずっと泊まってみたかった小利別(しょうとしべつ)の宿です。
廃校になった校舎を利用したこの宿。
10年ちょっと前は、この宿があるからここに来る、という旅人たちでにぎわっていました。
昔からある有名な宿です。
少し、旅の疲れが出てきたのでしょうか。
今日はガクガクと体を震わせながら、早めに部屋に戻りました。
明日はどんな日になるのでしょうか。
朝8時半に宿を出ました。
いつもの見送り風景です。
「また来ます」と宿主さんに告げて出発。
この宿が、私にとって「居心地のいい宿」になるのかどうかはまだわかりません。
でも、きっとまた来るのでしょう。
最後の楽しい夜をくれた宿主さんと宿泊客の人たちと写真を撮り、いざ出発。
12時過ぎに旭川空港に着く友を迎えに行きます。
延々と40号を南下して、11時半には到着しました。
少し日記を書いて、それから到着口に友を出迎えに行くと…。
なんと友は、お弁当を手にしていました!
あぁ、感激(涙)。
美瑛の丘まで車を走らせて、そこで二人でお弁当と食べ、ぺちゃくちゃと話し、ぱしゃぱしゃと写真を撮り、それから友の案内で美瑛の丘をぐるりとひとまわり。
この時期の丘を久々に見ました。
昔のように、粗雑なキレイさがなくなってきて、いろんな木にやたらと名前がつけられてはいるけれど、やはりキレイなものはキレイです。
楽しい時間を過ごしたあとは、今夜の宿へ。
今日は旭川の東にある東川の宿です。
明日は旭岳登山の予定。
明日のためにぐっすりと眠った夜でした。
車で「モケウニの沼」まで行きました。
初日に自転車で行ったところです。
車でもけっこうな距離があり、こんなにたくさん走ったのか、と自分でもびっくり。
そういえば初日の自転車での走行距離は50キロ。
チャリダーデビューできるかも? と非現実的なことに思いをめぐらしながら、モケウニでのんびり昼食。
そのあと、これまらクローバーの丘に行き、のんびり昼寝。
ウイング温泉に入り、クッチャロ湖を眺め、宿に戻りました。
ヘルパーさんが1泊2日で里帰りのため、夕食の準備を手伝いました。
今日の夕食はパエリヤ。
宿主さんとおしゃべりしながら、なんとも楽しい時間を過ごしました。
今晩が最後の夜。
明日はここを出る日です。
今晩も宿主さんとほかの宿泊客のおかげで、楽しい夜を過ごせました。
ありがとう。
少し強めの日差しのなかを、宿の人たちが布団を干していました。
私は、リビングで読書を続けていました。
「羆嵐(くまあらし)」という実際にあった話を小説化したものです。
冬眠にうまく入ることができなかった熊が、わずか3日間で6人を殺害した話。
「コワイ」の一言に尽きます。
あまりにもおそろしすぎたため、熊の本をあっという間に読み終えると、もうお昼でした。
ふらりふらりと、街の定食屋に行ってお昼ごはんを食べならが、北海道開拓使について考えました。
この浜頓別という町をここまで整備するのにも、想像を絶する苦労があったのでしょう。
浜頓別の資料館に行き、そのあとまたまたウイング温泉。
そしてまた宿に帰り、仕事を始めました。
今日は、なんとなく充実した1日でした。
疲れたのでこのへんで。
旅人夫妻に誘われて、枝幸(えさし)のかに祭りに行きました。
街をおこしてのお祭りらしく、駐車場の誘導に警察が立ち会っていました。
このお祭りで、たくさんの人が酒気帯び運転をするだろうに、きっと見て見ぬふりをするのでしょう。
お祭りは、けっこう大きな規模でした。
出店がたくさん出ていました。
私たちは、カニ弁当とカニ汁を食べて、抽選会をして帰ってきました。
「楽しい」と思えたのは、きっといっしょに行ってくれた旅人夫婦のおかげでしょう。
札幌に住んでいるいう彼らとは、午前中で別れました。
住所もメールアドレスも聞くことなく、それでもきっとまたどこかで会うのでしょう。
なぜかそう確信した別れでした。
昔は、旅人同士で住所交換をしたけれど、最近はほとんどしなくなりました。
お互いに聞かないし、聞かれないし。
でも、やはり会う人たちとは、どこかで会うのでしょう。
なんとなくそう思います。
カニ祭りのあとは、適当にブラブラして、早めに宿に帰ってきました。
今日はホタテごはん。
連泊メニューは楽しい。
おやすみ。
宿泊していた旅人夫婦が、「隠れた沼地」の場所を教えてくれました。
黄色の小さな花が咲いているとのこと。
そんなに興味はありませんが、ほかの旅人といっしょになんとなく行ってみることになりました。
書いてもらった地図がないとぜったい足を踏み入れないような道を行くと、ホントに小さな沼にたどり着きました。
整備をあきらめたような道や、黄色の小さな花が申し訳なさげに咲いている様子が、なんとも笑えました。
自然いっぱいのその沼地。
また違う季節に来てみたい。
そのあと、これまた狭くて危険な鍾乳洞を見て、それから中頓別のおいしい塩野菜ラーメンを食べて。
ときどき、「ここは北海道なんだ」と認識しないと、どこにいるか忘れてしまいそうになりました。
いっしょにいた旅人と別れ、午後からはまたクローバーの丘に行って、ゴロゴロ。
稚内で買ったスケッチブックにいろいろ描いてみるけれど、絵は文よりも難しく、子どものときに描いたように「芸術的」な作品を目指したけれど、おとなの感性ではそれも難しく。
自分で描いた絵ではあるけれど、これまた笑いがこみ上げてきて、途中で描くのをあきらめました。
気を取り直して、宿へ帰りました。
今日の夕飯は、ミートパイ。
手作りのパイ皮がなんともおいしかったです。
今日はそんな1日。
自転車を借りました。
今日は、宿の周辺を地図を見ながら散策です。
散策といってもおもだって見るところはあまりなく、「モケウニの沼」「クローバーの丘」「クッチャロ湖」くらい。
でもその3つをまわって帰ってきたら、なんと約50キロも走っていました。
しかも、クローバーの丘まではかなりアップダウンの激しい道。
借りた自転車は、いわゆる「ママチャリ」。でも3段変速ギア付きでした。
そういえば、私が高校時代に乗っていた自転車も、3段変速だったなあ…。
自転車で坂道を登っていると、高校時代の通学路を何度も思い出します。
山のてっぺんにあった高校は、今、登っている坂道よりも長くて急でした。
汗びっしょりになりながら、3年間毎日毎日登りつづけたあの坂道。
そういえば、教育実習にいったときも、自転車で登ったっけ。
そんなことを考えていると、ふと、道が平坦になりました。
と同時に視界が開き、キレイに刈られた丘の斜面の続きにクッチャロ湖が見えました。
ここが、クローバーの丘です。
その景色に思ったほどの感動はありません。
景色よりも「軌跡」がひとつ、私のなかに飛び込んできたように思いました。
買ってきたおにぎりを食べ、しばらく丘の斜面にゴロン。
少し曇った空を眺めました。
でも、強めの風が、汗をかいた体には冷たすぎて、すぐに起き上がり、再び自転車に乗って坂道を下りました。
丘にいた時間は30分ほどしかなかったけれど、自転車で来てよかった。
そのあと、宿の近所のウイング温泉に入り、雲に隠れた夕陽を見て今日のイベントは終わり。
夜はまたまた楽しいお話しで終わりました。
2003年07月03日(木) |
「おかえり」を言ってくれる街 |
朝陽は雲のなかだったけれど、朝4時の小樽は、もうすっかり明るくなっていました。
少し緊張しながらフェリーを降りました。
さっさとこの街を抜けようと思っていたけれど、最初の信号にさしかかると自然と右にウインカーを出していました。
それからぐるり、と街を一周。
もうこの街は「おかえり」を言ってくれないとばかり思っていたのが大間違い。
街も山も海も見慣れた建物もすべてが「おかえり」と言ってくれました。
私はやっぱりこの「街」が好きなんだ。
そう思えたことが、今回の旅を先に進めてくれました。
「おかえり」を言ってくれた街にすぐさま「行ってきます」を告げ、海沿いの道をさらに北に向かいます。
日本海の海岸線に沿って走るオロロンラインは、雲がかかっていて見晴らしはあまりよくありません。
それでも羽幌(はぼろ)を過ぎたあたりから、遠くのほうにうっすらと利尻富士が見えてきました。
また来たんだなあ、とあらためて私が今どこにいるのかを実感。
そう、ここは北海道です。
稚内(わっかない)から1時間ほど手前にある幌延(ほろのべ)の原生花園を小一時間ほど散策して、また海沿いの道を走ります。
稚内の喫茶店で「リシリアンパスタ」なるものを食べ、店のマスターと旅の話。
それから、宗谷(そうや)岬をまわって、オホーツク海に出ました。
北海道は海を3つももっているんだなあ、と変に感動しながら、今度は238号線をほぼ南に向かいます。
牧場の真ん中をつっきるようなこの国道。
あちこちに牛が放牧されています。
稚内の喫茶店のマスターに、いろいろと見どころを教えてもらったけれど、今日はもう走りすぎたので、早めに宿に向かいました。
宿到着は16時。
今日は、稚内からオホーツク海沿いの道を1時間半の浜頓別(はまとんべつ)の宿。
笑顔のステキな宿主さんが、迎えてくれました。
夜は旅の情報交換をして、それからぐっすり眠りました。
2003年07月02日(水) |
日本海とおにぎりと、ビールとドラ |
携帯の目覚ましがいつもの時刻になりました。
「迷子」になることなく目を覚まし、しばらくしてからいつもいる場所で作ってもらったお弁当を食べました。
食べながら、去年も作ってもらったお弁当を思い出しました。
そういえば、去年はこのおにぎりを、泣きながら食べたっけ。
何もできない非力な自分を感じながら、誰もいない二等寝台で思う存分泣いたっけ。
そんなことを思い出しながら食べた今日のおにぎり。
今日、生まれた「誰か」を思わずにはいられません。
しばらくして、もう「朝陽」とは呼べない太陽を見に甲板に出ました。
フェリーに乗ると必ず行く場所があります。
船の最後尾です。
私はここから見る「船の足跡」が大好きです。
それから、風の当たらない場所でずっと読書をしていました。
去年、あんなにイヤだったフェリーでの時間が、とてもぜいたくで貴重な時間に感じていることが不思議。
海を見て、読書をして、空を見て、読書をして、その間にいろんなことを思い巡らしました。
少し昼寝をしたあと、展望風呂に入り、そしてまた甲板で読書。
夕方にすれ違った船とのドラのやりとりがなんとなくうれしく、西の雲に沈む夕陽がとてもあたたかく。
夕焼けが消えるの見届けると、今日1日のイベントがすべて終わったような感じ。
ビールを飲んで、さて、寝るとしますか。
明日はかなり早起きです。
おやすみ。
夕方になってから、雨が本格的に降り始めてきました。
ホントに雨女だなあ、とあらためて自覚しながら、車に乗り込みました。
いつもいる場所に行き、ハンバーグとカップスープを注文。
去年の夏の終わりにも、私はここでハンバーグを食べ、店のマスターとほんの少しの旅の話をしていました。
なんとなく去年と同じことを、故意に繰り返してしまうのは、去年と違うんだということを、認識したがっているのかもしれません。
少しあわただしくなってきた店を、18時過ぎに出ました。
途中に立ち寄った家のお線香の香りに胸を詰まらせながら、写真に向かって少し独り言。
なんとなく落ち着いたところでまた車に乗り込みました。
国道173号線から27号線に入り、21時半に前島埠頭(ふとう)に到着。
去年とほぼ同じ時間帯です。
去年と同じ手続きをすませて、車に戻りました。
去年と違うこと。
ハンバーグのお金を払い忘れたこと(ツケにしておいてください)。
道に迷わなかったこと。
そして「ただいま」を言うために、ここに帰ってきたがっているということ。
そんなことを考えていると、乗船時間がやってきました。
さて、私の旅が始まります。
思い出も軌跡もたどらない「私の旅」です。
だれにもあげられない私だけの旅。
行き先?
それは言わずもがな、でしょう。
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