紫
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「あ、これがいいんだな…」
ふと、パーティーの途中に思いました。
歌う人たちのあふれんばかりの気持ちと、彼らを見守る温かい目。
そして今月の「主役」の二人。
「これから生きていく力にしていきます」
主役の一人が最後に言いました。
その言葉の重みに思わず胸が詰まったけれど、ここでまた泣いていると会が進みません。
今日は司会進行役なのでした。
「ある条件」である司会を引き受けたけれど、その条件はことごとく無視されました。
予想はしていましたが。
ただ、うれしかったのは、覚えていてくれた人がいる、ということ。
ずっと抱えていた「心のもやもや」は、今日、どうにでもいいことになりました。
ありがとう。
3回分の食糧を買い込み、フェリーに乗りました。
台風4号が来ているとのこと。
揺れが心配です。
心配だけど、今は気持ちがいいくらい快晴。
甲板に出て、船の足跡を眺めながら、明日のことについて考えました。
明日は、私のよくいる場所でバースデーパーティーがあります。
パーティーといっても、飲んだり食べたりしてワイワイするのではありません。
「歌う会」、そして「歌を聴く会」です。
わけあって最初は私が欠席の予定だったけれど、「なんでもないこだわり」を捨てたこと、「祝いたい気持ち」が大きかったこと、そして「ある条件付き」で、参加することにしました。
参加するからには、私も歌います。
ただ、この1週間、ギターも歌の練習もできていません。
爆発しそうなくらい心にあふれてくる「祝いたい気持ち」もまだ言葉にできていません。
明日の言葉を書き出そうと、ベッドにもぐりこみノートを広げたけれど、あまりにも疲れていて、そのまますやすやと枕に突っ伏して寝てしまいました。
やれやれ。
どうなることやら。
父は、東北の山と山のあいだの、トンネルとトンネルのあいだの、小さな小さな農村で生まれました。
11人兄弟の末っ子の父は、歳の離れた兄や姉に育てられたため、あまり母親の記憶はないそうです。
冬、厚い厚い雪におおわれたいた父の故郷を初めて訪れたのは、私が4歳のころ。
初めて見る大雪がうれしくてうれしくて。
まさに犬といっしょに雪の積もった田畑をかけずりまわっていました。
とあることがきっかけで、父とその故郷との交流が途絶えたのは、私が16歳のとき。
そして私は故郷をなくした父の気持ちを考えたことはありませんでした。
二十歳になって、その小さな農村まで旅をすることにしました。
それが、私の生まれて初めての一人旅です。
電話番号も住所も知らず、子どものころの記憶をたどって、父の生家にたどり着きました。
そして、もう顔も忘れてしまった従兄弟たちが、私の突然の訪問を手放しで喜び、いろんな親戚に電話をして、その日のうちに父の今生きている兄弟たちがほぼ全員、集まりました。
そのとき、
「ここは父の愛する故郷なんだな」
と知りました。
父がずっと食べていただろう故郷の豆腐の味が、今も忘れられません。
その数年後、父はたくさんのお土産と、たくさんの見栄っ張りの話をもって故郷に帰りました。
東京の私の部屋に立ち寄ってから、出発した父の、ちょっと気恥ずかしそうな嬉しい笑顔を、今、私の目の前にせまりくる山を見ながら、ふと思い出しました。
おやすみ。
「最近、写真を撮るようにしているんだ」
盛岡に住む友が、ふとつぶやきました。
なぜかはもう忘れました。
忘れたけれど、彼は私と同じ「心のアルバム」を大事にしている人なんだな、と思いました。
数年前、小樽の宿で知り合ったころ、彼はまだ二十歳になりたてでした。
まだ磨ききれていない原石のままの感性と、それをすぐに言葉や歌にしてしまえることが、とてもうらやましかったです。
約2年ぶりに再会。
久々に彼の感性に触れ、今の考えを聞き、そのなかに私の忘れていたもの、忘れようとしていた何かを見つけたような気がします。
話が尽きないままにタイムリミット。
続きは次に会うときにまた。
「また会いましょうと、さよならを言う」
ですね。
どこの地を訪れても、必ずその土地の「昔話」があります。
どの話も似通ったものが多いけれど、読み出すとなぜか最後まで読んでしまいます。
教訓のような話だったり、神秘的な話だったり、ただただ怖いだけの話だったり。
とくに東北地方には「昔話」が多いような気がします。
だからこそ「遠野物語」ができあがったのでしょう。
盛岡で生まれ育った友は、「東北は、子どもを怖がらせる話が多い」と言いました。
怖がらせて「こういうことはしちゃいけない」と教えられたそうです。
冬は大雪に閉ざされ、夏も目の前にせまる森や山に隣村との行き来も必死だった時代。
身近すぎる大自然が見せる不思議な現象から子らを守るため、そして退屈させないための物語として語り継がれたのでしょうか。
それとも、ホントの話?
神になった「白い馬」と「めんこい娘さん」が、人形として大事に大事にまつられている姿を見て、ホントにあった話だったと信じている私。
「まだまだ不思議な話はたくさんあるよ」
新緑で青々とした山々が、そう語りかけているように見えたのも、私のなかではホントの話、です。
フェリーのなかで仕事をしました。
なんとなくいつもよりはかどるのが不思議。
できたものを送信しようとしたら、携帯が圏外。
海の上です。当然ですね。
しばらく仮眠を取って、17時に仙台港着。
そして、地震。
その影響で携帯がまったくつながらなくなりました。
かろうじてメールだけはときどきつながるようで、みなさんの心配メールがときどきイッキに届きました。
どうもありがとう。
今日は、とてもうれしい1日でした。
おやすみ。
いろんな人のアドバイスを受けて、無事にフェリーに乗りました。
名古屋港を出たときは、もう辺りはまっくらだったけれど、海から見える港の明かりがとてもキレイでした。
夕飯代わりのビールが眠気を誘い、ベッドにもぐりこんだとたんにぐっすり眠りました。
ホントは別の地へ行くはずだったけれど、諸事情あり予定変更。
そう、予定はあくまでも予定。いつでも変更していいものなのでしょう。
かたくなにその「予定」を守ろうとしていたけれど、なんとなくばかばかしくなり、やめました。
ココロのなかの「もやもや」はまだ消えないけれど、きっと帰るころには別のものに変わっているでしょう。
さて、今回は何を見つけるのでしょう。
おやすみ。
昔はよく、アルバム整理をしていました。
フエルアルバムに貼り、透明のフィルムの上からコメントを書きます。
写真も躊躇(ちゅうちょ)なく切っていき、バランスのいいよう楽しく見えるようにレイアウトしていきます。
最近は、写真をもらっても「写真箱」に入れるだけで、あまり編集はしませんでした。
時間がないのと、自分で写真を撮らなくなったのと。
今年になってから一眼レフを友から譲ってもらいました。
いいカメラなので、私が撮ってもある程度キレイに映ります。
キレイに撮れるから、どんどん撮るようになりました。
取材の癖がついていて、同じ写真を何枚も撮ったり、イメージとしてしか使えないなんでもないモノを撮ったりと、無駄なものはたくさんありますが、でも、今はこれでいいかな、と思っています。
できあがった写真もどんどん増えていき、アルバムも買ってあるのですが、まだ整理はできていません。
今度、今までの写真も含めてゆっくり整理していこうと思います。
今日は、知人宅で旅人夫婦と古いアルバムを見ていました。
アルバムを開くと、当時の時間がゆっくりと流れてきます。
アルバムのなかの彼らの表情と、現実に薫(くゆ)るお線香に胸がつまり、一足先に帰ってきました。
帰りの車のなかで、これからはもっともっと写真を撮っていこう、と思いました。
おやすみ。
生まれて初めてのアルバイトは、「お茶摘」でした。
4月下旬から5月の連休前まで、友の家の茶畑を手伝いました。
1キロ摘んで270円。不慣れな私は、1時間でやっと1キロ。
つまり時給270円のアルバイトです。
慣れた人は、朝から晩まで摘んで1万円ほど稼ぐそうです。
それでも、初めてのアルバイトが楽しくて、高校1年生だった私は、学校が終わってから日が暮れるまで、ずっと茶畑に座っていました。
いわゆる「茜たすきにすげのかさ」ではなく、汚いジーンズに長袖シャツ、指にはテーピングをして、新芽を根元のほうから1枚1枚摘んでいきます。
けっこうな重労働でしたが、それでも黄緑色の小さな葉っぱをいかに早く摘んでいくかを考えたり、顔見知りになったおばあさんとの話が楽しかったりで、毎日毎日通っていました。
八十八夜も過ぎ、茶摘のアルバイトが終わりました。
1万7000円の茶摘代を受け取った私。
バイト代はうれしかったけれど、しばらくは学校帰りにすることがなくなって困っていたことを覚えています。
茶摘のバイトに誘ってくれた友は、今はアメリカに住んでいます。
とある理由から「お茶」を飲めませんが、今も毎年、茶摘の時期には里帰りをしているとか。
もう5月も下旬ですが、新茶がおいしい時期ですね。
学生のころ、東海道五十三次を東京の日本橋から京都の三条大橋まで歩こうと計画したことがあります。
いっしょに行こうと約束していた友が次々とやめていき、結局、私一人では歩き通す自信もなかったため、行き先を富良野へ変更しました。
富良野は富良野で、いい思い出になったけれど、あのとき、行っていればよかったな、と今も思います。
その翌年に「自転車で東海道を下ろう」と誘われたけれど、自転車を買うお金がなくて、そのときもあきらめました。
やはり、あのときに行っていれば、私は「チャリダー」として目覚めていたことでしょう。残念。
学生のころ、もう一つ、計画倒れに終わった旅があります。
「『おくのほそ道』を歩こう」です。
中学生のときに覚えさせられた冒頭部分が、最近、何度も思い出されます。
「道祖神」が私を招いているのでしょうか。
それとも現実逃避?
芭蕉がおくのほそ道へと旅だったのは、新暦5月中旬。
旅をするには、いい季節かもしれません。
おやすみ。
帰り道の長い長い下り坂を、てくてくてく、と歩いていると、なんとなく気持ちが落ち着きました。
久々に歩いて、少し痛んだ右足も、帰りの下り坂ではもうすっかり元気。
さて、短い日記もそろそろオワリにしないと…。
ということで、今日はおやすみ。
なんだか最近、外に出て、いろんな人と「会話」をしていないような気がします。
これまでの仕事が、人と会いすぎだったのでしょう。
なんとなく物足りないような感覚にも、慣れるのでしょうか。
おやすみ。
予告どおり、元気、元気になりました。
元気になった夜は、いつまでも元気。
自称あまのじゃくの友とその友といっしょに、夜遅くまで話した時間は、今日の私にはたいせつな時間。
少しほろ酔って、眠りにつきましたとさ。
短い日記が続くこのごろ。
おやすみ。
一触即発で、泣きたい気分。
理由?
理由なんて、もうどうでもいいのです。
ただ、今は、ココロから笑える力が奪われてしまったようです。
明日には元気になっているでしょう。
大阪に住み始めてから、よくダジャレを耳にします。
ダジャレというものは、その言葉だけではおもしろくないものだと思っています。
その場の雰囲気や周囲の人、そしてダジャレが重なるからこそ、おもしろいのでしょう。
私は、よくダジャレに笑ってしまいます。
明らかにおもしろくないダジャレに、つい笑ってしまう私。
周囲の人は、ダジャレを発した人を「甘やかしてはいけない」といいます。
私もまったくおかしくないし、かえって腹立たしいとき(!)もあるのですが、その場の周りの雰囲気や、そのダジャレを発した人の気持ちを考えると、なんだかおかしくてたまらないときがあります。
今日も、がんばって無視しようとしたダジャレがありました。
あったけれど、周りの雰囲気に10秒ほど遅れてつい笑ってしまった私。
コーンスープのダジャレは、なんとなく閑古鳥が鳴きそうなので、5点、というところでしょうか。
おやすみ。
アサイチで、中央市場に行きました。
アサイチといっても、もう10時くらいでしたが。
食品メーカーにいたときは、よくアサイチで市場に販売促進に行きました。
このときのアサイチは、朝の4時。
各問屋に入って、そこに買い付けにくるお客さんに、試飲販売をします。
いわゆる「朝売り」。
これがまた楽しい。
ふだんは、大手量販店(スーパー)を担当していた私。
市場に買い付けにくるお客さんは、ほとんどが自営の社長。
1円でも安く買おうとする意気込みが、量販店とは違います。
サラリーマンにはない「人の荒さ」に温かさを感じます。
「条件●円です」
「現物を●個つけます」
「エンドで特売しましょうよ」
流通業界の用語を普段の言葉にように使っていたのに、今は思い出すだけで必死。
「さびしいな」
今日行った市場で、ついひとりごちてしまった言葉は、鰹を焼くバーナーの音に消されてしまったようです。
「目には青葉山ほとぎす初鰹」
市場では、イキのいい鰹が手に入りましたとさ。
ぼんやりとお風呂に入っていると、ふと、気づいたことがありました。
それが何かは、やはり、ないしょ。
世のなか、不公平なことが多すぎる(怒)!
ぷん。
おやすみ。
またしても、風邪?
今年はよく風邪をひきます。
そんなこんなでおやすみ。
雲の上を歩いているかのように、ふわふわ、ふわ、と眠りにつきました。
おやすみ。
2003年05月12日(月) |
全身で感じていた「風」 |
21歳の夏、1カ月ほど北海道に滞在したあと、すぐにバイクの免許を取りました。
もちろん、バイクで北海道をまわりたいがためです。
峠でライダーとすれ違ったら、かっこよく挨拶するんだ〜と、楽しみにしていたけれど、結局、バイクで北海道に行くことはありませんでした。
北海道に行くことはなかったけれど、関東甲信地方へはよくツーリングに出かけました。
伊豆の峠で大雨すぎる大雨に降られたり、横浜の高速道路でアクセルがまわらなくなって40キロほどしかスピードが出なくなったり、新目白通りの信号で派手に転んんで左のミラーとステップが折れたり、お金がなくてガソリンを300円だけ入れてもらって苦笑いされたりと、今となってはいい思い出です。
私がライダーだった時期は、たったの5年間。
高速道路でも90キロ以上は出さない(出せない)のんびりライダーだった私。
でも、あのときに全身で感じていた「風」は忘れることはないでしょう。
私の愛していたバイクは、5万円で業者に売りました。
最後にバイクと交わした言葉は、ないしょです。
今もムショウにあの「風」を感じたくなるときがあるけれど、もう私がバイクに乗ることはありません。
でも、こうしてあらためて日記に書いていること自体、本当はまたバイクに乗りたがっているのかもしれない。
そんなことを考えながら、今日は淡い空色の自転車を走らせていました。
全身にそよそよとあたる風が、とても気持ちよかったです。
おやすみ。
母が結婚するとき、祖母(母の母)から手鍋をひとつ、手渡されたそうです。
当時は、それが当たり前の嫁入り道具だったとのこと。
手鍋さえあれば、どんな料理でもできると、祖母が母に言ったそうです。
その手鍋を使って、母が父に初めて作った料理は、お味噌汁。
朝食に出てきた味噌汁を、父はごはんといっしょに「うまい、うまい」を繰り返しながら、3杯もおかわりしたそうです。
「そんなにおいしいのか」と、母は父が出かけたあとに味見をしたところ、なんとダシの入っていない、お世辞でも「うまい」とはいえない味噌汁だったとのこと。
そのとき、初めて母は「味噌汁にはダシを入れる」ということを知ったそうです。
その話を聞いた私は、味噌汁にダシを入れなかったことよりも、初めての手料理を味見をせずにだした母と、そんな味噌汁を3杯もおかわりした父に驚きました。
私が東京で一人暮らしを始めるとき、やはり祖母は私に手鍋をひとつ、それから小さな赤い炊飯器をひとつ、買ってくれました。
「鍋さえあれば、なんでもできるよ」
と祖母。
そしてその隣で母は、
「味噌汁はダシを入れるんよ」
ダシを入れない味噌汁がどんな味なのかはわからなかったけれど、「ダシを入れるってとっても当たり前でとっても大事なことなんだ」と思いました。
それ以来、一人暮らしをしたり、結婚したりする友には必ず「鍋ひとつでなんでもできるよ」「味噌汁にはダシを忘れないように」と言うようになった私。
当たり前のことって、あえて口に出して言うことで、その大事さをあらためて知ることがあります。
あのときに祖母と母からもらった言葉は、今も私だけの「教訓」のひとつになっています。
でも「味見をする」ことは、私の教訓にはならなかったようです、ね。
おやすみ。
父が大工の棟りょうをしていたため、夜になると、いろんな人がやってくる家でした。
とくに月末になると、職人さんが家にたくさん集まりました。
待ちに待った給料日だからです。
その日は、父も母も朝からとっても忙しそうで、学校から帰ったら、私もお金を数えたり、封筒に名前を書いたり、小切手を切ったりと、当たり前のように手伝いをしていました。
夜になると続々と仕事を終えた職人さんが居間に集まります。
母の作った料理を肴にお酒を飲みながら、ワイワイと楽しそうにしている姿が子どもながらにうらやましかったです。
お酒をお燗したり出来た料理を出したりと、まるでその日は小料理屋の店員状態。
70歳近い職人さんから、まだ高校を卒業したばかりの職人さんまでが、ホントにいい顔をして、楽しそうに笑っていました。
料理を出し終わった私をその場に座らせて、手品やトランプゲームをしてくれる人、お小遣いをくれる人、習い事の話を聞いてくる人、膝の上にのせて「電車ごっこ」とか「バスごっこ」とかしてくれる人。
そして私は何よりも、そんな彼らの「手」を見るのが大好きでした。
ごつごつした手だったり、意外と細い指だったり、バンドエイドでいっぱいの手だったりと、けっして同じ色・形の手はないけれど、それはまさしく「職人の手」。
父と同じ「手」をもつ人たちでした。
今もよく「職人」と呼ばれる仕事をしている人に会うと、「手」を見てしまいます。
どの職人さんも、同じ手はないけれど、その手が培(つちか)ってきた「技術」とその技術への「自信」がかいま見られます。
かくいう私も「編集職人」と呼ばれる仕事をしています。
それでも私の手は、子どものころに見た彼らの「手」とは、今は少し違うように見えます。
今日は父の誕生日。
いつか父と同じ「手」に私もなれるのでしょうか。
コーヒー豆の香りに、「宝箱」のふたが開きます。
そして、気づきました。
「宝箱に入っちゃったんだ…」
思い出の宝箱は、そろそろまた新しい思い出を入れるスペースを欲しがっているようです。
そろそろ新しい旅を始めたい。
もしくは、すでに始まっているのかも。
そして、それに気づくのは、また「宝箱」のふたが開いたときなのでしょう。
おやすみ。
去年の今日、小樽を旅立ちました。
私の長い旅の始まりの日でした。
バックミラーに映る手を振る2人をいつまでも目で追っていました。
この2人に私は何度も見送ってもらったのでしょう。
去年の5月は、じつにいろんなことがありました。
だからでしょうか。
去年の旅の続きを、この月に始めたい、と思うのは。
なんとなく去年の今ごろのことを思い出しながら、少し暗めのギターを聴いていると、いきなり聴き慣れた明るめの曲が始まりました。
「!!」
驚きの言葉もうまく発せられないまま、今までいっしょに飲んでいた2人が静かに、そしてやさしく歌ってくれました。
時計の針は、0時を少しまわったところ。
去年もこうして0時をまわったときに、祝ってもらいました。
今年は、あまり多くの人に会うことなく、ごく普通の1日として今日を、この5月を過ごしたいと思っていたけれど、あまりにも温かすぎる歌に、胸が熱くなるのを抑えられません。
年に一度の今日の日を、「ごく普通の1日」にさせないでくれた2人と、メールをくれた人たちに、心の奥から「ありがとう」。
こんなにウレシイ気持ちでいっぱいの誕生日は、初めてかもしれません。
「ちょっと迎えに来て」
高校に入ったばかりの春、母から電話がありました。
専業主婦をやめて、結婚以来初めて外で働き出した母。
いったい何があったのかと、自転車を飛ばして母の職場に行きました。
「このコ、連れて帰って」
手渡された小さな紙袋。中をのぞくとまだ生後1カ月ほどの子猫が、おびえた瞳で私を見上げていました。
「えっ! こ、これ、どうするの?」
「飼うの」
「………!」
「招き猫になってくれればいいなと思って」
「ふ、うん…」
どちらかというと、犬派だと思っていた母がなぜ猫にめざめたかはわかりません。
でも、この日から、私も兄も父までもがすっかり「猫派」に転身したことだけは確かです。
そしてこの猫は、私たち家族にいろんなものを招いてきてくれました。
それが何かは、今は時間がないのでまた今度。
おやすみ。
連休明けのため、今日の日記はおやすみ。
アルバイトをしていた居酒屋のメニューに、明石焼きがありました。
カウンターの奥のほうで明石焼きを焼いて、その合間に焼きそばやお好み焼きなどの鉄板料理を作ります。
そしてその隣で、刺身やサラダなどを作ります。
最初のころは、カウンターに座ったお客さんに手元を見られたり話し掛けられたりして、ちょっと緊張していたけれど、慣れてくると楽しんで仕事できるようになりました。
忙しい時間帯は、2人で注文をこなしていくけれど、深夜になると1人でカウンターを仕切ります。
自分のペースで仕事ができるこの時間がこれまた楽しい。
店の改装で、このカウンターも明石焼きのメニューもなくなったけれど、今も明石焼きを食べると、汗だくになって明石焼きを焼いていたときを思い出します。
…そう、今日はおやつの時間に明石焼きを食べたのでした。
ダシにつけて冷ましながら食べた明石焼き。
宝箱にしまってある思い出は、ひょんな拍子にこぼれ出て、そしてすーーっとまた宝箱に戻っていきます。
明石焼きも、今はもう宝箱に戻っていきましたとさ。
おやすみ。
いわゆる「信仰」はありません。
強いていうなら、お天気の神さまくらい。
それでも、晴天になってほしい雨の一日は、神さまといえども恨みます。
今日は、隠れキリシタンの里に行ってきました。
ふだん、見慣れた裏山でも、少し景色が違って見えます。
「信仰ってなんだろう」
と考えますが、わかりません。
きっと、何かに救いを求めなくとも、目先のシアワセは確保できるのかも。
そう。目先のシアワセだけで、満足、です。
…。
……。
ホントに?
おやすみ。
半日、ぼーっとして、夜はバタバタと階段を下りたり上ったりしていた1日でした。
なんだか忙しい1日のようで、でも久々の休みを味わったような気分。
不思議・不思議。
こんな連休もアリ、ですよね。
なんとなく、さびしんぼ。
なんとなく体が野菜を欲していることに気づき、今日は豆腐のサラダを作りました。
サラダボウルに食べやすい大きさに切ったレタスを敷き詰めて、その上に等分に切った豆腐と、白髪ネギとキュウリの千切り。ホントは和風ドレッシングがよかったのだけど、冷蔵庫にあった「ゆずぽん」でも十分においしい。
貝割れ大根なんかあったらサイコーなのですが、ぜいたくは言えません。
いたってシンプルなこのサラダ。
一人暮らしのころはよく作りました。
何か料理をしようとすると、いつも何かを思い出します。
もちろん今日は、私に「調理」を教えてくれた調理長と、あの陽のあたらない厨房。
朝の11時から店に入って16時までのあいだに、肉じゃが、明石焼きのもと、お好み焼きのもと、サラダ、宴会用の刺身の盛り合わせ、ピーマンの肉詰め、バーベキュー串、おでん、中華ドレッシング、餃子のタレ、その他もろもろの仕込みを3人でこなしていた毎日。
忙しかったけれど、楽しい4年間でした。
その苦しすぎた生活に、当時に戻りたいとは思わないけれど。
今日、思ったこと。
生活がどんなに変わっても、シンプルなものはいつもおいしい。
おやすみ。
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